秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

伊豆沼の蓮

2015-08-30 | 日記・エッセイ・コラム
もう夏も終わってしまいましたが、中旬に行った伊豆沼の蓮祭りの写真です。
伊豆沼一面が蓮に覆われます。



風が強い日で雨も少し降っていたので、蓮も風にあおられて乱れた感じになっていますが、
伊豆沼の中をボートで巡る貴重な体験ができました。
ボートに乗って観賞するには有料ですが、ラムサール条約に登録されている
貴重な場所ですので、伊豆沼の気持ちよい空気に触れられてとっても良かったです。



蓮というと、埼玉県行田市が有名ですね。
全国でもおそらくここだけじゃないかな?
古代蓮の種が見つかったのは。行田の話ですけどね。



ここも貴重な場所ですが、私は一度も行田の蓮をみた事がなく。
でも10年以上も前になると思いますが、何かのイベントで行田の蓮の写真を買い、今でも部屋に飾っています。



「今から約2000年前、「古代蓮の里」一帯は、
たくさんの水生植物が茂る湿地帯でした。
そこには、蓮の花も咲いていました。


そのとき咲いていた蓮の実が地中深くもぐり、
ふたたびあたたかい陽射しをあびるまでの長い長い眠りにつきました。」




1971年の工事の際、
掘削によってできた場所に水がたまって池となり、
地中深く眠っていた蓮の実が静かに目覚めたのです。




1973年(昭和48年)
池の水面に多くの丸い葉が浮いているのが発見されました。
その後、葉の数もふえつづけ、ついに7月13日、
長い眠りから覚めた古代の蓮が可憐なピンクの花を咲かせたのです。」※行田のサイトより




とまあ、これは行田の話ですが調査した結果、古代蓮と判明。
2500年前~3000年前のものと推定されている。
縄文時代からこのように群生していたら、縄文の夏も楽しかったでしょう。



蓮は仏教の象徴となっていますが、
あこや姫の姉といわれる中将姫が当麻寺で編んだ曼荼羅は、
蓮糸であるといわれていた。しかし、調べた結果残念ながら絹糸でした。


蓮の花の葉がとても大きい。もう花より葉の方が目立ちますね。

ミャンマーでは蓮糸を使った織物がある。
どんなものか触れてみたくなるけれど、高そう…。



そんな蓮の季節とも今年は終わり。
もうすぐ9月。
毎日雨で頭ん中にキノコ生えそうですが、蓮の写真でしばし夏の想い出に浸る…。


建物は、伊豆沼サンクチュアリーセンター

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妖精の輪:Fairly circlle

2015-08-27 | 日記・エッセイ・コラム
また雷神山古墳にいってもうた。
旦那が行ってみたいというので、「墓場だよ…」と流したが、結局行くわけだ。
栃木にも古墳はありますが、雷神山古墳は結構大きい方だと思います。

そういや~、前に変な妄想してたよな…。
勿来とかって。
また来ちゃいましたけど?

で、行ってみたら面白いのを見つけた!
「妖精の輪というのがあり、妖精の足跡や妖精のダンスといわれ、
草原に不思議な円形のサークルができているのを言う」


その正体が、キノコだった!



知らなんだ~。

なんでキノコが輪になって生えるんだろう~と不思議に思い、思わずスマホで撮る。
最初見た時は、誰かが意図的にそこだけ水をあげてキノコを栽培していると思った…。
円状になっている部分の草の色が違う。
家に帰って調べてみたら、「菌輪」ということがわかった。

円状に生える理由には、2つの説があり、
胞子が発芽した地点から菌糸が放射状に伸び、古くなった中心部から順に湿っていくので環状に残ると。
この菌糸は胞子が放出して発芽し、実体となり菌輪になるまで数年かかるという!


(まっしろ)

ということは、古墳にあるキノコは何年もかけてこのような輪を作ってきたわけだ。

もうひとつの説は、マツタケ(日本の)の調査により
菌輪はコロニーがつながってできたとするもの。
菌輪は基本的にリング状になるという説。

世界ではこんな伝説が・・・
イギリス:妖精が輪になって踊り草を踏み倒した跡。
キノコにカエルが座って毒をまくという伝承。
オーストラリア:ドラゴンの吐いた炎。
他にも妖精の入り口や、過去・未来へ行き来できる扉ともいわれている。


(Fairly circlle:by Wikipedia)

妖精の輪は長年謎でしたが、日本が解明したそうです。
静岡大学がAHXという物質を発見し、それが円状に繁殖させることを突き止め、
キノコが持つこの物質を、他の野菜などに含めると成長が著しく向上することもわかっている。
悪い環境の場所、例えば海岸など塩を多く含んでいるような土地でも育つといわれる優れた物質。
キノコにとっては、ストレスがない場所といえる。
これってなかなか見られないそうですよ。
森にはキノコがたくさん見られますが、妖精の輪に出会うことはないのかな?
古墳のキノコは、何年もかかって今のような状態になっているのだと思います。



ただ、菌輪のキノコの多くは毒キノコだという。
西洋で伝わる妖精の輪はあまりいい話ではない。
謎のサークルなだけに、人々がなるべく近づかないようにしていたのは、
毒キノコや、ある説では草に触れると肌が荒れるなどがあった為に、そのような話をすることで
子供たちを近づかせないようにしたものだと思います。

ここでも未知との遭遇。
キノコは謎の生物です。
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縄文の女神と遮光器土偶

2015-08-25 | 日記・エッセイ・コラム
縄文人は、関東と中部地方に多く人口が集中していたことがわかった。
西日本は、東日本の10分の1にも満たず、人口密度が東北と逆転するのは、弥生時代になってからである。

東日本に縄文人がたくさん住んでいたのは、落葉樹のクリ(ドングリ)が多く分布し、
西日本の照葉樹林よりは生産性が高かった。
サケ、マスなどの川に遡上する資源が豊富で、縄文人に大きな恩恵を与えていた。

しかし、東日本の縄文人が減少していったのは、稲作が西日本中心に広まり、
気候変動や渡来人の流入により、疫病をもたらした可能性が高いという。
海からの発症率が高くなるので、貝塚が減り人口も減少していったと考えられています。
その為、海にいた人たちが内陸へ移住し、弥生時代には100万人の人口増加。
奈良時代には、数百万人に増加していた。
稲作文化が入るようになり平野へ人々が住むようになると、
縄文の狩猟から稲作へ移行し、それから階層がうまれて律令制が始まる。

縄文人の寿命----------------------------------------

縄文人の寿命が、ちょっと衝撃的で。
最も死亡例の高い年齢が男性で30~34歳。
女性では20~24歳。30代後半以上の年齢は低く60歳以上はほとんどいない。

10代後半~20代にかけての女性が最も高く、その原因が出産にある。
出産は、死を意味する。
命ある生物は、出産したら亡くなる運命にあったのか…。
今では考えられないが、土偶が多く創られるようになったのもそれがある。
出産の死亡率は高く、乳幼児でも死亡率は高かった。

※地質ニュース659号(縄文時代の環境その1)より参照。



先日、山形へ用事があったついでに、山形県立博物館でやっている縄文ビーナスを見てきました。
後ろの背中が色っぽい~。しかも、背中はツルツルのピカピカ~。背中は磨かれていたらしい。
縄文人はセンスあるアーティスト集団だった。

縄文の女神は縄文中期のもので場所は、尾花沢新庄道路の建設ルートにかかる
奥羽線舟形駅の西、小国川左岸に発掘されたそうです。
高さ45センチと日本最大の土偶です。


(※フラッシュをたかなければ撮影OKだったので撮らせて頂きました。)

そして、このビーナスも妊婦さんでした。耳飾りを意識した孔がありお尻が突き出ているのは「出尻形」という。
パンタロン風なズボンが粋だね。

「土偶はまじないのため割られたりして投棄されるものが普通ですが、
今回は、狭い範囲から全身が出土し、しかも数cmから10cm程度のもの30体ほどが周囲から見つかっています。

土偶の位置付けについて、当時山形県教育委員会文化課の職員として
発掘調査を担当された佐々木洋治氏は、
「他の土偶が儀式が終わればすぐに壊されるのと違って、ある程度の期間、
安置されるなど中心的な土偶であった可能性が高く、
生命を産む女性をかたどり健康祈願やまじないなどに使ったのではないか」と評し、
土偶に詳しい国学院大学、小林達雄名誉教授は
「これだけ大きい土偶の発見により粘土製の土偶がすべて同じ性格をもつのではなく、
土偶に役割分担があることが解明される糸口になる貴重な発見」と評価しています。
縄文時代のわが町にこうした 高度な精神文化が芽生えていた大きな証となるものです。




「国宝:縄文の女神」より
http://megami.town.funagata.yamagata.jp/index.html

これらの縄文土偶は、それを創る専門の人がいたと考えられています。
土偶専門チーム?



頭の形は、ターバンのようなものを巻いているように見えるのですが、
雲南省などの中国北部に、このような民族がいるよね?
それに似ていると思うのですが、渡来したきたきれいなモデルさんがいたと思います。
西洋人のモデルような気もしますが、古ヨーロッパでも鳥人間といわれる顔が鳥のようなものだったり、
不思議な土偶がたくさんありますが、こんなにきれいな曲線美はみたことがない。
また、頭の小さな穴は、鳥の羽などを刺したのでは?
との解釈もあり、羽飾りがあった女神と想像すると素晴らしいものがあります。
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さて、縄文人が多く関東地方に集中していたことを考えると、
やはり関東地方、特に茨城県は縄文の聖地だったと思う。
全国ワースト1といわれる茨城ですが、実はすごい所なのだ!
たぶん、あまり人が注目しないところも、意味があると思うのです。
大事な場所は守りたいから。というのが縄文人の本望だからです。


※東北の国宝、文化財級の土偶がたくさん見られます。なぜか、青森の土偶は十字型が多い。
左:秋田県坂ノ上遺跡、中央:青森県三内丸山遺跡 右:宮城県鍛冶沢遺跡

で、その縄文人の世界とはどんなもので、なぜ、破壊の一途を辿る運命になったのか?

「常陸国風土記」には谷田(やとだ)という開拓された地がある。
関東地方では、谷(やつ)とよび、夜刀神の夜刀(やと)の事を意味する。
常陸国(現:茨城県)に住んでいた豪族(麻多智=ヤハズノマタチ)
が、葦の蔓延る渓谷の原野を切り拓いて新田を造営したという。

継体天皇の時代、そこには、蛇体で頭に角を生やした神の夜刀神がおり、
その姿をみると一族が滅んでしまうといわれていた。
麻多智は、蛇の姿をした夜刀神を奥山へ押し込め、人の地(田)と神の地(山)
を区分するために、その境界の杖を置いた。
社を建て神として夜刀神を祀り、自らの神を受け入れてもらうように祝ったという。

しかし、孝徳天皇の時代、夜刀神の棲む谷の池に堤を築こうとするが、
夜刀神が集まり、いつまでもそこに居続けるので、従わないのはどんな神か?と、家臣に殺すよう命じる。
そのため、夜刀神は逃げ去り、そこにはなぜか椎の木だけが残り、
泉が湧いていたのでその池を「椎井の池」とよんだ。


この話について、
「日本とは何か」の著者、細野善彦氏の縄文についての対談の中で、
「この官人の開発姿勢は、人間の自然に対する関わり方が大きく変化したことを物語っている。
これまでの歴史家は官人の姿こそ文明の担い手のあり方を示しており、
未開から文明へ社会を発展させる進歩の現れだと評価してきた。
しかし、この官人のように魚や蛇、などを殺すという姿勢で自然に立ち向かい
はじめたことは、文明による自然の本格的な破壊の始まりということもできます。」

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「常陸国風土記」に出てくる豪族の麻多智という人は、土着である箭括氏の首長と
思われる麻多智という人で、箭括氏という氏族は確認できないが、
物部氏の同族で矢を制作する集団といわれている。

呪術的なもので自然霊に挑み、原野を切り開く時に、自然霊(夜刀神)を殺したり排除するものではなく、
人間と神との領域に境界を引き、夜刀神を形象化して祀る。
環境を破壊することにはなるが、
自分たちの領域をもつことを「許して頂く」ために丁重に祀り、儀式をしていたのです。
その場所へは害さないように誓いをたてるようなものであっただろう。

池があったというのも、蛇は水神である。蛇信仰は縄文とも深い関係がある。
自然霊を丁重に祀ることで、その土地を譲って頂く。そのような視点から私達は自然よりも下にある。
しかし、今は人間が一番えらくなってしまった。

木々や水などの森の精霊から、受け入れて頂くよう配慮していた豪族がいたのだが、
自然に対する価値観の違いで、今では破壊をすすめている。
夜刀神は、逃げてしまったのだ。もう日本の森にはいないのだろう。
自然災害が多いのは、丁重に祀ることをせず、信仰心がなくなったことを
夜刀神が伝えているものでもあるだろう。

中空土偶--------------------------------------------------

中が空洞になっている土偶がある。
水をためる器であったと考えられている。
月の水が命の水とは神話で多く語られていますが、それは死と再生の意味があり、
出産で亡くなる女性の変わりに、土偶が身代わりとなると考え作られた。
中空土偶は、補強部分が強いところとそうでない部分があり、意図的に壊れやすく作られていた。
土偶をバラバラにするところ、オウゲツヒメと似ていますが、人間が土へ還ることの意味が強い。
西洋の天へ還るのとは違う。

土に水が含まれれば、バクテリアが増えそこに芽が生え植物が育つ。
それが命のサイクルであることを知っていたから、土で土偶を作り、人間の命も芽生えることを望んでの破壊だった。
もしくは、縄文人は私たちが掘り起こしてくれることを考えて作り、土に埋めていたとしたら…。
その土偶とどう向き合っていけるか。
土偶は変なモノではない。
北東北では縄文遺跡を世界遺産にすると意気込んでいるが、日本人のほとんどが土偶を理解していないのに、
どうやって世界に発信していくつもりなんでしょ?
でも、それがきっかけで日本が良くなる期待もちょっとあるが…。


※お腹の部分は渦巻き紋様が多い。おそらく妊婦の土偶だからだろう。
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古代史における氏族の性格はいろいろですが、
物部氏の呪術に関しては、その力が強かったという話があるけれど、
自然霊を供養することができた人たちであると考えるものではないか、と。
森の精霊の姿を見ることができたのだろう。
自然に対する価値観が、今の私達とは違っていたと思う。そこに惹かれるのですが、この集団も謎…

祭祀道具の杖というのがどんなものかわからないですが、
私のイメージで浮かんだクツミの杖がとても立派なものだった。
杖は、ケルトでも使われていた。
ハシバミの杖などはそれで、境界の意味で使われていたこともあるが、豊穣と性のシンボル、
または、水脈や鉱脈を見つける杖でもあった。
ダウンジングみたいだな…

アスクレピオスの杖というのもある。木と蛇がからまっている。(蛇は一匹)
ギリシア神話に登場する名医アスクレピオス(アスクレーピオス)の持っていた蛇
(クスシヘビ)の巻きついた杖で医療・医術の象徴として世界的に広く用いられているシンボルマーク。



からまる蛇と二つの翼をもつケリュケイオンという杖もあるが、それとは全く別ものらしい。
翼がついている方よりは、前者の方がずっと神聖な感じがする。

クツミの杖は取っ手の部分が巻貝のようにクルクル渦巻いている木の杖で1m位はあったと思う。
またクツミという精霊も森の中にいる人だったから、自然霊を仙人の姿で見たのだな、と思ったのです。

何を伝えたかったのか知る術はありませんが、もしかしたら、もののふの姿なのかもしれません。

プレート上に住む日本人-----------------------------------------------------------

もうひとつ、なぜ茨城が要石をおく鹿島神宮があったり古代史において
注目されていたのかは、日本列島のプレートが関係している。

縄文人は特にそのような場所を選んでいたのでは?

ユーラシアプレート、北アメリカプレート、太平洋プレート、
フィリピン海プレートの4枚のプレートが出会う地球上で珍しい場所であるといわれる。
富士山がそのプレートを支えている。

北海道から仙台沖、茨城沖を結んだ戦上で北アメリカプレートの下に潜りこみ、
フィリピンプレートは西日本の南海トラフでユーラシアプレートに潜りこんでいる。

その中でも太平洋プレートが北米プレートに引きずりこむ速度は年間9.4m。
仙台沖付近では10.55m。
このため、両地域ではおよそ27~30年に一度の海溝型大地震にみまわれる。

それに対してフィリピン海プレートがユーラシアプレートに引きずり込む
速度は年間4.5mなので、南海や東海地震が発生する頻度は、70年~100年に1回である。

北海道や北関東に住んでいると、一生に2度以上の巨大地震を経験するが、
西日本では一生に1度かそれも経験しないですむということになる。


※左側部分に日本列島。

縄文人が多く東日本に住んでいたことや、巨石信仰が多いのは大きなナマズ(龍)を鎮める、
つまり、巨大地震を鎮めるためにあると私は思います。
その荒れ狂う大地を、古代人はムーやレムリアに結びつけるのです。
なぜ、レムリアの人々は地球に残ったのでしょうか?
宇宙人的な存在だというならば、他の星へいかずに地球に留まった理由はなぜだろう?
レムリア人が地底にいるというのは、地球の内部、お腹の部分にいるのだから、
お腹(子宮)が何かを感じ取るというのは、レムリア=母神だからだと思います。

山形で友人と震災後の体調について話していた時に、
私もそうでしたが友人の話でも、震災後の原発の水素爆発から直前~数カ月(または1年後)に
生理不順になったり、微熱が続くなど体調が悪くなる女性を何度か耳にしました。
震災から1年後、私もおかしいと思ったので、産婦人科へ行った時に先生は、
「おかしいね~、最近そういう人が多いんだよね。何でだろうね」と、なぜか不思議がっていた。

その時は偶然だと思っていましたが、女性の体は、やっぱり地球と共振しているのだから、
女性が特に霊的な存在で受けやすいことを考えると、そういうことに気を配りながら過ごしていかなければ、と思いました。

また、土のイメージはレムリアかもしれない。
縄文土偶は、ムーやレムリアの置土産と思うと不思議な気持ちがします。

※企画展は9月6日までやってます。
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海人の穂高神社

2015-08-23 | 神話・伝説
穂高神社の奥の院は、穂高山にあった。
ああ、そうか、山なのか。
と思ったけど、穂高山がどのへんにあるかよくわからない…。
東北から外れると異邦人になる。



穂高神社のご祭神は、安曇比羅夫。天智天皇の命により水軍を率いて朝鮮に渡り、
百済王豊璋(ほうしょう)を助け、663年8月27日白村江で戦死。
穂高神社の御船祭りの起こりと伝えられます。



物ぐさ太郎------------------------------------

おとぎ草子の物ぐさ太郎で文徳天皇の御宇甲斐、信濃国司として両国を治め、
穂高神社を造営し、120歳の春秋を送った。



物ぐさ太郎とは、こんな話。
物ぐさ太郎は、草かやの貧しい小屋でいつも寝そべって暮らしていた。
ある日、里人からもらった餅の一つを誤って道に転がしてしまった。
そのままにしていたところ、通りかかった地頭に「拾ってくれ」と頼んだ。
太郎のものぐさぶりに感心した地頭は、里人たちによく養うよう命じた。
3年の月日がたち、この村にも夫役が割り当てられ、太郎はそれを引き受けて
都にのぼり秀でた才能が知れて信濃中将になった。


おとぎ草子にはもっと細かく長い話になっていますが、
物ぐさで貧しい人とありますが、実は仁明天皇の第二皇子の子であったとわかる。
京にいってある女性と恋に落ちるのですが、歌が上手だったので結婚できたという話。

物ぐさで貧しいのに、里人には保護されて3年も食事を与えられていた…。
その後、京へ呼ぶところ、元々天皇家の子だったことを知っていたんでねーの?
と思ってしまう話ですが、民俗学・歌人である折口信夫の解釈が面白い。



「寝そべっている姿」とは「欲がない」と。
何もしないでいることは、物ぐさというより、欲がないと捉える解釈。
そういう見方もナルホドです。
平安時代、貧しい人がいても貴族たちは、蹴鞠とかしてたわけだ…。
雅な文化がうまれた平安時代ですが、考えてみれば地方はとても貧しかった。
何の欲もなくそのまんまな人と考えれば、物ぐさ太郎は尊敬できます。
無駄な浪費はしない。それに尽きる。

ちなみに、物ぐさ太郎が穂高(おだか)権現で、妻はあさい(朝日)権現になったという。


大きな欅

龍の子太郎----------------------------------

治水工事の伝説もありました。
小太郎という少年は、穂高見命の化身で治山治水の功績を残している。
諏訪大明神の母は龍なので姿を見せるのが恥ずかしく、湖に隠れていた。
小太郎の父は、白龍王で海津見神。
母に会いたいと湖へ行くと母は小太郎のために、湖から姿を現し平地にするという。
それから平野になったという話。何か災害があって地形が変わったのでしょうか?

千国街道(塩の道)--------------------------
北は日本海まで通じ上杉謙信が塩を運んだといわれます。
安曇野は道祖神が多いです。


過疎の村里に取り残された道祖神三十三夜塔を関係者の願いにより、由緒深いこの場所に祀ったそうです。
安曇野に点在する道祖神とは違い、砂岩で創られており趣が異なるものです。



餅つき道祖神の由来

群馬県安中にある茶屋で餅をついている男女の双体石像がある。
1796年、部落では昔から道祖神として崇められてきました。
杵を男性、臼を女性に見立て、男女の睦事を「餅搗き」とし、夫婦円満の神として祀った。



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海人族の中で、忘れていた人たちがいましたが、もうひとつ宗像系がいる。
諏訪に話が戻りますが、呉越の南方系民族は瀬戸内海にいた河野水軍というのがあり、
大山津見神社の神官を務めていた人が、河野という人でした。
越人は倭人で入墨をしていたという。
この人たちが、越智氏(おちじ)の系譜があり、河内国の源氏となり物部氏との繋がりを持つ。

一方、宗像系海人族は、黒潮~フィリピン~佐渡~男鹿半島へ上陸した
人たちといわれている。
ということは、同じ海人族でも東北は、宗像系の影響があるということでしょうか?
宗像海人は役小角のルーツがあり、賀茂家であると。
この海人族が、山伏となった。
山伏がホラ貝を吹くのは海の人たちだったからで。
大海人皇子(天武天皇)が、吉野へ行っていたのも宗像系海人族がいたからといわれています。
天武天皇が大海というのだから、海の人。

ただ、呉の奴国王は吉野へいき、「海神社」を祀っている。
「和多都美神社」というのもあり、和田氏の系譜。
吉野は鍛治王国であり、大山津見神社も鉱山神とされ葛城山もその範囲にあった。
井光神社が吉野にありますが、井氷鹿(いひか)ともいう。
「イカリ」とよみ、船のイカリの由来となっている。
この井戸は水銀が発見されたことを差しているので、光の井戸という意味がある。

日本の鉱山資源は豊富にあったので、大陸と交易を進めるために吉野は繁栄していたのです。
日本海の佐渡~男鹿半島へ渡ったのも、すでに交易をすすめていた豪族がいたからでしょう。

志賀海神社の祭神が、綿津見命から海部氏の祖といわれる火明命(ほあかり)に
変わっているのは、先代旧事本紀では、二ギハヤヒと同一といわれる為、
そうであるなら、先にいた出雲などの産鉄族から、物部氏たちの鍛治集団の方が
強くなっていったと思う。
物部氏や穂積氏、海部氏など瀬戸内海の海人族が占拠していたから、宗像系海人族は、日本海へ向かった。

ところで、宗像大社は九州の離れた島に祀られていたはず。
ホツマツタエでは、スサノオが天照に仕えていた妃と(妃が13人いた)
一線を超えてしまい子ができてしまった。
その子供は左遷され宗像三女として祀られたという話だったか、と。
スサノオをだました?女性が、モチコ、ハヤコという人なんですが、
またこの人たちも左遷され(宇佐だったかな)、その怨みで正妻であるセオリツヒメを妨害する。
九龍に変身したモチコ、ハヤコは岩に閉じ込められるのですが、その岩が戸隠山だった。
栃木にも九龍の話がありますが、女性の因縁みたいな悪い部分をもっている
醜い女と解釈した方がよいかもしれない。
ホツマツタエでは昼ドラみたいな話になっていて面白いですが…。
ヤマタノオロチはその女性に対する仕返し?みたいな感じで解釈できるとも。
スサノオとしては、女なんてこりごりだ!ってことだ。
でもその女というのは、人間ではなく古来の思想から考えれば、大地震なんだろう。
やはり、龍はレムリアという地底に沈んでいる大地母神に繋がる。

母系社会のあった大地を母とする信仰は、人間が間違った方向へすすむと大地震を起こすような・・・。
警告と考えるのですが、それを鎮めているのが別の祖神を祀る人たちで、
私は龍を嫌う物部氏が大きく関わっていると思います。
ただ、排除するとか封じるということではなく、大地を鎮めることが人々の精神を穏やかにすると
考えられていたと思います。
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安曇磯良(いそら)という名前の人がいる。
顔に貝がついて醜い人といわれた。
それを恥じて海から出てこれなかった。
そんな磯良を住吉神が、海底で舞台を設置し舞を披露して海から誘い出す。
この舞が春日大社に関係しているらしい。

ニニギの日向降臨の話も、新しい産鉄族登場~なんですが、
姉のイワナガヒメも醜いといわれて却下されて、妹のコノハナサクヤヒメ
を選んだというところ、姉は安曇系、妹は宗像系、みたいな?

で、この宗像系が隼人族だった可能性があり、東北へやってきた九州の
人たちは隼人で、エミシは隼人であるともいえる。
隼人族が伝えた円や三角形の幾何学模様の横穴古墳が、宮城県北部まで
伝わっていることを考えると、隼人族でありそのルーツは多氏なんだろうと。
宗像系の海族は、手づかみ猟など原始的な方法で行っていたそうだ。

七ツ森(宮城県黒川郡)の朝比奈伝説も和田氏と関係ありそうです。
ワタツミで安曇系ですが、先に宗像系、後に安曇系ということもありそうです。
これら海人族は、後に安曇氏→後の源氏になり、宗像氏→新羅の平家になる。
けれど、平安時代以降の鎌倉時代末期頃から争いが激しくなる。
どんどん重くなっていく重力が、人の精神にも重みが押しかかるのだ…。
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お盆を過ぎると涼しくなり、真夏の猛暑の感覚も忘れ、だんだんと秋が近づいています。
長野では濃い毎日を過ごしていましたが、安曇氏のことについてこんなに妄想できるとは思いませんでした。
安曇氏とのご縁には感謝したい気持ちと共に、豊かな信州、信濃の空気に触れられて幸せな時間でした。
海を知らない内陸で育った盆地生まれなだけに、海の人たちはあんな荒波を超えて大海を渡り、
大河を小さな船でやってきたのか~、と本当に感心します。



楽しい長野探訪でした。
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縄文の安曇氏

2015-08-21 | 神話・伝説
安曇氏については、ワタツミという海の神を崇めて
いた人としか私はわからないのですが、魅力的な名前だと思う。
それに安曇も出雲も同族だろう、と思う。
安曇氏を継承している人々が逃れて東北に来ていたことは十分あり得ると思うのですが、
このへんはよくわからず。
安曇氏の名前には、アツミ、アスミ、アド、アツジなどの音の表記から姓にし、
安曇氏の血を受け継いだ入植人が多くいるという。

エミシ征伐が活発になりはじめたのが桓武天皇の時代といわれる。
坂上田村麻呂など征夷大将軍を多く輩出し始めるのもこの頃。
東北の金採掘の話しもありますが、もっと深い宗教的な価値観の違いもあるでしょう。

日本書記に、「底津少童わたつみの命みこと・中津少童命・
表津少童命は、是阿曇連等が所いつき祭る神なり
」とあるので、
三柱を祀っていたことも考えられています。
オリオン座の三ツ星のことだと思いますが、これも水神であり、井水のことをさしている。
住吉大社は三つ星を祀るので、関係あるかもしれない。

「あづみ」では「安曇」の他に「熱海」や「安積」もゆかりの地であるという説があるが、定かではない。
しかし「温海(あつみ)」という地名が出羽(山形)にある。
出羽三山開山の蜂子皇子が逃れて上陸した所で、元は佐渡から上陸していた可能性がある。

だとすると、桓武天皇の時代、792年「安曇宿禰継成は、同じ内膳司の高橋朝臣活磨と、
神事のときに先を歩く順番で争い、神事を放棄した罪で佐渡へ流された」(
日本後記)
といった話しがある。
佐渡へ流されたということは、そこに渡来人の金採掘が関係しており、
東北の金ルートを探る上でエミシ征伐を抜きにしては考えられず、
安曇氏もエミシや北方の氏族たちと関わっていたと思う。
特にこの頃エミシの反乱が激しくなり出羽柵が秋田城へ変わり、反乱を防ぐために鎮守府を置く。
秋田から南下して酒田へも柵を置いて段々と越国~出羽国を治める。
越国の征伐は、一番早く(7世紀)柵を置かれた。エミシの住む土地に郡を置き、
柵をおいたのが越国が最初なのだから、安曇氏と関連づけると、安曇氏は元々中国からきている呉の
人たちで、紀元前に越によって滅ぼされているのだから、呉と越の対決もあったかもしれない。

呉は、BC57年福岡県付近にあった奴国の王が、後漢の光武帝から「漢委奴国王」の金印(志賀島から出土)
を授かる。その時、洛陽まで行った使者が呉国の租と伝えられる太伯の後裔と証言した。
志賀島を占拠していたのは安曇氏なので、日本シナ海を渡れたのは安曇氏しかいないと考えられる。


※穂高神社にある海人族の船。

安曇氏は九州にいた。
日本書紀によると、熊襲征伐に向かう途中筑紫において、鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折という名の賊者を討伐したとある。
続いて、青、白という名の土蜘蛛と打?(うちさる)、八田(やた)、
国摩侶(くにまろ)という名の土蜘蛛を討伐したとの記述がある。
このときは抵抗が激しく、志我神(しがのかみ)、直入物部神(なおいりもののべのかみ)
、直入中臣神(なおいりなかとみのかみ)に祈ったとある。
この点に関して『日本古代の軍事航海史(松枝 正根)、かや書房』(上、267頁)は次のように指摘している。
肥前風土記によると、景行天皇が巡幸したとき供者の安曇連百足
(あづみみらじももたり)に命じて、近くの島を視察させたところ、二つの島に大耳、垂耳という土蜘蛛がいた。
そこで安曇連百足は彼らを捕らえた。
彼らは貢物をすること約束したので、天皇は恩情をかけ、赦免したとある。
その嶋は値嘉嶋と呼ばれ、そこに住む白水郎(あま)は牛や馬を多く所有しており、
容貌は隼人ににており、いつも騎射を好み、言葉は俗人と異なっていると記述している。

(資料:安曇氏の系譜と分布より)

秋田へいった阿部比羅夫と伝承が似ている。
熊襲=土蜘蛛=エミシと、同じように異人と考えられ征伐の対象とされていたのだろう。

しかし、安曇氏がエミシ征伐に加担していたとはあまり思えない。
なぜなら、どこからやってきた人かはわかりませんが、
航海技術をもっている海の人で、星を観測しながら中国から日本へ渡ってきた縄文人だから。

縄文人といっても、いろいろ。
ただ狩りの生活だけで山暮らしをしていたわけではない。
縄文人は海をよく知っていた航海技術のある人たちと考えられている。
貝塚が海に近くあることもそうですが、1年で海の暮らしと山の暮らしと分けて生活していた。
夏は海で魚をとり、冬は山で獲物をとり温存する。
環境変化で大型の獲物がとれなくなり、小型化された動物では大家族を養えなくなる。
その変わりに、木の実や植物などの草食に変化する。
そのため、弥生人は稲を育てお米や小麦を作ってきた。
おそらく安曇氏たちも日本へ渡ってから、農業を伝えてきた人たちだと思う。
塩分が不足すると病気になるため、山暮らしをしていた人たちが、だんだんと山を下りて
平地で生活するようになったと思われます。
塩分を採るために、魚や貝を食べるようになり、その暮らしは海人族から学び、
海人族は他の民族と混じり合いながら、共に生活をしてきたと考えられます。



枯野という船---------------------------------------------

船について興味深い話しがある。
日本書記に、海人が伊豆国で長さ約30mほどの船を造り、
その大きな船が海に軽く浮かび進みゆく姿を「枯野(からの)」とよんだ。

応神天皇が伊豆国(静岡)では船を造るのによい木がたくさんあることを知り、
国守に船を献上するように命じる。
しかし、時間がたつと船体も朽ちてしまうので、応神天皇は
「この船は長らく役に立ってくれた。そのことはとうてい忘れられるものではない。
船の名前を絶やすことなく後の世に伝えるいい考えはないだろうか」
そこで家臣は、船を薪に切って塩を焼かせたが、燃えていない材木がたくさん残った。
それを不思議に思った家臣は、天皇に献上したところ、
驚き怪しんで琴を作らせることにしました。
枯野の船から作った琴が奏でる音は、とても澄んでいて大変遠くまで響きわたりました。

応神天皇の歌
「塩焼きの材木にした枯野の船を、次は琴にしてみたが、淡路島の由良の石に
触れているナズの木が潮に打たれているかのような音で鳴っていることよ」


焼けなかった材木は、鉄のような素材だったかわかりませんが、
青銅器ということもあるかもしれない。
琴で音を鳴らすところ、船だから汽笛のようでもある。
鐘を鳴らしたかなにか。そんな想像をしてしまう話しがあるのですが、
この枯野という言葉が「軽野(かるの)」から転じたものだとされる。

※樹木の伝説 新紀元社から参照
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この話は古事記にも同じように記されており、巨木の神の依り代として
信仰の対象となっている。
前回の木を伐採したら血が流れて石で止め、それを航海の印とした話しは、
ここから由来していると思います。

しかし、この枯野や軽野は当て字であり、本来は「カラノ」や「カノ」
と多彩な読み方をされていたと解釈される。
カノがカヌーの語源になったという事も考えられ、
日本語がポリネシア圏の語源であるという説は多く言われており、
カリブ諸島で言われる「櫂(かい)で船をこぐ」意味の「カノア」とも考えられるそうです。

南太平洋上に位置するバヌアツ共和国、エファテー島の遺跡から日本の縄文土器とよく似た破片が見つかっており、
縄文人が日本から海を越えて南洋の島へ辿りつき、独自の言語文化をもっていたことがわかっています。
ネイティブアメリカンもそうですが、縄文人は日本を離れて世界中に散らばった。
その子孫が、再び日本へ戻ってきて豪族として活躍する。
そのような人たちは、何か理由があって日本を離れたのかもしれない。
再び縄文人が戻ってきた理由は、再び日本を取り戻そうとした何かがあったと妄想してしまう。

古代、カリブ海から日本への航海は、実現されていたといわれます。
実際に検証もされている。

巨大な船というと徐福が有名ですが、渡来してきたユダヤ人だけではなく、
南国からきた民族も大きな船で日本へやってきていたのです。
その枯野の船が、安曇氏に関係しているのだから私は安曇氏は海の縄文人であると思う。

応神天皇は、三人の皇子にそれぞれの職の分担を定め、
皇子大山守命を山海を担当する総宰にしている。そして阿曇連および凡海連を副総宰とし、
吉備、紀伊、但馬、播磨、阿波等の諸国にそれぞれ海直(うみのあたい)を置いた」

と、軍事航海史に記述されている。

また、三韓征伐で磯鹿海人(しかあま)という人を水先案内人としている。
壱岐を経由し和珥津(わにつ)を出港して新羅へ向かっている。

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穂高神社

さて、安曇氏の祖神が綿津見であることは確かなこと。
綿(ワタ)は海の意味がある。
前に、鹿狼山の話を書いた。
福島県と宮城県堺にある里山。
この話から、安曇氏一族がやってきていたのではないか、と思った。
ほとんど忘れているので、もう一度復習…。汗。

千葉県鹿野山(カノ)は、悪路王退治の話がある。
鹿野は、枯野のカノ=カヌーを象徴しているのだとしたら興味深いのですが、
鹿狼山のカロウは、カノウが転じたと思います。
漢字は当て字。
鹿狼山がある付近は、福島県の霊山に住んでいた豪族を虎捕山へ追いつめ、
白狼の導きにより退治できた伝承があり、
そこには、狼を祀る大山津見神社が鎮座し、やはり奇岩や巨石が多い。

またこの地域を「伊具郡」とよんでおり、これもイグはイク→イキ(壱岐)
に関係していると思う。

応神天皇の「大山守命を山海を担当する総宰にしている」ところは、
大山守命とは、大山津見神を祖神とする一族のことだろう。
大綿津見神を祖神とする安曇氏とは兄弟関係にある。
ある説だと、大山津見神は、瀬戸内海に本拠地をおき、伊予の三島神で、物部氏や越智氏の神と言われる。
海部氏という海族もいる。物部氏と関連するならば、海部氏と物部氏がからんでいると思う。

海部氏の始祖は彦火明命であり、瀬戸内海航のあった国津神といわれる。
安曇氏の綿津見神から、彦火明命を祀る神と変わっているところがあるのは、
どちらも同じ神を見ているのだから、祖神が変わることはそんなに重要なことではなかったかもしれない。

例えば、越と呉は中国では敵対していたけれど、後に和合を結んだとか。
日本は龍の国といわれ、神聖な島であったことは世界的に有名だった。
各々の民族が日本に再び戻ったのは、神という存在が警鐘を鳴らしたからだろう。
世界平和のために、日本を結束の地とした。その継承(文明)を受け継ぐために、
戻ってきた民族が縄文人だと思う。

カイノの言葉も、カイナというのがアイヌ語にもある。
「カイ」この国に生まれし者、「ナ」は貴人を指す旦那という意味で尊敬の言葉だという。
人間をさすことばをアイヌというよに、カイナも船にのってやってきた人たちを
そう呼んだのかもしれない。もちろん、征伐でやってきたのではない。
縄文人たちは、神に名前をつけないのだから、神の名もあまり重要ではないと思う。

私が想像するのは、日本は争いをする場所ではない神の領域だから、この島へ来たら、
敵対してた者同士も和を結び、異なる民族同士の融合を考え、平和に生きる島であることを誓った場所なんだと思う。
しかし、日本では争いを起こしてはならない約束の地であったのに、アメリカに原爆を落とされた。

氏族の歴史を覗いてみると、結局は、一族同士が婚姻をしたり、
同族となって祖神を変えたりしている。
古代は、平和な解釈をもって世界をみていた人たちが集まっていたと思います。
安曇氏や多氏、大伴氏などの豪族も、あまり姿を残さない。
ただ、エミシだけはなぜか反発したようだが。
渡来した神を置くことを許さなかった。その理由はよくわからない。
神聖な場所を汚されてということかもしれないが…。

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はるか昔、まだ地球が平和で一つの言語で話していた時代があった。
緑も豊かで花々が咲き乱れるような楽園。青い海を渡り航海をしながら縄文人は新たな天地を探し暮らしていた。
しかし、ある時人類の危機が訪れる。
大地は炎にまかれ、黒い雲がさえぎる天には、怒りの矛先が地上を歩く人々に向けられる。
雷は容赦なく地に降り注ぎ、花びらを散らしながら逃げ惑う人々に、大地は渦を巻いて葉を散らす。

縄文人は、再び日本へ戻ることを約束された。龍の住む島を鎮めよと。
最後の砦として、地球上に住む人類を日本列島に集めた。
地球を生かすも殺すも人間次第。
さあ、これからは天も手は貸さないという。
宙(そら)から見ていると。

話が変わりますが、このような想像は、子供のころからみていた夢に度々現れていた。
私は前世から、中国で歴史を編纂する仕事をしていたらしい。
マスターもいる。クツミというヒマラヤの仙人なんだとか。
姿もみたことがある。森の中に立派な杖をもった白髭じいさんが出てきた。(ヒーリング中)
よく古い言葉がでてくるのはクツミの導きで歩かされているからだろう。
チベットで過去世、友人と会っている。友人はチベットで僧侶だった。
その時も宗教に葛藤していて、友人に相談している。
それが今、仙台でヒーラをしている友人で、また今世でも相談にのってもらっていたわけだ。笑。
ちなみに、友人の産土神が大国主。大国主はヒーラ。私の産土神はサルタヒコなので、案内する役目をもっている。
なので、実家の家系は、外国と日本を案内する役目の仕事をする家系なんです。

みんな、祖神から受け継いでいる遺伝をもっているから面白い。

人生の集大成となる今世は、やり残してきたことを行う時期なんだと。
私にとって古代史や先祖のルーツを探るのは、自分の人生の集大成にきているからで、
だから日本人として生まれた。なぜなら、日本人の宗教観は自由で束縛がない自然霊が根底にあるので、
原点に戻れる。
そこにエミシがどうやって関わるのかが鍵となっている?だから追いかける。いまだにエミシは謎。

創造は、現実に起こる。
出羽三山の思想がいうように、過去があって今がある。
未来は予測するものではない。これからの予定でもない。
未来=過去であり、過去が現在の時間を作っていることを知らねばならない。

氏族同士の争いを強調してはならず、敵も味方も同じ人であることを伝える解釈をせよ、と。

しかし、律令制ができてから、歴史書を記すことになった。
その国の履歴書ともいうべきで、国のこれからを書かねばならなくなった。
そうしないと植民地にされ、日本が奪われてしまうから。なので、強いことを書かなければ日本を守れないと思い、この島を侵略した強者がいる、と。霊的なモノで守られているのだから、他の国とは違うことを記した。
多分、物部氏も歴史編纂に関わっていたかもしれない。
そういうことばかりを植え付けてきたから、結果、第二次世界大戦が起こり日本も多くの島を侵略してきた。
その神話や伝説は未来書でもある。これから起こることもある。
多くの史書が物語るように、日本ほどこんなに数多くの民族が関わる歴史は他にない。
だからこそ、平和な解釈をしないといけないと思います。

なので、歴史をいかに平和な解釈へと導くか、にある。
戦争があったことを肯定してはならない。その創造が先の戦争を勃発させるのだから。
世の中のすさんだ世界から、全く関係のない世界に住んでいる人は平和である。
うらやましいと思うわけよー、だからなんでこうなるのか、という気持ちがある。
でも、いつも最終的には、自分が自分で約束したことだから仕方ないよ。という結論。
厳しいのだ。

それで何を言いたいのかは、
安曇氏は侵略してきた渡来人ではなく縄文人で、間に挟まれて葛藤してきた民族である。
平和とはなんだ!と、氏族もいっぱい葛藤してきた。


※下諏訪大社に祀られている鹿島神(タケミカズチ命)。
諏訪にとっては敵ともいえるが、境内に祀られている。
互いによき人生であったといえるよう、私たちが祈ってあげなければならない。

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話が尽きないところですが、やっぱ諏訪のスワは、紫波(シワ)なんじゃないか?と。
海には塩がつきもの。
シワヒコさんの塩釜神社。
アテルイのモレが諏訪のモレヤだったり?
はて?このへんは、もちろん妄想の世界に突っ走ることにした。
次は、個性的で面白かった穂高神社について。ここにも面白い伝説の人がいました。
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諏訪大社の御柱

2015-08-20 | 神話・伝説
安曇野から諏訪の道は、中山道の街道を通るのですが、
こんな伝説がありました。



「綿の湯」伝説
諏訪大社は、上社の本宮・前宮、下社の秋宮・春宮の総称です。
その昔、上社の他にお住まいの諏訪明神、建御名方神(タケミナカタ)のお妃
八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)が、日頃お使いになっておられたお化粧用の湯を
綿に湿し「湯玉」にして下社の地へお持ちになりました。
その湯玉を置かれた所から湧いたのが、この温泉で綿の湯と名付けられました。



神の湯ですから神聖で、やましい者が入ると神の怒りに触れて、湯口が濁った
といい、「湯口の清濁」は、下社の七不思議の一つに数えられています。



下諏訪宿は中山道と甲州道中が交わるところ、全国一万余の諏訪神社
総本社の門前町で、湯の湧く宿場として親しまれ街道一賑わいました。
下諏訪宿の中心が綿の湯界隈です。



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初めて諏訪大社を参拝できました。
諏訪大社には4社に置かれていることは知らなかったのですが、
4つに置くという話し、どこかで聞いたな~と。
宮城県黒川郡鹿島天足神社の時に、確か、物部氏は4つの方角に社を置くという話しがあったと思う。



坂上田村麻呂伝承や龍信仰には、もののふ集団がいる。
要するに、坂上田村麻呂征伐の話は、物部一族の話しであり、
上諏訪大社のご神体といわれる守屋山ですが、これも物部氏に関係するのでしょう。
実際行ってみると、守屋山はあまり重要ではない気がしました。


(この山は何山?守屋山なのかわからん。)

諏訪湖の周りにぎっしりと家々がひしめきあう中に、
ちらりとグリーンの湖がみえましたが、車中だった為、ゆっくり見られず。
昔は、建物がなかっただろうから、下社から湖がよくみえたでしょう。
諏訪湖には龍が住んでいたのかどうか、湖を囲むように神々が鎮座されている感じ。
諏訪大社が自然崇拝であることは、いろいろな自然現象から見られる。



「御神渡り」というのがあり、上社の男神:タケミナカタが女神の下社ヤサカトメのもとへ通った道筋とわれています。
真冬、諏訪湖が全面氷結しさらに冷え込みが続いた夜、大音響と共に湖面の氷に
亀裂が走り山脈のようにせりあがります。
湖の岸から岸まで数Kmにできる「氷の道」を諏訪の人たちは、神様が通った道と信じ「御神渡り」と呼びました。


また、諏訪湖は日本のほぼ中心にあたる。
まさしく本州のヘソ。



ところで、御神渡りの男神が下社の女神のもとへ通うという話は、通婚のような話で、七夕伝説のような話にも似ている。
しかし、なぜ、女神は下社に祀られるのか?(ご祭神が不明だが)
なんとなく、ここも男神、女神と端に分けて祀られた感じがする。
「綿の湯」伝説では、上社にヤサカトメがいたとある。
化粧用の湯玉を下社へ持っていったというのならば、国譲りの条件に
ヤサカトメが嫁にいった感じすら思うのだが・・・。
しかし、前宮はヤサカトメのお墓とも聞く。


(さざれ石)

さて、私は上諏訪大社の方が落ち着いていて気持ちがよいと感じました。
たぶん、このあたりも地震が多かったと思う。


(風がよく通る廊下、密かに六芒星)
その地震を起している要因か、湖ができたことにも関係し?
龍神を祀ったのかもしれない。最初は。
それが、後になってモリヤ一族がやってきて、なぜかモーセの守屋となり、
今ではイエスやモーセといったイスラエル人の山の象徴となっている。
旧約聖書に「モレヤの地」とあるから、モリヤになっているらしいが、このへん、ちょっとよくわからない。
私も守屋山はそうなんだ~と思ったけれど、実際行ってみると、なんか違和感が…。



たぶん、物部「守屋」がそう言っているだけなんだろう。
そう考えると、蘇我「蝦夷」は、蝦夷を接待した話しがあって、名前を蝦夷
にしている。相手を尊重するまではいかないけれど、礼を尽くし親しみをこめて
蝦夷という集団をもてなしていたといわれ、毛人(えみし)の名を私称で呼ばせるようにしたという。
本来名前は別にもうひとつあるが、特別な理由で毛人なる人を蝦夷という別称で字名とした。

ということは、物部氏もモリヤの子孫にあたることを字名にするために、
守屋と呼ばせていたのだろう。
が、諏訪大社の守屋山は、「守矢」の方が正しく守矢一族がいたと。
やっぱり守屋山の諏訪大社には、別の氏族がいたわけだ。
でもなぜ、物部氏が守矢の矢でなく「屋」にしたのかは不明だが、
詳しい人に聞くと、守屋の名前にしたのは、守矢一族からとったものではないか?
とのこと。妄想は膨らむ。。。


(タケミカズチ(鹿島)とタケミナカタの対決は相撲という話もある。相撲の発祥はこの伝承から?それが国技になった)

神話で語られているタケミナカタ伝承は、有名なのでここでは割愛します。

全国の諏訪大社の総本社であるので、スケールが大きい。
国内最古といわれる神社ですが、古事記に起源が記されており、
持統天皇が勅使を派遣したと記されています。


(勅願殿:天皇祈祷の意味がある。守屋山に向かって建てられている)

古くは風、水の守護神で五穀豊穣を祈る神、武勇の神として広く信仰されている。


(春宮)

天流水舎:どんな晴天な日でも雫が三滴屋根上の穴から落ちるという。旱魃のときは、この水を青竹に頂いて持ち帰り、
雨乞いをすると必ず雨が降るという。(写真下)


それより私は諏訪大社の御柱の風習の方がずっと重要だと感じた。
秩父神社にも御柱がある。
なぜ日本にはその祭りが今でも行われているのか?それは、祇園祭りよりも古いと思う。
日本だけではなく、トーテムポールに近い木を結界として建てている民族は
世界にいくつかありますが、木などの自然木の神降ろしについては、
先住民族の風習がある。


(下社の御柱)

簡単にいってしまえば、御柱は自然霊や宇宙からのエネルギーを木へ降ろすようなやり方
で、ストーンサークルにも通じるもの。私は七生舞を想像してしまう…。
石も木も人間もエネルギー交換ができる。
例えば、諏訪大社(下)の近くにある万治の石仏伝説も、
石や木も人間と同じく呼吸をして生きているのだから、傷つけてはいけません。という話し。
このような話があるのは、古くからいた先住民たちの教えであり、ユダヤの教えとは異なる。
日本人の自然崇拝は、やはり独特なものがある。



「諏訪大社春宮に石の大鳥居を造る時、この石を材料にしようとノミを
入れたところ傷口から血が流れ出したので、石工達は恐れをなし仕事をやめた。
(ノミの後は現在でも残っている)その夜、石工の夢枕に上原山(茅野市)に
良い石材があると告げられ果たしてそこに良材を見つける事ができ鳥居は
完成したというのである。
石工達は、この石に阿弥陀如来をまつって記念とした。
尚、この地籍はこの石仏にちなんで古くから下諏訪町字石仏となっている。(写真下)



また、胸にいくつかの文様が彫られている。
向かって右から太陽、雷、雲、磐座(いわくら)、月などで、これは
大宇宙のすべてを現し、右端には逆マンジが刻まれている。
これは大日如来を教主とする密教の曼荼羅で、阿弥陀如来と大日如来を一体の
石仏に共存させた「同体異仏」を信仰する密教集団の祖である。

・・・・後は省略。


(この川の向こうに石仏がある)

石仏は岡本太郎が絶賛していた石仏で、ああこれか~!と、
思わず駆けだしてHUGしたくなるほど愛らしい仏様だっ!
-------------------------------------------------------
さて、この石から血が流れた話しと同じように木から血が流れる話しも多い。
中でも茨城県の鹿島神(タケミカズチ)と、千葉の香取神(フツヌシ)
が時化(しけ)にあって、流れついた話しが興味深い。
船が壊れたので、2神は杉の木を帆柱にしようと考え、大きな杉を切り倒したら、
血が流れて止まらなくなった。
焦った2神は、巨石を持ってきてスギの傷を塞ぐとそのまま立ち去りました。
この杉は成長し、沖を航行する船の格好の目印となりました。
その杉は宮城県気仙沼市の羽田神社の神木となっています。


石と木は一心同体だが、トーテムポールのような役目もあったと思う。



ということで、諏訪大社の御柱もすごい。
しかもお祭りになっているのだから、もっとすごい。



柱を山から里へ曳きだす「山出し」が4月に、境内までの道中を曳き、
御柱を各社殿の四隅に建てる「里曳き」が5月にそれぞれ4社で行われます。
次回は平成28年、来年です!



御柱について、「樹木の伝説:新紀元社」より参照します。

巨木信仰の形態を残すものとしては、青森県の三内丸山遺跡にある掘立柱の
遺構であり、最古といわれる。
直系は2メートルで実際に木も相当の高さであったと推測される。
竪穴式住居とは別に作られていたので、トーテムポールのような一種だといわれています。

国生みの神話にも「天の御柱」と呼ばれる大きな柱があります。
神様の数え方を「はしら」というのは、この神話から由来しています。
伊勢神宮の内宮の地下には「心の御柱」とよばれる巨木が埋められており、
ご神体である天照大神の象徴となっており、京都八坂神社にも心の御柱
があり、スサノオがご神体です。

出雲大社にも神殿の高さが48メートルほどの神殿がありました。
近年の発掘調査では、3本の巨木を束ねた柱の根元が発見され、
ここでも「心の御柱」が存在していたことを示しています。

諏訪大社で寅と申の年に行われる御柱祭は、心の御柱となる巨木を
山から伐り出し、境内地である上社の本宮と前宮、下社の春宮と秋宮に運ぶ神事です。
御柱となるモミの木は、上社は八ヶ岳山麓にある社有林の御小山、
下社は下諏訪町の東俣国有林から伐採したものです。
伊勢神宮の遷宮と同じように祭りの際には鳥居など含め、すべての社殿が
建て替えられていました。
しかし、江戸時代以降は4本の御柱と東西の御宝殿が交互に建て替えられるだけになりました。
現在は6月15日に遷座祭りが行われています。



(悲しみの大国主:出雲大社も諏訪大社も国譲りの話になっている)
国譲りの勝負に敗れた諏訪明神のタケミナカタは、「この諏訪の地から出ない
ので許してほしい」とタケミカヅチに頼んだといわれ、神を外へ出さない
ための結界になったという説もある。

---------------------------------------------------------
最後のタケミナカタの結界説は、後で作られた話しだと思います。
実際は、穏やかに受け入れられていたと思います。守屋ではない守矢一族に。
しかし、震災の時と同じ大国主の悲しみがこみあげる。なぜだろう、まだまだ知らないことがあるのかもしれない。

ですが、どの世界にも自然崇拝はあり、同じ言葉を話していたことがあったのだから、
結局は、みんな同じルーツなんだとわかる。
同じ道を一緒に歩いてきて、途中でわかれ、再び出会うのだから、
いろんな氏族が絡んでいて良いと思う。


(山からの神聖な空気)

いろいろ巡ると長野(信濃)は南の縄文を感じる。
秩父にも諏訪大社がとても多く、諏訪と秩父は深い関係がある。
長野は黒曜石が採れ、縄文時代から大きな交易ネットワークがあり、甲信越や関東は
多くのムラ同士の集合体であった。
秩父の小鹿野にも黒曜石ルートがあるが、主に祭祀として使われていたことがわかっている。
長野も秩父も海とは程遠い環境にある。
しかし、海人族の故郷でもあったから海の記憶は残っている。
九州~信濃~関東~東北へ。
その風土を色濃く残す南の縄文人とは、おそらく南国ポリネシアの船が想像されるだろう。
穂高神社の安曇野氏(安曇氏)が海人族とよばれ、「枯野」という船をもっていた。

北とはちょっと違う、南の縄文を想像してみたくなる。
穂高神社は安曇野にありますが、諏訪大社の前に寄ってみました。
そこは塩の道でもあり、道祖神の宝庫であった。
宮城の塩釜神社にも通じていた穂高。そこから、カヌーに乗ってやってきた人々が、
いつの間にか、悪路王とよばれ坂上田村麻呂に征伐される話になっていく…

次回は穂高神社から安曇氏について妄想。エミシの仲間になったかもしれない。
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安曇野の魏石鬼八面大王

2015-08-17 | 神話・伝説
安曇野に近づくと山の峰と田んぼの緑が目に映えて、
穏やかに流れる川が一層豊かさを倍増している。


宿泊した「ごほーでん」の近くに大王わさび農場がある。
連日観光客がたくさん訪れる所だ。


(古民家民宿:ごほーでん)

わさび作りはきれいな水がないとできないとよく聞いていたが、
まるで、イギリスのコッツウォルズのように妖精が現れそうな美しい川。
流れがとても静かなんだよね。



黒沢明監督の夢の撮影場所になった水車が見られる。



※一般河川の水(万水川)と湧水100%の蓼川の水質が全く異なる二つの川が
中の島をはさんでいかにも一つの川のように流れています。
蓼川は何十か所かの小、中わさび畑を巡りに巡った後に安曇野のもっとも低い
この地に集まり、犀川、千曲川、信濃川となり日本海へ流れこみます。
蓼川を流れる湧水の量は1日70万トンともいわれ、水温などの違いから双方の水は
しばらくの間、混じろうともせず並行して流れます。(看板より)



---------------------------------------------------------
なぜ、大王というのか?
入口に、こんな鬼たちが迎えてくれた。



「勇気と優しさを秘めた安曇野の雄:魏石鬼八面大王」

その昔、全国統一を目指した大和朝廷が、信濃国を足がかりに東北侵略を進めていました。
この地の住民たちは、朝廷軍に沢山の貢物や無理難題を押し付けられて大変苦しんでいました。
安曇野の里に住んでいた魏石鬼八面大王は、そんな住民を見るに身かねてたちあがり、
坂上田村麻呂の率いる軍と戦い続けました。
大勢を相手に引けをとることなく戦った大王でしたが、山鳥の尾羽で作った矢にあたり、
とうとう倒れてしまいました。

大王があまりにも強かったため、息を吹き返すことを恐れた朝廷軍は、
大王の体をいくつかの場所に分けて埋めました。
胴体が埋められたという塚が農場の中にあったことから、
この地は大王農場を名付けられ、その塚は後に大王神社として祀られています。
魏石鬼八面大王は、大王農場の守護神であり安曇野を守ってくれた勇士でもあります。
大王の強靭でありながら、人を愛するあたたかな心はここを訪れた人々に
きっと伝わっていくことでしょう。
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えぇ~、もう十分伝わっております。
ここまで新潟から長野へ入り、戸隠から安曇野の道へ。越国はエミシ征伐の対象に
なっていたことはわかっていましたが、ナグサトベのようなアマゾネス的な人との
繋がりの先に、水が豊かであった長野がよ~くみえてきた。

安曇野氏や安曇氏という海の人達が関係しているのだけど、長野は山が雄大。
日本海から川を下って長野へやってきた海人族も、雄大な景色に感激したことと思う。
が、ガスってよく山がみえないのだけど・・・。



さて、そんな大王はハイヌベレ信仰のように、三か所に体を分けて埋められている。
「体を分解して分けて埋める」思想は、土偶と同じ。
縄文土偶は敢えて壊すために作られ、土に埋められている。
頭、胴体、下半身と大体わけられる。
縄文時代から続く生死の思想は、保食神(ウケモチ)という大自然を産んだ大地母神の恩恵を受け、
私たちは生を授かれ、地球で生きることを誓った。
しかし、その鬼(母神)を排除されたということは、男性社会に変わり、世の中が物資文明に陥り、
真実を知ることなく、ただ間違った道を歩かされることになってしまった。

スサノオは、保食神の女神の身体を壊し食物を作りだした。
保食神の身体を分けたのは醜さにあると言うが、
人間が寿命をもち老いていく身体と苦しみながら死にいく姿から、土偶が生まれた。
人間の代わりに土偶が痛みを受けもつ。から、受けもち=保食神になる。
その土偶の多くは妊婦である。産みの苦しみを土偶に委ねる気持ちとは、
多くの若い母が苦しみながら亡くなっていたことにあるのだろう。



※「太陽石の由来」
大王農場の先駆者である初代深澤氏(1886~1941年)は、
逢命のすべてを魏石鬼八面大王に委ねたが、これを継いだ二代目が
大王農場の精神の拠り所「農場の心」をまさに太陽に求めた。
二代目によって晩年に「八面大王の見張り台」と称する石積みの頂上に、
球状の御影石を削り置いたとの事。



また、スサノオは、木を植林することに長けており、越国へ上陸した話しもある。
イソタケル(紀伊国)など、紀州にある熊野信仰はスサノオであり、水神を祀る
セオリツヒメにも繋がる。
古代の水神、女神信仰のあるところに、鬼や龍退治といわれる伝説は多い。

特に長野は水だけではなく、樹木などの自然崇拝が特に強く残っている場所だと感じた。
東北とはまた別の感覚。


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ところで、この大王を祀るところに大きな草鞋があった。
「大王神社の大わらじ由来」
大わらじ奉納には2つの説があり、
1200年頃安曇平を治める王がいて、身長2mを超す大男の強者でしたが、
東北征伐途上の坂上田村麻呂と戦いに敗れました。
八面大王の胴体がこの辺りに埋められたことから、初代がここに大王神社と
して祭り、巨大を象徴するかのように以来、大わらじが奉納されています。
有明神社奥の山中には、この大わらじ程の大きさの「八面大王の足跡」
が巨石の上に残されています。



もうひとつの説は、足、膝の痛みを除くご利益があり、
冬の寒い時期に水につかった足が真っ赤にはれあがったことから、
農夫たちが大わらじを奉納するようになったという説。




魏石鬼八面大王の伝説は、地元では有名らしい。「魏石鬼(義死鬼)」の別称であり、
出典となった『信府統記』に読み仮名がないため、正式な読み方は不明との事。
やめのおおきみ(八女大王)と読んで、福岡の八女との繋がりも考えられている。
坂上田村麻呂に討伐されたという『信府統記』の記述に基づく伝説が、
広く松本盆地一帯に残っている。
田村守宮を大将とする仁科の軍による、「八面鬼士大王」を首領とする盗賊団の征伐を元に
産まれた伝説であると考えられる。
(Wikipedia)
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大わらじについては三重県に黒潮に乗せて大王の大わらじを流す祭りがある。
大きなわらじの奉納は各地にあり、福島県の信夫山にもある。
やはり、ダイダラボッチの巨人説が由来で、三重県の神事は、大王崎という島に
10mも身長のあった大男がいた話しになっている。
このダイダラボッチは熊野にいたが、悪さをするようになったので八大竜王に追われて
島へ流されたという話しになっている。

出雲から紀の国に移り住んだといわれるので、出雲族は巨人であった。
この伝承で興味深いのは、水神様の姿は蛇であり人の形になると、
阿遅志貴高根比古(アジスキタカネヒコ)=賀茂大神・九鬼氏神様になるという。
九龍や鬼というところ、戸隠山にも通じる。九龍は、ナグサトベのいた紀伊国~北関東へ伝わっているところから、
大国主のいた出雲は、龍信仰で巫女も従えていたことになるでしょう。

また、ナグサトベのいた紀三井寺は、八大龍王の守護神であり、元は名草山に息ついていた竜蛇信仰
(名草山の湧き水)が、三井寺を建立した僧侶により八大龍王に例えられたという。

塩釜神社の紫波彦や弥彦神社など、ヒコやヒメは、卑弥呼のように神意の占いを姉が行い、
弟は政治を司る古代政治のあり方があったそうです。
イヨやトメなどの名前も、ヒメ、ヒコ制の政治があったことを差している。

しかし、渡来人も同じような風習があり、龍信仰は世界にある。
三重での大わらじ祭りの伝承は、シルクロードを渡って伝わったといわれているので、
渡来してきた人たち皆が、男性社会であったわけではない。


(夏の間は黒いシートに覆われる。)
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東北では「まつろわぬ民」といわれ、迫害された歴史が刻まれている。
その多くは、ダイダラボッチという巨人であり母系社会のあった女神信仰だ。

日本に母系社会の系譜が残されていないのは、渡来してきた人たちが父系社会にあり、
朝廷に提出する系譜を記すには、男系の系図を記すしかなかったという。
なので、ナグサトベの系図が残されていないのは、母系社会にあったからと。

意外にも日本は平安時代でも、夜這いがあるように、
婿養子のように嫁の家に嫁ぐことが一般的だった。

その母系社会は、古くは縄文時代にまで遡る。
長野県にも縄文ビーナスが見つかっている。
山形県でも今、山形博物館で縄文ビーナス展をやっている。
国宝や文化財の土偶も展示されていて貴重な土偶が見られますが、
縄文晩期になるとおそらく入墨を示した土偶だと思うのですが、デザインが豊になっていく。
土偶のお腹の部分(おそらく子宮)は、渦巻きや丸い円を描くことが多い。
チャクラという7つの気も知っていたかのように、印がついている。
体内の気の流れを描いているような模様もある。



これらの土偶は、女性たちが作ってきたのではないか?と思う。
男性は狩りをするために家を空けることが多かったし、祈祷や祈りは主に女性が司る。

縄文人は人間の水(血液)と地球の水脈は繋がっていることを知っていた。
私たちは、その水に対して何も考えていない。
当たり前のように思っている。



わさび農園のわさびはとっても美味しかった。
辛いと思ったのですが、甘くてそんなに辛くない。
本当のわさびって、甘味があるのだな~。
水の甘味が含まれているような、そんなまろやかなワサビこそ、日本の味だと思った。

さて、そろそろ終盤、やっといけた諏訪大社。
4社もあるそうだが、疲れて3社のみ回った。
諏訪大社で会った大国主神は、やっぱり震災の時と同じように悲しくなる。
まだまだ知らないことが、たくさんあるのかもしれない。


(宿泊したところにもあった天井の御柱)

諏訪大社といったら、御柱。
次は御柱について妄想。
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鬼無里に伝わる伝説

2015-08-16 | 神話・伝説
937年(承平7年)のこと、会津には子供に恵まれなかった夫婦、
伴笹丸(とものささまる)と菊世(きくよ)がいた。
2人が第六天の魔王に祈った甲斐があり、女児を得、呉葉(くれは)と名付けた。
才色兼備の呉葉は豪農の息子に強引に結婚を迫られた。
呉葉は秘術によって自分そっくりの美女を生み出し、これを身代わりに結婚させた。

偽呉葉と豪農の息子はしばらくは睦まじく暮らしたが、ある日偽呉葉は糸の雲に乗って消え、
その時すでに呉葉の家族も逃亡していた。
呉葉と両親は京に上った。ここでは呉葉は紅葉と名乗り、初め琴を教えていたが、
源経基の御台所の目にとまり、腰元となりやがて局となった。
紅葉は経基の子供を妊娠するが、その頃御台所が懸かっていた病の原因が紅葉の呪いである
と比叡山の高僧に看破され、結局経基は紅葉を信州戸隠に追放することにした。



956年(天暦10年)秋、まさに紅葉の時期に、紅葉は水無瀬(みなせ・鬼無里の古名)に辿り着いた。
経基の子を宿し京の文物に通じ、しかも美人である紅葉は村人達に尊ばれはしたものの、
やはり恋しいのは都の暮らしである。
経基に因んで息子に経若丸(つねわかまる)と名付け、また村人も村の各所に京にゆかりの地名
を付けた。これらの地名は現在でも鬼無里の地に残っている。
だが、我が身を思うと京での栄華は遥かに遠い。
このため次第に紅葉の心は荒み、京に上るための軍資金を集めようと、
一党を率いて戸隠山(荒倉山)に籠り、夜な夜な他の村を荒しに出るようになる。
この噂は戸隠の鬼女として京にまで伝わった。
ここに平維茂が鬼女討伐を任ぜられ、笹平(ささだいら)に陣を構え出撃したものの、
紅葉の妖術に阻まれさんざんな目にあう。
かくなる上は神仏に縋る他なしと、観音に参ること17日、ついに夢枕に現れた白髪の老僧から降魔の剣を授かる。

今度こそ鬼女を伐つべしと意気上がる維茂軍の前に、流石の紅葉も敗れ、
維茂が振る神剣の一撃に首を跳ねられることとなった。呉葉=紅葉33歳の晩秋であった。



※鬼無里は通過しただけなので、写真があまりとれず。戸隠~安曇野へ行く峠の風景です。
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元は水無瀬(みなせ)と呼んでいたそうですが、
「党を率いて戸隠山にこもり・・・」というところ、アマゾネスみたいだ。
観音→飯綱山の「イヒ」や「イヒトヨ」という母系社会を連想させる。
北関東にいた土蜘蛛は、ナグサトベという紀伊からやってきた女性の首長であるといわれるので、
越国や北関東には、母系社会が広がっていたと考えられます。

しかし、もうひとつの顔として地元では良い人だったとの伝承がある。
医療、手芸、文芸に秀でる高貴な女性で村に貢献したという。
あこや姫伝承や小手姫伝承など、京の都から陸奥国へ渡った女性の伝承は多い。
中でも坂上田村麻呂の方針といわれる機織技術を伝えるために、
派遣されていた女性がいたこと。紅葉がその対象だったか不明ですが。
身内もなく孤独な左遷だといわれ、多くが独身女性であったらしい。

658年、天武天皇の命令で三野王(美濃王)は鬼無里を候補地に、東京(ひがしきょう)
に賀茂神社、西京に春日神社、鬼門に白髯神社を建てたという。

※ナグサトベについては、「名草巨石群」を参照してください。
http://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/22f14c5f33fe6285ae578d7023100095

「33歳の終わり」も観音霊場が33か所と決まっているので、何か意図がありそうです。
仏法をもって終わりにした感じなので、縄文時代から続く原始的な宗教をもたらした
人々がいたと思ってしまう伝承が、鬼里無神社に伝わる。
これが諏訪湖にも関係しているような・・・。

鬼無里神社について、「湖底が地上に現れて魚山が出現し、
その頭部立山に神竜の精を祀って諏訪明神を招請したものという。
8世紀末坂上田村麻呂が蝦夷平定のため、10世紀に平維茂が紅葉退治のため
祈願所としたと伝えられる。」


龍の気で考えると、「キナサ」という言葉が、龍のエネルギーを意味する言葉かもしれない。
例えば、カタカムナであれば、「ナ」は核となるもので、「キ」は木でもあり、
エネルギーのことを伝えている。
「サ」は笹の形のように斜め下に流れるといった意図があるそうですが、
「エネルギーが流れ出る核となる場所」と、重要な場所だったと感じます。

湖は今はありませんが、過去に大きな湖があったわけです。



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さて、「ナグサトベ:なかひらまい著」によると、
紀伊の川には大国主神社を多く祀る。
船戸の地名や出雲族の由来。インドからきていること。
九州~紀国~関東に移り住んだこと。
名草山のふもとにも、三葛(みかずら)にある諏訪神社の祭神がタケミナカタで出雲神となる。
これを祀ったのが、ナグサトベに義理立てたと伝わる南方一族。

南方を「みなかた」と言うとは知らず。
私は、南方、北方の方角のことだと思っていた。
国譲りに反対して出雲を追われたタケミナカタは大国主の子であり、
タケミナカタの子孫が、今でも三葛で南方姓を名乗って暮らしているといいます。

「大国主命六世の孫、豊御気主之命(とよみけぬしのみこと)を以て
紀伊国名草姫を妻となし、一男を産む」

名草姫と出雲王の婚姻を示しているそうだ。
女性首長だったナグサトベとタケミナカタの絆がここで繋がるとは、驚き~。


(穂高神社:安曇野比羅夫像)

考えてみれば、北関東もその気配はある。名草巨石群が栃木にあるし。
それが、坂上田村麻呂のエミシ征伐となって繋がる。長野にもエミシ征伐があった。
ナグサトベのハイヌベレ信仰は、宮城県にもある。
また、この話は安曇野にも繋がっているようだ。
安曇野にも鬼といわれ迫害された人たちがいた。
今では、わさび農園という広大な敷地に豊かな清水が流れる美しい場所になっている。
こんな所で生活していたら、本当に幸福になれそうだ。
その継承を受け継ぎながら、農園を維持し美味しいワサビを育てている。

そういえば、物部「守屋」と蘇我「蝦夷」という話しも考えてみると不思議だ。
実際の名前ではないから、モリヤVSエミシということになる?

縄文土器の歴史をみると、北から途中で南の民族と融合したようなデザインに変わる。
北と南の文化が交錯したことを考えると、安曇野という大きな海の集団が、
津軽の安部氏とも関係しているかもしれない?

モリヤ(ユダ)とエミシ(縄文)ともいえるような話。
だから征伐ではなく、融合であったと考える方が自然なわけだ。
でもエミシは大和側も出雲側でもないような気もする。
元は、どちらにも属さない独特な文化をもった北の人(白人)だったかもしれない。



※穂高神社の奉納されている海神系の神船。
平安時代風木造屋形船:穂高丸
「東京多摩川最後の船大工といわれる久保井富蔵氏が平安時代の資料を元に
魂を打ち込み長い年月をかけて完成したものであり、貴重な文化的資料であります。
又、国際的な陶芸家であり多摩川自然と文化を守る会を結成。
多摩川に清流をよみがえらせる運動を続けている辻清明氏夫妻が穂高の自然と清流、
そして人間性に深く感激し、氏の友人である芸術家諸氏の協力と穂高町の交流ある
仲間と共に上高地にある奥社と当神社との神々を送迎する御船として奉納するものであります。」


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さて、ワサビ農園はとても面白かった。
長くなりそうなので、次回に。
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戸隠れの戸隠神社

2015-08-15 | 神話・伝説
いつ頃みた夢か思い出せないが、標高の高い岩山に一人の大きな男性が軽々とクライミングをしている。
服装は普通の登山服なのですが、山頂から100mくらい下に到着すると、
わーっと100人くらいの多人数の人が岩場から出てきた。
山にそんなに人が隠れて?いたことに驚いたが、助けを待っていたようだった。


(鏡池からみえる戸隠山)

そんな不思議な夢を戸隠山を見て思い出した。
ただ、残念なことに、長野の山々はガスっていてあまりよく見えない・・・。
大きな湖があるゴツゴツしたような岩山だったので、夢の山とよく似ていた。
たまに山に登っている人を下から見ている夢を見るのですが、巨人なのだ。
ひょっとすると5mくらいはあるかもしれない。
軽々と登る姿は、スパイダーマンのよう…。



解放を待っていた人たちの夢が、なぜ戸隠山につながるのだろう?
もし、夢の話が戸隠山ならば、巨人は山に度々現れ何かを助けている。

名前からして、戸を隠すことに意味がありそう。
でも、あまりにも人が多すぎて戸隠神社には何も感じなかった。
ひとつだけ重要だと思った場所は、奥社着いて石段の下に、湧き水を祀る磐座があった。
そこに降りて水に触れると、とても冷たく気持ちが良い。
が、すぐキーンと強い耳鳴りが起こり、ちょっとびっくりした。



戸隠山が水信仰だということを、その時は知らず。
帰ってから知ったので、今思えば、あの磐座は神聖な場所なのかもしれない。
それに長野では、水に多く触れていた気がする。

時間がなかったので、今回は、中社~奥社まで歩いてみました。
片道40分位なので、散策にはちょうどいい。

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ここに天の岩戸の伝説があるのは、それに関係する神々が祀られていることにある。

奥社:天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)
天の岩戸に隠れた時に開いた神。

中社:天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)
岩戸神楽を創案し、岩戸を開くきっかけを作った。

宝光社:天表春命(あめのうわはるのみこと)
九頭龍社:天手力雄命が奉納される以前の地主神
火之御子社:天鈿女命(あめのうずめのみこと)
舞楽芸能の神。岩戸開きの踊り子。



天の岩戸伝説には、どんな解釈もできると思いますが、皆既日食だという説ですが、どーだろ?
はるか昔から、天体観測をしていたので、その現象をわざわざ神話にするのかな?
だとしたら、皆既日食のような現象を不吉と考え、観測していたのはエジプト。

天体の異常な運行がなければ、太陽が隠れることはないと思うが、私には相当長い年月、太陽が隠れていたことがあった為だと感じる。
大洪水後に、オノコロ島という日本列島ができた創世の話しに繋がっていると思う。
また、新たなステージといいますか、人類の進化(精神的な)の意味もあると思います。
大洪水後に形成された日本列島は神々により、長い大雨から光が差したという想像。



戸隠神社サイトから、岩戸開きの最後の部分で、
「世の中は再び明るくなり、悪い神々は、にげ去りました。
天手力雄命は、また天照大神が岩戸にお入りになってはたいへんと、
岩戸を「エイッ」と持ち上げ下界へなげすてて仕舞われました。
岩戸は宙を飛んで日本のだいたい真ん中に落ちました。」




戸隠信仰の範囲にある小川町は、「本州のへそ」という。
日本のだいたい真ん中におちたのが、戸隠周辺だという天の岩戸話しに繋げようとしていることもあるけれど、
戸隠神社が特別な場所だというのは何となく感じます。


(奥の院)

ちなみに戸隠神社の社紋は、卍(鎌(かままんじ)と言い、
四本の鎌を卍型に配置し、かたどった物。

卍は、古くは太陽活動の象徴で、ヒンズー教のビシュヌ信仰からきているそうだ。
五行説のように10種の形をもって救済するといわれ、世界中のシンボルマーク。
鎌を卍にしているので、農耕と水を信仰するようです。
なので戸隠山は、太陽信仰をしていた古い場所だったことがわかります。

ところで、戸隠の信仰も、昔は女人禁制でした。
それで石にされた話しがある。

比丘尼石----------------------------------------------------

よく晴れたある秋の日、一人の比丘尼がお供を連れて戸隠へやってきました。
二人は、奥の院目指して、とうとうこの女性が立ち入る事ができる限界点の、
女人堂までやってきました。
お供はもとより、比丘尼はこれより先は、女人禁制であることを十分承知していました。
ところが、比丘尼はそんな掟など気にしないがごとく、
女人堂より奥へズンズンと歩き出しました。
お供は、慌てて比丘尼を引き止め、「ここで遥拝をして、早々に下山いたしましょう」
と強く申し入れましたが、比丘尼は、お供がいかに申し入れても、聞き入れることなく、
更に奥へ進もうとします。
 お供は、ついに主を引き止めることができず、掟を破った恐ろしさに震えて前にも
後にも動けなくなりました。



できることはただただ、主の行動が神の怒りに触れぬように、一心不乱に祈ることだけでした。
ところがどうでしょう、比丘尼が足を進めてしばらく行くと、
今まで元気の良かった様子が一変し、ふと歩みを止めたかと思うとその場にバッタリと
倒れ込んでしまいました。そしてみるみるうちに、身が硬直し、
どんどん石に変わっていくではありませんか!後ろで、それを見ていたお供は、
あまりの驚きに主のもとに駆け寄りそうになりましたが、なんとかこれより先は
女人禁制である事を思い出し、あわてて本坊まで駆け戻りました。


(比丘尼石)

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長野市の市街地方面から中社を過ぎて、旧越後道をしばらく歩くと、
女人堂という建物があった地点にたどり着きます。
昔は、善光寺方面から来た女性は、ここまでしか入る事を許されず、
女人堂にて遥拝を行いそのまま先へ足を踏み入れること無く、引き返していったものと思われます。
また、戸隠と反対の柏原方面から登ってくると、こちらも、女人結界の碑が建つ道が二股になった場所にたどりつきます。


(奥社へ行く道)

やはり、昔はここから先へは女性が立ち入る事ができず、ここで引き返すか、
左手に進路をとって奥社に足を踏み入れること無く、中社へ向かうよりほかになかったのです。
(戸隠神社のHPより。)



比丘尼石は、女人禁制を破ろうとしたことへの罰のような話だが、
石にされた話は各地にあり、石にされる多くの理由は、不死な女性で醜いことがある。
醜いだけで殺され石にされ、不死身である身体に寿命が生まれる。
コノハナサクヤ姫の姉であるイワナガ姫の話ともよく似ていることもあるが、
西洋ではメドゥーサがある。
あの話も、醜く不死身だが、見る人を石にしてしまう。
おそらく醜いのは死体の姿だろう…



はるか昔、人類は何百年も長生きできた。死の概念はなく、永遠でいられた。
自然が不変であることを望むのは、人間が老いて死を迎えることになってから記憶を失ったことがある。
石も同様に軽く透明な輝く存在であったのが、何かあってゴツゴツした重い岩になり落ちてきた。
人類と一緒に。
ただ、石は記憶している。
人は、昔は体は大きかったが、とても美しい透明な存在だった。



比丘尼石は、そのことを伝えているのだと思う。

西洋では、醜いのは人間の悪や欲望という性格的な醜い部分、
女性の隠された霊力を恐れる男性の意識にあると説明している。
石にしてしまうのは、その力を持たせないためでもあるが、
メドゥーサは力のある女性の象徴でもあった。



修行には女性の誘惑が、男性の力を弱くすることも考えられていた。
神道では自由な結婚はありましたが、仏教は厳しい戒律があった。

人類の進化には、女性の身体が基盤になっているのだから、男性にはその要素がなくても、
精神的には女性よりずっと女の部分があったと思う。
男性だけの修験というのも、女性より男性が優位になれるための修行であったかもしれない。
古代は今よりも女性的な男性が多かったと思います。

要は女性性を高めれば、母性は平和な思考になれるのだから、
それを目指していたこともある・・・?

なので、終戦日だからこそ、女性がもっと強く母になるべき時だと思うことを痛感する!
母とは別に子を産むことを言っているのではなく、母性を高めることにある。
子宮を大事にする。体を温めるとかそういう簡単なこと。
女性の力が今は一番必要!そうすれば、平和が保たれる。
多くの女性たちが、再び霊力に目覚めてほしいと願います。

ところで、エジプト~インドを経由して出雲に到着した人たちが、南方系の人なのか?
黒潮に乗り九州~出雲~紀州~大和へ。
戸隠から安曇野~諏訪へ辿ると、出雲族と関係していることが見え、
母系社会のあったナグサトベが思い出される。
男性社会になって母系社会を排除することや、女性社会を理解できない人たちが始めたのが
エミシ征伐に繋がっているようだ。

女人禁制もそんな意図があるかもしれない。



もうひとつ帰りに寄ったお社が気になった。「飯綱大明神」とある。
信濃国上水内郡(現 長野県)の飯縄山(飯綱山)に対する山岳信仰が発祥とある。
多くの場合、白狐に乗った剣と索を持つ烏天狗形で表され、
五体、あるいは白狐には蛇が巻きつくことがある・・・という説らしいがよくわからない。

「真言」というのがあり、「智羅(チラ)」という智羅永寿という天狗だという。
これが観音菩薩に繋がるらしい?
十二神将の中にある観音菩薩は、安底羅大将(あんちら)とよび、
ちなみに、金毘羅様のクビラは、彌勒菩薩。
それで、観音菩薩の十二支は申(さる)で、五行だと「金」。
飯綱大明神も、金を発掘したことに関係しているような気がした。
ただ、金星信仰の女神(イナンナ)に対しての金か、単に鉱石の金かわからない。
それが観音菩薩と繋がるところもよくわかりませんが。
ど~も神社には金の信仰が隠されていると思うので、そういう場所にはあまり人は参拝しない
ような暗い場所にあったりする。
通りすぎてしまうような地味な場所にあるが、やはり金なのだ…。
人にとられないように、敢えて、来ないようにしている場所にあったりする。
また、飯綱山は忍術や剣術の発祥ともいわれ、ここから忍術を会得したとか。



飯の漢字は、信仰によく使われる。飯豊山もそう。飯盛山もある。
飯は、召し上がる「召し」からであるが、本来は、イヒとよんだ。
イヒは、エジプトのハトホルに関係し、子牛のことである。
生死の意味がある女神を現すが、
飯がつく所には、太陽信仰、ハトホルなど、エジプト的な女神信仰があると思った。


(中社~奥の院の路から見える戸隠山)

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さて、戸隠神社参拝後は、安曇野へ。
行く途中に「鬼無里村」という峠を通った。
「きなさ」とよむ。
鬼が無い村というのもすごい。
鬼がつく地名は各地にありますが、「鬼が居ない」と敢えて言ってしまう所は始めて…。

ここがまた秘境なんだ~。
でも、戸隠の峠は、秩父大滝の栃本にも似ている。
鬼無里村は日本の中でも一番の秘境。と、峠萌えなバイク好き(旦那)は思っているらしいが、
秩父人から言わせたら、秩父と変わらない・・・。
懐かしい風景だ。
奥秩父もこんな感じだ。
いや、鬼無里村は平坦だからまだいい。
栃本は「急斜面」に住んでいる。



どっちが秘境か?などと言っている場合でないが、
結論、「秩父も鬼無里並みに秘境」。
戸隠の峠を超えて思ったが、よくここに京の都からやってきたな~と
感心してしまう伝説があった。
それから、鬼がいないといわれるようになったという。

その伝説は次回に…
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おやひこさまの弥彦神社

2015-08-13 | 神話・伝説
日本海をまた見ることができて、嬉しい~。この先は大陸。
どのくらい古いかわからないけど、日本に上陸した古代の人たちは、
稲を育て実りに感謝しながら、平穏に暮らしていた。



今は、恋人たちが願いを込めて、海に向けて発信していた。
すごい願かけだ…汗
鐘を思いっきり鳴らしてきたけど…あつ。汗。



ここは、新潟県柏崎の恋人岬という。
別にここを目的にきたわけではないが。。。



越後を代表する米山という名山と海がよく見える景観地。
(看板をみても、米山がどの山かよくわからなかった…)


昨年は秋田~青森でしたが、今年は米沢~新潟へ入り、
長野~秩父~宇都宮へ帰省。濃いプチ旅でした。
一県を巡るのに時間がなかったこともあるのですが、なんと7社も神社を巡ってしまった。
その土地を知るには、産土神を参拝するのが古代史萌えにはたまらん。
が、もう今回でしばらく神社は行く気がしない。笑。
でも一番面白かったのが、安曇野のわさび大王だった!(後ほど)
通った県は、ざっと7県。3泊4日で1000Km超え…。
山形、新潟、長野、群馬、埼玉、栃木、福島。
今は車があるから楽だけど、昔の人はこれを歩いて巡っていたのか、と思うと本当にすごい技だと思うのです。


※お弁が滝
その昔、佐渡のお光がタライ舟で流れついたと伝わる弁天岩
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さて、新潟には夕方頃着き、少し時間があったので、弥彦神社へ行ってきました。
新潟は初めて。何も知らないのだが、弥彦神社は聞いたことがあった。


弥彦山

駐車場がよくわからず東側に車を停め、表門に行くまでちょっと迷ったのですが、途中にうっそうとした森と鳥居が。
見ると、「祓戸神社」とある。



入っていったら、向こうから一人高齢の男性がやってきて、すれ違いに挨拶を交わしたところ、
「ここは初めてですか?」と、ちょっとびっくりした感じで声をかけられた。


「何度も参拝しているけど、ここで人とすれ違ったのは初めてだよ。
ここはほとんどの人が知らないから会うことがない」と、嬉しそうに話す。
ラッキーな出会いだな、と互いにガッチリ握手…なぜだ?笑。
旦那が半笑い…。



おじさんは長岡に住んでるらしく、弥彦神社が大好きなようで、
「仙台では弥彦神社は有名なの?」と聞かれ。
まあ、有名ですとは言ったけど、どーだろう…?

「弥彦神社のお水を祀る祭事があるのだが、それをする時には、
必ず祓戸神で清め祓いをしてから弥彦神社に参拝する。
正式な参拝は、祓戸神に穢れを祓ってから、弥彦神社にお参りするんですよ」と、熱く語ってくれた。
それを知っている人だと思われたらしく、初めての参拝だったので
おじさんは良くここへ来たね、という感じだったのです。
ここは、特別な場所らしい。



そんなことも知らなかったので、ますます弥彦神社が特別に思えてきた。
祓戸神とは、「延喜式」の「六月晦大祓の祝詞」に記されている
瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売の四神を祓戸四神のことですが、
弥彦神社はかなり古いお社と思います。



たまたま東側に駐車したことがよかった。
表門を回ったら、観光客用の駐車場やお店が向かいにたくさんあり、
ここに駐車していたら、祓戸神社を通ることはなかったわけです。

賑やかにおじさんと別れた後、祓戸神を拝んでいたら、またおじさんが小走りに
「そーだ、そーだ、言い忘れたけど、弥彦神社は二拝でなく、四拝で出雲と同じです」と、
またご親切に教えてくれた。
また、何処かでお会いできるといいですね、と。
また握手しそうな勢いだったが。

もしかしたらおじさんは、おやひこさまなんじゃないか?と。笑。
祓戸神の計らいに、ちょっと感激したスタートでした。



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さて、表門より弥彦神社へ。
本殿の前に拝観するとよいと言われる不思議な椎(しい)の木伝説を。



「弥彦神社のご神木(椎の木)は、参道の手水舎と広場をへだてた
右上段、石柵をめぐらしてご神木が茂る。
祭神がもっていた杖を地に挿したら、たちまち根付いて枝葉を茂らし、
天下に異変のある時には、奇端を現すと伝わる。
昭和45年3月火災があり神殿もご神木も共にやけてしまいましたが、
神殿は再建され、ご神木は焼け残った幹から新しい葉が伸びはじめ、
再び繁茂するようになった。」


★御神木賛歌 良寛
「伊夜比古の 神のみ前の 椎の木は 幾世経ぬらむ
神世より 斯くしあるらし 上つ枝は 照る日を隠し
中つ枝は 雲を遮ぎり 下つ枝は いらかにかかり
久方の 霜はおけども 永久に 風は吹けども
永久に 神の御世より 斯くしこそ ありにけらしも
伊夜比古の 神のみ前に 立てる椎の木」


看板に説明あれど、わかりづらい所にある。
石壁に囲まれて頑丈に閉じられていた。あんまりこーいうのは好きではない。
ここの森も、祓戸神の森と同じように鎮守の森と言われる。
人があまり寄り付かない、というより人と森が切り離された場所は結構多い。
そういう森は暗い。
わずかな光を求めたくなる。
決して樹々も植物も特別な意味はなく、人間と同じように互いに必要としているのだから、
自由にしてもいいと思う。



シイノキは、スダジイと同じブナ科(クリ科?)とか。
まあ、スダジイはよく公園にありますが、目のような模様をつける木であり、
私はスダジイが好きなんですけど。森の仙人がいるようなジジイの木だから?
椎の木は神社にもよくありますが、縄文時代、椎の実はよく食べられていたそうです。
ブナが生息する所には、縄文遺跡がたくさんある。
ここも縄文の暮らしがあった森。

日本海側の海岸地帯ではタブノキを主要樹種とした照葉樹林の社叢が点在するが、
これは、対馬暖流と多雪というこの地域の自然環境の影響である。(Wikipedia)



東北北部ではブナが繁殖してたので、植物による人々の生活にも大きな差があったと思います。
ブナ科に多い場所ならば、北方の人たちの暮らしがみえてきますが、
日本海の新潟~富山や西の方は、対馬の方からやってきた南国の人々が想像されます。



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ところで、祭神である天香山命という名前を始めて知りました。

弥彦神社の祭神は、天照大御神の御曾孫にあたられ、
越後国の文化・産業発展の祖神として「おやひこさま」の敬称で県内外から篤い信仰を寄せられています。
当神社の御社殿は、古代より朝廷・将軍家、武将等により、たびたび造営・修造され、美麗を極めたと伝えられています。
しかし明治45年(1912)門前からの大火により、御本殿以下の殆どが焼失しました。
越後一宮焼失は、当時の新潟県民にとって大きな衝撃であり、
御再建への県民の熱意は目覚ましく、
目標を超える浄財と勤労奉仕によって大正5年(1916)、
現在の荘厳・壮大なる御社殿が御再建されました。
弥彦山を背景に神気溢れる杜に佇むこの御社殿にて、
年間百万人を超える皆様が敬虔な祈りを捧げておられます。(
弥彦神社のサイトより)



という事で、再建してちょうど100年にあたるので、この日も「おやひこさま100年」
というのぼりがたくさんありました。

「天香山命」という名前の祖神とは?
『先代旧事本紀』によれば、天照太神の孫神である饒速日尊(天火明命)と、
天道日女命(あめのみちひめ-)との間に生まれた神(天照太神の曾孫神)で、
尾張氏等の祖神とされ、物部氏等の祖神である宇摩志摩治命(うましまぢ-)とは母神を異にする兄弟神となっている。

ということは、物部氏とも関係している神社なんでしょうか?
弥彦は、鈴鹿山脈があるね。
鹿と金なんだ。



おじさんが教えてくれたように4拝しましたが、私は結構いい加減な方なのだ・・・。
鈴を鳴らすこともあれば鳴らさないこともあり。
2拝することも忘れたり、結構、神社のしきたりに対しては適当です。
あまり作法は関係ないと思ってしまうので、それよりこの神社が建てられる前は
どんな森だったのか?の方が気になる。

なんだか、今回は自由とか解放?という言葉が、何度も頭の中を交差していて、
山や樹々に対してなのか、私たちのいう自由とは何に対して言っているのですか?
という問いかけがあったり。

次の日に行った戸隠山を見て、前にみた夢を思い出した。
あの夢の内容は、そ~いうことか。
ここでも繋がっていた。何かが解放された夢。(次回に)

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話しは変わりますが、弥彦神社に入ってすぐに、誰かが落としたと思われるお守りを見つけてしまった。
「乙」という文字が蛇に見えて仕方ない。
このようなお守りを見たことがないので、後で社務所のお守りをみていたら、
いろいろ書かれてあった。詳しくわかりませんが、やっぱり蛇に関係しているらしい。



お守りについては、仙台の街中で落ちていたのを見かけて、
それからどんどん良い流れに発展した出来事があった。
ちなみに、「えんむすび」のお守り。
それからお守りを見かけたら、何か良い事があるという自分のジンクスにしている。

だから、「乙」について調べてみたくなった。笑。
けど、この時はあまり発見はなく。
ひとつわかったのは、「五行説」であり、自然現象や人事現象には五つに整理され、
それぞれが五行によって説明されていると。
「乙」は、五行では「木」であり、十二支ならば「寅、卯」で、五色は「青」
方角は「東」、月は「一、二、三月」、春で四神ならば青龍。惑星は木星。



ふ~~ん・・・。
やっぱり、木なんだね。
だから椎の木に反応したわけだ。

十干(じっかん)は、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10の要素からなる集合とあり、
乙は、陽気のまだ伸びない、かがまっているところ。
要するに、「木の陰」
まだ成長できない段階で、芽が地上に出ようとして土の中でくねくねしている状態。
それが蛇みたいなんだろうな。
私の生まれが2月なので、誕生月のことも関係しているかもしれない。

弥彦神社の摂社、末社の説明
「乙子神社・・・本社御神木西脇 御祭神:第六嗣 建諸隅命(たけもろずみのみこと)」
他、十柱(とはしら)神社有り。御祭神:オオナムチを祀る。大地、水、山、海、土の国土を守る大神。

「弥彦」の地名は、むかし天照大神の御子に天津彦根命(あまつひこねのみこと)、
活津弥彦命(いきつひこねのみこと)の二神がおられ、
このうち活津彦根命が活津彦根明神として弥彦山に祭られたことに由来しているとされている。
弥彦神社は、とても清潔感があって気品あるイメージがありました。

考えてみると、弥彦神社の奥の院は、彦根山だった。
今回初めて参拝した神社が多く、戸隠神社、諏訪神社、穂高神社、みんな奥の院は山なんですね。
そしてそれぞれを五行説で当てはめると、
弥彦神社は、「木」、戸隠神社は「水」諏訪神社は「金」・・・反時計まわりに
木→水→金→土→火という巡り合わせで神社参りしていたのかもしれないな、と。
そりゃもう目が回るようで疲れる(憑かれる)わけで…。
今でも書きながら吐き気してきますが。(夏バテ)



そんな弥彦神社での乙の妄想をしていたら、あっという間に時間が経ってしまった。
西日が暑い!急いで神社を後にしました。



やっぱ甲信越は東北とは違うね。関東も違うけど。
次は長野探訪へ。
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