秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

昔の横瀬駅

2012-09-26 | 武甲山

Mountbuko1_3

まだ西武線横瀬駅ができていない頃の写真。

昭和38年頃の西武線横瀬駅の工事。

武甲山もまだ崩されていない頃の写真も貴重。

手前のこんもりした小さな森(写真右側)は、お天狗様という名前の森。サルタヒコノミコトを祀る。

4月にお天狗様のお祭りがあり、昔はこの森から直接武甲山に登れたといい、狩猟の森でもあった。

お天狗様は武甲山に向かって建っている。

秩父セメントは閉鎖され今は大きな空き地に。

各セメント会社は厳しい状況。

でもまだ今後も10年以上は武甲山を掘り続けていくという。

まだまだ石灰は豊富なのだというが本当かどうか・・・。

資源はいつか枯れる。

その時、武甲山はどんな姿になっているのだろう・・・誰も想像できない。

地元の人でも。

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知々夫瀧坂水神社(ありがとう武甲山)

2012-09-19 | 水神巡礼(秩父編・その他)

秩父水神巡礼②(神社編)

Sakamizu01_2

下影森にある金仙寺近くにあります。

武甲山の伏流水が湧き出る小さな森の水神様。

詳細はよくわかりませんが、御堂は比較的新しいのでそんなに古くはないと思います。

ちょっとした秩父散策に立ち寄るには気のよい場所に感じます。

Sakamizu03_3 ご神水の碑と湧水

横瀬町に住むある方から、自宅の井戸は枯れていないようだが、横瀬町でも東よりの家では、井戸はすでに枯れているという。でも、影森の方は井戸水が枯れているというのはあまり聞かないし、何となく秩父市内の方が水が豊富なのでは?という疑問を持たれていました。

つまり、武甲山は南西側に傾いていてそちらに水が多く溜まるのでは?という。

そういう発想も面白い!

でもこの知々夫瀧坂水神社に来ると、武甲山の伏流水はまだまだ大丈夫だと思いたい。

山頂の階段上の形には痛々しさを感じるが、少しづつ緑が増えてきたようで根が弱くても強い武甲山だから、かえってこちらの方が勇気を与えられます。

本当に武甲山には感謝です★

Sakamizu04水はとても澄んでいるよ~。

知々夫瀧坂水神社への道>金仙寺(こんせんじ)手前を右折。橋の手前にあります。

※西武秩父駅から車で5分位、徒歩は約20分。

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物部天神社からみえる武蔵

2012-09-15 | 日記・エッセイ・コラム

Musasi001
あんまり武蔵という言葉は好きじゃないのだ。
元は縄文、アイヌ人も住んでいた土地に九州からきた出雲系の人たちによってアニミズム文化を作り、農耕民として生活していたのが武蔵でした。

それが今は感じられない・・・。

武蔵という言葉が戦いとかそういう強すぎる力によって捉えられている気もする。
スカイツリーの高さが武蔵にあやかり634mにしたという考えも支配的であんまり・・・。
でも逆に捉えると、大和に追いやられた武蔵国の復活とも言えるから良い方向で考えよー。

それはさておき。
ご祭神が二ギハヤヒという神社に初めて参拝しました。
こういう神様には何をお願いしたらいんだろう。
神社は御礼をするために行くと考えています。
なので、お願いするところではない。
でも不思議とこの神社では何かをお願いしたくなります。

これまた復活か?

武蔵国の神社のひとつ、埼玉県所沢市小手指に物部天神社があります。
わりと今住んでいる所から近いので、ちょこっと行ってみました。

「日本武尊が東征時、この地に饒速日命と八千矛命を祀って両神社を創祀し、後の時代に京都北野天満宮の道真の分霊を勧請。
 物部天神社は武将の崇敬も厚く源頼朝が社領を寄せ、前田利家が社殿を再興、徳川家も代々所領を安堵したと」

Musasi02

物部天神社  櫛玉饒速日命
國渭地祇神社 八千矛命
天満天神社  菅原道真公
摂社 小手指神社、文子天神社
合祀 宗良親王、小手指明神、天穂日命、応神天皇、日本武尊、倉稲魂命 


 この付近には式内社も多く、物部天神社、國渭地祇神社、中氷川神社(所沢市三ヶ島)、
出雲伊波比神社(入間市)等があり、古代武蔵の重要な地域だったそうです。
中氷川神社は、多摩の奥氷川神社と大宮の氷川神社の中心にあるそう。

武蔵は、大和の軍事・経済拠点におかれ、東国征伐の一番北にあった大和の拠点は鹿島神宮でした。アテルイのお面が置かれている神社でもあり、伝説には坂上田村麻呂がアテルイ征伐の後、鹿島神宮へ奉納したという事です。
鹿島神宮には、大きな直刀がありこの剣の由来は不明ですが戦いの神様だったようです。
また鹿島神宮は地下と海がつながっている所ですから、渡来人が上陸した証でしょう。

続日本紀:武蔵国に新羅郡を置き、現在の和光、朝霞、志木、新座あたりに属する入間郡が形成されました。
そこに統治していた物部広成という人。
史書によると、道鏡と対立していた藤原仲麻呂を討った人だという。

藤原氏は、鹿島神宮の出身。
鹿島神宮のタケミカヅチは、葦原中国を平定したという。
葦原中国は、スサノオが岩戸に隠れたアマテラスに高天原国から追放された国。
スサノオの息子にあたる大国主(オオナムチ)はスクナビトに助けられ協力をうけながら
再建した国が葦原中国だった。

タケミカヅチは建雷命と書く。雷様だ。
鹿島の雷様は、スサノオたち出雲系を追放して天津国アマテラスの人たちで国を平定しようと
試みたのでしょうか?

雷様については、仙台を治めた酋長で
http://blog.goo.ne.jp/inehapo/d/20101212

追放された大国主や、諏訪神社(上社)のタケミナカタは、権力争いに負けて譲ることにしましたが、世代交代というか新しい時代の幕開けです。

Musasi05
入間郡は元は入馬で、馬が渡来人(帰化人)によってもたらされた場所です。
渡来人(帰化人)が高麗へやってきて、高麗郡をつくり、高麗人は約1000人以上。
後に新羅人120人位やってきて、各地域に国造を作らせ地方権力者にまかせていました。
新羅人は、秩父に古墳の墓がある羊太夫の伝説が多いので、羊氏は新羅ではないかといわれています。

物部氏の御魂を祀る石上神宮は、布都御魂大神(フツノミタマオオカミ)といいます。
ここも剣が奉納されているので、戦いの神様だったのです。
「武士」という言葉の由来が、物部の「もののふ」という万葉集の枕詞によくでてきますが、そこから発生しているので、物部氏は強大な武士だったのでしょう。

(写真)水天宮

柿本人麻呂のうた
「もののふの 八十(やそ)宇治(うじ)川の網代木(あじろき)に いさな波のゆくへ知らずも」

もののふは、八十にかかる枕詞。
もののふ=物部。やそ=八十 うじ=氏 あじろき=仕掛け
いさな波のゆくへ知らずは、行く場を失い捕らえられたままという意味。

この歌は、日本書記にでてくる大山守皇子の反乱に唄ったといわれています。
八十の意味は、多くの役人のことを意味しているのですが、もののふである武士によって殺された氏族の無念を唄っている気がします。また、ものは鬼ともいう。
石を信仰していた鬼には、物部氏も含まれていると感じます。

武蔵国は物部氏、大伴氏、阿部氏の氏族が支配していた場所のようです。
物部氏は秩父にもきている。
Photo_2
小手指という地名の「さし」は、焼畑を意味します。
サシやサスという地名は秩父にも多い。
小手指~天目指峠(飯能)~大指橋(横瀬)~藤指(小鹿野)~大指(荒川)~高指(両神)などなど。
これが国津神の出雲系と諏訪神社とのつながりがある由縁です。
焼畑農業を伝えたのがスサノオですから、物部氏の末裔はスサノオだから二ギハヤヒをご祭神にしているのだと思います。

(写真:フィンランドの焼畑農業)

ニギハヤヒについてはよくわからないのだが、古事記にでてくる数ある神々の名前で私にとっては一番インパクトの強い名前!
この名前を聞いて何も考えずにはいられないくらい、なんかドキっとするような強い言霊に感じます。
それが何かはよくわからず。。。気になってしょうがない名前。
もしこの名前を音として捉えたら、おそらく高速に回転する光の振動。響きに聞こえると思います。実際、存在した人とは私は思えません。

だからわからないのです。

振動は早くなると高温になりますから、火の事だと思う。
それについては、秩父の和銅開珎とあわせてみると面白いので、後ほど。

古事記だったかな?
ナガスネヒコが神武天皇に言う話。
「昔、天津神の子が天の磐船にのって降臨した。名を二ギハヤヒという。君として仕えている
天津神の子は二人もいらない。二ギハヤヒは土地を奪おうとしている。」と。
神武天皇は天の羽、羽矢と歩靭を見せ、ナガスネヒコは降参したが心を改めなかったので、
神武天皇の命令により、二ギハヤヒに殺された。

ニギハヤヒは神武天皇と同じ天津神であることを証明したところ、ナガスネヒコはなぜか消されました。
ナガスネヒコの兄弟に「安日彦」という人がいて、青森県に逃れた人です。
子孫は安倍貞任。
蝦夷征伐で追いかけていたのは、ナガスネヒコの末裔たちを抹消するためだったのでしょうか?

以前のせた若御洞窟について、若御子神社には、神武天皇が祀られているのですが、
由来によると

「若御子山頂付近に若御子12社宮と称される社殿縁起には、醍醐天皇の御字、930年神官従五位守屋大和守物部吉清再建とあり神社宝物の御神鏡に刻されている。」
古くから武将の勝利祈願にあった神社らしい。

守屋大和物部って、物部守屋?あの諏訪神社の守屋山?

秩父古生層に置いた神社ということは、偶然ではないと思うので、武士の権力には資源が必要だったか?守屋山とかに関係ありそう。

土器制作には「火」と「水」が必要。
秋葉神社も奉られているので、火と水の神様の融合が若御子神社だと思います。
ちょうどいい具合に枯れずに保たれている洞窟に水があったようで、(現在はありません)
干ばつがきても水が枯れない洞窟だったとか、秩父にはそんな水の噂がたくさんあります。

また、雷といえば、菅原道真。北野天満宮の菅原道真は雷神様。
雷は雨をもたらすので水神。学問の神様とされたのは江戸時代に入ってから。
それ以前は水神という古い信仰の上に成り立っていたと思われます。

御霊でもあるので、敵の魂を静めるために建てられた事でもその存在は大きく、
本気で怨霊を信じていた時代だったから、天から雷が落ちるというのは自然災害とも連動していたと考えていたと思います。

時代は変わりますから、今まで作られていた青銅器の祭器に変わり、軍事力を強くするために武器として製造をすすめる天津国になっていくのです。
ナガスネヒコを先祖に持つ武蔵国の阿部氏は、反対し東方へのがれ蝦夷と共にその復讐を
考えるのでした。
その復讐というのは武器で戦うというより信仰による再生を考えていたのが阿部氏たちでしょう。

元は阿部氏と一緒に働いていた物部氏と大伴氏。
物部氏は大和と組み軍事に力を入れる。大伴氏は控えめに東北へ逃れた人もいれば大和に従う人もいた。

「まほろばの七ツ森②」から引用-----------------------------------------------
宮城県黒川郡にある信楽寺というのがあり、地名が「宮床」
という地名は元は、「難波」と呼び、今でも難波という地名が残されています。
淳和天皇は天皇の位を下りて、東北へ来ていたと言われており、宮床の地名は、天皇に由来しているのです。
※淳和(じゅんな)天皇は桓武天皇の皇子。

初めて蝦夷征伐に任命されたのは、坂上田村麻呂ではなく、大伴弟麻呂でした。
540年頃、大伴金村は、大伴の御津の浜で外交などを行っていました。
摂津~和泉あたりを治めていたようです。

大伴弟麻呂は、史料として初めて征夷大将軍といわれており、
坂上田村麻呂と共に東国へ蝦夷征伐に向かいます。
803年、帰京し、823年淳和天皇が諱を大伴親王としたので、
「伴氏」と名を改めています。次第に国司から地方へ伴氏が武士化して各地に広まったといわれています。

七ツ森は、大倉山、高倉山、三峰山の三山を霊峰としていたそうです。
大は朝鮮語でタカと読みます。このあたりの地名もオオと名のつく地名が多いので、オオ氏とタカ氏の山とも読み取れます。これは、大和政権になってからの事ですが、後に奥州街道でやってきた秩父狼信仰の総本山、三峰山を含んで船形連峰を信仰の山として崇めた修験道が確立したと考えられます。

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しかし、阿部氏は東北北部、青森県を中心に新たな国を作ることを考えるのです。
それが武蔵国から東北へのがれて蝦夷になったという話につながるのです。

縄文太鼓とアイヌの音楽

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アイヌ民謡の安東ウメ子さんの安東姓は、津軽一体を統治していた人々で、安部貞任の子孫ともいわれています。
藤原三代が築いた平泉もアイヌ文化が残っていました。
中尊寺で発掘された藤原氏の墓はアイヌの衣装で埋葬され、手も足も長い長身の人でした。
アイヌ人の特徴である遺伝子は残されていたのです。
秩父事件でもそうですが、逃れてきた人たちをかくまったのは、アイヌの人たちでした。
福島県の小手姫伝説の女神山も大伴氏が逃れて住んでいたところです。
きっとここにもアイヌの人達の支えがあったと思います。

機織りを伝える話は全国にありますが、織物を元々やっていた縄文人やアイヌ人だったからこそ簡単に受け入れられたと思うのです。
おそらく、機織りを伝えたという事で神格化されるのは、その「蚕」がやってきた事で大変な手織りから絹というシルクによって繭から糸ができる。それを織るともっと質のよい布ができる。またそれは生き物(昆虫)だから昆虫は土から生まれることから大地の恵みと捉え、また繭は卵=卵巣と捉えていたので蚕の一生を人間の一生と考えた大地母神なのです。

Musasi03
(写真)文字天神社(はた神様)
養蚕をはじめ、糸操裁縫機織などすべて日本婦人の美徳を備え給ふた「多治比文子」と申す神様が祀られた社です。
千年もの昔 京都の七条坊に生まれ神託により1055年7月12日
菅原道真を庭内に祀ったのが御北野天神社の発祥と云われています。

アイヌ人や縄文人については、古事記や記紀などそのような書物に書かれることはまずありません。
でも東北ではアイヌ人と大和の交流がある。
支えていたのはアイヌの人たちだったことが、これから次々とわかると思います。

そうなると、秩父には椋神社も猿田彦伝説も諏訪神社も出雲系の神社も多い。
元祖武蔵国は秩父で、秩父の山生活である焼畑農業から弥生文化が渡ってきて、稲作農業をするために山へ下りて行田市一体に米文化を作ってきた。

武甲山に並ぶ大持山、小持山は元はオオナムチ、スクナビトの由来という説もある。
そうなると武甲山は出雲の象徴として山そのものを龍神にした。それが後に狼信仰に変わる。

「ヒルコ棄てられた神」の戸矢氏が、大物主とは物部氏の系譜を復活させる意味で
「大いなる物部の神」の事ではないか、と記している。
確かに大物主は実際存在していないことが定説らしい。

物部氏は大和側についたが、いつかは子孫を復活させたいという願いで、あちこちに大物主を山に置いていったと思います。
修験道の由来は、その子孫繁栄のために山歩きをしていると私は考えているので、それは復活のために歩いていると思います。

大地復活。修復し再生する。

現代はその時にきていますから。

だから講の役割は非常に大きいと思う。
できたら、武甲山も歩いてほしい。
狼はそれのどのあたりに人と共に歩いていたか・・・それはまだ謎です。

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秩父神社奉納パフォーマンス

2012-09-04 | イベント・セミナー

お寺は人を受け入れる所だけど、神社は万物の精霊を受け入れる所なのだと感じた。

9月3日月曜日の夜。

秩父神社境内では和太鼓ではなく、ホピの太鼓が響いていました。

Hopi01_8

人が変われば神も目覚める。

秩父の閉ざされた大地にとって、有難い祈りの恵みになりました。

アリゾナに住むケンコシオさんと、ホピ族のデリック・スワイマ・デイヴィスさんと、ライオン・ポリクワプテワさんが秩父神社の奉納で、和太鼓とホピ族に伝わる太鼓、踊り、ケンさんの笛、広島からきた太鼓も含め、秩父の夜空を奏でていました。

★ケンコシオさんの旅についてはこちらのサイトへ

http://blogs.yahoo.co.jp/kenkoshiojp/63592200.html

Hopi04_2 (写真:広島の太鼓)

私は久しぶりに生で秩父屋台囃子が聞ける!となって嬉しくて仕事終わってから直行した。

高校時の先生もご健在で、懐かしい人たちとの再会。

単なるお祭りの太鼓ではなく、太鼓は世界共通の記憶の音なのだと改めて実感。また聞いている方は、その音を身体で応えるから、自然と体が動いてしまう。

Hopi02_2
ケンさんとホピの方も屋台囃子に参加し、最後は「ありがとう~」のホピの声で輪になって踊る。

ドンドン大地を叩く音で、秩父の神々も目覚めてくれたと思う。

印象的だったのは、宮司さんの笑顔。

皆がうれしい事は、祖霊もうれしい事。

秩父の神様は、天之御中主柱(あめのぬなかぬしのかみ)、知知夫彦命など。宇宙の中心の神と秩父を開拓した神。

そんな中での太鼓の響きは、宇宙の果てまで振動したと思う。

一期一会だけど、またその人たちとどこかで会うかもしれないし、もう一生会わないかもしれないし。

※途中で切れていますが、ホピと屋台囃子の貴重なコラボです。(1分弱)

http://www.youtube.com/watch?v=85ov6moB-zg

でも、太鼓は身体に記憶する振動波だと思うから、その音が聞こえたら思い出すのだろうな~。これでまた秩父夜祭りがパワーアップしてしまった!

ホピのダンスは、水や生き物を表しているような踊りでした。その姿は人間が大地を歩くようになって初めて「呼吸」をした時の記憶みたいに。

Hopi03

いろいろと教えて頂いた奉納でした。

最後に、水木しげるさんの「三途の川の渡り方」から、水木さんがホピ族の踊りをみた時の話を一部ご紹介します。

Hopi06
ホピには興味深い伝説があって、世界は2度も絶滅しているという。

その度に、ホピ族はグランドキャニオンの地下1000mの地底に隠れた。

1回目は、世界を浄化する火で人間は滅んだ。

2回目は、大洪水で滅び、その名残がノアの方舟だという。

ホピ族は農耕の民なので、夏至の頃、精霊を送ると同時に雨乞いのためのダンスを踊る。

・・・・(省略)

3000年前までは世界中が精霊信仰だった。

いま純粋な精霊信仰が残っているのはホピ族だけだと言ってもいい。

彼らの歌は「元に戻せ」と言っているように聞こえた。

精霊信仰に戻れ、とぼくに伝えたかったのだろう。

(ホピダンスの写真:球体は水を表しているかもしれない。それは地球のことでもあり、この上を飛び越えるダンスは、火渡りのように似ている。水と火の関係性と、単に丸い輪を平面から3次元の球体につくるところは、地球そのもの)

Hopi07_5 (クリックで拡大)

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見えるモノと見えないモノ

2012-09-02 | 日記・エッセイ・コラム

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いきなりですが、UFOが気になった。

UFOは信じる時と信じない時があって、信じられるUFOというのは一人でみた時だけ。

なぜかわからないが、考えてみると私は仙台にいた時と、
この東京でのアップした写真のみはっきりしたUFOらしいものをみています。

ちなみに東北はよくUFOを目撃する話はあちこちで聞きます。
カルチャーショックだったのは、仙台へ来たばかりの頃、
UFO話をしても周りの人たちは、大体UFOをみているので普通に会話できた事。

東北の時は、UFOでも怖い話でも不思議な話をしていると、まるで水木しげるさんのような世界に引き込まれた雰囲気になるのがすごく不思議で楽しかったことを思い出しました。

きっとそれは毎日自然と暮らす人たちが多いから、東北の方たちは、目に見えないものを純粋に感じとる傾向があると思います。あんまり否定はしないです。
それも東北の風土だと思っています。

さて、写真は3年前だったかな?
これは東北ではなく東京都江東区の大都会にある豊洲でございます。

UFOが気になって写真をアップします。
噂によると豊洲はよくUFOがでるらしい?

携帯で撮った豊洲のららぽーとの夜景。

3年くらい前の1月だった。(携帯カメラからズームにしているので画質が悪くてすみません。)

携帯で撮ったら右上に細長い光が映っていた。

何もしていないし画像処理もしていない。
てか、できないし。

これは肉眼ではUFOらしきものは見えないのに、携帯のカメラにはしっかり入ってくるのです。

ららぽーとからは、遠くにお台場の方がみえて綺麗だったので、携帯でズームにしながら夜景を撮ったのですが、ズームにした時に、さっと細長い光が入ってきたので、てっきり「ゆりかもめ」かと思ってました。

で、一旦ズームを戻して目で確認して、再度ズームにしてお台場方面へ向けてみたら、またその光が入ってきて何度か入らないように試したのですが、けっこうしつこく入ってくるわけです。
__
銀河鉄道999みたいに、サ~っと。

※全然関係ないけど西武線の銀河鉄道999→

でも目では見えないのです。

この時は、いちいちそれについて考えるのは面倒なので、そういう事もあるもんだとそのままにしていたのですが、一応写真だけは残しておきました。

今は別の携帯使ってますが、その写真だけ棄てられずにipohneに保存していたわけです。

で、その事もすっかり忘れ、これが出てきたわけです。

これが何かわかりませんが、何で肉眼でみえてカメラには映るのかがどうしてもすっきりせず。

という事は、私たちが気づいていないだけで、常に上空にはUFOがいるという事か?

常に豊洲の上空あたりにはUFOみたいなモノがおって、ららぽーとだけではなく
お台場とか、あのあたりの摩天楼的な世界がけっこうお好きなUFOなんだろう。

仙台でみた時のUFOは典型的なUFOでした。しかもお昼時。
よくテレビにも出てくるようなグレーの楕円形。
私も見ているけど、「あちらも」私に気づいている空気を感じて緊張したのを覚えています。

最初は遠くに見えたのですが、30分くらい経って私に気づいて近づいてきたという感じで、
同じUFOが近くに現れた時はびっくりしました。
でもその後すぐ消えてしまいましたけど。

消えたのは私が精神的な純粋さを失くしたからだと思うのです。
というのは、それを自分だけ見ているのが怖かったので、ビデオカメラ(当時はもってました)で録画しようと意識を物質に向けたことで集中力が欠けてしまったからです。
そうなるとUFOは消えるのではなく、私の中からは見えなくなってしまうのです。

ある人はカメラに撮られるとまずいのでUFOが消えたとか言いますが、「まずい」とかそんなレベルではなく純粋に考えると。。。

例えるならば、UFOは道に迷ってしまったが、そこに住む人と目が合ったのでちょっと訪ねてきいてみようと思って近づいたら、何か黒い物(ビデオカメラ)を向けられたので怖くなって消えた。

面白いストーリー完成!(笑)

でもそのくらいそのUFOには純粋さを感じました。ただそこに何か宇宙人が乗ってるとは全然思えませんけど。外の人からみたら、地球でのコミュニケーションの一つだったと思います。

子供には見えないものがみえて、大人になると見えなくなるといったこと。そんな体験でした。

他、友人のUFO目撃談の一例。(東北)

・仙台市太白山に消えたUFO。

・大雨で落雷の時に、雷が山の方へ落ちてその時一緒に白いモノが落ちたのを見た。(同じく太白山の方面)

・仙台市内、オレンジ色の点滅する大きな光。最初は火星かと思ったがそれにしても
 大きい。家に帰ってもう一度みたら消えていた。
 その次の日も同じ場所で同じオレンジ色の光。やはり方角は太白山の方。

・面白山(山形県)でUFOらしいものをみた。そこは、昔、自衛隊機が墜落したが未だに見つからないという。

・山形県の飛島の方面に飛んでいたUFO。

・日韓のワールドカップ時、仙台市上空に白いアドバルーンのようなもの。近くまで自衛隊機が飛んで様子をみたが不明。「人工的な何か」と報道され終わったが、
 その数日後、民家の畑で白い大きな袋みたいなものが落ちていたのを地元の方が発見した
 けれど、それが何かはわからないまま。

・仙台空港近くで飛行機を見ていたが、飛行機ではなくよくみると丸い円盤だった。

・仙台市国見ヶ丘方面の尾根をみていたら、尾根つたいに丸い光が沿って飛んでいた。

などなど。

共通しているのは、アドバルーンのようなもの以外は、すべて「その人本人しか見えていない」という事です。その人にしか見えないモノが不思議な体験だと思うのです。

09taihaku02_2 09taihaku07_2

※標高300mくらいに小さな太白山(山頂は貴船神社が祀られています) 太白山の名前の由来は、金星のタイハクからきています。伊達正宗が韓国にある太白山と同じに名付けたという話もあり、伝説も多く、金星から降ってきた岩で作った山という伝説もあり、確かに巨石が多い山です。

それで豊洲のUFOの場合、なんでカメラには映るのかといのが霊的な波長と似ていて、カメラの仕組みは無知なのでよくわかりませんが、赤外線によるものらしい。

こればっかりは人の目では感知できないのですが、カメラには備わっているものだそう。

UFOは水のように何でも地球上にある媒体に変化できるモノなのかもしれません。
それは赤外線のような波長を通して気付かせているのか?

でも仙台でみた時のUFOと豊洲のUFOは全然タイプが違います。豊洲の方が巨大だしね。

最近は仙台の時のあの純粋な?UFOは見なくなりました。

今はいろんな雑念なんかに惑わされることもしばしば(笑)。

純粋さを段々失ってしまうからUFOも見られなくなって何だかさびしいなあと思う。

また見える時あるのかな~・・・。

_ufo03 画像反転してみるとわかりやすい。

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