秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

古墳は桃源郷への入口

2013-05-30 | 神話・伝説

国神の大淵(皆野)に氷雨塚あり。
神が宿るところといわれる。
石の下に大きな穴が開いており、竜宮につながっているという。
昔、村の衆はこの塚にお参りする習わしがあった。祈願をして帰ろうとしたらどこからか若い者が現れ、「珍し所へ連れて行ってやろう」といった。
後をついていくと、村内なのに広い庭のある大きな家の前に立っていた。
家の中は、金・銀・宝石がたくさん。薄い絹をまとった美しい娘が美しい花々に囲まれて御膳が用意してある。
「たくさんお召し上がりください」と部屋にまぬかれたその中に、人形のなりをした食い物をとって、その女はこんなことを言った。
「これを食べると200年生きられます」
村の衆はしばらくこの時を過ごし、遊んでいた。
やがて男が現れて案内されて帰ることに。(埼玉県の民話)

Kofun02 Kofun01

竜宮のような門をくぐったら帰りはあっという間に氷雨塚に出てきた。
それからここは竜宮につながっているとされ、人形の食い物を土産として持たされたのを一人の人が十人分食べてしまったので、その男だけ2千年も生きたとさ。

この前行った長瀞の続き。

この氷雨塚は、天神塚古墳という。
長瀞には円墳がたくさんありますが、行った時はどの古墳かわからなかったので氷雨塚にはいけず。

おそらく金崎神社の裏山にありそう。

詳細は、こちらのサイトへ。
「埼群古墳館」
http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/index.php/minano_tenzin/

※写真は、皆野町大堺2号墳(民家のすぐそばにあった)
入口はかなり大きい。

Kanasaki02_2幸田露伴の「知知夫紀行」でも、氷雨塚を見学している。
「氷の雨」と記しているので、雹なのかもしれない。
それでよく雨宿りをしていたとか。
他にも秩父には氷雨塚という名前の古墳が多い。

またこの昔話は、遠野物語(63,64話)の「マヨイガ」にも似ている。

マヨイガ(迷い家)

マヨイガとは奥深い山中に、あり得ない豪邸がある話。

大きな屋敷を構える小国村の三浦家は、かつては貧しかった。
その家の妻がある時、蕗をとりに行ったが見つからないので、山奥まで探しにいったところ、
突如大きな屋敷が現れた。
花々が咲き乱れる美しい庭に、牛や鶏など動物がいるだけで人の気配がない。
中へ入り玄関を上がってみると、ある部屋の一室に御膳がたくさん用意されていた。

すると人の姿らしき何者かがぼんやり現れて食事をすすめられた。
山男ではないか?と怖くなって慌てて逃げた。
このことを家の者に話をしたが、誰も信じてもらえず。

ある日、小川で洗濯ものをしていると、川上から赤い御椀が流れてきた。
とてもきれいだったが、食器に使うと家の者に何か言われるので、内緒でお米の計りに使うことにした。
ところが、御椀を使うようになってからお米が減るどころかどんどん増えていく。

不思議に思い、家の者に話をしたところ、皆で御屋敷があったところまで行ってみることにした。しかし、そこには何もなかった。
それから三浦家の米俵は尽きることがなく、大きな屋敷を構えるまでに豊になったということだ。

竜宮伝説は、中国の「捜神後記」にある「武陵桃源」の話からきている。
このような話は世界中にあり、皆野町のこのあたりに古墳が多いことから、朝鮮半島から渡ってきた人たちの暮らしがあったので、そのような言い伝えが残っているのだろう。

「武陵桃源」の話では、ある漁師は山に小さな穴があるのに気付き、狭い穴の中をしばらく進むと、突如視界が開け、広い田畑が広がり動物がいた。
そこには服装が異なる人たちがたくさんいて、漁師を見るなりびっくりしていたが、酒食をもてなした。
彼らの先祖は秦の乱世をさけてこの地に隠れ住んだと語る。
なので、漁師の時代を知らなかった。
数日過ごし、別れた後再び行ってみたが、桃源の隠れ里はなかった。

不老不死伝説も世界中にある。
人は200~300年は生きられたという話。
人が老けてしまったのは聖書にもある禁断のリンゴを食べてからだという。
それから人は身体を意識し、死を恐れるようになってしまった。
死という概念が変わってしまったのかもしれない。

それ以前の世界は、楽園で花々が咲き乱れ、病気もなく恐れや恐怖もなく皆が平和に暮らす世界があったという。

古事記では、黄泉の国から逃げてくるイザナギの話がある。
見てはいけないイザナミの姿をみてしまい、醜いと感じ逃げてしまう。
その醜さや恐怖、不快感を感じたイザナギに対し、怒りを持ったイザナミはイザナギを追いかける。

そこに生と死の境界を設けるために、イザナギは堺=塞を設けた。
イザナミは人を1000人殺しましょうと言うと、イザナギは1500人を生みだそうと言う。

イザナミを見てはいけないのに、見てしまったのは自分の死をみたことと同じで、本来の姿ではないと感じたというのは、肉体を通してみているからそうなる?
「自分」とは何か?「私」を意識し始めたのは肉体が大いに関係してくると思う。
醜い自分を知ってしまったというのは、核となる魂を見れなくなったからだろう。

イザナギは大地に生みだすエネルギーの力なのかもしれない。
そのような物質的な存在は、植物も人も関係なく命は枯れることもあるし寿命もある。

右回りや左回りも、DNAの螺旋のように地球で例えるならば天と地をつなぐDNA.
常世の常は「立つ」ということで、まっすぐに立つエネルギー。

桃源郷は山にあるといわれ、山中にその入口があり異次元の世界があると信じられてきた。その姿はまっすぐに伸びる白い柱だという。
よく雲の隙間から日が差す時に照らされる光の柱のような感じ。
杉がご神木になるのは、杉の木が直立して天に伸びるので柱に例えられる。

また桃源郷に住む人たちは、自分たちとは異なる世界で描かれる。
武陵桃源の話のように、服装が違うというのは時代がなく時間の概念もなく、永久にそのままの姿で、老いることもないことを強調しているように思える。

ただ、意外にも皆野の桃源郷は身近にあった。

Kanasaki

そんなことを悶々と考えながら歩いていると、金崎神社の奥の院に到着。

野栗大権現を祀っていたらしい。

横瀬町の野栗大権現が何か気になってちょっと調べていたら、皆野の金崎神社へ実際、足を運ぶことになるとは思ってもいなかった。古御嶽城跡報告会の時は、車で通っただけだった。神社へ寄るつもりはその時もなかったのだけど、竜宮伝説があることを知ってから・・・。

ここも何かあるのだろう。

でもこの神社はほとんど廃墟のようだ。
雑草がワサワサに石段もぼろぼろ。
地滑りがあり社殿が老朽化したのでここを奥の院にし、新たに西側に金崎神社を建立したそうだ。

地滑り・・・??

この近くに大イチョウがあり、知知夫彦の墓が伝わっている。
古墳群は実際にこのあたりを統治していた人、豪族が住んでいたのでしょう。

秩父の地名由来も、このあたりが発祥のような気もしてきた。
秩父のチチは、イチョウの乳からの意味もあると思う。

大イチョウのあるところに知知夫彦といわれる墓を置く言い伝えが残っているのも、意図してなのかもしれない。
秩父神社境内にもイチョウがある。

Chichibu秩父神社の乳いちょう。天皇と関係しているところも。。。

国神の交差点のところに「國神神社」がある。
どんなご祭神かとおもいきや、金毘羅さんだった。
國神神社にも大きなイチョウがあった。
とても気持ちのよい場所♪

Kunikami01_2このイチョウの側には3つの祠があった。
ここから武甲山がよく見える。

大きな石碑と共に、社殿の彫刻がすごくて立派。
彫刻には一つ一つ意味があり、天の岩戸の話を現している。

國神神社のご祭神は、大物主神。
古い記録が残っていないので、金毘羅さんにしたのが不明。
でも金毘羅さんは、国譲りの時に大国主に鹿島のタケミズチにその証拠としてある物を奉納するように促した話がある。
それに関係していた氏族が、産鉄族といわれる北九州からやってきて横穴式石室を点々と残していったオオ氏。(そのへん、話がまとめられたら後ほど)

社殿によると、このあたりは大神眷族として「神庭澤」と称え、蟹を生捕にしない風習が古来から伝わっている。今は蟹澤という。
金崎上郷の各社を合祀して國神神社とよぶことになった。

Kunikami04 Kunikami03

また、金毘羅坂という道は秩父新道で、秩父盆地のシルクロードといわれるように、社殿の装飾を多用し、金毘羅大権現の縁起や道中記などを施した彫刻が多かったため、道行く人も、この社殿の彫刻をみながら参拝したと思われます。

彫刻は熊谷市玉井、江戸時代の名工小林栄次郎氏で、三峰神社、秩父神社、金讃神社なども改築している。
彫刻にも流派があるらしい。札所13番の慈眼寺の彫刻もそう。
寺社の彫刻を観賞するのも楽しい♪

ちなみに正面の彫刻は、天の岩戸で岩戸を開けているのが手力男神。

Tyoukoku_2

その隣には「八十八の水」と題して、ヤマトタケル命が悪魚退治の折、一人の童子が汲んでくれた水を飲んで八十八人が生き返ったという話。
(ひょうたんの水、貴人、背面の水が霊泉)
他にも牛若丸に、清少納言の墓、など全部で13のストーリーが彫刻に記されています。
(看板あり)

金崎神社~國神神社までの道は、片道1時間くらいで散策するにはちょうどよいコースでもあり、長瀞にかけてこのあたりは、ジオのメッカ。
住宅の石垣にも、裏庭にも、あっちにもこっちにも地層だらけ。

Road Jio_2

親鼻橋から見える赤簾石片岩は、幸田露伴も知知紀行で赤い岩と言っていたように、ピンク色を帯びた岩。赤みを帯びているのが世界的にも有名なのだそう。
(大きなポットホールもあり:蓑山日記で写真のせてます)

古墳の石室は、結晶片岩という長瀞の岩畳にみられる濃い緑色の片岩。
薄く割れやすいので縄文、弥生時代では皿や石斧、古墳時代では石室、鎌倉・戦国時代では板碑に使われていました。現在は、民家に。
岩も時代と共にいろんな用途で使われています。

Ara01_2 Ara02

ちなみに、このあたりは三波川帯といい白亜紀(約1億4500万~6500万年前)秩父古生層が地下20~30kmの深さまで沈み、数千気圧200~300度の圧力と温度で変成したもの。
高圧だったため、化石がほとんど残されていないが、寄居町の風布でウミユリの化石が発見されています。

渡来人は、このような地層の中の鉱物に関心をもっていたと思います。

Ara03 赤簾石片岩(左の岩)

感じやすい人は、大滝や長瀞の山中を歩いていると岩の波動だか何だかに酔ってしまったり、軽いめまいが起こることがあるそうな。
家が斜めに傾いていたりする所に住んでいるとめまいが起こるのと同じように、クラクラすることもあるかもしれない。
気のせいと思う程度であるけれど、大滝の光岩近くでで経験したことがある。
そういう時は、「ある場所に行くと」なので、ずっとその状態が続くわけではないので。

もしかしたら、狐が化けて酒をすすめ人を酔わせるという昔話が大滝にあるけど、岩がそのようにさせているのかもしれないね。

<金崎神社~國神神社への道>

 
Road02_2歩き:親鼻駅~親鼻橋~交差点左折すると金崎神社。
古墳群は西側にある。交差点手前で分岐している道を140号線へ行かず裏手の細い道を道なりに歩くと古墳群の看板あり。
 

再び金崎神社へ戻り、車道を歩く。途中分岐している道があるが下らずに車道(右)を歩いていく。大体40分くらいで金崎神社奥の院入口に到着。うっそうとして道も悪いので注意。

 

奥の院より先へ進み右へいくと大イチョウあり、直進する場合、國神交差点にぶつかり國神神社に到着する。

 

帰りは、皆野駅へ行くとよい。
栗谷瀬橋からみる荒川もなかなか。駅までは徒歩30分くらい。

 

ひとりジオ観光もGOOD.

大きな地図で見る

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栃木県の武甲山?

2013-05-25 | 洞窟・巨石探訪

栃木市に出流山満願寺(いずるさんまんがんじ)という有名なお寺があります。
その満願寺へ行く途中に、武甲山によく似た石灰開発の山を発見。
満願寺へ行く時は、石灰工業地帯をとおって行く感じが横瀬に似ています。
でも、ここは横瀬と比べると少し狭くトラックとのすれ違いに気を使う狭い道です。

Mount01 Mount02

それで、ちらっとみえたのが「三峰鉱山」という名前。
工場の名前のようですが、後で調べたら「三峰大権現」と名のつく山がこのあたりにあった。しかし、これが三峰信仰と関係しているのかどうかは不明。
採石場所が三峰山のところだから、秩父との因縁を感じる・・・。

この石灰の山は、「鍋山」といい、北側の連なった山々を「三峰山」という。
おそらく、三峰という名前の山は単に峰が連なってみえるから、という事みたいだが、御嶽教が関わっていることを考えると、それだけが理由ではない気がします。
鍋山の由来は、鍋を逆さにふせた形に似ているからと。
船ではなく鍋という名前から、そんなに古い山ではないかもしれない。

近くには星野遺跡がある。
鹿沼市永野にある倉本神社は、御嶽山とよんでいる。
また、倉本神社では北辰山と名付けている山もあり、このへんでは星宮の妙見信仰が関わっているようです。

wikipediaより
栃木市の鍋山(三峰山)は、西側に良質な石灰を産出する為、石灰の生産工場が、山の西の麓、旧葛生町羽鶴に集中している。
石灰の掘り起こしは古くから行なわれており、戦前はトロッコ列車(鍋山人車鉄道)が、栃木市尻内(しりうち)を通って栃木駅まで走っていた。
採掘場は現在ではたいへん深くなっており、鍋山の下にはかなりの空洞があるとされている。
また鍋山の西側は頂上付近まで削り取られていて、原形を留めていない。
山頂にもすでに陥没した跡がある。ハイキングは容易な山だが、山に入った際、たまたま大地震に見舞われると、山頂が更に陥没する危険がある。
よって、特にこの山の山頂付近の藪コギは、それ自身は容易だが、止めるべきである。
また、石灰や土砂の採掘現場も近く、そこへの立ち入りも、崖になっていて危険である。
なお、神社の関係者が、山の東側を修行に使っており、日本の神話の神の像のある奥の院が、山頂の北東の外れにある。
そこへ行く山道は恐らく神社所有だが、一般人も現在の所無料で、拝顔を兼ねたハイキングの為の入山が黙認されている。


Water_2

また、石灰を含む土壌は園芸用の一部の植物の成育には適しており、山の東側、星野側の麓には、セツブンゾウの自生地がある。
ここでも産業廃棄物の問題があったようです。

登山の案内看板によると、北辰ヶ岳御嶽山とある。
いつ頃開山した修験の山なのかよくわからないが、御嶽山なのでここにもいろんな神々の石碑がある様子。ただ何を大権現といってるのかわからないが・・・
山の様子について詳しいHPを発見したので、こちらを参照してくだされ。

「風まかせ自遊山歩」
http://jiyuseikatsu.web.fc2.com/zigzagwalk48mitumine.html

帰り、ちょうど発破の時で車を止められました。
こちらでは従業員が「発破」と書いた旗を降って通行を止める手動的な方法。
その後、後方でモクモクと煙が上がっていた。

通行が解除されるとトラックや自家用車とバンバンすれ違う。
その直後、今度はサイレンの音が。
また発破?と思ったら、12時のお昼のサイレンだった…。

そこはサイレンなんだ~。

武甲山との不思議な縁を感じながら、山へ向かって走ると出流山に到着します。

Temple01_2

▲不思議な鍾乳石--------------▼

満願寺の奥の山道は修験道。水が流れ出る森を歩く途中に女人堂もある。

「この上にある大師の霊窟は、女人禁制だったのでここで合掌した」とありました。昔は奥の院の十一面観音はお参りできなかったようです。

だからか?写真が撮れなかったのです。(撮れる雰囲気ではなかった…)そういう事もあるんですね~。

Okunoin Okunoin02

その観音様は、誰かが彫った観音像が洞窟内に安置されていると思っていたのですが、実際みてびっくり!!

自然の鍾乳石で、なんともいえない正直ぞっとする鍾乳石でした。
その形が不思議だったのでこれを見た人(役小角)が、十一面観音様として祀った話。

このお寺は空海が作ったとされる千手観音像を本尊としています。
板東33箇所のうち、17番札所で巡礼者がたくさんお参りしています。

1200年前に役小角により見つけられた鍾乳洞は、日光山を開いた勝道上人によって開山されたといいます。
その奥の院にある鍾乳洞を十一面観音としたのが役小角だと伝わっています。

Okunoin03_2 Cannon

見る人によってどんな形、姿になるのか委ねてほしいと思ったりますが・・・修験者の聖地だったので、観音様としたのは滝水が重要だったからでしょう。

写真を撮れないほど強烈だったので、看板で…。
ひょっこりひょうたん島にやってきた人たちみたいに私は見えるんですけど。

鍾乳石ってこんな形になったりするんですかね~。

秩父にも橋立鍾乳洞がありますが、ここまでアーティスティックなものはなかったので、自然とはすごいものです。

Do

航海してきた人達(先祖のことを想って)をイメージして祀ったと思いますが、自然石となると、ちょっと話は次元を超えそうです。
自然にこのような形になるのは、とても珍しい!そんなに大きな鍾乳洞窟ではないのでとっても不思議です。
ヒトに成りたくて成ったような形。何に成りたかったのかな~・・・

左端にちょこんとついている大黒様らしき姿が、なんかとっても愛らしいのですよ。
これは衝撃的なので、写真では伝わらないと思います…。
そんな圧倒される鍾乳石でした。

あ、ちなみにここ蕎麦が有名。
行った日はお休みだったけど、評判のよい出流蕎麦です。

Temple02(弁天様)

<出流山満願寺>http://www.idurusan.com/

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摩訶不思議な遠野の世界

2013-05-22 | 東北地方の伝説(岩手県)

遠野物語第1話。

大昔に女神あり。
三人の娘を伴ないてこの高原に来たり。
今の来内村の伊豆権現の社あるところに宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与うべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止まりしを、
末の娘目覚めて窃(ひそか)にこれを取り、わが胸に載せしかば、ついに最も美しき早池峰の

山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。
若き三人の女神おのおの三の山に住し今もこれを領したもう故に、遠野の女どもはその妬を畏れて今もこの山には遊ばずといえり。

Hayachine01 (夏の早池峰山)

5月中旬、3年ぶりの遠野へ行ってきました。
連休後の東北は、梅、桜、芝桜が一斉に咲いていて、山も若葉のころで青々して美しい。
主要な観光名所は、自転車でも回れる距離なのでサイクリングも楽しい。

Road

遠野物語が広まったのは、柳田國男が民俗学を研究していた時に、遠野出身者の佐々木喜善を紹介されて遠野物語として完成されました。
最初は外国に伝えるために英語を出版していたものでした。しかし、段々と遠野物語の世界に引き込まれて多くの人に語り継がれる話として残りました。
遠野物語の特徴は、ほとんどが名前、場所を明確にしているところです。

だから中には残酷な話もあってちょっと重たい話もある…。

でも遠野の山に一歩入ってしまえば、何かが潜んでいそうな不思議な空間に入る。
他の地域とはどこか違う空気。

Hayachine02(早池峰山山頂。剣がたくさん奉納されている)

遠野物語は特別な話ではなく、全国各地に似たような話はあります。
もちろん秩父にもありますが、それを伝え歩くことができた柳田國男の業績によって遠野が一躍、価値ある場所として大きく開かれたことが重要だと思います。

それによって守られた自然もたくさんあると思うのです。
自然を守るのは、やはりどんな形でもいいから人間の力が必要なのだと実感。

それに誰もが遠野にいけば、自分の生まれ育った故郷はどうだろ~ぅ。
と、昔話を思い出すきっかけになるので行く価値大です!

とりあえず行ったところを紹介。

Road02

▲水は、生も死も受け入れる-------------------▼

五百羅漢は、観光スポットになっているところで、遠野市内から徒歩30分くらいのところに
あります。鍋倉城から歩くコースもあり。

Openrakan
200年余りに東北地方に襲った大飢饉に心を痛めた大慈寺の義山和尚が犠牲者の冥福を祈り、自然の花崗岩に羅漢蔵を彫ったもの。

大きな石がごろごろ集まっているのですが、宿泊した民宿御伽屋のオーナー曰く、誰かが石を運んだのではなく、遠野の山は石がごろごろたくさんあるので、ここも自然に前からあった石だと思われる、と。

羅漢像のある入口すぐのところに、不動明王が石に刻まれている。
なので沢の音が聞こえるところに、石が積まれているようだ。
水の流れるところに石を積んでいるのは意図的におかれているのであって、犠牲になった子供たちが新たに水(胎水)に生まれ変わることを祈ってつくられたかもしれない。

地下水に恵まれた森の中で、静かに眠っている石たちでした。

Rakan02

※五百羅漢に咲いていた花

Flower_3 Flower02_4

 

程洞(ほとぼら)コンセイサマ
羅漢像から歩いて15分くらいのところに、程洞稲荷神社がありそこにコンセイサマ(金精様)が祀られているというので行ってみた。

この日は雨が降ってきて、くら~い山道でちょっと怖い。

ここも山に入るとガラッと空気が変わる。
いくつかの赤い鳥居をくぐり、胎内くぐりのように神社へ向かう。

Sherin01 Sherin02

(写真右:左にヤタガラス、右には木や石のコンセイサマがたくさん祀られている)

程(ほど)は、「ホト」のことだろう。
秩父の宝登山(ほどさん)と同じホトに通じる。
ホトは女陰の古語でもあるし、製鉄・鍛冶用語の火処・火床の意味もある。
なので、コンセイサマをお祀りしているのでしょうか?

Mizukami

この神社は、中世遠野領主阿曽沼氏の一族であった宮道義が同家の鎮守として勧請したと伝わる。境内には烏神とおいう小社があって婦人病に霊験があるといわれ、参詣する者が多かった。
また境内には杉の老木が多く冷泉があり、眺めもよく避暑地に適している。

コンセイ様の隣にはヤタガラスの熊野信仰がありました。
なぜか、日大芸術学部が寄贈している。
水神様も祀られており、ここにも湧水がありました。

Stonewater_2

ここは稲荷神社というので、稲荷は「鋳成る」ともいえるし、水の大切さと、狐は子育てをしたり、経典をくわえている狛狐もいたりするので、それもいのちを表していると思う。

遠野に来て山に入ると、生と死が同じ空間で共存している気がする。
水がその役目をはたしていると実感できるような場所。
鳥居に入り、黄泉の国に。
鳥居を出ると現世に戻る。

歩いて帰る途中にみかけた石ゴロゴロと湧水。そんなに石を置かなくても・・・と思うくらい何かの砦であったのか?

そういえば石や砂は濁った水を飲めるように綺麗に浄化する作用がある。石と水は昔からの叡智を崇めた証なのかもしれない。

他にも程洞稲荷神社内には、石像もあったりしたようですが、後になって知ったので気付かず。

コンセイサマを見たのは、他に2か所目撃。。。
初めて来た時は一度もお目にかからなかったのだが…。

観光名所の伝承園と福泉寺にも。お寺であろうが観光地であろうが、遠野にはコンセイサマが多いのだ!

●誰もがお願いしたい卯子酉(うねどり)さま

Sherinune

遠野一帯が大きな湖があったその昔、鯉の背にのって宮家と倉堀両家の先祖が猿ヶ石川をさかのぼってここにたどりついたという話があります。
境内の小さな池は、淵のあとでここの片葉の葦に恋の願いを書いた紙を結びつけておくと願いがかなうと伝えられています。
(遠野物語拾遺35話)

Sakuraune

桜に隠れる恥ずかしがり屋の卯子酉様。
みんなの願いは私の願いでもある。
少しピンクの光がみえた。ここは優しい所。

この上に細い道があって、そこから歩いて15分くらいのところにご百羅漢像があるので散策途中に立ち寄れます。
その入口には大きな石碑。
遠野に限らず東北地方では出羽三山の石碑を多くみかける。
愛宕神社の入り口なのだけど、この神社の上には縄文遺跡があったそうだ。

愛宕神社は火の神だから、火と水の世界があるのかもしれない。

Atago

●カッパ淵

カッパの話

遠野といったらここ。
ここを見ずして遠野は語れないほど有名なところ。
でもカッパ淵も5か所はあるという。
まあ、ここだけっということはないだろうし、遠野以外の地域でもカッパ淵はたくさん伝わっている。

カッパがナニか?
いろいろな説があってまとめられない。(てか、よくわからない)

Kappa01

(カッパ淵:きゅうりでカッパを釣る子供たち。カッパはいねが~)

子供に伝えるには惨酷な話だが、貧しくて食べていけなくなると、子供を川に落とす(死なす)ことがあったとか。
昔はこのあたりの淵はもっと深く、流れも速かったそうだ。
子を失くしたことを「こけし」ともいう。

Mizubasyou
すぐそばに巨大な(30センチはあった)ミズバショウが咲いていた。
このあたりのミズバショウは大きい!
ここはかつて安倍屋敷があったところ。
遠野には安倍貞任の伝説がたくさんあり、昔は栄えていた。
堀も残されている。

「ダンビラ祭」というのが伝わっていて、明治の始め頃まで2月15日に近郷の山伏を一堂に集めて、湯立の儀式を行い巫女が笹を降りながら巫女舞を舞ったといわれる。
湯立ての儀式は、古代は禊の意味があるという。
由来は、応神天皇の頃、竹内宿禰が弟が何かをしてしまい、宿禰は潔白を主張したので、天皇は釜湯を沸かし二人の指を入れて火傷しないかどうかの儀式をしたという。
(火傷しなければ正しい)

他にも面白いカッパ伝説。
遠野郷八幡宮に「カッパ石」がある。
説明書きを読むと、
この石にカッパの霊が宿れり。民話の里、遠野の総鎮守なる八幡宮に相応しき石なり。故にこの石をカッパ石と名付け八幡宮の手水石として用いるものなり」

Kappa Sherinhachi02

広々とした神社で気持ちがよい神社。(写真:カッパ石と鍛冶神社)
初めて見かけた「鍛冶神社」。目立ってこの神社だけ光があたってた。
産鉄族の里でもあった遠野。
カッパはそのような人たちだ、という説もある。

Sherinhachi_2

●蚕神のオシラサマ

蚕というと群馬県がかなり前から伝わっている。
http://blog.goo.ne.jp/inehapo/d/20100913
なぜか蚕の神というと女性が多い気がする。
秩父でみかけた養蚕の女神など。。。
オシラサマの話のように養蚕は女性が支えてきたのだろう。

Osirasama
養蚕を伝えたのは雄略天皇の説があって養蚕をすれば国が豊になるからと、おしすすめていたそうな。
オシラサマの話は修験が作り、中国の捜神記から伝わったとされる。
仏教の東北進出や、修験者は知識のある人と捉えていた。

(写真:伝承園のオシラ堂。ここでは願い事を書いて馬or女性をかたどった木の棒に洋服のようにかけて置いておく。狭い部屋で非常に気が強すぎて具合が悪くなる人が多いと聞く?あんまり長く居らんないね~…)

今回は、伝承園にてタイミングよく昔話を聞くことができました。

天皇皇后両陛下がお座りになったのと同じ席に座って聞けた・・・ラッキー!!

遠野では馬が家計を支える大事な家族の一員でした。
狼が馬を襲ってしまうことで、狼でもって狼を封じるという考えに基づき、三峰神社を建てた話もあります。

狂犬病などが原因で狼が絶滅したといわれていますが、外来種が日本に渡ってきたことで、絶滅したり疫病などが流行ることがありました。狼は外国からやってきた犬や動物によって弱くなっていったと考えられます。
ネアンデルタール人とホモサピエンスも同じように最初は互いに共存していたのですが、次第にホモサピエンスのDNAが濃くなっていくわけで、そのように生命は進化してきたのでしょう。

動物との婚姻ばなしは、異文化の融合を現しています。
遠野も秩父も同じように、いろんな所からやってきた人たちを受け入れ、新しい文化と共に生活に取り入れてきたのです。
(中には抵抗したものもあるけれど)

観光に来る人たちも、大阪など関西方面、埼玉県、千葉県、東北では山形県など、この日もたくさん訪れていました。

View_2 (田植えの時期)

▲不思議な岩--------------------▼

続石(つつきいし)

小高い杉林の中に古代巨石文化がのこしたものといわれている大きな石があります。
二つならんだ石の一方の上に、幅7メートル、奥行き5メートル、厚さ2メートルほどの巨石が笠石としてのっています。
弁慶がそばの石に笠石をのせたら、位の高い石なのに大石の下になると残念と嘆いたので、今の石の上におきかえたという話。(遠野物語拾遺11話)

Tutuki01

他にも弁慶が持ち上げたという話もあり。
これは、弁慶には力があったことを修験の人たちが伝えたようだ。
巨石と弁慶の話は各地に多い。

Nakisihi Tutuki06_2

(泣き石:最初はこの石が上に乗っていたという)

泣石は縦に長いので、こっちの石であった時はコンセイサマを表したかも。
それが今の横長の石に変わった。
これって時間軸の意味もあるのかな?
さて、その真相は?

最初に遠野に来た時、この石を見たかったのだけど観光バスを利用した為、ここは立ち寄らず。
今回は!と意気込んでいたのだけど、残念ながら自転車で回るのは坂道が多いので厳しいとのこと。
時間があまりなくて断念しようかとあきらめていたところ、御伽屋のオーナーが少し時間がとれるということで、車で案内して頂いた!!

Tutuki05
この石を見ずして遠野は語れないといわれるほど有名な巨石。
オーナー曰く、
続石は、石上山に向いていて、「つつき」の名前は、福島県の陸奥国一宮である都都古別神社の「ツツコ」からきているのでは?と。
この神社だけ一宮なのに2社ある。どちらも同格ということだが理由は不明。

石都々古和気神社は、味鉏高彦根命(アヂスキタカヒコネノミコト)がその父である大国主命を助けて奥羽の地を開拓し、住民にその徳を慕われ、当地に祭祀されたのが始まりとされている。
日本武尊がこの地に東征したとき、千度戦って千度勝ったとされ、その後陸奥国に来た八幡太郎義家が、この故事を称えて当神社を
「千勝大明神(ちかつだいみょうじん)」と名づけたという。(wikipedia

チカツといったら、千鹿頭に似ている。
もしそうだとしたら、諏訪のモリヤ氏と関係している。
気になるツツコ。。。

なぜ大きな石を乗せたのかは謎。
いまだに説明はつかず。でも御伽屋のオーナーによると、続石はここだけではない。
人型の石があってここから人が生まれたとか、真っ二つに割れた石など続石はどこまでも続く…。

遠野は一つ一つの岩に伝説があるから面白い。

Tutuki02

実はよく見ると、上の石を支えているのは、右の石だけ。よく見ると左の石は浮いている。(下の写真をみるとわかる)

それが故意にしたのかどうかは謎。

Tutuki03_2 

(旦那が記念写真(ぼかしいれてますが)しっかし、この大きさ。カメラに収まらず。どんだけ大きいねん)

そこから下ったところにも大きな岩がある。
これは新たに追加したらしい。このあたりの岩の大きさは、秩父の聖岩に匹敵する。
盆地でかつては湖だったことが共通しているかもしれない。

このすぐ近くに千葉家があるのですが、その向かいの笠通山だったか「猫岩」という巨石がある。
猫が女性に化けた話がある。

猫だけではなく狐もいたずら好き。
五日市のキツネの関所
「町場にくる村びとたちの楽しみは、茶屋酒を飲みながら、ほら話をふきまくることでした。
帰り道、かかさまへのみやげに五十集(塩魚や干魚)を首にかけ、夜ふけにこのあたりを通る
と、美しい女が「風呂に入って酒っこあがんせ」とほほえみながら誘いかけ・・・夜があけるとわが身は泥田やこえだめにつかり、みやげはとうに消えていたと。
ドンドハレ」

※狐の話は、秩父大滝にある光岩稲荷神社にも伝わっている。
ここは秩父往還だったので、道行く人に声をかけていた?狐がいたらしい。

また笠通山(笠山)の由来は、
出羽山から坊さんが東に向かって投げた笠が落ちた所なので、笠通山といった。
その笠山から安倍貞任が矢を射って羽黒岩の方にあたったという話もあり。
巨石あるところに羽黒山が関係している。

そういえば、飯能市の吾野にある「子の権現」も出羽三山から投げた経典が落ちた所だという話がある。http://blog.goo.ne.jp/inehapo/d/20130113

●羽黒岩

Haguro01_2

この上に高さ約9メートルの巨石があります。
矢立松と丈くらべをしたところ、石の分際で樹木と争うなどけしからんと天狗に下駄でけられ、上の部分が欠けた。(遠野物語拾遺10話)
矢立松は、坂上田村麻呂がエゾの宮武を射った矢の鏃がくいこんでいるといわれた松です。
羽黒権現を祀っていたこのあたりは、羽黒山伏の先達たちが矢立ての行事をおこなっていた際場だろうと推測される。

Haguro02 Haguro00

この山頂付近には縄文遺跡があるという。
縄文時代から石を使った斎場はあったのだろう。
遠野は縄文から続く風土がいまだに根付いているところ。
そこにはたいてい、巨石がある。

そうした石をドルメンというが、関東地方は開発されてほとんどが失われているけど、東北地方はまだ残っている所があるので、保存してほしい。

●追分の碑

遠野物語には、デンデラノがあったり、山神の碑も多ければ山に一歩入るだけで死の世界があると感じさせるような岩や石碑などがあって興味深い。

Oiwake_2

追分の碑は、遠野郷の古道の別れ道に神々の石碑や石塔を置く場所。
ここは「右八おおつち」「左八はやちね」と、塩と信仰の道を示している。

追分とは道が2つに分岐しているところをいい、別れの意味もある。

神社の屋根に交差してある千木のように、2極の道は、人生の導きを決める大きな役目も果たしていたと思う。

ただ千木は2又から一つになるが、分岐した道は、一つから2又に分かれる。

だから一つの人生から2選択しないといけない道があり、そこに人との別れもあった。
選んだ道にはまた新たな人生があるが、進んだ道は引き返せないのと同じで人生に繰り返しはないのだから、追分には何か強い覚悟がみえる。

そこをちゃんと境目として碑を立てるのは、以前は商人や旅人が盛岡を目指して集まってきた街道途中にあったからでしょう。

その街道が今は信仰のように遠野物語に透過している。

秩父の街道とは地形が異なるため、切り立った急斜面の山々に比べて遠野は穏やかな大地が広々として解放感がある。

まだまだ深い話が残っている遠野。

また行く機会があったら、今度は早池峰の神々に会ってみたい。

Traintono
遠野へは、なんと新宿から高速バスが出ている!
しかしこれはきついし時間がもったいない・・・。
電車ならば、新幹線で新花巻駅で下車、釜石線で遠野駅(約1時間)で向かうのが一般的でしょう。
仙台を拠点にするならば、仙台駅から花巻駅までの高速バスがあります。

今回、宿泊した民宿御伽屋は駅前にある民宿で、ご主人の佐々木さんは、リンクしてる「不思議空間遠野」のブログを書いてます。
これらの遠野物語について詳しい伝説を知りたい時は、チェックしてください!
ディープな遠野が楽しめます♪

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ちちぶまほろば学(古御嶽城跡報告会2)

2013-05-19 | 新横瀬町誌

5月17日(金)2回目、どんな話に展開したのか~…謎多い石碑の城跡。
歴史とは、特に史料がない時は推測しかないわけでどんどん皆の妄想から現実化していき、
良い方向にすすんだ時が一番理想なのでは?と思う今日この頃…。
Hosi_2
横瀬の歴史探訪は、今年の1月古御嶽神社から始まり古御嶽城跡につながりました。
そしてこの約5か月間、いろいろな繋がりがあってそれを皆で共有しましょう!という事になり、勉強会をすすめてきました。

今回もガーさんからいろいろな資料を元に話を聞きながら、物部氏~言霊まで幅広い座学に。(場所は、星の夢をお借りして、また~り雑談・・・星の夢 http://hoshinoyume-chichibu.blogspot.jp/

まず結論といいますか推測ですが、先に述べますと、古御嶽城跡の中で最も重要なのは、「春日神社」。御嶽神社における創世神の3神以外の、「氷川大神」と右側にある三神の八幡大神、天照大神、に「春日大神」を含めるのが特殊であると。

御嶽教の三柱は、国常立尊、大己貴命、少彦名命という。
信仰と里を結ぶことが御嶽教の基本的思想と考えると、春日神社を三柱の隣に置くのは、春日の神を氏神として祀った子孫が石碑を置いたのではないか?と考えられます。

★古御嶽城跡について

http://blog.goo.ne.jp/inehapo/d/20130223

★前回の報告会

http://blog.goo.ne.jp/inehapo/d/20130326

▲なぜ春日神社が重要?---------------▼

春日神社の由来について。
春日神社は、春日神をご祭神とする。(奈良県春日大社が本山)

春日神(かすがのかみ)は、神道の神。日本全国に約1000社ある。

春日大社の祭神は以下の四柱の神。
武甕槌命(たけみかずち)
経津主命(ふつぬしのみこと)
天児屋根命 (あめのこやねのみこと)
比売神 (ひめがみ)


藤原氏(中臣氏)の守護神である武甕槌命(鹿島神宮)と経津主命(香取神宮)、祖神である天児屋根命と比売神を祀る。四神をもって春日神と総称される。

が、これがちょっと複雑。

その中のひとり、「天児屋根命:あめのこやねのみこと」は、春日権現といわれている。
岩戸隠れの時に祝詞を唱え、アマテラスが姿を表した時に、鏡を差し出した。また、天孫降臨の時は、中臣連の祖となり名前を「こやね=小さな屋根」とし、神の居所と伝えられる。この「こやね」が「ねこや」に転じた可能性は否定できず。

なので、根古谷や、根子屋(根古屋)といわれる地名が多いのは、元は「こやね」の居た場所ではないか?とも考えられる。
そのような元々社(やしろ)のあるところに城を建てるのは例外ではなく、「やしろ」と「しろ」の言葉も似ている。

Negoya
(二子山(左)と根古屋方面)

鹿島神社は東国征伐の最北といわれるだけに、征服できない人が茨城県にいた。
それが香香背男神(かがせおのかみ)という先住民。
そのため、「天ノ羽槌雄:あまのはづちお」を派遣させ、香香背男神を殺してしまう。
この「あまのはづちお」は、武甕槌命のことではないか?と。

天ノ羽槌雄は、兄がいてヤサカヒコ(八坂神社の八坂?)と同一族だという。
兄は「麻」を、弟の天ノ羽槌雄(あまのはづちお)は「絹」であるという象徴から、先住民VS渡来系がみてとれる。

また、武甕槌命(たけみかずち)の娘は、「ヒトリヒメ」という。(娘の名前は不詳。子が一人だった為この名前に)その夫が天児屋根命(あまのこやねのみこと)で経津主命の甥。
そして、この天児屋根命の斎名(いなみ)が「ワカヒコ」。
斎名とは、ホツマツタエでいう本名なのだ。

つまり、武甕槌命(たけみかずち)は自分の娘の夫を殺してしまう。

▲天児屋根命=ワカヒコ-------------▼

神話では、葦原中国を平定する時にタカミムスビの神は、ワカヒコを派遣しました。
(※漢字が不明、複雑なものはカタカナ表記しておきます。)
しかし何年経っても戻ってきません。
すると、ワカヒコはシタテルヒメと結婚をしており生活をしていたのです。
それを知り怒ったタカミムズビの神は、ワカヒコを殺すよう命じます。
この奥さんであるシタテルヒメは、高比売神(たかひめかみ)ともいう。
つまり春日大社に祀られている比売神ではないか?ともよめる。

Kaiko
比売神(ひめかみ)は人の名前ではなく神社の祭神の妻や娘の名前をいう。
またこの比売神は、養蚕女神の象徴ではないかと思う。

(写真:岩根神社のお蚕の女神像)

養蚕は秩父でも昔から行われていた。
岩根神社の裏手に養蚕の女神が祀られている。この神社の入口にはスサノオの石像。
イワネという名前の神社に狛犬は狼。
大きな金毘羅神社、三笠神社、御嶽神社の石碑もある。
(岩根神社の由来について、後で説明します)

さて、神話の話は続き、ここで興味深いのは、
ワカヒコのお葬式の時に、弔いにきた大国主の子とされるアジスキタナヒコネ(タカヒコネ)がやってきた。
カヒコネがワカヒコにそっくりだったので、両親は間違えて生き返ったと!喜ぶ。
しかし、タカヒコネは死んだ人と間違えるとは失礼な!!と怒って斎場を壊してしまった。

一人の人物に複数の名前がついているので、ごっちゃになってきてしまったが、まとめますと~…

タケミカヅチ=アマノハヅチオ(中臣氏が崇拝)は、香香背男を殺してしまう。

タケミナカタは、諏訪地方へ行き、既に住んでいたモリヤ氏と共に再建します。

これは星宮神社についてもちょっと記しましたが、この抵抗した人たちとは、完全に同一人物とは言えない部分もありますが、共通していえるのは、物部氏の子孫が深い関係にあること。

氷川神社が祀られ、春日神社を敬うというのは、物部氏が崇拝していたフツヌシの甥である天児屋根命=ワカヒコへの弔いも含まれていると思うのです。

平田篤胤は、アマノコヤネと思兼命が同じと言ってますが、仲が良かっただけでは?ということもあります。

また秩父の小鹿野や長瀞には、高根神社やフツヌシ、タケミカヅチ、アマノコヤネ、ヒメカミを祀っている神社が多い。
和銅黒谷の羽伝説も、鹿島と関係している気もします。

古御嶽城跡は、中臣氏が勢力をのばし物部氏の先祖を利用してきた背景があり、物部氏の子孫は、石碑を置くことで自分たちの先祖を弔った。

後に地元に移り住んだ人たちが、氏神の石碑を置いていったのでしょう

ワカヒコは天児屋根命のことですが、殺されてしまったことを公に祀れない何かがあったとして、それを隠しながらひそかに地元の人たち祀ったことがあったのでは?

またここに石碑を置く理由として・・・・・

①武甲山があり、人目につかない根古屋の奥(端)に置くこと
②戦国時代から飯能から敵が入ってくるのを防ぐ役目をしていた場所だった(塞の神)
③武甲山が、御嶽山と同じように亡くなった魂を天に送る山と考えられていた

Yokoze_2(横瀬町)

石碑を置く信仰というのは、日本だけに限らず、日本人とよく似ている性質をもつゲルマン人のルーン石碑にもみられる。
ルーン石碑は、ルーン文字で死者の記念を目的とし、建立者は死者を記念として石碑を建てる意味がある。

石像も石碑も先祖がやってきた方向を向ける意味はある。
有名なのは、モアイ像。
東の日本に向いているといわれているが、ここには耳長族の話が残されている。
先祖はあっちからやってきました~という方向へ向ける。

古御嶽城跡に置かれた石碑のうち、「八坂神社」「うがやふきあえず」「スクナヒコ」「ヤマトタケル」は天孫系といわれる天津神。スクナヒコは国譲りをバックアップしている。
つまり、これらの石碑は、武甲山に背を向けた形で北側を向いており、荒川下流の方向。荒川上流を目指してやってきた方を向いている。

ただ一つ武甲山に向いている金山彦は、山頂にある白鳥神剣神社を向いている。
剣は物部氏の霊力であり、鹿島神社でいう剣=直刀の霊力である。

他の石碑ついては詳細はわからないが、石碑の向きについて深く探ってみると全く偶然とはいえない。

▲塞の神としての根古屋--------------▼

もうひとつ、話にでてきたのが「防ぐ」意味があった場所として置かれたということ。

塞の神(さえのかみ)は、人だけではなく神も往来する分岐点と考える民間信仰がある。
悪い神を防ぐ目的で道祖神ともいわれます。

イザナギが禊をする時に脱ぎ捨てた「ふんどし」から道俣神(ちまたのかみ)といわれる。
その神を猿田彦神と同一する説もある。
古御嶽神社の前にある八坂神社と猿田彦神社、武甲山麓のお天狗様(猿田彦神)、三菱マテリアル近くにある猿田彦神社、他にもいくつか秩父には猿田彦神社が多く点在している。

御嶽山の先祖の魂を山へ返すという考え方があるように、単に成仏するだけではなく精神世界の魂の上昇を指す。
悪と断ち切るとは自分の中にある闇の部分。

埼玉県の「さい」は、塞(さい)の国の意味も含まれた可能性もあり。。。
幸魂国が「さちたま」と読まれて、後に埼玉県になったというが、幸「さち」あったはずの国が、塞「さい」になってしまった。
「さち」が「さい」に変化してしまったのも「封じられた」ということか?

「蝦夷」は元は、関東地方の蝦夷=土蜘蛛のことを言った。
大和からみる東国征伐とは関東地方のことを指す。
それがだんだん北上して東北地方が征服され蝦夷といわれるようになった。

つまりは、「さち」に戻せばいいだけなんだろうけど、それができない。
考えることも面倒、重たい腰を上げるのがね~。上がうるさいしね…。と、いったことでこの世を変えることができない。

このように堕落してしまった現在を、「葦原中国」という?
神話はそれを正そうといろんな神々(豪族たち)が奮闘してきた話。
なので、言霊では、現在は霊的進化の途中にあるということなのだ。

Kanaoyama Kofun
(簗瀬神社からみる金尾山と側にあった古墳)

▲海から荒川へ---------------▼

長瀞は岩畳として有名ですが、海ではない川であっても長瀞を歩いていると荒川が海のように感じてくる。それだけに荒川は大きくて緩やかに流れている。
でも昔は氾濫が多く荒々しい川だった。

たぶん、長瀞が海と感じるのは、海だった時の古い地層などがゴロゴロあって今だに残っていることが大きな特徴だと思う。

昔は今よりずっと川幅が広かったから古墳のあるところまで川がきていたと思います。

昔の人も巨大な地層や岩をみてびっくりしたと思う。しかもそれが海中から生まれていたと考えると、大地が海だったということも驚きだ。

それを懐かしく思った海人の面影が残っている所。

長瀞町矢那瀬というところに、「簗瀬神社」がある。
でも神名がない鳥居と神社。
社務所に簗瀬とあったのでそうだと思うが、靍宮神社(地図にのっているのだが、実際は探せなかった)かもしれない。そのへんよくわからず。

Yanase Sherinyama_2
(簗瀬神社と大山祇神)

簗瀬神社のご祭神は、天挟霧神(アメノサギリカミ)、ヤマトタケル。
大山祇神の援助により生まれた霧の神。(たぶん、航海中に起こった海上の霧のことかも)
天に対し野の国之挟霧神もいる。

この神社の裏手に「天手長男神」という石碑があった。
長崎県壱岐の一宮神社で、天忍穂耳尊、天手力男命、天細女命を祀る。
宗像大社の起源によると、三韓征伐で宗大臣の神が「御手長」という旗竿に竹内宿禰がもっていた紅白2本の旗をつけ、これを上げ下げして敵を翻弄し最後に沖ノ島(玄海灘)に立てたという。しかし元寇により荒廃してしまった。

Tenaga

ちなみに、「手長」の意味は、手が長い、盗癖のある人、島に手の長い人が住んでいた、宮中で酒宴など膳をを運び取り次ぐ人。
手長には、手長蝦、猿、島、蛸といった生き物の言葉としての呼び名がある。
こうした言葉が生まれるのも、海に住む人たちのことを指したこともあるかも・・・。

江戸時代になり、国学者の橘三喜がかつての鎮座地と思われる場所から神鏡などを掘り出し、その後祠を祀り祭祀が再興。元禄2年(1689年)には本殿、拝殿が再建された。

境内には物部布都神社(フツヌシを祀る)を合祀しているが、御手長との関係は不明。
今建てられている手長男神社は、「鉢形山」という名前の山にある
長瀞町の鉢形城と関係しているのかもしれない。
また、811年の大日本国一宮記には、天手長男神社のご祭神が思兼神であった。

Sheriniwane Sheriniwa

もうひとつ、気になる岩根神社。
岩根山のツツジ園があり、とてもきれいな所。神社のある場所も木漏れ日が差し、明るくて気持ちのよい神社!Iwane

ここには、宝登山と同じ伝説が伝わる。

崇神天皇の代、武沼河別命(タケヌナカワワケ)が東方12カ国平定の際、濃霧のため道に迷ったが、大山祇神の使いである巨犬が現れ命に導かれた。
ここに大山祇神を祀り、奉謝したとする。
後にヤマトタケルがここに剣を献じ、下って坂上田村麻呂社前の樫の苗木を植え、「吾が心、樫の如く、固く折れず、挫けず、東蝦夷鎮圧を遂げさせ給え」と祈願。

下って天文年中、藤田右衛門佐重利、地内に天神山城を築き、城の守護神として奉斎。鉢形城主北条氏邦もこれにならって崇敬したという。

狼の耳が一方は立っているけど、一方は垂れていて面白い。

Okami00 

祭神:大山祇神、大口真神、オオナムチ、武沼河別命、御嶽大神、コノハナサクヤメ、天手力男命、ヤマトタケル。

『古事記』によると、武沼河別命は、高志(越)の国の平定に向かった大毘古命と相津(会津)で出会ったとされ、これが会津の地名の由来という。

越国(新潟)から関東で合流して会津に向かったという話は、武沼河別命であり、秩父に立ち寄ったのだろう。
ここも蝦夷討伐の成功を祈願している。

荒川上流を船でやってきた氏族たちの話が多い長瀞。
「船」と名のつく地名がある小鹿野など、九州や新潟など海~荒川を経由して秩父へやってきたようだ。
Iwa_2
そして最後の終着点が横瀬町だった。
荒川を向かうなら大滝なのに、根古屋へ向かったのはなぜだろう。
和銅の近くは横瀬川と分岐している。
今より川が大きかったことを考えれば、横瀬に向かう方法も考えたかもしれない。
もしくは、荒川へ行けない事情があったのかも…。

根古屋は「端」にあたる。そこから先は峰々が連なる深い峠。
そこに根古屋城の見張り台として古御嶽城をかまえたのは、そこが最後の境界線として引いたのかもしれない。
根の古い根古屋と、御嶽城に「古」の漢字をつけたのも、これより先、新しく生まれ変わることはない意味にもとれる過去の城。

あまり知られないでほしい、そんな影の山奥には深い歴史の溝がある気がした。

▲言霊で解釈する古御嶽城跡---------------▼

ちょっと次元の違う視点から考えてみた。

言霊では多く「八」の数字が用いられるのも、この世は「七」の世界で終わっているから物質世界でしか理解できない。その上の次元を知るには「八」がキーワード。

それが何かを知っている人が退治した話が、ヤマタノオロチだという。
その時の剣を、中臣氏は「タケミカズチ」の霊力と崇め、物部氏は、「フツノミタマ」の剣として崇めた。

おそらくどちらも同じ剣を指していると思うのですが、中臣氏が、物部氏の剣の霊力を排除したと考えられる。
なので、フツヌシ=タケミナカタは負けてしまい、鹿島神社はタケミカズチになった。

Ishikami_3 Sherinishi_4
 

奈良県にある石上神社(いそのかみ)神宮は、フツノミタマの剣の霊威と、フルノミタマ、フツシミタマ(これがヤマタノオロチを退治した剣)を祀っている。
長瀞にも石上神社があった。剣が奉納されているというが見当たらなかった。
隣には「光玉稲荷神社」UFOみたいな名前の神社だ~。

剣については、他にも関係ありそうな所があった。
以前、水神巡礼で行った長瀞の「梅ヶ井戸」である。再び行ってみたところ、最初は気付かなかったのだが、上をみたら木でかたどった剣があった。
このあたりは春日神社や金ヶ嶽がある。

Ido (奉納御嶽甲大神)

梅は元は産むだったそうな。産むということの意味は言霊の子宮の意味がある。
それに井戸という水であるから、ますます深い意味のある井戸だ。
そこに御嶽神社の石碑と、大国主、少名彦の石碑もある。
馬頭尊もあるから、道行く人がたくさん行き交う場所であった。

子宮は「いのち」のこと。

言霊入門 ひつく神示によると、

Kototama
ヤマトタケルの唄にもある「八雲立つ、出雲八垣 妻篭みに 八重垣つくる その八重垣を」
これを言霊で解釈すると、八を4回言っているのは、四方八方のこの世を越えた次元の法則があり、ヤマトタケルは魂の目覚めの唄を言っていると解釈される。
八は空間の広がりであり、妻篭みの「篭」は、かごのことだが、子宮を現す。

三柱の神は、神と天と地を表し、天と地の橋渡しをする役目は国常立神。
言霊のいのちは「ヒ」「ミ」の火と水の意味がある。
いのちのヒミを司る国常立神に、地の世界がオトヒメ(龍神)とされる。

(写真:カタカムナ:上から時計回りにヰ、ネ、コ、ア、ワ)

国常立命を中心に、氷川太神、春日神社の他の神々が連なるのは、魂を天へ上昇させることができるように氷川と春日の神々を祀ったと考える。
それが物部氏の祖神なのだろう。

右回りや左回りというのも、ひつき神示でいうと、逆進化の霊力があり、右回りのイザナミが黄泉の国とされるのは、物質世界の固まった鉱物(石)であり、人間の意識にも働くといわれる。
石にしているのはその意味もあるかもしれない。
水と石は、人の意識に働きやすいから、伝達していくツールとして重要だった。

Tera
いのちの進化については、神話にあるイザナミは1日1000人を殺し、イザナギは1日1500人の産屋をたてると解釈される。
間違った方向へいかないように、正しい道へ導いてくれるのが、不動明王やウシトラの金神だと記されている。
(多くの神々には、大体、剣と紐みたいなものを持っているね~。)

(写真は、遠野にある福泉寺より。)

また、産屋は西日本では生活と切り離し、家から離れたところに建てる。
でも関東~東日本は産屋が離れにある痕跡がほとんど見当たらない。
出産は生活の中にあった東日本と出産は生活と切り離していた西日本の違いにより、出産が「いのち」と捉えていた思想は独特だったのかもしれない。

剣が綱と同じように、良い方向を正す道しるべとして多くの人の霊魂を上昇させる。
おそらく御嶽神の石碑はそのような意味を伝えているのかもしれない。
白鳥神剣神社の「神剣」もそのような道しるべの剣かもしれない。武器ではなく。

その方法などを知っていた人は過去にたくさんいた。
例えば、役小角、空海、菅原道真(関東に多いね)などなど。

魂の目覚めというと、スピリチャルの話で次元を超えてしまうから、嫌がる人も多いのだけど、これが神話の本質。

ただ物質世界でこれを解釈するには、難しいというかほとんど理解できない状態が今はある。

なぜ、この世が堕落したか。
天孫降臨とはこの世の次元上昇を促す役目として遣わされた者のことをいっている。しかし、邪魔をするものは多くいるわけで、それは今も変わらない。
大国主の霊力といわれる大物主を封じたというのと同じ、物部氏の霊力も封じられたと思われる。アラハバキがその例。

互いに境界を張って、敵の弔いと共に二度と復活できないように石碑をひいた。
それを巨石などの石を使って行われたのが祭儀となったり、軍として戦いに用いられたのが剣なのだと考えられる。

秩父は鹿島の氏族と物部氏や先住民との交流があったと思う。
国譲りは出雲に限った話だけではない。

つくづく今回の神社名の由来など、深い意味があると感心しました。
それに聞いたことない神々も現れて、いろんな人たちが秩父にやってきているのだと。

でもこれだけ古い歴史があるのに伝承としてほとんど住民に伝わっておらず、神社の由縁でしか得られないのは、やはり言えない過去があったのかもしれない。

まだまだ調べると出てきそうなのですが、このへんで古御嶽城跡についてはおしまい。(?)

今度は二子山~三角山を歩いてみないとわからないようなので、このあたりは、機会があったら身体を動かして感じてみようかな~。

<岩根山と長瀞町周辺>車がおススメ。

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野栗大権現

2013-05-16 | 新横瀬町誌

横瀬町苅米にある野栗大権現。
このあたりに住む家では「白い動物を飼ってはいけない」との言い伝えが残っている。

例えば、①上杉憲政が戦勝参り時、社を焼き払う。戦に勝てば立派な社を建てると約束した。
その時に白馬に乗って来たので白い動物は飼わない。早道場は憲政が急いで通った所と伝える。
②野栗大権現の周りや自分の家では白い生き物を飼ってはいけない。
③「代々白い動物を飼ってはいけない」
上杉憲政が根古屋城に居り、平景光の軍に破れ敗走する時、白馬にのって越後へいったことによる。

Photo_2
川中島の戦いで武田信玄と上杉謙信の騎馬軍団による言い伝えか?
武田軍についた武士出身者が鉢形城~横瀬に移り住んだ事により、このような言い伝えが残っているようです。

野栗大権現は、皆野町と大滝にもありました。
皆野町日野沢にも「根古屋」橋がある。
ここは金崎神社があり、ご祭神は知知夫神。
知知夫彦の墓も伝わっており大きな銀杏の木のそばにある。
ここを国神塚といい、元は金崎神社は金毘羅神社であり明治40年各社を合祀して国神と名付けた。

城があるところに根古屋とつけるのが定説らしいが、城があったかどうか、何もない所にも根古屋の地名が残る。
また金崎神社の東側に、以前は「野栗三社権現」があったと史料に残されている。

大滝には千島家が多いと知人から聞いたことがあった。
詳しくはわからないが、埼玉県の名字を調べることができるネットの情報から、野栗権現社の神主が千島家であったことがわかりました。
場所は荒川贄川町にある。

(贄川町近くの山々:三峰口駅から)

Ine_2秩父往還沿いにある贄川町は、戦国時代より前から住んでいた逸見家がいる。
逸見家はこの村の長だったようで、逸見蔵人という人は甲斐武田氏の家臣だった。
また逸見家は北条氏邦に仕え、鉢形城(寄居)を守ることになり、落城後皆野へ移り野栗大権現を祀ったといわれる。
贄川町も江戸後期、絹や紙、米殻が発展した。

横瀬町の根古屋城には、北条氏邦の家臣であった阿左美家がいた。
阿左美氏は武蔵七党の系図に入り、児玉郡出身。
児玉には金鑽(かなさな)神社があり、その側に居を構えていた。
落城後、横瀬町、皆野町にとどまり農民になったり寺(札所)を開いたり地域に貢献していたようだ。
ちなみに、札所34番水潜寺は、阿左美氏館跡として残る。

また阿左美は浅見と同じ系譜であり、浅見伊賀守慶延は、根古屋絹を作り、後の秩父銘仙の基礎を作った人でもある。

Photo_4 Photo_5

大滝、皆野、横瀬町と野栗大権現が祀られているのは、武田家の家臣として仕えた氏族が移り住み信仰したことによるだろう。

上杉謙信は関東官領といって鎌倉を統治していた。
実際はどうかわからないが、上杉に対する備えとして古御嶽城跡は根古屋城の見張り台の役目をしていたのかもしれない。
鎌倉~飯能~名栗~横瀬と入ってくる道をふさぐ役目。

また、所沢市の狭山湖に根古屋城(竜谷城)があり、名栗にも根古屋城跡がある。

Tochimotoview

(秩父往還:大滝栃本集落、昔は大宮~秩父市内~大滝~甲州までこの道を歩いていた)

▲名栗と野栗-----------▼

混乱する地名と神の名前。
どちらも同じだと私は思うが、名栗は地名。横瀬町のすぐお隣、飯能市吾野に位置する。
前に行った星宮神社のあるところ。

名栗の地名由来は、栗の木が多いという事と、韓国語の狸を「のぐり」という?とか。
栗の字は、黒い実のクミが有力な説だが、栗の漢字は「毬(いが)」を表す象形文字からきている。
3個の果実が簡略化されて1個の実になっている文字。

栗は棘に囲まれて実になっている。
なぜ棘じゃなくて、毬?という疑問。

神社にも○○三社と、3がつく名前もあるが?3個の実に何か意味がありそう。。。

打毬といのがある。官邸で蹴鞠をする行事があるがあれとちょっと似ている。
打毬も日本の遊戯で馬にのった者が杖をふるって毬(まり)を自分の組みの門に入れて競うもの。
元は騎馬民族により、6世紀ペルシャを起源とする。イギリスのポロはここから発しているのだ。

さて、いがぐりはトゲトゲで痛い!
これを球にして競いあった時代があったの?と、想像すると、どうしても「さるかに合戦」が浮かぶ。

カニは武器をもっている人で、猿は山に住んでいた人だと私は思う。
栗と臼と蜂と牛糞で猿を退治する話は、まつろわぬ民を追いかける様子にみえる。

どうも「大権現」といわれる何かの化身というのは、西洋か東洋のシルクロードを渡ってきたか、北方からやってきた異国の人のことをさしているような気がする。

栗は古い時代からあり縄文人の主食だったし、青森県三内丸山遺跡では、栗を栽培していた。
また、三度栗という伝説も各地にたくさん伝わっている。
特に静岡県に多く伝わっているので甲州を支配していた武田軍と対戦した徳川家康の話であったり、空海にまつわる話も残されている。

例:弘法大師空海が諸国巡礼の折、当地で幼子が空腹のため泣いていた。
これをかわいそうに思った空海は、子供のために湧き水を作った。
何も食うものもないのに元気に走り回る子供を不思議に思った親(または継親)が、子供の飲んでいたその水を飲んでみると、それは酒であった。
が、その泉で親が足を洗ってしまったために泉は枯れてしまった。
数年後ふたたびこの地を訪れた空海は、泉が枯れたことを知ると、年に3度実をつける栗をこの地に残し、去っていった。(Wikipediaより)

これを書いている時に、タイミングよくラジオで新入社員が望む上司が戦国時代の武将だったら?で、1位が「武田信玄」と言っていた。
上杉謙信はずっと下。5位か6位だったか・・・。
理由は、部下の力を引き出しチームワークをうまく活用していたという評価。
上司が部下とどのように関わっていくか親身になってくれるのが武田信玄のイメージらしい。
私は戦国時代のことがさっぱりわからないし、山梨県にも行ったことがない。
どちらが勝ったのか?すらよくわかってないし、正直どーでもいい。

戦国時代は命をかけて一族を守るために戦ったのが、今では新入社員が求める上司として崇められている…。
なんだかな~。

武田軍は馬を使ったネットワークが上手だったという。
飛脚というのではなく、早馬といって馬にのって情報伝達する。
あっちこっちに武田軍の早馬がいたらしい。

その他、おすすめ横瀬行脚---------------▼

Photo_6札所七番法長寺は牛伏堂といい、本尊は十一面観音(伝行基作)である。
当初、根古屋3区の牛伏にあったが、天明2年(1782)の災害にかかり別当寺の法長寺本堂に移され、これ以降、合わせ祀られている。このことから、現在、法長寺は札所七番と呼称される。
 法長寺は青苔山と号し、曹洞宗である。開山は凉堂寒清大和尚、慶長11年(1606)寂。

開基は内田家2代図書頭重賢であり、内田家は北條氏邦が婿養子に入った藤田の家系である。本堂は間口24.4m、奥行18mを測り、秩父札所随一の大伽藍で、平賀源内の原図によるといわれている。
 堂内正面の欄間には、四国札所八十六番志度寺の縁起玉取り物語の彫刻がある。また、堂内左右に座敷書院を配し、内陣のまわりには極彩色の彫刻欄間、格天井には花鳥が描かれている。
 なお、同寺は町指定文化財「紙本着色涅槃図」を所有している。
 御詠歌
  六道をかねてめぐりて拝むべし、また後の世を聞くも牛伏

また横瀬に藤原義明という方がいました。(守屋一族?)
横瀬村で武甲山にあった熊野堂の斎主。
評判がよくまじめで博学、村の風紀も良くなって安泰したという事。
法長寺にお墓があり、この碑も遠近の人たちによって後世伝えようと建てられた。

和歌
ち○○(カタツムリが邪魔してよめない…)
嶺のさとに
よはひをふりつめと ゆきにまかへて 春にきえける (藤原義明)

Photo_7

<野栗大権現への道>

横瀬駅下車、札所9番~7番~6番~8番と散策できる。野栗大権現へは札所7番登り口を過ぎて、武光橋の交差点を左へ。お蕎麦屋さんの前を通り、細い道を登るとすぐ左にあります。

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蓑山と知知夫彦

2013-05-02 | 秩父周辺の山々

美しい山と書いて美の山(みのやま)といいますが、標高がわりと低いので子供も遊べるとってもきれいな里山。

元は、蓑山と書き知知夫彦(秩父彦)の由来があります。

View_2

(写真:蓑山の山路から両神山がみえる(中央右)

知知夫彦が国司として赴任した時の話。(国府は現在の府中市にあった)長雨で悩まされていたところ、命は山頂で天気回復の祈願を行った。
すると雨が止み天気が回復したという。
その時に命が着ていた蓑を脱ぎ松の木にかけたのでその名前がついたという。

この話を聞いた畠山重能がたたえ、大山祇神、大己貴(オオナムチ)、高オカミを合祀して祀ったという。

Minosherinこのあたりは長瀞に近く、少し西へいけばすぐ寄居で鉢形城がある。
自然銅がとれたところなので、いろんな人たちが行き交って交易をしたり、銅の発掘に専念していたのでしょう。

蓑は、農業用の雨具で「田蓑」という。
「隠れ蓑」とは、着ると姿を隠すことができるといい、天狗や鬼の持ち物とされた。
ウコギ科の小高木の植物の意味もある。
彦根市に伝わる話では「蓑火」は謎の発光体のことをいう。

この蓑を着ている人をイメージするなら、山人でありマタギではないか?と思う。
本当に秩父彦が蓑を着て山頂へやってきたなら、秩父彦は農作業もやっていた人なのか?普通に庶民に透過しているようで興味深い伝説。

この蓑をみて思い浮かぶのは、遠野の大きな藁人形。
藁人形のお祭りがあるそうだが、この藁がスサノオの事ではないか?と現地ガイドさんが言っておりました。

Wara Mino_2

(写真左:遠野の藁人形  右:蓑)

雨風祭りのワラ人形-------------
8月下旬に行われる等身大の藁人形を男女2体つくり「210日雨風まつるよ。おおきたのはてまで送るよ」と言って人形を村境まで持っていき納めます。
この時期から台風がやってくるのを農作物から守るため遠野各地で行われていたそうです。
藁人形の高さは2mくらい。
現在では藁人形を省略して旗だけのところもあるそうです。

そういえば、スサノオとは血のつながりはないそうだが、(スサノオも実際いたのか不明)
同じ系譜で猿田彦神がいらっしゃる。
秩父にも数多くの伝説を残し猿田彦神社も多い。

吉田の椋神社(ご祭神は猿田彦命)に伝わる話では、日本武尊が奉持した矛より発した光の様を尊び、氏子たちが神社前方の吉田河原で大火をたき、その燃えさしを取つて力の限り投げ、火を飛ばして光を放ち御神慮なぐさめた」

Ookami皆野町の椋神社ではお祭り行事では、「大晦日に日野沢大神社で神事のあと猿田彦命を先達に笛、太鼓の行列で村はずれまで、となえごとのうちに形代を村堺の川に流す。」とある。

この蓑山神社には、狼が鎮座されている。
あんまりにも細い狼でこっちが申し訳なく思ってしまう・・・。

▲オイヌのクボ・・・・・・・・▼

山の中腹に「オイヌノクボ」という名前がある。
沢山の狼がここにいて、地元の人がそのうちの一匹を殺して毛皮にしたところ、毎夜、狼の遠吠えで眠れず。ついに毛皮を返すことになった。
その日から遠吠えは止み、山中に狼たちが死んだ狼の葬式をした跡があったそう。
そこをオイヌのクボといい、1年に1回オタキアゲをするようになったという。

狼のいるところに産鉄族あり・・・・知知夫彦を祖先にもつ氏族は大伴氏らしい。

Mori05

★大伴氏と物部氏-----------------

秩父彦から始まる氏族に大伴部直(あたい)がいる。秩父氏はこの系統からきている。
大和政権では部民制があり、大伴部(伴部)は豪族(王)に属していたことを示す。
大伴部は大伴連に属したといわれ、連(むらじ)とは姓のひとつで「部」と違い今でいう官僚のような立場にあった。

八色の姓(やくさのかばね)には順番があり臣→連→首(おびと)→直の姓が上位にあり、こうした氏族は皇室への権力を握り「氏」は天皇への忠誠を誓うような意味があったといわれている。

大伴は大きな伴造という意味で、武蔵の軍事を司り物部氏も同じ位置にあった。
大伴氏と同じ祖先が賀茂氏。(どのようにして別れたかはよくわかりません)物部氏は国軍的な存在であるのに対し、大伴氏は親衛的だったようです。

▲入間市の伝説--------------------▼

私は個人的に入間が好き。住みたいと思うくらい良いところだ。
電車に乗ってて入間市に入ると空気が変わる。とても気が良い所なのかもしれない。
ただ、この入間にホントカ?!って言いたくなる伝説がある。

昔、天に2つの太陽が出た時があった。
昼、夜となく照りつけるので作物が枯れてしまった。
これは魔物の仕業だから弓の名人をよんできなさい。

男の弓は1つの太陽を追いかけ、武蔵国入間までやってきた。
弓れ射ると黒雲から雷がなり3本足のカラスが落ちてきた。

太陽は元に戻り作物も生き返った。
天子も喜びその男は「いるまのすくね」と賜り、入間(射留魔)というようになった。

Mori04

飯能市には日射、矢おろし、前ヶ貫(矢が貫いた所)の地名が残されている。
この矢を射られたのが毛呂山町飛来大明神(日落射大明神)なのだという。
この神様は出雲伊波比神社に鎮座し、流鏑馬が昔から伝わっていることで有名。

国府は現在の東京都府中市にあり大化の改新以降、1つの国だった知知夫国は无邪志と
合わさり武蔵国となった。

出雲伊比波神社の由来ではヤマトタケル東征、この地で天皇よりヒイラギの鉾をおさめ神宝とし、出雲のオオナムチノ命を祀る。
无邪志(埼玉・東京都境界周辺荒川流域)の兄多毛比命(エタモイ)は出雲臣の子孫。
埼玉古墳群をつくるほど大きな力をもつようになり、上毛野国・胸刺国(多摩地区の方)を破った。

兄多毛比命は出雲の天穂日命(アメノホヒノミコト)を祀り、オオナムチと共に出雲伊比波神とした。

八色の姓は、後に天武天皇の時代に改革し連の姓の地位を下げ、朝臣(あそん)や真人(まひと)が上位に変わる。
朝臣が1番位が高く、古くは阿曽美といった。
これには壬申の乱が関わっており、業績をあげた人が昇格し臣姓を持つ人の次に連姓をもつ氏族は「宿禰(すくね)」の姓を与えている。

2つの太陽伝説は異なる氏族の地位争いがあり、ここに大伴氏と物部氏が関係しているように思える。

入間宿禰を名乗ることになった人は、物部直広成(8世紀頃)。
藤原仲麻呂の乱の功績により「宿禰」の姓を与えられたという。
入間宿禰は蝦夷征伐にも力を入れていくのです。

おそらく鬼や土蜘蛛や蝦夷といわれた氏族を討ち倒すことで昇進するような仕組みが天武天皇の時代より活発になっていったのかもしれない。

で、消された太陽は誰なのか?いろんな説---------

Turiganesou(イカリソウ)

説①大伴氏-------------
矢を射ったのは物部氏で、射られたのは大伴氏と考える。
でも物部氏も出雲系。
しかし、ここで物部氏が敵だったり味方だったりイマイチわからない動きがある。
物部氏の中にも反対派がいて大和朝廷についた人がいたと考えられる。
そっちが勢力を強くしていく背景に、鹿島神宮の存在がある。

つまり、鹿島と物部氏が同盟を結んだか無理やり結ばれたかで、すでに住んでいた氏族を排除していこうと考える。

なぜ大伴氏が落ちたのかというと、「ヤタガラス」とはっきり言っている点。
大伴氏と同じ氏族である賀茂氏はヤタガラスの象徴で熊野信仰が中心。

天武天皇は壬申の乱(天智天皇の息子と権威争い事件)の時、吉野にかくまったことで有名。
その理由は役小角がいたからという説が有力らしいが・・・。
役小角は賀茂家出身。

日高市や飯能市高麗など役小角の像があったり修験者が多いのも意味があり。
他にも入間まで逃げてきた人が大伴氏ではなく熊野の修験者ということもありうる。

Momiji02(クサイチゴ)

説②賀茂別雷神-------------

神武天皇が東征の時に熊野から大和へ道案内した人が、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)この方も化身がヤタガラスという説。

雷は神鳴りとするとふさわしい。

日本書記では阿遅?高日子根神がいて同一とされる。
またこの難しい漢字の人は、味鋤高根彦神ともいわれ、埼玉県比企郡の黒岩古墳群にあるポンポン山に神社をもつ。

ポンポン山という面白い名前の山は、ポンポンと山から音がするからということらしいが、その音は製鉄の音が有力。
実は北海道にも同様の名前の山があり製鉄族と関係しているとあった。

この人は全国に神社をたくさん持っているが、気になる情報のひとつに宮城県の塩竈神社に祀られている紫波彦は、味鋤高根彦神だということ。
陸奥の一宮にあたる塩竈神社を祀る神が味鋤高根彦だといわれるから、関東に土蜘蛛とよばれた人がいてそのような人たちとの接点が深いと思う。
(関東の土蜘蛛とよばれた人が東北へ逃れて蝦夷とよばれた人たちと合流した)

確かこの塩竈神社を伊達正宗が深く関係していて、伊達正宗も妙見信仰だという話。
このへん詳しくないからよくわからないが、繋がってないこともないな~。

また、賀茂建角身命の曾孫が高皇産(タカミムスビ)。
アメノミナカヌシ・カミムスビ・タカミムスビは、共に造化の三神とされ、いずれも性別のない神。
この造化三神のうち、カミムスビとタカミムスビは、その活動が皇室・朝廷に直接的に大いに関係していると考えられたため、神祇官八神として八神殿で祀られた。(Wikipedia)

つまりは、天津神より前にいた氏族と考えられる。

Hanaikada (ハナイカダ)

説③長すね彦(安日彦)--------------

神武東征前に政情不安の時に太陽に矢を引く神事を行っているときいたことがあった。
東征を狙っていたのを止められた可能性もある。
金色の鷲が神武の弓に止まり、長すね彦の軍は眼がくらみ戦うことができなかったという伝説がある。

神話によると、長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。
名を櫛玉饒速日命という。私の妹の三炊屋媛を娶わせて、可美真手という子も生まれた。
ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。
どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べた。
天皇は天つ神の子である証拠として、天の羽羽矢と歩靱を見せ、長髄彦は恐れ畏まったが、
改心することはなかった。そのため、間を取り持つことが無理だと知った饒速日命(ニギハヤヒノミコト)に殺された。  

この話が祭器としてつくる鉄の道具などの技術進歩により、政権交代が生まれたと考えられている。
神器の変化は当時は大きかったと思います。
2つの氏族が異なる方法で祭器や儀式を行っていることに不満を持っていた神武天皇が、鉄を用いたものを選んだのかもしれない。

長すね彦のアニミズムな祈祷を行うより、治水工事や製鉄技術など現在とさほど変わらない高い技術力を持っていた氏族が行った儀式が信頼されてきた。
その影響を与えたのが伝説でいうとニギハヤヒ。それを祀って崇めてきたのは物部氏。
この時代にも高度成長期といわれた日本の変化に等しい経済力の発展もあったと思われる。
焼畑農業から稲作農業の変化に早く対応したのは物部氏かもしれない。

しかし大和政権に対抗した為、長すね彦は東北へ逃れたといわれています。

Hotarukazura01(ホタルカズラ)

説④最後に気になるのが秦氏と役小角------------

消された太陽は秦氏?
聖徳太子に仕えていた秦河勝は聖徳太子に仕えていたという。
大伴氏側についた秦氏は、福島や東北地方へ逃れた話も残っている。
ヤタガラスが役小角であるという説も否定できない。
葛城山に阿知須岐託?彦神社があり、土蜘蛛が住んでいたところ。
ここは賀茂大神であり、役小角の祖先にあたる。
賀茂大神とは一言主として神話にでてくる神。

いずれにしても、知知夫彦の子孫になる秩父氏、丹生氏、平将門伝説の多い秩父に共通するところは、妙見信仰であるということ。

入間の伝説は、出雲の国譲りに似ている。

秦氏も賀茂家も妙見信仰。長すね彦はまだよく共通点がわからないけれど、アラハバキ信仰という蛇信仰は、東北地方に限っていたわけではなく関東地方にも巨石信仰はたくさんある。その信仰を以て東北に伝わったこともあるかもしれない。
逆に東北地方の蝦夷が関東へやってきて合流した説もある。

荒川の氾濫に苦しんだ先住民(縄文人)に、天文学を通じて治水工事や灌漑用水を行ってきた技術者集団があって妙見、丹生、といった神々を崇め武甲山を神奈備山とした。

秩父神社の北斗七星、妙見井戸、大滝に伝わる7つの妙見社。
すべては北斗七星に結ばれる7つのライン。
その中心に北極星を考えて秩父神社に天之中主命をおろし、関東(武蔵国)の中心を秩父にした。

伊豆に流刑にされた役小角が秩父へやってきたり賀茂家との縁があるというのは、安倍清明の陰陽師にも通じる。
例えば小鹿野町にある鷲神社というのは五芒星が3つ並んでいる。

武甲山はかつては妙見山とよばれた。
天という人を祀っているのではなく、大国主の霊力を祀る三輪山と同じ山とし、スクナヒコを祀っているところも、世の中の動きを宇宙の星から予測をしていたことを政治的に使われることを嫌がった氏族が後からやってきて、自分たちの神々を置くようになった。
武甲山は天体観測のようなことを儀式的にやっていた山だったと思う。

Hana
なぜそんなに星信仰が嫌われるのかは、女性の霊力が関係しているかもしれない。
卑弥呼の時代、女性の力が絶対であったころは男性社会には邪魔な存在と考えられた。
女性は出産するので生みだす力があるとされる。女性社会では男性の権力が誇示しにくい。

その星信仰はすでに縄文時代からあった。
なので女性を象る土偶がたくさん造られ壊されたのは、女性の影響力が強かったこともあり、
病気や怪我や出産など、生み出すことも失くすこともできる陰陽の力をもっていたのが女性だと考えられていました。

武甲山からおろした星神が秩父神社へ流れるようにしたのは縄文時代からあった蛇と水神=女神信仰の名残である。
役小角が水を祀るのは、北斗七星と秩父の大地を柄杓という水で結ぶ儀礼を行っていたかもしれない。
いろんなところで役小角が歩いたところは、水神や石を祀る傾向がある。
北斗七星にそのようなマジックがあるかわからないけれど、妙見信仰の特徴に7の数字が深く関わっているのは確か。
今宮神社の御田植祭りで秩父神社に水を返すのは、かつて行われていた水神信仰がすたれないように残した儀礼ではないか、と思うのです。
その水を運ぶ箱は、失われたアークみたいな不思議な光景。

役小角は後世に伝えるために歩いて水を祀っていたと考えら、後に誰かが儀式にした。

私の憶測でもあるけれど、古代は秩父に争いをあまり持ちこまないようにした配慮があったような気がする。あまりドロドロしい歴史を感じない。
それは神聖な場所として汚さないことがあったかもしれない。
ただ、武蔵国に統一してからおかしくなってきたようだ…。

そこから突っ込んで考えると、水神って何?ってそれが妙見信仰という話。
妙見信仰の話はまだまだわからないことだらけ。
なぜ秩父なのか?がわかるかもしれないけど、狼にも関わってくる話。
それはとーーーっても深いものになっていくので、簡単に語れない。

こればっかりは、秩父を歩いて身体に染み込ませていかないと知ることができない。
ってことは、頭で考えることを捨て、身体に覚えるという修験者みたいなことになってく…。
まあそれは無理なので、できる範囲で女神信仰について伝えていけたらと思います。

View03

▲美の山情報------------------------▼

連休中の今ころはツツジが見頃。

この時期行った時は、山野草がたくさん咲いていてとってもきれい。桜の森のように桜が咲くことでも人気のある山です。

山頂は広くベンチもあり景色も良い。

参考:往復所要時間4時間(休憩も含む)

和同黒谷駅~聖神社~和同開珎石碑入口を通り過ぎ看板頼りに登る。山頂近くからツツジが。山頂から下りは親鼻駅に向かうルートで。

榛名山神社~展望台~蓑神社~下へ降りずに横の路を歩き看板のある広場へ。このあたりがオイヌノクボらしい?~親鼻駅へ。

Arakawa 03

★カフェ情報★

親鼻駅へ向かう途中に、ポットホールのように穴のあいた地層がみられます。(写真上)興味のある人は寄ってみると面白いです。(小さいけど看板あり)

再びもどり交差点を渡り長瀞川に沿ってあるくとすぐ「ブックカフェギャラリーPNB1253」があります。ここのはちみつガレットはとっても美味しい~♪

疲れた時は寄ってみて下さい。

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