秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

龍岩と乳水

2013-01-29 | 水神巡礼(秩父編・その他)

秩父水神巡礼⑥(札所編・19番、20番)

・弘法大師が天皇の病気平癒のため千手観音様を刻んだ。(810~813年頃)

ある年、日照りがつづき人々は飢えと渇きで苦しんでいた。この地を巡錫した弘法大師が雨乞いの業法を修したところ、突然大岩が二つに割れ大きな竜が天に昇った。すると間もなく大雨が降り、人畜草木ことごとく生気を取り戻し、五穀も豊穣となったという。

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札所19番 龍石寺飛淵山

大きな岩の上に建つ札所19番。周りは住宅なのだが、降りてみると段丘崖に建っているのがよくわかります。新第三紀の地層。(2,303万年前から258万年前)

龍穴・・・陰陽道や古代道教、風水術における繁栄とされる場所。

陰陽道では露出した活断層は、神社を建立する際その土地の構造を鑑み、陰陽が重ならない土地が龍穴として選定された。日本国内ではほとんどの大きな龍穴に場所に古社があるという。(wikipedia)

秩父は古い地層で成り立っており、ほとんどの札所は古い地層の上に建っている。龍にちなんだ話があるのはこのお寺。秩父ジオツアーにも組み込まれている所です。

弘法大師の雨乞いは、有名な伝説では神泉苑の清瀧権現がありますが、京都の醍醐寺の守護神としておかれていて、元はインド神話の八大龍王の一つ(第三王女)で良い龍。インドでは悪い龍もあるが、秩父では悪い龍を退治した話が多い。

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観音様は龍にのってやってくる話があるけど、飛来してくる何かなんでしょう・・・か。

このお寺は珍しく茶筅塚があり、茶道において抹茶に使う道具を燃やして灰にして供養するのだそう!こういうのは日本人の崇高な精神が受け継がれていると思います。(写真右)

ちなみに、御堂のすぐ横に三途の川という名前が書いてあって老婆の御堂もあったのですが、ここは怖い感じですがとても感じが優しくて癒されました。

鬼とかいわれる老婆というのは、悪く捉えがちなのですが私は大体多くの寺院では癒されます。少しの間でしたが、このお寺では気持ちがとっても楽になりました。不思議・・・。

19番から下へ下り秩父橋を渡って歩くこと15分くらいで、札所20番があります。今は崖崩れがあって近道を通ることができないため、橋を渡ってそのまま車道を歩くと美容院過ぎたすぐ先に細い登り道があるので、そこから行くと近道で20番までいけます。(看板があります)

さて、札所20番岩之上堂もなかなか癒される所にあります。

伝説① 急病の母のもとにかけつける娘がいたが、荒川が増水して渡し舟が出せません。そこへ一人の若者がやってきたので、舟に乗り母のもとへ駆けつけると病気が治っていた。
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伝説② 昔、この里の豪家に仕える乳母があり。如何なることか日毎に乳房細まり授乳することかなわず、ついに解雇されようとしたので、この岩之上堂に来り、本尊を拝し泣きながら後生安楽を祈り、母子ともに岩下の淵に沈まんとした時に、後より声あり

「汝死することなかれ、岩下の苔の滴を呑むべし」と振り返りみれば姿なし。不思議とこの水の滴を頂くままにち乳房張り乳ほとばしる。嬉しさのあまり直ちに主人の家に走りこのことを告げしに、、是れ実に観世音の利益なりと主人と共に伏し拝み、始めのとおり乳母として仕える身になったという。

これにより、乳水場として婦女子信仰の場となったと伝えられる。

201_7 (乳水場)

氷河期に海水面が下がり荒川の浸食が進んで、高、中、低段丘と3段になっており、19番や20番は低段丘で約7万年前にできたものといわれています。溶けた石灰分が小さな鍾乳石を作っていて、滴のしたたる音が聞こえて神秘的な所です。197_5 

(この岩の下に乳水場がある。浸食された古い地層というだけあって岩場の迫力は圧巻!)

境内には熊野神社もあるので巡礼には良いです。20番の乳水場は階段を降りていくのですが、少し急なので足場に気をつけていけばOKです。ただ荒川の展望は望めません。

龍の荒々しい19番と、荒川の優しい20番の空気がちょうどよく、ゆっくり散策するのは最適です。特に女性の方には!時間があれば、21番、22番へ足を運ぶとよいでしょう。

このあたりはずっとブコウさんが見えてます。

195_3
札所19、20番への道>

ちちてつ大野原駅下車→改札を出て209号線を歩き橋を渡った先を右。看板あり。宗福寺を過ぎて碑があるところ左折。細い道を歩いて行き二股の道を右折。大通りに出て酒店がみえるとすぐです。

20番へは、ちちぶ橋を渡って車道を少しあるくと美容院があるので、その先細い道があるので、登ってあるき、次の道を左折。5分くらい歩くと20番に到着。

 

大きな地図で見る

 

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牛と聖徳太子

2013-01-26 | 神話・伝説

吾野の牛頭天王へ行ってからいくつか気になることがあった。
スサノオは、牛をトーテムポールとしていた人であって、牛のような角の生えた存在であったという事。そして渡来人であり、天津神であるという事ではないか?
国津神ではなくて・・・。

龍(蛇)をトーテムとしていた人(大国主など)と牛をトーテムとしていた人(スサノオ)。2つの対立した部族間の争いも神話に書かれている事もある。特に牛や鹿などのように角のはえた存在は、ヨーロッパ神話にもよくでてくる。
ただ、日本の神話に猿田彦神の先祖がスサノオと書かれている。そのつながりがよくみえない。

Moon

(月山から。雪の量がどのくらいかをみて、今年の豊作を占うのだという)

子の権現の由来にある出羽三山にも牛と関わりがあるのだから、蜂子皇子も聖徳太子も牛に関わりがあると思う。
出羽三山伝説では、湯殿山開山は、丑年丑月丑日。
三山(元は葉山も入っていた)の全容は牛がうずくまった姿になってみえるので、臥牛山(がぎゅうざん)とよばれている。
Chichibu
頭は湯殿山、背中は月山、尻尾が羽黒山。
それに対し、秩父では龍神山がある。頭~背と尾が龍の姿とみたてた山が、両神山。
秩父で一番古い2億年くらい前の地層がある巨大な塊。ハワイからやってきた岩だ。
仏教が入り、新たな宗教がもたらされ、ヤマトタケル伝説によって「八日見山」となり、イザナギ、イザナミの2神ということで、両神山とかわった。
もとは両神山は龍族なので、牛族に変わったのかもしれない。
つまり両神山も、もっと古い時からの神奈備山といえる。(写真)

牛伏寺(長野県)というお寺があり、ごふくじと読むらしい。
山号は金峯山。本尊は十一面観音様で、修験のお寺として有名。
寺伝によると、聖徳太子が42歳の時に自ら刻んだ観音像を本尊として鉢伏山に安置した。
756年唐からもたらされた大船若経600巻を善光寺奉納する途中、経典を運んでいたところ、2頭の牛が倒れたことから牛伏寺と名付けられた。

この鉢伏山の山頂には蔵王権現を祀っている。ここが修験が盛んになる理由。

ちなみに武甲山も蔵王権現を祀っていた時があった。修験者たちが武甲山を須弥山とみたてる理由の一つ。
生川登山口の東には三角山に挟んで西は根古屋城跡、西には古御嶽城跡がある。
根古屋城は元は寄居町の鉢形城に住んでいた長尾景信がいて、家紋は九曜巴であり、妙見信仰から生まれている。妙見信仰の一族、千葉氏は遠野市(岩手県)の曲り屋として有名。

八幡信仰と融合しているので、横瀬町のように元は武家出身の家は、八幡様をお祀りしている家がとても多い。

それに鉢形城は北条氏が権利を優位にしていたのだが、北条氏は三つ巴が家紋。龍族を現す蛇である。
その北条氏から逃れてきた一族が武甲山付近に住み、城を建て修験者を受け入れてきたと思う。(そのルートは今調査中)

長野県に布引観音というお寺がある。ちょっと山寺に似ている。信濃三十三観音霊場26番札所、724年行基によって開かれたといわれる。
「牛にひかれて善光寺詣り」は、この布引観音から。

Temple01
長野県東御市に強欲なおばあさんがいた。
千曲川で布をさらしていると一頭の牛があらわれてその布を角にかけて走りだした。
布をとりもどすために、おばあさんは山を越えて牛を追いかけていくと、善光寺の境内までやってきた。しかし、牛は金堂のところで消えてしまったので、驚いて疲れはて、そのままたたずんでいた。
やがて日も暮れる頃に、一条の光が差しおばあさんは光の尊さから罪悪感を詫びて家に戻った。

これは、信仰心のないおばあさんを観世音菩薩が牛に化けて信仰の導きをしたという話。
社殿は白山社という。
2年前の夏に行った時、裏側の駐車場に車を止めて行ってみた。
そこに池があったのだけど立ち入り禁止になっている。
何かの視線を感じて、ふっとみると、偶然ニホンカモシカが水を飲んでいたところだった。
あちらも不思議そうにじ~っとみていた。

Sika

ここの観音堂境内にも太子堂、護摩堂などがあり行基が建立したうえに、聖徳太子が聖観世音菩薩像を安置したとある。

かなり前だけど、法隆寺の夢殿へ行ったその日は、ラッキーにも御開帳の日だったので、救世観音立像を拝見することができたのですが、お顔は日本人離れをしていた。
本人ではないとしても、遠くから大陸を渡ってやってきた人だと思うのが自然かもしれない。日本最古の八角堂といわれているので、八角にする意味には深いものが隠されている。

Temple02_2

▲十牛図▼

禅の悟りにいたる道筋を主題とした十枚の絵がある。
牛は人の心の象徴として現されている。
トランスパーソナル学が禅的であるという事は、こういうところからも説明がつきそう。

悟りとは何か?を伝えた人たちが牛族かもしれない。

資料を参考にしながら、ちょっと自分なりに解釈してみた。

1、尋牛(じんぎゅう)意味:牛を探そうとする
    解釈:自己探訪:私は何?どんな存在?
2、見跡(けんせき)牛の足跡をみつける
    跡=経典など  興味のあるものを見つけ、指導を受け漠然とした目標を定める段階。
3、見牛(けんぎゅう)牛の姿を垣間見る。
     恩師との出会いにより少し存在価値がみえてきた。
4、得牛(とくぎゅう)力づくで牛をつかまえる
   行動に起すことで、目的やどんな役目で存在しているか気付くことができる。
5、牧牛(ぼくぎゅう)牛をてなづける
   目標にしているものを自分のものにするため、自己研鑽をする。
6、騎牛帰家(きぎゅうきか)牛の背にのり家へ向かう
    悟りがようやく得られて世間に戻る。
    今の自分と違う本当の自分の発見により、自己を超えることができる。
    (この家とは、自分の真の姿と考える)
7、忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん) 家に帰り牛のことを忘れる
    自分の核となるものを超えて吸収できたが、まだ自分の中に自分がいる状態。
8、人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)  すべてを忘れ無に帰一する
    本当(本来の)自分の姿。
    何の目標も欲も持たず、ありのままの自分の姿にもどる。
9、返本還源(へんぽんげんげん)原初の自然の美しさ
    心と精神の調和。自分の存在も含めて軽くなりすべてが美しく見えるようになる。
10、入鄽垂手(にゅうてんすいしゅ) 悟りを得た修行者が街へでて別の童子とあそぶ姿を描き、人を導く。他人に伝授できる能力をもつ。

聖徳太子も渡来人で修験の基盤を作った人かもしれない。
その前にすでに龍がいて、その足跡を消されたという事。ちょっと調べてみたら、「白牛」というのがあり、菅原道真が関係しているとあった。
白牛は、シヴァの乗り物。仏教と対立するヒンドゥー教。
牛はインドから中国、朝鮮半島を通り日本に上陸した宗教。
ヨーロッパでは牛よりも鹿が多い。
牛の宗教感はいろんな国の地域の宗教が混じりあって日本には修験道として変化したものかもしれない。

牛の角は月を現すともいうが、それだと月神は女性であるので女神といえる。
蛇も女性、牛も女性、そして狼も女性であるという共通点。
結局は女神につきあたる。

Sika02 Water

落ち着かないのか、写真を撮っていたら鹿が去ってしまった。ただここの光の輪はすごい。

布引観音の森は、とても神秘的な森だった。

<布引観音について>小諸市観光協会

http://www.kanko.komoro.org/midokoro/nunobiki.html

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山神様の日

2013-01-17 | 日記・エッセイ・コラム

1月17日は山神さまの日だという。

この日は、山に入ってはいけないので山仕事を休む日。

なぜなら、神様が木の数を数える時に、人間がいると木と間違えて数えてしまうから。

この日に猿田彦祭りをする地域もあるという。

面白い山文化だ!

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写真:横瀬町宇根地区のお天狗様。

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修験の聖地 吾野②

2013-01-14 | 秩父周辺の山々

Wa竹寺と牛頭天王

昔、牛頭天王(ごずてんのう)が乞食の姿をして村々を回っていました。
そんなあるとき、大きな門構えのりっぱな家があったので立ち寄ろうとすると、「きたない乞食だ。来るな」と門前で追い払われてしまいました。しかたなく、とぼとぼと歩いていくと、今度は一軒のみすぼらしい家がありました。
そこで、乞食の姿をした天王は一夜の宿を頼みました。
 この家の主人は、蘇民将来(そみんしょうらい)という名の大変情け深い人でしたので、この乞食の姿をした天王を迎えて温かくもてなしました。
 翌朝、天王は厚く礼を述べ、「あなたは情け深いお人だ。必ず幸いが来るでしょう」と言って、帰っていきました。
 しばらくして天王は、王妃と8人の王子を連れて蘇民将来の家を訪ねてきました。
「あの時の乞食は、実は私です。あなたに親切にしていただいたお礼に、あらゆる災難から逃れる秘法を教えましょう」と言って、茅の輪の作り方を教えました。
そして、「もし災難がふりかかりそうになったら、この輪をくぐりなさい」と言って、立ち去りました。
 その後、ひどい疫病が流行して多くの人が次々となくなりましたが、蘇民将来はこの茅の輪のお陰で疫病から逃れることができました。これを伝え聞いた人々は、門前に蘇民将来と書いたお礼をつるして、災難から逃れるようになったということです。
 また、茅の輪をくぐると、1年間災難から逃れられると言われています。
 今でも天王山八王寺(竹寺)には、この茅の輪が飾られていて、大勢の人が
これをくぐり災難を逃れたということです。
天王山八王寺は、この牛頭天王をおまつりしたお寺です。(飯能市郷土館)

八乙女(女神)が東北で、八王子(男神)が関東。

岩手県で有名な裸祭りは、蘇民将来祭りのこと。

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広島県の素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)縁起では、旅の途中で宿を乞うた武塔神(むとうのかみ、むとうしん)を裕福な弟の将来(『備後国風土記』では「或本作巨旦將來也」とあり、
巨旦将来〈こたんしょうらい〉と表記され、金神のこととされる)は断り、貧しい兄・蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、弟将来の妻となっていた蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟将来の一族を滅ぼした。
武塔神はみずから速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗り、以後、
茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。(
by wikipedia)

八坂神社も厄除け祈願の行事があり「蘇民将来」の護符があるという。
金神は方角をあらわし、その年の干支によって変わるのだと。
その方位に特に土を動かしたり移動したり新たに建築したり旅行などをすると
良くないといわれている。
横瀬町を歩いた時に猿田彦神社と八坂神社が並んであったのは、武甲山の方より西に向いている。神社の建つ方角は特にないのですが、鬼門に建てることや何か意味があるかもしれない。

Mamekuchi_2子の権現から竹寺へ向かう途中に、豆口峠という場所がある。(写真)

昔、名栗の森河原に住む人が実家から帰る夜道に、豆口峠で見上げるような大きな坊主に出会い、一晩中大坊主と共に山々の頂きを飛び歩いた

看板の説明によると、峠は隣の村との連絡路であると共に、そこはふつうの村境であることが多い。峠の近くには神送りの場というところがあった。むかし悪い流行病などがはやると、村人たちは、夜中大勢で鐘や太鼓をたたいてここに駆け登り、頂上で厄病神を追い払うという習わしがあった。(環境庁)

この峠では、天狗が悪さやいたずらをする話は多い。
それは山岳信仰のある場所に限って多い為、修験者が天狗のような格好をしていたからといわれる。

修験者とは何か?考えるレベルではないですが、山を歩いて感じることや学ぶことがとっても多い。一人なのに、誰かに教えられて連れていかれているような違和感がたまにある。
道に迷ったのかウロウロしている時に、タイミングよく登山客が歩いてきたりする。
一人でいると自分がおかしいのか(そっちかも?)、そうするべき事に意味があったのか、後になって気付く発見が多々ある。

登山の後に夜不思議な夢をみたり、山で気持ち良くなってひと眠りした時に見る夢だったり
する話が多いのも、山があの世とこの世を結ぶといわれる由縁なのです。

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突然ふっと頭上が気になったり、急に風が止む場所があったり、山寺の体験なのだが、過去に4,5回行っているのだけど、いつも同じ場所で水の雫のようなものを頭に落とされることがある。
もちろん、上には鳥がいるわけではなく雨が降っていることもない。
冬の寒い雪の日や夏の暑い時でも同じ。
それが天狗のいたずらと昔の人も思っていたわけだ。

豆口峠は今まで歩いてきた細い山道から、急に開けて分岐している所にある。
なので、少し解放感や安心感を覚える。そういう時は立ち止まってしまいたくなる。
ふっと上を見上げて木々の高さや風で揺れる葉を見る余裕になれるのが一番良い山歩き。
ただ疫病を追い払う場所と知ると、あんまり落ち着かつかないけど…。

▲竹寺の特徴・・・▼
明治元年の神仏分離令にもれたことで、お寺と御宮が同居している。秩父の三峯、高尾(東京)、御岳山と同じ山岳仏教の系統をひく天狗仲間。
明治維新に行われた神仏分離令以前の姿をそのまま伝えるもので東日本ではここだけという。

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スサノオは・・・
八俣大蛇を退治し、その尾から天叢雲剣、草薙の剣を取り出し、天照大御神に献上した勇敢な神様。また八俣大蛇から助けた櫛稲田姫との間に多くの御子神をもうけ、出雲国須賀という地で幸せな家庭を築いた神様として知られています。
 「スサ」には「荒・清浄」の意味があり、罪・穢・災・厄など身に降りかかる悪しきこと諸々を、荒々しい程の強い力で祓い清める災厄除けの神様で、別名を牛頭天王(ごずてんのう)と言う為に通称を「お天王(てんのう)さま」といいます。

(東京都荒川区素盞嗚神社より)

スサノオは、7歳にして7尺5寸(約2mくらい)3尺(約90cm)の赤い角があったといわれる。その姿の恐ろしさに后を迎えることができず女人がよりつかないので、毎日酒びたりだったという。。。ホントカ?

(写真は牛のトーテムポール:ちょっと焼けていてる。一番上に牛がいるて、隣には新しいトーテムポールがある)

蛇(龍)信仰から牛信仰に変化したという話があり、角をもった伝説として有名なのは、ギリシャ・ミノア文明のミノタウロス。バビロニア文明からきていて、おうし座はプレアデス星団のことで六連星ともいう。

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淡島神社というところに巨大な石の男根を祀る金精様がある。

道祖神は、古来性神の特徴があって石器時代に石棒からの流れを引くとされる。元は境界を守る重要な意味があったもので、疫病などを防ぎ止める役割がある。

それが東北ではアラハバキ信仰になった。

スサが焼畑であるというのが定説で、農業の発展が新しい文化と氏族との対立に発展したと考えるのも自然だと思います。
山火事伝説や、火で鬼や何やらを追い払ったというのも、牛などの牧畜農業にとって焼畑は効果がないから開墾するために必要な行為だったのかもしれない。
蛇信仰(土着・アニミズム)→牛信仰(農業)→馬信仰(軍事)と始まり蛇は女神信仰のこと。(写真:蛇のようにからみつく枝。蛇に見えてびっくりした)

宗教の始まりは、性と豊穣の呪術といわれる。
蛇信仰・・・渦巻き、蛇が絡んでいるものが性器信仰を結びつけられ、再生や不死を祈るという縄文時代から続く地母神。シンボルは太陽。
同じ血族?家族にあたるといわれるスサノオの子であるサルタヒコは、イザナミ、イザナギよりの前の太陽神であったとする。

入間市には2つの太陽があった伝説がある。ある人が入間まで追いかけて悪い太陽を矢で射ったところ雷とともにヤタガラスが落ちてきたという話。
それを追いかけたのが入間宿禰(後に名前をもらう)という物部氏系。
矢を射られたのは出雲系。
入間市の地名由来は、馬が入ってきたからと聞いたが、それ以前は矢を射る意味から、射留魔(いるま)なのだと。スゴイ漢字だ!

Iruma(入間市駅から秩父方面)

入間~飯能~吾野~芦ヶ久保~横瀬に入るルートの先端、横瀬町の根古屋に養蚕が伝わっていることから、秦族などの渡来系が歩いてきた可能性は大です。
福島県とそのへんが似ていてい、秩父も大和朝廷からきた貴族もいたと思うのです。
横瀬町は武士出身が非常に多く、養蚕を広めていった家系も調べるとあるでしょう。
その基礎を築いたのが、元は渡来系であり聖徳太子を祀る碑が古御嶽城跡に残されています。(このあたりの歴史は調査中・・・)
横瀬町のほとんどの家の祠堂が八幡様を祀る。
ヤハウェーの人気はすごい。
小さい村でもここまで浸透する渡来系の信仰はパワーがあるってことか?
入間~横瀬に入ってきた人たちが軍事力のあった豪族でそこから秩父市内に入り城を築いて武甲山を軍事的な神として考えられてしまったと思う。
始めて平氏が秩父氏と名付けた秩父一族は、入間~横瀬にやってきている。

ちなみに、子の権現のように日本書記には大黒様はスサノオの子とされ、大黒様の乗っている米俵は、性器を表している。
ただ、大黒様は大国主や大物主や名前がたくさんあるので混乱するが、国を譲り出雲国を建国した人たちであったので、岩や木々など動物を崇拝するトーテムなど縄文時代から受け継いできた人々であると思います。

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▲不思議な牛頭天王・・・▼

摩多羅神というのがある。
竹と茗荷(みょうが)が形象としてあり、頂上に雲、その中に北斗七星があり、これが曼荼羅だという。

京都太秦大酒神社に伝わる行事で牛祭ともいう。
天台宗の円仁は中国で五台山の念仏を相伝し、帰国する時に、船中で摩多羅神の声を聞いて感得。比叡山に常行堂を建立して勧請し、常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めたと記されている。
(by wikipedia)

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(写真:都年中行事画帖(1928年) - 国際日本文化研究センター所蔵)

太秦といえば、秦族がいたところ。
新羅語の言葉で秦は海という。
秦氏は中東の方からやってきた。だから日本人より体格がよいし鼻も高いから西洋人もいたはず。秦氏はユダヤ教の一族で、修験道のスタイルがユダヤ教によく似ていることや、烏帽子は冠(ギリシャなど西洋からの)であることも指摘されている。

秦氏とは聖徳太子にも深く関係している。聖徳太子については関東地方にも碑があったりする。出羽三山を開山した蜂子王子の顔は、日本人ぽくはない。「他と違う人」で、技術だけではなく医療や宗教も仏教とちがって「お金がなくても祈りを捧げてくれる」という貧しい人にとっては有難い神なのだと人々は考えた。

だから室町時代あたりから宣教師が日本へやってきても、キリスト教が日本にあまり浸透しなかったのは、この時代にきたユダヤ教の人が神道と融合する自然思想を作りあげていた背景があった。

東北地方でキリスト教が禁止されてきた時代、キリスト教信者は坂上田村麻呂を祀っていると嘘をついて免れてきたという。だから今でも観音様と坂上田村麻呂の伝説は、たくさんあります。蝦夷征伐でやってきたはずの敵に対し崇拝してしまうのも、うまく日本の神道にはまっていたからだと思うのです。

このあたりの宗教観については、遠藤周作の「沈黙」を読むと参考になります。

太子堂は飯能市、秩父市にもある。
「舎人」という言葉は、聖徳太子が関東にやってきた時に言われたという説がある。
舎人の言葉の由来はいくつかあるが、このへん、関東に関わっているらしく興味深い。

▲役小角の八大龍王って何?------▼

聖徳太子や役小角伝説は、各地にたくさん残っているけど、ここに来ると、やっぱり役小角が匂う。。。
役小角は、摩多羅神を信仰していたという話があって秩父にある七ツ井戸も北斗七星に関係している。
秩父神社は北斗七星を現しているが、それ以前は宇宙の中心の神であった。

吾野~芦ヶ久保~横瀬を歩き秩父に入ってきたルートに、天狗や役小角、牛頭天王(八坂神社)や猿田彦神社などがあり、横瀬町にも「指(サシ)」という地名がいくつかある。
サシも焼畑の意味がある。

八坂神社はスサノオを祭神とする。
元々祇園神社といって祇園祭りはここからきている。
なので秩父夜祭の笠鉾も祇園祭りと同じ三代曳山祭りにしているのは同じ系統であることの証明。もうひとつは岐阜県高山市。国家の重大事や天変地異の時に朝廷から特別に奉幣を受ける神社。

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牛頭天王の后は婆梨細女(はりさいにょ)といい、ハリは水晶だといわれる。

八王子の母で水晶。それが八大龍王の1柱なのだというから、八大龍王とは、鉱石など地球上にある石を集めて何かしたんでしょうか・・・?
役小角が母親を大事にしていたというのは、大地母神を純粋に信じていたからかもしれない。
水を浄化するにはやはり「石」なのです。
役小角は、各地を歩いて水を浄化するのに鉱石等を使ったとすると、産鉄族の影に役小角がいる理由が見えてきます。

鬼を従えたというのもシャーマンではなかろうか?
歩いて浄化する。
この時代だったらあり得る話だし、それが修験に発展したと思います。
浄化というのが、大地をクリア(軽くする)作業だとしたら、それはシャンバラに戻るという事なのか?SFな話だが地下にも国は存在するというし。(写真:上の写真のトーテムポールを下からみたところ。)

天は天津神。地上は国津神。地底は黄泉の国。
十字のクロスにするとわかりやすいが、時間軸が上から下りてくるのが天津神。未来からきた別次元。
横に時間が流れる(過去、現在、未来)というのが現代。だから土着神やアニミズムという。
地下に留まる黄泉の国は、(時間が止まる)死の世界と捉えたのかもしれない。
黄泉の国は元々天にあったと思う。それが落ちて地下にいった。
国津神(出雲)はその地(地球)に留まることを決めた人たち。だから大地母神。

つまり、縄文の血をもつ日本人はずっとアニミズムな大地に生きる末裔だといえるでしょう。
天津神は、自由に空を飛んでいたと思う。羽がついた伝説があるのは、自由に馬に乗って空を駆け巡り、国津神に接触してきたと思う。

壺の意味がある鉢や蜂は、そのような音を発していた機械か乗り物があったかもしれない。水木しげるの「神秘家列伝」の中で、天狗に修行をした少年の話が紹介されている。天狗は壺の中から出たり入ったりして自由に空を飛んでいる話があった。実際に昔あった話なのだから面白い。

▲修験者がいなくなった秩父・・・▼

大国主や猿田彦神などは、以前の土地の神様として崇められていたわけで、永くその土地に住んでいた人々。
地名や神社、神話などから考えると、もっと西側の吉田町や小鹿野町などは政治的な支配をあまり受けず近畿地方からやってきた人たちは奥秩父から秩父市内へ入ったと思います。
信仰の場として確立していた三峰神社を神格化して秩父神社は政治に利用された。
でも武甲山があった横瀬町はちょっと違う。
鉢形城(寄居町)~横瀬町の根古屋城や古御嶽城があったという事は、武士は武甲山を利用することを考えていたと思う。かつては磐座(いわくら)といわれた山だから幕府から一目おかれていた。
今よりも食物や猟をしていたので鉄砲を持つことも許された。生産力(農業)が豊富にあった為、蔵王権現を祀っていた歴史があるから、江戸幕府は武甲山は資源に活用できると考え、経済をあげるために利用された。
災害時の被災地対策として横瀬町だけに留まらず秩父から多くの人が検非違使が派遣された事も史料に残っている。その度に秩父神社は昇格していった。

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(車窓から冬の武甲山)

秩父市内の古い神社は意外と複雑になっている。
諏訪神社や熊野神社は秩父を修験として昔から秩父を活用していたけれど、その修験としての権利は、どこかへ売ってしまった・・・。

三峰神社の神話は、ヤマトタケルが狼と共に神を祀った(イザナギ・イザナミ)が、武甲山はヤマトタケルの冑を置かれてしまった。

「大地」ということを考えれば、現在の武甲山、必要ない所にあるダムなどは、かつての修験の聖地を失くした結果の風景。
今は必至に観光で「手当て」をしようとしている。
でも残念だけど、秩父の傷は深いし重いよ・・・。

私は秩父を観光にするより、修験の聖地に戻すことが先決だと思う。
日本全国から修験者たちが秩父を歩いて思い出してほしい。
そーいう所は全国にたくさんあると思うな。
東北地方の蝦夷の地もそうなのです。

Temple2_2
子の権現~竹寺への道>
西武秩父線西吾野駅下車→道を下り信号を渡る。10分くらい歩くと看板がみえて橋がある。
橋を渡りしばらく民家の道を歩くと、静之神社の標識が。
子の権現の道は、その標識からまっすぐ歩いて40分~45分くらいで車道にでます。
ちょっと歩いていくと教育のお地蔵様が右側にあり、その横の山道をあがってすぐが子の権現。かわいいお地蔵様が待っています。

 竹寺へは子の権現から林道を歩くこと約1時間くらい。
道は緩やかなので比較的歩きやすいです。
このコースの場合は、帰りはバスになります。(飯能駅行き)
※お寺では精進料理も楽しめます♪(要予約)

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修験の聖地 吾野①

2013-01-13 | 秩父周辺の山々

子の権現

Top
昔の人々がなぜ秩父に集まったのか気になる。
理由はいろいろあるけど、「岩」が特別なのかもしれない。
それがチャートと呼ばれる古生層。
太平洋からやってきた岩。両神山や武甲山はハワイ出身なのだよ♪
秩父が隆起してその先は四国~九州へ隆起していったという。
元はコバルトグリーンに広がる青々とした海が広がっていたことでしょう。

吾野は飯能市にあたり、西武秩父線の各駅から歩けるハイキングとして人気がある。

今回歩いてみたのは、「子の権現~竹寺」。
西吾野駅から降りて歩いてみた。
小床から子の権現~豆口峠~竹寺を歩くこと所要時間にして約3時間くらい。
ちょうどよい散策です。

Mori Sizuno
(写真左:林道は意外と光がよく入り明るい森歩きになる。写真右:静之神社)

とにかく1月は霜が降りるサム~い日。
でも森を歩くと暖かくなって暑いくらい。
子の権現への道は、他のルートもあるのですが、敢えて小床コースを選んだのは
「静之神社」があるので行ってみたかったから。
この神社の名前は初めて知った。
ご神体がわからないのですが、洞窟のようになっている所に祠がある。
絵のかかれた絵馬のような画もあったのですが薄くてよくわからず。
おそらく、誰かが修行した場所に置いたと思うが、洞窟と共通する由来が島根県にある。
「静之窟(しずのいわや)」というのが島根県の海食洞にあり天然記念物となっている。
静之は、「志都乃」と書き、出雲神話によると大国主命と少彦名命が国づくりの際に石窟に仮住まいとしたそう。
これが静之神社と出雲とのつながりを感じます。
静之神社へは、西吾野駅から徒歩30分くらいにあります。
そこから子の権現まで歩くこと約40分くらい。
看板がわかりやすいので迷うことはありませんので歩きやすいです。

▼子の権現とは・・・▲
大鱗山雲洞院天龍寺とよぶ。
832年、子の年、子の日、子の刻(十二支の中で一番目、12で割って4余る年が子)
に生まれ、湯殿山で徳を積んだ子の聖は、草ぶきの家を建てたところで弟子の恵聖上人が聖人を祀ったのがこのお寺。

Map
(クリックで拡大)

▲足腰の神様の由来・・・▼

Temple_2
子ノ聖が天龍寺を創建されたのですが、紀伊の国で生まれ僧となり出羽三山で修行を重ねた。
ある日、月山の頂上に登り年来読誦する般若心経を取り出し願い、「われ、永く跡を垂るべき地を示し給え」と空高く投げました。
 すると、そのお経は、南へ飛んで当山(経ケ峰)の奥の院に降りたち光を発した。
この山で開こうとした聖は、悪鬼どもに襲われ、火を放たれました。
しかし、十一面観音が天龍の姿となって現れ、大雨を降らしその火を消してくれました。
その後、修業教化に励まれ1012年
「我、すでに化縁つきぬれば、寂光土に帰る。然れども、この山に跡を垂れて永く衆生を守らん。我、魔火のために腰より下に傷を負い、悩めることあり、よって腰より下に病のある者、誠の心で我を念ずれば必ず霊験を授けん。能除一切苦」
という御誓願を遣し、齢百八十市歳で化寂されました。

Yudono_6(月山姥ヶ岳より湯殿山)

この山まで聖が旅した時に休んだのが、「降魔橋」と名付けている。

出羽三山を開山した蜂子皇子は聖徳太子の甥にあたり、父は崇俊天皇で蘇我氏に暗殺されている。
その后(蘇我氏ではなく最初の后)は、福島県の小手姫伝説に書いた大伴小手子。
詳細はリンク。http://blog.goo.ne.jp/inehapo/d/20100919
福島県のこのあたりは養蚕が有名で、秩父に限らず関東地方や甲信越まで絹糸の交易をしており、当時は日本一といわれるほど需要があった場所。
当時は、福島から秩父への絹の道があったと思われる。

なので、役小角に関係していることがあるのでは?とも思う。
役小角の像がこの近くの越生町にあり、男滝、女滝、天狗滝という黒山三滝が有名。
黒という地名なので、このあたりにも産鉄族の匂いがする~。

Waraji(子の権現のわらじ)


千葉県我孫子市に「子之神神社」という名前の神社がある。
ここは6世紀頃の古墳があるところ。
境内には金のわらじとコンセイサマらしい男根信仰も残っている。
柴燈護摩という火渡りが有名。

その神社では、ネズミを使途とする大黒様を祀り、腰下の疾患にご利益があるというのだから、子の権現と同じだ。
足腰の神、大黒天、男根信仰・・・アラハバキ?

興味深いのは、わらし曳きという祭りが三重県にあること。
これは、なぜ「わらじ」が巨大なのか?と思ったわけで。
それにはダイダラボッチの巨人説がある。

▲祭りの由来・・・▼

三重県志摩市大王町波切(なきり)、わらじを海へ流すのが神事で平安時代が始まりとされる。
闇於加美神の祭りとされ、熊野那智大社の補陀羅信仰と国挾追神の信仰とみられている
そうです。

八大龍王に追われて波切にやってきたダイダラボッチが闇於加美神に一計を講じられ、
退散するという物語。
詳細は、わらじ祭りのサイトに詳しくのっているので参考にして下さい。

わらじ祭り公式サイト http://www.warajimatsuri.jp/

この先芦ヶ久保方面に向かう二子山にも巨人説があり、どうも修験の道に鬼、巨人、出雲(大国主)があると思う。
なぜ、巨人説や鬼が伝説や由来にでてくるか?役小角が前鬼、後鬼と2人の鬼を連れていたという話からも巨人が住んでいた山に、修験者も歩いている。
たぶん、岩を祀ることから始まった男根信仰という民間信仰は、岩や石に何かがあったのかもしれない。水だけではなく石にも記憶するものだと思うから。
2m以上の人がはるか昔に実際居たという話は世界各地に残っているし、そこからなぜ私たちは小さくなったか?という事を修験の人は知っていたのかもしれない。
まだわからないけど、地場や地球(地軸にある)エネルギーが弱くなってだんだん物体が下へ降りてきたという事かもしれない。そして人間も恐竜も皆小さくミクロになっていく。

今は、人の考えも言葉も何でも短く省略しすぎているのは、この関係があると思っている。
脳も縮小しているのかもしれない。
昔はもっと頭が大きく知識のある人は脳も大きかった。

Moon(月山 : 7月頃)

修験者たちの間でも派閥があった。
月山の登山途中には、「行者返し」という名前がついている。
出羽派VS吉野派があったといわれ、役小角が蜂子皇子の後を追っていたが、追いかえされた。
蜂子皇子は亡くなる時、50年後行者が出羽三山にくることを予言していたという話も残っている。


子の権現の龍の話は、秩父札所の白山観音の伝説とよく似ている。
最初はアラハバキなどの土着信仰があったのを、後に仏教が伝来して密教が伝わり別の宗教に変わったのだと思う。

密教は、インド・チベットにおける同種の仏教思想といわれている「秘密の教え」
その秘密がシャンバラに関係していると私は思うのです。
時輪タントラ(じりタントラ)というのがあり、密教最後の経典。
須弥山とも関係している王国。
12種類の風(ルン・気)が6つの修行法によって伝わっているといわれています。
このような思想も、元は別の宗教(脅威的なもの)を封じるために作られたと考えられているのです。

アラハバキなども秩父にその名残があるのですが、仏教の各宗派が伝わることで古い信仰を封じるような人たちもいたことでしょう。怨霊信じていた時代には多くが別の神社を建てたり、抹殺した一族を恐れ、その一族が信仰していた神を盛大に祀ることもありました。

ちなみに、ネパールのマナスル山は、マナス・ルンで記憶の王国の意味があり、シバ神が住むといわれている。
世界で初めてこの山に登頂したのは、日本人。

悪を善にかえるというのは地球人の永遠のテーマなのか?修験者たちは独自の方法で、
世の中を別の方向から変えていく手法に専念していた山人といえる。
すべてが善になる時に、シャンバラが現れるというのだから。

次回は、牛神の聖地「竹寺」

View (展望 :東京方面)

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小鹿野の観音院

2013-01-06 | 水神巡礼(秩父編・その他)

秩父水神巡礼⑤(札所編)

アラハバキのお山を発見。
場所は小鹿野町の札所31番観音院。

Kannon01_3

(左:観音山  右:大石山)

奥の院から二つの山が見えます。
大日如来や祠堂が
山に向かって立っています。

Kannnon02
地元の方に案内して頂いた夕暮れ前の観音院は魅力的でした。
お墓のない札所のお寺はここだけとの事。
トンネルを過ぎて沢沿いに走ると仁王門に到着するのですが、
このあたりから夏は蝉の声がぱったり止むのだという。
山形県の山寺は松尾芭蕉の歌にあるように、夏は蝉の声がとっても賑やか。
でもここは、蝉の声が聞こえなくなる場所。
蝉も寄せ付けないほどの岩鞍は、歴史を感じる風格がありました。

石段を登り着いた先に、大きな岩がドーンとお目見え。
すぐ横の滝は、今は水量が少なくなっていますが、昔はここで荒行をしていた場所でした。

この観音院の特徴は、岩にあると思います。
奇岩な風格だけではなく、その背後に三角形の観音山と台形の大石山がある事。

日が当たると際立って光って見える山だから、縄文時代から聖地とされていたとわかる。

 Zukei_2

※長方形は二等辺三角形ができる。前方後円墳は円と長方形(太陽+水)を表すとされる。(新たな再生を願う図式)

大石山の石は、秩父神社に使われるとの事。
ほとんどはこの石を神社では用いるという。
それがアラハバキだと地元の方が教えてくれました。
アラハバキは、一言でいうとアイヌと出雲の混血で岩を信仰していた人たちのこという。
自分と異なる人と交わることで強い種を作るというのは、生物学ではよくいわれる。
他に縄文人やアラハバキが男根信仰など性に重きをおくのは、新たな種族をつくり強い子孫を残すという意味も含まれているかもしれない。

Kannnon04_2奈良県の三輪山のように、火、水、太陽の三位一体。
水のコントロールは融和、太陽の運行は輪廻転生。
(参照:国作り神話と大和三山 大谷幸市著)

火と水で土器が生まれたことで、水壷は完全にコントロールできるものとみた。
壷に入れていた水から偶然、塩が発見されたのも壷にはそのような力がある事を知り、壷を神としたのが塩釜神社(宮城県)の始まりである。
これもアラハバキの流れにあると思う。

それと同じように、三角形と長方形の山が自然(人工ではなく)に存在しているから、ここに観音霊場をたてたとのだと思う。

創世記の古い文書には、「最初に6ありき」と記されている。
四角形の中に直線を引いて三角形を作る。
その中心に目がある。それを上方へ引っ張るとピラミッドになり、下方へ引っ張るとまた新たなピラミッドが投射される。
それを点で結ぶとまわりに正八面体ができる。
前後、左右、上下の3つの軸を中心に回転すると球体になる。
(参照:フラワーオブライフ D・メルキゼデク著)

これが完全な円を作り、日本の神を形容する言葉でいうと「ちはやふる」の正体なのではないか?と思う。

そんな事を考えさせてしまう小鹿野の観音院はすごい所だ!

観音山の下にも同じ三角形の山が存在しているとして、それが地球のフラワーオブライフを
作っているならば、ピラミッドといわれる三角形の山が重宝されるのがわかる気がする。

音山は登山OK。

他にも、納経所の奥の左手には、新生代第3紀(2千万年前)の地層があって圧巻。

Kannnon05

その先の階段をあがると奥の院です。

▲鷲窟磨崖仏(県指定史跡)-----------------------------------------------------▼

およそ3千万年前の海底に小石や砂が積もってできた轢質砂岩の岩肌を利用して
刻まれたものである。
岩肌の上方に「南無阿弥陀仏」と大きく刻み、高さ18センチメートルの座像と立像の仏像が、幾重にも浮き彫りにされている。
地中にも数段の磨崖仏が残っており、俗に「十万八千仏」といわれている。
室町時代の作。
群像として刻まれたものとしては、県内では例がなく貴重なもの。

Kannon03

▲札所31番について-----------------------------------------------------▼

札所巡り遍路情報サイトから・・・http://www.geocities.jp/fudasyo34_jp/temple-31.htm

秩父札所31番寺の水子地蔵の紫雲山地蔵寺は、山を切り開き、ひな壇式に地蔵が並べられている。この世に生まれ出ることのできなかった水子が安らかに成仏できるよう、その菩提を弔うため石彫の地蔵を納めた霊場で、一体一体に赤い前掛けや風車が供えられています。そこを突切り、トンネルをくぐり沢沿いの道を行くと、右手の山麓に仁王門が見えてくる。

仁王は身の丈1丈3尺、台座まで入れると4mを超す札所第一の高さを誇る荒削りの石像で、
1868年長野の石工藤森吉弥一寿の作と言われます。秩父札所31番の門をくぐると、不規則に踏石を置いた急な石段道で、上りつめると三方を岩壁に囲まれた平坦地で、正面奥に近年再建されたコンクリート造り、三間四面の観音堂が建っています。

堂の左側岩壁から一条の滝が落ちていて、その落差は約60m、滝下の池のそばには不動明王が立っています。秩父札所31番は昔は、水量も豊富で修験者たちが滝に打たれて荒行をしたといわれ、それを証するように池の近くの断崖には体長18cmほどの爪彫り千体仏が浮き彫りされております。

Kannnon06
納経所の奥の左手には、新生代第3紀(2千万年前)の地層があります。
花崗岩質砂岩と礫岩の互層、ノジュール(結核もある)もあります。
とてもすごくて見上げるよな地層です。多くの巡礼者がここを通り奥の院へいきます。

<札所31番への道>・・・バスの場合、西武秩父駅から①乗り場 栗生行き終点まで。

その後40分くらい歩きます。

バス停から観音院までは、31番入口の石碑、大日如来像と道祖神が祀られる大日堂や、茶屋にWCもあるので安心。

※栗生行きバス時刻・・・http://www.knet.ne.jp/~ats/i/mb/sa/seti/oga.htm

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杵築神社

2013-01-03 | 秩父の祭りと信仰

開けました~。

また今年も山神様にはお世話になります。

龍の次はへび。女性が活躍する年になるでしょう!?

韓国は初の女性大統領。韓国が良くなれば日本も良くなる。期待したいです!

Kitduki
はて、初詣でより早くに年末、横瀬町の御嶽神社(里宮)境内に行き、杵築神社というのがある事に始めて気付きました。

大国主は天孫系によって国を譲ることになり、少彦名命と一緒に国作りをし、その時に建てた神殿が、杵築大社なのだという。

出雲の神殿は48mの高さの柱がみつかり、そのくらい巨大で力のあった事を証明しているので、古代の「大いなる主」とよばれるようになった。

杵築神社を建てるようになったのは、江戸時代、徳川家光の従兄弟松江藩松平直政が屋敷内に杵築大社を建てたのが始まり。

奈良県の杵築神社は、スサノオが祀られている。

由来は、587年敏達天皇の皇子春日王が租神の牛頭天王を祀ったのが創建。ただ、出雲風土記にある「所造天下大神」とある天下大神がよくわからない。

武甲山御嶽神社の境内にあるという事は、出雲の権威を示すためでもある。

横瀬町誌では、諏訪神社と関係している話があって、諏訪からやってきた人が信仰していた事もあり、何だか、出雲の神々に気を使っている感じもする・・・。

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