秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

日高見国の深山(みやま)

2017-11-28 | 東北地方の伝説(宮城県)
一気にかきま~す。
里山とはいえ、しんどかったー。
どうしてか難しい道を選んでしまうっ!
何でこうなるんだろうね~。


フットサルのコートそばの道をあるくと、杉の林が凛としてます。

一応、ネットで千貫山を登った人のサイトを参考にしたのですが、
みな、いろんなコースから登っているので、登山口はいろいろあります。
行けばわかるだろうと、大体のコースを覚えてきたつもりが・・・。





千貫山をくまなく歩きたいので、再びグリーンピア岩沼へいき、前回とは逆の東南の方角へ向かう。
深山に行くには、「蔵王展望」の方の道が近いとわかった。
なのに、どうしてか現地にくると、違う道をいくのだ・・・。



途中で分岐する道へでる。ふれあいの道へ行くはずが・・・。
途中でふと、どんぐりの道(赤松展望台)の方が東になるので、道はこっちじゃない?と思った。


年金ロード?(こういう事業もしているんですね~)



なので途中で引き返して、赤松展望台の道へ行く。
赤松展望台からも行けるのですが、遠まわりになる。
それを知っていたから、蔵王展望台へ行こうと思っていたのに、
なんでこうなる??
私はやっぱり危いわ。笑





赤松展望台といってもあんまり見えない・・・。
ここで手書きの地図が。
ありがたいね。
何かあった時の場合の連絡先。
親切です。



「急な下り」とある「あさやけの道」を選ぶ・・・。
なぜだ?
この後、後悔すんだわ。

どんどん降りて行って、どんどん深い森に入り、
本格的な登山道になってしもうた。



製紙工場がよくみえます。
阿武隈川と海~。

やっぱり蔵王展望台の方がよかったんじゃない?と、ここで気づいても時すでに遅し。
相当、下ってきて登るのは嫌じゃ。


沢をわたる。

なんだか、このまま道に出てしまいそうだ。
千貫森の道漂はないけれど、とりあえず道があるので歩けばどこかに辿りつく。
が、大きいロスをしている感じがする。


水車みたいのがある・・・。

ま、最悪迷子になっても戻ればいいだけですけど。
そんなに深い森ではないし、所々に道漂があるので。
とは言うものの、その分、体力も消耗するねぇ~。

もう、U2の音楽が響きますよ。。。笑(懐かしい~)
「But I still haven't found what I'm looking for ~♪」
「でもまだ見つけていない。
探し続けているものを、いまだに見つけていないんだ。」ていう歌。

そうなるでしょ、
そうなっちゃうでしょ。

なんで、こんな山中さまよってんだ~って。
ほんとに思う。
何を見つけているんだろう、ってほんとに思う。
泣けてくる。笑

I have climbed the highest mountains♪
I have run through the fields♪
Only to be with you♪
「最も高い山を登った
たくさんの戦地を駆け抜けてきた
ただあなたといるためだけに~♪」

「あなた」というのは、イエスキリストみたいです。
ボノは熱心なクリスチャン?
彼らはアイルランド人なので、大好きでした。
音楽も好きで、日本嫌いな彼らですが最初で最後だろう
コンサート(東京ドーム)には行きましたよ!!
あの頃のU2はかっこよかったな~。
今は、どうしちゃったのかな~。



そんなことはどうでもいいんですけど、
山中で不安になると、懐かしい音楽が流れます・・・。
ちなみに、ヨシュア・トゥリーは、 (U2のアルバム )
ヨシュア・トゥリーの木(アメリカ西部の砂漠地に生えている木)です。(写真下)



どうでもいいね。



そんなこんなで赤松展望台から、40分くらい歩いたところで、
べこ岩という岩にあたる。
こんなところに寂しくぽつんとあるねー。



べこちゃんが深山に導いてくれますよーに。
ここで標識がやっとみえた。
蔵王展望台の標識あり。

ちなみに、深山山頂は、千貫山と連なっているので、
千貫山の手前が深山の山頂になります。
なので千貫山を目指せば、深山に辿りつきます。



いい道なんですけどね・・・。
分岐の道がでたよ。何の標識もねー。
べこちゃんどっちーー?
後でわかりましたが、どっちの道をいっても深山の道にぶつかりました。

山の怖さは、錯覚や思いこみをするんです。
だから遭難する。
山には魔物がいるというが、本当におかしな発想するから危険だね。
途中で、リボンがあったな、と思い、
道を間違えたと思ってしまう。
来た道を引き返してみたが、リボンなんぞない。

え~、どっちの道をいったら近いんだろう。
道しるべのない道を歩き続けるのはしんどー。
2本の道のうち、1本は急な登りなんだけど、明るい。
明るい道を選んだら正解だった。
やっとここで千貫山の地図があった!!
後は、下って道なりにいけば、到着できる!



ということは、蔵王展望台の道を素直に歩いていれば、
すぐこの道にぶつかったんだよね。
私はぐる~っと深い森を遠回りして倍以上かけてきたようだ…。

こうやって歩かされるんだわ。
ここからの道が、なんとなく太白山に似ているな~と感じました。



太白山の山頂も高産霊をお祀りしてます。

20分くらい歩いてようやく深山に到着~。
片道1時間15分くらいかかりました。





山頂は、な~にもないです。
展望もないです。
大きな岩がぽつんと。



明治26年の碑。
ここは修験の道でもあったのでしょうね。
昔から千貫山は有名だったのですが、深山も有名だったのでしょう。
志賀郷と玉前郷は、500~1000人近い人が住んでいたそうです。



しばし、山頂で放心状態。
ぼけ~としていた。
無風・・・。

縄文人など昔の先住民は、地球のエネルギーを神としてきたのですね。
本当の聖地とは、顕在意識ではわからないけど、潜在意識はちゃんとわかっていると思った。
何も残ってないけど、潜在的に何かを感じているから、十分、満足している。

火の神=噴火、水の神=大津波、土の神=地震。
この3つがそろって揺れていた所が、東北地方の太平洋側で。
海溝がすごいんだと思います。


蔵王の山がみえます。

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今、地球の自転が遅くなっているそうです。
5年位前から。
なので噴火、地震がここ数年増えているのはそれが原因ではないか?と言われています。
体感してはわからないですが、地球は変わろうとしている。
私たちも地球と共鳴しながら変わらないと。



もう始まっているのですが、来年からますます潜在意識の方が、顕在意識より勝る時がくる。
それが各々の、天の岩戸開きであると。

自身に対する天の岩戸開きであるという現象。
よくわからないけど、潜在意識の自分は、わかっているみたいです。
その潜在意識の自分にまかせていれば、またこれからもいろんな所へ
導いてくれると思います。





伊勢から派遣された巫女たちは、この高台から海を眺め、
祈祷をしながら津波を予測していたと考えられます。
また、被災地支援のような人々への施しもしていました。

救済のための祈りや薬を売る?ことなども。
売っていたかわかりませんが、
薬は、修験の人たちが人々に伝えていたそうです。
不老不死といわれる薬ですが、後に、それが鈴になっていきます。



そんな派遣された巫女さんの多くが、独身の若い女性だったか、高齢の女性かわかりません。
いずれにしても、家族と離れることになります。
そんな孤独さが伝わってきました。

斎宮というと、大倭姫(おおやまとひめ)がいます。
オオヒルメという日の巫女でもありました。

この方は、国や世界、いや、地球のために祈りを生涯ずっと捧げていた人でした。
今は、国のためでも誰かのためでもなく、
ひとりひとりが自分のための祈りでいられることが幸福です。
私のための巫女であるという自由さにあこがれていた斎宮の巫女がたくさんいました。

私のまわりの女性たちは、伊勢の斎宮にいた人たちだったりしてね。
縁あって今も東北や仙台へ来ているのだと思います。
あの時は大変だったね~、なんて話ができる時がくるんじゃないかな。笑

倭姫もそれを強く願っていたと思います。
そんな倭姫のおかげで、今、こうやって私のための歩き巫でいられる自由さが、
何よりも幸福です。
そんな風に実感した深山でした。



きつかったけど、楽しかった~♪
今度時間あったら、深山から千貫山の松までいくぞっ。
こりないね~。笑

ということで、いずれこの山の不思議を歴史とともに解明できたら、
来年になると思いますが、斎宮の道を探訪できるように計画してみます。
ご縁のある方は、ぜひ、深山の女性的な日高見を体験してほしいと思います。
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日高見国の千貫山

2017-11-28 | 東北地方の伝説(宮城県)
さっそく森歩きを。
とくに歴史などの話はないので、さくっと書きます。
不思議な写真がとれましたよ~。



あ、ひとつだけ追記。
前回の斎宮の伝説で、「静」という名前の人を
探している部分がありましたね。
「鈴」の意味もあると思うのですが、「おすず」という名前のルーツは、
機織姫にも繋がっている気がしました。
鶴の恩返しに似ている話なので。



角田は、昔は伊具郡といっており、
伊具軍団がいたと。それが安倍氏との説。
安倍氏の伝説は角田に多いんです。

岩沼市史より、
角田が日高見国であったのは、麻を栽培していたからです。
麻積郷(おうみごう)と静戸郷(しずのべりのごう)がありました。
麻を栽培していた郷ということですが、衣服にするため、生産地としてあったそうです!
場所が枝野、藤屋、東根のあたりと考えられる。
麻積郷は、郡山遺跡一帯を含むそうです。
ここが伊具の中心にあったと。

もうひとつ、静戸郷は、倭文部(しとり)のことです。
古代の織物職業集団がやってきた所なので、この郷がついたといわれる。
丸森からやってきたそうです。麻、苧(からむし)も含まれます。

倭文神の機織・養蚕の神を祀っているのが、群馬県の伊勢崎にある。
伊勢の崎ですね。ここも伊勢の斎宮と関係していると思います。
東山道を通って伝わった倭の道といえる。
天羽槌雄命(あめのはづちおのみこと)を、祀っており、

「天照大神を天の岩戸から誘い出すために、文布(あや)を織ったと伝わります。
文布は倭文布とも倭文とも書き、「シドリ」また「シヅリ」という織物である。
同じ織物の神では栲幡千々姫命、天棚機姫命が挙げられるが、
天羽槌雄神は機織りの祖神とされている。また倭文(しどり)氏の遠祖でもある。」


天羽槌雄命は、建葉槌命(たけはづち)と同一とされ、
織物の中に星を織り込んで、星神を織物に封じたという説があり、
封じられたのは、天津甕星で、カカセオなんですね。

「齋主(祭祀)」というやり方で封じたというのですが、
祈祷で倒したみたいな話だ。
斎主とは、祝詞をあげることができる神職の人を言うので、
今までの神職とは違う祝詞なり、神官がでてきたのかもしれない。
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さて、そんな星神がいたかどうか。
そんな世界とは無縁に千貫山で遊んでおる・・・。





グリーンピア岩沼にはスポーツジムやホテルなどもあって複合施設になってます。
入浴もできますし、ホテルでランチもできる所です。
テニスコートもフットサルもある。
料金は安いみたいですが、全然興味なし。





さて、駐車場は広く、第四まであるのですが、
今は、第四駐車場は閉鎖されていて入れませんでした。
なので、第一駐車場からちょっと下にある第二駐車場で止めて、
下まで溜池のある所まで行くと、「野鳥の道」があります。



今回は、龍神の道にある碑と、深山の碑まで歩いてみる。
グリーンピアを中心にして、北の方になります。



溜池のところから「野鳥の道」がスタート。
道は歩きやすく整備されていて明るいです。
登ってすぐに分岐した道があるので、右に進み、龍神の道に。
なぜ、ここに龍の名がついているのか、わかりません。





ほどなくして松の道にでて展望はあまりないですが、
すぐ石碑を発見。





意外にも立派。
ちゃんと仙人のような像が掘ってあります。
ん~、ここから下へ降りる道もありそうですが。
無難に戻り、再び「野鳥の道」をしばらく歩く。



歩くこと15分くらいで、「ひむろの道」の看板が。
ここからの道は、赤松が多くちょっと雰囲気変わりますが、
ここもとても明るい森です。









しばらく進んでいくと、ようやく深山の碑が。
でも、ここが深山ではないのですが、昔は、ここまで深山と言っていたのかもしれません。



ここにあった松の木が立派でした。
枯れてしまっているのですが、妙に強い松と感じました。


山神の碑。

その松に寄り添うように石碑があったのですが、
びっくりした写真がとれました。

初めてこんなにはっきりした「たまゆら」をとりました。
これは霊魂ですな。
明らかに意思をもってるでしょー。



何か霊的な存在がこの碑を守っているんですね~。
何を守っているのかは、御供えものだと直感的に思いました。



この碑に、どなたか御供えしてくれた、おせんべいがありました。
これをとっても喜んでいるように感じたんです。
この時は何も食べ物をもってなかったので、お賽銭をあげてきました。



ここにも、紅葉の葉にまじって、しれっと黄色のオーブが。
黄色のオーブも低山ハイクが好きなんです。笑

こういうモノを見せられると、石碑はとても重要な意味をもつんですね。
これからは山中で石碑に会ったら、「おさご」を持っていった方がいいのかな、と思いました。
家ではお供えするお米をおさごと言います。
実家では氏神様のお社に、おさごをあげるので、そういう習慣をすっかり忘れてました。



ただ、自分の氏神ではないので、何でも御供えするものではないですけどね。
ご縁を感じたり、よく行く場所の祠には御供えする気持があった方がいいですね。





さて、ここでもう帰ろうか、と思ったのですが、
もうひとつ行ってみたい場所がありました。


鉄塔おりた所が景色よかったです。



ここからすぐ下に鉄塔があるのですが、その鉄塔をすぎていくと、
うっそうとした感じの森になります。
そこに岩場がみえ、これが「氷室の跡」といわれるものです。
詳細は不明ですが、氷室といっているので、
昔、ここが冷蔵庫の役目になっていたようです。
両壁がおおきな岩盤になっているのですが、下は少し陥没しているようです。





この道をそのまま進んでいくと、金蛇水神社に繋がる道なんです。
金蛇水神社の刀の伝承がありますね。
氷室との接点がありそうですが。



日本の氷室について(Wikipedia)
「日本においても、製氷する技術が無かった時代には、
冬場にできた天然の氷を溶けないように保管する必要があった。
正確な記録は残されていないが、洞窟や地面に掘った穴に茅葺などの小屋を建てて覆い、
保冷したとされる。氷室の中は地下水の気化熱によって外気より冷涼であるため、
涼しい山中などではこの方法で夏まで氷を保存することができる。
このように天然のものを保管するしかない時代、夏場の氷は貴重品であり、
長らく朝廷や将軍家など一部の権力者のものであった。」





平安時代の延喜式に10箇所の氷室が記載されているのですが、多くが山城国。(現在の京都)
地名も氷室とあります。
日本書紀に、氷連という姓があり、氷室を管理していたそうです。
鴨家が賀茂神社に勤める時に氷室を使ったようで、氷連や氷室の姓があるそうです。



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まだまだ深いモノが眠っていそうな千貫山。
最初の足ならしとしては、とっても良い森でしたが、次はいよいよ深山山頂まで。

深山は、メジャーではないから、ほとんど情報がないので、
辿りつけるのかどうか・・・。
今のうち行っておきたいので、続けて次の日も行ってみた。
どうしても深山に巡りあいたい!

つづく。
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日高見国の深山(みやま)斎宮伝説

2017-11-27 | 東北地方の伝説(宮城県)
思いのほか、盲点だったことがあるもので。
近くによい里山をみつけた♪
冬の間は、ここで遊べそう。

前回、飯沼勇義氏の津波研究(大津波の歴史の本から)から、
いろんなことがわかったのですが、
この本では、ホツマツタエのことも少し書かれてまして、
日高見の図もあったのですが、角田にも日高見国があったと。。。


※縄文神高見産霊・日高見国

「ひたかみーのーくに(日高見国)、古代蝦夷地の一部。
ふつう北上川の下流地方、すなわち仙台平野を指す。
景行紀「蝦夷既に平げて~より還りて」(
秀真伝:ホツマツタエ)

日本書記の中で2ヶ所「秀真伝(ホツマツタエ)」では数十か所記載されている。
「日本の天皇以前の時代、即ち縄文時代に遡り、昔の御祖(みおや)、
高見産霊・日高見生みて・・・」
「大津波を起した巨大地震、縄文時代の一万年前から規則性をもって起こっていた」
「こうした史実を縄文神は知っていた」


といった内容の記事が詳細に書かれているという。
そのため、震災があってからホツマツタエの信頼度があがったそうだ。

ホツマの話はさておき。
角田に日高見~?ロケットの場所~??という感想でしかない私…。
確かに角田はいい所だな、と思ってたし、何かあった場所だな、とは思っていたし。
でもヒタカミにはピンとこなかった。
飯沼氏の本によると、角田にある熱日高彦神社は、日高見国の男神としている。
熱は、太陽を象徴とするアラハバキと考え、荒神信仰のことを伝えていると。
彦は男の意味があるため。
それに対し、石巻の日高見神社がアラハバキ神社の女神と考えられると。

ヒタカミを考えて、熱日高としたことはあると思います。
アチ(オチ)と読み、アチヒコ(阿智)に関係する。
アチヒコの祖は、神話に登場する「天の岩戸」を開く際に、
祈祷をしていた思兼命と思われる。

実は、この「天の岩戸」がいきなり名取のある場所で登場してきます。
大津波と藤原実方の話を書いている時に。
まあ、詳しい人に情報を教えてもらったのだけど、いったい、何が起こっているのかわかりません。
でも、そこから日高見国の話に繋がったので、善いことみたいです。
なんだか、今回も深すぎるのですが、嬉しい発見でもあります。

そんな角田には、阿武隈川のそばに鎮座する神社として古いのは、
鳥屋嶺神社と斗蔵神社らしい。
西の斗蔵神社に対し、東の熱日高彦神社。
深く掘り下げてみると、岩沼の深山に繋がりそうです。

かなり前に、伊具郡の古代史で、わけわからない妄想をしてましたので割愛しますが、
その千貫山・深山に日高見国(高見産霊)を置いていた?という話には、正直疑ってしまった…。
でも、実際、山を歩いてみると、こんなに魅了される里山はないと思うほど、
とても陽気でいい山なんです。歩きやすく整備されていることもあるが、それにしてもここまで
明るく開放的な山はないと思った。
なぜ、今まで知らなかったのだろ~う。

申し訳ないが、岩沼の深山に~?という感じはありました。
岩沼で目立つのは、製紙工場の煙くらいしかイメージがなく・・・。
昔の秩父セメントを思い出す風景。笑
だからいつもスル―して4号線に行ってました。
千貫神社は、39号線から4号線にぶつかる手前を右折した下道にあります。
今年の2月に参拝したことがあります。
その千貫神社で、飯沼氏のアウターライズ地震を知りました。(これはネット情報で)


千貫神社


千貫神社の祠(山津見神)

確かに、地元の方の情報で、千貫山は聖山だったと聞いたことはある。
ここからもう繋がっていたんですね。
先月、高舘山に登り津波歴史の詳細を知ることになる。
それから、千貫・深山という流れに。

※古代・王ノ浦港。
海がかなり内陸へ入ってますが、縄文海進では現在の位置に
海岸線があったので、海岸線は、今よりそんなに変わっていないか、と。
ただし、これが津波によるものだったら、こんな風に海が迫っていたのでしょう。





図:長谷 隆、検証指導:飯沼勇義、都築利雄、宍戸幸次
(解き明かされる日本最古の歴史津波)
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深山というのは、山元町にもありますが、その山は「しんざん」と呼ぶ。
山元町の深山が古くは「真山」であれば、ここも日高見国とみてよいでしょう。
なぜなら、深山の山頂からは、海岸線がよくみえるのです。
不思議なもので、岩沼の深山へ登る前に、山元町の深山にむしょうに登りたくなっていた。
今度の休みに登ってこようと思っていたら、岩沼の方に導かれた。

岩沼の深山を「みやま」と読ます理由がある。
「みやま」とは、三輪山のことだといわれ、伊勢神宮の斎宮に関係すると。

山名の故事歴
日高見国→三輪山→深山(真山)→山小屋→千貫山
歴史津波があったこの地域に、伊勢神宮から巫女が遣わされ、
その居住地をこの山岳につくり、これより日高見国を三輪山(伊勢神宮の山並みを三輪山という)
と呼ぶようになり、三輪山が深山と言うようになった。

西暦95年頃、この地方に巨大地震が起こり、日高見国の東方の太平洋海上・海底だった。
このため、大規模津波が発生し、太平洋沿岸から広域の仙台平野全域は海となってしまった。
この大津波は、すでに阿武隈水神におかれていた日高見国の展望地の山頂でとらえられ、
津波によって内陸が全域、海となってしまったという情報が、倭国に伝えられた。

深山→阿福河伯神社(阿福麻水神)→【日高見国】
影蔵山→熱日高彦神社(阿武隈水神)→【日高見国】
阿武隈河口→海→倭国。

※(解き明かされる日本最古の歴史津波)より

名取老女生誕の地と伝わる岩蔵寺のそばも深山(みやま)の名がある。
名取老女が伊勢からきた斎宮の巫女だったとしたら、
岩沼に誕生した名取老女の話が、この理由で繋がりそうです。



マップをみても、岩蔵寺の上には、「祢宜内」という地名も。
祢宜(ねぎ)は、神社に奉職する神職の総称で、
伊勢神宮において少宮司の下に置かれている職のことの意味もある。

岩沼には、千貫松伝説が有名ですが、他に、千貫山斎宮(いつきみや)伝説があった。
この話は私は知りませんでした。
実際、深山にきていたのです。

まずは、斎宮伝説について。
素敵な紙芝居風な絵本をみつけました。
「おすずひめ」(玉浦昔話絵本)

絵本なので、そのまま会話文をのせると読みにくいので、少しまとめています。
絵本風に見たい方は、こちらのサイトで見てください。
http://www.syougaigakusyu.org/zairyou/%E3%81%8A%E3%81%99%E3%81%9A%E3%81%B2%E3%82%81.pdf

「おすずひめ」(玉浦昔話絵本)



ある時、村に、おすずという一人の女性がやってきて、屋敷で女中仕事がないか、と探していた。
「女中仕事なら長谷釜の齋(いつき)屋敷に行ってみれば・・・」と、村の人がいう。
そのすすめでやってきたのは、佐吉という者がいる所。

佐吉「女中仕事がしたいって、うちは金持ちでねえから、それほど給金は出せないよ」
おすず「いいえ、お金はいりません。ただ、おいていただければ、それでよいのです」

佐吉「わがった。雇うべ。ところで名は?」
おすず「すずと申しまするー。」

すずはとてもよく働いた。
朝から晩まで水仕事、針仕事、まかないまで何でも手早くこなす。
とても素直できれい好き。特に食べる物をたいそう大切にしていた。
すずがきてからというもの、齋家はとても明るくなり、
そして少しずつ豊かになっていった。

しかし不思議なことが一つだけあった。
家中のだれひとりとして、すずが食事をとる姿を見たことがないのだ。
どんなにまわりがすすめてみても決して食べようとはしなかった。

佐吉「どうして食べねえんだ?」
すずは笑ってこたえない。

ある晩の事、家の人が寝静まった真夜中、台所でなにやら物音が聞こえる。
気になった佐吉はそっと起きだして、様子をうかがってみると・・・
すずがぽつんと一人、コトコトと鍋でなにかを煮始めたところだった。
佐吉はこれだ!とばかりに鍋の前に来て蓋をあけようとした。

おすず「あけてはなりませぬ!」
佐吉「えい、見せろや!」
佐吉はすずが止めるのもきかず、鍋の蓋をあけた。

そこにはぐつぐつと、米粒が少しだけ入った得体の知れないおかゆが煮立っていた…
佐吉「これはどうしたんだ!?」
おすず「これは流しの口に袋をかけ、みなさまが食べ残したものや
すてたものを、集めては煮込んで食べています・・・」
佐吉「どうしてこんなことを・・・?」
おすず「・・・・・」
すずは首を振るばかりで、佐吉がいくら問いつめても一言も口をきかなかった。

あくる朝、いつも通り、すずは水桶を持ってまかないの水を汲みに井戸の方へ出て行った。
だが、いつまでたっても戻ってこない。まかない女中が様子を見に行くと
井戸端に水桶がポツンとおかれ、その横に履物がきちんとそろえてあった。

女中はあわてて井戸の中をのぞいたが、飛び込んだ様子はない。
すると甲高い鳥の鳴き声!
振り返ると千貫深山に飛んでいく白い大きな鳥の姿が見えた。
女中はあわてて主人の佐吉に告げる。
佐吉も家中のもの総出で一日中あちこち探したがすずも鳥もみつからない。

やがて日が沈み、はるか西の方角、そう千貫深山(みやま)のあたりに
まっかに輝く火の玉がぽつんと上がっていくのが見えた。
佐吉「あれはたしか瑞應庵(ずいおうあん)のあたり・・・」
瑞應庵は大震災の直後、人々の心を救うために、遠く伊勢神宮から
つかわされた巫女たちが住まう尼寺であった。



数日後、番所から役人がきた。
役人「この様なおなごがここにはたらいていると聞いた。
隠し立てすると身のためにならんぞ!」
佐吉「そのようなおなごは見たこともごぜえません。
確かに先日まで飯を食わねえ女中が働いておりやしたが、
急に鳥に姿をかえて、深山の方へ飛び去ってしめいました。

佐吉 「きっと伊勢のお社(やしろ)からつかわされた巫女様が
鳥に姿を変えておいでになったものでごぜいましょう。
食べ物を大切にしろとのありがたいおぼしめしです・・・」
そう言うと深山に方に向かい、家中の者が手を合わせた。
それを見た役人もそれ以上問いただすことはなかった。

それから女中たちの間では、おすずがお伊勢様の使いだったと知り、
深山大権現になって飛んでいったとか、おすずによく似た白拍子が、
義経様というお侍さんと一緒にえぞを向かっていく船を見たなど噂していた。

それからというもの村人たちは食べ物を粗末にすると、
「おすずひめが泣ぐど」と言って子どもたちをいましめたそうです。


※生涯学習実践塾より
http://www.syougaigakusyu.org/
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このような昔話は、全国にありまして、
「食わず女房」という昔話があります。
食事をしない嫁入りなのですが、正体は人間ではない。
おすずの場合は、白鳥になって飛んで行ったことから、
ヤマトタケルの白鳥信仰に模していると思います。蔵王が近いから?

食わずう女房には、いろんな描写があり、鬼になったとか、菖蒲の湿地に身をひそめるとか。
節句に菖蒲を飾るなど、魔よけとしていることが多い。
「飯炊き女」という昔話もありますが、正体は、山姥、蛇、鬼、蜘蛛や蛙などといった
ものが多いです。

斎宮(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)とは、
古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(現在の斎宮跡)であるが、
平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指した。
後者は伊勢斎王や伊勢斎宮とも称する。

『日本書紀』崇神天皇紀によれば、崇神天皇が皇女豊鍬入姫命に命じて
宮中に祭られていた天照大神を大和国の笠縫邑に祭らせたとあり、
これが斎王(斎宮)の始まりとされる。
(Wikipedia)

藤原実方が名取にきたのは、ここに斎宮があったからですね。
なるほど~。

ということで、先日、おすずの話にでてくるその斎宮があったと
思われるお寺に行ってみようとしたが、近くまで行ったのに行けなかった・・・。
100%目的地にいけるgoogle mapなのに、初めて辿りつけなかった。
私の早とちり、勘違い。
でも「目的地に到着しました」とgoogle mapがそういったんだよね。
が、そこには何もなかった・・・。
マップでは寺名(名前は変わっているみたいです)がある。おかしい。
ただ、ストリートビューでみても、お寺らしき建物が見えなかったので、
勘違いした私は、もうこのお寺は今はないんだな、と。
そう思ってそのまま帰ってきた。
家に帰ってきて改めて調べると、どうやらまだ先の道にあったらしい…。

最初はそうなんだな。
ちゃんと流れがあるんです。
まず最初に、千貫山を歩けと・・・。


お寺がみつからない時にウロウロしていて撮った写真。
暗いですが、竹林がきれいだったので撮ったら、小さい光の粒がたくさん。


(コントラストを強くしてみた)

ということで、斎宮の話は最後の方にまた書きます。

さて、そんな話を知ってしまったら行かないわけにはいかないっしょ。
千貫山は、グリーンピア岩沼になっている山です。
車で30分とわりと近い。
一度も行ったことがなく、この山に散策コースがあることも知らなかったのです。
今までここがずっと盲点だったのも意味があったのかもしれない。



また、そんな深い歴史を知るきっかけが大津波の歴史であったこと。
コツコツと津波研究をなさっていた飯沼勇義氏には感謝です。
おかげで、伊勢からやってきた巫女たちに光が差してくれたようです。

どんな山なのか、まずは、千貫山を散策してみる。
つづく。
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六地蔵寺の大スギ(水戸)

2017-11-26 | 神話・伝説
茨城県に戻るのですが、竪割山へ行く途中の水戸市に、
六地蔵という看板があったので、ちょっと行ってみました。
とても立派な杉の木と銀杏が仲良くあったので、どんな昔話があるかご紹介します。



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水戸市六反田町の六地蔵寺は、真言宗のお寺で安産・子育てにご利益があるとして
知られています。

また、花の名所としても有名で、境内にあるシダレザクラやソメイヨシノの開花期には、
多くの参拝者でにぎわいます。
その中でもひときわ目を引くのは、樹齢百八十年といわれる水戸光圀公ゆかりの
シダレザクラで、毎年見事な花を咲かせています。
六地蔵寺には、このシダレザクラとともに市の文化財に指定されているスギと
イチョウの大木があります。
今回は、高さ約三十六メートル、幹周り約七メートル、推定樹齢千百余年といわれる
その大スギにまつわるお話です。



むかし、本堂も地蔵堂もまだ現在のように立派ではなかった頃、
このあたりは何千本ものスギの木で覆われておりました。
ある時、信者の人たちが集まり、お寺をもっと立派に建て直そうということになりました。

また、寺を建てるにあたっては周りに豊富にあるスギの木を使おうということになったのです。
やがて、たくさんのスギの木が次々と伐り倒されていきました。
そして、きこりが最後の一本を伐ろうとしたときです。
どこからか、「火事だ。火事だぞー。」という声が聞こえてきたのです。

きこりはあたりを見回しましたが、それらしい様子はまったくありません。
空耳かと、再び鋸を引こうとすると、また同じ声が聞こえてくるのです。

それをいく度か繰り返すうちに、きこりはふと自分の家が心配になりました。
(ひょっとして…)そう思うと、居ても立ってもいられず、きこりは鋸を投げ出し、
自分の家のある那珂湊の方に向かって走り出しました。

やっとの思いで家に戻りましたが、きこりの家はすっかり焼け落ちて影も形もありませんでした。
(あのスギの木には、仏さまが宿っているにちがいない。
きっと私に「伐らないでくれ。」といっていたのだ。) 
きこりは、それからというもの木を伐る仕事をぴたりとやめてしまいました。
そのようなことがあって、六地蔵寺の大スギは今でも境内に残っているのだそうです。



※茨城いすず自動車 昔話より

・・・木を大切に。
今、道路拡張とかで木々をバンバン切ってますけど、
事故が絶えない、事故が増えている、というのは、そういう事だと思ってます。

六地蔵の縁起--------------------------------------------------

大同2年(807年)六反田古墳群の中心にあたる霊場に開山され、
室町時代の有覚上人を中興第一世とする。
本尊は、六体の地蔵菩薩。
各六尺の一木造りで行基菩薩作と伝えられ、古来安産子育、心願成就に霊験あらたかに
して多数の参拝者がある。





水戸徳川家累大の御位牌を護持し、またここでは僧侶の学問所として、
著名な学僧を数多く輩出したそうです。

このお寺は、塙保己一が編纂した国文学・国史『群書類従』に、
本寺版「神皇正統記」「六地蔵寺過去帳」が収録されていたというので、
昔から有名なお寺だったようです。


※空海像

あまりお地蔵さんを意識したこともなかったなぁ。
お地蔵さんといえば、田んぼの畦道や山中に鎮座されていることしか
わかりませんでしたが、
こちらのお寺に祀られている六地蔵は、6つの使者みたいな。
「かさ地蔵」の昔話にでてくるような、のほほ~んなお地蔵さんではない感じで。
品のあるお方、って感じ。(実際みてないですけど)
きれいなサイトがあるので、こちらを参考にしてみて下さい。

水戸大師「六地蔵寺」
http://www.rokujizoji.or.jp/

境内をふらりと見てきただけなので、
境内裏の方まで回っていなかったのですが、
裏手に「胎内くぐり」や「弁天池」などもあります。

ところで、徳川光圀さんは、とっても博学な方だったんですね。
この方は文化財保護にも尽していた話を栃木で聞いていますので、
評判悪い話もあるようですが、やっぱり残してきたモノは素晴らしいと思います。





ここは、大掾氏(だいじょうし)という中世の軍事貴族が占拠していたそうです。
あまり聞かない名前ですが、関東の坂東平家です。

平国香という平高望の長男がおり、その系譜です。
家紋は蝶なんですね。
なんか宇宙人みたいな面白い家紋。
ぬり絵をしたくなる・・・。



坂東平家については詳しくわからないのですが、ルーツは葛原親王(かずらわらしんのう)です。
葛なので、国栖ですね。
土蜘蛛。
なので、まつろわぬ民とされた人たちの世直しみたいなのが、
坂東平家を生んだのだと思います。
茨城へ向かい、福島の相馬地方で妙見信仰をもたらしたことも繋がっているようです。
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最大炉の岩淵遺跡

2017-11-23 | 東北地方の伝説(福島県)
朝みえた太白山の神々しさは、阿津賀志山(厚樫山)に繋がっていた。



岩淵遺跡は、国見町大字高城字岩淵地内にある平安時代の集落跡。
遺跡は、昭和47年に果樹園造成のおり発見されたもので、
昭和48年7月と昭和49年7月に国見町教育委員会と福島大学考古学研究会
による発掘調査が行われ遺跡の全容が解明されました。

調査では、縄文時代中期後半の竪穴住居跡が五か所、埋蔵土器、
平安時代の竪穴居跡が一か所などが確認されている。



これらの住居跡の特徴に、最大級の複式炉があったこと。
縄文時代中期後半の竪穴住居跡で、7.5mの円形を呈し、
床面には長さ3.2m、幅1.8mと最大級。

これらの複式炉は、埋設土器と石組炉が組み合わされた
南東北を代表する炉で、最初に福島県で発見され命名されたものです。

(看板より)



遺跡は西の丘陵から張り出した台地の上に営まれた集落で、
国見盆地を見渡すことができ、
目立ってみえた阿津賀志山を聖山としていたことがわかった。



さて、岩淵遺跡から帰ってきて、何か情報がないか調べていたら、
また面白い本を見つけた。
知る人ぞ知る「萬蔵楽山(まんざいらくさん)」
イヤシロチの山として有名になった。
萬蔵稲荷神社は行ったことあるのですが。



よく「カモフラージュ」という言葉がありますね。
「周囲の風景に溶け込むこと により、敵の視を欺き、対象を発見されないようにする
方法のことである」という意味のカモフラージュ。
半田山がそんな山なんですね。
裏の萬蔵楽山を隠している。
この山の力を守っている意味もあるかもしれないのです。

さて、そんな情報を知ってしまうと、この遺跡が重要だったこともわかってきます。
萬蔵楽山に岩淵遺跡のことについて書かれてました。
この最大級の炉は、トチやドングリなどを製粉をし、パン状に加工したと推定されると。
縄文遺跡の分布は、国見町をはじめ福島市内、保原町に多いという。

また、ここは福島と宮城の県堺。
水分の場所。


この裏の森には、鳥がたくさん鳴いてました。

国見山は、たんがら山ともよばれてました。
たんがらとは、土を盛って作られた山の意味があるのですが、
巨人説があります。
七ツ森のたがら森は、たんがらが由来です。
国見神社には、大国主を祀る。

はるか昔、阿津賀志山を人工的に作った存在がいて、そこに縄文人が住み、
巨大な炉をつくり、長い間、豊かな食生活を育んでいたことが想像されます。
平安時代にもあったということは、えみし征伐のあった頃でも、
この集落が存在していたかもしれない。
その炉はそのまま時代を経ても利用され、鎌倉時代に足鍋という3本の足がついた
土製の鍋が発掘されるようになります。
ここで、足鍋を大量に生産していたことがわかっています。
縄文時代から鎌倉時代まで、その炉を使っていたことがすごい。



今の電化製品なんて、たかだか、寿命十年くらいなものでしょ?
今では携帯は2年くらいで変える時代だよね・・・。
それに比べてこの炉は、改良されながらも何百年も利用されていた。





昔、縄文時代頃まで、信夫山周辺は海でした。
岩淵遺跡周辺も海が近くまであったそうです。
また防塁がここに置かれたのは、山脈を越えるような高い山がないので、
国見町から先へ北上するのはいたって簡単だったわけです。


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国見の昔話(国見町キッズページより)

「これは貝田・鷲宮の由来にまつわるお話はなしです。
むかし、貝田の山奥、四つ穴カマ口という高い岩山の岩棚に、大きなワシがすんでいたそうです。
羽を広げると二メートル余り。くっきりと白い輪がある美しい大ワシで、毎朝、
貝田の上空を何回も旋回した後、一直線に南へ飛んでいく姿は、貝田の人ひとたちの
守り神のようでした。ワシは相馬の浜を餌場にしていたのでした。
 
さて一方、相馬の人たちにとっては、この大ワシは魚を横取りする憎い鳥とりでした。
あるとき、この大ワシが子どもまでを襲うという事件があり、とうとう撃ち殺されてしまいました。
ところがその後、浜では悪いことばかりが続き、疫病までがはやりだす始末。
人々は、これはきっと大ワシのたたりに違いない、巣を探さがして霊をまつろうと、
はるばる貝田まで尋て来きたのだそうです。
姿を見みせなくなった大ワシを案じていた貝田の人たちにカマ口に
案内された浜の人たちは、そこに自分じぶんたちの手で鷲宮を建たてて、
まつったのだそうです。」


仙台の前身が梁川。
広瀬川という名前の川もある。
伊達家がこだわっていた地形というのもあるのかもしれません。
仙台は津波が多いところなので、仙台城は津波被害からどうやって
免れたらよいかを考えた城下町を築いていた。



いずれも縄文遺跡があるところで、阿津賀志山と太白山も似ている。
その風景を、妄想していた伊達藩がいたわけです。
伊達家も縄文の精神を受け継いでいると思います。


(太白区山田にある縄文遺跡から太白山がみえます。ここから富沢の遺跡(旧石器時代)まで猟をしていたと考えられます。)

例えば山形の富神山もそうです。
富神山の麓に、富神明神社があります。
富神山はピラミッドで、神社は、縄文時代の環状列石の遺跡の中央に建っていたが、
残念ながらその痕跡は今はありません。


(富神山)

その神社から10分くらい歩いた所に、柏倉八幡神社があります。
八幡宮を建てるのは、福島の梁川八幡宮、仙台の大崎八幡宮も同様に、
いずれも縄文遺跡を意識している。




富神明神社

坂上田村麻呂は、征伐した後に八幡宮を祀る話がよくあります。
八幡平がそうであるように、以前、縄文人の聖地であった所に、
マロがやってきて八幡宮を置いて祈祷していたのかもしれない。
その後を追って伊達政宗が誕生し、同じような弔い方をしているように思います。
これは永遠に続いていくものなのでしょう。

柏倉八幡神社では、1万2千年前の石斧が出土した所で、
聖地であったところを後に八幡神社を置いたそうです。
木像の女神像が祀られており、時は平安時代の頃。
しかし、2012年火災により神社が全焼したそうですが、女神像は免れた話があります。

縄文はピラミッド信仰が主になっていました。
秋田のクロマンタもそう。
青森だと大きな岩木山がそうですね。靄山も含め、
一大、ピラミッド信仰は、東北各地にあります。

また、国見といえば、果物がよく実るところです。
国見町の半田山は遅咲き桜といわれ、他の地域より開花が遅い。
それは比較的気温が低く、標高は低いうえに、西から北へは
奥羽山脈、東に阿武隈山系を背にした信達盆地の北にあたる。


(阿武隈山系)

また、国見町を通る時は、雨にあたることが多いと感じます。
学生時代、実家へ父の車で帰る時、高速で走っていると、大体、国見だけ雨が多いと感じる。
これは何度も往復していた父親もよく言ってました。
冬でも他の地域は晴れているのに、国見に入ると雪がちらつくことがあります。





そんな気候や地形により、美味しくて甘い果物ができるのだそうです。
これも縄文からの贈り物ですね~。
素敵なところなので、ぜひ、足を運んでみて下さい。



※国道4号線を福島へ向かって走り、貝田町裏交差点を左折。
321号線を降りていくと、岩淵遺跡の小さい看板と、御瀧水神社があります。
神社前には駐車場もあり観光案内の看板もあります。


スペースシップみたい。
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坂上田村麻呂の鬼石観音

2017-11-20 | 東北地方の伝説(福島県)
いよいよ、冬が到来。
仙台も昨日、初雪となりました。ちょっとだけ降りましたね。
泉ヶ岳も雪が降り、あんまり今年も登山してませんでした~。
でも、まだ雪が積もらなければ今年最後の里山散策をするつもり。

さて、先日のある朝、家から太白山が見えるのですが、
朝日にあびる太白山が神々しく、はっきりした姿でした。
美しい~。



紅葉の色と緑が鮮やかにみえて、天気もよい。
この日は休日だったので、今日はいいことありそうだ!と思い、
国見の道の駅にいこう!と思いつく。

なして道の駅~・・・。
国見に「あつかしの郷」と、今年5月にオープンしてました。
茨城の帰りに発見して、今度行ってみようと思ってまして。



行ってみたら、国見バーガーというご当地メニューがある。
そのメニューの中に、サバの味噌煮バーガーというのがあり、
食べてみました。
ん~、サバもパンも柔らかくておいしいのですが、
やっぱりご飯がほしくなる~・・・。
でも、この味はやみつきになるかも~。

てなことで、国見バーガーを堪能し、果物を買ってもう帰る・・・。
には、まだ早いしもったいないなぁ。

結局、梁川八幡宮に行くことにした。
・・・またかよっ。
どうしても行ってしまう。
ここの駐車場のトイレが綺麗なんです。
だからほっとする。
・・・トイレかよっ。





八幡宮へ行ってみたら、屋根の瓦が落ちるので危険といった看板が。
屋根に白い幕。
・・・修復中だった~。



完成がH32年3月と。
ふ~ん、なんか残念。仕方ない。リニューアルするまで待つかぁ。





設計管理者の名前が「伊達な建築研究所」
面白い。
伊達にかっこよく修復してください。笑

今まで気にしてなかったのですが、白鳩の絵図がありました。
八幡様といえば鳩ですね。
鎌倉の鶴岡八幡の「八」は、鳩の形になっていて、それが鳩サブレーになってます。
クッキーのね。
なぜ鳩なのか?は、こんな伝承があります。



「九州の宇佐八幡から行教和尚が、八幡神を勧請して帰る途中、白い鳩が道案内についてきた
僧行教は、「これは大安寺八幡宮を守るためにきてくれたのだ」と、大事にこの鳩を飼った。
男山の八幡宮へおうつりになる時も、鳩が道案内をしたという。

「神功皇后の三韓征伐には、大安寺から出発された。
その時、応神天皇がお生まれになったが、しかたがないから、
大安寺の佐保川の西を流れるコモ川の堤にコモを包んで置いておかれた。
コモ川という名も、それから出た。それを鳩が来て養育した。
八幡宮に鳩がたくさん飼われるのは、その縁故だという。」
※『大和の傳説』(昭和8年高田十郎編纂)より

鳩の漢字は、「九の鳥」になっている。
9つの太陽を射る話。中国由来の神話。
鳩も旭という漢字による太陽信仰なのかもしれない。
ノアの方舟で、鳩がオリーブをくわえて登場しますが、
実際?のところ、鳩ではなく烏説がある。
烏=鳩であると、ルーツは同じヤタガラスでないの?
白と黒の違いなだけ。




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何度も梁川八幡へ訪れてしまうのは、愛姫と伊達政宗が初めて対面した場所と言われる所
があり、伊達政宗にとっては縁の深い神社なのですが、
ここから見える半田山と連なる国見の山々に、何かを想うのです。
当時、政宗は13歳、愛姫は11歳。
毎度、この神社の裏にきて、ポツンと置かれた大きな石にフツフツと想う。
私にとっては、必要な場所のように感じるのです。



梁川へ行く時は、国道4号線から「貝田町裏」という信号をいつも左折して、
321号を下りていきます。この道には御瀧神社があります。
田園風景の中を走る道で、福島盆地が見渡せて好きな場所です。
それから梁川へ入るのですが、歴史上有名な「阿津賀志山の戦い」があった所。




1189年の奥州合戦。
この時代に興味がないというか、あまり戦いには関心をもてないのですが、
そう言いつつ、何度も行ってしまうところ、過去、国見で何かあったのかもしれない。
半田山に魅かれるところからして・・・。
半田銀山があり、牛が住んでいる沼もあり(赤牛伝説)そして義経が通った道であり、
また平将門の奥さんである桔梗姫の伝承もある。
震災で崖崩れがあったため、傷がついているような姿になってしまいましたが。




悠々と飛ぶトンビ。

あ、本題を忘れてました。ワラ
それで梁川八幡宮に今回で4回目かな?
行っていたにも関わらず、マロ伝説の「鬼石観音堂」がわからなかった。
それが境内にあった観音堂だったのですが、境内からでは何もわからずにいた。




ぐるっと回ってお寺側からみると、しっかり、鬼石観音堂として看板がありました。
こっちか~・・・。



信達第三十三番結願札所 鬼石観音の由来(看板より)
延暦年中(782年~806年)のこと、征夷大将軍坂上田村麻呂が
奥羽鎮定の命を受けてこの地にやってきた折、賊徒軍に囲まれて危うく
命を落としそうになりました。
そのとき聖観音菩薩におあずかりしたところ、突然大鬼神が現れ賊徒軍を追い払って
くれました。田村麻呂は観音様に感謝して御堂を建立しました。





※龍宝寺

たまたま奥羽巡錫の途中にあった空道上人がこの地を訪れ、
草庵(光明院)をむすんで観音堂の堂守となりました。
現在、梁川橋の袂に見える大きな石は大鬼神の化身と伝えられ、
鬼石と呼ばれています。観音堂もいつしか鬼石観音と通称されるようになりました。

永観年中(983年~985年)には梁川八幡がこの地に勧請され、
また承安年中(1172年~1175年)には三重塔が建立されるに及んで、
境内は一段と賑やかになりました。
龍宝寺(光明寺の後身)は伊達六十六惣社梁川八幡の別当として
伊達氏の保護のもとに発展しました。

時に伊達成宗(梁川城主)は、文明3年(1471年)に鬼石観音を再建。
本尊に三十三体の観音像、中尊に父持宗が京都であつらえた阿弥陀如来を安置しました。
当時、鬼石観音は信達三十三ヶ所観音巡礼の最終満願礼所として、
郡内外から厚い信仰をあつめていました。(
以下省略)


※龍宝寺の弘法大師修行像
---------------------------------------------------------
梁川大橋の鬼石がわかりませんが、後になってマロ伝承を持ち込んだと思います。
貝田という地名から、貝田ワカ神子という盲巫伝承があるのですが、
「貝田」という人の実態は不明で、梁川八幡宮にその由来があると伝承されていても、
その痕跡はありません。
しかし、伊達政宗が片目であったということで、目に障害をもっていたことから、
盲巫の間では、障害があっても天下をとった人であり、
伊達政宗のおかげで、目に不自由な人たちが自立できるようになったと。

岩手県川崎村の大和宗聖徳山大乗寺に「教祖貝田大法尼 旭大法尼精霊塔」が
建てられています。
おそらく、旭大法は名取老女のことと思われます。(名取老女和讃がある)


画像:霊の民俗:川島秀一より

さて、そんな鬼と称された巫女さんがいた梁川八幡宮を後にし、
帰る途中で、以前から気になっていた縄文遺跡を訪れてみました。
ずっと縄文遺跡の看板があることは知っていたけど、いつもスル―してました。
それで、今回行ってみたのですが、すごい所だったとわかった。
またもや、面白いシンクロが続く。

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大津波と藤原実方 その2

2017-11-18 | 名取熊野老女
藤原実方、あこや姫、名取老女、三位一体!笑
な妄想をしたくなる。

前回の続き。
仙台沿岸津波660年~690年に起こる。
国府多賀城が作られる半世紀前。
その後、貞観地震、貞観津波が869年頃に起こる。
またその後、996年「仙台・熊野堂津波=長徳地震」という歴史津波があった。
これが終息期に入り、しばらく大地震がこない時代となり、史料に残される歴史記録となる。
それ以前は、津波により歴史資料が残されていないことが考えられると。

これは、著者の言及にもありましたが、
大和朝廷にとって、災害による壊滅というのは、敗北と同じと考えられていた。
このことを知られたら略奪、暴動が起こることを懸念して、伝えることをしなかったのだろう。
治安の悪化という点で、朝廷としては何事もなく治めたい。
しかし、多くの犠牲者がある。
その鎮魂のために動いていたのが、藤原実方では?
そして著者(「解き明かされる日本最古の歴史津波」)は、名取老女は藤原実方ではないか、
といっている。
これはこれで興味深いのですが、名取老女は実在したとは考えられていません。
しかし、モデルはいたと思います。

それも女性ではなく、男性の巫女であった可能性が高い。
名取老女を先祖にもつ烏宮守家によると、守氏の遠祖は、藤原叙用(のぶもち)。
藤原鎌足十世の孫にあたる。920年頃武蔵国に於いて神官を
奉職しはじめて斎藤氏を称した。
斎藤壱岐尉源七郎がその初代である。(通称:斎藤壱岐)
この地方の荘官として紀州熊野の信仰心が厚く、神の託宣を行う巫であり、
神霊の降臨を乞うてそのお言葉を取りつぎ、信者に告げる役目でした。

920年というと、藤原実方が陸奥へ赴任する75年前。
実方は、突然995年に陸奥守に赴任させられたと。
であると、996年の貞観地震・津波を受けている。
その3年後、999年に亡くなっている。御年40才。

「995年 近衛中将藤原実方、陸奥守となり熊野堂を通過し、栗木を渡り、
西多賀を経て国府多賀城に至る。(西多賀郷土史)」
998年12月、実方中将は、笠島道祖神にて落馬し没す。
その子孫紀州熊野別当となる。」


なぜ、実方は多賀城から名取にきたのか・・・。


※藤原実方の絵

「解き明かされる日本最古の歴史津波」より、
「実方が赴任し任期1年後、仙台・名取地方に巨大地震がおこり、
この地方は大規模地震のため海水で冠水した。
この大規模津波は、広域の仙台平野一連の歴史津波史上、地震エネルギー
を全量放出した大地震によってもたらされたもので、波源域は、
仙台、名取の山岳丘陵下に達した。これを『仙台・名取熊野堂津波』という。」

---------------------------------------------------
996年何があったのかネットで調べてみても、名取の大地震・津波の情報がない。
やはり、えみし征伐の時だったので、朝廷では記録を残すことをしなかったのか。
妄想するに、貞観地震の時は、清和天皇でした。
この方が慈悲深い天皇だったとは思う。
その時は国府多賀城は被災していない。ただ、この付近に多くの被害がでていたので、
政治的にも影響があった。その情報が伝わっていたのだと思う。

869年の貞観地震は震災があって注目された地震の歴史でした。
震災の再来といわれた。
この貞観地震が初めて地震にともなう発光現象の記録だったという。
「空を流れる光が夜を昼のように照らし、人々は叫び声を挙げて身を伏せ、
立つことができなかった」

この頃、朝廷では陸奥の情報を記録することができるようになり、
情報伝達が発達した。
そのため、被災地へ役人を派遣し、今のようなボランティア活動や
被災者の税金の免除など、この頃から行われていました。
この頃(9世紀)は各地で地震、火山が相次いで起こりました。
貞観地震の前に、富士山(864年)、鳥海山(871年)そして、
白頭山が噴火している流れに。

しかし、996年の被害状況は不明。
この頃、摂関政治というのができはじめていた。
藤原北家と南家の別れ。
実方は藤原北家。行成と歌でケンカになったという話ですが、
互いの主導権争いみたいなこともあったのでしょうか?
藤原家の派閥みたいな感じで。
藤原鎌足も藤原北家。不比等の次男。
この藤原北家は、飛鳥時代から東山道の整備や陸奥開拓、エミシ征伐に派遣された仕事をしていた。

さて、996年の津波は、多賀城に被害がなかったこともあり、名取平野は朝廷にとっては
人が住めないところとみなしていた為か、あまり考えていなかったのだろう。
実方は、そんな都の態度に、葛藤していたと感じます。
切なさや、差別的な世界を感じたと思うのです。
なぜなら、そこにはかつて、名取を治めていた古墳がたくさんあったからです。

996年の頃は、藤原道長が左大臣になり、一条天皇の時代。
実方は、一条天皇に陸奥へいきなさい、と左遷されたような話になっているが、
ある説では、実方は清少納言とラブラブだったと。
それに嫉妬したかなんだか、一条天皇とも関係をもっていた清少納言だったので、
実方が左遷された説がある。

そういわれてみれば、赴任してからの実方の歌は、ホームシックな歌が多い気がする。
暗い歌っていうか・・・。
都に帰りたいけど帰れない~的な。

そうなると実方の運命はなんだったのだろう・・・と思う。
単純にそんな恋話なだけで陸奥へ赴任したとは思えませんが、
地震や津波を視点に考えると、貞観地震でかなりの打撃を受けていたので、
その復興のために赴任されたとも考えられる。
そんな時に、また大地震と津波に出くわしてしまった。

妄想するに、仙台・名取平野で多くの津波を経験すれば、
環境の劣化、伝染病の蔓延などで多くの犠牲者をみてきたことがあったと思う。

伝染病の蔓延によって建てられた神社が、清水峯神社です。
雷神山古墳の裏手にあるのですが、牛頭天王を祀っています。
貞観地震に続いて、名取熊野堂地震・津波により伝染病が蔓延したので、
播磨の廣峯神社から分霊したと伝わる。

なぜ、播磨の廣峯神社なのかは、滝神に通じるかもしれない。
播磨は兵庫県。あこや姫伝承は、播磨の六甲山にもあります。
「白滝姫」といわれていますが、名取熊野那智神社にククリヒメオオカミの札が
見つかっていることから、ククリヒメのことを祀ったのかもしれない。
兵庫のあこや姫伝承には、井戸、滝、泉、粟花落という言葉があるので、
あこや姫がそのような女神を降ろす巫女、もしくはククリヒメやセオリツヒメの
力にあやかるために祀ったこともあり得ます。

兵庫との関係は、「藤原実方と廣田神社」で書いてますので興味あればこちらを。
http://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/88c8b1320d7a8d317f88832ec0975ad6

都からも度重なる地震や津波で、人が住むところではない。となれば、放置されたでしょう。
そんな場所にこそ、宗教が必要だ!と考えた実方は、
熊野信仰をもたらしたと考えられます。
ここに浄土が置かれたのは、津波の被害への救済、弔いの意味が強い。
その発端が、藤原実方であると。
----------------------------------------------------
確かに、間に藤原実方を置くと、あこや姫と名取老女が繋がるねぇ。
実方は「中将」といわれていた。
あこや姫の姉は大和にいた中将姫。
陸奥では妹をあこや姫にしている謎。

あこや姫伝承の詳細はいろいろ書いているので割愛しますが、
実方は、あこやの松を訪ねにやってきている。
当時は陸奥国に属していた。あこやがいた時はまだ出羽国だった。

あこや姫伝承は、一定水準以上の知識を有した人物により創作されたと考えられる。
それは名取老女も同様。
知識を要した人というのは、都から派遣された貴族によるものでしょう。

特に有名になっているのが松の木の精霊を、あこや姫が琴の楽器で降ろした話。
神おろしに琴を使うのは、巫女がよく行うこと。
コトヒキというのはそれが由来するものですが、
松の木は、龍の象徴であり、蛇信仰=三輪山が関係する。


※千歳山にある阿古耶の碑

ある時、精霊が宿す松の木を伐採し、名取に橋をかけるという話になっている。
橋をかける意味は、あの世との繋がりを示す。
亡くなった霊を弔う意味。
それが「名取左衛門太郎」という名で登場する伝説がある。

この伝承が伝えられたのは、ある熊野信者によるものだと考えます。
このような伝承は、先祖供養のために書かれた鎮魂の意味をもちます。
それが実方に関係する話であり、(おそらく実方の先祖)
その松は、笹谷峠~村田町へ通じていた道を伝えるものでしょう。


※岩蔵寺の村田に通じる道

妄想するに、天に橋をかける意味と、実際に津波被害にあった名取平野の
復興のために多くの木を必要としたとも読み取れる。
それは、実方が出羽の修験や熊野修験と精通していたからだと思います。
また、その街道途中に岩沼がありますがそこを北上すると金蛇水神社があり、
笠島・愛島への道になっています。それに鉄がある。
とっても良い所ですよ~。
この街道はかなり古いものでこの道途中に、実方の墓と笠島道祖神があるのです。
よくこの道を通るのですが、塩薬師観音もあって、国道4号に比べて全然空気が違います。
蝦夷征伐の道ではなく、都から入ってきた道なので、なんか違うんですよね~。

そして山形の笹谷峠と村田に通じる所に岩沼の志賀があり、
名取老女生誕と伝わる岩蔵寺遺跡があるのです。


※不思議な石室


※岩蔵寺

それで、松の木の精霊を名取太郎という話として伝えた背景は何か。
残念ながら詳細は不明ですが、「太郎」とつけるのは、
最初の長という意味があります。
名取平野を開拓した長です。
「名取公龍麻呂(なとりきみたつまろ)」という人が続日本紀にある。
上毛野氏のルーツらしい。吉弥侯部という名前をつける一族なのですが、
難しいのでスルー。
名取朝臣という人がいましたが、その子孫。
ルーツをたどっていくと、どうも刑部に繋がるようです。
------------------------------------------------------
津波の話から遠ざかりますが、この名取太郎という松の精霊は、
後に、西行を陸奥へ導いています。
西行の歌に「笠嶋はいづこさ月のぬかり道」と、実方のお墓参りにきている。

また、「朽ちもせぬ その名ばかりを とどめ置きて 枯野の薄 形見にぞ見る」
その名ばかり=藤原実方。
名前だけをこの地に残し、跡かたもないことが悲しい。
この枯野のすすきの光景を実方の形見として私は見届けたい。
そんな内容の歌です。





西行は、実方の死後200年後に訪れています。
西行も恋愛事情で旅に出たと言われているので、実方と共感するものがあったのでしょうか?
西行の本名は、佐藤義清。
信夫佐藤氏の子孫で、藤原秀衡の郎党でした。
藤原秀衡は熊野那智神社がある高舘山を建てた人です。
信夫佐藤氏は、源義経の従者となっています。
藤原秀衡が特に、義経を保護していた。
なので、西行は先祖参りということで、熊野信仰のあった名取を訪れていたのです。


※藤原実方の墓

また、実方と一緒に同行していた源重之という歌人がいます。
「風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ 砕けてものを 思ふころかな」

清和天皇の孫であった源重之。
岩沼の荒れる海、阿武隈川の広い河川、心砕けているという歌は、
恋話というよりは、政治事情のことを伝えているように私は感じます。
-----------------------------------------------
もっとたくさん伝えたいことがあるのですが、
膨大な情報から抜き出すのは無理ぽー。

長くなりましたが、最後に気になること。
以前から賀茂家と鴨家の妄想をしているのですが、
どうしても最後は、葛城一族の鎮魂になってしまう。

実方の歌の中に賀茂神社の葵祭りの歌があります。
藤原実方が、上賀茂神社に祀られているのです。
正式に、賀茂別雷神社。その斎院は、上賀茂神社、下鴨神社に仕え、
歴代の皇女が国家安泰のために鎮魂をしていた宮といわれます。

天皇家は、2つの分断した神々の祖の祈りを捧げています。
その役目は皇女です。
その上賀茂神社の摂社の橋本社に、実方を祀っているのは、
賀茂家ということになるのでしょうか?

賀茂家として祀られているから、ヤタガラスとなり熊野神を導いたとなる。
しかも衣通姫も一緒に祀られているのだから、白河の関ですね。
そうえいば、昔、雷神山古墳にいった時、「なこそ」という言葉が強くあらわれ、
勿来について妄想ブログを書いてました。

関東から陸奥への道を開拓した人が藤原北家であり、藤原実方がいたわけですね。
妄想するに、早くに名取を治めていた豪族が、葛城氏や多氏、上毛野の一族だったと思う。
上毛野氏は、崇神天皇を祖とする。
崇神天皇は言霊を封印した人です。
それから言霊を知る「霊知り」は隠れてしまう。

葛城氏は鴨家になるのですが、これが名取平野を治めた豪族とみる。
その一族の歴史が、大津波によって消えてしまったというならば、納得できます。
その歴史を掘り起すのに、藤原実方というキーパーソンがいて、
2つの異なる豪族を取り持つ巫であった。

そんな妄想中に、高鴨神社の宮司さんのインタビューを見つけました。
お名前が鈴鹿さんなんですね。
http://meguru.nara-kankou.or.jp/inori/special-interview/kowa20/

高鴨神社の宮司さんの話より「始まりの地、葛城と鴨族」
「鴨族が一族の守護神として主祭神、阿遅志貴高日子根命(あぢしきたかひこねのみこと)を
祀ったのが当社です。
鴨族はある種の霊的集団であったと言われますが、
その背景には葛城の山で培った高い技術力がありました。
平地ではなく山を支配した一族ですから天体観測や薬学の知識が深く、
製鉄技術、農耕技術、交通手段である馬術にも長けていました。
天孫降臨の神、ニニギノミコトに馬術を教えたのは鴨之大御神とも伝わります。
修験道の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ)も鴨族ですし、
陀羅尼助(だらにすけ)の薬はその役行者が生んだもの。
天体観測は陰陽道にも通じ、安倍晴明の師匠で陰陽道を極めた賀茂忠行も鴨族でした。
古代日本の発展に、鴨族はいろいろな形で貢献していたようです。」


鴨族は争いを好まない一族だったそうです。
優れた製鉄技術から農耕器具を作って人々に与えることはしましたが、
武器を作られるのを恐れて製造方法は明かしなかったと。

なぜ、東北地方太平洋側の地震や津波において、
朝廷が、あまり力を注いでこなかったのか。
破壊を見過ごされた理由。
潜在的に、過去の歴史について、先祖が隠してしまう風潮があったと思う。
「あえてその事について触れないようにしてきた」歴史がある。

宮司さんの話で思うこと。。。
「~省略:神社だけでなく、葛城の地は日本の核であったところ。
この地で発生した鴨族は、人を助けることによって全国各地で受け入れられました。
勢力を強めようとしたのではなく、日本古来の「共生」の考えですね。
農耕や生活の方法など、皆さんが幸せになる技術だけを伝えて栄えたのです。」


もう一度、津波を免れた神々を考えてみてほしい。
その神々は、縄文に通じている。

葛城王朝が惨酷な人たちだったと思えない。
いや、悪い人など最初からいなかった。
「共生」を良しとしない朝廷。
奴隷的に人間は生産するために仕組まれた社会が今はある。
平和な社会を崩し、津波被害によって消された古代史を、
震災を経験した東北だからこそ、再び、その歴史を見直す必要があると言っている。
その真実は、無視してはならないと。

大地震、津波を止めることはできませんが、被害を最小限におさえることができます。
その方法は・・・過去の歴史に学ぶしかありませんね。
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大津波と藤原実方 その1

2017-11-17 | 名取熊野老女
また不思議なシンクロになりました。
先日、名取老女の歴史クラブの皆と高舘山を散策してきました。



名取熊野古道逍遥会の小野さんにガイドして頂いたのですが、
けっこう、板碑がありました。
名取は石巻の次に板碑が多いとの事。
その数は南では200あまりになるというが、
石巻と岩沼~名取に板碑が多い理由はなんだろう?

また、歩いている時に気になった岩盤や崖は、海にあると感じた。
それで、なぜこの名取に熊野三社が勧請されたのか。
いろいろな説があるなか、たくさんのシンクロが起こった。
それが「大津波と大地震」だった…。



板碑は関東に多いもので、秩父の長瀞が有名です。
武士への弔いだけではない何かがあると感じる板碑…。







ホツマツタエでは石巻に日高見国のタカミムズビがいて、
岩沼にも日高見国があった。
その2つに共通するのが、津波を引き起こす要因となる海溝にあると。
縄文の聖地であった石巻の海溝と、岩沼の東上海上、海溝域の2つの
震源地が、日本誕生の発祥に影響を及ぼしていたと・・・
ホツマツタエでは仙台が高天原になっているのは、
その海溝が関係するのではないか、という興味深い説。

この話は、「解き明かされる日本最古の歴史津波」
飯沼勇義著からのもの。
この本は目からウロコでした。


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高舘山散策から帰ってきて、「名取熊野老女物語」のブログに書こうと思って
調べていたら、飯沼さんの本がヒットした。
名取老女のこともちょっと書かれているようで~。

実は、今年の2月に千貫神社のアウターライズ地震のことを書いていて、
飯沼さんの話をネットで知り、書いていました。
でも本のことは知らなかった。
飯沼さんは震災の18年前に、巨大津波がやってくることを警告していたのですが、
その警告は見捨てられた。

それで早速、購入したのですが、その直後、ニュースステーションで、津波の話が。
東海沖のつるが湾に4箇所の地滑りがあったと。
その地滑りが、大津波があった証であるといった話。


ニュースステーションより



静岡では図にあるところまで津波がやってきたのだが、
記録では、実際より手前の低い津波として記録されていた。



なぜ、そのような記録になったか不明だが、過去、東北地方の太平洋側は、
何度も巨大津波を受けている。
それが高舘山に熊野信仰をもたらしたのではないか?ということ。
板碑は、そのために多く置かれたとも考えられる。


高舘山城の入口


高舘山の岸壁

津波の歴史について、著書から参考に。

仙台・名取平野では、紀元前160~60年、西暦996年の1200年間
計7回の大規模津波があった。
1~7回は一定の規則性をもつが、7回目の津波と地震は、996年仙台・名取熊野堂津波であった。
この7回目の地震が過去の地震の蓄積により、もっと強いエネルギーの放出があったとみられる。
これから1200年の間、終末期に入る。

ということで、伊達家が仙台城を築いた以前の歴史がイマイチ見えないのは、
大津波の被害を何度も受けていたため、名取の歴史が埋れていただけなんですね。
仙台市太白区に多賀神社がありますが、仙台市内で最も古い神社。
縄文遺跡が多かったので、大野田に郡を置いたが、津波で破壊された。
そのため、急きょ、武隈館に移したが実際の業務を行うための機能がないので、
高台の多賀城へ国府を移した。

一度、海になった平野は海水がひいても強アルカリ土壌になる。
それが50~60年かけないと弱アルカリ土壌には戻らないそうだ。
仙台・名取平野は、海の生態系へと変わり、湿地帯から陸の生態系に戻るのを
何度も繰り返していた。

それが要因で「沼鉄鉱」の生成地になったという。
数百年~数千年かけて酸素と結合した鉄と、
酸素と結合していないフルボ酸と結びついた鉄。

フルボ酸鉄とは、海水には微量の鉄イオンが含まれており、
森が地上に落ちた葉や枝が微生物によって分解される。
その時にフルボ酸ができる。
森でフルボ酸と結合した鉄イオンは、川へ下って海へ到達。
その海に流れたフルボ酸鉄が津波で陸地へ押し流され蓄積された。
森と海の結合した鉄が、名取平野の産鉄族を生みだしたといえるのだ。
これはこれでロマンがある。
金蛇水神社付近で鉄がとれた話は、津波によって生成されたことを伝えているのです。


※図:情報アラカルト(森から海への贈り物フルボ酸鉄)より
http://www.foresternet.jp/app/srch2/get_file/666
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さて、津波年表を。
1、BC160~60年 東北太平洋沿岸津波
2、95年~110年 太平洋沿岸津波
3、300~330年 名取沿岸津波
4、500年前後 名取沿岸津波
5、660~690年仙台沿岸津波(724年多賀城創建)
6、869年 貞観津波
7、996年 仙台・名取熊野堂津波
以降は、1257年、1394年、1611年、1793年、2011年3・11となる。

震災の大津波は、あり得ない!と思っていたのですが、
あり得るのでした。それを何度も繰り返している場所だったんですね。
こんなことも何も知らずにいたから、震災の時に多くの犠牲者を出してしまった。
これは反省すべき点ですよね。教育に問題があるのだから。
私は、まだこの後も大地震、津波は起こると思います。

よって、貞観地震・津波から、末法思想が広がり、熊野信仰が名取に広まった。
871年(貞観津波の後)、奥州三十三観音の1番:紹楽寺に十一面観音が閖上に「ゆりあがった」
ので、お祀りしているのですが、これも津波により流されてきた観音様であり、
長町の蛸薬師堂でも同じ伝承が伝わっています。




※十一面観音像は通常非公開。

ホツマツタエでは、初代~14代日高見国があり、タカミムスビの聖地でした。
石巻桃生町に安倍館がありますが、北上川周辺に縄文集落がありました。
日本書紀に110年、日高見国をつくるとありますが、それ以前から日高見国があった。
ホツマツタエでは、「沖津彦火水土の祓い」というのがあり、
火水土(ひみつ)で、噴火(火災)、津波、地震のこと。
この祓えをしていた。
また、津波を「龍濤(たつなみ)」という。

震災で話題になった論文があるのですが、
スサノオ系、八幡系、熊野系の神社のほとんどが無事であったこと。
それに対し、天照系と稲荷系は、ほとんど津波の被害により破壊されていたという。

これは、縄文時代から大津波を何度も受けていた為、
高台での生活へ移住を余儀なくされていたわけです。
その時代から先住民と暮らしていた渡来人は、縄文人の生活を維持し続けていた為、
そこに自分たちの祖神を祀ったことで津波から免れただけのことである。

それに対し天照系や稲荷系は、渡来してきた時に、海に近い平野を選んでいたわけだ。
弥生人は山より湿地帯を選んで住んでいた。
湿地帯にはえる葦を稲作ができるように開墾していたのです。
そこで稲作に従事していた為、津波の被害にあったわけです。

これは、スサノオ、八幡神、熊野は狩猟の縄文系で、
天照神、稲荷神は、稲作の弥生系という風にはっきり分かられるのでは?



海側に多く祀る弁天様も津波被害から守るためである。
航海する人たちの祈りだけではなく、津波から受ける陸への衝撃をカバーするためもあった。
そのため、熊野神社は太平洋側に多く祀られています。

ということで、大津波の歴史に照らしあわせれば、
名取の歴史がだんだん見えてきます。
板碑が多いのも、大津波の震災で被害にあった人たちの弔いの為でもあったのです。

さて、次は、もう少し突っ込んで、藤原実方について妄想したい。
この方は、震災の復興に力を注いでいた巫女だったのかもしれない。
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岩角山(いわつのやま)の伝説

2017-11-14 | 洞窟・巨石探訪
帰りは、茨城県の竪割山から郡山へ向かう。
せっかくなので巨石をまた見たいと思ってしまう。
やっぱり郡山は巨石の街。

「また、石~!!」という旦那の遠吠え。
もう遠吠えだな。内なる叫び・・・。
石の何がいいのかさっぱりわからない人にとっては苦痛でしょう・・・。

可哀そうなので、お寺にいくことにし(旦那はお寺好き)、
巨石もセットになっている所へいってみよーとなった。
さすが郡山。
「岩角寺」というのがある。





下道をトコトコ約2時間。
ようやく到着した時は、3時半くらいで西日が強くなってくる頃。
まるで石のアミューズメントパーク。




なにこれ~っ。


楽しっ。



お寺の由来------------------------------------------------

福島県本宮市 岩角山 http://iwatsunosan.com/

岩角山(いわつのさん)は天台宗総本山比叡山延暦寺の直末寺で、
正式には”和田山常光院岩角寺(わでんさんじょうこういんがんかくじ)”と言います。
しかし古くから「岩角山」という俗称で親しまれ、その名で知られて来ました。

開山は人皇55代 文徳天皇 の御代、仁寿元年(西暦851年)。
天台宗第3祖慈覚大師が開基された霊場です。
山中に点在する露出した岩石には、それぞれに即した名が付けられ、
その岩肌には江戸時代に西国より移し線刻された西国霊場33ヵ所の観世音や
菩薩、天王、天神などの808躯が刻まれています。

また、山頂からの眺望は素晴らしく、南に那須連峰や安達太良山を一望に、
北は吾妻の山脈が見渡せる、真に俗塵を離れた仙境です。
そして岩角山の清浄な空気は訪れる方の心を清々しいものとしてくれます。



岩角寺は昭和47年天台宗総本山比叡山延暦寺より「一隅を照らす運動」の
修練道場として第一番目の指定を受けました。
ここでは会社員・学生・一般信徒等が精神修養のため座禅(止観)を組んだり、
写経を行い厳しく自己を磨いております。
また山内は身体の鍛錬道場としても利用されております。

※昭和30年 毘沙門天王とその脇侍-善尼師童子と吉祥天女が福島県重要文化財に、
また全山が名勝天然記念物に指定されています。





いいっ!

とにかくいろんな岩があり、全てを見尽くすことはできませんでしたが、
一番、すごいパワーを感じたのが弁天岩でした。
すげー、弁天ワールド。





さて、私はどうしても古代史に入ってしまいます。
深い世界に入ってしまいます。
やっぱり、葛城王朝なのです。
---------------------------------------------------
これは縄文回帰みたいな、かっこよくいえば。
埋れた縄文を掘り起こしたい気分にかりたてられ、
伊達家も同じようなことがあり、特に伊達政宗がそれをよく知っていて、
土蜘蛛=縄文人の末裔というところにいきつくのではないか?



伊達家の史料だかに、
伊達政宗が岩角から本宮に馬を移したといった
この岩角山を軍事拠点としていた話がある。

福島県の人取橋合戦の戦いで、岩角山を拠点としていた話があるが、
人取橋とは、主人の先祖が関わっていた戦いというのを以前から聞いていて、
この戦いで出世したという話だったなあ。
結局、先祖の探訪をしていることになる・・・。
きてよかったね~と言っても、旦那はそっちのけ。


金色に変色したという水(下の岩から)



なぜ、政宗と岩角山が繋がっているのかは、
前から妄想してましたけど、瀧澤神社の瀬織津姫ともからんでくるのですね。
やっぱり、伊達ちゃんは、セオリツヒメを意識していたんですね。
縄文の女神。というとかっこいいけど、そうなんだろうねえ・・・。





本宮という地名を調べたら繋がってました。
震災の時、本宮の被害は0名。
死者0名、行方不明者0名、重軽者0名、浸水面積0平方km、
半壊・全壊した家はあったものの、ほとんどけが人がなかったという。
岩盤が強いってことですね・・・さすが。
(放射能については不明)

その本宮とは、どんな世界なのでしょうか?
巨石の写真と共に・・・。
------------------------------------------------------
本宮の地名は、安達太良山の甑明神(飯豊和気神)の他、
大名倉山、宇奈明神をこの地に移して、安達郡の総鎮守とし地名を本宮とした。



岩にいろんな菩薩様が掘られてます。

ウナの神といのは、
けっこう、以前から妄想していた神です。
これが兎です。
ええ、ええ、出雲の大国主に繋がります。





甑とは、古代の蒸し器といわれますが、産鉄用語でもあり、
安達太良が噴煙をあげていたことに由来します。
安達太良山は、オオナムチと少名彦神を祀っている温泉神のルーツがあります。
鳴子と同じ。

宇奈の由来は、郡山三穂田に「宇奈己呂和気神社」があります。
ウナコロワケという。
「欽明天皇11年(550年?)安積郡の高旗山山頂に瀬織津比売命が顕現したので
祭祀されたのが始まりと伝わる」

ホンダワケを配神とし、ムカツヒメの話がありました。
巨石などの磐鞍(イワクラ)に、ムカツヒメがあります。
なので、岩角山の弁天岩がすごいのは、ムカツヒメ?のような力を感じるからです。

でも、ムカツヒメがなんだかわからず。
個人的に兵庫の六甲山にあまりよい感じを受けない。
武甲山がそうだから。
ムカツから由来している武甲山。
破壊されている。
それに兵庫も震災を受けている。

が、かなり前に友達と六甲山に行ってたんだよな。
タクシーのおっちゃんが連れていってくれた。
震災の後でした。





中まで入ることができますが、ひゃーって感じ。
なんか説明できない空気。



会津にも宇奈多理神社がありました。
会津に行った時にみつけた神社でしたが、
奈良県橿原市に鴨八重事代主神を祀る河俣神社があります。
『出雲国造神賀詞』に皇室を守護する神として存在していますが、
「宇奈提(うなせ)」は「雲梯(うなて)」のことであるとしている。



ウナは、鴨家の方。
ルナという月がありますが。
元は、草冠の菟(トツ)と書く、「菟名足(うなたり)」と書いた。
これが兎のルーツです。
角をはやした兎という意味です。
白龍のような姿?





兎の月は、鴨家。
ヤタガラスの日は、賀茂家。
日月信仰の鴨家なんです。
そこにカカセオの星神があった。
三位一体。


唐草図鑑より
http://www.karakusamon.com/2013k/jyunisyou.html

実際、北上した鴨家と賀茂家を合祀する神社が茨城県にある。
常盤国「鴨大神御子神主玉神社(かものおおかみのみこかみぬしたまじんじゃ)
といい、住所が桜井市。奈良にそっていることがわかる。
京都の賀茂と大和の葛城鴨の両系合祀されているという。





月と太陽を合体するとどうなるの?
そんなことを考えていた伊達政宗なのだなあ、と思いました。
太田田根子命の鴨家(国神)と、別雷神の賀茂家(天孫神)を祀っているわけです。



賀茂家は稲の雷神を崇めていたそうですが、
雷神山古墳は、その系統だと思っています。
それに対し、鴨家は、諏訪に逃れたタケミナカタを崇拝していた話がある。

出雲と葛城氏の系統には繋がりがあり、鴨氏によって祀られていたのが、
宇奈多理神社で、高鴨社と葛城氏の中鴨社があります。
なので、宇奈は鴨家と関係する氏神となる。
後に、賀茂家に集合され、月の兎と太陽の烏となる。
カモの語源は、「浮かぶ鳥」の意味がある。
鳥は、島でもあるから、「浮島」というのは、鴨家(賀茂家)に関係するのかもしれない。
そして、それが郡山となれば、アジスキタカヒコネの土蜘蛛な女系社会の
ルーツがあったと思うところ。





アジスキタカヒコネは、黒で描写されます。
それを石に例えるならば、黒曜石です。
サヌカイトとか、北方の民だと思います。(妄想)






こちらが奥の院。








弁天池。

---------------------------------------------------------
蛇舐石の由来

1219年の頃、この地に宗基という郷司がおり、
妻女を亡くしてからは日夜酒食にふけり、
里人に過重なる年貢を課し、かつ里の婦女子を我がものとした乱業は
目にあまるものがあった。
宗基のために衣食を事欠き、身を滅し世を去っていった里人や里娘が
日と共に増していった。
この人達の怨霊が蛇となって郷司宗基を亡ぼさんと
館の岩に群り石を舐め、岩を掘した(くずした)と伝えられます。

(看板より)



要は、花崗岩が露出している岩なのです。
これも機織りの養蚕と関係しています。



岩角山の玉絹物語

今から700年ほど昔、正覚という若い僧が岩角山(いわづのさん)に草庵を結び、
里人に信仰を説き養蚕と機織りを教えて貧しい人々に生きる喜びを伝え救済に努めておりました。
当時の地頭、和田宗基は妻に先立たれた後、酒池肉林にふけり重税を課しましたので、
貧困の中に亡くなった人たちの怨霊は白蛇となり館の岩に群がって崩してしまいました。



これが蛇舐石(へびなめいし)です。
宗基の娘、玉絹は、密かに貧しい里人に金品を施し、機織りを手伝い父の罪を償っておりました。
その玉絹に正覚は心ひかれ、ふたりに愛が芽生えました。
また、玉絹の教えた草木染めの織物はすばらしく暮らしは次第に楽になっていきました。
しかし、宗基が更に重税を課したので、正覚は税の軽減を訴えましたが、
悪僧として死刑を宣告されてしまいました。

その夜、玉絹は正覚を救うために牢を開きましたが、正覚は、
「私ひとりの死で里人を救えるなら。」と断り、
「恋しくば 南無阿弥陀仏と 唱うべし 我も六字の中にこそあれ」と書き残し
刑場の露と消えました。
玉絹もまた池に身を沈めてしまいました。 
さすがの宗基も目が覚めたと伝えられています。

※「あだち野のむかし物語」より

「滝おやじの巨石奇石の地学」というのが面白くて詳しいです。
http://chibataki.moo.jp/kyosekihukusima/motomiyajyaneburiisi/jyaneburiisi.html
---------------------------------------------------
ということで、最後は宇奈明神の地で巨石三昧。
阿武隈山系の魅力を堪能したプチ旅でしたが、
「ふるさと」という歌がありますね。

私はこの歌が、魂にとっても響きます。
なぜか、ふるさとの歌が聞きたくなりました。
最近、おかしんですけどね、私は。(いつもか)
先祖が懐かしんでいるようです。

一族を絶やすために先祖は私たちを産んでいるわけでは当然ないです。
今の団塊世代の人に、特に多いと思います。
全然、見てないですね。
本能はどこいった?!
故郷を全く見てないし、見えてない。
だから、子供たちも故郷を知らない。
安倍さんの思想なんて、浅はかなものです。

最後におまけの写真-----------------------------------------

茨城へ行く時に、常磐道を通りました。
放射能の数値を高いとみるか、低いとみるか、感じ方はそれぞれだと思います。
また、ここになぜ、高速道をつくる!?ということも賛否両論あります。
が、これが今の日本の姿です。



常磐道の帰宅困難区域を通る時は、「降りてはいけない。」「窓をあけてはいけない。」
「外気をいれない」といった緊張感ただよう区域です。



もちろん、トイレなんぞありません。
なので南相馬のきれいな道の駅で休憩しないと緊張するーっ。
道の駅に放射能の数値が日々、更新されている。(まじかっ)





放射能の数値が富岡に近づくとあがっていくという、
ある種の精神的拷問を受けます。
浪江~富岡、3.3μSv/h
こんな道は、世界でここだけでしょう。
日本の道百選にはしないの?

ま、通過するだけならば、特に問題はありませんが、
業者のトラックがバンバン行きかうのを見ると、悶々とします。
でも、一生懸命、除染作業をしています。
オリンピックでウハウハしている奴は、この風景を知らない。
人が住んでいる家と住んでいない家が、一目でわかります。
草もボーボーです。
草刈りしたい気持になりますが、残念ながら、無理なのでしょう。

放射能測定値が設置されていますが、
どこか、ここを通る時は、皆、気持ち足早に通りすぎる・・・。
でも意外にも、けっこう利用している人が(業者じゃなく)多いですな。

これでも日本は、「神の国」といいますね。
本当にそうですか?
何か勘違いしてませんか?
自分たちだけで、天上しようと思ってませんか?
飛ぶ鳥跡を濁さず。
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「ちはやぶる かみよもきかず」な紅葉

2017-11-11 | 日記・エッセイ・コラム
千早ぶる 神代もきかず 龍田川
 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平朝臣)




茨城からの帰路は郡山を経由して下道で帰ってきました。
途中、きれいな渓谷をみつけ立ち寄ったのですが、
川の名前を忘れてしまった・・・。

百人一首の「ちはやぶる~」の歌とあう川。



この歌の意味は、「百人一首講座」から参考。

「神々が住み、不思議なことが当たり前のように起こっていた、
 いにしえの神代でさえも、こんな不思議で美しいことは起きなか
 ったに違いない。
  奈良の竜田川の流れが、舞い落ちた紅葉を乗せて、鮮やかな唐
 紅の絞り染めになっているなんて。」





千早の「ちはやぶる」の意味は、
「いち=激い勢いで」「はや=敏捷に」「ぶる=ふるまう」という言葉を縮めたもの
と解釈されるそうです。
神にかかる言葉が、「ちはやぶる」なんですね。

これも恋愛の歌だそうですが、百人一首は、ほとんどがラブレターみたいな
恋歌なんですよね・・・。



自然に合わせてみると、
迅速に勢いよく流れる川の力によって自然の美が保たれている。
これを神の姿とみた古代の人々の感性に、私も共感していきたい。



もう山は落ち葉になって紅葉が終わりつつあります。
高山は雪を被りそろそろ冬の季節ですね~。
(タイヤ交換まだしてない・・・)
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