秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

即道神社の六兵衛さん

2012-08-27 | 神話・伝説

Nakagawa05秩父線武州中川駅近くの140号線にぽつんと建つお堂があります。
春はしだれ桜が美しく夏でも大きなしだれ桜が目立っています。

ここに伝わる話は各地にも伝承されている、足の速い人の伝説と、解読不能といわれる不思議な爪彫石が祀られています。

即道は、江戸時代上田野村薬師堂住尾張守町田定照の末孫で六兵衛定之という。
出家して即道といい、伝説が残されており、足は早く力持ち、器用で読み書きも抜群だったという。

六兵衛の足の早さは・・・

・江戸まで魚を買いにいくのに何日もかかってしまえば、魚は腐ってしまうが、六兵衛は飛ぶように去っていきその日のうちの夕方に帰ってきたと。

・また、村の人総出で道普請をして一休みをしている時に六兵衛は、「武甲山の山頂まで鉄ビンの水が煮え立つまでに山頂まで行って戻ってくる!」といった。

「それなら山頂の鐘を鳴らして戻ってきてみたらいい」と村の人が言うと、六兵衛は勢いよく走りだし、山頂の鐘の音が鳴るのが聞こえると、やがて村の人の前に現れた。それは鉄ビンが湧き始めるのと同時に戻ってきたという。

なぜ、そんなに早いのか?と村の人が尋ねると、六兵衛は近所の機屋から絹一反(12m)を借りてきて布のはしを自分の腰に結び、ひらひらと長くたなびき地面につくことなく飛んでいるようだったと。

足の速い話は各地にあって、神奈川県大山の阿夫利(あふり)神社では、日照りが続くので
足の速い人を募り、雨乞いの時に藁で作った竜のために、神社に向かわせ休みなく走らせて水をもち帰らせた。

村人は「六根清浄、雨降らせ」と唱え藁の竜を川へ流すと落雷と共に雨が降ってきたという伝説がある。

六根とは眼根(視覚)耳根(聴覚)鼻根(嗅覚)舌根(味覚)身根(触覚)意根(意識)、という五感にプラス六感の意識の部分を含めた人間の根源のこと。
富士山登山にもよく用いたらしい。

ちなみに大山の阿夫利とは、アフリカの語源からうまれたという話もありますが、実際は定かではありません。でもここの薬師様は結構、黒いのが特徴です。

また、沖縄県名護市では巨人説が残り、那覇まで日帰りで帰ってきた男の話が残っています。

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▲薬師如来坐像

即道が山中に籠り1カ月を費やして作ったものといわれ、胎内像を有し、子育薬師、安産薬師として信仰を集めています。

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足が早いのにはいくつか理由があります。

①イダテン(韋駄天)という仏教の仏様。
増長天の八将の一神。

帝釈天から仏舎利を盗んだ夜又(捷疾鬼しょうしつき)という足の早い鬼神を追いかけて取り返した。よく走る神という事で韋駄天走りという言葉が生まれた。
「御馳走」の由来は、釈尊のために駆け巡って食物を集めてきたことからきている。

②馬の象徴
脚が早いや脚の数が多いなど、空を飛べるといった伝説は世界各地にあります。
黒谷にある和銅開珎に伝わる羽のついた人の話も脚が早い人の伝承が残されています。

六兵衛が絹を腰に巻いて飛ぶように走ったという伝承からも、絹織物を伝えた人たちの技術や知識、情報のネットワーク通が村の人たちにとっては超人にみえたのかもしれません。

また竜との関係からハンガリーには「フェルニゲシュ」という竜伝説がある。
6、12、24の頭をもった竜がでてくる。この数は正六角形、正12、正24・・・と続いていくと球体になる形を現す水分子や球体のことかもしれません。
そして魔女のもつ早さは6本足の馬であるという。

この「6」という数字にも関係していて、六兵衛の6と六根の6もとにかく6である。
また、韋駄天も六面十二臂である。

阿夫利神社の雨乞いのように、水を意味していることもあり、雪の結晶は六角形で水滴は、水分子が3つに結合することで六角形になることを意味している。
六角形は▲と▼が融合した六芒星をで、それを信仰しているユダヤ教は世界中に散らばっている。
即道神社に祀られている石の図形からも、北を中心にしたような「地」と「上」という文字は、天と地を現し北は北極星のことかもしれません。

石の側に竜をお祀りしているので、雨乞いや水の信仰に深い龍神と石の関係が深いものだと思われます。

6という数字と馬がどのように関係しているかはよくわかりませんが、仏教では寺院に災難があると須弥山から駆け付けてくる神様もいるので、その須弥山は秩父の場合、武甲山にあたります。

武甲山が水神様というのもここからも説明ができます。

でもその石が伝えたいメッセージは何か?ごちゃごちゃしててよくわかりませんが・・・
興味のある方は実際足を運んで拝見されると興味深いと思います。

●爪彫石・・・油石といわれる軽く想い石で、即道が富士山登拝の折、袂に入れて持ち帰ったものといわれる。表面中央を起点に左まわりに、諸願、由来、歌などが浅く刻字され、享保2年正月元旦とある。これを正解できる者は即道の再来であるといわれる。

Nakagawa01

<即道神社への道> 秩父鉄道武州中川駅下車→140号線にでて秩父方面へ歩く。途中に、やおよしスーパーがありそのまま直進して線路を渡ると、すぐ先に横断歩道とコンビニがみえます。

そのすぐ向かいが即道神社です。

徒歩約7、8分。

★秩父鉄道時刻表

http://www.chichibu-railway.co.jp/train/ttable/index.html

★Google Map


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秩父水神巡礼① 水について

2012-08-21 | 水神巡礼(秩父編・その他)

  ★水の重要性

私はつい最近まで水については何もしりませんでした。

水の重要性について何も考える事もできず、知り得ていなかったわけで。

でも、最近特に水の被害が多いことは確か。何でこんなに水災害が多いのか考える人は少なくない。

特に震災ではいろいろと考えさせられました。

なぜ古代の人が水を大事にお祀りしたり、雨乞いの儀式をしたり銅鐸、銅鉾、銅剣などを作っていたのか・・・

それがすべては水にありました。

水はどんな物質にもそのように対応できる唯一の物質です。つまり形があってないような存在。それは、エネルギーなど目に見えない物質を媒介できるということ。

なんのこっちゃ、と思うのですが、すっきりした答えが返ってきました。

宇宙飛行士の毛利さんは、「水は無重力では球体です。地球も球体ですから水なんですね。」という事を仰ってました。

シンプルで完璧な答え!

あ、だから地球は水なんだ。という当たり前のことに気付いたのです。

そして、この球体というのを常に追求していたのが古代の人たちで洪水伝説や神話の原点はこの球体にあるのです。

▲-----水について知るための2つの特徴----▲

1.信仰としての水

秩父夜祭りのように農耕儀礼や命のサイクル、再生、縄文時代から続く女神や胎水、出産を表した地母神としての水神。

2.祈りの道具

信仰に付随しますが、雨乞いや自然災害を食い止めるための道具が作られるようになり、祭器としての金属作りによる発展。

大体が、記紀に記されていることは、この技術を運んできた人たちを記したものなのです。

古代信仰では、大地の治療法として水は音に共鳴すると考えていました。

「国作り神話と大和三山」の著者 大谷氏は、銅鐸は水の音を出すものであり、地中に埋めることで洪水の被害を防ぐ役割や、日照りや干ばつによって引き起こされた大きな被害から守るために利用されていたと説明しています。

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縄文土器の渦巻きや水紋様にも水の意味があり、水のしずくが完全な円を描いて広がる波紋が、水の正体でありそれを音に変換できるのが銅鐸だったのでしょう。

女性をかたどった土偶をバラバラにして地中に埋めるのは、銅鐸と同じ思想で人間の体から生まれる穀物などの恵みは、女性が子を産む命と地球が共鳴できるように考えて地中に埋めたのです。

再びそこから新しい芽がでるようにと。

世界各地に伝わる食物起源説は、縄文時代から伝わっていたのです。

また縄文の思想は、後にアメリカのネイティブの人たちの祖先となるのですから、度重なる水災害について、その知恵を教えてもらうという姿勢は大事です。

<写真>熊本県水俣の海に浮かぶ「保食神(うけもちのかみ)」の碑。いつ頃建てられたかわからないが、水俣病を引き起こした水銀の被害は、お腹の中にいる胎児たちにも被害が及んでしまいました。

海も人も、すべてを引き受ける運命なのです。

地球が水の惑星というのは球体なので、私たちの体も小さな球体をもって生まれていました。

それが子宮の卵巣です。

水に浮かぶ球体。そこに生命が宿るわけですから、縄文の人たちが出産時に火を儀式として炊いて使ったというのは、水と火が融合することに深い意味があるからです。

で、その水やら火やら、その原点が何なのか?それを探ることが目的なんですが、例えば秩父を例にすると、なぜ秩父は水が豊富なのか?といつも素朴な疑問はもっています。

それは単に森が多いとか雨がよく降るからという事だけではなく、古代の人たちが考えていた形がちゃんとあって、それを実践し、巡礼という形で人々をその地で歩かせることが大事なのです。

人が歩くとその土地が癒されます。

磁場のエネルギーだとかいろいろ言われますが、そういう事よりも「人」なんだと思うのです。人間の念ほど、強いエネルギーはないうえに、思うこともエネルギーだからです。

そのルートが確保されていたわけで、そこに水の思想が入っているところがあります。

秩父札所巡礼の場合、多くの特に女性が集まっていた秩父でした。

女性の願いを叶えてくれる観音様、子宝に恵まれる不思議な石、荒川の精霊が伝わる札所、雨が降っても濁らない武甲山の名水、雨乞い時に龍雲が現れる岩、延々と枯れることがないといわれる延命水などなど。

美味しいお酒から蕨手刀が伝わる円墳まで、すべて「水」によって生まれた伝説や風土がたくさん詰まっています。

こうした話も長い時間をかけて地元の人たちの手で作り上げたものであり、宗教と自然を一緒に取り込んだ共同作業なのです。

自然や森は人間と同じ次元にいるという考え方だから、大体、荒川に沿ってお寺や観音堂を建てるので、それに沿って歩けば自然も人間も浄化されるという考え方だと思うのです。

秩父を歩きながら、水について考える。

また、お金ではなく信仰という形で武甲山の権利を取り戻す気持ちを地元人は持つべきなんだが・・

水にまつわる場所はたくさんあるので、小出しにテーマごとに秩父の水にまつわらるお話をご紹介していきます。

01_4 <写真>宮城県石巻市の大島神社

石巻の地名由来になった「巻き石」が近くにある。

残念ながら被災して近くまでいけないが、石巻湾を守るのは住吉三神。筒と名前のつく神様は井戸水や泉の神様。

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天神地祇社(てんしんちぎしゃ)

2012-08-08 | 秩父の祭りと信仰

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ある方から「秩父神社は出雲のように神々が集まるところなんですね。」
と言われたことがあった。

は~、そうなんですか。

と、こちらが教えてもらったくらいの「???」だった。

長い間、秩父から離れていたので実は秩父人のくせに、何も知らない。
元は東北を歩くはずだったのだが・・・

熊本に住む秩父の友人から「秩父に何回も引き戻された」と言っていたことを思い出す。

秩父はそういう所だ。。。
「案外」と言ってはいけないけど、知れば知るほど秩父は深い。

観光客目線でいうと、穴場。

東北の人も言う。
「秩父という所はまだ手つかずの世界がある」と。

それでもってこの秩父神社なんだが、何が中心かといのがようやくわかった。

秩父神社境内の裏に、長屋があります。
そこにこんな看板を発見。それをちょっとご紹介します。

平安時代から中世にかけて、調整の「二十二社」奉幣制度と共に、全国各国毎に「一ノ宮」「総社」の運営、祭祀の尊重が図られるようになりました。
かつて秩父地方は、知知夫国として独立した存在ではありましたが、その当時にはすでに武蔵国に属しており、現在の東京都府中市に鎮座します大国魂神社が武蔵国の総社とされ、その第四ノ宮に当社のご祭神が奉祀されました。

古くから当神社の境内社の一つとされて参りましたこの天神地祇社は、全国の一ノ宮
(計75座)をお祀りしています。
これほど多くの一ノ宮の神々を、境内社としてお祀りしている事例は全国的にも珍しいものと思います。

その理由は定かではない、との事ですが、八意思兼命が神話の中では多くの神々のまとめ役といった存在なので、秩父神社に一ノ宮をお祀りしたといわれています。

一ノ宮とは、その地域で格の高い神社で、次に高いのが二ノ宮、次が三ノ宮というふうにいわれています。

現在の都道府県ではなく、律令制度の頃に区分けされた国1つにおいて1社を置きました。
それには、国津神が多く、その土地に根差して住んでいた人たちにより崇拝された神々といわれています。
国津神とは、地に現れた神としてスサノオや、その子孫とされる大国主などは国津神。

それに対して天津神は、高天原から天降った神のこと。

天神地祇の天神は「天津神」、地祇は「国津神」のことで、天と地の神々を総称していうようだ。なので、秩父神社は全国の神々を集めた神社といっても過言ではないのです。

また、一ノ宮は、氏神などその地域にとっての守護神の要素が強い。

秩父夜祭の前日、秩父のお囃子が街を練り歩くのですが、を諏訪神社前では音を立てずに静かに通るというお約束がある。
武甲山の神(男神)と秩父神社(女神)の密会を知られてはいけないという事らしい。
なぜ、そのようにするかはわかっていない。

その諏訪神社(上社)の何が密会を気にするかというと、タケミナカタ(国津神)の妻、八坂刀売神(やさかとめのかみ)が気にするという。
一応、男神と女神が合うわけですから、三角関係になってしまうという話のようです。

ヤサカトメとタケミナカタをお祀りする諏訪神社は事代主(恵比寿様)と丹生都比売神(にうつひめ)を祀る。
秩父とも深い関係にある丹生は、水銀を意味する。鉱脈や水銀を守る一族の守護神としているので、その諏訪神社が多い秩父にも関係する。
武甲山が蔵王権現を祀った事実も、このあたりに関係しています。

ニウツヒメは、水銀と硫黄の化合物が赤土になったわけで、それを祀る意味もある。本社は葛城町(和歌山県)丹の経済力が大きく大和に対抗するのに匹敵するほど。
和歌山県(熊野あたり)に多く集中しているのは大国だったといわれます。

秩父にも丹生神社があります。
武蔵七党といわれたうち、丹党の氏神は古代豪族で奥州藤原の金、秩父平氏の銅、丹党の丹、また丹の産出がつきると神名を変えるといわれます。
両神山の両神神社は元は、丹生明神でした。

(参照:ヒルコ 棄てられた神の謎:戸矢 学)

赤土については、伝説の中で鬼の血と表現する地域がいくつかあります。秩父の場合、大血川がそれに近く、このあたりは金などの採掘場があったと思われます。

ヤマタノオロチ伝説も赤い土が表現されることから、龍と赤土は産鉄族の象徴です。

また、秩父にはサルタヒコの伝説残る椋神社も多い。
横瀬町には武甲山に向かって6社の祠があります。
そのうちの猿田彦神社は2社存在する。
これも地元の人たちの産土神である。

秩父は国津神によって作られた土地といえるかもしれない。

もうひとつ、秩父神社に神々が集まるという話の中で、災害に強いからという理由も含まれると思います。
過去に載せた内容になりますが、引用します。

秩父神社がこの頃の律令制度に深く関わっていた事が、すでに奈良時代にあったわけで、
秩父神社の権力や財政的な威力が強かったと思われます。

その理由は、和同開珎の自然銅が発掘された事で、秩父の影響が強くなったのが一つです。

では、秩父神社の神位があがる時代、どんな10年だったか・・・・

・852年 豊前、豊後 16000人余り 風災 被る

・853年 京都近畿 疱瘡を患ひて死する者多し

・854年 大和国 灌頂経法(主に密教で行う、頭頂に水を灌ぎ、正統な継承者とする為の儀式。)を修し、災疫を懐はしむ。 不動稲35000束(律令制に置かれた不動倉に保管された稲のこと) 石見国の飢餓民に配給。陸奥国凶年 百姓、困窮し、兵士逃亡、逆乱の恐れ

・855年 東大寺の大仏 頭落

・856年 地震多し

・861年 武蔵国群毎に検非違使一人おく

・・・・・・・

神位とは、神階ともいい、朝廷にとって大きな被害が起こると祈願するのですが、
その時に朝廷の配下にあった諸所の神々に階級をすすめていました。

秩父郡からは、治安維持や賊従追討のため、秩父神の威力を借りていました。
この上位は、その後も続き、天災の記録が頻繁にみられます。

その度に、正五位から従四位、888年には、正四位と上位にあがるのです。

つまり、自衛隊のようにどこかで災害や天変地位で死者がでた場合の治安維持に
秩父から数名派遣されていて、その度に秩父神社が出世するという事なのです。

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(●札所16番 西光寺の船乗観音さま)
 

秩父は米はとれない。という厳しい山環境にあります。
畑も段々畑のように傾斜に作る事が多いです。
しかし、史料によると秩父(関東平野も含め)はとても豊かな土地だったようで、元々武甲山は、御嶽山と「嶽」を使ったのですが、お米を保管する蔵のある所に使われる意味もあり、武甲山がその役割であったと。徳川家も秩父を江戸幕府の(特に災害や飢饉用の)貯蔵庫と考えていた事もあった。

江戸時代にあった大飢饉でも、山梨県~愛知県あたりの人たちが秩父札所へ巡礼にやってきて、多くの巡礼者がお参りにきた事も記されています。

当時の秩父の僧侶たちは、非常に献身的な方が多かったようです。
歩くこともできない巡礼者に対し、ボランティア僧侶なる人がおり、その方たちは巡礼者を背負い、近くのお寺で介護するのです。
その場で亡くなる方もいました。まだ命がある巡礼者には、近道(例えば長野県へ向かう道では芦ヶ久保経由で返したようです)を教えて巡礼者を介護してから返したといった内容も記載されているのです。

昔は、神道と仏教はわかれていました。
神道の天神地祇社が天や神といった人間とは手の届かない存在にあるのに対し、観音霊場は、人間と同じ庶民の目線に立った存在といえるでしょう。

例えば、札所16番西光寺は、供養のために八十八佛廻廊堂というのがあります。

天明3年(1783年頃)浅間山大噴火は、秩父地方にも灰が降り、農作物にも影響がありました。
その結果、天明の大飢饉とあるように不作が続き多数の餓死者が出たのです。

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本寺の成身院住職元映和尚の合力を得て、護摩札八千余牧をたき、観音経千余巻をあけ、広く浄財を募り、十年の歳月費やして当堂を完成し、無縁の精霊を慰め五穀豊穣と天下泰平を祈願しました。

このような廻廊堂が地方の一寺院に建立されているのはきわめて稀である。(看板より)

秩父神社同様、観音霊場も存在する秩父は元々巡礼者たちが安眠できる場所だったのかも
しれません。
またそれを受け入れることができた秩父だからこそ、秩父観音霊場がにぎわうのでしょう。


また、その秩父がそのようになったのも偶然ではなく、秩父の貧しい大地を開拓してきた先祖のおかげであり、また武甲山と荒川の恩恵にあるのです。

もうすぐお盆ですが、自分の先祖のルーツを考える時間にしてみるのもよいかと思います。
思いがけないところで、いろんな方とのつながりを発見することがありますよ♪

札所16番西光寺への道>

「西武秩父駅」より徒歩約30分。
または、秩父鉄道「秩父駅」より徒歩約20分。

西光寺のGoogle map ! Check please!


大きな地図で見る

※体の悪いところを治してくださるオビンズル様にお会いできます!

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吉見の百穴

2012-08-04 | 洞窟・巨石探訪

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埼玉県比企郡にある吉見の百穴は国指定史跡になっています。

約1300年前、古墳時代末期に発見された横穴式墓群で、ここの吉見と少し離れた
八丁湖の近くにある黒岩横穴古墳も同じ横穴墓群。黒岩横穴古墳については比較的
良好な状態で保存されているので、吉見百穴よりは規模が大きい。
黒岩古墳については、機会があったら後ほどご紹介します。

吉見のこの場所に建てられた理由の一つとして、荒川がありました。
かつては、このあたりまで荒川は流れており川の近くに住んで生活していたといわれています。
そのため、お墓も高台の見晴らしよい所にたてられています。

この穴の発見については江戸時代頃から噂になり、「不思議な穴」として名所になって
いたそうです。
明治時代、帝京大(現東京大学)の坪井博士により、発掘調査が行われた結果、
先住民の住居跡とされましたが、日本各地で調査研究が盛んになり、現在は
古墳時代の横穴墓であることがわかりました。

坪井氏は、この住居は、コロボックル人(土蜘蛛)の住居としてみていました。
北海道などの竪穴に住む人のことをコロポックルといわれていたのですが、
アイヌ人より先に住んでいた人、という説もあります。

「吉」という地名には、秩父でも吉田町ありますが、アイヌ語などでは、悪い地名の場合、例えば泥沼のような水も飲めない沼地を「悪し」という事もあります。

ただ、それをそのまま悪い言葉を使うのは言葉の意味そのものに魂が宿ることを信じていた人々なので、良い地名に変換します。そのため、悪し→良しになり、「よし」という地名が多く点在することになるのです。

悪し(あし)は、葦原のように、葦があったともいわれます。

また、もうひとつの面白い説は、炭職人の名前に「吉」がつく名前が多いという事。

炭を使っていたところは秩父にもたくさんあります。もとは鉄を産出していたのが、時代を経て炭をつくるようになり、炭職人としてその家系を存続するという事になったようです。

その一族に吉などの地名が残ったという話も聞かれます。

土蜘蛛は洞窟などに生活していた原住民で、海蜘蛛という人たちもいます。
森に生活する人、海で生活する人。
ただそれだけの違いなのですが、秩父では元々そのような山の知識があった人たちに
和銅が発見されてから働かせていたので、農民から鉱業の仕事するようになった
人たちともいえます。

Sekientsuchigumo

Toriyama Sekien(絵図)

それは219個の穴があるとの事。
戦時中は、軍需工場として利用されていたなど、あまり良い利用の仕方をしていない
残念な名所になっているけど、全国的にもなかなか見られない横穴古墳らしい。

特に興味深いのは、ここに「ヒカリゴケ」が生息しているという事だ。

その緑色の光は、わずかな光に反射している原糸体という細胞によるもの。

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北半球に分布し、日本では北海道と本州の中部地方以北に、
日本国外ではロシア極東部やヨーロッパ北部、北アメリカなどの冷涼な地域に広く分布する。
洞窟や岩陰、倒木の陰などの暗く湿った環境を好む。
日本の自生地にはマッカウス洞窟(北海道目梨郡羅臼町)、
長野県佐久市や光前寺(長野県駒ヶ根市)、群馬県嬬恋村(浅間山溶岩樹型)、
吉見百穴(埼玉県)、北の丸公園(東京都)などがある。(Wikipedia)

関東平野にこのコケが自生しているのは珍しいのですが、
その理由はあまりわかっていません。

▲歴史---------------------------▼

今、634mのスカイツリーが人気です。
世界一!の電波塔は、かつて関東平野を支配していた人達の復活か?と思うほど、
634mという数字が、ムサシ(武蔵)からとったという理由をきいて、
大和に対する逆襲すら感じます。
しかも、あの高尾山を越えているというのだから、どういうこっちゃ。

昔の人たちが「なぜその場所に国家をつくったか」を知ればわかることですが、
今より水が多かった地形を考えると、やはり荒川と多摩川の力があったようです。

利根川あたりの領域では、朝鮮半島からやってきた渡来人、羊氏の存在もでてきますが、
ここでは割愛します。

行田市のさきたま古墳群、二子山古墳、吉見百穴、武蔵台北方の古墳などは、
利根川、荒川、入間川の氾濫場所であったので、工事拡張し水田化するためにありました。
ここに住んでいた豪族が大和に服従していた氏族だったのです。

武蔵国の前は3つの小国でした。

・秩父、比企郡、荒川沿岸の大里群あたりまでは、「知知々国
埼玉の西にあたる地域は、秩父の地名にもあたる知知々命。
祖先は八意思兼命。
本拠地が秩父になります。氏神は秩父神社であり、氏族は大伴部氏といわれます。

・足立、入間あたりは、「无邪志国」
祖先は、出雲国造。
出雲大社神官系譜の孫?にあたる兄多毛比命が任じられた。
また、氏族は物部氏にあたるとの事。
武蔵国を支配していた豪族は、後に軍事目的として物部氏、阿部氏、大伴氏などは、
大和朝廷に赴任?という形で勢力を増すことになります。
武蔵国が3つに分裂していたわけですから、内乱などがおこって、
それに逃れるたために武蔵国を捨て、大和に対抗するべく東北へ逃れたという
説があります。
それが、後にエミシと合流したという話につながります。
これは昔から武蔵国と東北に交流があった為です。

また、无邪志国の氏神は、大國魂神社や氷川神社などです。

所沢市に物部天神社というのがあります。ここは古代武蔵の拠点になったといわれ、
その説として、境内には國渭地祇神社、中氷川神社(所沢市三ヶ島)、出雲伊波比神社
(入間市)等があるためです。

ちなみに、入間市の入間の由来は、「馬が入る」という意味で最初に馬が入ってきた
ということから。
これも馬を乗りこなしていた豪族を指し、行田市の古墳群には、馬も一緒に埋葬されていた
ことが騎馬民族の特徴といわれ、大きな国家であったといわれています。

・多摩、あたりは「胸刺国
多摩川流域を治めていたのですが、この国についてはよくわかりません。
胸を刺すという漢字からいわれているのが、「刺国」やニニギの命が降臨したといわれる
九州の蘇刺国の空国からつながっているような気がします。

つまり、胸刺国は、スサノオ系統のもつ国であり、さきたま古墳群で出土した鉄剣が
九州(熊本県)と同様の人物名から、九州と埼玉の共通点を見出すうえで、
九州地域~出雲~大和~武蔵という流れは否定できないのです。

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百穴の森:百穴に登ることができます。

吉見百穴への道:東武東上線 東松山駅下車 、免許センター行きバスで徒歩5分。

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