秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

武甲山を見守る山神さま

2012-12-31 | 武甲山

Buko01
横瀬町は武士から農家になった人が多い。
落ち武者といわれる敗者から横瀬町へ逃れて住んでいる人が多いため、当時の剣や刀などを祀っていたという話はよく聞く。(うちの実家にもある)
また、八幡様をお祀りする民家も非常に多い。
八幡様ではない土着信仰も根付いています。

武甲山付近には猿田彦神社が多いと思う。
大体、武甲山へ向かって建てられています。
木曽の御嶽信仰が流行るようになってから、修験者たちは入間や飯能市あたりから吾野を超えて横瀬町に入ってきました。

武甲山信仰の神様はいろいろで、例えば諏訪権現をお祀りしたのは諏訪からきた守屋家が
代々武甲山御嶽神社の神主として勤めています。(横瀬町詩より)
このような方たちも遠い土地からやってきた人たち。
時代とともに住む人が代わり、その都度信仰も変化する。

Sherin01 古御嶽城跡近く

(手前:猿田彦神社  奥:八坂神社)

White_2武甲山の石灰開発や震災の木くずの処理が進んでいるためか、子供の頃みていたのと同じように、煙突からでる煙の量がここ最近増えたよう。

武甲山の水が枯れないのも、岩盤に染み込む水が何百年と長い時間をかけて地上にゆ~っくり降りてくるから、枯れることがないのだという説。
中に巨大な沼があるとかではなく、武甲山の石灰岩に秘密がある。

古御嶽神社入り口にある猿田彦神社と八坂神社の前の風景は、積まれた石灰の山。
毎日この風景を神様は見ていらっしゃる。

根小屋城があった近くに古御岳城というのがある。(知らなんだー)

Siryou Sato01
(横瀬町資料館より:写真はクリックで拡大)

横瀬町HPより。

城跡は、大机山から西へ延びる尾根の末端にある。東側を除く他の3方向は生川と天狗堂沢に囲まれ、急峻な地形を呈し、妻坂峠からの秩父街道を監視する位置にある。
 本郭は標高480mほどにあり、河岸段丘との比高差は200mを測り、根古屋城址に比べて100m以上の高所に築かれている。

 遺構は小規模で、細長い尾根の頂にあり、本郭と二の郭が堀と土塁で隔てられている。
北斜面には2段の腰郭が備えられ、大机山に続く尾根には腰郭・堀・縦堀が、設けられて、郭を隔離している。
 関東管領上杉憲政は、河越夜戦に敗れ、家臣の永田外記が居住したこの城に逃れたが、平景光の郡に破られ、越後の守護代長尾景虎の元へ逃れたと伝えられている。また永田外記は根古屋の中野で討死したという。
 古御嶽城も根古屋城と同じく天正18年、鉢形城落城と共に開城したといわれている。

ちょっと登ってみたけど、鉄塔があったりこの日は雪が降りそうに暗~い日だったので、やめた。
古御嶽神社に寄っていこうと思ったのに、入口がわからなかったから引き返したのだけど、家に帰って写真みたら、しっかり入口の碑が写真に写ってるやん!
まあ、いいか。
またいこう・・・。

Saru02


もうひとつ、札所9番近く、三菱マテリアスのすぐそばにも猿田彦神がまつられ、
どちらも八坂神社も一緒に境内に奉られている。
地元の方たちが信仰している神様で、猿坂とよばれる長い階段を登った先にある。
けっこう登るのキツイ。

Sarutahiko01
で、ここも目の前が巨大な工場の塊だった。
毎日、工場の音と向き合ってじっとしている神々。
お金のためならちゃっちゃと壊すのに、怨霊を信じているから神々だけは移したり壊したりはできない?

ただ、武甲山の神々は残ったけど、縄文遺跡は壊した。
この違いは何だろう?

遺跡はいらないけど神様が必要なわけは?
武甲山山頂に遺跡があったのをだれも問わないのだろうか?

Buko02_2
元はその遺跡を作ってきた先祖なのにな。
猿田彦神は土着の神様なのだよ。

※宇根地区(横瀬駅すぐ裏山)の「お天狗様」も、猿田彦神が奉られ、
後に地元の山神様と合わせて五神祀られている。
4月にお天狗様のお祭りがあるよ~。

<猿田彦神社・八坂神社への道>横瀬駅から古御嶽神社入口までは徒歩約30分。札所8番まで歩き、そば屋の手前を右折し、橋を渡って50mくらい先にあります。

 

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羽人

2012-12-23 | 神話・伝説

Photo_2部屋を片づけていたら、こんな新聞の切り抜きを見つけました。
かなり前の朝日新聞の記事だけど、日付けが切られているのでいつかわかりません。

これは「羽人」といって、11.5センチ、中国江西省から出土。
玉器で貴族の日常生活で使用された祭器、礼器で最古の羽人像。
羽人は、神仙思想、不老長寿の仙人を目指す思想で、西王母という不死の女神(中国)から始まり、肩に翼をつける人を羽人と言いました。
西王母は導かれて天に昇り、クンルン山脈に住んでいるのだという。

この羽人をみて思いだす伝説が、和銅黒谷に伝わる羊太夫です。

「羊太夫は、奈良まで(和銅を持って)毎日、天皇の御機嫌伺いに100余里の道を往復した。
太夫の乗った馬に小脛(こはぎ)という若者がついて行くと、馬は矢のように走った。
ある日、都への途中、木の下で昼寝をしている小脛の両脇の下に羽が生えているのを羊太夫は見てしまった。
普段から「私の寝姿は絶対に見ないで下さい。」と言われていたので、かえって好奇心が湧いたのだった。
そっと羊太夫は小脛の羽を抜いてしまった。そこからは今までの速さでは走れなくなり、
天皇の怒りをかった羊太夫は討伐されてしまった。」

小脛とは、八束小脛は神通力を持ち太夫を助けたとされ、山の知識に優れた騎馬民族ともいわれています。
このことから小脛は、羊太夫に協力した渡来人や蝦夷等の人格化ではないかとする説があり、この話も前に載せた即道さんの話とよく似ている。
馬術に優れた人は、産鉄族と同じ。

で、小脛の脛は、足の「すね」の意味がある。これがアラハバキの事ではないか、と思ってしまう。アラハバキは「荒脛巾」とも書き、足腰を守る神様ということで、長脛彦を祀っているという説があります。
宮城県多賀城市のアラハバキ神社は、長旅の疲れを癒す足腰の神様です。

自然の銅は黒谷以外にも対馬や丹波、伊予などにも発掘されてその中でも秩父が良質であったといわれます。
「黒」の五行説の意味のほかに、黒い色をした谷で黒谷、または蔵人屋から黒谷となった地名説があります。
それで銅の発見時、献上した人は、日下部宿禰、金上旡(朝鮮の帰化人)、津島朝臣堅石でそれがきっかけで出世しているのです。

羊太夫伝説は秩父でも多く謎です。
この人が誰かという説はいろいろで、その一つに日辻という人に関係しているというのをネットで見つけました。
「辻」は、十字路の意味があるのだが、十字の道しるべと解釈するのでは?
とすると日の辻は、日出る国の十字の神ともよめる・・・。
これが羊氏がペルシャ人ではないか?という騎馬民族とつながるのです。
ペルシャ人説は、平家にもいたというくらいだし、秩父は平家とのつながりも深い。

また羊太夫のお墓といわれる円墳が、秩父郡小鹿野町長留(ナガル)にある。
この地名由来は詳しくわからないのですが、ナガルと読ませるのはアイヌ語か、奈良県の地名由来がナガルなので、奈良県からきているかもしれません。

ナガルNagarは、銅工、師匠、教授、尊者と意味があり、メソポタミアが語源です。
南部のウル人のウル語で、シュメール人がの都市国家でした。ウルは月の神ナンナを崇め、王族の娘を巫女の長として捧げる習慣がありました。
それがインドに渡り、語尾にaが接尾され銅工、尊者の居る城市でナガラとなった。
また、朝鮮語のナラ・ニムは、銅工の意味がある。
鍛冶師が王になるのは、東アジアでは普遍的であるという。(参照:産鉄族のオオ氏)

で、もうひとつ謎とされているのが藤原不比等(藤原鎌足の子)。
このへんは、詳しく調べてみないとわかりませんが、先日登った飯能の多峯主山(とうのすやま)が、多武峯神社と似ていると知人から教えてもらいました。
多武峯神社(とおのみね)は、奈良県にあるのですが藤原鎌足のお墓があるそうで、実は、この神社は、埼玉県比企郡にもあり、藤原鎌足の縁起について、また近くにある慈光寺には役小角の話も残されている。

役小角は、奈良県吉野から伊豆へ左遷された時に秩父に入ってきています。
飯能も修験の山。飯能~高麗あたりまでは風景が奈良県吉野に似ているかもしれない?
そこから秩父へ向かっていくと、周りは古生層に囲まれた創世記の山々に囲まれているので、その武甲山や両神山などの雄大さに圧倒されるかもしれない。

地方にいくと神話や伝説が多いのはなぜか。
昔の人は、それを掘り起こされないようにいろんな仕掛けをしています。
それが形になっている物質的なものではなく、霊的な目に見えない仕掛け。
それが本当に大事なものだとしたら?

その何かがきっと秩父にはあると思えてきた。。。

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(羊山近くの大山津見神社  右:羊山公園)

 

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似てる

2012-12-13 | 武甲山

チベットの聖山、カイラス山( カン・リンポチェ)。5630m。

聖なる山なので入山はもちろん禁止。

Kairasu_4

◆友山クラブの加藤忠一さんの写真。(ご本人の許可を頂きました)

加藤さんの写真集

http://members3.jcom.home.ne.jp/yuzanclub/gallery/0906_katoh/0906_Katoh.html

そのカイラス山が、武甲山の山頂の形にふっと似ているな~と思うことが度々ある。

地元の友達ともその話題になる事もあって、不思議。

そのくらい雰囲気が似ている。というか、似てきているように変化している気がする・・・。

残念ながら、石灰で掘られたせいでピラミッド型になってしまったが、遠くから見える武甲山はピラミッドのように見えることもある。

カイラス山は、チベット仏教では須弥山ともよばれ、周囲の山々を菩薩に見立てた天然の曼荼羅とみなし、聖地としている。

これも秩父札所霊場の縁起で、武甲山を須弥山と見立て、すべての札所から武甲山が見えるように設定したという話にも似ている。

山も人間も同じ共同体。

武甲山のもう一つの姿だと思うのです。

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※クリックで拡大。

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多峯主山の不思議な雨乞い池

2012-12-09 | 秩父周辺の山々

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(左:多峯主山、右は天覧山の山頂)

巨人説、天狗、蛇といろいろと信仰の深い山が飯能市にあった。
西武秩父線の飯能から先は高麗~吾野~横瀬~秩父と、昔は新宿から秩父へ入る時に通る場所にあったのでここも修験らしい里山が息づいています。

和銅黒谷へ散策した後に、飯能へ導かれたのは、飯能の地名にある大河原氏は丹生一族の出身で、銅の採掘に指揮、命令していた一族だった。

さて、紅葉も終わりかけですが、飯能駅から歩いていける小さな山を散策してきました。

天覧山(標高195m)と多峯主山(とうのす)(271m)の散策コースはゆっくり歩いても2時間半くらいなので、都心からやってくるハイカーに人気があります。

飯能市郷土館には興味深い昔話がたくさんあるので、そのいくつかを紹介します。

Hanou02 Kouyou_2

★多峯主山の雨乞い池
どんなに日照りが続いていても干しあがらない。
雨がほしい時は、池のまわりに集まり雨乞いをする。
池のまわりを息をしないで3回すると白蛇がでる。

1938年、日照りの時、しめ縄をめぐらして八大龍王ののぼりを立てて龍神に祈願すれば
必ず雨が降るという話が残されている。

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なぜ山頂付近のここにこれだけの水があるのか、不思議です。

この神様をどのように降ろすのかはわかりませんが、八大龍王といっているけど、役小角の気配が全くありませんが、水神として高龗神(たかおかみ神)を祀ると言い伝えがあります。

高龗神は、和銅黒谷で丹生神社へいきましたがその神様と深い関わりある龍神様です。
淤加美神ともいいます。
おかみの漢字は、古語の龍なのでやはり水は龍や蛇になるという事は、女神です。
高龗神は神話では、イザナミ神を殺したカグヅチ神に対し、怒ったイザナギ神は胴体をバラバラにして殺してしまいます。
その時に剣の血のしたたりから8柱が生まれ、その中に闇淤加美神(くらおかみかみ)と闇御津羽神(くらみつはのかみ)がいました。闇淤加美神は、高淤加美神と同一です。
闇淤加美神は渓谷を表し、闇御津羽神は谷間の意味がある。

これは土偶の破壊と似ていて、土偶は破壊して土に埋めますが、土偶は必ず女性です。

水が龍や女性であるというのは、しつこいようだけど、縄文から始まっているから多峯主山を信仰してきた氏族はかなり古い時代からここに住んでいたと思います。

縄文時代の土偶解体は、生命を生み出すために象徴的に壊した。
地母神を殺すことにより、作物を生み出す儀式。
自らの死により食物をはじめ、農耕、畜産に供する動物などを生み出すことを地母神という。

(原日本の精神風土:久保田展弘)

だから役小角は敢えて8という数字にこだわり、八大龍王として地母神を祀ったのです。

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★朝茶が魔除け

本郷のある木こりがいつも多峯主山に木を切りに出かけた。ある日、美しい娘が出て来て木を切る周りをうろうろするので、
不思議に思いながらも仕事を終わらせ家に帰った。
翌日も、また娘は出て来てうろうろする。
木こりは、「そんなに木を切るのが面白いか?」と聞きましたが、黙ってニコニコして見ているだけでした。

Tengu02何日か続き、ある朝のこと、木こりがいつもより遅れて山に入ると先日の娘が来て、
「おじいさん、今朝はいつもより遅いけど どうしたの?」
と聞くので、木こりは「今朝は朝茶を飲んできたので遅れた」と答えた。

すると娘は、悲鳴を上げて消えてしまい姿を現すことはなかった。

不思議な娘だと思った木こりは、村一の物知りなおじいさんに話すと
「その娘は大蛇の化身で、隙を見てお前を飲みこんでやろうと狙っていたのだよ。
そしてお前が茶を飲んできたと言ったのを、朝、「じゃ(蛇)」を飲んできたと聞き間違えてびっくりして
逃げてしまったのだよ」

それ以来、村の人たちは朝茶を飲むと魔除けになると言ったそうだ。

★逃げた天狗

この山で修行をしていた二宮さんという人は、天狗にいつも邪魔をされていました。
姿を見ることはできないけど、二宮さんには何となくこれが天狗の仕業だな、とわかっていました。
ある時、二宮さんがお湯を温めるのに木を集めるふりをして、杉の枝を折りここぞというところ突いた。
それがちょうど天狗の羽根団扇の所にあたったので、そのとたん姿を現し、慌てて飛んで逃げていってしまった。
それ以来、姿を現すことはありませんでした。

(飯能市郷土館より)

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(御嶽八幡神社と景色)

牛頭天王が祀られている巨大な岩の上に、御嶽八幡神社があります。これを前岩というそうです。
もとは琴平宮でした。江戸時代、ここの領主大河原氏の元で山仕事をしていた与平という人が、仕事の途中に眠ってしまい、目が覚めたら前岩付近にころげおちていました。
そこで、前岩に琴平宮を建てたという事です。

明治の初めに御嶽教がさかんになり、信州の御嶽神社の分霊を安置。
しかしその後に八幡様を産土神として、名前が御嶽八幡神社となっています。
多峯主山、日和田山、日向山ともに琴平宮を建てているのも、見晴らしのよい武蔵、秩父連山を見下ろせる場所を選んで金毘羅様をお参りをしていたと思います。
当時はいろいろな信仰が入り乱れ、地主が変わる度に産土神も変わっていったのでしょう。

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(前岩:中央にとがった白い石は、自然石に線に刻まれた不動明王がみられます)

(天覧山の羅漢像・・・昔は愛宕山とよばれていました。徳川綱吉の生母桂昌院が羅漢様の石像を寄進してから羅漢山と呼ばれ、明治天皇が来られてから天覧山とよばれました。

Rakansama_2
※綱吉が病気になった時に、桂昌院が飯能出身の大名黒田直邦に相談したところ、能仁寺の和尚による祈願で病が治ったという。その御礼に16体の羅漢像を寄進したとの事。能仁寺は登山口近くにあります。

<天覧山と多峯主山への道>飯能駅から中央公民館の方へ歩き、20分くらいで能仁寺へ。その先から天覧山入口になります。歩いて30分くらいで山頂に到着。

山頂から階段を下り、また飯能笹の看板がある所から再び登り歩くこと40分くらいで多峯主山へ到着します。

雨乞い池は、多峯主山から吾妻峡の看板に従って降り、左へ下る分岐のところで左へ下って降りると雨乞い池があります。


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明日は武甲山の神様がおりてきま~す

2012-12-02 | 秩父の祭りと信仰


12月3日(月)恒例の秩父夜祭り。

屋台囃子を聞くと、秩父魂がジッとしていられなくなる。。。

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(クリックで拡大)

宵祭りの2日でも結構賑やかでした。ただ準備中が多いけど。

亀の子石では、神様が降りてこられるのを待っている所です。

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秩父夜祭りについては、こちらを参考にして下さい。

(秩父神社HP)

http://www.chichibu-jinja.or.jp/yomatsuri/index.htm

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(クリックで拡大)

左:秩父神社境内 武甲山の伏流水

武甲山から降りてくる神様は、亀に乗ってやってきます。秩父神社の女神と密会をするのですが、神様は馬に乗って秩父市内を歩きます。

屋台は6基、山車供奉の起源は定かではないのですが、江戸時代1661~73年に記載されているとの事。

亀の神様、亀の子石は当日大幣がその背に建てられる神聖なもので、秩父神社が妙見宮とよばれていた時代の信仰に由来するものだそうです。(看板より)

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(子供たちのお神楽もみられます 写真右:何だかさびしいお諏訪様)


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