秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

雪の山寺

2016-12-31 | 東北地方の伝説(山形県)
毎年、年末になると山形へ行きたくなります。
主人と二人でのほほ~ん、山寺へ。







一昨年は、若松寺(天童)
昨年は、赤湯。
今年は、山寺。
私は冬の山寺が一番好きなんです~。





まっ白い風景もなかなか良い。
が、寒すぎて口が開かない。
無言の行脚。。。
しかも凍っているから、降りてくる人は、つるつる滑って転ぶ。
帰りのテンション下がる。


松尾芭蕉も白い。
「さむいね~」


「静かさや 岩にしみいる 蝉の声」の石碑。黒ネコが歩いてきた。。。

いつものように、山寺を開山した猿について妄想したいところだけど、
難しいね~。
山寺は何度も訪れてますが、霊の世界だな、とつくづく思う。
なんだか、他の山岳宗教とは独特な感じがします。



例えば、奥の院ですが、「ムカサリ絵馬」というのがあり、
それをたくさん奉納しています。
ちょっと怖いけどね。
今は、奥の院は閉山してますが。

こういう生と死への考え方が、独特だと思うのです。
これは日本が発祥なのか、他の国からもたらされた発想なのか…。
雲南省のトンパ文字を残した文化でも、
若い男女が結ばれないと心中するそうです。
あの世へ行けば結ばれると信じているので、若い男女が自殺するそうです。
中国の漢民族の侵入による政略結婚もあり、
以前の自由な婚姻ができなくなった背景があると言われる。



昔の日本の結婚もそれで、親が決め、家系で結ばれるものなので、
恋愛結婚はまずご法度でした。
もっと古い時代は自由だったのですが、藤原氏の摂関政治によってから、
家族構成が変わって行きます。
村でおさめていた一つの集団から、家という核家族への「個」へうつる。
そうなると、自分たちの家系が重要になってきます。
それが、イエスキリストの転換期だったと言えるでしょう。
隣人を愛せよ、というのは、「個」がないとできません。



貴族同志の婚姻だけではなく、地方豪族との婚姻を結ぶことにより、
権力を誇示するようになります。
血縁を絶やさないための目的もあり、領土拡大の意味もあって、
互いに自由な恋愛結婚というのが、難しくなってきた時代でした。
最近までそうだったと思います。



ムカサリという風習--------------------------------------

ムカサリ絵馬とは、山形県に伝わる風習で、結婚前に亡くなってしまった人に向けて、
せめて婚儀だけは挙げさせたいという親の思いから、
絵馬に婚礼の様子を描いて寺に奉納するものである。
なお、婚礼の絵馬には、故人の戒名と享年が入る。
藤沢版ムカサリは、この風習に「ただし、一つ決め事がある。
絵馬に描く婚礼相手にまだ生きてる人間を描いてはいけない。
婚礼の行列が迎えに来てしまう」という設定を付け足している。




ムサカリは誤記。ムカサリは「迎えられ」からくる結婚の方言。
嫁に迎えて去ることからこう呼ばれる。
事故や事件、病気などで子供を失った親が絵や写真で架空の人物との
婚儀の様子を描き、寺に奉納することで、故人の成仏や死後の幸せを祈る。

(Wikipedia)

私はこの絵馬を、遠野博物館で見た事がありました。
山形県の「村山地方のみ」で行われているというのが不思議です。
奥の院は、如法堂という。
慈覚大師が中国で持ち歩いていたとされる釈迦如来と
多宝如来の両尊を御本尊とする如法堂は、参道の終点にあるので
「奥之院」と呼ばれています。(写真)



おそらく、このあたりにムサカリが風習となったのは、
山形県東村山郡に、岩谷十八夜観音堂があります。
ここではオナカマという巫女がいまして、仏降ろしの口寄せといわれます。
その時につかった巫女の道具などが奉納されています。
無念な若い死をとげた人たちの、オナカマがいたことが盛んだった為、
死者との対話を試みながら、あの世への成仏を行っていた場所だったと思われます。

※オナカマという巫女
http://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/939d27418b47dbe0fe6c2d6ca9fb23d0

奥の院には、三重塔の額が奉納されています。
仏教の祖である釈迦の舎利(遺骨)をおさめる仏塔の形式の一種。





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ということで、山寺は安らかな死を迎えることができなかった
霊も慰める所なので、独特な黄泉国だな、と感じます。

この時の山寺は、年末は忙しいので、新年のお飾りの準備をしている状況。
観光客もまばら。でも、外国人観光客が多かったです。



今年は介護の年だったし、喪中の時期もあり、
今も義父を介護中ですが、喪に服す意味で、
私にとって今年の山寺はとても深い時間が流れていました。

山形県は、東北地方の中でも独特な風習があります。
日本海の中でも一番、山形県が平穏な場所だと感じます。
このような風習のおかげでもありますし、出羽三山があるからか、とても信仰が深い。
太平洋側はトラウマが多すぎて、重たい。(関東も)
何となく、山形に来ると軽くなる感じがします。(もちろん個人差ありますけど)

猿麻呂と小野氏・春日氏--------------------------------------------------

入口に入ると、姥堂がありますが、
ここから上が極楽という浄土口で、そばの岩清水で心身を清め、
新しい着物に着かえて極楽の登り、古い衣服は堂内の奪衣婆に奉納する。
今は階段で登れますが、昔は、階段がなかったので山道を登ってました。
山寺は、洞窟ばかりの世界です。
こんな所で修行なんぞしたら、いくら慣れとはいえ、最初は孤独感との戦い
だったのではないかな。

ところで、こんな霊場を誰が作ったのだろう?
伝説では、貞観2年(860)清和天皇の勅願のよって慈覚大師が開いた
天台宗の山といわれる。



しかし、もうひとつ「猿麻呂」の伝承がある。
山寺に狩猟をしていた人がいたので、慈覚大師が霊場として
この場所を譲ってほしいと頼んだ。
その代わり、宮城県側の秋保や蕃山がある一帯を自由に狩りをしてよいと。
猿とよばれた兄弟の話なのですが、山寺に住んでいた猿とは、
狩猟をしていた民で、北関東に伝わる戦場ヶ原の、
日光男体山(栃木県)の蛇に味方した猿のことである。
その猿の子孫が石巻にいた伝承もあり、それが小野氏か春日氏のことであろう、と。

山寺の三大祭りというのがあり、この地を支配していた
磐司・磐三郎と大石の上で対面し、仏道を広める根拠地を求めたと伝えられる。
「獅子踊り」は、磐司が狩人をやめたことを喜んだ動物達の喜びの舞だという。


※「旅ぐるたび」より。

マタギのような弓が上手で狩りをしていた人に助けを求める話は、
近江三上山(大津小野村)の俵藤太秀郷のムカデ退治にもあります。
大津小野村といったら、琵琶湖がある滋賀県。
小野姓が宮城県に多い理由は、ここにある。
ウカノミタマを祀る石巻の旭山は、小野の郷でもあり、牧山もあります。
また、桃太郎神社もあるので、吉備国の先祖がやってきた証拠でもある。
それが山寺にいた磐司に繋がる。

その小野郷は、支倉常長の地名由来、支倉も小野郷の一部だった。
ムカデ退治の俵藤太は、藤原秀郷のことである。
藤原秀郷は、平安時代中期の貴族・武将。下野大掾藤原村雄の子と。
平将門をたおしている人。
この人は武蔵守となっている。



猿「マロ」というのは、坂上田村麻呂も「マロ」ですが、
マロとつけるのは、丸子氏や丸とつける氏族がルーツにあるようです。
それが和邇氏という人?にあたる。
和邇が、ワニとよむため、爬虫類とされているので、
トヨウケオオカミと重ねられる。
他に、「和邇」とは、「古代の船」の意味をもつ言葉ではないか?という説がある。



戦場ヶ原は、かつて湖でした。
1万年以上も前に、噴火によってできた湖でしたが、今は湿原となっている。
戦場ヶ原の戦いは、ケヌ国の中心としてあり、
上野国、下野国、に分かれていた。
古事記の編纂時代より前の話らしく、かなり古い伝説。
もし、この頃まで湖として形成されていたなら、
湖に多く生息していた貝類などの資源争いがあったと考えられる。

琵琶湖にいた人たちが戦場ヶ原の湖(もしくは中禅寺湖)の資源を求めて、
開拓していたのを、別の氏族により湖を奪われた話に。
それが和邇氏に関係し、蛇信仰の産鉄族(おそらく出雲や三輪など)
に味方した猿=和邇氏がいたと。
後だったか前だったかわかりませんが、石巻に上陸したと考えられます。

鳥海山も丸子氏が関係している。
来年は酉年ですが、丸子氏は鳥を敬う(鳥海山)ので、
鳥を食べないというタブーがあります。
来年は、鳥海山の年でもありますね。
鳥海山のある遊佐町には、「丸子親王」の伝説があり、
月山も含め開拓した人といわれる。
それが藤のマークの家紋をもつヤタガラスで、稲を神としている。

丸子親王の系統には、2つあり、大伴氏と武蔵江戸氏流がある。
おそらく、山寺には江戸山王大権現日枝神社を祀っているので、
この神社は新しいものですが、子孫が、
武蔵江戸氏流の丸子氏だったと考えられます。
そうすると、山寺に最初にいた猿麻呂とは、武蔵の和邇氏となる。
それが小野氏と春日氏となったわけです。

日枝神社は山王祭りがあるように、山王信仰がある。
というと、これも近江をルーツとする日吉神社も同じように山王だ。
小野氏か春日氏の先祖は滋賀県の近江国によるのだろう。
猿だから、猿田彦の何か?かと思ってしまいますが、
猿は、猿女のサルメの方かもしれない。
朝廷の祭祀に関わっていた氏族のことですが、岩場で修行をするのは
男性と決まっているわけではない。



お籠りをしていた岩場もありそうなので、この世を「去る」意味から、
猿麻呂とは、これまたユダヤっぽい雰囲気もあるような~。


※平安時代の岩仏

また伝説の世界では、磐司と磐三郎と兄弟で記す伝説の典型は、インディアンの部族がそうです。
インディアンの部族では、創世したのは兄弟であると。
日本では、姉と妹の山神伝説になります。
イエスが二人いる=兄弟がいた。にも似ています。

天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)という人が小野氏、
春日氏の先祖という。

この方を祀っている神社は、「猪上神社」で「いがみじんじゃ」とよぶ。
おがみ神社から、いがみに転じたそうですが、なぜ、猪なのか?
そういえば、物部氏の中に「荒猪」といわれている人がいた。
蘇我氏と物部氏の神道と仏教の話が、山寺にも関わっていそう~。

この猪上神社の場所は、二ギハヤヒが降臨した奈良県生駒郡である。
ナガスネヒコだね~。
駒だね~。高句麗だね~。
生駒山はナガスネヒコと神武天皇の激戦地といわれる山。
繋がるよね~。
和邇氏は、太陽信仰をしていた一族である。
まさに、トヨを思う卑弥呼なんだよなあ。
猿は、そのような太陽神を崇めていた女首長の狩猟の民の長だとし、
仏教によって帰依したという話は、鳥海山の手長・足長と同じである。




※胎内堂

海にいた安曇氏などの海民が、山に住むようになって海と山のそれぞれの氏族が
融合した場所に、大山津見神社を祀るように思う。
例えば、福島県・宮城県堺の鹿狼山は、手長足長を祀っています。
貝塚の話がありますが、元々は海の民でした。
その人たちが山民になった為、鹿と狼という描写になるのか、と。
海幸彦・山幸彦の伝承のことも。
なので、猿麻呂に2人の兄弟を記して、磐司・磐三郎とするのは、
ワタツミとヤマツミの2人のことを示す意図もあり、
ネイティブの世界では、男性の兄弟2人が創世した話、
イエスキリストと繋げるならば、イエスには兄弟がいたので、
その子孫が、代々、日本へ来て伝えている話なのか、と思います。


ジオラマ風にとると、仙山線の山寺駅がおもちゃみたいだ。

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私は、山寺の参道入口の姥神が好きなんです。
山姥などの大地母神は、厳しいけど優しいから好きです。
3体の姥がおりまして、中には死人みたいな怖い顔をしてますけど。


猿女は、歌や踊りをしていたアーティスト集団だと思っています。
髪を振り乱して、目がいっちゃってるような祈祷ではなくっ。
そんなのは、どうかしてる。
もっと楽しい祈りです。笑いがこみあげてくるような。



だから神楽と言いますよね。
神が楽しいと思うことは、自分が楽しいことと同じです。
神は内にあるのだから。
それが本物の巫女です。

ただ、オナカマのような仏降ろしだと、人間を対にするので重くなりますけど。
目に見えない精霊や自身の内へ入ると、本来は、もっと軽く楽しいものです。
現実が厳しいと、それも難しいけどね~…。



山寺はしんみりしてますが、楽しい場所だったのですよ~。

なので、1000年以上も前、もっと2000年以上前となると、
すごく軽くて明るくて歌ばっかりうたっていたイメージがあります。
時代が断つにつれて、人の考え方、生き方も変わってくると、
恐怖や不安、病気といった重たいものに翻弄される。
今の時代がとても重いのは、仕方ないと思う。
でも、昔はもっと軽く楽しい世界だったのです。



ということで、今年は介護を通じて、人の生死を体験した学びの年でした。
自分の最期は、どんな感じだろうと思う今日この頃。
人は死ぬために生きるとは、本当にその通りで。
何を食べても一緒だというのもわかった。
健康食や栄養管理なんて、何の役に立たない。
その人の体質によるから、自分の体しか何が良いかなんてわからない。


※日本一古い石塔(清和天皇)

来年は酉なので、ますます飛躍する東北行脚になりそうです!
ですが、情報が入るにも出るにも、日々、高速になっているようです。
追いつかない状態でして、まだまだ、そのままにしている内容のものが、
いくつかあるのですが、更新できない状態が増えるとは。


天童


山形蔵王

過去の記事をみると、全然、書いてないのにね。
本当に必要だと思う内容しかお伝えできないのが、残念。

この道のようにまっすぐ、私は私で、これからも東北を行脚します。
来年もよろしくお願いします。

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信夫もちづり石と北斗七星

2016-12-27 | 洞窟・巨石探訪
7,8年位前だと思うのですが、福島市の信夫もちづり石に行ったことがありました。
ここは松尾芭蕉も訪れており、数々の文学者も訪れている所です。
福島版あこや姫のような、悲恋話が有名で、虎女と源氏物語のモデルといわれた
源融(みなもとのとおる)の恋話です。





「陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 
たれ故(ゆえ)に 
乱れそめにし 我ならなくに」


訳:陸奥の信夫(しのぶ)の里の名産、乱れ模様のしのぶもじずりのように、
僕の心は乱れてしまっているよ。
いったい誰のせい? 僕のせいじゃないよ(君のせいだよ)。


はずっ。
こっちが恥ずかしくなるー。
確か、もちずり染めといったかな?
染物をしていた石だったと思う。



つーことで、ゾッコンだったのは、トオルの方で。
でも、フラれたのは貴族だというと顔に泥を塗ることになるから、
虎女が悲劇の女性にされたんでしょーーーねっ。





虎女は、ちぃっ、と思ってるかどうか。
虎女はいつまでもここにいる感じがする。
トオルは勝手に好きになって、さっさと家に帰ったんだよ…。
そんなもんだ。
だいたい、藤とつく貴族の歌は、そういうのが多い。
でも、そんな貴族の純粋な恋心が良いと思います。(ホントカ?)




※足止め地蔵:家出人など、この地蔵の足をしばると無事帰ってこれるという。

二人で並んで石碑がある。


(白いのは、フラッシュの光です。(たぶん)

虎女は、しょうがない、私はここにいましょうか、って感じがするんだよね。笑
冷めてる。
ババアの勘。

しかも、源融の先祖は、松浦党(九州の蒲池)の説があって、
系譜をたどると、子孫に松田聖子って話だよっ!
うわー、うわー、聖子ちゃん嫌い~。
とーぜん、明菜ちゃん派!

で、トオルは、鬼退治をした渡辺綱の子孫で、正式には渡辺でなく源綱だと。
えー、つい最近、通りかかったついで、川崎町の鬼の手形石にまた行ったし。
ん?ということは、聖子ちゃんは、鬼退治をした渡辺綱とも関係するの?
・・・。





地方への転勤なんて、今も昔も変わらず。
まだ陸奥国は異国だったから、地方の女ってどうなん?になるよね。
方言があるから、伝わらない。それがいい。ってこともあったんでねーの?
でも地方豪族の娘と貴族の恋話は、いろいろあるけど、
元は、地方豪族だって遠くから来てるんだから、同胞だったりする。



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さて、本題・・・。
もちづり石が何か、わかりませんが、
松尾芭蕉は、寄り道しながら巨石探訪していました。



岩に刻まれているペトログラフを探していたと思う。
もちづり石にそのような文字が記されていたか不明です。

夜泣き石もあり。



「石の伝説」
「遠い昔、9世紀頃、陸奥国按察使源融公が、
おしのびでこのあたりまで参りました。
夕暮れ近いのに道もわからず、困り果てていますと、この里の長者が通りかかりました。

公は出迎えた長者の娘、虎女の美しさに思わず息をのみました。
虎女もまた公の高貴さに心をうばわれました。
こうして二人の情愛は深まり、公の滞在は一カ月余りにもなりました。
やがて、公を迎える使いが都からやってきました。
公は始めてその身分をあかし、また会う日を約束して去りました。

再開を待ちわびた虎女は、もちずり観音に百日参りの願をかけ、
満願の日となりましたが、都からは何の便りもありません。


(観音堂)

嘆き悲しんだ虎女がふと見ますと、「もちずり石」の面に、
公の面影が彷彿と浮かんできました。
なつかしさのあまり虎女はかけよりますと、
それは、一瞬にしてかきうせてしまいました。
虎女は遂に病いの床についてしまいました。
公の歌が使いの手で寄せられたのは、ちょうどこの時でした。」


虎女と鏡石というところが、巫女っぽい話です。



北斗七星の石碑-------------------------------------

初めてここに来た時、この石碑の存在を知りませんでした。
これは、「甲剛碑」といわれ、「北斗」のことで、北斗七星と伝わる。
この文字を書いた人が、北畠顕家の父親、北畠親房の書であると。
息子の顕家が建立したと伝わるので、鎌倉時代にも遡る。
ほんとかなあ。と思ってしまいますが…。
北畠顕家は、近くの霊山にいた人ですね。





北畠家が北斗七星を信仰していたのは、妙見からきているのですが、
津軽北斗七星とも繋がっていて、そのうちのひとつ浪岡八幡宮は、
北畠顕家の建立だと伝わります。

ちなみに、北畠顕家の子供が父を探して亡くなった伝承があります。
宮城県北部にある若柳町。金がとれた所なんですが、
ここに醍醐という顕家の子がいまして、その場所に三峰神社が祀られています。

狼信仰は、妙見がもたらしたものですが、
霊山でも、黒い虎を捕まえたのは白い狼という話。
なので、霊山向かいにある虎捕山は、狼を眷族とする山積見神社があります。



震災で火災にあってしまいましたが、本殿の天井の狼壁画が今年、完成しました。
ここに北畠家が関わっているのだから、この人も妙見を信仰していた人です。

虎捕山が白い狼と関係するのは、虎も狼と考えて、
黒の狼=アヌビスと。
虎みたいに狼を描いてた画もありますので、あちらの国から来た人は、
狼を虎みたいに描き、それが黒いというのは、エジプトのアヌビスに見ていたと思う。



霊山などの信仰の山には、薬草が深く関わっている。
岩手の国見山もそうでしたが、ミイラのことをミルラとよび、
ミルラは薬草の意味があると。
肉体をそのまま保存する技術は、ミルラが由来なんだそうです。
ミルラは薫りがすることでよく知られた木なんですが、
香りなどの匂いが、他の氏族によって嫌がられた事があったのでは?

それがミイラであるなら、遺体には匂いがするから香りでごまかした事もある。
よって、ミルラの技術はエジプト由来の蘇生=ピラミッドがあるので、
病気を治療する集団がいたことは十分、あり得ます。
カカセオのことを書きましたが、香という漢字を使うのも、何かありそうです。

平家には、そんな呪術的なイメージがあるのですが・・・。
北斗七星は、大体、巨石や岩に丸い穴で、描きます。
が、これは石碑として置かれているので珍しいと思います。
なぜ、甲という猿を用いたか不明ですが。

ムー文字------------------------------------------

ここから、暴走しますけど。
この文字が何なのか?調べてもよくわからない。
春日文字がよくありますけど、それと近い文字がない。
他に神代文字を調べてみたけど、この文字に近く該当するものもない。

一つわかっているのは、下の文字左の「刀」のような形のものは、
篆書体(てんしょたい)で、漢字の書体の一種と考えられるそうです。
おそらく、下左は「刀」の篆書体。
篆書体は、よく使われています。
日本のパスポートは「日本国旅券が篆書体です。



例えば、始皇帝の篆書体は、こんな感じで。



「皇」は、王さまが冠をかぶっているような図に見えます。
起源は、中国の唐(618年~907年)の時代に見つかった石鼓文からだそうです。

しかーし、他の文字が謎だと思っていた時に、似ている文字を見つけてしまった!
たまたま、youtubeで見つけた。
とかく、ムーのシンクロはここ最近とても多い。
ずっと前に買ったレムリアの本を読んでみたり。
何かとそのあたりを欲しているのですが。

「発見!ムー大陸(65) 」という番組からの線刻石碑です。
丸で囲まれた文字。



琉球大学の木村先生によると、屋根みたいな部分が、「天」の意味で、
王の人が歩いているような部分が、「琉球王の王様」という意味だそう。
これは、トンパ文字の「空」の形にもよく似ている。



※トンパ文字

琉球大学の木村先生は、長年、海底遺跡を調査している方ですが、
海底に石灰石の岩盤が見つかり、石灰石は、浅い場所にあるので、
1000m以上沈んだことを意味すると。
地殻変動で沈んだことを示唆しているもので、
沖縄には逆に隆起している石灰石がたくさんあると。
沖縄周辺の海底には、活断層が激しく残っているため、
ムー大陸が沈没したのでは?という話。

テラガマの石板ともよび、紋様が刻まれた文字は不明ですが、
トカラ列島周辺~沖縄にもたくさん見つかるそうです。
ムー文字は、アルファベットのような記号のようなもの。



アトランティスやムーが、物質界の三次元に降りたと考えれば、
(次元降下)実際に海底で見つかることはあると思います。
でも、レムリアは別だと思う。
目に見える世界ではないので、探しても見つからないし、私たちの世界では
見ることはできない。

ムーが沈んだ原因は大火山にあったそうです。





※沖縄県立博物館蔵
他にも線刻板をみることができます。
こちらのサイトより。「墳丘からの眺め」
http://massneko.hatenablog.com/entry/2014/09/29/150000

ムーの世界のようですが、沖縄のロゼッタストーンとよばれる。

甲剛碑の文字は、鏡のように上と下と書かれているような気もします。
刀の隣の文字は上の文字を反転したように似ています。

ところで、この線刻文字が発見されたのは、北谷町の洞穴(テラガマ)という。
北谷は、「ちゃったん」町とよぶそうです。かわいい響きだけど、米軍基地があるよね~。
海底遺跡を研究している木村先生の、「発見、ムー大陸」では、
トカラ列島のことを言っていた。
そのあたりに激しい活断層があると。
木村先生は、その専門なので、地震を予知している。

私は、トカラ列島を知らなかった・・・。
ほんとに沖縄は無知ですみません。
トカラ列島を調べてみたら、こんな情報を見つけてしまった。



※「週刊地震情報」トカラ列島で再び地震
http://weathernews.jp/s/topics/201612/250055/

「24日(土)8時10分頃、トカラ列島近海でM3.0の地震が発生し、
小宝島で震度3の揺れを観測しました。
その後、8時19分頃にかけての約10分間でM3以上の地震が3回発生し、
うち2回は震度4を観測しています。
活発な地震活動は昼前にかけて続き、震度1以上の地震は11回。
12月8日から9日にかけても28回の地震を観測しており、
今度の動向に注意が必要です。」

トカラ列島(吐噶喇列島)とは、地名の由来については諸説あるものの、
「沖の海原」を指す「トハラ」から転訛したという説が有力。
鹿児島県側の薩南諸島に属する島群(東シナ海)


※中之島

木村先生は、この地域は地震が多いことを知っているのだと思います。
元々、地震が多い地域だとしたら、活断層が激しく隆起している痕跡があるわけです。
まさに、ムーだわ。
もし、北斗を意味する「甲剛」の文字が鎌倉時代にすでにあったなら、(観音堂は1700年代だけど)
松尾芭蕉は、この文字を見にきたのでしょうか?
それがムーの名残だったら、興味が湧きますね~。
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エミシ語のイシキルイ

2016-12-26 | エミシについて
終わらないナガスネヒコ。
この前の歴史会で、「イエスは2人いた」という話を聞きました。
ワイワイとそんな話をしてました。

この話を聞く前に、気になっている神社が大阪にありました。
ネットで偶然見つけたのですが、ナガスネヒコの妹に関係していた。
でも、卍パワーで疲れてしまい、妄想をやめた。
ナガスネヒコはもういいや、と思ってました。

が、その次の日、また別の方から、「イエスが2人いた」という話が入ってきた。
なーんも言ってないのに。
今までの経験上、こういうシンクロは、何か言いたい先祖がいるのだと。
そう思うことにしている。

書かせてみせようホトトギス・・・。
織田信長気分で。
んー、でもよくわからないなぁ。
妄想ということで。

しっかし、大阪にエミシ語の地名由来があったとはっ!!
「石切」という地名。

東大阪の地名由来によると、
 今も参詣者が絶えない2000年の歴史を誇る石切劔箭神社からつけられた地名。
「石おも切る剣と矢」ということで「デンボ(はれもの、癌)」を
治す霊験あらたかな神社として全国的に有名。
饒速日尊(二ギハヤヒ)縁の地で、もともと軍事氏族物部氏の一族保積氏の氏神
だったところから優れた武器の持つ霊力を祀ったものと考えられる。
「武士」を「もののふ」というのは、ここに由来している。
「石切」の名そのものは、エミシ語で「イシキルイ」
(彼の大いなる脚)長い臑を持つ男ナガスネ彦(進藤治氏)に由来している。


ほんとけ?
「石切」と聞いて、イエスの弟、イスキリが浮かんだのは私だけでしょうか・・・?
ですが、石切の地名は、新しいもので昭和になってからだそうです。
ただ、この地名がつく由来には、穂積氏と物部氏が関係していた。
それに、イボといったら神功皇后です。

また、この石切は、「砌」と書いて「みぎり」という。
由来はこの「みぎり」にあり、「水限 (みぎり) 」の意で、雨滴の落ちるきわ、また、
そこを限るところからという。
石切は、水を切る意味があったのだろう。

いぼ水の由来は、大阪府三島にある磯良神社(いぼ水神社)からといわれています。
この磯良神社のご祭神は、九州安曇氏の祖神で、海人族といわれたエビス様
が深くかかわっています。

安曇磯良は、安曇連比羅夫ともいい、奈良時代、白村江の戦い(現在の韓国)
での英雄でした。安部氏と同一とみる人もいます。

磯良神社に伝わる伝承は、神功皇后(じんぐうこうごう)が戦に行く時、
自分が女であることから、このままの姿では敵に嘗(な)められるので、
男装をし、顔をいかめしくするため疣(いぼ)を身につけようと思い、
通りかかったこの神社に立ち寄り、祈願して社の前から湧き出ている
清水で顔を洗いました。

すると、美しかった顔がたちまち大きな疣だらけの黒い顔となりました。
戦いが終り、磯良(いそら)神社に戦勝の報告をしたあと、
再び社前の清水で顔を洗うと、いままでの醜い顔が消え去り、
もとの美しい姿に戻ったので喜び勇んで大和の王城に帰りました。
後に磯良神社は、疣水神社と呼ばれ、遠くからもこの清水を
くみ取りに来る人が見られるようになりました。


この話は、宮城県の悪玉姫の九門長者と同じですね。
悪者にだまされて奥州に下り召使いとして売られていた姫がいた。
姫は自分の身を守るために、普通の人には醜い女と見え、
身分のある者には元の美しい姫の姿にみえるように観音菩薩に祈願を立てた。
この女性と坂上田村麻呂の間に生まれた子がいるという話。

九門長者と悪玉姫1
http://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/920d1a790b8a7cc3b94701a996e8f9ec

神功皇后は応神天皇の母。応神天皇は八幡様の事。
なので、マロは、戦勝の神として八幡様を祀るといわれるので、
これには神功皇后を敬う物部氏も関係する。

ちなみに、宮城県北部の色麻にも磯良神社がありますが、
河童をお祀りしています。
磯良神社、伊達神社(いたて)、鹿島神社はそれぞれ鳴瀬川を挟み、
三角形で結ばれる。
またこのあたり一帯も、鹿島神社がとても多い。
茨城県の鹿島神宮、息栖神社、香取神社(千葉)が利根川を挟んで
川の氾濫を防ぐのと似ている。



結局、愛子神の物部氏に繋がる。
二ギハヤヒはナガスネヒコの妹と婚姻を結び、
神武天皇と共に、新しい進化の旅を続けることに・・・。

「鳥見の里と二ギハヤヒ尊の天下り」
はるか昔、河内と大和一帯は、鳥見(登美)の里とよばれ、
穏やかな自然と海、山の幸に恵まれた豊かな土地でした。
この地方を治めていた豪族、鳥見一族は稲作や製鉄の技術はないものの、
狩や漁がうまく生活用具や住居づくりに優れていました。
また、長身の恵まれた体格は戦闘に秀で、「長髄の者」と恐れられていました。
さて、神々の住む高天原では、天照大神が、孫の二ギハヤヒ尊に大和建国
を命じ、「十種の瑞宝(かんだから)」を授けていました。
「十種の瑞宝」は、人々を治め、身や心の病を癒す霊力をそなえた瑞宝です。
二ギハヤヒ尊は「フツノミタマの劔」を持ち、日の御子の証である
「天羽羽矢」も携えて天磐船に乗り、船団を組んで高天原から船出しました。
船団が豊前(大分県)の宇佐につくと、尊は息子の天香山命に「フツノミタマの劔」
を授け、船団の半分をあずけます。
そして自らは、瀬戸内海を通って大和に向かいました。
こうして二ギハヤヒ尊の乗る天磐船は、鳥見の里を見渡す生駒山に着きました。


※石切劔箭神社より
http://www.ishikiri.or.jp/

ふ~ん、こういう神社があったんですね。
もっと興味深いのが、石切劔箭神社からさらに山を登って行くと、
「石切神社上之宮」というのがある。
饒速日の妻の三炊屋姫(ミカシキヤヒメ)を祀る登美霊社があるのです。
これが、ナガスネヒコの妹だった!
しかも、このお社のデザインが、前方後円墳なんだとー。



「ジンジャモール瓢箪山のブログ」よりお借りしました。
http://blog.livedoor.jp/jinjamall/archives/7676243.html

二ギハヤヒとの間に、ウマシマジを生んでいる。
登美や櫛玉姫命、ミカシキヤヒメとか、いろいろな名前にされている妹です。
ウマシマジは、鎮魂の呪術を最初に行った人だといわれている。
秋田の物部文書では、ウマシマジ(可美真手命)が三韓征伐に、神功皇后と一緒にいったと。
他の史書では、武内宿禰となっていて、物部文書では一切、武内宿禰の名がない。
おそらく、武内宿禰は蘇我氏の系譜をもつと考えると、
蘇我氏と物部氏の間の問題があった為、記せない事情があったとか?
でも、どちらが真実かわからないのが謎なんです。

やっぱりこの事は、書いておきたい。
ナガスネヒコが、石切神社に関係するならば、
津軽へ逃れたナガスネヒコ周辺にあるのは、キリストの墓であり、
人工ピラミッドの多さにある。

イスキリ--------------------------------------------------------

竹内巨麿は竹内文書に、「イスキリス・クリスマス。福の神。八戸太郎天空神。
五色人へ遣わし文」にはじまる記述や「イスキリス・クリスマス」の遺言があるとし、
イスキリス・クリスマスはゴルゴダの丘で処刑されず、弟のイスキリを身代わりにして日本に渡来して死に、
その墓が「十来塚」であるとする。
このイスキリス・クリスマスがイエス・キリストであり「十来塚」が「イエス・キリストの墓」
であるという。

しかし、この説には信頼性がないと言われていますが、
本人でなくとも、深く関係していた人か、その一族が津軽へきたことは確かにあります。


※青森のキリストの墓

前回、津軽の飛鳥で、ヤマタイ国の砦が五角形になっているのを話ましたが、
日本では「桔梗紋」が戸来村(キリストの墓がある村)の旧家に伝わり、
家紋は五角の形。
ユダヤのシンボル六芒星の「ダビデの星」と酷似しているとされ、
イスラエルの失われた十氏族やイエスとの関わりを指摘する説もあるのだ。
ということから、津軽のヤマタイ国を五角形にしたのは、
イスキリに関係する人たちが仕掛けたものだったと思うのです。

そこにはアイヌ人もいました。
アイヌ人や、続縄文人のいた境界にあたるので、
遠くから逃れてきた人をかくまっていたわけです。
そのバックアップをしていたのが熊野修験だったと思うのです。
なので、あの砦には熊野神社に習って石を築いたと考えられるのです。

また、仙台愛子に諏訪神社が祀られ、キリシタンの聖地であるのは、
東北には隠された歴史があり、隠されているのが、星神を祀っていた氏族にあたる。

津軽の北斗七星------------------------------------

この話から、歴史は何度も上書きされているのですが、
それがキリスト教だと思う理由。
それ以前は、諏訪神のようだ。
その諏訪神の何だったかというと、どうも星神にあたる。
星神を封じているような話になる。それが物部守屋だったりして・・・。
その封じている星が津軽の場合、大星神社のようだ。
これが重要な気がする。
大星というと、私はカカセオを思いだす。
ミカホシ(天津甕星)=タケミナカタの解釈になっているようだ。
住吉三神の3つの「筒」ツツは、星。ミカボシも三ヶ星でオリオンかもしれない。



「遠野不思議空間」を書いている岩手のGOさんより、
カカセオは、氷雨のことで、これを「こおらさめ」と読んだのでは?と。
武甲山と熊野修験で、氷雨除けがある。
氷雨というのが、コオラサメというサメというような存在で、
カカセオであるなら、それを防ぐ魔除けとして武甲山と熊野修験が関係するのは興味深い。

が、この氷雨という雨が落ちるさまが、まるで、「みぎり」の意味に似ている。
水が落ちるさま。というのはどんな感じだろう?想像つかない。

おそらく、日本神話における天孫降臨とはイエスの降臨であり、これも新たな人類の覚醒みたいなもので。
どんな名前の神々であっても、この時代は人類が変革の時にあたる。
その前は、諏訪神を中心としたシャーマニズムな星神の世界があったと?
諏訪の守屋は、前にいた一族、守矢とどんな契約をしたのか。
二ギハヤヒを祖とする物部氏や穂積氏を考えた場合。
しかし、それによって追いたてられた星神がいたのではないか、と思う。

青森県には北斗七星に結ばれた寺社がある。(弘前周辺)
由縁では、鬼の鬼門にあたる津軽王国だったので、
桓武天皇の時代に、マロによって津軽に七つの社を建てたと。
星の力をかりて、七つの形に置くことで、鬼を封じたという話。

北斗七星の7番目が大星神社。
私は7番目にこだわりたい・・・。
伊達政宗が戦った場所を点で結ぶと北斗七星になる。
その7番目が最北の登米になる。
その登米には、出雲神社と照日権現を祀っている佐沼城跡があり、
鎮護のために鹿を生き埋めにしたことから、別名「鹿ヶ城(ししがじょう)」とも呼ばれているのだ。
これは諏訪神だね。

この場所で、アイヌ人の神器とアテルイを妄想していた。
津軽の北斗七星も繋がっていそう。

津軽の北斗七星伝承は、こちらのサイトを参考にしてみて下さい。
写真がいっぱいのってます。
「津軽山信仰グループ」
http://www.jomon.ne.jp/~ja7bal/hokuto7.htm

北斗七星神社
①乳井毘沙門天(乳=丹生の水銀のこと)
②村市毘沙門天 
③百沢岩木山(岩木神社)
④高岡熊野宮
⑤猿賀神社
⑥浪岡八幡宮
⑦大星神社(横内妙見堂)

やっぱり、7番目は破壊の神、妙見信仰になるんですね。
④の高岡熊野宮の伝承に、熊野奥照神社、上古斧杭より、扇庄に鎮座の時、
当地にしばらく休み、神の掛石というのがあったので、ここに社殿を建立し、
以来産土神社として祀られたそうです。
石が出産によいというのは、秋田唐松神社の石と同じ思想ですね。

⑤の猿賀神社は、上毛野君田道命を祀る。青森県平川市猿賀という場所。
住所が平(ヒラ)ですね。


※猿賀神社

蝦夷討伐の将で仁徳天皇55年(367年)に伊峙水門(いしのみと)で敗死し、
後に大蛇の姿になって蝦夷を平定したとされる上毛野君田道命(かみつけののきみ たじのみこと)
を主祭神とし、保食神を相殿に祀る。という伝承。
これを後にエミシが田道の墓を掘りだした、大蛇がたくさん出てきたという。
やっぱ蛇。三輪信仰。

鹿(角)=諏訪神とするならば、北斗七星は宇宙に還る場所であり、
天と地の動きがある。北斗七星は地上で反転させる。
宇宙と地上を往復できる場所。
そのルーツが、禹歩(うほ)という中国四川省の方に伝わる灌漑用水を
行っていた大王に繋がる。
禹は龍の意味もあり兎の漢字にも繋がり、亀のような爬虫類ともいわれている。
中国の土器に記されている禹は魚のような人であった。
魚はキリスト教でも神聖なシンボル。

また、禹歩の独特の歩き方が北斗七星を模していると考えられ、
水の災害を防ぐお呪いともいわれている。
よって、禹もノアの大洪水で助かった一族と思う由縁です。
その人たちが日本に渡り道教を伝えたと。
それが北斗七星となり、諏訪神にもたらされた。

この文化財の説明板の隣に、「鬼面伝説」として、次のような話が書かれていました。
【桓武天皇は、坂上田村麿を征夷大将軍に任じ、陸奥へと攻め入った。
この「蝦夷征伐」に対し、津軽の地で徹底抗戦したのが、
糠檀の嶽(八甲田山)八甲田山の女酉長・阿屋須(おやす)と弟・雲谷(もや)の
頓慶(とんけい)である。
胡笳(こさ)という草笛を吹き鳴らしては、あたりに不思議な濃霧を広げ、
毒矢を射返すという、神出鬼没な二人の反撃はおおいに田村麿を悩ませた。
しかし、田村麿は北天に悪鬼退散の祈願をして寝たその夜、夢枕に北斗七星が現れて
七枚の鬼面を授かる事になった。



そして、この面をもっての攻撃には、さしもの阿屋須も、討ち取られてしまう。
阿屋須なきあと、一人頑強に潜伏し戦い続けた頓慶も、七鬼面の軍に攻めたてられ
、抗戦むなしくついに力尽きてしまった。】
ー ここでは、田村麻呂に頑強に抵抗した女酉長とその弟の話とともに、
北斗七星と古面との関わりが紹介されています


大星神社二の鳥居伝承・・・・・・

 田村麻呂は、蝦夷平定の後、この鬼面を納めて「妙見社」を建立し、
崇め奉ったとされていますが、その「妙見社」が、現在の大星神社であり、
宝物として残されている古面は、この時の田村麻呂ゆかりのものとして
今に伝えられている分けです。
なお田村麻呂軍を苦しめ続けた阿屋須と頓慶の勇壮な物語とその勇姿は、
青森ねぶた青森ねぶたにも取り上げられ、郷土に残された伝説を今に伝えています。


-------------------------------------------------------
鬼退治とか隠された歴史は、女性首長ですね。
クリスチャンなマロのエミシ征伐は、大地母神を崇拝していた豪族と、女首長の力でした。
トミもその一人で。
東北が最果ての場所であったのでしょう。
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飛鳥と精神論

2016-12-24 | 日記・エッセイ・コラム
今年も早いなー。
毎年言ってるなー。

卍の妄想をしたら、もう終わった感じがした。
何かをやり遂げた感じ。
武甲山の地層はハワイの一部(ハワイ沖から隆起してきた)
なので、レムリアかムーの記憶があります。
武甲山が破壊されているから、私は何度も武甲山の発破の人工地震で
気づかされました。
母神はとても厳しいです。
クリスマスというタイミングがまた、不思議ですけど。

---------------------------------------------------

卍のパワーがすごすぎて、すっかり飛鳥のナガスネヒコが飛んでった。
でもせっかくだからちょっと書いておきたい。
これは、私も知らないことだった。

けれど、また、飛鳥に戻るという流れ。
Asukaさんのニュースが報道されると、
また飛鳥がやってくるという流れ。
「アスカ」という言霊に何かあるんですね。

琵琶湖が前から気なっているのは、
淡路島のことでもあって、聞いた話ですけど、
阪神淡路大震災の時、震源地が淡路島の洲本(すもと)でした。
「ス」神というのは、静けさの言霊を意味すると。
アは「祖」を意味する最初の言霊。
アスカの「静けさの始まり」とは、眠っていたものが目覚めるともよめる。
て、ことは、ビッグバンじゃない。
「カ」は、輝くと考えると、太陽ですね。
私はカカ(蛇)の目覚めが太陽だということは妄想してわかりました。
それが、「Svastika(スワスティカ)」で卍なんですね。
それが太陽のことでした。
たぶん、卑弥呼の太陽神は、人の進化を促す働きがあったと思う。
飛鳥時代はそういう転換期だったでしょう。

どこかで、進化を妨げようとすればするほど、別の場所で
新しい進化が目覚めるという流れになっているようです。
Asukaさんは関係なくて、「言霊」がそのように働いているだけです。

それがキリシタンのイエスキリストのきっかけを知る。
ちょっと難しい話。
この話をしないと、飛鳥にたどりつけない。(たぶん)
五芒星の後に六芒聖をもってきたユダヤがいたのだとすると。

月1回、歴史会(女子会でもありますが)参加させて頂いてますが、
シュタイナー理論や精神世界、宗教論など幅広く古代史の話をしてます。
とっても深いので、説明ができないのですが、
以前から、私は天変地異というのは、進化を遂げる出来事だと思ってました。
しかし、その説明ができず。
でもシュタイナー理論で基づくと説明ができる?

精神論にきちゃったよ。
どーいうこと?



※ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner, 1861年2月27日 - 1925年3月30日
(満64歳没))は、バルカン半島のクラリェヴェクで生まれ、
オーストリアやドイツで活動した神秘思想家、哲学者、教育者である。

アイヌ人は、自分を「人である」と言ってました。
「アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、
もともとは「カムイ」(自然界の全てのものに心があるという精神に
基づいて自然を指す呼称)に対する概念としての「人間」という意味で
あったとされている。」



※アイヌの家族:彼らの目力はすごい。

アイヌ人は縄文人と近いので、縄文人もそのような認識だった。
これは、「自我がない状態」であったのでは?
という話で盛り上がった。
自分をもっていないので、名前も何もない。
人という括りになる。(おそらく数千年以上前までは)
ただ、これでは人類は進化しないので、「自我をいれた」
「私は私である」と神がいったのは聖書から。
ということで、それがイエスキリストだったと。それを愛と説いた。

イエスキリストは、「我ここに有る」という「私」の自我を含めた。
愛子神の愛にも繋がる話で、自分を愛することが自我になるという話。
それは、「進化を伝えている」神話なんです。
はるか昔のアニミズムの世界というのは、眠っているような状態で、
自我がないということは、あらゆる全ての一部であるから、
植物でも鉱物でもなく肉体をもった人であるという認識だったと思います。
動物とは違う人(ヒト)であると。
なので、争う概念もない。
自我が無い状態とは、分離している状態ではないので。
心理学の自我というのは難しいので、古代史の視点でみるならば・・・、

例えば、古事記にあるニニギの降臨。
天孫降臨は世界神話に必ずある話ですが、ニニギはイエスキリストのことです。
ニニギは、姉のイワナガヒメではなく、妹のコノハナサクヤヒメを選びました。
その理由は、妹のコノハナサクヤヒメの方が「美しかった」からです。
姉は、醜いので選らばなかった。
その罪のために、人間は「寿命が短くなった」と。

これは自我がうまれたイエスキリストの進化の話となります。
姉のイワナガヒメは、はるか昔のアストラル界にいた存在だと思う。
(シュタイナー理論でいえば)
肉体をもたず自我のない状態=地球では混沌としてまだ地がおさまらない状態。
であった時代に、イエスは人間に自我を含め、愛を求めた。
それだけで良かったのですが、私はここで疑問に思う。
古事記は、ニニギに「美」を求めたわけです。愛にプラスして。
美を求めると逆卍の働きのように、醜さが生まれる。

これは、誰かが「自分にはそのように求めた(見えた)」から、
美を望んでしまったのだろうと思う。
このニニギの話を書いた人がそういう風に理解した。
それがエゴなのか、と。

古事記が一般の人たちの目に触れるようになったのは、最近のことです。
確か、尊王攘夷が始まったころではないかな。
江戸時代からすでに一般に読まれていたかもしれない。
そうすると、皆が欲望を求めるようになってしまう。
愛ではなく美という欲求を。そうすると醜さがみえてきて、差別が生まれる。
二元論というのは、そういう働きがある。
シュタイナーはそのことを人間の罪と考えて、
全人類の欲がカルマとなって現れ、病気になるといった解釈なのだと思います。
そのカルマを解消するために、人は歴史を作るわけだ。

美は自我には必要ないものだと私は思います。
なので、寿命が短くなったのは、アストラルの世界は時間軸がない?
ので年齢も寿命も生も死の堺もなかったから、そのままの状態でいられたのですが、
ニニギが美を選んだので、その進化に「欲」が含まれたという話なんでしょう。

イワナガヒメは、自我のない状態の人であり、その世界にいたのですが、
進化をするために、コノハナサクヤヒメに美を求め、肉体をもつ「私」となった。
イエスは進化のために自我をいれ、自身を愛せよと言っていたと思うのですが、
愛を求めるのは良いけれど、美を求めるのは自我の芽生えの中に、
醜さを知ることになるわけです。

人類は、その美と醜さのどちらも持つことになった。
すると、美は今の世界で、醜さが黄泉国(死)になる。
その中間にいるのがククリヒメ。
「悪もなく善もなく、どちらも含めて愛せよ」という意味での「くくり」だと考えます。
なので、自我の目覚めに愛と美を求めたのはニニギであり、
ククリヒメは、そのどちらも合体せよ、とも読めるのです。
その解釈をした人が、そういう自我の中に美という欲を含めたということです。
そうなると、古事記とは受け取る人によって解釈が全く異なる話に。
ホツマツタエもそうですね。
いろんな視点でみる方が良いということだね。

日本人の意識の問題ということを言ってましたが、違うんだな、と。
「自身の問題」なんだな、と気づいた。
自身と地震は同じ言霊です。
なので、地震は覚醒の揺れである。と思っているから、
私の中での震えとは、進化しようとしている自分から出している揺れであると。
変わりたい欲求ですね。
多くの人がそう思うと揺れるわけです。

つまり、進化しようとしている人は、潜在的に地震と深い関係にあると。
別に、鎮魂とか世界のパワースポットの聖地にいって何か変わる話でもない。

進化したくない人、変わりたくない人は、ずっと底辺のままでいます。
それもその人が選んだ世界です。
底辺にいる人のみた世界は、私が見ている世界とは違う。
なのでギャップがとても大きい。でも世の中とはそういうものなんだろう。
私の古代史がすべての人に同じように見えるわけではないので、
違いが生まれるのは当然だと思う。

シュタイナーという人は、とてつもない異次元の世界でモノをみていた人なのですね。
難しいので、これ以上何ともいえませんが。

愛子神を崇拝していた物部氏(秋田の)を尊敬する理由はそこにあります。
物部氏の祝詞は、自我を求めた人間の欲望さに対する祓いです。
その欲によって世界を大洪水に巻き込んでしまった故の祝詞です。
「神に対して」ではなく、「自身の欲に対する」誓いでもあるわけです。
だから「中ツ国」という言葉を言っているわけです。

天と地の間の「中」は、中間ということですが、
底辺にいる肉体をもった自我の欲求と、天にいくアストラル界?の世界の間に
いることを、「混沌とした」世界と認識しているので、今、この現代は、
中ツ国のままなんです。その中間にいるわけです。
それからずっと進化できないまま留まっていることもある。

「フツフツ」という言葉もそうです。
フツヌシの剣がそれを伝えている気がする。
煮えたぎっている状態とは、進化の途中ですかね。

中の「ナカ」は、内「ウチ」のことでもあります。
自分のウチ(内)に入ることを望んでいる祝詞でもあります。
それは自分の見ている世界が、そのまま反映される世界だから、
「他人に任せた世界では、自分は何も変われない」ということです。
縄文人は、「自然や天に任せる生き方をしていた」
そうすると死は、苦しみでも何でもない。
自分に委ねることが未来に必要な進化であって、
それを「縄文回帰」と言うのだと思います。

津軽のヤマタイ国----------------------------------------------------

もうね、こういう深い話になると、ナガスネヒコとか何でもよくなる。笑
でも、興味あるとこだけ妄想したい。

この前、知人から面白い本をお借りしました。
津軽の十三湖の話になり、秋田唐松神社の話で盛り上がっていた時。
十三湖の興味深い話を聞いていたのですが、
ナガスネヒコの骨らしきものが発掘されたという衝撃な話。
まあ、実際どうかわからないけれども、
この本では、その話が書いてありました。



名取の飛鳥へ行ったばかりだったので、
津軽にも飛鳥があったことをこの本で知ったのです。
それから、ナガスネヒコが気になっていたのですが、
愛子神の方が興味あったので、そっちを調べていました。
それから支倉常長の富谷の話に流れ、卍に流れていったわけです。

ナガスネヒコの墓----------------------------------------------

「紀元前に実在した津軽古代王国の謎:佐藤有文著」より。

東日流外三郡誌によれば、ナガスネヒコの最初の墓は、現在の西津軽郡鯵ヶ沢
赤石の将軍塚に埋葬され、後に現在の市浦村の神明宮に埋葬されたとある。
その記録にもとづいて市浦村役場で調査の結果、赤石村落には将軍塚が
確認されたのである。また、大正10年にな長髄彦(ながすねひこ)と安日彦(あびひこ)
の遺体が埋葬されたと記録されている神明宮の古墳(高さ10m)からは
多数の縄文土器や貝塚、石器などが発見された。
続いて大正13年には神明宮(於瀬洞遺跡)から高さ1.5mのカメ棺に
納められた身長2mの人骨を東北大学の考古学調査部で発掘されている。
この人骨は、長さ1.8mの雨戸の戸板からはみだすほどの大柄だった。
「大柄な体格で足の長い人物といわれた長髄彦」と推定されたのである。」


ちょっと本物かどうか疑問もありますけど、
大和からきた首長がいたことは判明されました。
長身で思いだしたのは、初代奥州藤原氏の藤原清衡も長身(2m近い)
だったようです。
一緒にアイヌ民族の遺品もあったため、アイヌ人説がありましたが、
和人だったそうです。
しかし、奥州藤原氏とアイヌ人が関係していたことがわかっているので、
津軽も和人とアイヌ人と深い関係のある土地だったわけです。

長髄彦の墓が納まっていた場所は、鎌倉時代まで「長髄彦神社」とよばれて
いたそうです。1191年に安部神社として再建。
福島城とともに焼失したそうです。
しかし、江戸時代になって御伊勢宮として再建され、その後は、
神明宮と幾度か名称をかえている。

安部氏が再建した神明宮は、於瀬洞遺跡であり、「オセドウ」とよみ、
オセドウ貝塚といわれている。
御伊勢堂が訛った説もある。
今は神明宮となっているが、御祭神:天照皇大神 勧請年月不詳、 社地は御伊勢堂と称し
福島城址の鬼門に当ることから館神として祀られたものと考えられると。

「十三湊遺跡の規模は南北約1.5キロメートル、東西500メートルの範囲で、
現在の十三集落と後背地の畑全体に及ぶ。
十三(じゅうさん)は、今は「ジュウサン」と読むが、江戸時代後期までは
とさ」と読んでいた。
「とさ」の語源はアイヌ語の「ト・サム(湖沼のほとり)」であるという
説が有力だが、定かではない。
十三湊遺跡ではかつて船舶が行き交っていた「前潟(まえかた)」沿いに
船着場などの港湾施設が見つかっている。




五所川原市のサイトより「津軽の旅案内」
http://www.city.goshogawara.lg.jp/kyouiku/bunka/tosaminatoiseki.html

十三湖が発展した理由は、岩木山があったからと思う。
岩木山から流れる岩木川と十三湖は合流する。
だから、十三湖のしじみは美味しんだ~♪

ちなみに、ここには中世の宗教施設といわれた山王坊(さんのぼう)がある。
そこには日吉神社が祀られている。
日吉神社は滋賀県大津市に鎮座する神で申(猿)を眷族とする。
エミシ征伐では、「猿」とつく岩や山の伝承が非常に多い。
猿とつくものは退治されているのですが、大体が水の災害と重ねられている。


※五所川原市のサイトより「津軽の旅案内」

琵琶湖との関係は、十三湖まで交易のために琵琶湖からやってきたでしょう。
琵琶湖も交易として栄えていた場所で、外国からたくさんの人が訪れていました。
十三湖も古くから中国大陸(渤海国)まで交易をしていたことは、
海外でも有名だった。
実際に、1562年ベリユによって作成された世界地図に
「IAPAN(日本)」と「BANDOY」と表記されている。
IAPANは西日本、BANDOYが東日本で国がわかれていたようだ。
これは、安東のことを示しているのですが、
安東がBAの発音というのは、ちょっと違和感をもつ。
AではなくBAと発音させていたのはよくわからない。
私は、BANDOYというと、坂東(関東武士団)と思ってしまう。

これも、中国大陸を含めた中心に津軽があったから、
「日の本(ひのもと)中央」という碑がたてられたと思うのです。
多賀城にある壷の石碑の内容です。

また、人工ピラミッドといわれるモヤ山がある。
「連峰をなさず、美しい紡錘型で単独で存在する靄山(もややま)は、
古来より人々の信仰を集め、さまざまな伝説が語られてきた。
岩木山と互いに高さを競いあったという説や、安寿と厨子王が
それぞれ逃げ込んだという説、岩木山と姉妹だという説があり、
毎年旧暦8月1日にはともに「お山参詣」が行われている。」


青森県は、十和利山などピラミッドの山が多い。
安寿と厨子王の伝説は、福島県の弁財天にも伝わっています。
この伝承も不思議なので、後で妄想したい。

佐藤氏の本によると、飛鳥地方(奈良)にある地名「鳥見山」にちなんで、
十三湖付近には、富の村落が非常に多く、長の地名も多い。
それに十三の名称は、鳥見山から由来した十三(トミ)であったと推定される。
さらに、津軽半島の東海岸に通じる金木町から古道は、大和の飛鳥道
(アラド街道)とよばれ、現在でも瀬戸子村の近くには飛鳥村と飛鳥山の
名も残っており、金木町の嘉瀬地区の八幡宮には、古事記に登場する
黄泉の国の道祖神(クナド神)も残されている。

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もうひとつ、12月初旬に名取熊野の飛鳥にいきました。
地名に飛鳥や阿須賀あるのは、ヤマタイ国だったから?

東日流外三郡誌より
「東日流の梵珠山の北方に飛鳥山ありて、その林中に石垣えんえんたる
耶馬台城あり。千古の歴史を偲ぶ太古に、安日彦、長髄彦が日向軍に備えた
城の石垣なり。この飛鳥山の四方には、東に外ヶ浜、北に大蔵山、南に魔神岳を
位置するのに、飯詰より五里にて至れり。
この耶馬台城は、中国の陽茂台(やんまおたい)にゆらいする称名なり。
五角形の城の外に空濠をめぐらし、人力にもおよばぬ長大なる石垣を
山中に築きたるは、この東日流および紀州(三重県熊野山中にある古代の石垣)
のみにして、他類なき城跡なり。
また、この耶馬台城には幾多の地下濠道や井戸、不思議なる石棺、ハバキ、
玉などありて、地底に幾多の洞穴あるも、秘道に通じるものなり」


おもしろ~い。
こういうヤマタイ国があったんだね。
で、実際、石垣が積まれており、長さ100キロに及ぶ。


そして五角形(ご芒星)だね。
星の形は、セーマン・ドーマンで話したことですね。
守る意味がとても強い。
守ることに対する五芒星が「ひとつ」という意味ならば、
天と地が合体した六芒星は「ふたつ」という意味なのかもしれない。
あなたと私。と、ここでも自我の働きが。
なので、五芒星というのは、かなり原始的なマークだと思う。

佐藤氏によると、耶馬台国はもとは日之国という八州の中央に位置し、
三重県伊勢地方の山大日之国彦命が最初の国王であり、八十七国を
統一して耶馬台国王となったが、その子孫が安日彦と長髄彦だというのである。
神武東征の伝説が残る三重県熊野山中の石垣城跡と同様の長大な
石垣と耶馬台城が津軽地方の飛鳥山中にあったというのである。

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といった話がずっと続いていて興味あります。
東日流外三郡誌は、偽書といわれていますが、その史料に基づき、
調査するとそれらしいモノが発見されるようです。
ナガスネヒコかどうかわかりませんが、
明らかに津軽を開拓した大王がいたことは確かです。

まだまだたくさんの話があるのですが、また何かと繋がったらお伝えしたいです。

来年は、もっと進化したブログになるといいな~。
ということで、次回から普通に伝説探訪に戻ろう。(普通でないけどー)

次は、久々に福島県にいった話を。
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支倉常長の逆卍

2016-12-21 | 東北地方の伝説(宮城県)
愛子へ行きキリシタンの事をフツフツと思う。
富谷の支倉常長を考えていたら、
「支倉常長の遺品にある」といった結構強いメッセージみたいな
感じを受けて、実際、人が背後にいるとかそういうのではないのですが、
気配を感じた。キリシタンだと思うけど。(連れてきちゃったかな?)笑
とにかく支倉常長が持ち帰った遺品をみることが大事らしい。
遺品?と思ったので、仙台市博物館の支倉常長の展示をみてきました。


※地下鉄国際センター駅からすぐです。


※博物館前の大きな池。

久しぶりの博物館~。
天気もよく、とっても気持ちがいい~。
何度か支倉常長の遺品はみていましたが、
本当の歴史を知ると、すぐ入ってきますね。大事なモノが。

そこで、支倉常長の逆卍に食いついた。
卍のことか!
初めて支倉常長の家紋が卍と知りました。
私はこの時代の歴史を知らないし、ずっと興味がなかった。
真面目な歴史はつまらないので、
相変わらず路線からはずれて、妄想する・・・。

その前に、
私はこういう話があるとは知りませんでした。
「奴隷貿易」という言葉。
詳細は、Wikipediaへ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93

日本人奴隷貿易は、16~17世紀にかけての大航海時代の頃。
ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなどのヨーロッパ諸国から、
東南アジアにおける重要な交易相手としてだけでなく植民地維持のための
戦略拠点としても重視されたそうです。
この時代は日本は室町から安土桃山時代頃、
漂着した外国船の保護を契機として、海に面した各地の諸大名が渡来する
外国船から火薬などを調達し、大量の銀が海外に流出していた(南蛮貿易)。
日本へは中国産硝石、生糸、絹織物、奴隷、ミイラなどが入り、
日本からは輸出品に、刀、漆器などの他、日本人も奴隷として輸出されていたと。

日本の戦場では戦利品の一部として男女を拉致していく「人取り」(乱妨取り)
がしばしば行われており、日本人領主からそれを買い取ったヨーロッパ商人や
中国人商人の手によって、東南アジアなどの海外に連れ出されたものも少なからず
いたと考えられている。

1560年以降は、イエズス会の宣教師がポルトガル商人の奴隷貿易が、
宗教の妨げになった。誤解されないために、ポルトガル国王に日本での奴隷貿易を禁止するよう
発令を求めていた。1571年にセバスチャン王1世より、海外売買の禁止を
勅令するに至ったのですが、あまり効果がなかったという。


そんなことがあったので、豊臣秀吉が鎖国をすすめるようになり、
奴隷の売買禁止のために、キリスト教の布教を追放。
おそらく、豊臣秀吉が村上水軍(海賊)を倒したといった話は、
南蛮貿易などに関係するもので、外国からの侵入を防ぐ目的もあったかもしれない。
徳川家康は、南蛮貿易を勧めたい気持ちがあったけれど、
鎖国に踏み切り、この頃になって、ほぼ日本人奴隷が輸出されることは終わったそうだ。

そんな時、伊達政宗は、キリシタン宣教師を受け入れる準備をしていたわけです。
これは、真摯な宣教師やキリシタンを保護する目的があったのでしょうか?

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2013年「ローマ市公民権証書」、「支倉常長像」、「ローマ教皇パウロ五世像」の三点が、
ユネスコ世界記憶遺産に登録されました。
宣教師のルイスソテロは、キリスト教を利用して日本との繋がりを持ちたいところ。
日本の将軍(徳川家)が受け入れてもらえない状況の中、
奥州の伊達家はOKだったので、伊達政宗からではなく、ルイスソテロから近づいた。

ルイスソテロは「東北の司教になりたい」と言って政宗に近づいた話。
それに関心をもった伊達政宗は、受け入れたという。
ルイスソテロがスペインの宰相に宛てた書簡によると、
「政宗は幕府によって迫害を受けている日本の30万人の力を得て幕府を倒し、
みずから皇帝になろうとしている。」と。

そうでも言わなければ、日本での活動が完全にストップしてしまうのだから、
これはルイスソテロとしては、日本では伊達政宗の方が家康より権威がある
ことを伝えるつもりだったとよめる。
徳川家よりは、これからは奥州の伊達家が王になりまっせ~、な。
利用されたってこともあるんでしょうけど。

仙台領でのキリスト教布教活動の許可と、宣教師を派遣してほしいこと、
メキシコと交易したい目的以外にも、
「伊達政宗がクリスチャンになりたいことを願っている。」
といった内容の書もあった。
(勝手にソテロが書いたかもしれないが)

(Wikipedia:仙台市博物館蔵)

ただ、支倉常長が、それをやり遂げた事は普通の人にはできない話だと思う。
支倉家が伊達家からは、追放されていたような話があり、
ある意味左遷のように考えていたふしもあるそうだ。
しかし、膨大な資金を使って、失敗させるわけにはいかないのだから、
伊達政宗は、支倉常長に行かせた理由が、必ずあるはずです。

しかし、結果的に支倉常長が戻る頃、キリスト教の取り締まりが
行われ、交渉が失敗に終わった。
戻ってきた支倉常長は、どんな気持ちで余生を過ごしたのか。
その真相はわかりませんが、何も語らなかったことが支倉常長の答えですよね。
伊達政宗は、支倉常長はもう帰ってこない
と、思っていたこともないのかね?
なので、キリスト教の取り締まりを受理したのかもしれない。

でも、支倉常長は違った。
意地でも絶対帰国する!と思っていたに違いない。
「必ず帰るから」と家族に手紙を送っています。
そこに使命を感じてしまう。

支倉常長は海外でも評価が高かったそうです。
国宝にもなっている日本最古の油絵の肖像画は、
権威のある人にしか油絵を描くことはないそうです。
数々の伝承では、支倉常長の人柄がローマ教皇(パウロ5世)
を引き合わせたといった内容のもので、やはり支倉常長でなくては
成しえなかったと思うのです。


※パウロ5世

ホピと卍---------------------------------------------

さて、ここから長い話になります。
なぜ、卍が大事だったのか、いろんな情報がリンクしてきて、よくわかりました。

仙台市博物館では、支倉常長の遺品が展示されています。
その中で興味をもったのが、支倉常長の銅版画の肖像画の右上に、
「逆卍に違い矢」の紋章が書かれている遺品。
これは、ローマ市公民権証書にも描かれていて、支倉の紋章と考えられると。

この銅版画は、元は肖像画に卍はなかったものでした。
後になって誰かが(本人?)追加したもので、その修正された版画が
「伊達政宗遺欧使節記」の挿絵になった。(博物館に展示されてます)

「和訳
ローマ市のコンセルバートレ、ルドビコ、レンチ、ビンツエンツオ・
ムト、ジャコモ・ベリヨが、フィリッポ・フランシスコ支倉六衛門に
ローマ市民権を贈ることを提議した。
このことについて、ローマ市民の決議は次の通りである。

 ローマ市においては、王制時代ならびに共和国時代、
また現代においても貴族とローマ市民とは、当市を来訪した世界の著名人を
親切かつ盛大に歓迎し、その人にローマ市の公民権を贈り、
ローマ市の公民と共に私たちの共和国を益し、かつその名誉を増進させることを
常としてきた。
この古来の慣例に従って、日本奥州国仙台に生まれ、奥州の王伊達政宗の
大使として、国王とその国とを聖父パウロ五世の保護下に置くことを願い出る
ために遠路当地にやってきたフィリッポ・フランシスコ支六衛門を、
ローマ市の公民とし、貴族に列するべきものであると信じる。

以上の理由により、貴族院およびローマ市民は、フィリッポ・フランシス族に
列することを決意した。このことに異議を唱える者は一人もなく、
人々が喜んで賛成するところであるので、更に名誉を表すために貴族院の
書記に公文書を作成させ、永く記念させるものである。
開市2366年、救世1615年、12月1日前第12日(11月19日)」



(Wikipedia:仙台市博物館蔵)

この公民権証書は、ラテン語。
白い羊皮紙上に金泥で記されている。
上辺と左右に描かれた7つの紋章のうち、
向かって左端の逆卍が支倉の、その右隣はローマ市のものである。


※「逆卍に違い矢」

卍は、ナチスヒトラーが逆卍を使ってから、
欧米では使うことが禁止されました。
しかし、本来は、聖なるマークとしてインディアンたちが
愛用し、縄文でも大事なマークとされています。



「この卍(マンジ)模様。英語では swastika と言うのですが、この意味は
LEFE  LIGHT  LOVE  GOOD LUCK
卍マーク横にある矢の模様。これにも意味があり、自分自身を守るという意味。
この矢が交差している模様ならば、友情を表す意味になります。」

※「愛すべき道具達・・・」より。
(ナバホ族の ビンテージシンボル 卍(まんじ) マークには、深い意味があった!)
http://plaza.rakuten.co.jp/greatest29/diary/201201110000/

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30人の長老の語りをまとめた本「ホピ・宇宙からの聖書」があるそうだ。
彼らはこの世に出現した後、長い旅をすることを命じられたということです。
以下、こちらのブログから引用させて頂きます。
「始まりに向かって」
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/889291ee6a45f1294f29b281bbcfcbb1

「さて、マサウ(ホピの神様)は人々の前から姿を消す前に、
彼らが共通の永住地に辿り着くまで四方向に分かれて移民するように命じた。

東、西、北、南の方向にそれぞれ分かれ、パソ(海と出会うところ)に
行きつくまで旅をする。
この四つの移動を完了させたのちに、彼らは創造主の普遍的計画の原型を
かたどりつつ、ふたたび集まり会うことができる。

(すなわち)こういうことである。
ある部族は南に行き、ある部族は北に出発し東西にターンしてまた戻ってくる。
彼らのルートはみな大十字を形成し、その中心ツワナサビ(宇宙の中心)は、
今のホピ族が住んでいるアメリカ南西部、その腕は四方向のパソスに伸びている。

人々がその先端の各所でターンすると、時計まわり、ないし反時計まわりの
大十字スワスティカ(卍まんじ)を形成し、これが地球ないし太陽の動きに対応する。
そして永住の地に辿りつくまでには、かれらはじょじょに縮小するらせん
模様を描いている。
こうした四つの移住によって形成されるパターンのすべてが、
今なお彼らの陶器や籠細工、カチナのガラガラや祭壇の上に見られる
シンボルの中心をなしている。」



※ナバホ族の蛇の砂絵(※「神話の力」ジョセフ・キャンベル)

これは、中世のフランスにある「運命の輪」でもみられる。
中心の軸とその回りを回転する縁からできている。
この信仰が北極信仰になっています。それが妙見様です。
中心の軸に辿りつくと、常に同じ位置にいることになる。
結婚の誓いの意味もそれ。
「健やかなときも病めるときも、豊かなときも貧しいときも、
上昇しても下降してもあなたと共にいる。
あなたの中心は私の中心であり、私にとっての無情の喜びである」



※運命の輪「神話の力」ジョセフ・キャンベル

これは縄文人も深めていた幸福のシンボルです。
それが丸に十字であり、後にキリスト教に伝播された。
十字架を回転させると、卍になるそうです。
こちらの写真は、縄文好きなRさんがもっている亀笛です。
(Rさんありがとう!)




※十字と北斗七星

土偶製作をされている柴谷さんの亀笛から、
同じような形で作ってもらったそうです。
亀は縄文でも神の使いでした。
妙見様も亀に乗って降りてきます。

この亀笛について、柴谷さんの土偶製作の時に聞いた話。
ある神社(たぶん北海道)のトタン屋根に雨だったか米粒だったか忘れたけど、
「空からお米が降ってきて、数えると36粒あって、屋根を見に行ったら、
虹色に光ってみえるトタン屋根に土偶の図案が浮かんでいて、
それがこの土偶さんだ」と。

ということで、支倉常長の卍の意図は、
単なる家紋として使用したわけではなく、
卍の家紋を含めてほしかったわけです。
7つの星の中に。それは北斗七星のことでしょうね。
その裏に隠された意味は、日本人がムーの末裔だからです。



さて、今までの流れでいうと、
結論、やっぱりムーの紋章だったのね。
ざっくりと、愛子神=オオヒルメムチ(天照)=卑弥呼の鏡=太陽、
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)は、神功皇后のことですが、
秋田唐松神社の腹帯の帯=息長帯(古事記では)となり、
祖神は、琵琶湖となる。
琵琶湖=淡路島=十三湖(地下で繋がっていると思われる)
琵琶湖と淡路島はムーの象徴とされる。

逆に働く卍とは、
大震災=兵庫の淡路島沖の地震→東日本大震災→九州
卍は平家のマーク。平将門。
支倉常長の先祖は、関東平家にあたる。
川崎町の支倉を由来とする支倉家ですが、川崎町の支倉には、新羅の郷がある。
前にも書きましたが、青森にいった新羅三郎がいて、
青森に「えんぶり」を伝えた人です。

新羅から産鉄族を住まわせた土地。そのルーツは秩父の和銅に繋がる。
秩父和銅には聖神社があり、百足(ムカデ)を奉納する。
百足退治の伝承がある俵藤太も滋賀県の琵琶湖だ。
川崎町にも蛇信仰(三輪信仰)があり、蝦夷穴もある。
蛇=ムー=新羅=平家

支倉常長の先祖は、相馬氏や伊藤氏に関係した武蔵の人たち。(秩父では丹党一族がいる)
相馬は福島県の原発地域を含めた場所を拠点としていた妙見信仰。
宮城県を占拠していた葛西氏も秩父平家。巨大な卍の旗を掲げていた。(一関博物館所蔵)
葛西氏は、石巻の日和山を拠点とする。
被災地のほとんどの場所に、葛西氏はいた。
それが破壊といわれた妙見信仰を示していることもある。
なんせ、妙見神の武甲山が破壊されているのだから。
悪いことではなく、荒魂やシバ神というのは、そういうものなのだろう…。
ですが、人工破壊を二度と起こしてはならないと。

まつろわぬ民の震えとなるのは、
人類は2つの系統の生き方をしているので、(龍族と私たちのような人間の姿)
反発しあっていただけのこと。
無理やり封じてきた大地母神がある。

アトランティスとムー、西洋と東洋、卍と逆卍・・・という関係は、
相反するために存在しているのではなく、
互いに必要なことなので、融合しなければならない時にきている。
地中海の金細工の展示品(紀元前のもの)の中にも卍のアクセサリ―がありました。
アトランティスですよね。
アトランティスもムーも、卍を使っていたのです。
そこには蛇も牛もいた。
でも、今は分裂している・・・。

だから、卍が大事だということ。
そして、最後にこんな情報をみつけました。
2020年の東京オリンピックが世界でも注目されている(宇宙でも)
理由は、卍がこの世から消えそうだからです。
きっと、それを訴えているキリシタンがいたのだな。

「日本は「卍」のマークを絶対に変えるな! 海外の反応。」
http://blog.livedoor.jp/zzcj/archives/51911672.html


※メソポタミア文明の遺跡から

「日本が地図表記から卍のマークを消そうとしてることに、海外から待ったの声が!
日本は「卍」のマークを絶対に変更するな!海外の反応。

2020年に東京五輪が開催されることから、
国土交通省・国土地理院は訪れる外国人が理解しやすいように、
観光マップの地図記号を変更する提案をしました。
そのうちのひとつが寺の記号で、「卍」の記号がナチスのシンボル
(ハーケンクロイツ)と類似していることから、
混乱を避けるために「三重の塔」に置き換える案となっています。」


なぜ、オリンピックが東京なのか。
そのことについて一番気づいていないのが東京だからです。
武蔵だし。

問題は、日本人の意識にあります。
日本人は歴史を知らなすぎる。
それは、アメリカに敗戦してからです。
アメリカが本当の日本の歴史をわからないように修正させたことで、
(歴史教科書など)
日本は浅い歴史しかない国民だと思うようになった。

そのトラウマからなのか、日本人は他人の意見に流されすぎる。
だから、大事なことも躊躇(ちゅうちょ)してしまう。
そうすると、世界が混乱する。
日本人の心さえブレなければ、世界もブレない。
日本の歴史は、何年に何がおこってどんな武将がいたか、ではなく、
世界の全人類の歴史であることを思いだすべき。
ノアの大洪水後に約束したこと。
地球で世界の人類(五色の人種)と互いに共存して誓うことを約束した地であったこと。

伊達政宗晩年の頃の紋様は、五色です。
とても惹かれるデザインですね。



「地羅背板五色乱星」といって水玉は星です。
紫地に赤、青、緑、黄、白の五色の円形をちりばめ、
伊達家を代表する家紋「竹雀(たけにすずめ)紋」を金糸で刺繍。

緑と黒が違うのだけど、五色の星の発想は、
すでに知っていたんではないか?と思う。
五色の人種のことを。
だから、支倉常長の家紋が卍だったから、卍を記してほしかったと。
二人の使命を感じるのは、こういうところからです。

一般に、五色の人種とは、
黄人  アジア(日本、中国、朝鮮、モンゴル)
赤人  アメリカインディアン、ユダヤ、アラビア、エジプト
青人  北欧、スラブ
白人  ヨーロッパ全般
黒(紫)人  アフリカ、インド、アボリジニ(オーストラリア)

渡来人の誤解もありますね。
日本に戻ってきた帰化人が多いんですね。
元は日本にいた人たちです。

日本語が残ったのも植民地にならなかったのも、
それを残そうといった渡来人がいたからです。
それがユダヤといわれますが、日本人であった帰化人ですね。
世界をみて思ったわけです。(私たちの祖先にもあたる)
実は、日本の歴史はすごかった。

ユダヤも白人ユダヤによって悪い印象を与えていますが、
でも、問題はそういうことにあるわけではない。
フリーメーソンの碑が青葉城跡のそばにありますが、(戦後置かれたと)
本当は伊達家に対してではなく、支倉常長に対する敬意として石碑を置くべきでは。
北緯38度線にこだわりすぎて、大事なところを見落としている。

漢民族も朝鮮民族もみんな日本に来ました。
でも、弥生人は縄文人と共生して暮らし、日本語を残してくれました。

ということで、卍がすごすぎて、ナガスネヒコがどっかに飛んでった。笑。
十三湖の話も面白いんだけど、書く気がしない。
またナガスネヒコに繋がったら妄想してみます。
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卑弥呼の鏡とトミの十三

2016-12-19 | 東北地方の伝説(宮城県)
何でもかんでもキリスト教になってしまう。
イワクラもルーツはイエスでマリア様にしてしまう。
じゃあ、狩猟を続けてきた縄文人は、どんな人だったのか?
クリスチャンではないよね~。

太陽の異常活動が、男社会(物質文明)の崩壊、
政治・経済の崩壊に向かっていると思う。
地震が多いのは、大地母神への高まりだと思うから、
ハハ(カカ=蛇)の力が今、働いていることになる。
それは、原始のアニミズムというより、私たちがどのようにして
創造されたかを知る時なんだろう。

火星へ移住しようとする人たちは、大地母神の恐れがあるのだろう。
火星へ行って、大地を発破し雲をつくり雨を降らせる。
火星での天地創造を行うつもり。地球と同じように。
そして火星で地球の最期を看取るつもりだ。
飛ぶ鳥は跡を濁して逝くわけだ。ズルイね。
それを可能とするための開発が、東北にもあるわけだ。
リニアコライダーや青森にある謎の情報通信など・・・。

男=天=太陽
女=大地(海)=月
火星に同じ月をつくることが可能であれば・・・。
古代にもテクノロジーはあったので、いかにそれを利用するのか、
大事な事かもしれない。ピラミッドのテクノロジーとかね。
機械で見ようとしないで、自力でコンタクトをとって見ていかないと。
それには、日本の超とつく古代文明を、全くの嘘といって流すのはもったいない。

魔鏡-----------------------------------------------

ところで、卑弥呼の鏡とはどんな意味があったのか?
卑弥呼が恐れられた背景には何があったのでしょう。
太陽の力?
それが鏡にあったと思うのです。

卑弥呼の鏡が「魔境」であったことがわかった!!
古代の青銅鏡、三角獣鏡を3Dプリンターで復元したと!
そうか~、こういう時に3Dプリンタを使うのだね。ナルホド。
壁に投影した反射光に鏡の背面に刻まれた文様が浮かび上がる現象が
起こることが発表されたと。すでに2年前に。



写真:三角縁波文帯四神二獣鏡(レプリカ)
http://mag.japaaan.com/archives/13085
伝承としては、317年頃の晋にて葛洪が書いた『抱朴子』に魔鏡らしき記述が有る。
また『日本書紀』の第五段の一書の1では、伊弉諾尊が、左手で白銅鏡(ますみのかがみ)
を持ったときに大日霎貴(天照大神)が生まれた、という記述が有る。(Wikipedia)

オオヒルメムチとアテルイ~。

しかも、隠れキリシタンが江戸時代に利用していたのも魔鏡だったという!
これも驚き。
愛子のキリシタンから卑弥呼の魔鏡に繋がったのだから。
そーきたかっ。
鏡でカミをみるってこういう事だったのか。
しっかし、この技術はどこで知ったの?

しかも、この魔鏡を安部首相がローマ法王に贈ったという!
これを唯一作れる職人さんが京都にいた。
また、この技術が現代にも応用しているという話も。
17c頃、隠れキリシタンの間で、切支丹鏡が作られ、
禁止された十字架やマリアなどを隠したまま浮かびあがらせ崇拝していたという。
どんな風に見られるか、こちらのサイトでチェックしてみて下さい。

「安部首相がローマ法王に贈った魔鏡」ってどんなもの?NAVER」
https://matome.naver.jp/odai/2140209263887881501

ということは、キリシタンの間では、魔鏡は有名だったわけですね。
不思議だな~、
愛子から全部、魔鏡が繋がってしまった。
九州の安部、卑弥呼、ローマ法王、キリシタン。
安部氏・・・安日彦、ナガスネヒコ。

富谷の十三------------------------------------------------

以前のブログでも十の宮の富谷町を妄想してました。
富谷町のトミが、ナガスネヒコと繋がっていそうな気配。

支倉常長の子孫が住んでいた富谷町。
ここにも三輪山伝承の大蛇伝承が伝わる。
その大蛇は求婚した男性であり、魔性であることから、
男性の着物に糸をつけてみると、大蛇であったとわかる。
それで大蛇をバラバラにして土に埋める話。
これが、川崎町の新羅の郷に同じように伝わっている。
点々と伝説は結ばれていくものです。


※大甕山展望台から黒川郡(泉ヶ岳と右にみえるポコポコした山は七ツ森)

1772年頃、史料に登場する富谷町は「十宮村」と書かれていました。
黒川キリシタンは、1615年頃、仙台領内のゼスス会とフランシスコ会の
二派がいて、派閥がおこっていたそうです。
黒川郡の中でも特に「大谷」という地名に、支倉常長の子孫が住んでいたそうです。
新年の門松は、十字架を飾っていたそうです。
なぜ、キリシタンが富谷に集まったのか?


※展望台の高さは、138m=とみや

「十三(トミ)」や「十三夜(トミヤ)」という意味に隠されていると思う。
十三は、昔は、1、2、3を「ひ、ふ、み」で呼んでいたのだから、
正確には、「トミ」と呼んだという説。
これが、津軽の十三湖にも繋がるので、トミにはキリスト教と深い関わりがあると?
十の宮は、十字の宮。

後で調べたい話なのですが、津軽に行ったことがないので、実際どうかわかりません。
しかし、トミは鳥見と書く。
ナガスネヒコは、「登美能那賀須泥毘古」や「登美毘古」(トミビコ)とも言う。
Wikipediaには、「中世の武将の伊達家が長髄彦の子孫であると言われている」
どこでそんな話になっているのか不明ですが。

ということで、ナガスネヒコのことを知っていた政宗だから?
スペインやポルトガルとの交易、またローマ法王への謁見を支倉常長に
求めた理由には、先祖のルーツを知ったからだと思います。
その使命にかられたから、周りから止められても、果たせないといけないと思ったでしょう。
なので、徳川家と戦うことをやめたんでしょうね。


バチカン宮殿

宣教師のルイスソテロという人がいたこともありますけど、目指すは、バチカンだったの?
あの状態でバチカンに書状が残るのは、考えてみたら、確かに、すごいことですよね。

唯一の将軍からのお手紙。みたいな。
あそこに伊達政宗の書状が保管されていることがすごい。
震災の時に、ローマ法王が世界に向けて被災者の慰めを訴えた。
「奥州将軍」に対してどんな思いだったろう。
全く知らなかったりして。笑、



--------------------------------------------------------------
妄想するに、塩釜神社はシワヒコさん。冠を落とした話を聖書にからめると、
冠にエメラルドがあったのですが、13個のエメラルドが落ちた話。(カバラの話?)
聞いた話なんですけど、その冠から落ちたエメラルドが13人になったと。
それが陸奥ではシワヒコとよばれた。紫の人たちの一人という妄想。
シオンの塩釜=トミ族。(塩釜神社はナガスネヒコを祀ってたの?)
そんで難しいけど、物部氏は、聖書にでてくるセム人か、と。
カナンの地におさまるのは、カナン(日本でいう河内国?)
物部氏はカナンの地を日本にするために、二ギハヤヒという船で
カナン(河内)に降りたセム人。
が、秋田の鳥海山(鳥見山)にも同じ伝承がある。

鳥見は、神武東征の時に飛んできたトビ=鳥見と言われている。
神武天皇の「鳶(トビ)」なんですね。
「天の羽羽矢と歩靱を見せ、長髄彦は恐れ畏まったが、改心することはなかった。
そのため、間を取り持つことが無理だと知った饒速日命(ニギハヤヒノミコト)に殺された。」
 
「羽羽矢」がハハなのですが、羽の意味は不明。
鉄の道具との説が有力らしいが、ナガスネヒコは殺されてはおらず、
津軽へ逃れた話は、東日外三郡誌に書かれている。
このへんは、後で。

さて、キリシタンの話を戻し、
伊達政宗を上げ上げするなら、私は、キリシタンや宣教師を保護したとも考えられる。
江戸幕府をさしおいて天下統一を望んでいたといわれるが、実際は、わからない。

政宗の因縁みたいなものを感じてしまうのですが、
東北地方にマロ(坂上田村麻呂)を祀る寺社が多いのは、元はキリスト教の
信仰があったといわれる。
「うちはマロ様だっちゃ!」と言えば、許された話がある。

そうでないとお寺が焼き払われてしまう。
キリシタンを保護したお寺は多かったと思います。
この頃、迫害されたキリシタンが陸奥まで逃れていた可能性は十分、あります。

ちょっとこのへん難しいけど、キリシタン保護を考えていたと思われる政宗の話を。

続く。
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愛子神と愛子の地名 その2

2016-12-18 | 東北地方の伝説(宮城県)
愛子は好きな場所です。
仙山線の車中の景色は、最高です。観光にはお勧め~。
仙台から山寺までの景色は、とっても良いです。


※子愛観音堂

さて、諏訪神社は、国分氏一ノ宮となっている。
ご祭神が不思議。



看板より、782年~806年より山神としてこの地に祀っていたのを、
1185年~1190年の奥州合戦に源頼朝が祈願をし、勝利を得たという。
家臣の留守氏に社殿を造営させたのに伴い、
タケミナカタ命を祀り、改称したとの事。
その後、1457年国分氏が再興した際に、西山(御殿山)の頂より、
現在の地へ移されたと伝わる。






戦勝祈願をする神社が、諏訪神社とは似合わないね。
それに頼朝がタケミナカナを祀ることなんてあるのかな?



とても違和感のある神社なのですが、
ネットで調べてみたら、やっぱり元は、住吉大社なんでねーの?
愛子諏訪神社のご祭神は、白幡大神(中)、黒鳩大神(左)
彌渡大神(右)、住吉大神(夢相宮)
だから、鈴も3つ?





へ~、よくわからない名前の神々。
黒い鳩ってなんじゃい。
彌渡(みわたり)大神とは、ニワタリですよね。
国分氏は泉の北の方に居住していた人で、
泉といったらニワタリ権現を多く祀り、二柱神社も元はニワタリ権現を
祀っていました。二柱神社も男女神として縁結びに縁があるといわれて
全国から参拝にくるそうです。

泉の諏訪-------------------------------------------

ちょっと話が脱線しますが、秩父から移り住んだ場所が泉中央でした。
まだ地下鉄が泉中央までなかった頃で、八乙女でした。
秩父(父)で、八乙女(母)という土地へ引っ越し。
男性性から女性性へ。
これが仙台の最初のご縁でした。

長く住んでいた場所は、二柱神社が土地神(神社の領域)にありました。
引っ越ししたばかりのころ、私の部屋は、とにかく耳鳴りがずっとしてました。
いつからそうなったか覚えていないのですが、寝る前は特に。
最初は病気かと思っていたのですが、耳に異常はなく。
でも、いつも横になってしばらくすると、低いボーンという音が度々聞こえていました。
その頃は、確かに、変な夢や金縛りは何度もありました。
そういうものだと思っていたのですが、泉を離れてから、全くなくなったので、
よく神社では結界を張るとかいいますね。
霊感の強い人は、二柱神社内には、何かがあると感じるようです。
といった神社ですが、今では考えられないほどお正月は、大行列!
いつの間にか、二柱神社に人がた~くさん集まるようになりました。

私も泉に住んでから、修験に興味をもったり霊的な経験をたくさんするようになったので、
二柱神社がすごいのだと、今になって思うのです。
それがニワタリ様の力なんですね。
ニワタリ様は、水神でありセオリツヒメ説もあります。
実際のところよくわからないのですが、鶏とは関係ないようですが、
鶏にされているふしがあります。(この話は後で述べます)




(諏訪神社裏にはむき出した岩が多い)

そして、繋げると、泉は七北田川。シワヒコさんが冠を落とした(落馬)
場所として伝わる。七北田川にそって海へいくと岩切。岩切は志波彦神を祀っていた。
シワヒコさんが落馬した原因の石というのが、石留神社として七北田川に
置かれています。その石が鉱物のようですが詳細はわかりません。
これも隕石だったりしてね。

なので、愛子の諏訪神社は、国分氏が一宮とした背景に、シワヒコさんを感じる。
また、七北田川は元はカムイ川(冠川)と呼んでいたけれど、
北斗七星の七北田川にされている。
このあたりは、北斗七星を信仰していた諏訪神にとても近い。
また、秋田唐松神社の愛子神に神功皇后が関係するのは、
住吉大社は三つ星の井戸神と、神功皇后を祀っている。
愛子神=神功皇后であるならば、仙台愛子も住吉大社(神功皇后)を祀る由縁が
あるわけです。

諏訪神社裏をちょっと探訪。



城塞のような跡の奥に小さな祠を発見。
不動明王でしょうか?



剣と玉をもってるね~。
なんか可愛らしい。

この先はまだ続いていますが、途中から狭い道になり、
崖っぷちみたいになってるので、やめました。



頂きにあったといわれるお社を、今のところに移したということで、
何となく、この森は、優しいと。



諏訪神社は、とにかく平和な神社だと、私はそう思います。
ほとんど諏訪神にお参りすることはないので、余計にそう思います。
とても平和な神様なんですよね。




あえて逆光で撮ってみると、面白い光が映りますね。
ゴーストとよばれるものですが、丸いのはフレアという現象なのかな?
森にこんな光をみせてくれるのだから、お諏訪様の妖精みたい。
---------------------------------------------------

さて、泉市誌によると、鴇田氏(ときた)の姓が多く、信濃からきているという。
1439年奥州に下り、黒川氏につく。宮床の宇和館城主となり、
元は家臣だったが、帰農して土着したと伝わる。
泉は鹿踊りが有名で、伊達政宗が非常に鹿踊りが好きだったそうです。



また、鴇田氏が諏訪神社の氏神だったこともある。
泉に祀られている寺社にも仙台愛子と似ている寺社があります。
泉ヶ岳の方へ行くと鷲倉神社がありますが、伊達政宗が創建したとあり、
イワクラがあります。
特に松森団地のある付近は、ミシャグの石信仰が多く伝わっています。
根白石に兎口神社(とぐち)があり、出雲の兎であるとされ、ウサギグチは、
オサングスという(韓国語っぽい?)山から兎が出てくる道という伝承がある。
角をもった山人=シシ舞みたいですね。

諏訪は、シシ(肉)を崇拝していたので、鹿を奉納しています。
鹿の角は神であり霊的なパワーがあると。
動物儀礼が諏訪信仰として泉に伝わり、出雲の国譲りが泉でも行われ、
その子孫が愛子へ流れているかもしれない。

泉には、住吉神社、神明社もある。賀茂神社のある所なので、
賀茂家がいた場所っぽい。
愛子も同じく、大六天神も神明社も祀る。
塞ぐ神としてのサエ神がミシャグとして古くに伝わる所は、
泉と愛子も同じです。
それには、出雲と女首長の存在があると思うのです。
愛子は斎勝川(サイカチ)がある。斎サイ=サエ=塞川。

地図の詳細などは、こちらを参考にしてください。
「仙台寺社巡り・根白石」
http://www3.plala.or.jp/gameticket/32nenoshiroishi.html
「仙台寺社巡り・愛子」
http://www3.plala.or.jp/gameticket/30ayashi.html

泉は「780年、アザマロの反乱の時、鷲座、楯座、楯石沢、大菅屋、柳沢等の五道を封ぜよ、
と命令。」があったとされる。
鷲倉神社下の長倉川沿いの谷合いは、昔の古道であり多賀城を基地とした大和軍と原住民
(エミシ)の接点であると。
長倉川は、「ハセ」であるから、後の支倉常長にも通じる。
言霊がノル名前は、地名や神々の言霊から離れられない運命に。

愛子も同じく、サイカチ川に沿って塞ぐための砦があった。
それが諏訪神社だったでしょう。
そこに塞がれたものが、卑弥呼(鏡を祈祷していた)やマリア様に通じる
神功皇后であったり、私たちを産んでくれた豊饒の神=大地母神にある。
そういう場所は、ミシャグがあり、諏訪神がある。



神明社の側にあるお寺。




しかし、愛子諏訪神社には、ヤサカトメの名前がない。
「トメ」というのは、トビやトミに通じるのですが、
ここから「トミナガスネヒコ」の存在が隠れているような。
神社は、どんどん上書きされているので、元が何であるかわからなくなっている。
元々は、諏訪神社ではなかったと思うのです。

私は、シワヒコとトミナガスネヒコは深い関係があったと思う。
同じ一族だったか不明ですが。
ホツマツタエでは?シワヒコさんは、二ギハヤヒとセオリツヒメの子
とされているのですが、ちょっと違う気もする。
安部氏やアラハバキが関係すると思うから、
石神のシャクジが出てくるわけです。



金鶏-----------------------------------------------

陸奥には度々、金鶏が登場します。
平泉の金鶏山、山形県寒河江の慈恩寺でも発掘されました。

ニワタリ様が鶏になってしまったのは、中国が由来していそうな。
鶏が金鉱を見つける時に、占いとして連れて行った話がある。
また、鶏を埋めたり、鶏の鳴き声により金を見つけていた話もある。
伊勢神宮は、鶏を使役にしている?とか。
塩釜神社でも、鶏の声を神事にしているそうです。
どの鶏が一番長く鳴くのかが重要で、鶏は宝(金)を見つけるので
縁起がよいとされる。
また、鶏の声は、朝一番に鳴くといいますが、太陽が光を差す時の、
陽の一番の気を感じることができるそうです。



金鶏も塚や山に埋めます。

名取にも、ニワタリ権現を祀っている所があったのですが、
三輪神も祀られている。
ニワ=ミワ。



私が金鶏と聞いて、思い浮かぶのが、金のトビです。
神武東征の時に、二ギハヤヒVSナガスネヒコの時、
金色の輝くトビが、ナガスネヒコの所に降りてきて降参した話。
古い産鉄(縄文人)VS新しい産鉄(渡来人)という話もありますが、
金色のトビが金鶏になっているのだと思う。


(神明社)

妄想するに、私は二ギハヤヒに嫁いだナガスネヒコの妹がとても気になるので、
妹が、兄のナガスネヒコに和解をするようすすめたと思う。
金のトビとは、トミのことであり、妹だったと思う。
妹も卑弥呼みたいな、巫女だったわけですから。


(左:天照皇太神宮、富士山、大峯山、秋葉山、金毘羅山。
中央:八幡太神宮、天照皇太神宮、春日大明神、
右:湯殿山大権現、羽山、羽黒山)

愛子にもある神明社は、サイカチ川の側に祀られている。
神明社の由縁は、アマテラスを祀りますが、トヨウケオオカミも祀る。



参拝したらちょうど雪が降ってきた。
なんだか寂しそう。
それもそのはず。
本殿とは思えない小屋をのぞくと、中はシャッターでしまっている。
いったい、何を祀っている?

津軽のナガスネヒコの墓とされる神社も、神明社にある。



諏訪にも似ている金の話。
金色に的を当てる神事が、諏訪地方にある御射山(みさやま)である。
「金的中」と書かれた奉納額があり、ここに的を絞り弓をあてるお祭り。
金のトビが飛んできたナガスネヒコが降参した背景に、
弓の祀りがあったと思う。
奉射神事といって、日置流(ひおき)というのがあり、八幡神社でも
金に的を射る祭りがあるそうだ。
日置流とは、日置部というのが鹿児島県にあり、埼玉県比企郡は、
日置部から由来する地名。これらが太陽神を崇拝していた豪族だった。
また、「鬼」と書かれた的を射る神事もあるという。
諏訪にも鬼退治の話がありますが、鬼=卑弥呼と思うところ。
縄文から続く(おそらくアラハバキ)の弓の神事「守矢」から、
ユダヤの「守屋」へ受け継がれたことになる。
縄文から続く弓の神事が、ユダヤに受け継がれた所が諏訪だった。
ということで、神々もそのように変えられた。



それに、御射山にも神功皇后社の祠と子安観音の祠がある。
ヤサカトメは上社に祀られていたのを、下社に移された。
「御神渡り」というのがあり、上社の男神:タケミナカタが女神の下社ヤサカトメ
のもとへ通った道筋とわれています。
自然現象ではありますが、男女神をもってくるところ、通婚の七夕みたいな話。
上社のタケミナカタは人間の祖先。下社は龍の祖先。
トメやナガというのは、龍系の人だったと思うところ。
だから、トミナガスネヒコ。

愛子も元は、ナガスネヒコ(シワヒコ)に関係する土地だったのが、
ユダヤのマリア信仰としての母神へ。
それから神功皇后(マリア信仰)を祀る諏訪になったのでしょう。
唐松神社の愛子神は、元はマリアではなかったかもしれない。
物部氏がユダヤであるから、後に愛子神としてのマリア信仰にされたと思う。
元々は、石のミシャグがあり女性性を高める子宮(地球)への恩恵の意図がある。
もっと宇宙につなぐ深い信仰があった所は、ユダヤにとって大事な場所でもあったわけです。

そのため、仙台の愛子は、唐松神社の愛子神とするために、
伊達政宗は愛子をクリスチャンの聖地と考えたのでしょう。
娘がその使命を受けることに。

ところで、卑弥呼や神功皇后、ナグサトベなどの女首長が
世の中を治めていたこととは、どんな感じだったのだろう?
最近の技術はすごい!
もう少し愛子と政宗、支倉常長、ナガナガについて。
続く~。
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愛子神と愛子の地名 その1

2016-12-16 | 東北地方の伝説(宮城県)
先日、名取老女の話を聞こうと思って伺った時、
東北の古代史の話になった。(いつもそうなるけど…)
それが唐松神社(秋田物部氏)へ行った時の話になり、
私は1回しかないけど、その方は3回いかれて不思議な話を。

蜂子皇子ご開帳にちょうど出くわし、そのまま、
唐松神社へ向かう途中、具合が悪くなり神社へ到着したら倒れてしまった。
しばらくして落ち着いたのですが、
大雨と落雷となり、大変だったそう。

唐松神社の宮司さんによると、「雷が落ちると縁起がよい」そうです。
唐松神社の場合は、龍神様をよぶ?ので落雷はラッキーなんだそう。
歓迎されているという事なんだね。
具合悪くなるのは嫌だけど、それが浄化なんだなあ、と思った。
浄化は、雨を降らすことだと。
浄化できる人は、昔もたくさんいて、雨乞い儀式をしていたわけです。
雨乞いは、単に干ばつなどに、雨を降らすというより
悪い土地(気が滞る)所があれば降らす。
気は、流動的に動くので常に流れをよくするには、雨が一番らしい。
川へ海へと流れていくからです。
森の水が幾層もの枝に別れて大地にしみ込み、水が豊かに流れる。

思いだすと、私は一度だけ大雨にあったことがある。
岩手県東和町のアラハバキ大石を祀る胎内山神社でした。
参拝中は晴れていたのに、帰りはすごい大雨で、びしょ濡れ。
その日は曇り後雨でしたが、あんなに降られると思わなかった。
悪いことしたんかな、と思ってしまうほどの大雨。
まあ、縁起が良かったことにして・・・。
胎内山神社も、物部氏が関係していると思います。

ところで、天日宮(唐松神社)の裏に卵型の石が置かれており、
それが隕石らしい。ぜっんぜん知らんかったー。
私が主人と行った時、一人女性が参拝しておりまして、
天日宮を一周回っていたんです。
主人がその方の真似をして回るので、
私もそういう参拝の仕方なんだ?と思って、
私もぐるぐる・・・・。
結局、知らない女性と私たち3人で天日宮を3回まわったのでした。笑
なので、石のことは全然見てなかった…。

その隕石らしい石は、手をかざすとお腹が暖かくなるそうです。
やっぱり、子宮を温める石なんですね。
なので、唐松神社は子宝の神様といわれ、唐松神社には男根信仰(ミシャグ)が。
ということで、天日宮は女性性が非常に高まる場所なんだと、
改めて納得しました。
隕石のような石を拝観することはできなかったけど、
おかげで、神社の中まで入らせて頂いた。
その時、見せて頂いた「唐松山愛子神」の護符。

※唐松神社の天日宮

-----------------------------------------------

東北の物部氏を調べていたわけではないのですが、
ある日突然、東北の物部氏に魅かれた。
きっかけは・・・わからない。
東北の氏族や祈祷、シャーマニズムを考えると、必ず物部氏が出てくる。
この人たちは、「もののふ」とよばれた祈祷集団だと思い、それはユダヤに繋がると
思っていました。具体的な話はわかりませんが、かなり古い日本人?のユダヤぽい。
その古くが縄文に繋がり、龍信仰にも繋がる。
それが大地を震わす祈祷の意味もあり、石を崇拝していた人たちだった。
なのでルーツを深く調べたらエジプトなど中東へ流れると思う。
ピラミッド(正四面体)らしい祈祷があり、それがエジプトが発祥ではなくて、
日本が発祥だった(蘇生)ので、その人たちの先祖はエジプトにいて子孫が再び戻ってきたという妄想。
戻ってきた子孫が、物部氏として日本で君臨していたわけです。

そこに興味をもった頃に、唐松神社へお参りできる流れになり、
愛子神の存在を知りました。
そうだった、以前、胆沢探訪した時、胆沢城跡にいきたかったけど、行けなかったのは、
あそこに物部氏の遺品が残されていることだった。
マロより、物部氏の存在を知るきっかけになったのに、縁がなかった。
考えてみると胆沢での歩きは、とてもきつかった。

唐松神社の創建は、「秋田物部文書」によると、物部守屋の子には二人おり、
そのうち一人のナカヨ(当時3歳)という子が、蘇我氏との対戦により秋田へ逃れ、
唐松神社を創建した話。
ナカヨを保護した人の中に、鳥取氏がいた。
トートの鳥取。時代は、700年後半。


※唐松神社(本殿の中に入って拝観させて頂きました)

その後、何が起こったか。
869年貞観地震。この頃、全国的に大震災が起こっていたので、
東日本大震災と同じ事象が、現在も起きているから、
「まつろわぬ民が震えている」と、感じるようになった。
脅しているわけでは全然なくて、自然とはそういうモノだから、
龍を抑える(地震の揺れを鎮める)祈祷をしていたのでしょう。
貞観の頃は、エミシ征伐として物部氏が藤原氏と参戦していた時代でもある。
つまり、物部氏は熟エミシ(にぎえみし)で、朝廷側とエミシの間を
取り持つ存在だった。

十一面観音が急激に増えたのは、貞観地震がきっかけだそうです。
地震や噴火が多かった時代だったので、天変地異を鎮めるために、
京都から作られたそうです。
エミシ征伐の場所に多く十一面観音を置くのは、
地震や津波に対する鎮魂であり、それはまた大地の怒りとも捉えた。
おそらく、十一面観音を祀る寺社がある所は、水神や祓戸神を祀る場所に
多いでしょう。

ということだから、今、東北に逃れた物部氏なんだろうと思います。
良い人だったか、悪い人だったか、ではなくて、
シャーマンの力というのは、地球を震わせるほどのエネルギーを持つ。
シャーマニズムな感性をそのまま受け継いでいる方はたくさんいる。
その時、どうやって乗り越えてきたのか?
を知るには、東北があまりにも地震、津波を多く経験してしまう理由に、
繋がりそうなのです。

そんな物部氏が敬っていた愛子神。
いろんな見方がありますが、私は聖杯の象徴だと思っている。
マグダラのマリア(ブラックマリア)で、イエスキリストの系譜を守った人たちで、
そのことをよく知っている人たちだった気がします。
物部文書では、神功皇后の腹帯を奉納した内容がありましたが、
妊婦さんが冷えないように帯をするもので、
出産の祈祷があるのは、子宝の女神=マリアの聖杯からきていると思った。
でも、神功皇后=マリア様とは思えない…。
もし、そうならば、慈悲愛をもつ母神のマリア様を戦勝の女神にされたわけです。
戦いの神を祀る八幡宮が、ユダヤのヤハウェイという神ならば、
マリア様は、八幡宮から「戦いの女神」にされたわけですよね。

腹帯の風習は、戌の日に妊婦さんがお参りする風習からきています。
狼信仰が伝わる三峰のある地区では、赤ちゃんの額に「犬」と書きます。
これは、津軽のキリストの墓が伝わる地区に、額に十字を書くのと似ている。
犬か十字、の違い。
第三の目の部分に描くマークは、それぞれの神のご加護を得る
ことを示している。

犬は多産なので、狼信仰もここに由来します。
女性の体を気遣う風習とは、女性を敬うことに繋がります=大地母神。
次元が違う話になりますが、レムリアは犬を大事にしていた感じがします。
ずっと前に、そんな夢をみたので。
犬の神殿です。
東南アジアのような森の中にある神殿なのですが、
犬と女性(踊っている巫女)しかいない。
花びらがたくさん落ちていて、綺麗な神殿でした。
しかも、男性がいないのだ。
天が満点の宇宙。新星の爆発があると祝うと言っていた。
犬の種類は様々でしたけど。

神功皇后-------------------------------------------------------

さて、その唐松神社の愛子神は、「あやし」というそうだ。
仙台の西にある愛子の地名と同じ。
仙台愛子の地名由来が、子愛観音(子安観音)からなのですが、
愛子にキリスト教を広めたのは、伊達政宗の娘、いろは姫だそうです。
この方、アマゾネスみたいな人だったそうです。
伊達政宗が男に生まれてくればよかったと言ったくらいで、
男性的で政治力もあったそうですが、離婚しているんですね。
バツイチって、この時代、クールだわ~。
それから、愛子でキリスト教の布教活動に専念します。


※子愛観音堂



で、アマゾネス感が神功皇后と重なる。
アマゾネスは、戦いの女神!
なぜ、優しい観音様のようなマリア様からアマゾネスに?

神功皇后は、妊婦なのに新羅征伐で戦った伝説がある。
戦勝の神として今も武将たちに人気の謎の人物。
実在はしていないというが、卑弥呼説がある。

神功皇后の本名は、息長足姫 (おきながたらしひめ) という。
唐松神社で神功皇后の名前が出てくるというのは、
息長氏という滋賀県の琵琶湖の豪族に繋がる。
よくわからないですが、琵琶湖が気になってはいました。
琵琶湖の話は気が遠くなるし、ここではあんま関係なさそうなので流します。

ある説では、神功皇后が卑弥呼との説もあるのですが、
そこが、アマゾネスっぽい。
だからナグサトベっぽい。
神武東征の時代は、AD241年即位と推定される。
(九州説では、もっと古く紀元前700年頃に誕生)
ただ、ナグサトベも、もっと紀元前の時代といわれて古い。
卑弥呼が衰えた時代は、AD230年頃。(175年~247年)
それから九州の内乱があったが、
内乱が治まらないので、AD248年壱与が即位した。
「九州で内乱があった」というのは、卑弥呼は九州にいたが、
大和へ移す時に、神武天皇も同じ時期に生きていた。

壱与は、イヨでもありトヨとも読める。
トヨ説もあるので、トヨウケオオカミの系譜とも考えられる?
東日流外三郡誌では、神武東征でアラバキ族が九州へ進行。第二王朝ができず、
壱与が即位したとある。
第10代崇神天皇がAD300年頃即位するとあるのですが、
神武天皇から崇神天皇までの(第2~第9代)の40年間の天皇即位は、
次から次へと天皇が即位したことになる。


※崇神天皇(Wikipedia)

第1代の神武天皇から第10代までの間が空白なのは、
次々とアラバキ族の天皇が即位した為、記されていない(架空)と。
この時代、いろんな説が飛びかっているので、どうかわかりません。

しかし、この時代の歴史を考えると、神武天皇によって殺されたのは、
神話には、たった一行しかのっていない女首長「ナグサトベ」が登場する。
トベは、トメやトネに繋がり、土蜘蛛のルーツがあるという。
そしてハイヌベレ信仰の大地母神。
ヤマトタケルが征伐した土蜘蛛は、九州が発祥だった。

詳細は、前に書いているのでこちらへ。
「名草巨石群」
http://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/22f14c5f33fe6285ae578d7023100095

ナグサトベこそ、アマゾネスだと思う。
それが卑弥呼や神功皇后と重なる。
同一人物というよりは、ナグサトベは卑弥呼と同じ働きがあった女性首長のこと。
ざっくりとですが、このような歴史背景があったことを妄想しないと、
愛子神がはっきり見えてこないような気がしてきた。
そのように日本で内乱があった時に降りてきたのが二ギハヤヒとなるから?
------------------------------------------------------

さて、唐松山愛子神がマリア様だと知っていたから?
伊達のいろは姫は、仙台に愛子神をもってきたのでしょうか。
それがなぜか、ナガスネヒコに繋がってしまった。
関係がまだ全然わからないが、裏でナガスネヒコがナガナガしている感じだ。
ナガナガ?笑
仙台愛子の神社と祀られているお社などをみると、ある場所に繋がってしまった。
二ギハヤヒとナガスネヒコが。

あんれ~ぇ、私はずっとニギニギ(ニギハヤヒ)言ってましたけど、
本当は、ナガナガ(ナガスネヒコ)だったの?
こうなると、妄想が止まらない。
これまた導かれた。
ええ、もう自由に暴走しますよー。
てなことで、愛子の諏訪神社へGO♪


愛子の風景。天気わるっ。山が見えなくて残念!

続く。
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シャーマンな墨書土器と♯の記号

2016-12-12 | 日記・エッセイ・コラム
墨書土器(ぼくしょどき)は、
漢字などの文字や道教の符号など記号・絵などを墨で書き記した古代日本の土器。
文字の他に、人面墨書土器というのもあり、なぜか青森県には一件も出土していない。
他の東北各地には出土されています。
特に多賀城周辺に多く発掘されているそうです。

移住者の多かった関東、東北、中部に多く見られるので、
東日本独特の風習だったようですが、
弥生時代から存在するもので、祭祀として利用されたもの。

土器ではないが、古代瓦にも文字が書かれていますが、
陸奥国分寺で発見された瓦には、それぞれの名前?と思われる一文字が。
①物部②伊部(備前国)③占部(祭祀族)④倉部(古代の官職)
⑤矢部(八部)?⑥真部?



-------------------------------------------------

奈良・平安時代の頃、戸籍登録された時代で、
国から土地が与えられるようになる。
それまで、先住民たちは土地の財産は、皆の共有の財産と思っていたので、
区画される意味がわからず、朝廷の強引な政策についていけない人たちは、
北上していきました。青森県に墨書土器が出土されないのは、
政権が及ばず、また、墨書土器の風習が浸透しなかった為もある。
もしくは、板に記した人面もあり、私はこっちの方が強烈だと思うのですが、
イタコが使用していた物といわれる。
なので、土器ではない「板」という木の方が、より霊的に強い素材である
ことがわかる。土器は土師器や須恵器をもたらした関東からの風習が浸透した
のだろう。

さて、仙台市内から発掘された集落遺跡から墨書土器も出土されています。


※「せんだい発掘された文字の世界」より。

例えば、燕沢遺跡(宮城野区)「山部」、
後河原遺跡(太白区中田町)「臣」
元袋遺跡(太白区大野田)「太」

さて、漢字一文字には、どんな意味が?
祭祀として用いられたことはわかっていますが、
皿に酒を入れて飲んだあと壊す風習はあります。
愛宕神社で書いた話ですが、戦闘の前に祝杯をあげる時に壊す「土器投げ」
エミシ征伐の最前線に多く出土されています。
霊魂がもどってこないように広瀬川に土器を投げる意味もあった。

墨書土器もシャーマニズムから由来する。
渡来した人がもたらした風習が、先住民に墨書土器の風習を伝えたようなことも。

「臣」は、国神の意味があると。
国神とは、その地を守る土着の神。
集落支配の中に国神の祭祀が組み込まれた。
開拓で出会った際に、天神である神武に対し、
国神は自らを臣と名のっている。
彼らは神武に協力的な態度をとった末、国造、首の始祖と記されている。
他に雄略天皇紀では、新羅征伐のために優れた者を召すために百済へ
行き、そこで国神の妨害にあうと記されている。

山王遺跡多賀前地区では、「亘理」「賀美」「宮城」「守」
「宇多田」「秦」「物部」「小田」「山本」といった
墨書土器が出土した。つまり、人面墨書土器の周辺に陸奥国内の郡名や
ウジ名名を記した墨書土器が確認できる。
(省略)人面には書かれないが「身代」「身替」墨書土器(市川橋遺跡)
など、冥界の閻魔王への饗応祭祀と推定されるものが一定量認められる。


※東北地方の人面墨書土器 村木志伸 より引用。
http://www2.lib.yamagata-u.ac.jp/you-campus/tuad/kiyou-tuad/12/p00780090.pdf

むむむー、「冥界の閻魔王への饗応祭祀」ってなんだろう。。。
小野篁さ~ん。

セーマンドーマン------------------------------------

さて、去年、青葉城跡の城壁に記された記号があった。
○や井の形など、屋号かと思ったけど、こんな意味があるとわかりました!
答え:ドーマン
・・・??


※青葉城跡に記されたマル記号。


※青葉城跡に記されたドーマン。(丸に囲まれた文字が「井」)

これも大学の論文で発見しました。
ネットは便利だね~。
「打ちかき墨書土器」というのがあり、破壊されている土器のこと。
土器投げの風習と似ている。
酒田で発掘された土器に、「♯」の墨書土器が多く見つかったこと。

「この♯(シャープ)のような記号は、「ドーマン」という魔よけであると考えられ、
祭祀的な意味を考えるべきものである。他の墨書土器も一文字のものや、
記号的なものが多く、やはり打ちかきされている例が多い。
「×」も打ちかきされているので、♯と同じ意味がある。」

※墨書土器にみえる諸痕跡について(研究) 荒木, 志伸 より引用。
http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/bitstream/10083/894/1/KJ00004470998.pdf

ドーマンとは、「セーマンドーマン」でセットらしい。
セーマンが五芒星。ドーマンは網のような四角を用いる。
Wikiによると、三重県志摩地方(現 鳥羽市と志摩市)の海女が身につける魔除けであると。


へ~。
なぜそれが墨書土器に・・・?
面白い妖怪が登場する話。(wikiより)

「海女達が恐れる魔の代表的なものとしてはトモカヅキ、山椒ビラシ
(身体をチクチクとさす生物とされる)、
尻コボシ(肛門から生き肝を引き抜く魔性といわれる)、
ボーシン(船幽霊)、引モーレン(海の亡者霊)、
龍宮からのおむかえ、などがある。

磯手拭や襦袢などに、星形の印(セーマン)と格子状の印(ドーマン)
を貝紫色で描くまたは黒糸で記し、海での安全を祈願する。
磯ノミ、磯ジャツ(上着)、磯メガネなど、海女の用具全般に記され、
また、漁夫の褌にも記されることもある。

星形は一筆書きで元の位置に戻り始めも終わりもないことから、
魔物の入り込む余地がなく、
また海女達の口伝に寄れば元の場所に戻る=『無事に戻ってこられるように』
との祈りを込めたともいわれ、格子は多くの目で魔物を見張るといわれる。
ウェットスーツの普及で、この風習は急速に廃れつつある。


海の祈祷だから、ノロの風習だと思った。
それが青森に伝播してイタコになり、板に書かれるようになったわけです。
板に描く人面は、呪符木簡(じゅふもっかん)といい、怖いです。
私はこの木簡だけは、展示されているのをみると、人面と目を合わせられない。
なんか見られているような気がしますなぁ。

ということで、城の石にマークをしるすのは、魔よけであり、
道教の思想が隠れていた。
後に蔵の屋号になるわけですね。
また壊すことで怨霊に祟られない為の方法だった。
武士が考えそうなものですが、土器の前に、それが土偶だったと思う。
土偶も破壊して壊す。
あえて壊すために作られているモノは、「身代わり」となって
土中にいてくれれば、私たちが永遠に健やかに生きられる願いだったのです。

水の事故を防ぐには、こういった「お守り」を身につけると
良いかもしれないですね。星型はいろいろ助けてくれそうです。
自分で書いて「おまじない」としておくだけでも効果ありそう。
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シオンの小野篁

2016-12-10 | 日記・エッセイ・コラム
その話の前に、
ローカル番組で、坪沼八幡神社で40年ぶりの結婚式が行われた
話を見ました。
「住みます芸人」のキングビスケットがきていた所で、
新しい人が入ってくると幸せを運ぶのだな、と実感した話でした。
お笑いが大好きなんですが、人を笑わせる仕事をしている人は、
頭が良くないとできませんね。
テレビをみて思うけど、芸人さんは、みんな真面目で優秀ですね。

結婚式を挙げられた方も、キングビスケットと同じ時期に来られて、
地元の方ではないそうです。
久々に、坪沼八幡宮が新しい風を開いてくれたのだと思うのです。
坪沼は秋保ですが、とっても素敵な所です。
末永くお幸せに。
坪沼に新しい芽が育ちますように~。

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なるほど~と思ったのは、私の個人的な話ですみません。(読みたくない人はスル―して!)
私も結婚式は神社でしたが、所沢に住んでいたので東京で挙げました。
東京なら交通の便がよいから。という理由だけで特段何の意味もなく。
私はこういう時は、全然、何でもよいタイプ。
神社だったらどこでもよいと思ってました。
伊勢神宮関係の神社でしたので、こじんまりしてとても良い神社でした。

で、挙式よりも重要な日が、入籍する日ですよね。
結婚記念日。挙式日ではなく、二人で婚姻届を出した日にしています。
挙式日を記念日という方もいらっしゃいますが。
みなさん、いろいろと考えるようですが、
私の場合、なぜか、秩父夜祭の日になってしまいました。
年内中に入籍したい!願望がお互いにあり、12月中に可能な日を探しても、
その日しか都合がつかず。
なので、ねらったわけではなく偶然、秩父夜祭の12月3日が記念日となってしまった。
じぇー。と思ったけど、まあ、これなら忘れない!と思ったもので。

なので毎年夜祭がくると、ああ~と思うわけです。
なんか、あ~という感じ。笑
秩父夜祭は、年に1回、武甲山に妙見様がおりてきて秩父神社の男神と会う日です。
荒川を銀河とみたてた七夕祭りが起源です。古くは。
なので、男女の「ムスビ」の働きがある夜祭なんですね。

「タカムスビ」というのは、良いご縁を結ぶ働きのある神だと思いました。
神(カミ)とは、本来そういうモノです。
結婚式というより、男女が出会って結ばれ、その記念にあたる日に何かと繋がれば、
明らかに先祖や霊統などの知らないところで、目に見えないところで、
何かの存在が、せっせと結ばれるように働いてくれている。
そんな出来事だと思いました。

小野妹子------------------------------------------------------

さて~、また妄想しすぎて、どうかしてる話をします。
塩釜神社は、シオンだったの?!(ぷぷっ)

塩釜神社の宮司さんのお名前が、小野さんだと聞いた。
あのあたりは、小野という地名があるようで。
昔、小野さんがやってきて塩釜神社を守るようになった?
このへん、ざっくりとしか言えないのですが、
そういえば、小野小町の墓伝承が宮城県北部にあったり、
岩沼の竹駒神社は小野篁(おのたかむら)が関係していました。

遣隋使に派遣された小野妹子は、中国の史料に「蘇因高」と書かれてました。
蘇我の蘇ということで、蘇我氏?という説もあります。
たぶん、「小」がshouというので、ショ、シオ、ソなどに聞こえて「蘇」になったと
考えられます。
が、因と高となったのかよくわからない。
高(gao)とよむのですが、高の意味は、おそらく背が高い人というよりか、
高貴な人に対して高とつけたのでしょうか?
このへんもよくわからないが、小野妹子の妹子をそのまま中国語読みにすると、
meiziになるので、ソイン(suyin)といった響きに繋がらない。

でも、小野家が塩釜神社に関係しているならば、
「蘇因」がシオンと聞こえた?と。
塩釜神社のシオが、シオンという響きに隠されていることを
妄想をしてたら、ちょっと面白いな、って思いました。


※御釜の藤神社:藤つるをもって守矢と戦ったタケミナカタ。

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シオンとは、イスラエルのエルサレム地方の歴史地名とあり、
ダビデの支配下にあったエブス人の街として登場する。
エブス人が、エビスの語源に変化したともいえますね。
蘇我蝦夷がいますが、小野さんが蘇我氏だというのは、エブス人だから。
とも言えます。
そのエブス人とは、カナンの先住民。
ダビデ王が侵略してイスラエルの首都とし、エブス人もイスラエル人に従属したと。
ダビデがよくわかりませんな。
無理やり繋げると、小野篁は、閻魔大王の仕事をしていたという。
ダビデ王=閻魔様?
・・・どういう意味かね?

以前、湯殿山で妄想してましたが、
湯殿山で見かけた「常世岐姫」の碑があります。



常世姫は赤染氏という染色技術者が祀る神であると。
染色は出身地の名をつけるそうで、紫と赤色は、カナン人の輸出商品。
カナン人はノアの箱舟で助かった息子の名前とされる。
そのルーツが秦氏といわれ、戦いの時に赤色の旗をたてたり、
確か秦氏が伝えた西陣織もある。(赤=源氏)
赤染氏が祀る神社が、河内が本宮で分社が北部埼玉にしかない。
河内は、カワチとよむが、カナンともよめる?
その赤色の布は、カナン人やフェニキア人が身につけていたそうだ。
赤色(紫色)の布をまとう人をフェニキスとよび、
カナはヘブライ語で商人の意味。

また、シオンは、日本語では紫苑と書き、「菊」のことです。
まさに、菊紋様でないの?
塩釜神社のシワヒコさんは、紫波彦と書くのが本来の意味だったりして。
シオンの人だとしたら、紫色ってそんな意味があったりするのね~。
聖徳太子が冠位十二階で一番高い色を、紫色にしているのはカナンの色にしてるから。



小野妹子は、聖徳太子の守り本尊にされている。
小野妹子の墓のある場所が、科長神社の南側にあります。
科長神社の住所は、大阪府南河内郡太子町。
それでもって、科長神社の祭神が、シナツヒコとシナツヒメだった!
シナ(支那)ですね~。
前回、山形酒田にある飛鳥神社の話で、近くに「小物忌神社」の風の神が
あることを知った。大物忌神社VS小物忌神社。
大小の対比があるのは、こういうことなのね。雷神・風神。

こういっちゃなんだが、イスラエルのあちらの同胞たちが、
互いの神々を祀って、我よ、我よ、と言っていただけなんじゃないの?
はたからみていた先住民が、ほげ~っと見ていたと思う。
何してるんだろう?ぐらいな感覚で。
実は、そんなに深い話でなくて、勝手に渡来した神が勝手に盛り上がっていただけで…。
それをあえて深く考えすぎている私は、なんでしょう。笑。
ま、先祖のルーツをたどる意味があって書いているのだから、まあいっか。

密かに、太子堂や聖徳太子像というのは、カナンでありダビデであり、
イスラエルの聖地を日本にうつすつもりでやってきたイスラエル人の
小野さん=蘇我氏=秦氏だったということを想像する。
聖徳太子の石碑は宮城県の南、仙台では太子堂があるように長町周辺に多いと思います。
石工たちの信仰ですが、後に、フリーメーソンへと繋がります。
私は、太子の像はフリーメーソンくさいと思ってました。
なので、それらの石碑は、最近になってたくさん置かれたと思います。

小野篁のダビデ星-------------------------------------

ダビデ王ではなく、ここはダビデの星の象徴と考えた方がよいね。
六芒聖のことですが、日本の歴史でユダヤを無視しては語れません。
深い深い関係があり、小野さんはダビデ星を信仰していたわけです。

竹駒神社の時書いた内容ですが、
小野篁は、源氏物語を書いた紫式部のお墓の隣に並んであるという。
(紫式部も紫色の人ってことだ。)
はっきりした理由はわからないが、紫式部も藤原家の一族で、
紫式部は、藤原家のふしだらな貴族社会を描いたことで、天罰が下るという
噂が立ったそうだ。
なので、あの世にいってもちゃんとお世話してもらおうと選ばれたのが小野篁。
なぜなら、審判を下す閻魔大王に仕えていた人だったから。という話。


※竹駒神社の三宝

簡単に、閻魔大王は、六道の行き先を決定する。
6つの鳥居が並びそのどれかの鳥居をくぐることにより、来世が決まるという話し。
六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6つ。

小野篁は、昼間は朝廷に仕え、夜は閻魔大王に仕えていたという。
また京都の小野篁邸に魔王堂というのがあり、鴨川を挟んで死の六道珍皇寺、
桂川沿いには、生の六道福生寺がある。
珍皇寺には黄泉がえりの井戸というのもある。


※竹駒神社のお稲荷さま。

そのような思想があった小野篁を考えると、
藤原氏や中臣氏、物部氏や他の氏族が全国から陸奥・出羽へ開拓にやってきて、
呪術的なことを行ってきた物が残っています。
このようなシャーマンな祈祷を行ってきたのは、
ユダヤでも形として星形やダビデ星として残しますね。
なぜか、ナチスドイツは、「黄色」のダビデ星をバッジにつけてました。
「シオンの星」ともいわれ、ユダヤ人と日本人の深い関係があっても、
この時代は、そうだったのでしょうね。
私は縄文好きだし、自然崇拝しか興味がないから、
人が形で自己主張する意味がわからないので、知りたがり屋。

色で識別することに神経を使っていたナチスだったのですが、
本当のことを知っていた為に、あんな風に悪いナチスにした存在がいたといわれます。
洗脳は、残念ながら行われているようです。
が、どっちも主張している限り、洗脳という言葉は消えないですね。

しかーし、そのようなマークが石工たちの歴史に流れ、
古くは、墨書土器にあったという話。
地味な墨書土器ですが、この遺物たち、
調べてみると面白いことがわかってきました。
続く。
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