秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

だんぶり長者と安保氏(1)

2017-08-31 | 東北地方の伝説(秋田県)
昔、出羽国の独鈷(とっこ)村(現在の秋田県大館市比内町独鈷)に気立ての良い娘がいた。
ある夜、娘の夢に老人が現れ「川上に行けば夫となる男に出合うだろう」と告げる。
お告げ通り、娘は川上の小豆沢(現在の鹿角市八幡平小豆沢)で一人の男に出合い、
夫婦となって貧しいながら仲睦まじく暮らした。

ある年の正月、また老人が夢に現れ「もっと川上に住めば徳のある人になるだろう」と告げる。
夫婦は川をさかのぼり現在の米代川の源流に近い田山村(現在の岩手県八幡平市田山)に
移り住み、よく働いた。

ある日、夫が野良仕事に疲れうとうとしていると、一匹のだんぶり(とんぼ)が飛んできて、
夫の口に尻尾で2・3度触れた。目を覚ました夫は、妻に「不思議なうまい酒を飲んだ」と話し、
二人でだんぶりの後を追った。そして、先の岩陰に酒が湧く泉を発見する。
酒は尽きることがなく、飲めばどんな病気も癒された。
夫婦はこの泉で金持ちとなり、多くの人が夫婦の家に集まってきた。
人々が朝夕に研ぐ米の汁で川が白くなり、いつしか川は「米代川」と呼ばれるようになった。
夫婦には秀子という一人娘がいた。優しく美しい乙女に成長し、
やがて継体天皇に仕えて、吉祥姫と呼ばれた。
夫婦も天皇から「長者」の称号を与えられ、「だんぶり長者」として人々に慕われた。

年月が過ぎ、夫婦がこの世を去ると、酒泉はただの泉になった。
両親の死を悲しんだ吉祥姫は都から戻り小豆沢の地に大日霊貴神社を建てて供養した。
この姫も世を去ると、村人達は姫を大日霊貴神社(オオヒルメ)の近くに埋葬し、
銀杏の木を植えた。
これが、大日霊貴神社の境内にあった大銀杏と言われている。



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「だんぶり」とは、「とんぼ」の事。
トンボが夫婦に美味しいお酒を教えてくれた話です。



大日堂の舞楽は、国指定重要無形文化財(昭和51年)
ユネスコ無形文化財(2009年)に指定されています。
毎年1月2日に舞楽が行われます。

3年前だったと思うのですが、この舞楽のポスターに一目ぼれした。
なぜか非常に魅かれ、それが「鹿角」という場所であることを知った。
まだその時は、鹿角がどこにあるのかわからないくらい無知だったのに、
今では、鹿角が私の生まれた故郷である秩父郡横瀬町と繋がりがあった事を知り、
実際、こうやって大日堂に参拝することも実現できた。



このような導きに、安保氏の存在を感じています。
それは、私に「八郎太郎三湖伝説」を教えてくれたNさんが、
鹿角出身であり、先祖が安保氏であることも。
Nさんとの出会いが、縄文土偶であり青森の柴谷さんのおかげでもあった。
また、その私たちの間に入って「括り(ククリ)」をしてくれたのが、
Rさんであることも。
みんなが先祖と一緒に、「ムスビ」をしてくれている。
みんなの霊統の働きがあって、今に至るのです。
そのためには、これからもずっと物語を伝えていきたい。
たぶん、先祖もそう願っているのだと思う。(どんだけポジティブ…)
そして今回の安保氏が武蔵と深い関わりがあることも・・・。

舞楽の起源は、養老年中の大日堂再興のため、都より遣わされた行基と共に
下向けした楽人により舞われたのが、大日堂舞楽の起源という。
この時、楽人より里人に伝承された舞楽は、大里、小豆沢、長嶺、谷内の4か村(集落)
で分担し、それぞれに地付神役として祭田が与えられ、別当や社人が各村の舞を組織している。


行基である天台宗との関係を考えると、ここも巫女が関係しています。
巫女と修験が伝えた舞ということで。
五ノ宮嶽の伝承にいろいろとあるのですが、長くなるので割愛しますが、
目を病んだ話があるので、薬師様は目の神様といわれるように、
この山も薬師信仰があります。
片目の伝承です。
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さて、その4か所で分担する舞楽というのは珍しいと思いますが、
それぞれに意味がありました。



北から大里地区は、鳥舞、駒舞がある。
鳥舞は、だんぶり長者が飼育していた雄鳥、雌鳥、雛鳥の三羽。
大日霊貴神の御神体を刻む様を舞にしたもの。これを「バチドウ舞」という。




小豆沢地区は、田楽舞。
だんぶり夫婦が耕作の労を慰めるために始められた舞。
日本各地に伝わる田楽舞の中で最も古い。
また、五ノ宮嶽の隣にそびえる八森岳に龍が出て、それを鎮めるために
神のお告げにより獅子頭を奉納したのが起源といわれる。


おそらく、五ノ宮嶽を奥宮として大日霊貴神社が建てられたと思います。
長嶺地区は、吉祥姫の遺体を葬る様を舞にしたもので、「墓固めの舞」とも言われる。

谷内地区は、五大尊舞といわれ、金剛界大日如来と胎蔵界大日如来が、
だんぶり長者に化身し、それに四大明王(普賢、文殊、八幡、不動)が仕えた
様を舞ったもの。だんぶり長者の舞とよばれる。






説明にある「九字を切る」は、九の漢字由来は虫で、また虫は龍のことです。

すごいですね~。
説明だけでも、ワクワクしてきます。
かなり、陰陽五行説を用いた世界感があると思います。
舞については、実際に見て肌で感じてみないとわかりませんが。
一度でいいから見てみたい♪




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そんな舞が行われている御堂に入らせて頂く。
すごい!圧倒されるかっこよさ。
天井が高くて立派。
この空気は、鳥海山大物忌神社に行った時とよく似ていました。



天井に牛の絵馬があります。(暗くてすみません)



奥にオオヒルメムチを祀っているようですが、しばらくぼけ~と、真ん中で立ってました。
なんだか、不思議な感覚です。

すると、突然、ガラガラと大きな鈴の音と、柏手の音が聞こえてびっくり!
外をみると、ひとり参拝客が祈願してました。
気がつくと私は、奥に祀られているお社の前に背を向けて立っていた。
私が邪魔になると思い、慌ててすぐ外に出てきましたけど。
不思議な時間でした。

ところで、大里地区の「大日霊貴神の御神体を刻む様を舞にしたもの」が気になった。
この舞を伝えたのが、安保氏ではないか?という妄想。

大里地区は、大里氏が鹿角大里村の在名としたそうですが、
武蔵七党である丹党安保氏の系譜だと伝わります。
ここから、武蔵に繋がる。
ちょっと安保氏の話を。

私の故郷、横瀬の地名がでてくるのは南北朝時代。
南北朝時代に「安保文書」という古文書があり、そこに「秩父郡横瀬郷」とある。
これ以前は丹党安保氏の所領であったとされる。



棚田の裏山に横瀬館というのがありました。
横瀬六郎左衛門なる者の屋敷跡といい、看板にあるように町屋や古いお寺もあったようです。
ここに横脛悪三郎という人がいたそうです。
悪な脛(スネ)というのは・・・


詳細は、こちらで妄想してますので参考に。
http://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/7aa8e506d7c06ed40a81cbc41e597e15

鎌倉時代に作られた棚田が今も残っています。
長瀞にある白鳥という地名は、丹経房の弟である行房がそこに住み、
白鳥七郎と名付けました。それが後に白鳥氏となるのです。

なので、武蔵の安保氏は、丹生(水銀)の丹党一族ですが、
丹党の中でも独立して、一族で築いたと言われます。

なぜ、安保氏が鹿角に向かったのかは、まだわかりません。
ですが、縄文に関係しているようです。
有名な皆野町の金鑚神社(カナサナ神社)があります。

砂鉄を意味する「金砂(かなすな)」が語源であると考えられている。
神流川周辺では刀などの原料となる良好な砂鉄が得られたと考えられており、
御嶽山からは鉄が産出したという伝承もある。


不思議なことに、つい最近、知人が教えてくれたこと。
その方の友人の先祖が安保氏で、金鑚神社の多宝塔は、安保氏が建てたと。

※天文3年に阿保全隆から寄進された旨が記されている。
建立時期が明確であり、当地付近を拠点とした阿保氏(安保氏)との関連を示す遺構になる。(Wikipedia)




御嶽(御岳)の鏡岩(国の特別天然記念物)

金鑚は、神流川が山に入る入口にあたる。(川は海から山へ向かって流れる)
上流は、御巣鷹山。
そうです。あの御巣鷹山です。
日本航空123便墜落事故があったあの山です。

今でもよく覚えています。
小学生の時、庭で遊んでいた時に、上空を飛んでいたあの飛行機が、
おばあちゃんの裏山に落ちた!と。興奮しながら母が叫んだ。
祖母(母方)から、夕方、「秩父の山に飛行機が落ちた!」と電話があったのです。
秩父の吉田町からも消防や看護師が救助にあたったそうです。
しかし、あまりにもその状況が悲惨だったので、しばらくご飯が食べられなかったと聞いた。

縄文の森はことごとく潰される。

御巣鷹山は、群馬県多野郡上野村にある。(秩父との県境にあります)
「上野」という地名は、縄文遺跡があった場所につけます。
秩父神社の近くに上野という地名がありますが、縄文住居の跡地でした。

群馬は上毛野国、栃木は下毛野国といった。
当時は、上(神)が群馬でした。
なぜなら、女性酋長(おそらくナグサトベの一族)がいたからでしょう。
大日堂の舞に、遺体の葬り方を神事にするのが、
ハイヌベレからきていると思うからです。

上毛野国は、土蜘蛛がいたところですが、縄文人でもありました。
その御巣鷹付近からブドウ峠を越え、八ヶ岳~諏訪~日本海へと進む縄文ルート。

秩父は和銅という自然銅がとれたので、安保氏は武蔵丹党の一族と共に、
熟蝦夷になったのでしょう。
熟蝦夷とは、大和朝廷側についたエミシのことを言います。

武蔵から陸奥開拓へ行ったのは、蝦夷に対し、税金(年貢)を納めてもらうためでしょう。
直接蝦夷と交渉はしない朝廷だったので、土着になった豪族が、
田畑を開拓し、稲作を奨励し年貢を納めるよう蝦夷に指導した。
マタギの狩猟から農家になるためです。
それを最も強くすすめたのが、坂上田村麻呂です。

多くのマタギが農業へ移行したのだと思います。
それに反対したのが、安部氏や安東氏だった。
それから東北地方は大飢饉にみまわれる。
安東氏や安部氏が政権を握っていたら、歴史が変わっていたはず。
狩猟の生活に適した森があったのに、
農業を奨励したために、森が消え、水が失われ、
マタギは北へ逃れていきました。
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さて、武蔵の安保氏については、また後にして。
舞の中でもうひとつ、気になったことがありました。
なぜ、ヒルコ=オオヒルメムチなのか。

つづく。
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大湯ストーンサークルと龍の復活(2)

2017-08-29 | 東北地方の伝説(秋田県)
水の災害が多いですが、このような大きな地球上の祓えというのは、
過去にもあったんですね。
そこがノアの大洪水に繋がってしまうところなんですが。。。
なぜか、こんな話に展開してしまう。
私もよくわかりません。

男鹿半島でみかけたマールなどは、「かんらん岩」でした。
瀬織津姫を祀る早池峰山も同じように、蛇紋岩の誕生は変わっていて、
地球の地殻の下部や、さらに下にマントル上部の
「かんらん岩」という地殻変動で上昇し、それが水と反応してできるそうだ。



その石を加工すると美しい緑色の石になり、8月の誕生石になる。
その意味が「夫婦の和合」だった。
まさに、八郎太郎と辰子姫のこと。


※早池峰山


※早池峰山

早池峰南麓の大理石も、もともとの石灰岩は日本周辺でつくられた岩石ではなく、
はるか南の海からやってきたものだった。
それがゴンドワナ大陸。



ゴンドワナ大陸は分裂し、移動が始まった。
南部北上へも北へ移動し、アジア大陸にぶつかった。
日本列島より古い北上山地。
南北で合体したのは、約1億年前。
その後、2000万年~1500万年前くらいに北上は大陸から分離し、東へ移動。
それを「北上島」とよび、北上島はやがて生成した日本列島に吸収され、
隆起することで北上山地となった。
その北上山地を爆破してリニアコライダーの長いトンネルを作ろうとしているが。
いずれ周辺では、地下水が枯渇すると思います。

ゴンドワナ大陸が出てきましたが、世界最古の航海をしてきた人たちと実証されている。
旧石器時代に、日本に上陸しているわけです。3万年以上も前から・・・
しかも目的は黒曜石だった。
黒曜石といえば、アジスキタカヒコネ。
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さて、そんな早池峰山には、磁場が逆だった時代の岩がある。
それで、なぜか、この事について八郎太郎が何かを言いたいのかどうか…。
気になる隕石衝突。


※大湯ストーンサークル館。

私はこの図をみて、なるほど~と思ったのですが、縄文遺跡(環状列石)があった場所です。
主に、日本海、信州、関東、北東北、北海道にある。
そのどれもが周辺に聖山がある。白山、富士山、岩木山、八幡平、羊蹄山、ニセコ、樽前山。
共通するのは火山です。
東日本と西日本の違いは、今の長雨をもたらす要因になっているところで、火山が関係している。
龍は水を司るといわれますが、水気のある東日本に集中してあるのは、火山帯だからです。
九州も火山がありますけど。

シュメール語で天を「an」という。
「ama」とは、母という意味。
「マ」は、ママというように母を意味する言霊。
「ma」は、世界の言語に共通する母の音です。

その母であるamaが、ameに転化して、雨になった。
だから龍は雨を降らす。

物部氏は雄物川を「モノ」と呼ぶようにしている。
以前は、違う川名でしたが、大物主のオオモノとも聞こえるけれど、
秋田に帰ってきた後、また北東北で大雨になったそうですが、
古来から雄物川は氾濫していたので、雄物川をナイル川と見立てていたと思う。
ナイル川はよく氾濫していたのですが、氾濫する時に東の方角にシリウスがみえることに
気づいた。それからシリウスを観測するようになる。
日本では、聖徳太子がシリウスを観測していた。

物部氏は、エジプト由来の人だと思うので、
ナイル川のように雄物川の氾濫を観測していたと考えられます。
氾濫を鎮める方法として、治水の技術を持ちながらも、呪術を行いながら、
川のそばに結界?を結んで龍が暴れないように、北斗七星を置いたり。
それは、諏訪のやり方なんですけど。

八郎太郎伝説の中でも、「七座の神」とのやりとりがある。
そこで大洪水が起きるのです。

その大洪水と「何かが」関係する・・・。
春分の時の太陽の位置で何かが起こっていたと思う。
縄文時代かそれ以前に、何か同じような事があったかもしれない。
噴火や地震、大雨をもたらす洪水などは、ノアの大洪水を彷彿させる。
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以前、友人から教えてもらった情報。
地下水の枯渇は、ポールシフトの始まりではないか?!

昨年の4月の記事ですが、「北極点がヨーロッパ方向へ急移動と研究発表」
というナショジオの情報。
これがずっと気になっていた。


http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/b/041200028/

「震災から地下水が減った」という話を聞いていたが、
磁場の移動(ポールシフト)の原因は、
氷河融解や地下水くみ上げなど大規模な水の移動という話。
詳しい事はわかりませんが、大雨をもたらす要因に、磁場が関係するのかもしれない。

「北極は東西へ行ったり来たりを繰り返し、全体的な傾向としてはカナダに向かって
移動していた。しかし、2000年以降の北極の移動は「劇的な変化を遂げた」と同氏。
カナダ方向から経度にしておよそ75度東に向きを変え、
子午線が通る英国グリニッジ方面に向かっているという。
移動は年に10cmのオーダーであり、北極の位置の再計算が必要になるほどではなさそうだが、
この変化が続けば、後の世代はそれを検討しなければならないとアディカリ氏は述べた。」

「自転する地球のある部分で氷が融解し、別の場所で水として落ち着くと、
自転軸は質量を失った場所に向かって移動する。
つまり、氷の融解と大陸の貯水パターンの組み合わせによって、
極の大移動が起こっているのです。」


気温上昇により、多くの地域で蒸発が進み、降水量が減っているため、
人口増加の影響で、貯水槽や井戸から大量の地下水が失われているという。

以前、龍泉洞のある岩泉で洪水があり、高齢者施設が流され被害があった事がありました。
地元の人の話から、以前から龍泉洞の水が減っていると聞きました。
その後に起きた大量の雨と川の氾濫でした。

アメリカで多くの水害があるのは、「地盤沈下」にあるそうです。
2015年カリフォルニアで洪水と浸水で大きな被害がありました。
その原因が、地下水の汲み上げ過ぎによって、前例にないペースで地盤が下がっていることが分かったそうです。
特に地下水で農業用水をまかなっている州中部は最悪で、なんと一か月に5センチ、
単純計算で一年で60センチも下がっているといいます。
そのため、浸水しやすい地形になっているという。

東京でも、戦後、地下水の大量のくみあげで地盤沈下が問題でした。
しかしその後、東京都では汲み上げを規制したことによって、今では全く逆の問題が発生しています。
地下水が増えて、地下室が漏水するなどの被害が起こっているのです。
1991年、JR武蔵野線・新小平駅では、地下水位の上昇によって駅舎が1.3メートルも上昇し、
線路を分断してしまうという、耳を疑うような出来事が起こりました。

実は、東京駅でもまた、船が停泊するときのようにイカリを地盤に打ちこんで、
地下水位の上昇によって駅が浮き上がるのを防止する措置が取られています。
上野駅に当たっては、すでに「地下水の中に浮いている状態」で、
イカリを打ちこんだり、鉄のオモリを置いたりして対策が取られているといいます。

※https://news.yahoo.co.jp/byline/morisayaka/20151017-00050562/

異常な洪水をひきおこしている地域は、アメリカだけではなく、中国南部、インドでもそうです。
人工が過密している場所です。
すべて地下水のくみ上げ過ぎが原因なのです。
要するに、洪水や浸水を引き起こしている要因は「人災」なのです。
なので、その原因を「温暖化」ですべて片付けようとしている人には要注意。

磁場の移動については、過去何度もあったもので、
少しづつある磁場が弱くなり、別の場所で強くなるものらしいから、
急激に180度ガラっと変わるものではないと。。。
でも、ポールシフトは着々と進んでいると思います。
私は全く気づかないのですが、友人は、朝、いつもと太陽の位置が違うことに気づいてました。

ポールシフトといっても、何がどうなるの??
てことでよくわかりませんが、一回くらい経験してみたい。
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しかし、ノアの大洪水には、隕石説がある。
それによって各地の火山噴火がおき、噴火は水蒸気なので水の雲となって天を覆った。
それが長雨の原因だという説。
以前、クマさんのガイドで、秩父の札所と地層を眺めていた時、
「不整合」というものを見た。



秩父は地層の聖地。
「ぶらタモリ」の番組でタモリさんも「さすが!」と、うなった地球の創世が
詰まっているので、実際、目でみて触れる事ができる。

例えば、恐竜の絶滅など、ある種が瞬時に絶滅したことがある。
6500万年前に、巨大な隕石が地球に衝突し、恐竜が絶滅したディープインパクト説。
月らしいが。
隕石衝突により、地球上に生息していた地上の動植物の多くが絶滅した時の境を、
K-T層といって、隕石衝突を裏ずける境であることが実証された。

それを物語る地層が、秩父金昌寺奥の院の地層にある。
その境は、専門家でも「空白」だといい、説明ができないと。

これらをひっくるめて「不整合」というのですが、通常は、平行に地層がミルフィーユ状に
重なるのですが、不整合は、侵食して削られた部分に次の時代の層が入り込むので、
その部分が空白になる。



この場合、赤い線から下の白い地層は、8000万年前の蛇紋岩と上の丸石が含まれる。
赤線の上の黒い地層は、1500万年前の礫岩層が重なっている。

しかし、その間にあった6500万年~5000万年前の隕石衝突があったと思われる
頃の地層が見られてもよいと思うのだが、およそ8000万年前の蛇紋岩のすぐ上に、
1500万年前の礫石が重なっている為、その時代に何があったのか。
その5000万年の間は空白と言わざる得ないが、その時に、恐竜が絶滅したという
隕石説と時代が重なるため、「瞬間」何かがあったと言わざる得ない。

ゴンドワナ大陸が移動して今の北上山系の形になったのは、
1500万年前である。その前に何かがあった。



メキシコのユカタン半島にある約6550万年前の小惑星衝突跡がある。
この隕石が要因だったのが有力となっている。
惑星説があるのですが、この衝突により巨大津波で流された岩石が発見されたという。

8000万年前から急に、1500万年にタイムスリップしたようなものですが、
その数字に脳がついていけません。
ちなみに、アトランティスが沈んだのは、約1万1000年前といわれる。

「瞬時にして絶滅した」説は、世界の科学者の間でも言われている話です。
その「瞬間」にあった出来事は、世界の地層でも不整合として現れているそうです。
その瞬間に起こったのが、ポールシフトだったとしたら…。

なので、春分の時の太陽の位置で、「瞬間に何かを感じる」と思ったのは、
はるか昔、何十万年も前になりますが、隕石(月)が地球にぶつかり、
その衝撃で月が生まれたと言われますが、突然訪れた隕石により、
種が絶滅したことがある。その時、人類も一緒に絶滅するはずだった。



しかし、人類は生き延びた。龍がそのようにしたという妄想。
山をググっと持ち上げて噴火を起こし、水蒸気で雲をつくり雨を降らせ、海をつくった。
そうして生命が誕生した。
それがノアの大洪水となり、そこから世直しが始まり、
日本列島の創世が始まったのです。

先祖供養に蛇や龍を神社に祀るのは、そういうことです。

龍は水の中で生きていたので、さほど支障がなかったのだろう。
陸で生きていた動物は、水の底。
生き延びた恐竜は、皆、海にいるネッシーのような姿になった。
大型から小型に変化した境が、この時から長い時間かけて行われていたと思う。

大量の水により、地球の重力が重くなり、自転の回転数が遅くなった。
それまで巨人や恐竜などの巨大生物がいたのは、水がほとんどなかったので、
体がとても軽くなっていたという。
しかし、水が大量に降ってきたことで、重くなり、恐竜は地上で体を支えることができず、
水の中で生きるしかなかったという。(水の浮力だと軽いので)
それから「3次元の世界に落ちた」という伝承がなされるようになる。

秩父金昌寺の地層に多くの仏像があるのは、
その時の出来事を記しているからだと思います。
その時何が起こったのか。
思いだすには、まだ長い時間がかかりそうです。

八郎太郎は龍だけど、人間だったからよく泣く。スサノオみたいに。
なので大きな池や滝ができた。
そういう世界で生きている方が楽しんだよね~。

今年は、八郎太郎が目を覚ましたから東日本は大雨が多かったのでしょう。
でも今度は冬の辰子姫が目を覚ます。
もしかしたら、今年の冬は厳しいかもしれない。
大寒波や大雪。
でもそれは、地球のためと思って、「その時を無事に過ごす」通過儀礼です。
ただ、その時が過ぎるのを待っていればよいのです。
ミサイルは別だけど・・・。
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さてさて、もう十分だったので、私は鹿角とお別れし、
もう気分は八幡平です。
4回目の八幡平。久しぶりでテンションあがる。
雨もぽつりぽつり降ってきた。
八幡平は霧が多いから遅くなるのは嫌だった。

が、主人があの黄金マスクのポスターを見つけたのだ。
大湯ストーンサークル館の出口に、あのポスターがあった。
「大日堂・・・」とつぶやく主人。
しれっとその場を去る私。



「鹿角の大日堂ってどこにあるの?」
そういえば、すっかり大日堂のことを忘れていた。
あれ?鹿角だっけ?
ですが、私は八幡平の温泉でゆっくりしたかったので、スルー。

しかし、主人は運転する隣で「鹿角大日堂」とgoogleで調べている。
「あ、ここから近いよ。行く途中にある」

・・・「途中にある?」
「途中にある~ぅ?」2回聞いた。

「うん、途中にある。」

く~っ。
オオヒルメムチが「よってけ、コノヤロ~」と言っている。(猪木風に)
あの黄金マスクでプロレスしたら勝つでしょ。
いやいや、世界遺産ですから。

ということで、鹿角はまだ続くのでした。
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大湯ストーンサークルと龍の復活(1)

2017-08-29 | 東北地方の伝説(秋田県)
龍の復活とか大袈裟ではありますが、ちょうどこのタイミングで
北朝鮮のミサイルニュースが飛び込んでくると、嫌だなあ。
というか、過去の歴史でも同じことがあったので、またか。という思い。
艮の金神が位置するのは、鬼門ですが。
世直しかね~。
私は良い方向にいつも考えてますが。

「通過儀礼」というのは、古来でも祈祷してました。
なんだか、この通過儀礼というのが、レイラインであって、
それが大湯ストーンサークルと、一致している気がする。
世の中の出来事が、八郎太郎と大湯ストーンサークルにシンクロしてきた感じ。

「その時を無事、穏やかに過ぎてほしい」という願い。
で、何の力を頼っていたか。
日本の鹿角の場合は、八郎太郎なんだね。

それにしても、アメリカのテキサス洲の大雨もひどい。
経済都市なので、ダメージは大きいです。
あの場所はよくハリケーンが通る場所で、大雨洪水はよくある地域ですが、
それにしても世界中の大雨がひどい。

考えるとぞっとする話なんですが、仙台では35日雨が降ってました。
でも、1日中雨が降っていたわけではないので、大洪水には至りませんが、
ノアの大洪水は、聖書では、40日間、昼も夜も降り続いていたという。
雨がまったく止まない状態で40日間降り続いたと。

実際、ノアの大洪水はあったのか。(私はあったと思います)
科学的に述べている興味深いサイトがあったので、気になる方は、
こちらを参考にしてみて下さい。
「旧約聖書の「ノアの方舟(箱船)と大洪水の伝説」は実話なのか?」
http://true-ark.com/noahs-ark/

※ノアの方舟想像図

ここずっと八郎太郎の妄想がとまらず、それにノアの大洪水が
やたらと気になってしまい。
八郎太郎も、ノアの大洪水が気になるんだと思う。。。
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八郎太郎三湖伝説に、鹿角の茂谷山のことが書いてありました。
秋田へ行く前に読んでいたので、茂谷山の事がとても気になっていたのですが、
実際、現地にいくと、その山がどれか確認する時間がなく、
まあ、いっかとなってしまう・・・。



でも、それが大湯ストーンサークル館で答えを知るのだから、不思議。
大湯ストーンサークルを見学する前に、館内の展示品をみていました。
私は博物館の説明ボタンがあっても集中できないので、いつも聞かない。

でもこの時は、ストーンサークルの模型があったので、
試しに説明ボタンを押してみた。
すると、そこに茂谷山の答えがあった!
「春分の日に沈む山が茂谷山です」という説明。
しかも、亀がつく山名や、大森山という山名もある。
これは確か秋分の日に沈む方角だったと思う。


クロマンタ(黒又山)

なるほど!レイラインてことだね?
もうそれが聞ければ十分。
まだ説明が続いているけど、さくっと見て館を出てきました。
主人は縄文には興味がないので、外でテレビをみてまして、
「わかった。ストーンサークルの意味は日時計なんだね」と言った。
なるほど。
結局、主人に教えてもらうことになる…。

しかーし、ストーンサークルを近くで見たかったので、
館を出て、看板をみて、おったまげ~。
「熊出没により、見学できません」



「!?」
・・・フラれた。
あ、そう。
熊ね・・・。
じゃ、しょうがない。





帰りに、道路から眺めて、よくわからない状態で写真をとっておしまい。
石が並んでいるね~。という感想しかなかった…。







でもネットは便利。
鳥の目線でみると面白い。
google earthでは、5本柱建築跡も見えます。(赤矢印)
丸い円状のものが転々としている。



上空からみても、大湯ストーンサークルは不思議な遺跡です。
星のように点在していた事がわかります。


こっちは拡大。

ここから深い妄想に入ってしまいます。
いろんな所に繋がってしまい、長くなってしまった…。

茂谷山について--------------------------------------------

さて、茂谷山は、「モヤ山」と言います。
調べてみると、モヤとつく名前は、秋田、青森に集中してありました。
まず、八郎太郎の伝説より。

・鹿角の神々との争い

南祖坊の闘いに負けた八郎太郎は、生まれ故郷の鹿角に戻った。
青垣の高い山に登ってみると、米代川、小坂川、大湯川の3つの川が集まる、
錦木の男神、女神の狭い谷あいが見えた。

「ははぁ、あの谷間を埋めて、3つの川の水を貯めれば、
俺の暮らせる湖ができるかも知れねえ」
と考えた八郎太郎は、毛馬内の茂谷山に男神、女神の間を挟み、
茂谷山を背負うために鹿角中のブドウ蔓と藤蔓を集めて、綱ないを始めた。

これをみて、鹿角の神様は、驚いた。
「こりゃ、大変なことになった。あのままにさせてしまったら、
鹿角中水の中に沈んでしまう」
鹿角の神様たち42人は、大湯の下の方に集まり、八郎太郎を倒す相談をした。
この神様が集まったところを「集宮(あつみや)」という。

まず、茂谷山を背負う気になっている八郎太郎に、石をぶつけ、
花輪の日向屋敷にいる12人の鍛冶衆や、金槌や、つるはしや、たがねなど、
いっぺんに作らせて石を切り出し、牛の背中に背負わせて、
集宮まで運ばせた。その石、あんまり重く大きいために、途中で血を吐く牛もいた。
それでその場所を、血牛(乳牛)とよばれるようになった。

こうやって神様が集まって自分を倒す計画と知った八郎太郎は、
「これではだめだ。神様には勝てねえ」と言って、
茂谷山にかけた綱をほどいて、鹿角から逃げだし、米代川へ下って行った。
茂谷山の中腹あたりは、八郎太郎がかけた綱の跡が今でも残っているという。

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へ~、噴火によって地形が形成されるような話ですね。
あまりにもスケールが大きい話です。

この後の話では、鶏が鳴き、突如、大地震と共に大洪水が起こり、
慌てて舟に乗って助かるといった話になっていく。
それから鶏の卵すらその地域では食べなくなったと。

大洪水があった伝説のようで、その洪水を引き起こしているのは、
八郎太郎という龍なのですが、八郎太郎も水がないと生きていけないので、
大きな沼地を造りたくても、なかなか作れないような話になっています。

最後は、田沢湖へいき辰子姫(龍女)と結婚し、夏は十和田、冬は田沢湖へ行くといった話です。
田沢湖は日本一の深さから、二人の愛がその深さを示しており、
また、その愛が年々深まっているので、田沢湖も年々深くなっている。
と言った話で終わっています。なんだか感慨深い話です。

さて、鹿角の神々との争いから、わかる人は、もうわかっていると思いますが、
古代アラハバキ、12人の失われた支族、ムーやアトランティス、
スサノオのヤマタノオロチ、諏訪神の洩矢、ピラミッド崇拝、などなど。
いろんな想像ができる話です。
もう全部この伝説で世界が凝縮されています。
よくこの話が残っていたね。そっちの方がすごいです。

靄山(もや山)というのが青森県五所川原にあります。
「モヤ」は、アイヌ語で「モイワ」のなまりで、
「モヤイワ」とは、「小さい岩」の意味があるそうです。

十三湖の靄山、藤里町の茂谷、田沢湖の南にある靄森山、八峰町の母谷山、
八甲田北部にある雲谷山など。
特に、靄山は岩木山と深い関係にあるピラミッドといわれる。
靄山は姉、岩木山は妹とされ、安東氏が人工的に土盛した説がある。
「モヤ」とつける名前に共通しているのは、独立峰(単独の紡錘型)であり、
土を盛ったような形をしている為、ピラミッド説が有力となっている。
そのため、古来から神聖視されていた山であると。


靄山(青森県歴史観光案内所より)

そう考えると、仙台のピラミッドは太白山で、
金星が落ちてできた山といわれるので、山頂に貴船神社が祀られていますが、
茂庭台(もにわだい)にある。「モニワ」という響きもアイヌ語を想像します。
太白山も伝説がとても多い山で蛇伝説もある。
ここにも安部氏がいたし。
岩も多いので、モイワがモニワに転じたとも考えられます。

母谷山(もやさん)がある八峰山は、菅江真澄の紀行に、
「蝦夷が住んでいた館があり、安部氏の後、安東氏が抗争で敗れた。」
ここは元は海上交通の監視を行っていたという。

伝説にある米代川の南は能代で、茂谷山があります。
能代の茂谷山の池近くには、エヒバチ長根窯跡が見つかっている。

「これは、鎌倉時代前半の窯跡。
昔からすり鉢(エヒバチ)に似た破片が見つかり、エヒバチ長根と呼ばれていた。
発掘調査では標高70 - 75 mの斜面に南北方向に掘られた3基の窯跡が確認されており、
生産された器種は、甕、鉢、片口鉢、四耳壺から経筒容器など8種ほどである。

この規模の窯を維持するためには、有力な支配者や経済基盤が存在したと思われるが、
ほぼ同時期にこの近辺での山岳仏教の盛地であった高岩山からは、
径甕(秋田県指定文化財)や四耳壺が出土している。
また、茂谷山付近には更に「瓶長根」や「瓶ノ沢」という地名があるという。」



※能代の茂谷山

このエヒバチの須恵器は、十三湊の安東氏関連遺跡から出土した須恵器と同じもので、
須恵器の起源は、朝鮮半島の加羅による。
新羅王の天日矛(アメノヒボコ)と関係し、須恵器職人を従えてやってきたと言われる。
3~6世紀頃のことで、秋田~十三湊では、すでにこの頃から大陸との交易がさかんだった。
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そんなモヤと結ばれるレイラインとは?
妄想するに、大湯ストーンサークルは、八郎太郎という龍が目覚めるための
祈りを行っていた場所。

八郎太郎の復活祭です。
なので、八郎太郎の出身地である鹿角に帰ってくるという意味は、
春分の日、茂谷山に日が沈む時、龍(大蛇)が姿を表すからです。
そのため、茂谷山は、人工的に土を盛ったピラミッドにしているのです。

それが新しい生を授かる魂の再生の働きがあり、縄文人は、ずっと長い間、
祖先である龍族に対し、何度もコンタクトをとってきたのですね。


大体の位置関係は、こんな感じですが、
春分日と結ばれる茂谷山は、岩木山にも繋がる。
そのすぐ隣に大湯ストーンサークル(星マーク)があり、
能代と二戸の茂谷山も繋がる。
北は青森県の雲谷山、南にはモヤという名前の山はありませんが、八幡平があります。
東西南北に点在するモヤ山は、八郎太郎が生まれた草木のあたりにぶつかるようです。
イエスキリスト伝承の戸来岳からマタギの阿仁地方、岩木山から先は龍泉洞に繋がります。

大湯ストーンサークルの石は、
安久谷川を使い、青緑石にこだわっているそうです。
諸助山という山の岩体は石英閃緑ひん岩で、その石を使っているそうです。

もうひとつ、この安久川からきている山を「四角岳」という。
老犬神社の伝承にでてくる定六が追った鹿(猪)がいたのが、
この四角岳という。この山に鬼がいて、定六がその鬼にだまされて
処刑されたと・・・。
むむむ。飢餓の原因がこの山にあるとされ、
この山は猿田彦神を祀っていた。なにかと繋がってしまうねえ。

マヤのピラミッドも同じで、春分の日になるとピラミッドに
大蛇が現れるように設計されている。
※ククルカンの降臨(http://isekineko.jp/tyubei-kukulukann.html)


なぜ、春分の日が大事なのか。
世界でも春分の日は、新しい命の誕生といった意味があり、
キリスト教では、イエスキリストの復活祭となっている。
1年は365日ぴったりではないので、
年々、3月21日だったり、20日にずれたりするのは、地球と太陽の位置がずれるため、
暦にもずれがでる。
日本では、春分の日に「春季皇霊祭」が行われ、歴代の天皇・皇后の霊を祀る儀式を行います。

ヘブライ語では「パスハ」や「ペサハ」とよび、「過越(すぎこし)」という意味。
その日が過ぎることを祈るというのは、「太陽が春分点を通過した瞬間」という意味。
春分の日に、何かが起きていたからでしょうね。
私は、この時に龍が降臨するからだと思います。
覚醒というのは、そういう事を示しているかもしれない。
人類の祖先を忘れないためです。
難しいところですが、何かが起こる瞬間の春分点に、
太陽が影響している事を示しているのでしょう。

それは、「その時を穏やかに過ごす」という意味もあり、
民間信仰では、丸い円の藁をくぐる。
縄文人は、出産でもそのような祈祷をしていたわけです。
産まれる時の星の巡りを観察しながらの出産。
火炎土器を使い、火をたいていた。

悪い星巡りに出産すると良くないので、その時は、穏やかに過ぎる時間を待つといったこと。
おそらく、神功皇后が三韓征伐に出産を遅らせた伝説があるのは、
悪い星巡りに出産しないように遅らせたものだと思います。
その伝説は、スサノオの牛頭天王のことです。

それで春分の日の現象とは、北極と南極でよくわかる。
この時を境にして、北極では昼の時間になり、南極では夜の時間になる。
これが半年以上続く。地球での陰陽の働き。

他にも、「モヤ」で連想するのは、モヤイ像です。
イースター島のモアイは、モヤイの「ヤ」の発音らしい。
まあ、どっちでもいんですけど、そのモアイ像が一列に並んでいる理由は、
春分の日に沈む方角を向いている説があった。
ある話だと、日本の方角を向いているという人もいる。
エジプトのピラミッドかもしれないし。

モアイの意味は、「モ」は未来。「アイ」は生きる。だそう。
未来に生きる。


画像:via Enjoy Your Holiday

イースタ島には、耳長族と耳短族の争いの伝説がありましたが、白人の植民地化というよりは、
はるか昔、頭にアンテナつけた宇宙人がやってきたという方が、面白い。笑
兎みたいな長い耳をつけた人。
角だね。因幡の白兎みたいな。

でも、なぜモレに関係するのだろう?
諏訪みたいな話だから?だんだんわからなくなってきた。笑
ですが、ここに、モレがいたことがなんとなくわかります。

モレの名前には諸説がありますが、母體(モタイ)とよぶ。(磐貝公母體)
アテルイが生まれたといわれる場所を、田茂(タモ)という。(田茂郷跡呂井)
モは、母の地名をあてる事が多い。
母袋(もたい)、田母神(たもかみ)など。
モタイは、龍の体ということで、龍の気みたいなもの?


アテルイとモレの碑(水沢)

八郎太郎が生まれた保田(ぼった)は、元は「ぼ」ではなく、
母の「モ」だったのでは?母田。
武蔵に「エタモイ」という人がいた。
イズモも「モ」

しかし、天の神々は、龍を黄泉の国にいてもらうことにした。
表に出ないようにしたわけです。
母は子供のそばにいたい。
でも、子供たち(私たち)は、父神のそばにいるようになった。
父方に育てられるよう、父は天神にされたわけですね。
それから天の神話になった。
日本では、大地の他に海が母神であることも。
海の母は、ウガヤフキアエズ。
日本は、いろんなお母さんがいていいね~。

天照大神は、アマである母を照らすのですが、アイヌ人や先住民にしてみれば、
自然の営みを育む大地とは、まさにそのまんまな地球です。
卑弥呼のような祈祷をする巫女は必要なかった。
歌や踊り、星の観察、宇宙の神話を語る。
それだけで十分、事足りていた。
そんな母と子が引き裂かれたような話があるから孤独を感じる。

現実的に考えれば、自然環境を利用し、治水工事を行った中国の禹の話でもあります。
山を崩して水を大地に流すような破壊的なやり方ではなく、
渓谷を変えれば、水の流れが変わるといった自然の景観をそのまま利用した
治水工事のやり方は、中国雲南省付近にいた禹の一族が考えたものといわれます。
その禹は龍族の末裔で、おそらく大洪水で助かったノアの末裔だと思います。

なので、船をつくり神に奉納する祀り方をしている男鹿半島の真山神社は、
先祖がノアだったから、「天の磐船」のことを伝えていると思います。
舟は先史時代から造られていたので、普通に乗り物であったものを、
わざわざ神に示すことはないのだから。
ノアの大洪水で使われたのは木ではなく、隕鉄だったかもしれないし。
諏訪の安曇氏も海民ですが、古代船を神格化している。

男鹿半島に上陸したノアの末裔。
また、鳥見山の伝承。それが二ギハヤヒとなっている。
ユダヤ=二ギハヤヒ、ナガスネヒコ=縄文だったら、
アテルイはユダヤ、モレは縄文で納得できます。
モレの子孫が北東北の安部氏で、安東氏となり、またその先祖はナガスネヒコ。
伊達政宗がナガスネヒコの子孫だと言われるから、太白山のオドガ森(聖なる山)にこだわり、
茂庭とし、太白という金星信仰と結びつけ、崇めたのでしょう。
金星は太陽神と結ばれ、アイヌ人はオオヒルメムチとして崇めたと思います。
それらの関係は、婚姻を結び、熊野修験は異類婚として伝承しているわけです。

鹿角にアテルイが逃れた伝承があります。
それは、八郎太郎の母神に会いにいくためだったと思います。
男女を入れ替えるというのは「君の名は」でもありました。
ミツハという名前は、ミツハノメという響きを想像するのですが、
それは水に棲息する生き物のような名前だな~と思います。
よって、それも八郎太郎と辰子姫。
この場合、入れ替えるというよりは、合体する場所ということでしょうか。

八郎太郎は、夏の陽を司る。
辰子姫は、冬の陰を司る。


で、これがまだ続いてしまう。
もう私はギブアップしたい。笑
でも、まだあるみたい。
八郎太郎と辰子姫の深い愛とは、地球の内部のことを言っているのでしょうか・・・?

つづく。
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十和田湖の龍伝説

2017-08-27 | 東北地方の伝説(青森県)
鹿角出身のNさんから今年の5月だったか、
お土産に頂いた「八郎太郎三湖伝説」。
この本は、子供向けの語りなのですが、興味深い話がのってます。



八郎太郎が龍になった話から、南祖坊との闘い、鹿角の神々との争い、
七座を追われた八郎太郎、八郎潟の主になった八郎太郎、
田沢湖の辰子、最後は八郎太郎と辰子姫の話。





これを読んで、モレを感じたというのはどういうことなんだろう。
秋田は女性性が強い土地だから、龍や水の印象が強いと感じます。
その言葉に反応してモレとか「モ」という言葉が浮かぶ。
アテルイとモレは、私の個人的主観ですが、男性性=アテルイ、
女性性=モレと感じています。
秋田はモレ、岩手はアテルイ。
そんな男性と女性のバランスとは、陰陽であり、男女の融合。
夫婦神の働きとは、異なる種のムスビ。

その秋田と岩手の中間に八幡平があって、アテルイとよばれた
松尾八幡平の長が、鹿角に逃れた話がある。
しかし、八幡平はゲリラ戦があり、大和と蝦夷が対立していた所でした。
Nさんいわく、今でも八幡平周辺では、甲冑などの遺品が見つかると言います。
-------------------------------------------------
さて、十和田湖は「龍の八郎太郎が作った湖」です。
八郎太郎がなぜ龍になったのか。





「八郎太郎三湖伝説」より参照。
「昔、草木の村の保田(ぼった)に、八郎太郎という若者がいた。
17歳になる頃は、180センチ余り、鬼にも負けない力もち。
親孝行者で毎日山々をかけめぐり、まだの木の皮をはいだり、鳥や獣をとって
売り、年老いた親を養っていた。

ある時、八郎太郎は仲間3人で奥入瀬あたりまで来て、流れのそばの小屋で
何日もまだの木の皮はぎをしていた。
ある日、八郎太郎がまましたくの当番になり、川に水をくみに行くと、流れの中に、
イワナが3匹泳いでいた。
これをつかまえて3人で一匹づつ食べようと思って焼いていたが、
八郎太郎はがまんできず、自分の分だけと思い、一匹食べてしまった。
「なんておいしんだろう」
あまりにもおいしいので、知らず知らずのうちに他の二匹も食べてしまった。





すると八郎太郎の喉が焼けるほど熱くなり、汲んできた水をがぶがぶ飲んだ。
しかし、ますます喉はかわき、「ああ、どうしたことだろう、このままでは死んでしまうよ」
と川に口をつけて水をごくごく何時間も飲み続けた。

日暮れの頃、ふと顔をあげた八郎太郎は、水面に映る自分の姿をみて驚いた。
火の玉のような真っ赤な目をした龍になっていた。
山から戻った仲間は、「どうした何があった」と驚いて聞くと、
八郎太郎は目に涙を浮かべて、「おらあ、欲がでておめがの分のイワナまで
食べてしまった罰で、魔物になってしまった。もうおら、水から離れて暮らせねえから
この湖の主になる。親たちによろしくな」といってオイオイと泣いた。



太郎はその後も水を飲み続けてついに90mもある
大きな龍になり、十方の沢から流れる水をせき止めて十和田湖を造り、
そこの主になった。
今から何千年も前の話だ。





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龍は火山の噴火、そこにできた湖は、八郎太郎の涙。
なんて、切ない伝説のようで、龍が人間だったことに共感します。
私はこの伝説が結構好きで、いつか十和田湖にいってみたいと思っていました。
早くも念願かない、感動~。







十和田湖は、20万年前の火山活動に始まり、4万年前の十和田火山の噴火により、
現在の湖になった。海抜400mという山上にあるカルデラ湖は、
最深部327mと日本3位の深さ。
その十和田湖から流れる奥入瀬は、トレッキングとして有名です。





サイクリングをしている人もいましたが、
あいにくの天気で、私たちは車で移動しながらの散策となりました。
子ノ口から焼山まで14kmもつづく噴火による土砂によって出来たもので滝も多い。
もとは土砂によって流れたところが今は渓流になっている。











晴れた日や、紅葉シーズンは素晴らしい所です。
八郎太郎が生んだ水と森の景観。





ところで、伝説の中に地名がありました。
八郎太郎は、草木という所で生まれている。
現在の鹿角市十和田草木らしい。地図をみると、そこに草城神社がありました。
大湯ストンサークルに近く、また猿賀神社にも近い。
猿賀神社は青森県にあるのですが、鹿角にもあったんですね。
上毛野田道将軍を祀っている神社で、猿田彦神がご祭神なのですが、
青森県の大社、猿賀神社は、この鹿角からご神体が流れついたものを祀ったとも伝えられている。
ということで、元祖は鹿角なんですね。
鹿角から青森へ北上しているからそうなるのですが、
鹿角は、秋田の中でも私は一番の謎多き不思議な場所だと思います。



さて、その草城神社は、オオヒルメムチを祀っている。
秋田の太陽神は、オオヒルメムチなのです。
他、祀っている神。
大日霊命(おおひるめのみこと)稲倉魂命(うかのみたまのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)伊弉册命(いざなみのみこと)
大山祇命(おおやまつみのみこと)誉田別命(ほむたわけのみこと)
白山姫命(しらやまひめのみこと)。
正徳元年、草木村中にて稲荷神社として創建したと伝えられる。
明治6年、村社に列せられる。
明治40年、草木字勝善平駒形神社、字早坂天原神社、字草木八幡神社、
字二本柳白山神社を合併する。
明治41年、草城神社と改称する。


オオヒルメムチの「ムチ」も気になる響き。
オオナムチの「ムチ」も同じ。

アイヌラックルでは、地上で誕生した初めての神であり、
地上と人間の平和を守る神とされる。
オイナカムイ、オキクルミなどの別名でも伝えられている。
オイナはアイヌの神で、それが訛ってオオナ(オオナムチ)となっており、
その語源がヒルコのオオヒルメムチであると言われる。

ムは不明だが、チは(大地)だから母神。
アイヌの最初の神が、ヒルコ(オオヒルメムチ)だったが、正当性を記す際、
古事記では都合が悪いのか、ヒルコを流すことにした。
それから、アマテル(天照大神)となった。
大地(龍)から天(人)の歴史へ。

この伝説から、まさか、本当に大霊日(オオヒルメ)に会いにいけるとは…。
(その話はあとで)
-------------------------------------------
さて、十和田神社がありました。
ちょっとこちらを拝見。







青龍権現とも、熊野権現とも呼ばれていた十和田神社。
その縁起には2通りの説があるとされています。
一つは大同2年(807年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂創建とされる説。
東征のおり湖が荒れて渡れず、祠を建てて祈願しイカダを組んで渡ったという。











もう一つは、南祖坊(南蔵坊、南草坊ともいう)によるもの。
熊野で修行した南祖坊が、鉄の草鞋と錫杖を神から授かり、
「百足の草鞋が破れた所に住むべし」と夢のお告げを得て、
諸国をめぐり、十和田湖畔で百足の草鞋が尽きたといいます。
当時、十和田湖には八郎太郎というマタギが、湖の岩魚や水を喰らううちに八頭の大蛇となり
、湖を支配していたそう。







そこで、南祖坊は、その霊験により九頭の龍に変化し二十尋(約36m)の身体を、
十曲(とわだ)に曲げ、八郎太郎を退治たという伝説が残っています。
南祖坊を青龍権現として崇め祀った名残りが今もあり、
境内の熊野神社には彼の履いていたという鉄の草鞋が奉納されています。


※熊野社







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十和田湖を散策した後は、久しぶりの八幡平。
秋田側から南下して岩手県に入る。
この道も、面白いものがたくさんあるのですが、
まずは、行ってみたかった大湯ストーンサークルへ。
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マタギ犬を祀る老犬神社

2017-08-26 | 東北地方の伝説(秋田県)
宮城県では、連続35日の長雨になりました。
「やませ」の影響もあり、仙台は昭和9年ぶりの長雨記録になったそうです。
「昭和9年」の長雨で何があったか。
「昭和東北大飢饉」

「森と水の郷あきた」より
http://www.forest-akita.jp/data/kiso-bunka/kisobunka05/kisobunka-05.html

「北東北は、稲作の北限に位置していただけに凶作・飢饉常習地帯であった。
中でも、冷たい北東風「ヤマセ」によって冷害になる筆頭が岩手県北上盆地であった。
その過酷な風土は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」にも記されている。

「奥羽地方ほど頻繁に深刻な飢饉がおこったところはない」というのが
歴史書の定説になっている。
南部・盛岡藩を例にとると、江戸時代に大小あわせて94回、
すなわち3~4年に一度の割で凶作に襲われ、
実に16年に一度は飢饉に苦しむ歴史を繰り返している。」

「飢饉の際に生まれた子供は、育てることができず「口べらし」と称して間引きが行われた。
当時は生まれたばかりの赤子は、霊的に未成熟で間引くことを神に返す行為とされた。
だから、そんな子供は墓ではなく土間や台所に埋める風習があった。
その間引きされた子供がザシキワラシになったと言われている。」

「凶作が決定的となった昭和9年、秋田県保安課がまとめた娘の身売りの実態によると、
「父母を兄弟を飢餓線より救うべく、悲しい犠牲となって他国に嫁ぐ悲しき彼女たち」の数は、
1万1,182人、前年の4,417人に比べて実に2.7倍にも増加している。

身売り娘が多かったのは、秋田の米どころと言われる仙北・平鹿・雄勝三郡であった。
一方、マタギの村・根子の記録によれば、昭和7年、戸数84戸のうち76名が農閑期に
鳥獣の毛皮、熊の胆の行商で潤っていた。
「年額8千円~1万円位の収入」があり、娘の身売り問題とは無縁であった。
秋田では、コメの依存度が高いほど、「けかち(飢饉)」の悲惨な歴史があったのである。」

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今回の秋田県の探訪で「マタギ」について、何かとても重要なメッセージを
受けている気がずっとしていました。
それが、今のこの長雨でもたらされた昭和の大飢饉と繋がっていることがわかりました。

「江戸時代、農民の食べ物は、租税、小作料納入の残りしかないから、
米を常食にするだけの量はなかった。
米は正月や盆の儀礼食くらいで、普段は麦、粟、稗であった。
米中心主義のおかげで他の穀物は雑穀と差別的な言葉で呼ばれるようになったが、
稗は冷害的気象条件にも耐えうる優れた作物であった。」

「だから、青森県の下北や岩手県の閉伊郡、奥羽山脈の山間地帯では、
稲を植えても実らない水田に稗を植えたという過去の歴史もあったのである。
北東北は、気候風土から言えば、稲よりも稗・粟であったはずだが、
それに逆らったために、凶作、飢饉を繰り返すことになったのであろう。
昔から日本は「米食民族」などではなく「米食悲願民族」であったと言われているのも頷ける。」


「マタギの文化を改めて見直す時期」ということを、
マタギ犬が伝えたかったことなんだろう。
その犬に導かれて、「老犬神社」へお参りしてきた事を今になって納得できた。

お米は食べようと思えば、今では食べられる。
震災で被災しても、餓死することなどない。
流通の発展、人々のボランティア精神など。
今は住みやすい社会になっています。
それでも、満足に食べさせてもらえない子供たちがいるのは、なぜでしょう?
「心の飢餓」
これだけは、誰も解明できません。
-----------------------------------------------------
さて、男鹿半島を抜けて十和田湖を目指していたのですが、
主人が「老犬神社」という看板を見つける。
「老犬」という言葉に何かを感じたのか、
どうしても行ってみたいという。

老犬神社は、有名なマタギ犬(秋田県)を祀っている神社です。
以前にもこのブログでマタギの老犬神社のことを書いていたので、
内容は知っていました。
まさか、その神社のそばに来ているとは・・・。(感激~)

主人が、老犬神社の伝説って何?
と珍しく聞いてきたので、「マタギには免許となる巻物が必要だったが、
たまたま狩りに出た日、巻物を忘れて~・・・・。」(めんどくさ)
途中で面倒になり、とりあえず、老犬神社の看板の説明を二人で食い入るように読む。





老犬神社の伝説
「旧南部領だった鹿角の草木に、代々佐太六と名乗るマタギがいた。
なかでも十七代佐太六の腕は優れ、領主南部信直から天下御免の狩猟免状をもらっていたが、
佐太六にはシロという子牛ほどもある猟犬がいた。

ある日、佐太六はシロをつれて狩に出たが、猪を見つけて撃ったが手負いになったまま
逃げるので、その後を追って三戸城近くまで行き、ふたたび猪を見つけて撃った
とたん姿を消してしまった。

そのとき、三戸城の役人が現れ、「城に向けて発砲するとは不届き千万」と縄をかけよう
としたので、佐太六が「私は天下御免のマタギ・・・」と言いかけて、
その日に限って巻物を忘れてきたことに気づき、言い分もままならず、
ついに三戸城に引かれて取り調べを受け、死罪と決まった。

主人の危機を知ったシロはひたすら走って家に駆けつけ、佐太六の妻に激しくく吠えたが、
佐太六の妻は何のことかわからなかった。
再び佐太六のところへ行ったシロは、佐太六から免状の場所を何度となく教えてもらい、
再びシロは山河を駈け戻り仏壇の下で激しく吠えた。

妻は、はっと気付いて巻物を見つけ、竹筒にいれ、シロの首に結んでやった。
シロはすぐに引き返し再び主人のもとへ走り続けたが、城に着いた時はすでに遅く、
形場の露と消えてしまった。

犬吠森という山があるが、シロが主人の死体をくわえて三戸城の見えるところに運び、
幾夜と続けて恨みの遠吠えをしたところといわれています。



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私は犬が大好きなので、ムツゴロウのようにハグしたくなる神社です。
「マタギ犬はいねが~。」
と、ナマハゲ風に声をかけつつ(笑)、御堂の中までに入らせて頂く。(見学自由です)



たくさん犬が書かれた絵馬がありました。
犬好きというか、犬を本当に愛してやまないひとたちが、
その敬意をしるし、絵馬にその思いをつむぐ。
とても珍しい神社です。





ところで、この話はマタギ文化のある秋田らしい伝説だと思っていました。
が、どうやら実際にモデルになった人がいたようです。
え?もしかして実話?

看板の説明によると、「江戸時代頃、定六(佐太六)という又鬼(マタギ)がいた。
この先祖は、源頼朝の富士の巻狩の際、目覚ましい働きによって
全国通用の子孫永久又鬼免状巻物を頼朝公より拝領し、
代々相伝している家柄だった。」


富士の巻狩とは、1193年5月に源頼朝が多くの御家人を集め、
富士の裾野付近を中心として行った壮大な巻狩のことである。
巻狩(まきがり)とは中世に遊興や神事祭礼や軍事訓練のために行われた狩競(かりくら)
の一種で、鹿や猪などが生息する狩場を多人数で四方から取り囲み、
囲いを縮めながら獲物を追いつめて射止める大規模な狩猟の事。
マタギの大会みたいなものでしょうか。
「巻狩り」とも表記するそうです。

という事は、定六は、全国的に知られた有名なマタギだったことがわかる。
であれば、もし免状をもっていなくても、名前を聞けば役人にも伝わるはず。
しかし、これは巻物をもっていなかったという理由だけで、
定六は疑いをかけられ、処刑されてしまったのではないか、と思う。
定六に対する恨みをもったものの行為だったとしたら・・・。

「南部信直から天下御免の狩猟免状をもらった」とあるので、
南部信直の家臣だったと思われる。
「南部信直は、三戸南部氏の家督を継ぎ三戸城へ入城、信直の代へと変わる。」
その城主である南部氏に対し、「三戸に向かって鉄砲を撃った」ことが、反逆者とみなされたのか…。

しかし、Wikipediaによると、
南部信直は、駿馬と鷹を献上して誼を通じるなど優れた一面があったそうです。
・・・南部信直もマタギのような人だった?
その時代の家督争いが、老犬神社の伝説に由来しているような気がするのです。
南部信直=定六?と、考えていたら、なんと!こんな情報を見つけた。

「青森県のマタギといえば、目屋マタギ(江戸後期誕生)や
赤石マタギ(江戸中期誕生)が有名だが大川原マタギの歴史は古い。
平成二十二年には大川原かつて庄屋であった民家から南部藩第二十六代当主で
戦国武将南部信直の狩猟免状が見つかったのだ。
あわせて、マタギたちが山に入る際に身につけていた巻物「山立根本記」も見つかった。
南部信直の狩猟免状は、秋田県大館市の老犬神社にも同じものが保管されている。」



※「おやまのおもしえ学校」
http://matagi.omoshie.com/whats_matagi

やはり、南部信直も優秀なマタギだった。
おそらく、南部氏=定六の狩猟の民を崇拝するために語られた伝説なのでしょう。
しかし、無念な死をとげた人?だったか、マタギに誇りをもっていた人だと思うので、
マタギ犬がそれを知ってほしいと、私たちに吠えてきたのかもしれない・・・。
家督争いとか、今でも家族間のもめごとはある。
相変わらず、うちもカワリモノで手に負えない義姉がいますが。
今も昔も変わらない。


※四日市祭「富士の巻狩り」
暴れまわる大猪を諏訪神社境内へ追い込み、
子どもが扮した源頼朝公以下の侍たちが射止める。

諏訪神社でマタギ狩りの神事が行われているとは。
やっぱり、諏訪なのですね。
---------------------------------------------------------------
そんな老犬神社に導かれた後は、十和田湖へ向かいました。
ここは、静かな大きな湖ですが、湖畔の静けさは中国で感じた龍の気とよく似ていました。

つづく。
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男鹿半島のナマハゲと徐福伝説

2017-08-25 | 東北地方の伝説(秋田県)
男鹿半島に入ると、すぐナマハゲが歓迎してくれました。
ふっつーに考えてみると、すごい形相で巨大な鬼が、包丁を持って
「ようごそ~」とWelcomムードなのは、シュールすぎます…。



でも私の脳内ドーパミン放出。
「やっとここまできたよ~。」



が、私は秋田に来たといえば、ババヘラアイスだよ。
こっちが先。



ババヘラアイスは鬼に勝るものなし。
でも、能代の時はいっぱいあったのに、今回は2回しかババヘラをみていない。
だんだん、ババヘラアイスをするおばあちゃんがいなくなっているのだろうか・・・。
そんな心配は別によくて、それより、ナマハゲは人気です。
みんな写メとってます。

宿は、門前町というところにある場所でお世話になったのですが、
すぐ目の前が海で、裏手の山は、あの999段の階段を作ったなまはげ伝承で有名な
赤神神社と五社堂がある所でした。



なまはげ伝承は以前にも書いていたのですが、もう一度おさらい。

赤神山大権現縁起-----------------------------------------

秋田県男鹿半島に赤神神社があり、ナマハゲ発祥に関わる神社といわれています。

漢の武帝が(BC141~87年)白鳥に駕し雲の車に乗って男鹿に飛来してきた。
(白鹿に跨ってきたとも)
武帝は赤旗を立て、車の前後左右を五色(赤・青・白・黒・黄色)のコウモリが
囲んで付き添っていた。
神仙ではそれぞれの色を皇帝の座に重ねて漢の武帝は、赤旗とされたという。

この五色は、五鬼とされ眉間鬼、逆頬鬼という夫婦と、その子供である眼光鬼、
首人鬼、押領鬼の三兄弟だった。

男鹿半島についた武帝は、この地に開拓を五鬼たちに命じた。
鬼たちは懸命に働き、眉間鬼と逆頬鬼の夫婦は疲れ果てて死んだ。
三兄弟はその後も頑張り抜いた。
武帝は鬼たちに褒美として一日だけ好き勝手にすることを許す。
すると、鬼たちは里に出て人をさらったり、食べたり、恐ろしい乱暴を働いた。
そこで里人は考え、鬼たちと賭けをする。
五社堂までの千段の石段を鬼たちが一晩のうちに造り上げることができたら、
鬼たちの言うことを聞く。
しかしできなかったら、鬼たちは乱暴をやめる、という趣旨の契約だ。

鬼たちは寒風山の石を一つずつ運んで積み上げ、九百九十九段まで造り終えた。
まだ夜明けは来なかった。
だが、その時、里の知恵者が物真似の得意な村人に、鶏の鳴き声を真似させた。
一番鶏が鳴いて朝が来たと思った鬼たちは、地団太踏んで悔しがる。
あたりに大杉を根っ子ごと引き抜き、逆さに付き立てて暴れていった。

※東北不思議探訪 伊藤孝博著より



地団太を踏んで悔しがった「地団太」という言葉は、
タタラ(団太。足踏みのフイゴ)の事を言うそうです。

「鶏が鳴いて~」というのは、荒神(こうじん:あらがみ)に関係するそうです。
荒神の舞納めは、最後に神職がコケコッコーと鶏の鳴き声で終了する。
これは、陰(闇)から陽(光)の転換を示しているのだと思います。



荒神は、竈神(かまどがみ)として祀まつられる三宝荒神、
屋外に屋敷神・同族神・部落神として
祀る地荒神、牛馬の守護神としての荒神に大別される。
荒神信仰では、鶏を食べることで縁起があるといった風習もあります。
また、農耕儀礼に関わっているもので、火をたいた神事(火神)です。
おそらく、ここで農耕儀礼をやっていたと思いますが、
タタラ製鉄の祭りといえるかもしれません。



鶏の夜明けというのは、本山三宝荒神によると、
「夜の明け方に丑寅口を見まいらせ候へば さも凄まじき蛇体の姿にて」
と異形の姿は、丑寅の鬼門からやってくる邪悪な存在といわれる。

やっぱり蛇なんですね。
三輪信仰の影響もあると思います。

内と外は夜明けに時間の裂け目に訪れる。
鶏が太陽の「陽」の気を一番早く感じる鳥といわれ、重宝されています。
朝一番に鳴く鶏は新しい時間の始まり。
修験は、山と里の2つの空間を自由に行き来した。
自らの在り方を変えるために、洞窟にこもることをし、
修行を通じて、山と里の境界をひく。

村人は、そんな山には鬼が住むと考え、あの世を繋げる
働きをしていると考えていた。
また山に入ることで、内在にある自身が自然と一体化することも望んでいた。

※参照「神と仏の民俗 鈴木正崇著」
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「菅江真澄の道:門前」
「1804年菅江真澄は次のような由来を記述している。
門前の浦に入った。袖垣に着物を干しかけてある。
小橋を渡ると萱ぶきの堂がある。何が祭られているのか。
飽海郡落伏寺(山形県遊佐町)、陸奥の黒石寺(岩手県水沢市)
などのように自然石をたたんで御坂としていた。
これも一夜のうちに鬼が集まって築いたという物語がある。





伝え聞くところによると、景行天皇の御代、近江の竹生島と同じく湧き出た山という。
紀伊国熊野新宮、本宮になぞらえ、金剛、胎蔵ふたつの峰として、いま、真山本山という。
円仁(慈覚大師)が仁明帝の承和4年(837年)のころ唐にわたり、
文徳帝の仁寿の年(851年~854)この山で修行され、天台の仏法を行い、
赤神山日積永禅院といったが、近世になって真言宗に改宗したという。
その昔、自寂院、仙壽院、印象院、円月院、照光院、泉光院など多くの寺があったが、
今は吉祥院、長楽院だけ残っている。



大門の仁王は運慶の作と伝えられている。
楼の大鐘は1392年に鋳たものである。
小堂はいかめしく、蓮の生えた池の面に半ばさしでて建てられ、
中島に弁財天の小さな祠があり、松が生いている風情はことにおもしろい。
板をはるばる登ると姿見の井戸があり。
この水鏡がくもって、姿がぼんやり映った人は命が長くないという占いもあるという。




九九九段の階段


姿見の井戸



またこの山に、五百人もの童をつれ、乱を逃れて不老不死の薬を採りに来たという。
秦の徐福の塚というものがある。

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菅江真澄が見ていた同じ風景を見られるのは幸せな事です。
何百年も変わらない風景が、どんどん減っている中、
東北地方には、多くの環境哲学の真髄が残っている。
その空気に触れられる幸福とは、厳しい環境の中で人々が生き抜いてきた姿勢にあります。


五社堂

徐福塚
「司馬遷によって書き表された中国で最も古い歴史書に
秦の始皇帝の命を受けた男が、童男童女数千人を乗せた舟で海を渡り、
不老不死の薬を探しに東方へ向けて旅立ったとあります。
今からおよそ二千二百年前のことですが、その向かった先が日本であり、
その命を受けた男が「徐福」だったと言われています。



徐福は、神薬(薬草)を求めてさまざまな所を旅したためか、
日本各地に徐福伝説が残されていますが、そのうちの一つが男鹿でした。
江戸時代の紀行家・菅江真澄は男鹿の門前を訪ねたときに日記に、徐福塚(墓)
を図絵と文章で記録しました。
それには「古、渤海及び鉄利の人一千百余人が吾国を慕い来て
出羽国に置き、衣食を給して還したと続日本紀にある。
その異国の人たちがこの処にいった頃、武帝の廟或いは大保田村の
蘇武塚や、この徐福の塚など、その当時祭ったのかもしれぬ」
と書かれています。



また、船越御役屋の役人だった鈴木重孝が書き残した
男鹿の地誌「絹ぶるい」にも徐福塚が記録されています。
しかし、その徐福塚は道路工事などで失われてしまったのか、
今では探しようがありません。
そこで門前に伝わる徐福伝説を後世に伝えようと、真澄の図絵を参考にこの地に
産する門前石で、徐福塚を復元しました。」


徐福は、オリエンタルユダヤ人なのでしょうか。
戻ってきたわけですね。
2000年以上も前に。ノアの末裔みたいな話ですけど。
徐福の一族か深い関係のある人が、男鹿半島に塚を祀ったようです。

これは平成17年とあるので、最近の復元です。
たくさんの人を引き連れて男鹿半島に来たようですが、
実際、ここでの生活はとても質素なものだったと思います。


-----------------------------------------------
秋田へ来て一番感じたことは、「マタギ」です。
今回の旅で、又鬼(マタンキ)という鬼=キというのを強く感じました。

ナマハゲは、地元の人にとって恐ろしいものだと言われた。
しかし、古代舟をつくる技術はもっており、その道具も鉄で作り立派なものでした。





地元の人にその技術を教えたのは、ナハマゲといわれたマタギであり、
地元の人は今でも古代舟をつくり神に捧げているのが、「真山神社」なのです。
(真山神社については後ほど)

「なまはげ」という言葉も、「生剥ぎ」という動物の皮を剥ぐことに近いと思う。
生剥ぎというのは、マダハギ(マダの木の皮剥ぎ)から由来するものなので、
ナマハゲは、マタギなんだと思います。
ただ、ある解釈では、人間の皮をはぐという恐ろしい生贄と考える説もあり。
古代文明では、そういうことがあったかもしれない。
が、日本はそれ以降の歴史なので、生贄ではないと考えます。

仏教に殺生がありますが、マタギの場合、単純に殺すというのではなく、
マタギはそれを生業とし生きるためであったのだから、山神から与えてくれた恵みとして
受け取ると考えている。
昔のマタギは山に入るとき、身なりを綺麗に整える。
山神は女神なので、失礼のないように、といったことか…。
妻や女性が山に入ると、まったく獲物を捕まえることができないという。
獲物を捕らえたらアイヌの熊儀礼(イヨマンテ)のようにちゃんと天に返す儀式もやっていた。
なので、何度もそれを繰り返すので、「又(また)鬼になる」から
「又鬼(またぎ)」となったそうだ。

マダという木は、縄文時代から棲息しているシナ類の木です。
山野に自生する科(しな)、楮(こうぞ)、葛(くず)などの
草木から取り出した繊維で糸を作り、その糸を織り上げ、
衣装や装飾品として利用してきたそうです。
------------------------------------------------
ところで、男鹿半島に上陸したナマハゲは、「五色のコウモリ」だった。
赤神神社の由来にもあるように、菅江真澄の伝承によると、
「コウモリの窟に漕ぎ寄せて、舵で船端をたたくと、その音に驚いて
コウモリがむらむらと出てくるが、この中に五色のコウモリがいるという。
それで五色のコウモリが五頭の鬼になったという伝説があるのだろうか」





※舞台島

「五色の人種」というのは、オーパーツとして、太古の昔より火の神を祀る幣立神宮
(宮崎県)に五色のお面が祀られています。
太古の人のことで、神は、紫人(黒人)、白人、黄人、赤人、青人の五色の人類を造られた。




※漢の武帝が舞台島に降りたち、巫女に舞をさせた伝承。

この五色人が全世界に散らばって、現在の世界の人種になったというのである。
ということは、ナマハゲの赤は、ユダヤ人やアメリカインディアンをさす。
ナマハゲの青い方は、スラブ人ということに。。。


※高校生のためのおもしろ歴史教室より
http://feb27.sakura.ne.jp/episode06.html

オカルトマニアたちの間では、ナマハゲは地底のアガルタからきた
青と赤色の宇宙人で、悪いことをしたので地上に追放され、
人を襲っていたという。それがナマハゲなんだと。
でもそのナマハゲは、村人に知らない世界をいろいろ教えてくれた。

赤と青の宇宙人で思うことがある。
かなり前にみた夢ですけど、よく小さい頃からUFOの夢をみてました。
無数に飛んでいるUFOを高い階のマンションからみながら、私の両親を探していました。
会えると思って探していたのですが、会うことができす。
がっかりして後ろを振り返ったら、銀色の物体に青色のラインが入った
UFOがマンションの部屋の入口(マンションは知らない場所です)
に浮いていて、すんごいびっくりしたのを覚えています。
これが自分の親?と思っていると、実際の私の母が出て来た。
で母親のすぐ真後ろをそのUFOがス~と通っていくのです。
「あ、ほらUFO!」って母に言うのですが、母には見えていないのです。
マンガでみるような超高層ビルが立ち並ぶ近未来都市のような風景で、
空は完全な宇宙でした。

もうひとつみた夢。
今度は銀色の赤いラインのUFOもみています。
これは知らない人の背後にピタっとくっついているUFOでした。
守護霊みたいなものです。
そのUFOに乗せてもらい、森の中を飛んでいる夢でした。
いずれのUFOも小さいものです。
シュタイナーは宇宙的な形象をもつ物体(見えない)は、
アストラル界という世界に存在するものだとされる。
私が見た夢は、アストラル界に通じるものだったかもしれない。

ただ、なぜ、赤と青なんだろう?とは思っていました。
ナマハゲは、人間のような姿ではなかったと思います。
誰かがそのような現象としてとらえ、それが幻であったとしても、
長年いろんな人に伝承されていくと、人は想像を現実にこの世界に呼んでしまいます。
「権現」という目に見える姿としてナマハゲは現れたのでしょう。

それが鬼のような怖い形相であるというのは、人はそのナマハゲに、なにか
とてつもない恐ろしい力をもっていると潜在的に思いこまされたものだと思います。

しかし、そのナマハゲが1000年以上も前、いやもっと2000年以上も
信仰され続け、人々から愛されるようになったのは、
アガルタでは悪いことをしたが、地上で、ナマハゲは神になったのではないでしょうか?
民間信仰の中で生きることに決めたナマハゲ。
要は、人間がナマハゲを神にしたのです。
アガルタで追放されたというのは、人間から多くのことを学べという意味でしょう。
人間の神になりたくてしょうがない宇宙人は、た~くさんいます。

秋田県の海では(たぶん男鹿半島なのかな?)赤いUFOがよく現れることで有名です。
なぜ赤なのかはわかりませんが、赤神神社があるように、
赤い星を象徴としているものだと思います。

----------------------------------------------------
もうひとつ、「五龍王」というのもあります。
荒神神楽では藁の龍をタツとよぶ。
神が霊としてあらわれる意味で、見えない霊を形象化させているもの。
王子舞というのがあるそうで、東西南北中央に青龍王、赤龍王、白龍王、
黒龍王、黄龍王を鎮める舞だそう。

やっぱり龍や蛇信仰にムスビつけられる。
蛇や龍は水を支配する。
それが大地と結びつき、蛇(龍)を剣や杖に見たて、それを保持する人物が王になった。
それが物部氏だったのです。

福や富、性の支配者、豊饒力とは、神楽にもみられ、
蛇の杖をもった姿とは、フギとニョカの姿であり、
水を支配する存在を、神として崇められた神楽は日本にはたくさん残されています。
大洪水の話、物部氏、オリエンタルユダヤ人。
はるか遠い伝説の地を求めて日本に辿りついた物部氏は、
静かにひっそりと秋田県で400年近く暮らしていたのです。

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ジオな男鹿半島

2017-08-23 | 東北地方の伝説(秋田県)
まずは、ジオパークな男鹿半島を。
あまり時間がなかったので、くまなく見ることはできませんでしたが、
面白い岩や海岸、八望台を楽しんできました。



寒風山も有名ですが、今回は行かず。
後で登山をするためにとっておきます。







海を見ながら走らせていると、「ゴジラ岩」という海岸に到着。
しかし、どれがゴジラ岩なのか全然わからない。





歩いていると後ろには、主人の他に、2組の夫婦がついてくる。
いやいや、私はゴジラ岩を知らないからわかりませんけど…。







みなで、あれがそうかね~・・・?
と、それらしき岩を別の方向から眺め、もうそれにしておく。
不完全燃焼で、ぼちぼち帰った。


※写真:男鹿なび:これがゴジラ岩

男鹿半島がいい!と思った理由は、ジオな世界があったからです。
火山はいいね~。


戸賀湾





八望台の展望は良かったです。
「マール」というのを見ることができました。



初めて聞いた言葉ですが、マールというのは、ドイツ西部のアイフェル地方の方言で
「湖」を意味するそうです。




3つのマール


遠くに見える山が、ナマハゲ伝承の真山(しんざん)


寒風山





「二ノ目潟は直径400m、深さ11.8m。
男鹿目潟火山群のひとつ。
一度の火山活動でできた火山を単成火山といい、
男鹿目潟火山群も含まれます。
この火山活動は、40万年前に起こりました。
火口の周りに噴出物が積もった丘があり、タフリングと呼ばれます。
目潟も単成火山ですが、丘がほとんどなくマールと呼ばれています。」






Wikiによると、
マール(英: maar)とは、マグマ水蒸気爆発による火山地形のひとつ。
水が豊富にある場所でマグマ水蒸気爆発が起こって火砕サージを発生し、
爆発によって生じた円形の火口の周囲に、少量の火砕サージ堆積物からなる低い
環状の丘を形成する。火口底が地下水面より低い場合は、中に水が溜まることが多い。
その場合、火口は湖となり、沿岸部では湾入する。
通常は1回だけの噴火で形成され(単成火山)、この点で成層火山頂上の火口(湖)とは異なる。


これはアメリカの水蒸気爆発。ウキンレク・マール群

「一ノ目潟は二ノ目、三ノ目潟とともに男鹿目潟火山群を構成しています。
東北地方では唯一の火山形態の一つであるマール(爆発火口)として
知られる淡水湖で、男鹿市の水源にもなっています。
直径約600m、水深約44.6m、6~8万年前に形成されたと考えられます。
また、地球の地下深いところから噴き出た岩石である「カンラン岩」が
見られる火山として、さらに湖底堆積物の層が縞状に堆積する「年稿」が
確認されている湖として、世界的に注目されている貴重な文化財です。」




このマールから「かんらん岩」というのがありまして、
なぜか興味をもった。
調べると、面白いシンクロに。
これを加工すると美しい宝石に変身。
「苦土かんらん石で緑色のもので特に美しいものは、
8月の誕生石であるペリドットとよばれ、宝石にされる。」
と。


ペリドット:8月の誕生石の意味は、夫婦の和合。
わ~、なんかシンクロ多いなぁ。夫婦神の和合だ~。



ペリドットは、含有する鉄分の作用によって、緑色を示す。
夜間照明の下でも昼間と変わらない鮮やかな緑色を維持したため、
ローマ人からは「夜会のエメラルド」と呼ばれていた。
後にペリドットは十字軍によって紅海に浮かぶセントジョンズ島から持ち帰られ、
中世の教会の装飾に使われた。200カラット以上ある大きなペリドットが、
ケルン大聖堂にある東方の三博士の3つの聖堂を飾っている。


は~、そーいう繋がり方ねぇ。
前回の秋田物部降臨地の話で、三倉神社の妄想してました。
「船岡の3人の貴人という伝承も、そっち系にいけば、
ベツレヘムの三人の博士みたいな話だ。」
と、なぜそんな話になったか、よくわからなかったのですが、
ジオで繋がるとは!
ペリドットの「東方の三博士」が、新約聖書に登場し、
イエスの誕生時にやってきてこれを拝んだとされる人物。


東方三博士

『マタイによる福音書』「占星術の学者たちが東の方から来た」としか書かれておらず、
人数は明記されていない。彼らはヘロデ大王に「ユダヤ人の王としてお生まれになったかた」
について尋ね、ベツレヘムへたどりつく。彼らはイエスを見て拝み、
乳香、没薬、黄金を贈り物としてささげた(この贈り物の数から「三人」とするのが定着した)。
ヘロデ大王は幼子を見つけたら、自分に知らせるようにと彼らに頼むが、
彼らは夢のお告げを聞いてヘロデ大王のもとを避けて帰った。
博士とは賢者の意味。


男鹿半島に到着した徐福の伝説があります。
錬金術師ですね。
火山の島には、宝石が眠っていることは知っていたはずです。

古い産地としては前述のセントジョンズ島があり、鉱脈は枯渇していないものの、
採掘が禁じられている。(wikipedia)
という事で、宝石も呪術的な信仰として生まれていました。
そのルーツは、旧約聖書にも登場するように、誕生石というもの。
誕生石を知っていた人でなければ、男鹿半島へ上陸することもなかったのでは?
誕生石の起源は、紀元前1世紀に遡り、ユダヤ古代史に記載されており、
石を四列に三個づつ合計十二個並べるそうだ。



「セントジョーンズと同じような島がある」という情報を聞いて、
男鹿半島に上陸したという妄想をしてしまう。
もしかしたら、その情報を伝えていたのが二ギハヤヒだったら面白いね。
それから、徐福がやってきたりしてね。(2000年前という話だから)
彼らは火山の島を重要視し、岩石を宝石にする技術をもちながら、
地球を堪能していたのですね~。

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秋田物部降臨地とノアの箱船

2017-08-21 | 東北地方の伝説(秋田県)
人の怒りが蔓延しているのでしょうか?
大洪水に落雷。1ヶ月近い毎日の雨。
特に太平洋側は。

しかーし、日本海側は晴れて青空がみえ、天気に恵まれました。
お盆後、また行ってしまいました~。
北東北へ。主人とGO!
今回は、Deeeeepすぎる旅でした。
高速は使わず国道をコトコト進み、鬼首から秋田入り。
雨で荒雄岳がみえず・・・。

協和町の唐松神社→三倉神社→男鹿半島→老犬神社→十和田湖・奥入瀬
→鹿角の大湯ストーンサークル→大日堂→八幡平→長者屋敷公園。

濃いっ!
濃すぎる!
秋田、青森(ちょっと)、岩手の3県をまたがる2泊3日。
老犬神社と大日堂は、予定外でした。
まさか、この2つを巡ることになるとはねー。
---------------------------------------------------
今回は、なまはげ伝承の男鹿半島に行きたかったので、
男鹿半島に宿泊してきました。
初めて男鹿半島へ行った感想は、すごく良い所。



なまはげは良く思われていないふしがあり、鬼が子供をとって食べるとか、
オカルトマニアでは、鬼くさい話をしているようですが、
こんな美しい空と海と島がある場所で、悪いことなんかできないよね。



寂しいとか孤独とか、住んでないから感じないだけなのか、
山よりは海の方が、開放的かもしれないな~。
日本海は美しい~。

さて、男鹿半島の話は後にしまして、もう一度行きたかった唐松神社へ、
また立ち寄りました。
秋田物部氏について、いろいろと書いていましたが、
勝手に書いてすみません。みたいな懺悔な気持ちを持ちつつ、御礼参り。
いつも妄想させて頂き、ありがとうございます。笑。

もう一度神社へ行ってお礼をしないことには、終わりにできないと思いまして。
行ってみたら、きれいなトイレができていたので、
やっぱり訪れる人が多いんですね~。
こんなにきれいなトイレが神社にあるなんて。。。普通ないですよ。



天日宮の裏にある丸い石を前回全く気づけなかったので、
今回は、しっかり石に触れてきました。
秋田物部文書によると、秋田物部氏は、北方のシャーマンではないか、という説があり、
私もそう感じることがあります。



秋田物部文書より
「二ギハヤヒが天降ったというこの山岳地帯一帯は「哮ヶ峰」という所であるが、
古代難波から大和への経路は必ずこの街道を通らなければならなかった。
その頃、大阪湾は深く内陸まで食い込み、今の枚方市のあたりまでが入江になっていた。
そんな折、北方系のシャーマンと南方系の稲作文化をもった一族が南方系の
樟舟(くすふね)に乗って大阪湾から淀川を遡上、この哮ヶ峰に定着した。
当時大和は狩猟民族である原住民が住んでおり、野山をかけめぐっての生活が主で
あったが、二ギハヤヒ一族が持ってきた高度な文化は原住民を支配し、
当時大和に勢力をもっていたナガスネヒコを懐柔し、小国家を形成した。」


唐松神社へ向かう途中、雄物川を通りました。
大きな川です。
でも、先月の大雨で氾濫したので、立ち入り禁止の看板が見え、
まだ復興中の所もあるようです。

秋田物部氏は、日本海の大陸から鳥見山(鳥海山)へ天降ったと考えられるので、
先に到着したのが、男鹿半島ではないか、といわれている。
男鹿半島に漂着し(漂流したこともあり得る)、雄物川を下って協和町境に入ったと考えられると。
そうなると、秋田物部氏は、大和物部氏とは異なる民族だった可能性も。



男鹿半島に最初に漂着したと考えるならば、ナマハゲ伝承やマタギの風習、
古代舟、龍信仰、大湯ストーンサークルから大日堂に伝わる舞などは、
秋田物部氏の影響を受けていると考えられ、実際行ってみて感じたのは、
古代アニミズムの自然霊というもの。

後で詳しく述べますが、秋田物部氏が何を残したのかは、
個人的に感じることですが、やっぱり「モレヤ」だと思うのです。
「モレ」という言葉がずっとありました。
アテルイとモレの。
秋田~青森~岩手で巡った最後が、アテルイの伝承地でした。
この伝説は知っていたけど、アテルイとは知りませんでした。
岩手で「長者」といったら、アテルイなんですね。
アテルイは個人の名前ではなく、マロに征伐された長をアテルイと呼ぶのです。
こういう終わり方が、やっぱりアテルイとモレなんだ、と思う旅でした。

秋田へ行く前から、気になっていた山がありました。
実際その山を目で確かめることはできなかったのですが、
それが「モレ」という言葉と繋がっているのではないか、と。
ふとそんなことを思っていたところ、大湯ストーンサークルをみて、
なんとなくわかってきた気がします。
--------------------------------------------------
雨が多いことと、大洪水という出来事がシンクロしてしまった。
それが今回の旅で気づかされたこと。
それは、龍そのものでした。
これが龍の働きなんだ、と感じることがたくさんありました。
それは、自然の中で生み出される「水」にあったのです。
水というか、靄ですね。「もや」
霧のような。中国の方がもっとすごかったけど。
レムリアかもしれないけど。ムーなのかなあ。


唐松神社蛇頭神楽(秋田民俗芸能アーカイブ)
http://www.akita-minzoku-geino.jp/archives/5422

それで、その龍という気のような風のような何とも言えない
空気感というのは、ミシャグの洩矢なんだと、改めて思いました。
言葉では説明できない、聡明で存在力の大きい何かが包まれているような感じ。
後の「守屋」は、大和物部氏だったかもしれないね~。



意外にも東北地方には「諏訪神」というのが似合わない気がする。
変な話ですけど、諏訪というよりは、モレヤと言った方が似合うのが秋田です。
アニミズムな諏訪神が鎮座している土地だと感じます。

実は、秋田へ行く前日、主人が「君の名は」のDVDを借りてきたんです。
話題になっていたので見たのですが、あれは諏訪湖ですね。
隕石が落ちてできた湖が、確か、諏訪湖だったと思います。
でも、私は隕石で思う湖といったら中国しか考えられないですけど…。

諏訪湖は、小太郎の母が龍でした。
そんな伝説が残されていますが、それは十和田湖も同じ。(隕石でできたのではないよ)
十和田湖も龍神です。

ミシャグとマタギとナマハゲと龍。
なぜか、しっくりくるのですが、それが残っているのが秋田なのです。
このあたりは、後ほど、妄想します。(あくまで妄想ですので)


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さて、もうひとつ行ってみたかった神社がありました。
唐松神社の近くに三倉神社があります。

伝承によると、船岡字合貝という地名で、
往古、尊貴3人騎馬にて通りかかり、この地に小休止した。
鞍を脱いでこの処に置いたので、三鞍さんとよんだ。
他には、清水の湧き出る所があり、水眼病に効果あり、
信者が訪れて治療につとめたことから、「盲」即ち「めくら神社」
が訛って「みくら」になったという。




この三倉神社付近に「十種の神宝を奉じ居住した」と伝わる。
いつの時代か不明だが、かつてこの神社に十種の神宝を一時納めていたというのです。

「盲」ということも十分、考えられます。
盲巫ということです。



おそらく、秋田物部氏の祈祷や呪術は、治療や道教に関係する蘇生など、
一般の庶民に向けて行っていたと思われます。ヒーリングですね。
そのシャーマニズムな祈祷は、後に、イタコやオカミサンやオナカマサマなど、
修験や盲巫に秘法といして受け継がれたのが、巫女の道具になったと思います。



秋田物部氏が北方シャーマニズムの由来があること、
巫女の道具も、北方シャーマニズムに酷似しているということ。
偶然ではなく、同じ民族であった一族どうしで、北東北を開拓しながら、
自然霊と共に暮らしていたことは想像できます。
なので、北東北にはイタコが多いのです。

また、「三」という数字をあてているのも、
住吉三神が考えられます。

唐松神社には、神功皇后の伝承がありますが、
三韓征伐を果たした神功皇后は、その帰り男鹿半島に立ち寄り、
さらに生保川(雄物川)を遡上、石見川(岩見川)を経て、船岡の地に上陸し、
皇后はその地に船玉大神を祀ったという。

この神社の祀神は、海神の表筒男命、中筒男命、底筒男命の住吉三神。
この三神は、神功皇后を加護したと伝わる。

思いだしたのは、仙台の愛子にある諏訪神社です。
諏訪神社は、本来、住吉三神でした。
愛子は、秋田物部氏が「愛子神」の護符をもっていたこと。
また愛子は、早くにキリスト教が伝わっていたこと。
伊達政宗の長女が、愛子のキリスト教に深く関わっていたこと。



唐松神社の天日宮は、聖杯だと思っています。
聖杯を丸い石で胎水とみたて、丸い石は、出産のオブ石のこと。
子宮の意味があると思います。
「大地母神」のかなり古い時代のマリア様を感じます。
要は、天日宮はお母さんのお腹みたいなもので。
そう考えてみると、天日宮は、女性的で幼い少女の純粋なイメージがあります。
とにかく印象としては、明るくて元気。



なぜ、船岡という地名なのかは、
船が転覆してしまった(突如、大嵐がきて)のがそのまま丘になったという。

こういう話をきくと、ノアの箱船を思うのです。
船がそのまま丘に乗りあがったということを伝えているわけです。
それは、深い話になっていくのですけど、
ノアを助けたのは龍みたいな存在というか。
大洪水を起したのも龍(水)なのです。
でも、人間を残したかったのでノアを助けたんですね。
ノアの種を残すことは考えていたので、人類が滅亡することは免れた。

しかし、そのトラウマがある。
天からみていた羽をつけた人間に近い?ある存在が、
それを良しとしなかった。
なので天から地上におりてきた。
おいおい、的なツッコミ程度だったと思うが。笑
話が違う、と。
なんなら、自分らが人間になろう、と。
アヌンナキだっけ?
人間(ノア)は、未熟と思っていたから、私が王になろうと言ったのが、
シュメール人の祖といわれる存在だったと思います。
アヌンナキとかエンキとかエンリルとかいろいろシュメール文明に出てきてしまう。

それから龍を信仰する人たちは、ノアの末裔となるのですが、
大洪水を引き起こされて、また人類が滅びるのは困る為なのか、
それとも龍神という何か宇宙的存在を祖にしているから、
喜ばせるために、石棒を立てて神を降ろしてきたのか・・・。

要するに、秋田物部氏の祓えというのは、ノアの大洪水のことを示しているのでは
ないかと思うのです。大洪水を引き起こしてしまったのは人間の罪があったからです。
欲望と説明されていますが。

混沌とした「中ツ国」の祓えを祝詞としているのは、
「葦原中国」のことです。
秋田物部氏の祓に「日高見国」はないんです。

葦はシュメール語で「gi」「ギ」という。
自分たちが住む場所を「gi」とよんだ。
イザナギの「ギ」でしょう。
シュメール人の祖、エンキがいた所が、神話でいう葦原中国という話がある。
エンキの意味は不明ですが、「水」に近い意味があるそうです。
霧のようなまだ地が治まっていない世界=エンキ=葦原中国


※エンキ(水が流れている)

そういう世界観を知っていた秋田物部氏だったので、龍封じの祈祷をしてしまうのです。
大洪水を起さないために。
自分たちの祖をどこかで抑えてきた感じがします。
それは地震にも繋がっています。

この「gi」が「キ」になっているのですが、
巨石に書かれた古代文字に、「キ」が書かれているのですが、
男神の意味があります。
盛り土の小さい山も、シュメール語で「ki」という。

船岡の3人の貴人という伝承も、そっち系にいけば、
ベツレヘムの三人の博士みたいな話だ。

「往古、尊貴3人騎馬にて通りかかり、この地に小休止した。」
とありますが、ユダヤ人であると思うので、

「キリストがベツレヘムで誕生した直後、東の国で誰も見たことがない
星が西の空に見えた。3人の博士、すなわちカスパール、メルヒオール、
バルタザールらは、ユダヤ人の王が生まれた事を知り、
その星に向かって旅を始めた。」

この伝承は、ベツレヘムの道を進み、星が止まった真下にマリアに抱かれた
イエスを見出す話になっています。

船玉神社には、神功皇后の妊婦姿の絵馬や、
子を抱くマリアのような像があります。

住吉三神の「筒」は、星なんですが井戸の水の意味がある。
水=星と捉えていた三つ星。
オリオンと思うのですが、違う星のことを言っているかもしれません。

秋田物部氏にとって、神功皇后とは、マリアと重ねている部分が見え隠れしている。
ま、このへんは、自由に妄想して。

ところで、西日本と東日本の天候が見事に逆転してますね。
西は晴れで東は雨。
こういうところで、何か繋がっていそうな縄文聖地のある秋田ですが、
秋田物部氏の妄想はこのへんにして、
次は、とうとう来てしまった。
いや、導かれてしまった・・・ナマハゲに会いにいく。

おまけ------------------------------------------------
「目覚めの水」 

応仁の昔から神室道中及び有屋峠を越える
金山道中の力添えの水として人々に愛飲されてきた清水。
ゆざわジオパークで見ることができる岩石の中で
一番古い年代のもの。
この岩石は、約1億年前にマグマが地下の深いところで
ゆっくりと固まってできました。










目覚めの水・・・龍の目覚め。。。
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袋田の滝と狐の恩返し

2017-08-20 | 神話・伝説
土蜘蛛と言われる人たちの伝承が多いのは、群馬県。
ヤツカハギという名前が出てきますが、土蜘蛛とされる。
利根川流域に住んでいた話があり、「トネ」という名前から
想像するに、やはり女性を象徴している名前だと思います。

羊太夫という名前も群馬県の多胡碑にあり、
羊太夫=八束脛(ヤツカハギ)という。
群馬から小鹿野の方へ入り、秩父の和銅開拓に早くに乗り出した人たちであり、
そのルートをたどると同じ型の縄文土器が見つかっていることから、
縄文人が甲信越~秩父へ入ってきた人たちは、かなり古い時代からいた民族と考えられている。

群馬県にある大幽には、ヤツカハギが藤の蔓(ツル)を伝わって洞窟の奥の方に
入りこんでいることを知った村人が藤の蔓を切り落としてしまった伝承がある。
その後に、ヤツカハギを見たものはいないと。

「藤蔓」は、産鉄に出てくる用語でもあり。
新しい製鉄の技術が伝わったことを意味する。

「新しい技術をもっていたのは大和側で、国譲りをした出雲がからむ。
大国主の子といわれる御名方神(タケミナカタ)は、藤蔓を武器とし、
古い技術をもっていた諏訪の鈴(鉄混じりの褐鉄鉱)を原料とする
洩矢神(鉄の輪が武器)に勝ったことを示している。
即ち、藤蔓の旅ですくい取った砂鉄を溶かす高温技術
も持った御名方神が、スズを低温で熱して叩くただけの洩矢神に勝った。」

※「長野とは?地名に隠された意味を解く」福島 貴和氏より参照。

その群馬県の大幽に似ている伝承が、茨城県の地名由来になっています。
茨城県の地名由来は、ヤマトタケルに抵抗した悪者(ヤツカハギ)
が巣穴から出て来て留守の間に、茨を穴の中に入れ馬にのった
兵士たちがヤツカハギたちを追いこんだところ穴に逃げた彼らは、
その茨によって死んでしまったという。

これが茨城県の地名由来なんだそう。



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八槻から大子町へ移動する途中に、鏡石や那珂に入る。
那珂は、中臣鎌足の「中」で、昔は、那珂と表記した。
那珂川は、栃木、茨城を流れる一級河川ですが、福岡にも同じ那珂川がある。



那珂川は古代には粟河(あわがわ)とも言い、那珂郡を貫流して海に注いでいた。
「ナカ」という地名の由来は、常陸国(ひたちのくに)のまん中に位置したからとか、
那珂郷(現緒川村那賀周辺)が那賀国造(なかのくにのみやつこ)一族の最初の拠点で
あったからとか、「野処(ヌカ)」がなまったものであるとか、
晡時臥(くれふし)の山(現朝房山)の伝説に出てくる蛇(ナガムシ)の信仰に由来するとか、
いろいろな考え方がある。

那珂川を粟河と言ったのは、阿波郷(あわのごう)に沿って流れていたからであろう。
「アハ」という地名は、那賀川左岸の桂村阿波山・粟の地名として現在も残っている。
この周辺一帯の地は古代には阿波郷と言われ、延喜式内社阿波山上神社の所在地で、
丈部(はせつかべ)などが住んでいた。

「アワ」という地名は、土地が肥え、粟の栽培に適していたことに由来するという
考え方もあるが、阿波郷が那珂川の沿岸に細長く伸びた郷であったことを考えると、
「アハ」の語源は「アハク」「アバク」つまり「暴」「崩れる」で、
「崖地、崩れ地」を意味するから、郷内のいたる所で見られた那珂川の侵食作用による
崖地・崩れ地にもとづいて名付けられたものと考えられる。

那珂川は阿波郷沿いを流れたあと日部郷(くさかべのごう)
(現常北町上泉・那珂西周辺)・大井郷(現水戸市飯富町周辺)などに沿って流れ、
那賀郡の郡衙の地へたどり着く。
現在の水戸市渡里町である。ここには郡衙の他、郡の寺や
河内駅家(こうちのうまや)などがあり、那珂郡の政治・経済・文化の中心地であった。
(省略)
さて那賀郡を貫流した那珂川が太平洋に注ぐ所を阿多可奈湖(あたかなのみなと)と言い、
那賀郡と香島郡との境となっていた。
古代の那珂川の河口は現在の涸沼までをも含む広大なものであって、
それを阿多可奈湖と言ったのである。


※奥久慈県立自然公園
http://www.pref.ibaraki.jp/seikatsukankyo/kansei/shizen/koen/03.html

続日本書紀に、
丈部が登場し、伊具郡擬大毅陸奥真成らに阿部陸奥臣の姓を賜わる。と書かれている。
丈部は阿部氏服属の部民。
「大毅」は、軍団の長のこと。
宮城県の名取郡には、エミシ征伐の際に送り込まれた上毛野名取朝臣がいる。
この方は、吉弥侯部から姓を賜る。吉弥侯部(はせつかべ)=丈部(はせつかべ)。
早くにエミシ征伐にやってきた人が、丈部となる。
その丈部は、積極的に陸奥に豊受比売や駒形神を祀っていった。

「この一帯は、古代阿波郷と言われ、延喜式内社阿波山上神社の所在地」とありましたが、
阿波山上神社の祭神は、少彦名命。
童子姿の神が手に粟穂を持ち、大杉に降臨した話がある。
龍ヶ塚古墳の天日鷲命が少彦名命であると考えると、
会津~天栄村~那珂郷までやってきた丈部があり、後に朝廷側につき、
阿部姓を用いたと考えられます。
-----------------------------------------------------
・袋田の滝
日本三大瀑布の一つに数えられている別名「四度の滝」は4段になって流れ落ちるからとも、
四季それぞれに趣が異なるためともいわれています。
古来から訪れる人も多く、西行法師は「花紅葉よこたてにして山姫の錦織りなす袋田の滝」の
一首を残しています。


四度滝不動堂







・八溝山地
八溝山は標高1,022mで県内最高峰です。
全体的に見ると高度600~700mの部分が多く、中央が高く周囲に向かって、
だんだん低くなる傾向があります。
この山塊は、八溝古期岩類と呼ばれる中古生層とその中に貫入した
花崗岩類の分布地域とほぼ一致し、山塊の山地地形はこれら古期岩類のつくりだした地形です。

・久慈山地
八溝山地に比べると規模の小さい山地ですが、北よりも生瀬富士、男体山、篭岩山、
武生山(標高400m~650m程度)等があり県内では最も起伏量の大きい山地です。
この山地の突出部には、男体山集塊岩と礫岩の地層が分布し、
東西両端には断崖絶壁を伴っています。この断崖の成因は、
主に集塊岩層と周囲の砂質岩間の岩質の差によっておこる選択侵食作用の結果です。


※(図)奥久慈県立自然公園

袋田の滝の「段差」は、すごい。
「節理」とかいう言葉が。。。ブラタモリ気分で観光してました。笑

大子町に伝わる伝説---------------------------------------------------------

むかし、おらが婆様から聞いた話じゃよ。茨城県の上岡(うわおか)という所に、
甚兵衛さんという樵(きこり)の爺様が住んでおったそうじゃ。
ある春の日のこと。甚兵衛爺さんが山で木を切っておると、猟師に追われたキツネが一匹、
爺さんの所に逃げてきた。すぐに猟師がやって来て「キツネを見なかったか?」と聞いた。
爺さんは「あっちに逃げた。」と、あらぬ方向を指さし、猟師が去った後、
キツネを山に帰してやった。

やがて夏がやって来た。その年の夏は酷い暑さで、甚兵衛爺さんは暑さが身に堪え、
寝こんでしもうた。そうしてとうとう意識を失ってしもうたそうな。
やがて爺さんが気がつくと、美しい娘っ子が一人、爺さんの枕元に座って、
かいがいしく看病してくれておった。爺さんがお礼を言うと、
娘っ子は「私はあなたに命を助けられた者ですから。」とだけ言う。
じゃが、爺さんはどうしてもその娘っ子のことを思い出すことができんかった。

それからというもの娘っ子は、朝早くから食事を作り、部屋に美しい花を飾り、
薪を里に売りに行き、血を分けた実の子でもできんような熱心さで爺さんの世話をした。
甚兵衛爺さんは嬉しゅうて嬉しゅうて、涙で布団を濡らすことが何度もあった。

じゃが、秋の終わりも近い冷たい雨の日、爺さんの容態は急に悪うなった。
そうして「すまねえなあ、ワシのような老いぼれに。実の子供でもねえのによ。」と、
何度も何度も娘っ子の手を握り、すまねえ、すまねえと繰り返しながら甚兵衛爺さんは死んでいった。

甚兵衛爺さんの亡骸は村人達の手で山の中腹に葬られた。
その頃から急にあの娘っ子の姿はみえなくなり、村人達の中にもあの娘っ子の行方を
知る者は誰一人いなかった。

村人達は、あの優しい甚兵衛爺さんの事だから、助けたキツネが恩返しに出てきた
のだろうと噂し合った。そうして、甚兵衛山のキツネのように、
世話になった人には恩返しをしなけりゃならねえと語り伝えたという。

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茨城県はもっともっと古代史を堪能できる場所がありますが、
時間がないので、終了~。
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土蜘蛛と八槻都々古別神社

2017-08-19 | 東北地方の伝説(福島県)
ツツコパート2.(パルコpart2みたいに呼んでみる)
もうツツコの呼び名がしっくりきてます・・・。





私はもうツツコは終わったと思い、お腹いっぱい満たされたような気分で、
田園風景をぼっけ~と見てました。
すると、運転していた主人が「あれ、立派な神社だよ」と言った。
??振り返ると確かに大きな鳥居が見えました。
まったくどこを走っているのかわからなかったので、マップで神社名を調べたら
「八槻都々古別神社」とある!!!

ツツコーっ。
ここは八槻かっ!
8人の土蜘蛛を退治したヤマトタケルの伝承地。

もどれ、もどれ、ツツコが呼んどる。
すぐUターンして、八槻都々古別神社へ参拝する流れに。
主人が気づかなかったら、素通りでした。
・・・でも、八槻も馬場も都々古別神社は行かなくていいや、と思っていたのは確かです。



ルートを変更したから、八槻都々古別神社を通ることになったわけです。
それだから、やっぱりツツコに何かあるんだろうと思ってしまう。
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2013年「槻(つき)から欅(けやき)へ」で書いていた内容をもう一度。

八槻都々古和気神社の「八槻(やつき)」に伝わる伝説。
八目の鳴鏑矢で賊を射たおしたとあり、その矢が落ちたところを矢著、
正倉がある矢著を八槻となった。と伝わる。
その八槻とは、八人の土蜘蛛で
①里鷲②神衣姫③草野灰④保々吉灰⑤あざになひめ
⑥たく猪⑦神石かや⑧さしな、が八か所の石室にいたが王に
従わずヤマトタケルは土蜘蛛を討伐した。
「七発の矢は雷のごとく鳴り、エミシを退け八発の矢はツチグモを射ぬき倒す」
そのところに、槻の木が生えた。

(参照:古代語の東北学(福島博物館館長:高橋氏)



槻はケヤキのことで、神が宿る木といわれ神聖な木。
斎槻は「いつき」といって五十槻と書く。
五十は、イソと読む。
熊野のイソタケル(五十猛)の五十と関係あるのだろうか?
また、多くの市区町村がケヤキをシンボルにしているが、都道府県でシンボルにしているのは、
宮城県、福島県、埼玉県のみ。



都々古別神社の御田植祭りは有名。
稲作の作業過程が神官の技として伝わっている各地の御神楽と異なり、
狂言や舞、呪術的な予祝芸能などが独特。
この独特な文化をもたらした発端は、会津からだと思います。
会津のブナ原生林をみれば、渡来人より先に縄文人が住んでいたことがわかる。





焼畑から稲作への転換期、それに従わなかった山の人たちのことをエミシやツチグモと言い、
巨石のある洞窟などに住んでいましたが、関東地方にもいた土蜘蛛が
東北へ逃れて蝦夷になったという話があるのも、
埼玉にある稲荷山古墳の豪族に関係しているようです。

岩手県花巻市にある胡四王(こしのう)神社は、越王と考えた方が自然かもしれない。
越国~会津へ。あの宮沢賢治も胡四王神社を好んで参拝していたそうです。


ギボウシ
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大和葛城が本拠地としていたのは、鴨家の方。
葛城の高鴨阿知須岐託彦根命神社に御鎮座され、
そこで賀茂大神と呼ばれた。
アジスキタカヒコネの本源といわれる神社のことで、高鴨神社となっている。
賀茂ではなく、鴨であり、全国のカモ家の総本山。
その中心に祀られているのが、アジスキタカヒコネなのです。





ところで、鴨は「鳥」を使う。鳥をトーテムとしている人々らしい?
大阪に大鳥大社というのがあります。
都都古和気神社では、アジスキタカヒコネ(鴨氏)とヤマトタケルが祀られている。
その意味に、大鳥神社がありそうなのです。

「日本武尊は西征して熊襲を平定し、東征して東国を平定したが、
伊吹山で病に倒れ、伊勢国能褒野で薨去する。遺体はその地に葬られたが、
その陵墓から魂が白鳥となって飛んでいき、大和国琴引原で留まり、
また飛び立って河内国古市に降りたが、最後に大鳥の地に舞い降りたので、
社を建てて祀った。これが大鳥神社の始まりだとされる。
神域は千種森(ちぐさのもり)と呼ばれ、白鳥が舞い降りた際、
一夜にして樹木が生い茂ったと言われる。」




しかし、白鳥は大鳥の習合とされ、元は大鳥連祖神だったのが、
ヤマトタケルの方が上になってしまった。なので2柱を祀っている。
そのように明治政府が変更したという。
ということで、都々古別神社もアジスキタカヒコネなのだけど、
ヤマトタケルも祭祀として祀っているところが大阪の大鳥神社と同じです。

まつろわぬ民の征伐は、九州から始まった。
阿蘇氏や火君、多氏、安部氏や物部氏など。
大和にいた豪族たちは、蘇我氏や秦氏などの政権により、常盤国へ逃れた。
柵を設けた関東の一番北は、茨城県にあたるわけです。

だから、常盤に行く流れになっている?のですね。
もうひとつ、馬場にありますが、ここはちょっとご縁がなかった。
八槻は数年前から知っていた伝説だったので、
偶然にも、八槻を訪ねることができて良かったです。
これでしばらく落ち着きそうです。

さてこの後、茨城県へ行ってみました。
栃木に近い大子町ですが、有名な袋田の滝を見てきました。
次は茨城県の伝説へ。
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