秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

慈覚大師(円仁)と大蛇伝説

2017-07-29 | 東北地方の伝説(宮城県)
岩沼の岩蔵寺縁起より
大蛇のこと--------------------------------------------------

慈覚大師薬師如来勧請し給わんとて、この地に入り給うに深山宮を祈り奉り、
願わくば薬師如来勧請の地の御山の中に貸しさしめ給えと祈念し給えども
神堂拒み給いしや。

御宮より官女現れ給い、慈覚大師に向かって曰く「この山成り難し」という。
慈覚大師の曰く、「願わくば十年の間、貸し給え」とて証文を書き、官女に渡せり。
官女この証文請取り忽然として、その姿は見えざりける。
是によって慈覚大師、薬師如来を勧請あって十年を過ぐるに、官女また現われ来り、
慈覚大師に向かって曰く、「約束の如く十年を経たり。本地に戻されよ」と言う。



慈覚大師曰く、「是千年の証文なり」と言えば、官女怒れるさま現れ、
「慈覚我をよく、たばかりしやな。我は是深山権現の使いなり。我が粗忽にせよ、
このままには成り難し」と言うままに、忽ち官女の姿変じてはたひろと大蛇となり、
雲を起こし雨を降らしめ、大風しきりにして、諸木を倒しはたひろの大蛇紅の舌をだし
火煙吹いて慈覚に飛びかかる。
慈覚も一世の大事と秘文を唱え独鈷を以てこれを防ぐ。
その有様百れんの雷、地に落ちかかる如く震動、雷竜おびただしく、
黒雲の中より、慈覚と大蛇あるいは現れ、あるいは隠れ、その争い二夜三日にして
ようよう雲晴れ風雨天しずまりけりとなん。

慈覚大師、大蛇の怒り鎮めてみさかの石中にその霊気を祀り籠めて、
石上に不動尊を立て給う所なりと言う。




---------------------------------------------
舞台となった場所は、マップでいうこのあたりらしいのですが、
深山宮は、「陸奥の下り給いて名取郡志賀村という所の山奥に
深山宮の社ある所の方に、薬師如来を勧請す。」とある。



さて、仏教と神道(修験)の対決のように聞こえるのですが、
この古道は、この先に北へ続く高舘山へと繋がります。
垂水ダムのある場所は、阿部貞任と宗任の兄弟が城を築いていました。

他にも岩蔵寺縁起は、
「我朝人皇五十四代仁明天皇の御字に円仁と言った人あり。
此の人、後に慈覚大師という。
陸奥の下り給いて名取郡志賀村という所の山奥に深山宮の社ある所の方に、
薬師如来を勧請す。折しも名づけ給える名石、深山宮の古跡あり。

また源頼義公その御子八幡太郎義家公の古跡、頼義の八幡宮その他、
名石古跡ありといえども、年を経るに従って所々の伝も定かならぬ程にこそ
なりつれば、古の伝を失わんことなからしめ、此の地の老人に尋ね、
または元禄年中記録せし里諺集と言うのによりて、あらあら昔の伝を
得て以て志賀のかたみにもなれかしと一筆を残せり。
なお知人は是に書き添え給うべきこと、こい願うものなり。」




と話が続いています。

「老人の曰く、昔、深山権現大社にして釣鐘堂は小川村にあり。
また朝市場などと言う所もありし由言い伝う。また志賀村の中に
島居原という所あり。是は昔、深山宮の鳥居の立ちし所なり。」


鳥居原の前は広いたんぼが見え、のどかな風景です。



「その故に地名、鳥居原と言う。今畑の中に鳥居の石場なりとて
二つの石の並びし所あり。またそのほとりに深山宮の御手洗水とて田の中に、
井の如くなる所あり、また大は石場として深山宮の大はたを立てし所とも、
また源頼義公の大はた立て給うとも言い伝う。
鳥居の南西に当たる山なり。深山宮のみこし御巡行のみぎり、
御休所とて同邑の中猪倉という所に古木の桜一本あり。
畑の中に二四四方ばかりの小盛になりたる所あり。
昔、大社にして、名取の鎮守たる由に承る。
深山権現の社家方、住居の跡、今弥宜内と名付けて百姓あり。
昔は大社にて弥宜神主ありと見えたり。」


「また里諺に曰く、慈覚大師深山宮の地を借り給いて、薬師如来を勧請ありしによって
深山権現逆鱗(げきりん)=(目上の人の怒り)にましまして、
南富沢に飛び去り給うと言う。
至って覚束なし。神をさようのものにあらず、人だに心あるものは慎んで我が
居所をしらざるものなり。いわんや神は人の鏡になり給うものなる故に、
いかでか去り給ういわれなし。
何時しかお宮も破れ拝する人もなければ、俗の詞に借り、
言いならわしたるものなり。このこと誠と心得必ずしも神威をけがし奉るべからず。」


ということで、ここにはいろんな伝承がある場所でありますが、
この岩蔵寺が志賀にあり天台宗で、名取老女生誕の地と伝わるのです。

岩蔵寺の詳細など詳しくは、「名取熊野老女物語」で書いていますので、
そちらをチェックしてください。
名取熊野老女物語
http://blog.goo.ne.jp/natoriuba/e/6547f22993a17f62155db49b7a287ab1
だんだん、深い話になってきましたよ~。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

古墳群の上にたつ加計学園

2017-07-26 | 日記・エッセイ・コラム
渦中にある加計学園。
せっかくなので、古墳の話をしよう。
政治の話でなくて。
ネットで今、ザワついた話がありまして、
加計学園は、文化財級の長の古墳(前方後円墳と群衆墳)を壊して建てられるそうです。

「加計学園」は愛媛・今治市に校舎を建設中の獣医学部。
来春の開学に向けて急ピッチで工事が進んでいるが、実は建設地は、
市内でも貴重な歴史的文化財が発掘された場所。
6世紀後半(古墳時代後期)の前方後円墳「高地栗谷1号墳」で、
獣医学部の校舎はその古墳を破壊して建てられる。」






歴史オタクとしては、古墳に注目したくなる・・・。

確かに、図面をみるとそんなに規模は大きくないようですが、
前方後円墳がありました。
それをどうやって破壊したのかわかりませんけど。

こういう話は見えないところで結構あると思います。
まだ表にでるだけまし。
武甲山なんて、40年以上も山頂のイワクラ(修験の場)
をダイナマイトで発破して掘り続けてますから。
しかも山だからね。
それもそれで苦痛。

業界の人から知った話ですが、建築をする際、歴史的遺物が発見された時は、
報告する義務?があるそうです。
基本は報告するそうですが、
そこで文化財級のものであるかどうか、調査が入り、
図面等におこしてから、埋め立てるそうです。
場合によっては一部を保存することになりますけど。
しかし、それで工事が滞るのを嫌がり、報告せずに遺物が見つかってもそのまま工事を
すすめて埋めてしまう事もあるそうです。(まれなケースですけど)
けっこう、そういうのあるんだろうなあ、と思ってます。
ただ、古墳の場合は、普通、保存すると思いますけどね。
古墳なんて今の時代古い・・・と思うのかどうか。

古来の居住地を埋め立てて住居や建物を建てるのはわかります。
古墳となると、時代が違うだけで、考えてみれば墓場ですよね。
しかも、長となると祈祷とかしている遺物がたらふく埋まっているわけで。
なんだか、透明の玉が見つかったとか。(呪術っぽい)



どんだけ念があるの・・・と思います。
そこに獣医学というのがシュールすぎるっ。

こんな話が浮上する大学なんて、やっぱり嫌ですね。
知らなかった方がよかったと思ってしまいますが、
このような話が出てくるのは、よっぽどです。

6世紀頃というと、大型前方後円墳が作られなくなり、
小型の円墳がたくさん登場してきます。
詳しいことはわかりませんが、おそらく、円墳群があり、
そこをおさめていた首長のお墓があったようです。
------------------------------------------------------
で、思うに、やっぱり、民族性=県民性なんだと思うのです。
古墳や歴史的遺物を破壊することに、あまり関心がない。
遺伝的な民族性が影響していると思ってしまう。

例えば、栃木県は昔、下野国といわれ、早くから都(奈良)の朝廷の
配下におかれ、近隣の先住民を従えてきた所です。
主人が栃木県民ですが、
貴族社会が根付いている人たちが多いので、関東地方の中でも、
ちょっと栃木県民は、おっとりしているんですね。

栃木県の女性は、きれいな人が多いです。
貴族顔に近いかも。
宇都宮市内にも円墳は結構ありますが、
県民性というのか、歴史的遺産に対する意識の高さを栃木県民はもっていると感じます。
それは、日光修験の影響もあるのかな。

古墳を壊すなんてことはない。(まあ、普通はないよね)
古墳があれば、その下に道路(トンネル)をつくっている道がありました。



※塚山古墳。
塚山南古墳の下はトンネルで道路が走ってます。



トンネルの上に古墳が一基あったんです。
私はそれをみて、正直、カルチャーショックでした。

宮城県は、こうなります。
遠見塚古墳は、4世紀頃の名取(宮城南部)を治めた首長の墓です。



現在の仙台市。
中途半端な残し方。
なんでこうなったんだろう?

かろうじて保管されてますが、過去2回にわたり危機があったそうです。
なので、完全な状態ではないんですね。
江戸時代は物見台になっていましたが、昭和22年、米軍が霞目飛行場を
拡張工事する際、後円部の上段の北側を半分ほど削り取りました。
この時、東北大の伊藤信雄教授により、粘土に包まれた棺が2基あることが
確認されました。
二度目の危機は、仙台バイパス建設工事によるもので、
昭和37年の計画では古墳の中央を通るルートが設定されていましたが、
伊藤信雄氏らの保存のための努力により、現在のように変更されたそうです。


昔の遠見塚古墳。

伊藤教授の保存がなかったら、分断されてたわけです。
もう教授の執念ですね。
古墳を分断するとなると、首と胴体を斬るようなもんで。
これで、国の史跡なんです。


完璧な設計。
すでにこの時代から、計測して古墳をつくってました。

こっちは人が荒いんですね。海の人たちだから。
それが風土をもつ人たちの特徴なんだと思います。(運転も荒いが)
秩父もそう。(運転はおとなしいけど)
豪族がいた場所というのは、貴族社会は根づいてないから、古墳に対する
意識もあまりないんじゃないか、と思う。
東北地方は、前方後円墳や古墳群は関東、近畿地方に比べて少ないですけど。

それが山民、海民といわれた人たちで、過去、何度も朝廷(渡来人)に追われた
人たちなんですね。
それは、加計学園のある今治の古代史もそうですから。(後ほど)
それは、武蔵の秩父とも繋がっているようなんですね。
あら~。。。

だからこういう場所は、破壊される運命にあるのだな・・・。
その土地の業(カルマ)を受けてしまうのだろう、と思ってしまう。

ほとんどの人が遠見塚古墳を知らないでガンガン、バイパスを飛ばしてますけど。
朝廷側の人がたてた古墳と考えれば、エミシにとって古墳は別に気にならないのでしょうが、
支配者側の墓といえど、最初はそうでしたが、途中で地元の人たちと
暮らすうちに、大和人だった人もエミシ側になって一緒に戦って亡くなった長です。
そういう古墳なので、私はここを通るたびに、ちょっと気になってしまいます。
すみませんね~、通らせてけろ~。みたいな気持になります。

今治市は、かつて越智氏がいたところです。
朝廷側についた熟エミシみたいですが、元は海民だったと思います。
すでに住んでいた海賊(こちらも海民)を、打倒してました。
倒された海賊たちは、日本海に主に住んでいたのですが、
奥山へ逃げ全国に散らばっています。
越智氏も信州~秩父へ入り、海民として丹党一族になってます。
それが武蔵丹党になっているので、秩父も越智氏の影響をもってます。
越智氏は丹生なんです。
どーも、この今治市は、玉川といわれた地名に関係しているそうです。
古代の豪族は、玉川を占拠していたらしい。
よって、ここは伊予国を建国した強大な豪族の地となります。

長くなるので割愛しますが、この一族は、陸奥にもきてます。
興味ある方は、こちらを参考にしてください。
※伊具郡の古代史
http://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/0cf481bb8ed50fcb592f762a6d706b2c

ちょっと言うと、四大将軍の一人、大彦命は阿部氏たちの氏族と北陸に派遣され、
埼玉の行田にある稲荷山古墳の鉄剣で「意富比~」の文字があることから、大彦命の説がある。
埼玉には巨大な古墳があります。
そのくらいの古墳を造れるくらいだから、東北には4世紀頃に会津に向かい、古墳群を残したと考えられます。
その集団は、どこからやってきたのかは、越智(オチ)の越からと考えられます。
越智氏は伊予国の豪族。
日本海~諏訪~武蔵へ入り、会津へ向かい東北地方へ、阿武隈川や名取川、
北上川を使って航海していたわけです。

今治市玉川は今から1300年以上も前の古代に丹生といわれた土地でした。
朝倉というところで道路工事をしたところ、自然由来の水銀が発見されたそうです。

秩父は諏訪信仰の影響を受けているので、丹生都姫を祀る丹生神社もたくさんあります。
秩父の中村氏は、丹党中村氏です。
この人が、丹生一族のボスでした。ここから武蔵平家となり力のある豪族となっていきます。

丹生は水銀ですが、鉱山を知り尽くしていた民です。
不老不死を思想にしていた人たち。

そのような人たちが、他の先住民を従え破壊を繰り返してきたと思います。
もし、その墓の首長が、越智氏一族に関係するならば。
今、このような形で破壊される運命になるのも、
いまだに歴史は繰り返され、これからも破壊は続けられるのだな、とも思う。
そういうところは、いまだに因縁があるわけです。残念ながら。
そういう土地はまだたくさんあります。

じゃ、どうしたらいいか。
それがないんですね。
壊してしまったものは、元に戻せない。
そうやって「何の想いもなく」破壊するから、こんなことになる。
遠見塚古墳は、なんとか保ってくれた。
東北大の教授が守ってくれたわけです。
それにくらべて・・・伊予国は、残念です。

本当は、壊される前に、阻止しないとならない。
でも日本人は、壊すことに専念します。
そんな業(カルマ)が渦巻いているのかもしれない。
だから、こんな時代になってしまう。
このしつこい民族性がどこからきたのか、わからない。
これが純日本人のルーツなのかどうか。
違うといいたけれど、これが今の日本なのです。
-----------------------------------------------------
最後に気になる「業」のこと。
この話を聞いて、業除神社がうかんできました。
今、日本の政界が揺れてますけど、
気仙沼に行った時に、業除神社(ごうのけじんじゃ)がありました。
唐桑村鮪立という島へ上陸し、仮宮を建て熊野本宮神を安置したそうです。
最初は、業除神社、次に舞根神社(瀬織津姫神社)に安置したと伝わります。

紀州熊野から瀬織津姫を移した話。
最初、上陸した鮪立にある業除神社は熊野神の分霊というのだから、
熊野修験たちの中に、瀬織津姫があったことは確かなのです。

その業除という意味は、「カルマを除く」とよめる。
正確な意味は不明ですが、漢字でよむと仏教のような言葉です。
何かとてつもない事が起こり、そのカルマを解消させるための
「ウパニシャッド」的な出来事に感じます。
なので、東北地方の唐桑半島に入り、一関に鎮座した。
その理由は、いまだによくわかりません。

伊予国の古代史に、熊野修験の話はあまり聞きませんし、
詳しくわかりません。
でも、瀬織津姫は、伊予国に鎮座していた女神だった話がけっこうあるんです。
伊達家とも縁の深い伊予国ですね。
「伊予国における河内神としての瀬織津姫神は、伊予市双海町の豊田神社(旧社号は河内神社)
、また、明治四十三年、喜多郡内子町の弓削神社に合祀された河内神社などに、
わずかにその祭祀を今に伝えています。」

という記事がありました。

その影響を受けた海民(海賊)が、まつろわぬ民として君臨していたと思います。
それが今、政治を混乱させていると思うと、やっぱり何かあるのかな、と思ってしまいます。
まあ、一番の被害者は首長ということで、こんな妄想をしてしまいました。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

秋田物部氏のアヒル草文字

2017-07-24 | 東北地方の伝説(秋田県)
先週、また「秋田物部文書」の本を図書館でかりてきまして、
そろそろ8月に入る夏の時期になると、なぜか、秋田物部妄想にスイッチが入ってしまいます…。

2014年の夏に秋田唐松神社へより、妄想ブログ書いてましたが、
それ以来、梅雨明けのお盆近くになると秋田物部妄想をしてしまう。
2015年の8月もアテルイと物部氏の妄想し、暑い中、出羽神社(胆沢)に行ったのを覚えています。

今回も、8月に秋田の方へ行く予定なのですが、(あくまで予定)
雄物川の氾濫をニュースで見ると、やはりこの川は昔から氾濫の多い川だったのだな、
と思いました。
田んぼがーー!
被害にあわれた方はいないようですが、無事の知らせを祈っています。
大変だと思いますが、どーも、九州と日本海の東北がリンクしているというか、
地震でもそうだし、ほんとにシンクロしてしまうのだな、と痛感してしまいます。

そんなに荒れ狂うことはなく、穏やかにできないものだろうか…。
平穏な波で「整える」ことを考えてこの時期を乗り過ごしたい。

秋田県には鉱山が多いのですが、荒川という川名があります。
荒川は秩父もそうですが、福島、秋田にもあるように意外と聞く名前です。
銅や金も古代はとれた秩父なので、そのような場所に「荒川」とつける事も
あるようですが、
「荒れくるう川(あばれ川)」から由来しているのが定説です。
荒魂といったように、荒の方ですね。

秩父の場合、荒川の氾濫を防ぐために、
陰陽五行?治水工事の祖といわれた「禹歩」の北斗七星に諏訪神社が荒川沿いにおかれています。
北東北では、北斗七星がエミシ征伐として坂上田村麻呂が祀ったように
言われていますが、関東では北斗七星は妙見信仰からもたらされる、
古くは七夕ルーツの銀河(宇宙)と地上を描く「鏡合わせ」の宇宙的な意味があります。
亡くなった霊や魂を天上させるために宇宙へ向かわせた為の祈祷ということになると思う。
かなりシャーマニズムな。

それが秩父夜祭の原点ですから。
宇宙に行くには、「柱をかける」と言われます。
役小角が「山に柱をかける」ことをしていたといわれますが、
福島県の磐梯山が柱をかけた山の伝承があるように、宇宙にもっとも近い聖山に、
人の魂は山頂から宇宙へのぼっていくと考えられていました。

その柱というのは、宇宙から降りてくる太い柱(空洞説もあり)というもので、
聖山にかけられるのですが、秩父の場合は、武甲山です。
それが元に、札所観音霊場がありますが、武甲山(神奈備山)がどのお寺からもみえるように、
設定されています。
そのように仕掛けたのが「13人の権現」という漠然とした人たちですが、
横瀬資料館にいくとその絵がありますが、日本だと、僧侶みたいな人たち。
でも失われた十二支族を思わすような話です。

物部氏も川の氾濫を防ぐ目的のように、三角形に結んで神社(特に鹿島神と香取神)
を置いたり、エジプトのナイル川を想像させるような話があります。
ナイル川も氾濫が多かったみたいです。
秋田物部氏は、日本海から鳥見山へ上陸。男鹿半島~雄物川流域に下っていきました。
雄物川は、生保川とも言ったそうです。


※秋田物部文書
----------------------------------------------------
さて、秋田物部氏が占拠していた所で有名な唐松神社や韓服山というのは、「カラ」と読む。
このカラの由来は不明ですが、よく古代史に出てくるのはカラ族のことをさす。
妄想ですが、唐桑半島もカラですけど、なぜ「韓服」と書いて、「カラマツ」
とよませたのか、以前にも書いてましたけど、
九州の熊襲に関係すると思うんですね。
それが九州と日本海の安東氏や安部氏が似ているなあ、と思うのです。

「唐服宮記録」というのもあるように「カラマツ」といいます。
武内宿禰は、東国征伐のさい、「東夷(ひがしひな)の中に日高見国有~」と言っている。
(日本書記)この冬に、、ヤマトタケルの東国征伐が始まるのですが、
そのためか、気仙沼の唐桑半島の御崎神社には、日高見神社が祀られています。

後に仲哀天皇の熊襲征伐の途中に、天皇が崩御する。
神功皇后、武内宿禰らは喪に隠し崩御したことを伝えずにいた。
この時、皇后がどうしたらよいか相談をした人の中に、
秋田物部文書の中には武内宿禰の名はなく、物部膽咋宿禰(いくいすくね)
(宿禰は天皇の臣下の敬称。)とある。
物部氏も三韓征伐に神功皇后と一緒に行動していた。

その熊襲襲来のときに、「自ら熊襲が服従」してきたとある。
クマソは「自ら(おのずから)服らひぬ」という事で「自服」という地名?になったとか。
服は捕虜の意味もあるようで、「服従する」服からきていると考えると、
男鹿半島に降りた武帝は五色の鬼を連れてきた伝承がありますが、
唐=韓から多くの奴隷(捕虜)を連れてきたとも考えられる。

まつろわぬ民というのは、「服ろわぬ民」と書いたということも?

また、カラは、クラともいった。
それが「高木神」というのだから驚き!
そうなのー?

繋がりそう?
まだ悶々としているのでわからない。
そういえば、クラとつく山名は非常に多いですね。
闇、鞍、蔵、倉はみんな「クラ」ですが、その由来は、カラ族ということ。
しかも、そのカラ族は、「アヒル(阿比留)草文字」の神代文字を使用していたというのだから、
物部氏らしいなあ、と思ったのです。

が、さっぱりこの文字がわからない。
これは、そもそも声に出して読むもの?
アワ歌とは違うの?というとこからして、意味不明。
なにか憑依してわけわからん状態で書いた感じ…。
電気が走ったような文字。
都市伝説のような話では、失われたアークというものがあり、
それを解読するのにアヒル草文字の読解力が必要だという・・・。(ホントカ)

しかし、私はこの物部氏の(一部だけのせます)を見る限り、
完全なアヒル草文字でないような。よく似てますけど。
出雲文字(イズモモジ)というのを見つけました。


※神代文字の事
http://kstn.fc2web.com/kamiyomozi.html


薩摩藩が伝えたアヒル草文字

こちら(出雲文字)の方にも近いような。
真相は謎ですけど。
いったい、物部氏は何を残しておきたかったのでしょうか?
まあ、知るすべもないですけど。

それで、カラ族とは、韓国の意味ではなくて、
ペトログラフが岩に記されているように、神代文字を記し、
世界の創世に関わってきたかなり古い日本人という話です。
クル族というのもカラ族と同じ?らしいですが、クルは子孫の意味があるそうです。
古代インドの文献に現れる、インド・アーリア人の一部族の名称ということで、
この神話に、盲目の王様がでてくるんですね。
ドリタラシュートラという王様なんですが。
クル族も弓の名人らしい。弓などの戦術を使った術を学んでいる話があります。
棍棒術とか出てくるのですが、鬼がもってる棒じゃね?
その棒を武器にして中国では拳法として用いられたそうです。
インド~中国に渡った時に、戦術として武術と棍棒が用いられたような話です。

また、クル王の子孫は、盲目の王様を祖としている話。
なんでインドで盲目なのか、わからないけど、
この写真をみると、仙人だわ~と思うし、夢の国だし。
聖なる樹みたいな。


---------------------------------------------------
全然、まとまってませんけど。
物部氏も葛西氏と同じ、三つ柏(葉)の家紋なのです。
破壊的な感じを受けるのは、こういう所で繋がるのだな。

それで、悶々としていているところで、面白いことがわかった。
調べはじめると不思議と最後は、うまく?繋がっていくものです。
徳川家も三つ葉だったと思いますが、三つの葉や柏というものは、エジプトにもあるようです。

この写真は、エジプトの「ファラオ・アイの胸飾り」といい、
「アイ」という意味に謎がありました。



ファラオアイというのは、ツタンカーメンらしい。
面白いサイトをみつけたので、引用します。

「前九世紀のエジプトでティルムン(日本)以来の世界の王の証として大切にされてきた空艇は、
かの有名なツタンカーメン王の時代に、あやうく欧米人の祖先によって奪われるところだった。
しかし、この時代にエジプトに侵入した欧米人の祖先が、テーベの都を廃虚としたとき、
一八王朝最後のファラオ・アイ(日本神話の高木神)はエジプトを脱出し、
インダス文明の都モヘンジョダロに避難した。

そのアイがモヘンジョダロの謎の神官王として今に伝わっていることは、
彼の法衣の文様がツタンカーメン王の墓室の壁に描かれたアイの服や、
同じ墓室に安置された"黄金の牛"の表面に描かれた文様と同じ"三つ葉"マークであることからも
確かである。このマークは、日本の神代文字で「アイ」と読めるからだ。
高橋によれば、中国の『史記』に「西周」と記された原日本人のエジプト世界王朝(一八王朝)は、
アイ(高木神)の時代にその都をエジプトのテーベからインドのハスティナープラに移したという。
エジプト一八王朝の系図が古史古伝の一書、『宮下文書』に記された日本の
天常立王朝の系図と一致することは何を物語っているだろうか。」

※「古代インドの神代文宇の三つ葉が物話る原日本人カラ族の謎の出自」より

へ~・・・・・・。
もう点がついてしまいますけど、唐松神社の護符が「愛子神」なんですが、
愛宕神(カグツチ)と言われます。
が、「愛」という文字は使っています。
けれど、アイとはよまず、「あやし」と読むので、ちと繋がらない。



アイというのは、形にすると前方後円墳の様にみえます。
ホツマツタエのオシテ文字のアイをみると、私には頭と胴体にみえる。
首は、身体をつなげる重要な「気」ですよね。
これは丸と四角であり、前方後円墳を模していると思いました。
その古墳が、石舞台など、エジプトの蘇生=ピラミッドであることは言えますし、
頭(丸)と体(四角)を繋げる意味があって、前方後円墳の形があると思います。
物部氏が蘇生の呪術が得意だったことを考えると、物部氏のルーツがエジプトにあるのも
みえてきますが・・・。

まだ仰天話がある。先ほどの引用したサイトから。

「元は、日本というのは。「ジッポン」とよばれ、その語源が「ティルムン」という。
ティルムン→ティムン→ティプンからジッポン。
そのティルムンは、中国で「夏」として知られ、日本では「アソベ」の国として
知られた「シュメール文明の楽園」であり、3500年前の大洪水を治めて
夏王朝をひらいた「禹」は旧約聖書のノアのモデルとなった日本の
ウトナピシュティム(天御中主)だった。」


むむむー。
中国夏の時代は、紀元前1900年~1600年前の時代。
「夏」になると物部氏妄想が始まり、今回の洪水で九州と似ていること(アソベ=九州阿蘇氏or津軽)
川の氾濫に禹に繋がっていると思ったこと。して、妙見信仰は天御中主だし。
秩父神社の親分神だし。その神奈備山が武甲山だし。ハワイからきている地層だし。
でも、三つ柏(葉)に破壊されているし。

都市伝説みたいな話ですが、確かに、その「禹」という文字は、蜥蜴や鰐・竜の姿を描いた象形文字であり、
禹の起源は黄河に棲む水神だったといわれています。
海洋民族によって崇拝されていた神であるとされ、
また、禹が伝わるミャオ族の住む地域で、顔は人で身体は魚の姿で書かれた土器があることから、
ドゴン族のノンモだったり、


人面魚身:出典3.bp.blogspot.com

イエスキリストが魚のシンボルとされていることなど、
ルーツは宇宙人(シリウス)やノアの末裔など、いろんな諸説があります。


※禹(ウ)は偏枯(へんこ)なり。
「山海経」より、人面魚身である。氐人(ていひと)は、禹は魚の形をした洪水神として信仰し、
偏枯とは、そのような洪水神としての禹の姿を表す言葉。
画像:東北学院大学アジア地域文化研究所:公開講座(長江流域の古代文化)

なんだかな~。。雄物川の氾濫で、再び禹の存在に出くわすとは・・・。
物部氏は、エジプト~中国大陸~日本に渡ってきた人たちでしょう。
ということで、ほとんど繋がってしまった。
でも、日本人として、それがどうした?という冷め方がいつも半端ないのはなんでだろう。ワラ
もう次元の違う世界で、
地に足をつけて生きるのは大変だなぁ、なんてことを思いながら「ぷにたま」を食す。

神代文字が、世界の謎を解くカギであることは、よくわかります。
まれに、それが日本にだけ残されていることが驚きでもありますが、
また、そんな私が日本人だということも驚きだな。笑
たぶん、私の先祖は元は日本人ではないと思うんす。
だから、日本の歴史にすごく興味をもつんですね。そういうのはありますよね。

まあ、物部氏というのは謎な集団ですが、何かと興味深い人たちではありますので、
東北の物部氏をひろってみると、なぜか、アテルイとか大武丸とか、イタコや口寄せなどに繋がって
いってしまうので、これからも興味深い話があったら、妄想します。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

やまゆりの森に癒されて

2017-07-22 | 日記・エッセイ・コラム
大衡村の「昭和万葉の森」へ行ってきました。
やまゆりが群生している森です。





「昭和天皇行幸啓の地」
昭和30年4月6日、当地(黒川郡大衡村字平林)で
昭和天皇が御臨席のもとに全国から6千余名が参加して、
第六回全国植樹祭りが開催されました。

当時、本県の森林は、戦中戦後の乱伐、過伐により荒廃し、
しばし洪水に見舞われて甚大な被害を受けていました。
この苦い経験をなめた県民は、全国に先かけ緑化運動を展開し、
荒廃した郷土を救うため「山に木を植えよう」と立ちあがったのであります。



特に、この運動に応じた児童、生徒の協力が目ざましく、
全国学校植林コンクールで昭和25年以来、連続16回全国第1位に輝きました。



このような祈りに、天皇・皇后両陛下をお迎えし、
ここ平林の地で6ヘクタールの記念樹が行われたのです。
(省略)

「茂れとし 山べの森をそだてゆく
 人のいたつき 尊くもあるか」





---------------------------------------------
九州の大豪雨に限らず、全国の豪雨の影響によって、
森は削られ土は崩れ、痛々しい姿に容赦なく、水は猛威をふるっている。



そんな時に、この森の植樹が生かされて、
山百合も居場所をみつけて咲いている。

生きている森と、死んでいる森。
世の中は、二極化してます。



さて、百合にはいろんな種類がありますが、
百合というと受胎告知のマリアさまを思います。

六芒星の形は百合などもそうですが、植物には五角形と、六角形の2つのタイプがあるようです。


五角形の花


六角形の花。

なぜ百合に限ってキリスト教はシンボルとしているのかよくわかりません。

山百合が群生しているので、香りも強く、森の中いっぱいに百合の香りが
ただよっていました。
古代、百合など香りの強い植物は、魔除けにもなっていたと思います。






よくみると、小さくてかわいい。


ちと怖い・・・。


紫陽花もきれいに咲いてました。






万葉の森というだけあって、万葉集の歌の看板がありました。




このような木の置物があっちこっちにあって面白い。
白いのは、夫婦杉のお願いごとの短冊を、この木の人形に結いつけてます。





とにかく植物観察は面白い。

これはいったい何の実かね?

--------------------------------------------------
山百合とは違う百合ですが、奈良県率川神社(いさがわ)には、
「ゆりまつり」があります。
三枝祭(さいくさのまつり・ゆりまつり)というのですが、
百合をもって舞をするんですね。
確か、笹百合といったと思いますが。



「昔、御祭神姫蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)が三輪山の麓、
狭井川のほとりにお住みになり、その附近には笹ゆりの花が美しく咲き誇っていたと伝えられ、
そのご縁故により、後世にご祭神にお慶びいただくために酒罇に笹ゆりの花を
飾っておまつりする様になったと言い伝えられています。」


サイ川の語源が、鉄の「サヒ」産鉄の語源ともいわれますが、
百合が群生する所は、砂鉄か砂金か忘れましたが、鉱石と関係する話もあります。
実際、どうなのかわかりませんが、サイ川(斎川)なども、
神事の時に使った川には、そのような名前にすることが多いです。
この舞をみると、私はどうしてもキリスト教の影響ありそうな…。
こっちが古くの由来だったりしてね。

ちなみに、この神社は、「飛鳥時代、推古天皇元年(593)大三輪君白堤(おおみわのきみしらつつみ)が
勅命によっておまつり申し上げた奈良市最古の神社です。」
ということで、大神神社とのご縁がある神社です。
媛蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)は、初代神武天皇の皇后様というのですから、
この図をみると、逆バージョンの受胎告知みたいな・・・。
「子守明神(こもりみょうじん)」といわれてます。


「三輪明神縁起絵巻・神武天皇と五十鈴姫」
率川神社公式サイトより
http://isagawa-jinja.jp/jinja/goyuisho/#linktop

-----------------------------------------------------
ここ最近、マリア様かと思うシンクロが多い気がします。
たぶん、私の解釈では、陽の方か、と。
以前から、山の神、コノハナサクヤヒメ、倭姫などが。
それに六芒星。


※エルゴレコ:受胎告知(天使ガブリエルは手に百合をもって登場します)

女性性は陰なのですが、陰が強すぎると陽になっていくもので、
これも自然の摂理なだけで、そのまま自然に委ねれば良くて。
もしかしたら、私は以前から陰とか、女性の時代とか思っていたのが、
女性性が増してきたから、今、聖母マリアなんだと思います。


※額田王の顔ハメが・・・。(この後、しっかり顔はめしてきました。もちろん額田王の方。笑)

とにかく、花が見たくてしょうがなく思っていたところ、
大衡村のやまゆりで癒されました~。
涼しくなったら、登山を開始したいのですが、
今は暑いので静かな森で、まったりします。

「つれづれ写真ノート」
こちらのブログに「ゆりまつり」の写真がたくさんのってます。
百合をもつ巫女さんがきれいです~。
http://blog.goo.ne.jp/gooutmi/e/bec5846a976ffdcb0ccf5dec716e20fa

コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加

義経の恋人:皆鶴姫伝説

2017-07-20 | 東北地方の伝説(岩手県)
義経が京都・鞍馬山(鞍馬寺)で修業をしていた頃のこと。
義経に想いを寄せる皆鶴姫が、義経のために父・鬼一法眼のもとから
中国伝来の兵法書を盗み出した。
義経が奥州へ出奔した後、そのことを知った鬼一法眼は皆鶴姫を罰するため
舟に乗せて海に流したという。その舟が流れついたのが、気仙沼市松崎前浜の母体田海岸。
夢のお告げでそれを知った義経は、姫の遺骨と観音像を見つけだし、
平泉と気仙沼の中間に観音寺を建てて祀ったという。

いまでは観音寺は気仙沼市本町に移り、皆鶴姫伝説とともに、
義経が使っていた笈が伝えられ、境内には弁慶袈裟掛けの石も残っている。
また気仙沼市内には、観音寺と母体田の高台に観音堂が建てられ、皆鶴姫の霊が祀られている。



(芸術的な観音様)

母体田の観音堂
http://www.miyagi-kankou.or.jp/kakikomi/detail.php?id=3922

ところで、皆鶴姫の話は、福島県の会津にも伝わっています。
会津地方でも、この地で皆鶴姫が亡くなったという。
詳細は、こちらのサイトへ。

会津の皆鶴姫
https://www.aizukanko.com/spot/163/

母体田という地名は、モタイと読ませる母体ですね。
アテルイとモレのモレは、名前には諸説がありますが、母體(モタイ)とよぶ。(磐貝公母體)
アテルイが生まれたといわれる場所を、田茂(タモ)という。(田茂郷跡呂井)
モは、母の地名をあてる事が多い。
母袋(もたい)、田母神(たもかみ)など。
栗駒山は磐井郡駒形山で、母体村といった。
ですから、アテルイとモレは、イエスとマリアの分霊にされているのです。
誰かがそのように祀ったのだと思います。

会津と気仙沼の関係はわかりませんので、
今回は、気仙沼の皆鶴姫神社の妄想を。
この日は、室根神社へ参拝する時に、室根山の途中にあったので、立ち寄った時のものです。
室根山の側にあるので、義経の従者が熊野信仰を気仙沼(唐桑)にもたらした
穂積氏の系譜なので、この神社も、熊野と穂積氏が関係していると思います。
室根神社については、こちらを参考にしてください。

※熊野老女物語
http://blog.goo.ne.jp/natoriuba/e/f1feb6dec59be1f8cfd5c71c87e02929
----------------------------------------------------
ここの皆鶴姫神社は、旧室根村文化財保護委員会発行の「奥州室根山」によると、
義経を尋ね室根町についたところで息絶えたとのと言い伝えがあり、
そのことを土地の方が不憫に思い祀った神社とのことです。





他にも、金売吉次との関係を示す話も。(日本伝承大鑑より)
「気仙沼の港を見下ろす高台にある古刹である。
天台宗に属し、全国に七寺のみという延暦寺根本中堂の「不滅の法灯」を
分灯された寺院である(東北では山寺立石寺・平泉中尊寺と並んで三寺のみ)。

この寺院には名前のごとく観音菩薩像が安置されているが、この像には1つの悲恋の伝説が
残されている。
源義経がまだ鞍馬で修行に励んでいた頃、文武の師・鬼一法眼の娘である皆鶴姫と
よしみを通じて、法眼の持つ兵法書『六韜』を盗み出した。
そしてその書を携えて、金売り吉次と共に奥州藤原氏の許へ赴いたのである。



平泉に着いてしばらくして、義経は夢を見る。
京都に残してきた皆鶴姫が奥州の母体田の浜に打ち上げられている夢である。
不吉な知らせとばかりに義経は浜へ駆けつけると、人だかりができている。
そばへ行くと、うつろ船に乗せられた皆鶴姫の亡骸があり、
その手には観音像が握られていたのである。姫は父の法眼の怒りを買って、
うつろ船で流されていたのである。

事の真相を知った義経は、姫の冥福を祈るために観音像を観音寺に納めたという。
またうつろ船の残骸の一部、義経の使っていた笈なども観音像と共に、
観音寺に安置されている。
(異説では、皆鶴姫を乗せたうつろ船が浜に漂着すると、
高貴な人を助けて後難に巻き込まれるのを恐れた村人が幾度も船を沖に押し戻している
うちに姫は衰弱して亡くなったともいう。
また衰弱した姫を老夫婦が助けて住まわせていると、
数ヶ月後に義経の子を産んだが、産後の肥立ちが悪くて結局亡くなってしまったともいう。
いずれの話でも、義経とは会えぬ運命で終わっている)


皆鶴姫がうつろ船で漂着したという伝承地が、先にも述べましたが弁天町の一景島公園だそうです。
しかし、大震災の津波により、公園内にあった一景嶋神社もろとも流失してしまったという。
こちらは、それ以前の写真です。
今はもうないんですね・・・残念。



ところで、この伝承が伝わる観音堂も、三十三年に一度のご開帳があるとの事。
先日、登米の興福寺のご開帳にいってきましたが、
奥州三十三観音というのは、蝦夷の歴史が関係しています。
蝦夷討伐の為、というより、鎮魂のために天台宗が祀ってきたお寺のようなのです。
それがやはり「鬼」なんですね。


(元はこちらに神社があったようです。)


※七つの星があります。

「観音寺は気仙沼の市街地を足下に望む丘陵にあり、この地域きっての名刹です。
創建は和銅年間(709)、当時蝦夷の地であったこの地を藤原宇合が
蝦夷の勢力を鎮圧しその首塚を南流山にまつったのが始まりと言われています。」


この南流山には、南流神社があります。室根山の麓です。
由来には、「今を去ること1330年ほど前、「朝一時山(あさいっときやま)」と呼ばれていた
室根山には、身の丈八尺(2.4メートル)もある、髪が縮れ赤ひげの鬼のような山男たちが
住んでいました。

この山男たちが人々の生活を脅かしていたので、里人の願いにより、
朝廷では953騎を派兵し、討伐を行いました。
討伐した首領の首を山の中に埋め、以来、「朝一時山」は「鬼首山(おにくびやま)」
と名を改められました。

男の2人の副首領の首二つのうち、一つは里に埋め「鬼地塚」と名を付け、
一つの首は都に送られました。
後に、この戦いで死んだ多くの者を弔うために、都に送られた首がこの地に戻り、
首塚と供養塔を建てるとともに、聖観音を勧請し、
宝物として太刀やお経が納められたのです。

南流神社の本尊は、見ると目がつぶれるとされていたことから、
永遠にその姿を見ることを禁じられ、人々の目に触れることはありませんでした。


観音様:一関市HP
http://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/18,8310,132,159,html


★1:皆鶴姫神社、★2:南流神社

--------------------------------------------------------
さて、皆鶴姫が盗んだといわれる兵法が、「六韜(りくとう)」といわれるものだそう。
「韜」は剣や弓などを入れる袋の意味と。
観音寺には、義経が使用したと伝わる「笈(おい)」があり、
行脚僧や修験者などが仏像,仏具,経巻,衣類などを入れて背負う道具のことをさす。


画像:飛不動龍光山より http://tobifudo.jp/index.html

この兵法のひとつ虎韜から、「虎の巻」という語源が生まれたそうです。
戦国時代には成立していたそうなので、義経が生きていた時代には、
すでにこの兵法が大陸から修験者へ伝授されていたと思います。
大化の改新の際、中臣鎌足が暗唱するほど読み込んでいたという伝承もあるというのだけど、
単に「自己啓発本」みたいな内容だったりして・・・。
今、流行ってるんっすよ~、みたいに。(かるいなっ)
僧侶や修験者たちは、今でいうヒーラーやカウンセラーのような役目だったと思うので、
そういう人たちの話を聞いたり、書物を読んだりするのは今の時代も変わらず、
興味が湧くものです。

陰陽師とはいえ、結局は、人が人を操ることになるのだったら、
武器を使ってというのは、とてもリスクが高いし面倒だし。
簡単に相手を倒す方法というのは、話術とかそういうものだったりするもので。
それも中国の戦術として位置づけられていることはありますよね。
Wikipediaに大体の項目がのってましたが、
「武韜」 - 政治的戦略についての記述。とあると、
やっぱり自己啓発本みたいだなぁ。

その兵法を盗むとは、アマゾネスな皆鶴姫。
義経がその兵法をほしくて、皆鶴姫に近づいた話もあるそうですが、
昼ドラのような妄想が・・・。
------------------------------------------------------------
ところで、妄想が飛んでいきますけど、「うつろ舟」にビビっときた。
うつろ舟=うつぼ舟とも言います。

うつろ舟とは、これ。


宇宙船地球号? ヘ(゚д゚)ノ
UFOじゃん Σ(゚◇゚;)
キター ━(゚∀゚)━
未知との遭遇。
(最近、絵文字にはまってます。。。)

うつろ舟(虚舟)とは、茨城県大洗町(北茨城市とも語られる)沖の
太平洋に突如現れたとされる、江戸時代における伝説の舟のこと。

大洗町の海といったら、震災の次の日に、携帯のテレビで
大きな渦巻きができているのをニュースでみました。
やっぱり~、何かあるんですよ。

虚舟は海から流れて漂着したが人々に恐れられ、再び海に流されてしまったという話。
なので、義経の皆鶴姫も、そのような伝承から「うつろ舟」であると。
ですが、「空飛ぶ円盤の江戸時代的表現ではないかとされているが、虚舟が「動力を持っていた」、
もしくは「空を飛んだ」等、読み取れる資料は存在しない。」(Wikipedia)

宇宙の話にとんでいきたいところですが、
実際、どうなんでしょう?
今、UFOが不時着することってないですよね。
現れるなら、「その人にしか見えないように」現れるモノだと思っているので、
みんながみているUFOが、何だか全然ピンとこない。

20歳の時にみた実際のUFOと、数年前にみた夢がシンクロした。
夢の話は、インディアンがでてきて、親指と人さし指で輪をつくって空をみていたのを
真似してみると、その輪の中に見えたのがUFOでしたが、
黒い鳥のようだったので「カラス」と思ってみていたら、光ってUFOに変わった。

黒いものが空にいたら、カラスと思います。
でも光るのだから、鳥じゃない。
実際UFOをみた時は、最初は遠くに、30分後くらいたつと、近くに現れました。
その時、「あちらも私に気づいている」と感じて怖くなったものです。

近くに現れた時は、黒い物体だったので、カラスだと思った。
でも光るので、カラスではない。
それを今思いだすと、20歳の時にみたUFOは、
夢にインディアンがでてきて見せてくれたのと、同じ型のUFOだった!
ということに、皆鶴姫伝承のうつろ舟で気づいた。

実際にみたUFOもゆっくり回転していたのですが、片面がガラス?だったので、
回転しているから、ガラス面が太陽の光を受けて、チカチカ光ってました。
うつろ舟も、鉄でできており、窓があり(ガラスが張られている?)丸っこい形をしているそうです。

他、うつろ舟には文字のようなものがかかれているとか、
中には異国の女性が乗っており、箱をもっているとか。

なので、私の経験上、黒いカラスのような鳥は、
UFOに姿をかえるモノだと思っています。
たぶん、私はそういうUFOと縁があるのだと思います。
最近、みかけたものですが、NASAも公認した「黒騎士」といわれるUFO?が
地球の周りを旋回しているそうです。
私が見たのとはちょっとタイプが違うけど、こんなかっこいいモノではなかったなぁ。


画像は、これ。(ブラックナイトシャトル)
なんか孤独・・・。

妄想するに、神武東征で追いかけていたのは、うつろ舟のようなUFOだったりする。
鳥船というのもそうです。だから、黒いカラス(ヤタガラス)に見え、何でも姿を変えることができる。
が、今はそれを話したところで、だからナンだ?という感想でしかない。
ぽっかーんとなってしまう。

でも世界の神話を読んでいると、どう考えても宇宙人だよね。
UFOだよね。という話はたくさん出てきます。

ひとまずここは、伝承から紐とくと「舟に遺体があった」というリアルな話から、
「舟葬(しゅうそう)」と考えます。
いろんな葬式がありますが、昔は鳥葬、舟葬もあったんですね。
亡くなった遺体を船にのせて流すものです。
水葬とも言います。
舟形の棺なんですが、エジプトぽいですね。

ブリタニカより、
死体を小舟に乗せ川や海に流し,あるいは舟形の棺に入れて埋葬するなどの習俗。
前者は水葬の一種であり,代表的な例はポリネシアにみられるが,
ミクロネシアやメラネシアの一部にも分布している。
台上葬においても棺を舟形にする例がインドネシアにみられ,
これらはいずれも海上他界ないし海底他界の観念と結びついている。

日本では棺を一般にフネ,入棺をオフネイリといい,舟葬の名残りともみられるが,
これは舟で島嶼,あるいは陸行できない海岸の葬地に運んだ習俗に由来するものであろう。
奄美大島宇検湾の伊里 (えざと) 離れという無人島には,
かつて夜間ひそかに死者を舟で運び葬ったといわれているが,
こうした例は南島に広範に分布している。


航海していた人が、途中で亡くなった場合、陸で葬式ができないので、
そのまま舟で遺体をのせて海岸に到着した時に、その遺体を運んで埋葬するという事でした。
つまり、皆鶴姫は、船にのって航海していたのが途中で亡くなったのでしょう。
地元の人が嫌がったのは、遺体だったので、埋葬する地を探していたのを
断られたということでしょう。
義経は、それを聞いて、室根山近くに埋葬したのかもしれません。
なぜなら、ここには熊野修験者がたくさんいたからです。
熊野信仰と義経は深い関係があります。

海外では、ノルウェーに多いそうです。
海賊とも関係していると思います。
スウェーデンなどもそうですが、バイキングの風習で、
ノルウェーのオスロにあるバイキング船博物館にあるオーセベル船は、
女王アーサを葬ったものとされ,その優美な船と豊かで芸術的な多くの副葬品で名高いそうです。
写真は、こちらにあります。
※北欧
http://hana4.fan-site.net/mysite8.htm

義経の皆鶴姫伝承が、北欧由来のバイキングだったりしたら興味深い。
そのルーツはなきにしもあらず・・・。
大陸をわたって日本への航海中に亡くなった可能性もあり、
またその末裔が住んでいたことで、伝承しているのかもしれません。
熊野神社は、海側にたくさん祀られています。
熊野水軍があるように、日本には海賊がはびこっていて海外では有名でした。
上陸が非常に難しかったようです。

そんな歴史があったことを考えると、どのようにして、
古代の熊野水軍や安東水軍は、東北地方で奮起していたのでしょうか?
でも、東北地方にキリシタンが非常に多いことを考えると、
マリア信仰がとても盛になったのは、水軍たちがもたらした信仰もあると思います。
貿易項目の中に宗教があったということで、
キリスト教が日本海に多いのは、クリスチャンが対馬海流にのって漂流したこともあり。

なので義経に係る姫が、マリア様みたいだ。というのも、西洋人だったかもしれないし。
(宇宙人かもしれないけど→宇宙人にしたい…)
そんな皆鶴姫伝承から、ふっとバイキングがケルト人を迫害してきたことを思いだす。
日本の場合、逆にバイキングが修験者となって村を守っていたことを思うと、
日本とは摩訶不思議な島国だと思うのです。
それは、悪人が善人に変わるような島国という事で不思議なのです。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

倭姫命の遠流志別石神社 その2

2017-07-17 | 東北地方の伝説(宮城県)
ところで、不思議な写真がとれました。
これは遠流志別石神社の入口に祀られている「黄金山神社」ですが、
「黄金」が薄くなって「山神社」とよめる。
なんか変ですよね。
あれ?おかしいな?と思ったのは、遠くから「黄金山」の文字がみえたはず。
でもこの写真だと、画像処理したみたいに、「黄金」が薄くなっている。
右上には、「金華山」の文字があります。



実は、この登米に行く前に、金鉱脈について書いてました。
だから、金くさいと思っていたわけで・・・。
それを書こうと思ってましたが、この写真をみて、妄想するのをやめた。
エミシ側からしたら、黄金は、利益のある今の経済といったカネではなく、
錬金術のような呪術的な不老不死といった深い意味のある金であると言いたいのかもしれません。
「大事なのは黄金ではない」というメッセージ。
よって、ここは「山神である」と。
そういう風に、受け止めることにしました。

なぜなら、遠流志別石神社へ行く前に、お昼は蕎麦屋にいったのですが、
近くに「津島神社」がありました。



そこに山神が祀られており、中にきれいな鏡と、女性の木像が祀られていました。
コノハナサクヤヒメみたいです。
そうなると、一関の六芒星の中心にあった配志別神社が繋がりそうです。
コノハナサクヤヒメとニニギが祀られていました。

登米の津島神社は、「猿田彦神」を祀っているのです。
これも「それ以前の神」といえます。
しかも、境内にあった竹駒神社が道祖神となってます。

この島も、人魚の森で探訪した鹿島神社と同じ「山と鳥」の漢字をもっていました。
「シマ」という文化。海も山も同じ。


--------------------------------------------------------
朝廷側は、金は、物質文明でいうカネという利益をもたらすものとして、
「炭焼き藤太」伝承が生まれたと思うのです。
砂金が大量にあることを知ってかどうか、都からきた娘が藤太に嫁ぐ話。
藤太の息子(京都にいた):金売吉次は、義経を伴って陸奥へ向かいます。
炭焼藤太伝承のあるお墓が、栗原の金成にあります。

出発地点が、首途八幡神社で、「首途(かどで)」とよみます。
それから「かどで」が出発の意味になったのです。
これも、「はじまり」の意味があります。
それは、秦氏なんですが、元は物質的な金と考えていたのではないと思います。
金は、祈祷や祈りに使うものだと。
侵略者がカネにしたことに問題がある。
後に、陸奥の金を狙った海外との交易に発展し、今のロスチャイルドみたいな。

しかし、金の概念が、先住民とは異なっていました。
その先住民というのは、オロチ族もそうですが、
前回書いた山形県のオナカマの道具が国の文化財に指定されていますが、
その道具が、「北方シャーマンの持つ道具と類似している」と指摘されています。
アイヌ人とは違う北の民です。
シベリア、ツングース、ニブフなどからやってきた人たちが、
北海道へ移住し南下してきたわけです。
その呪術道具が、オナカマの使う巫女道具と似ているという説。
なので、邑良志別君は、北方先住民だったと思います。

オラシとつけるのは、そのような人たちをエミシの首長とし、
朝廷につかえていた物部氏などは、東北に逃れて北方先住民と融合し、
新しい国家を作ろうとしていたと思います。
マロは、それを快く受け入れていたでしょう。

アテルイが登場するより100年以上前に、物部氏は佐渡~秋田へ逃れています。
金が絡んでますが、マロが征夷大将軍になってから、
上毛野氏から物部姓を陸奥に派遣し、物部という人は、大和朝廷とエミシの仲介の役目をもっていました。
東北地方は、大陸との交易をすでに行っており、
それは「塩」なのですが、古代、塩は金のことを言っていたそうです。
金というとばれるので、塩といってごまかしていたとか。
なので塩とつく地名に金鉱脈があったという指摘もあります。

塩釜神社にも鹿島神が祀られているのもそれで、
それ以前の神がいたからです。
金の交易をすすめるために、鹿島神を置いたといっても過言ではありません。
そこに物部氏とマロが深く関与していたと思います。

本来、物部氏は先住民側にあったと思いますが、
朝廷側の熟エミシになって、産鉄族の長になっていったと思います。
なのでアテルイは、物部氏ともいえる。
水沢のお寺(どこか忘れた。黒石寺ではない)に物部氏の遺品があることを、
秋田唐松神社の宮司さんに教えてもらいましたが、水沢といったらアテルイの本拠地。

ただ、その物部氏に無念さを感じ、忽然と歴史から消えたのも、
マロとは信頼のおけるパートナーだったと思うのですが、
殺されたことにあるのかもしれません。
信頼していた人だったけど、朝廷を覆すことはできなかったような。
その無念さが、エミシの土地にいまだに残っているので、
マロがエミシの鎮魂役として、いまだに京都で鬼門に向いて葬られている。
それもそれで、気の毒な話です。
-----------------------------------------------------
まあ、どちらの視点からでも妄想できる、東北の古代史は貴重です。
朝廷側の立場から、エミシ側(熟えみし)の立場から、先住民からの立場から。
3つの支配権があったことは確か。
そこが混乱するところですけど。
それぞれの想いを、ここで繋げていけたら、理想です。

9月24日まで登米歴史博物館で、
企画展「坂上田村麻呂伝説~東北に息づく田村ガタリ~」をやっています。
まだ行ってないですが、興味のある方はどうぞ。

※登米歴史博物館
http://www.city.tome.miyagi.jp/rekihaku/

おまけ(津島神社)---------------------------------------------------------

余談ですが、津島神社の横に立派な木(イチョウ)がありまして、
そこに行ったら、涼しい風が吹いてきました。
主人が、この風は、住んでいる高舘山(熊野那智神社)から吹く風と同じだと言ってました。
・・・・どう同じなの?と聞いてみるけど、説明できないらしい。



でも同じ質の風だという。
高舘山のある場所から閖上まで風がよく通ります。
主人の知人の家は、10センチくらい全く草も木も生えないラインができているそうです。
そこは気が通るから何も生えないんだそうです。







コメント
この記事をはてなブックマークに追加

倭姫命の遠流志別石神社 その1

2017-07-17 | 東北地方の伝説(宮城県)
これはちょっと複雑で長い妄想になりそうですが、
具体的にどんな神なのかわかりません。

遠流志別石神社は、「石」ではなく、「君」の誤りで、
本来は、「邑良志別君 宇蘇弥奈(おらしべのきみ うそみな、生没年不詳)」
を祀るという神社なのです。


邑良志別君は、奈良時代の東北蝦夷(陸奥国の蝦夷)。
第三等(朝廷が蝦夷に与えた爵位第三位)。
後世では東北地方の各神社で祀られており、蝦夷の人物神とされ、
「オラシ」の名称に関してもアイヌ人の信仰と関連するものとされる。

記録によると、『続日本紀』霊亀元年(715年)10月29日条に記述が見られ、
陸奥の蝦夷である邑良志別君宇蘇弥奈たちの訴え出として、
「自分達は北方の狄(えぞ)の侵入に苦しみ悩まされ、親戚も殺されたため、
香河村(現胆沢町と水沢市の一部)に新しい役所を置き、そこに村を作りたい」と、
異民族被害のために新しい土地へ集団移住することを願い出ており、
また、「編戸(へんこ)の民(=戸籍に登録された民)に入れて、
永く安心していられるようにしてほしい」と発言したと記されており、
朝廷の加護を得るために律令制下に入ることを要望している。

約100年後に、この付近に坂上田村麻呂が城を築くが、前述の記録のように、
この辺りは古くから蝦夷同士の争いが絶えず、
そのため、律令制=戸籍に登録される=朝廷の加護を得られるといった
考えに至ったものとみられる。(
Wikiより)


-----------------------------------------------------------
「君」から「石」に変化したのは、おそらく本殿の裏手にある
不思議な石をご神体にしたからだと思います。
君が代、みたいな、苔むす岩になるまでの歌が浮かぶねぇ。
鉱石の知識がないのでどんな石か不明。



この意味はわかりませんが、お墓のようにもみえます。
ここで祈祷していたことも、十分、考えられます。



社伝によると、
「景行天皇四十年、皇子・日本武尊東征のおり、
伊勢神宮に参拝し、倭姫命より明玉を授かった。
これを頭上に戴けば、たちまち賊を鎮定できると。
無事、東国平定の後、この地に至るや
明玉は霊石と化し、よってこの地に祀ったという。
その霊石は、年々小石を産むが故に
里人は石神明神と尊崇し、石子石=石越という地名となった。」




文章が長すぎて途中で集中力が切れた・・・。
このブログも文章が長いが。

由来に「倭姫命」ヤマトヒメが出てきましたが、
記紀に伝える古墳時代以前の皇族で、
第11代垂仁天皇の第4皇女とされる。
倭姫は、第10代崇神天皇の皇女「豊鍬入姫命(とよきいりひめ)」の後を継いで、
天照大神の御杖代として大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、
神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされる。

皇室の巫女だったんですが、この第11代垂仁天皇の後は、12代目が景行天皇の時代になります。
東北地方のエミシ征伐に何度もでてくる、ヤマトタケルの父が景行天皇です。
熊襲、土蜘蛛、蝦夷征伐と続く。

妄想するに、第10代崇神天皇の時代までは、「それ以前」という朝廷が治める前の
古い神を信仰していたということ。それが石神(霊石)だったかもしれません。
シャーマニズムな人々の依り代というのが、石や植物だったと。
また、蛇体という気のような霊体というものか。

洞窟もそれで、ピラミッドのようにあの世とこの世の場所と考えた
修験者たちが、洞窟やほら穴で修行をしていたと言われますが、
それは胎内をイメージし、生まれる前に戻るためと聞きます。

柴田町にある拆石神社にも、大武丸の洞窟に似た古墳があり、
その裏手が巨石群になってます。
阿武隈山地の鬼穴も、洞窟で鍾乳洞と繋がっています。
ここは岩鞍なんですが、入ってみたけど、真っ暗でムリ。
ここにも大武丸が亡くなった伝承があります。

話を戻し、それ以後、第12代の景行天皇で神が変わったような神社です。
意識の変化というものでしょうか。
「変わるまでの間」の繋ぎとして、第11代垂仁天皇の皇女である「倭姫命」が、
懸命に次の天皇(霊知り)や、神降ろしの世をどう立て直すか、奮闘していたわけです。
そして現在の伊勢神宮の内宮が(場所?)決まった。
しかし、それから「まつろわぬ民」の征伐が本格的に始まったような気もする。
倭姫命って、どーなのかなぁ。

それ以前の神というのは、どういうことか。
また、東北地方には、なぜ鹿島神が多いのか。
このへんを、わかりやすく伝えている神社が、中津市にありました。
大分県中津市に闇無濱(くらなしはま)神社という不思議な名前の神社があります。
それが、龍王宮なんです。
大分県にとんだのは、今、九州が大変な時なので、きっとここで繋げてくれたのだと思います。



看板の御祭神の
十代崇神天皇の御代、豊日別国魂神、瀬織津姫神、
十二代景行天皇の御代、海津見神、武甕槌命、経津主神、天児屋根神、別雷神
となっています。

瀬織津姫なんですね~。
武甕槌命(鹿島神)、経津主神は、景行天皇の時代に置かれた神となっている。
これは、次の神をおいて前の神様と統一しましょう。という風には聞こえない。

九州地方も、海賊(水軍)はたくさんいたのですが、
天変地異か病気の蔓延か、動乱も多く世の中がうまくいかないので、
天皇を変えたようにみえる。
新たな幕開けといった時代の転換期を線引きするなら、
「十代と十二代の間に何かがあった」と思わざる得ないのです。

これについて、言霊の話を思い出しました。
崇神天皇が初代天皇だったという説があります。
神武天皇=崇神天皇ということに。

「言霊布斗麻邇(フツノミタマ)」というのがあります。
日本語五十音の法則のことですが、具体的なことはわかりません。
その言霊布斗麻邇の発見は、1万年前まで遡るといわれ、
それを大成した「学問」として(易学のように)扱われていた事がありました。
しかし、それを表舞台から消してしまったという話なのです。
そのようにしたのが、崇神天皇だといわれます。

「二千年以前、崇神天皇により言霊の学問は世の中から封印されました。
この決定は人類の第二物質文明創造促進のための方便でありましたから、
後世物質科学文明が完成した暁には、当然言霊の学問はこの世の中に
復活しなければなりません。

その目的のために採られた施策の一つが古事記の編纂であった訳です。
その任に当った編者太安万侶の心は「後世の人には明らかに知らさねばならず、とは言え、
時が来るまではあから様に知らせてはならず」、
丁度出口なお女史の神懸りの言葉の如くであったに違いありません。
その結果が古事記の神話に見られる如く、神々の物語り、即ち神話という形をとった
謎々の物語となったのです。」


参照:「言霊とは」
http://futomani.jp/lecture/no184/no184.htm

古事記の物語の中に、言霊の原理が含まれているそうです。
確かに、たくさんの神々の名前が登場しますが、
それぞれ五十音に値するものと考えられます。
(私は古事記は難しくて読めない…)
それを降ろしてきたのが、稗田阿礼ですが、シャーマンな人というより、
ヒレという言霊か呪術をさすものかと。
それが「布」といわれるので、言霊でいう「ヒレ(霊顕)」の事。
比礼は、布のようなもので描写されますが、本来は言霊の五十音らしい。

また、ヒレとは、物部氏の祝詞にもあります。
なので、物部氏が関係している気もしますし、
「オラシ」という言葉は、オロチでもありますし、
ヤマタノオロチでもあります。



「アイヌ語の「オヤシ」は「精霊・鬼、または悪霊」とされ、
アイヌの精霊には「オヤシベ」(ベは「物」の意)がいる
(例として、イペカリオヤシ・ペンタチコロオヤシなど)。
ここから谷川健一は、アイヌの精霊信仰のオヤシからオラ(ロ)シ(邑良志)となり、
ベの部分が「別」と表記されたことで、「ワケ」と読まれるようになり、
オラシワケ君が成立したと考察している。」




物部氏は、「物の部」ということで、モノという精霊の部民という事です。
それが「鬼」なんですね。
瀬織津姫とも繋がりますね。
大武丸が物部くさい感じもします。
だから、十一面観音様というのも、納得いくような・・・。



また、三十三観音霊場の、三十三の意味も、言霊が隠されていました。
詳しいことはわかりませんが、闇から音を生み出したということで、
無から有に変わる転換期もあります。
陰陽の世界ですが、33は「ム」という音だそうです。
感じていることを、音で拾って相手に伝えることにしたというモノ。
それを「もののふ」といい、後に武士となった。

以前から、陰から陽に変わるというのは、気仙沼で感じてました。
だから私は陽の方の神様にお願いしたんだな…。
東北地方の動乱続きだった陰から、ようやく陽に変わるものだと思います。
だから、ここで「倭姫命」が登場するんですね!
かつて、同じように時代の転換期にあったと思います。
今、その時にきているというメッセージでもあります。
始まりは、九州と東北なのかもしれません。
今を耐えれば、明るい未来がくると私はポジティブに考えてます。

秩父が日本百観音霊場の最期の結願の地に選ばれたのは、
北緯36度(±5)の「ミロクライン」があると思っています。
鹿島神社、秩父神社、諏訪神社があるライン。
その秩父も影にされてます。

しかし、室町時代後期頃(たぶん)秩父は99ではなく、1か所増やして
100(百)の「モモ」にした。
これは、完全にする必要があったけど、人が神に近づこうとしたことへの
罪みたいなものを感じるのです。西洋人の思想にありますが、
9は、九曜紋もでてきましたが、9は、1ケタの最期。
次は、10。
1と0は、陰と陽ですが、「再生」のことを表していると言われます。
物部氏の十種神宝。

人は、いつまでも9で留まっているから、胎内の9から、
スイッチをリセットして、新たに0から生まれることが必要。
別に肉体を離れる必要はないのですが、それをずっと阻止させられていた。
それから、神奈備山の武甲山が破壊されたという妄想。。。
秩父札所を34か所にして100という完結にしたことを「罪」とした。
しかし、これからはモモの百になりますよ、というメッセージでもある。
ようやくその時代が到来。

その人間が神を超えるような超人的な人になることを拒んだ存在がいたのですが、
私は、それがシュメール人ではないか、と思う。(そーきたか)
金といえば、アナンヌキ?アヌンナキか。
という宇宙人がいる。
アヌンナキとシュメール人の関係は、日本人の精神に影響を及ぼしていると思う。

てか、私がそうなんだろうな。ワラ
だいたい、金やカネに興味なくても、金鉱脈という言葉に反応するねぇ。笑
大量に日本列島には金が埋まっているし。
地震で金が生まれるというのが最近の研究でわかったそうです。
これ以上妄想すると、現実に戻れないので割愛します…。

未だに人類は9のままに留まっているから、物質文明の「金(カネ)」に牛耳られ、
弁財天は、財というお金になってしまった。
財ではなく、「辯才天」と書き、これが本来のサラスバティです。
辯は、「言語の才能」といった意味をもつもので、
竹生島の琵琶湖は、辨才天となっているから、こっちが正しい。

単に民族紛争といった単純な話ではなく、
もっと人類にとって奥深い精神的な部分で大きな変革を神事で行ったと思うのです。
しかし、今の現代をみれば、破壊の一途をたどっているようにしかみえない。
それは、言霊を封印したことにあると?

闇無濱神社に戻りますが、九州の豊日別国魂というのは、豊のトヨなんですが、
登米(トヨマ)の「食べる=豊饒」というアイヌ語のトイオマ語源由来と繋がるものです。
そのくらい登米には古い時代の先住民と自然霊を降ろすシャーマン(巫女)がいたと思います。
そして登米もキリシタンの町でした。

さて、ずいぶん、長く書いてしまったので、続きます。
不思議な写真についてです。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

大武丸の大嶽山と石神

2017-07-16 | 東北地方の伝説(宮城県)
三十三年に一度のご開帳という情報を聞いてしまった。
「ご開帳」という言葉に弱い・・・。
しかも、33年ってどうよ。
これ逃したら、次はいつよ・・・。(70歳は越えてるな…。)
ということで、やっぱ、ご高齢の方がた~くさん参拝してました。



しかも、十一面観音様だ!キター━(゚∀゚).━





その33年に一度というお寺は、登米市南方にある興福寺です。
由来によると、
「奥州三十三観音大嶽山興福寺 南方町の大嶽山には「大嶽の観音さん」と呼ばれ
親しまれている「奥州三十三観音大嶽山(おおだけさん)興福寺(こうふくじ)」があります。
度重なる焼失で古い記録もなく由緒は不明ですが、
一説では平安時代に一帯を支配していた豪族・大武丸(おおだけまる)を
807年に征夷大将軍・坂上田村麻呂が討伐。
その亡きがらを葬った塚の上に観音堂を建てたのが始まりと伝えられています。





※薬師堂

観音堂の内陣には、伊達家の紋章である「竹に雀」が施され、
奥には33年に一度だけ開帳される「本尊・秘仏十一面観音菩薩」がまつられています。
また、観音堂外側の板壁には、中国の「二十四孝物語」の彫り物が色鮮やかに刻まれ、
休日には多くの観光客が訪れます。
そのほか、観音堂の周囲には、薬師堂、白山堂、鐘楼、六角堂などがあり、
それぞれ歴史を感じさせています。
毎年4月には大嶽山春まつりが開催され、「稚児(ちご)行列」などが行われます。」




観音様のご開帳などもそうですが、中心にあるご神木の棒を触れると十一面観音様を触れたのと
同じようなご利益があります。五色の布とご神木は、十一面観音と結ばれているという意味があります。



この日、朗読劇『我を鬼と呼べ 大嶽丸』をやってました。
音楽担当(篠笛、龍笛、蝦夷の笛 使用)ということで、魅力的。
(他にも寄りたい寺社があったので鑑賞できなかったけど)

こういう時に、このお寺にお参りできたことはとても有難いと思います。
大武丸に感謝です。
また、このような朗読劇というのは、先祖供養になります。

それに33年に一度というのは、魅力的ですし、
普段は、十一面観音像は扉を閉めている状態なんだそうです。
今回、風を入れたみたいに、
おひらき~という爽やかな風が入ってきたようで、とても立派なお寺でした。

敵も味方もなく。
みんなで仲良く、お参りしましょ~う。




------------------------------------------------
そういえば、一関でも大武丸の話がありました。
それで、やっぱりこれは「金」もからんでいそうな話で。
金くさい…わけです。

そして、直線上に結ぶと、箟岳山(ののだけ)、大嶽山、
遠流志別石神社(おるしわけいしじんじゃ)があった。
遠流志別?これまたアイヌ語のような名前。
ハイシワケと似ている。。。



遠流志別石神社境内に、黄金山神社も祀られているのです。
やっぱり金なんですね。
この先を北上すると一関、平泉です。

大嶽山へ行く途中の道は、のの岳、黄金山神社を通ります。
そうすると、大嶽山の森の感じや雰囲気が、のの岳に良く似ていると思いました。





大嶽山という山名からして何かありそうです。
しかも、この寺社のそばに「石神社」というのもあります。
(後ほど)


※天照大神の石碑

十一面観音像を拝観して、帰りに「六角堂」によってきました。
中にも入ることができ、社務所でお抹茶も頂けました。(^-^)



主人と過去のポスターを眺めていたら、
今回の絵(ポスター)を描かれた高齢の方(男性)に声をかけて頂き、
その方のお父様が、曼荼羅図を描いたのだそう。




今年は左のポスター

部屋に大きな曼荼羅図が2つ掛けてあり、チベットの曼荼羅もありました。
一部だけ載せますが、ご本人から許可を頂いてます。
(ぼやけてすみません)



これが、九曜紋の世界なんですね。
これは、「胎内」の世界です。
その隣に並べて掛けられていた曼荼羅は、生まれてからの現世の曼陀羅図。
生まれる前のあの世の曼陀羅図になっている中心に、九曜紋があり、「逆卍」もあった。
それが胎内ということで、子宮なんです。

最後に参拝したのが、「大武丸の洞窟」でした。
「洞窟の先(観音堂下)に大嶽丸が埋められていると伝えられています。」
という看板の説明。



まさか、ここにそんな伝承があるとは・・・。
妄想するに、洞窟というのは、巫女(オカミサンや口寄せ等)のシャーマニズムな
世界観があり、この中に、巫女の使った道具などが保管されていたことも
ないだろうか。真綿(蚕のまゆ)は巫女の道具のひとつと言われますが、
洞窟内は、自然の冷蔵庫だったので、何かを隠したり保管していた場所だったりと。
蚕は洞窟に保管していた話もあります。

まあ、真相は謎ですけど、子宮の曼荼羅図をみた後と考えれば、
洞窟も死と再生の意味がある。
洞窟=子宮です。



妄想するに、大武丸というのは男性の巫女か女性かわかりませんが、
神を降ろすというのではなく、もっと人間的なイタコのように亡くなった人の霊を
慰めたり、あの世へ行った霊を早く天上させるとか。
そんな巫女だったような気もする。

あの世へ行っても、イタコはこの地で観音様やお釈迦様とコンタクトをとりながら、
霊を天上させて早く悟りを開けるように促した。
病気をした人を蘇生するのも、臨死体験(父が経験した)話を聞くと、
もう一度、生まれ変わる再生のこともあるのです。
ほんとに人格が変わるんですよ。ほんとに良くなります。
というように、あの世とこの世の仲介をしたのが巫女でした。

ただ、渡来人からしたら、霊を降ろすというのは、ある種、
ゴーストバスターとなり、悪霊と思いこむ。
そこに恐怖はあったと思います。
ですが、そういう単純なものではないんですっ。
詳しいことは言えませんが、
東北地方に多い巫女というのは、かなり重い部分を背負っていたと思うのです。
誰もそこを見ることはしない。
そこに向き合ってきた東北の修験と巫女に、私は敬意を持ちたい。

そういう事を考えていたからか、
私も始めて肩が重く痛くなってしまった。
あ、こーいうのがなんかあるわけ?と思う。笑(←笑うところじゃないんだけど)
具合も悪くなってしまった。(夏バテもあり)
でも、次にいった石神社ですっかりとれたんです。

このあたりを車で走っていると、講の石碑をたくさんみかけました。
修験者と巫女は婚姻関係をもっていました。
結婚し、家族をもっていたわけですから。

それは次の石神社へ行ってわかったことでした。
ここに、私は来たかったのだな。
そして、何かの霊もここに来たかったのだな。
それを置いてきたのだな。


------------------------------------------------------------------

石神社について
「大同2年(807)坂上田村麻呂の勧請を受ける。
延文(北朝)4年8月(1354)60名以上の人名を彫刻された大型の板碑が建立され、
寛永正保年代(1624)源猛源(東光院)は、大和国(奈良県)
大神神社の分霊を拝受して祀り、「石の神権現社」「石の明神社」と称し、
石の神信仰と相俟って広く信心された。



明治3年(1870)石神社と現社号に改めた。明治10年(1877)村社石神社に列格された
(南方村鎮守社)。明治40年(1907)供進社に指定された。
明治42年(1909)村内四社合祀(秋葉、石上、新山、北野)。
昭和27年(1952)宗教法人石神社設立認可された。」






60名以上の人名を彫刻するというのは、かなりな事です。
大神神社というのは、奈良県三輪山に鎮座する神で、オオモノヌシを祀っています。
その霊をもってきたわけですね。
石神社のご祭神:大己貴尊、大名持命、少彦名命。
大己貴尊も、大名持命もオオナムチです。

石を神としているところ、石神井のミシャグみたいな話です。
この石は、大武丸が投げたといった伝承もあります。
が、どこにその石があるのか、全然わからず。
本堂も開いてなかったのでご神体がそうなのかな?
まあ、いいや。
茅の輪があって夏の大祓の時にあるそうです。



本堂の隣に、石碑がたくさんありました。
この石碑の名前を見ていると、宮城、岩手北部のオカミサン、口寄せ、山形のオナカマサマ、
などの祈祷があったようにみえます。
なんせ、ここから先の石越という地名にも、巫女さんたちがいた所なんです。



中心に、二十三夜塔がある。
石碑の前で立っていたら、涼しい風がぶわっと吹いてくれて、
それがとても気持ちよくなり、おかげで元気になった。
なんか、すごくうれしい気分。思わず空を見上げる。

やっぱり巫女のばあちゃんがついてくれているのだ。
もしくは、曽祖父かな。
考えてみれば、私の父方の曽祖父は、全盲の巫だったんです。
そのことを忘れてた。
若い時に病気で目が見えなくなって神道の世界に入った人です。
講ですね。

すると頭上に大きなクロアゲハがひらひら飛んできた。
最強だわ。笑

一番右の石碑は上がかけてますが、大六天だと思います。
「二十三夜」も「夜」とつくのは、岩谷十八夜観音堂(山形)にあるように、
口寄せのことを言うのでしょう。なぜ「夜」なのかは、
その裏には、もっと深い部分があるのですが、ここでは割愛します。
名取老女と円仁が観音霊場をたてたという話が、2つ存在するのは、
修験(もしくは僧)と巫女との関係が深く関与しているからだと思います。
二人は夫婦ではないですが、男と女の巫女が重要だったのです。
どこか、夫婦にしているところはあると。

いずれ、詳しいことは、「名取熊野老女物語」の方でお話します。
--------------------------------------------------------------
さて、この神社の次に行ったのが、遠流志別神社なのですが、
これも「石神社」なんです。
石と金と巫女の繋がりとは。
マロやヤマトタケルが征伐してきたのは、「それ以前の神」がいた事になりますが、
長くなるので、次にします~。

※ご開帳は明日までです! 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

女川の復興と江島の話

2017-07-12 | 東北地方の伝説(宮城県)

人魚の森のついでに、2年ぶりに女川へ行ってきました。
女川は先に復興が進んで、早くに復興市場ができてましたが、
どんどんまちづくりが進んでます。


女川駅





復興まちづくり 情報交流Web
http://www.onagawa-info.com/revive/index.html

かさあげ工事をしていて、このあたりが住宅になるそうです。
病院はいつものようにありましたが、その上山に確か熊野神社があったと思うのですが、
今は崩されて何もありません。
どこかに移されたか消えたか…。
ま、神様も自由になって良かったのかもしれません。



女川といえば、サンマ。
日本で2番目にサンマの収穫量が多いのが女川です。(1位は北海道)


ここのお店の秋刀魚を買って帰りました。

他にもおしゃれなお店や雑貨、カフェ、石鹸のお店、お花屋さんなどなど、
女子心をくすぐるものばかり。





ついで、海の幸も頂ける。
昭和元年から続く丸金さんの海鮮そば。
暑い日には、最高~♪



団体のおっちゃんたちが、お酒を買いこみ、
お店でつまみになる魚貝を並べて食べてました。
こういう楽しみ方もいいっすねー。

丸金さんは、過去津波の被害にあっているけれど、今回の震災でもそうですが、
それでも丸金さんだけではなく、多くの人たちが再建をとげていることが、
この土地の強さを感じます。



なんど倒れても、起き上がる。
なんどもなんども倒れても、それでも、なんどもなんども起き上がる。

植物だって同じ。
津波に流された中に、桜の幹のみ残った桜が花を咲かせたそうです。
その桜の木で作ったお地蔵様です。


※桜咲く地蔵(優しいお地蔵さんでした)

あの「ダンボルギーニ」も見てきましたよ!
ダンボルギーニ公式サイト
http://damborghini.com/

今、こんな展示もやってます。デカっ
段ボールでここまで作るとは、すごい。はなまる~。





きぼうの鐘:旧女川駅前広場の一角。
かつてここには列車の到着を告げる鐘がありました。
四つの鐘があり、からくり獅子が舞い踊るカリヨンが駅前のシンボルでしたが、
津波で流されてしまいました。
しかし、そのうち1つだけが奇跡的に無傷で見つかり、今はこの鐘がシンボルとなっています。


※希望の鐘



---------------------------------------------------------------
ところで、いつも女川へ行くと、展望台にいくのですが、
はじめて気づいたのですが、この展望台は、「大六天山」にありました。
大六天山は、名前からして気になる山でしたが、
ここがその山の展望台にあたることを今さら、気づきましたよ。
大六天山には、三国神社があるんです。
よくわからない神様ですが、海の神様っつーことで。



そして、牡鹿半島にあたるこの場所には、ちょっと気になる伝承があります。
復興まちづくりのサイトからマップを引用しましたが、
右端っこにある「江島」というのが気になりました。



ネットでググったらWikiに伝説がたくさんあった。
(どの島が江島かわからん。この画像にはみえんのかね?)



江島の伝承:
①1200年頃 - 源義経をかくまった罪で源頼朝に追われた奥州藤原氏の家臣にして、
日詰(現紫波町)を領していた日詰五郎(藤原基衡の孫)が落ち延びたとされ、
これが島が歴史上に登場する最初である。
伝承によると、その際に家宝である金鶏を連れて行ったが、鳴き声で敵にばれてしまうことを
恐れ、海洞の中に閉じ込めたが、ある時嵐によって洞窟ごと吹き飛ばされてしまった。
それ以来鶏を供養する意味で島には犬猫を連れ込まないというしきたりができたという。


②江戸時代は重罪人が流される流刑地であった。
江島自然活動センター裏の東岸の岩場は、「流人ころがし」と言われ、
かつては罪人を突き落とす仕置場であった。
仙台藩で上流に属していた流刑人も多かったため、風流を愛する気風が残されているという。
その一人に豊臣家の家臣筋であった修験者、栄存法印がおり、
死後は島民によって手厚く葬られたというが、埋葬場所はその後農地として開墾されて
しまったらしく、現在は確認できない。


③太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月9日、アメリカ海軍戦闘機による
機銃掃射攻撃を受け、民家や学校に損傷を受けた。
近年まで、頭に大きな荷物を載せた「陸前の大原女」が島の狭い坂道を行き交う
風景が見られた。


大原女(おはらめ)とは女の行商のこと。



最初は炭を売っていたそうですが、薪を頭にのせて売っていた事もあります。
髪型を「島田髷(しまだまげ)」の結うのは、未婚の女性です。
なので、遊女の意味あいもあった行商ともいえるかも。


島田髷

結婚式は、「文金高島田」という結い方をします。
武家の娘の髪型をいいますが、髪型を変えておしゃれをするのは、今も変わらず。
当時は、このまげを少し下げたというか、ちょっとゆるくした感じが、
島田髷となってようです。やる気ない感じ。。。
暑い日には、こんな髪型も・・・ムリっ。
--------------------------------------------------
昔は、罪人の処刑は、今のような死刑ではなく、島流しといわれ、
離島にひとりにさせることだったそうです。
一人で島に残されるというのは、社会から切り離されることで、
その恐怖や不安が一番、精神にこたえるわけです。
それが一番重い罪だったから、菅原道真や柿本人麻呂などは、
そのような離島へ流されたということで、かなりの重罪扱いをされていたと考えられます。

そーいや、ホツマでもスサノオと一線を越えた宮中の女性が、(昼ドラみたいな話)
島流しされて、それが宗像三女になっている話だったかなあ。
あの島もシマだから、左遷された場所(罪人)になっていたかもしれん。
あの島に流された高貴な男巫が、神として祀ることにした島だったと思われます。
(勘違いしてたらすみません)
あんま、このへんの裏話をすると、世界遺産になったので文句いわれそうなので、やめとく。

柿本人麻呂は、いろは歌の暗号にあるように「「咎なくて死す」というような
メッセージを残した人で、昔は、多くの冤罪があったと思われます。
※江戸時代、いろは歌の中に「とがなくてしす」という言葉が含まれていると唱えた人がいた。

柿本人麻呂は、いろは歌を無罪であることを主張するために、
利用したと考えられます。

ということで、島はシマのように、カシマから続いているようなのですが、
結構、シマの文化というのは、深いものがあります。
人を寄せ付けない理由は、そういうことで。。。
そういう場所に、どんな人がいたか、というと口寄せやノロ、イタコなどの
シャーマンですね。

江島の伝説にあるように、金鶏というのは、金のトビを想像するのですが、
巫女がもっていた弓のようなものです。
その弓のようなものに金のトビが飛んできて、ナガスネヒコが降参した神話がありますが、
これが、巫女の道具といわれる由縁です。
洞窟にこもる話から、日詰五郎は巫女による施しを受けていたと考えられます。

「栄存法印」という人もいろいろな伝承があります。
実は、かなり前から、釜房山に祀られている栄存神社が気になってました。
どんな神社か調べたら、「栄存法印」のことでした。
土砂崩れか何かで、登山道が通行止めになっていて釜房山には登れず。
別の道もあるのですが、なんだか、その伝承を知ったら行く気がしなくなり。
僧侶の派閥というのか、これまた、怨霊を残して亡くなったみたいな話で。

シマというのは、無念で散った命があり、そのような霊をなぐさめるために、
巫女(口寄せなど)が必要だったわけです。
「陸へはあがらせない」といった海賊の防御もあり、
かつて巫女のような女性が、上陸を拒まれて流されたまま亡くなったとか。
そんな話は、けっこう太平洋側の島に多いんです。
しかも、だいたいが、義経からみなんだよね。
江島の話にも義経をかくまった罪で・・・とある伝承から、
東北地方の太平洋側の島々には、隠された歴史がいまも静かに眠っています。

ちなみに、江島は人が住んでいる島です。
おそらく、名前は江ノ島から由来していると思います。
航空写真でみると、島の形がなんとも不思議です・・・
☆ 江島(↓)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%B3%B6_(%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C)#/media/File:Rikuzen-Enoshima_Island_Aerial_Photograph.jpg
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

人魚の森

2017-07-09 | 東北地方の伝説(宮城県)
宮城県桃生郡前谷地村の廣淵村の街道は、
沼に産する魚類等を採取して生計を立てていた所。
灌漑用水地として伊達家が廣淵沼を作ったのは300年前、
大昔は入船出船に賑わう時代でした。

いつの時代か定かではないが、入海の主として恐れられていた人魚があった。
緑色の黒髪、1丈5尺(1丈=約3m)、半身金鱗に光輝く大きな人魚が
浜間に出没し、入船をおそっていた。
なんとかしてこの人魚を狩りたいが、散々な目にあわされる。
戦争のように鉄砲組や弓矢組を入海に派遣し、人魚征伐にしたがうが、
失敗に終わる。

しかるに加賀国金澤に一人の勇士がいた。
陸前方面に商いに行く自分の国の商船が人魚のために危害をうけるということを聞き、
人魚退治に赴く。
人魚は浜間におどり出て、軍船をうちしずめようとした時、
勇士は、ザブンと海中に入り人魚を生け捕りにしようとした。

人形はいささか面くらい、逃れようともがいたが、勇士の怪力に及ばず、
とうとう生け捕りにされてしまった。
その人魚を引上げた場所が、人形の森だという。
それを加賀の金澤まで持ちかえり、領主の御前にひろうに及んだ時、
金鱗に輝く人魚の腹が、パッと2つに割れて中から炎々と火を放ち、
みるみるうちに居城を焼きはらったという。

この伝承は、多くの鉄砲兵士たちが参戦し、人魚退治の員数まで
記してあったそうだが、今は現存していないという。

※宮城県の伝説:富田廣重著より





各地の人魚伝承------------------------------------------------

海賊どうしの参戦のようですが、
人魚伝説が世界中にあるなか、石巻にこのような話が伝わっているのは、
珍しいと思いました。
とらえた人魚から腹が割れて火が出た。という話も、なんのことやら、
不思議な伝説です。

人魚の森の場所は、北村字東柳沢という地名にあります。
広い田園風景の中で、こんな伝説があったとは想像できませんが、
海賊だったのか、津波だったのか、いろいろと妄想してしまいます。



人魚伝説は、日本では福井県の比丘尼(びゃくに)が有名です。
人魚の肉を食べると不老不死になる話。
父親が捕まえた人魚の肉は、貴重だったので隠しておいたら、
娘が見つけてしまい、肉を食べてしまう。
すると200年、300年も生きることができたのですが、
死にたくても死ねず。孤独になり仏門に入ったと。
岩鞍にこもり、それから一度も娘の姿をみることはなかったという話。
ちなみに比丘尼は中国由来の伝承とされます。



しかし、人魚というのは、ジュゴンでも人間と魚の一体というものでもなく、
ウミンチュと想像できる海の神であり、
海は得たいのしれない不思議な存在であることを伝えているものと思います。
時には荒れ狂う海となり、それが人魚の仕業であると信じている所が沖縄にあったのです。

人魚と津波が結びつけられた伝承が石垣島にあります。

石垣島の野底村(現・石垣市)でのこと。
ある夜遅く、漁師3人を含む若者たちが浜で遊んでいたところ、
海の向こうから女の声が聞こえてきた。
翌朝、その漁師3人が声の主を確かめようと船を出し、網を放ったところ、ザンが捕らえられた。
漁師たちは喜んでザンを持ち帰ろうとしたものの、
ザンが「私は海の外では生きられません」と涙ながらに命乞いをするので、
漁師たちはザンを海へ帰してあげた。ザンは逃がしてくれた御礼にと
「間もなくこの村に津波がやって来ます。早く山へ逃げて下さい」と告げ、海へ消えて行った。

3人は大急ぎで陸へ引き返し、人々にザン(伝説上の魚)の告げたことを知らせて回った。
付近の白保村では誰にも信じられなかったが、かろうじて信じた野底村の人々は
3人と共に山へ避難した。
その日の夕刻。黒雲が立ち込めると共に、水平線の彼方から巨大な
壁のような大津波が押し寄せてきた。
山へ逃げた野底村の人々は生き延びたものの、お告げを信じなかった
白保村の人々は皆、この大津波に飲み込まれてしまった。
これが、1771年(明和8年)4月24日の明和大津波こと、
日本最大の津波・八重山地震津波だったという。



※葛飾北斎画『椿説弓張月』より「人魚図」。人魚の下に描かれている生物が、沖縄のジュゴンと解釈されている。

この村人が避難した山が、於茂登岳(おもとだけ)だそうです。
古くから霊山として信仰の中心的存在であり、山名の「ウムトゥ」は「島の大本」を
意味するともいう。『琉球国由来記』によると、名蔵村の御嶽は
於茂登の神「ウムトゥテラシィ」の拝礼所で、於茂登の神を祀る祭事が島内の多くの
御嶽で行われたとされる。
また、首里の弁ヶ岳、於茂登岳、久米島の三神は姉妹であり、
日本から渡来したともいう。
二番目の神は妹と一緒に久米島を居所としたが、自分の山が妹のいる山より低かったので、
八重山に移って於茂登岳に垂迹して島の守護神になったと伝わる。
弘治13年(1500年)のオヤケアカハチの乱の際には、久米島の神女が琉球王国の軍に帯同し、
於茂登岳の神を説得して帰順させたという。

この山は「御嶽」というのだから、「ウタキ」ですね。
ウタキかノロが、予言的な話をしたこともないだろうか。
巫女の信仰が深い村であれば、巫女の言い伝えを信じた結果、救われたように思います。
----------------------------------------------------------
波照間島(はてるまじま)では、「釣りをしていて、釣られた魚の方から糸を手操(たぐ)って
上がってくる手応えがあるときには、人魚かも知れないから、
すぐに糸を切って舟を返さないと怖い。」と言う言い伝えがあります。

ザンは、鹿児島県奄美群島および沖縄県での伝承上の魚、またはジュゴンのこと。
「ザンノイオ」ともいう。


かわいい~ジュゴン。
出典blog.livedoor.jp

沖縄の口承によれば、時おり数匹のザンが浅瀬に上がってくるが、
漁師がこれを捕えて家へ持って帰ると、その家の主婦が死ぬか、
家族の誰かが海で災難に遭うため、捕らえて食べる際にも決して持って帰ってはならず、
浜で料理して食べなければならないという。

これは、山信仰でもみられます。
山神へ御供えをする時は、必ず持ちかえってはならず、
御供えしたものは、頂くものとされる。
残った場合は、その場で食べなければならない。
山神=狼の狩猟のルールがあり、狼は獲物をとったらすべては持ちかえらず、
鳥や人にも残す風習があるという。

また、奄美大島では、ときどき人間そっくりの顔を持つ魚が海上に浮かびあがり、
船上の人に顔を見せてから沈むといい、これが現れると必ず海が大荒れになるので、
船は急いで寄港したという。
奄美の民俗学者・恵原義盛はこれを「チュンチライュ」と名づけ、
自著『奄美怪異談抄』においてジュゴンか人魚のことと推測しているが、
書籍によってはこれがザンと解釈されている。

石巻の人魚の森周辺には、旧北上川が流れており、昔、湿地帯のような場所であれば、
津波などの影響で、川や灌漑用水が氾濫することが度々あったと思います。

----------------------------------------------------------
ところで、この伝承を探訪して気になった神社がありました。
廣淵村の住所を探ると、鹿嶋神社があります。
しかも、この鹿嶋の島は、山が上で下が鳥の漢字です。



この漢字は、「しま」の他に、「トウ」と読むのですが、由来が面白い。
「山」の象形と「鳥」の象形から、渡り鳥がよりどころとして休む海中の山、
「しま」を意味する「島」という漢字が成り立ちました。
(「嶋」と「島」は同字(漢字の形は異なるが、同じ意味で)
山の上で大きな鳥が休んでいる姿が象形文字になっているんです。


※漢字/漢和/語源辞典

「シマ」という言葉から由来している神が、カシマということなんですね。
神社入口のそばに、大きな沼がありました。
いつも私は何でもバシバシ写真をとるのに、不思議とこの沼だけは写真をとる気持ちになれず。
伊達家が沼をつくった名残でしょうか?
かつて、このあたりに大きな沼があったわけですね。
底なし沼みたいなことを想像してしまう、あの世とこの世の竜宮の世界。





鹿嶋神社には、塩釜神社もあり、香取神社も境内に祀られていました。
由来がちょっとわからない。
まあ、宮城県には鹿島神社がとても多いので、塩釜から経由してきた感じのようです。


塩釜神社と書いてありました。


こちらは香取神社。

人魚の森とどう関係しているのかわかりませんが、
なんとなく、鹿島神と人魚が繋がっている気がしたのです。



これも沖縄の話なんですが、「通り池」というのがあります。
通り池(とおりいけ)は、沖縄県宮古島市の下地島の西岸にある池で、
「下地島の通り池」として国の名勝及び天然記念物に指定されているそうです。
写真をみると不思議な池。(写真下:Wikipedia)
ふたつ並んだとても不思議な池です。


上空からの写真は、こちらで確認できます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E3%82%8A%E6%B1%A0

このような地形は希少だそう。
それで、この池には「ユナイタマ」というジュゴンと津波(先にのべた伝承)の話もあります。
ユナイタマは人面魚体の人魚で食べるために炙られて母人魚に助けを求めたため、
津波が起きたことになっている。

鹿島神社と人魚の森の関係性は、不老不死という死生観があります。
津波で打ち上げられたイルカやクジラ?などの大型魚類を想像しますが、
1700年代ならば、すぐにイルカやクジラくらいはわかるはず。
ジュゴンがいたとは思えない。

実際、奇怪なモノがいたのかもしれないねえ。
それが八比丘尼の伝承になっているのですが、
鹿島神を崇拝してきた人たちの間で(漁師たち)広まった伝承かもしれません。
また、鹿島といえば、巨石信仰です。

長野県の戸隠も「比丘尼石」の伝説がありました。
石になってしまった女性の巡礼者の話ですが、やはり人魚の信仰は、
巫女たち(ウタキやノロやイタコなど)によって崇拝していたと思います。
比丘尼伝説と巨石やイワクラはセットになっている話もあるもので。
福島県にも比丘尼岩という名前の巨石があります。

鹿島大明神のペグマタイト岩脈はもっとすごい。(巨石巡礼:郡山市)
http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/020_kashima/kashima.htm

しっかし~、
この場所の雰囲気は、とても異様な空気でした。


祠がたくさんあって水っぽい所。



ここでもハグロトンボがいたんですが、参道は、コケの絨毯を歩いているようで神秘的でもあります。
そんな人魚の森が、今でもひっそりと残されていることの方が、
不思議だと思った石巻の伝説探訪でした。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加