秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

秩父平家と機織りの夢 

2017-12-08 | 秩父の祭りと信仰
久々に不思議な夢をみました。
昨日の晩ですが、私の母方の祖母のことをノートにいろいろ書いてました。
いろんなことを調べているみたいで丁寧な文字で書いてます。
その内容について、母に聞いているのですが、
祖母が「機織り姫」だったことがあるといった内容でした。

機織りか~と思っていると、場面が変わり、モノクロの風景。
知らない村を散策しているのですが、どの家を覗いてみても、機織りがあった。
この村では機織りをしている家が多く、どの家にも立派な神棚もありました。
どの家も機織りで生計を立てているようで、神棚も立派なのは珍しいと思い、
奥の院は何だろう?と思って、
googlemapで調べたら、写真がでてきた。
山中の奥に小さい岩山がみえ、松が映えている。
そこに赤い橋がかかっており、弁天様だ!とすぐわかった。

そこまでまっすぐ歩いていけそうなので、行ってみようと歩きだしたら、
スマホに着信が何回も入っていた。
電話してみると、知らないおじさん。
もう帰らないといけないという。
ここから家まで4時間もかかるらしい。
電車で帰るから、と断ろうと思ったが車の方が楽。
おじさんは車で送ってくれるというので、弁天堂へ行くのはあきらめた。
土産店で待ち合わせしてみたけど、60代くらいの知らないおっさん。
でもそのお店は、中国のお店で定員も中国人。
お土産を買うにも、私は中国と知って値切りまくっている。
しかし、日本円しかないので、しゃーね~な、という顔をされて安く購入できた。笑。
何を買ったか覚えてないのですが、おっさんの車の運転が大丈夫か心配している。
そんな夢でした。

弁天堂には行けなかった残念な夢でもありましたが。
祖母が機織りに関係している夢だったのですが、祖母は全く機織りなんてしてませんし、
蚕も飼ってない。
祖母の家系を詳しく知らないのですが、鉢形城で北条氏側についていた立派なお坊さんがいたそうで、
その僧侶に関係しているとは聞いていました。
祖母の家はお屋敷で立派な蔵もあり、吉田町では裕福な方でした。

夢の中の村の風景は、昔の秩父だと思います。
秩父は養蚕が盛んな所なので。
いつの時代か不明ですが、秩父にもあんな小山に弁天堂があったんだ~と思うのです。

さて、前回の話から、恒持神社の話をしようと妄想を膨らませていたのですが、
この夢をみたら、秩父平家=平将門=桔梗姫みたいな流れになっている?と思ったのです。
その間に、橋姫が登場・・・どーいうこと?
まずは、恒持神社について。
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恒持神社(つねもち)の由来。(秩父市山田)

「現在の恒持神社は、明治41年に近在の丹生社、諏訪社、稲荷社を合祀したものである。
そのうち、恒持神社の由来は、平城天皇の御代(大同元年806年)恒望王(平家の祖
高望王の弟)が武蔵権守に補せられ、官舎を新木の地(現恒持神社)に置いた際、
神沢(現横瀬村)にあった高斯野社(たかしの)を官舎近くに遷し、ここに勅定
高斯神社の社号を賜り十五か村の総鎮守とした。





祭神は水の神で、高篠山山頂清水のこんこんと湧き出るところに竜神社をまつり、
旱魃で水が不足すると笛や太鼓で御幣を振りながら「雨賜べ竜王なあ」と
哀調子で天に向かって叫びながら、竜神社まで登り、雨乞いを行ったものである。
毎年三月十五日、恒持神社例大祭は、「山田の春祭り」として秩父地方へ
春を告げる最初の祭りである。
江戸時代から伝えられた屋台、笠鉾が秩父屋台はやしのリズムにのり曳きまわされ、
山挟の歳時記として一段と風情をかもしだしている。」






秩父人の寡黙なプライドの高さは、下向などと言われた貴族出身者による、
悔しさみたいなものはあるのでしょう。
高望王の父は、葛原親王の第三皇子とされる。(786年)
葛原親王の父が桓武天皇。
母親が多治比家なんですね。
サンカの話に登場する、イタドリの葉の由来があるタジヒ。


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高篠山に「わらび長者」話があります。

「秩父の高篠山に、栄華を極めた長者が住んでいた。
この長者は、毎年春になると屋敷中の人間を駆り出し、高篠山のわらびを採るのが習わしだった。
ある年のわらび狩りの日、長者がこう厳命した。
「良いか皆の者、あの日が沈むまでに高篠山のわらびを全て採り尽くせ。
日が沈むまでに高篠山のわらびを全て我が屋敷の倉に納めるのだ」

幼子から年寄りまで駆り出されてのわらび狩りは続いたが、
とても1日では山銃のわらびを採り尽くせるものでは無かった。
じりじりとその様子を眺めていた長者は、何を思ったか愛用の扇を取り出し、
「エイホゥ 夕陽よ戻れ、エイホゥ 夕陽よ戻れ」と叫びながら扇で夕陽を指し招いた。

すると、沈みかけた夕陽が再び戻って辺りを照らし、やがて高篠山のわらびは全て採り尽くされた。
ところが、高篠山のわらびが全て蔵に納められたと同時に、
蔵の中に積まれたわらびが赤トンボに化けて次々と高篠山に戻って行った。
季節外れの赤トンボが群れ飛ぶ中、長者は狂ったように扇を手に「夕陽よ戻れ」と叫びながら舞い続けた。
その内扇をひと振りする毎に屋敷が消え、蔵が消え、しまいには長者の姿も消え、後には扇と無数のわらびだけが残された。



以後、高篠山はわらびの名所になった。
また、後々の時代になっても山の頂上で時折「夕陽を戻せ、夕陽を戻せ」と
言う叫びを聞く者があったと言う。」

※まんが日本昔はなし。

わらびがトンボに変わった話を聞くと、秋田の大日堂の「だんぶり長者」を想像してしまいます。
だんぶりとは、トンボのことで、秋田の鹿角に伝わります。
関係しているかわかりませんが、横瀬に安保氏という人がいて、その人は秋田の鹿角に行ってます。
秋田のだんぶりと、高篠のわらびトンボが似ていると思いますが・・・。
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さて、「葛(くず)」の言葉を使うのは、葛城系だったり国栖や土蜘蛛やらいろいろ。
藤原不比等は、律令制度を作った中心人物でした。
その大宝律令に反対した人は、自害させられたり左遷されたりした。
葛城氏の他、物部氏、多治比氏、上毛野氏、穂積氏など。
その左遷された人の中に、高望王がいたわけで、諏訪を経由して秩父に入ったと思います。
後に平家VS源氏となっていくのですが、
まつろわぬ民と言われた人は、日本を独立国とすることに反対したと思います。

昔から東北地方は積極的に海外と交易を進めていた場所です。(十三湊など)
中国大陸、朝鮮半島、東南アジア(九州)と日本を含めたアジア圏としてみていたのですが、
中臣鎌足など朝廷側は、日本を独立させて神国を目指すために、
大宝律令を考えていたわけです。
天武天皇の時代から発令され施行されるのですが、秩父の歴史はこの時代から分岐すると思います。

私が歴史好きになったきっかけは、中臣鎌足の「小国なれど大国あれ」という言葉でした。
日本を意識し始めた時代。それから日本史にはまったのですが・・・。

しかし、まつろわぬ民としては、自由な交易ができなくなる他、土地の税収を課せられる。
その派閥が拡大し、陸奥征伐に拍車がかかったと考えられます。
なので、武蔵の平家や農民たちが、陸奥へたくさん移民させられた。
もしくは、藤原不比等の反対勢力の貴族出身者が、関東から陸奥へ流れていったと思います。

717年に物部氏の石上麻呂が亡くなった時に、弔いに参列した人達は、
長屋王、多治比真人三宅麻呂、上毛野麻臣広人、穂積朝臣老、当麻真人東人など。
この人たちは、藤原政権からはじき飛ばされた人たちと考えられると。
長屋王の変で自殺、多治比真人三宅麻呂は伊豆へ流罪、上毛野麻臣広人は陸奥国で蝦夷に殺される、
穂積朝臣老は佐渡流罪、物部氏側のもののふ政権が消えたのは、
藤原勢力への反発からと考えられています。
※古代探訪 藤原不比等の律令より(ブログ)

当麻真人東人という人は、当麻真人という人に関係するのかどうか。
当麻真人は、奈良県葛城市に当麻寺がありますが、
藤原南家の中将姫伝承に関係します。
中将姫は、「当麻曼荼羅」を織ったとされる人です。
星神(カカセオ)を織物で封じた話が想像される。。。
曼荼羅は鎮魂ですから、星神を鎮魂したように感じますけど。

中将姫は、あこや姫の姉といわれる方。
河内国(大阪府太子町)聖徳太子の弟古麻呂が建てた万法蔵院(山田寺とよんだ)
を当麻真人が現在の地に移し、当麻寺としたと伝わる。
兵庫県のあこや姫伝承にも山田の地名が登場している。
山形のあこやの松伝承は、中将姫の話を「妹」としてもたらしているわけで、
奈良と出羽・陸奥の繋がりがあるようにしているわけです。
それは、熊野信者によって陸奥へもたらされた話だと思います。

そう考えると、秩父が熊野修験によってもたらされたのだから、恒持神社の山田という地名が浮かぶ。
熊野修験は天皇家との分断があった時に、保護した物部氏側の修験であり、
秩父もその一つだったかもしれない。


中将姫

目的は?迫害された貴族への弔いといったものでしょうか。
そのような物語を伝え歩く巫女がおり、比丘尼などの巫女たちが伝承したものでしょう。
歌や琴、笛の音に合わせて村人に伝え歩いていたのだと思います。



その中将姫は、775年29歳で入滅。
阿弥陀如来を始めとする二十五菩薩が来迎され、生きたまま西方極楽浄土へ向かったとされる。
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ところで、私は葛原親王という人の何かが気になってWikipediaですが、探していたら、
「金寧橋橋姫」がでてきた!
橋姫?!
葛原親王の妻とある。


※葛原親王(慈しみ深い性格でおごり高ぶることはなかったと伝わる)

しかーし、その後、またwikiで確認しようとしたら、橋姫の言葉が見つからない。
おかしいなぁ。ちゃんと系譜にあったんだけど、違う人だった?
そんなわけないなあ。
金寧という言葉は、中国か朝鮮かもしれないが詳細不明。
ということで、それ以降、見つけられない金寧橋橋姫。

「橋姫」ということから、もしかしたら正妻ではないのかもしれない。
橋姫といえば、仙台の広瀬川に橋姫伝承があった。
以前、このブログで橋姫とマロとかぐや姫妄想してましたが、
橋姫の「はし」は、「愛し」の「あい」が転じた説がある。
愛人という説もあり。

しかし、広瀬川の橋姫に限らず、京都にもあっちこっちに橋姫伝承がある。
広瀬川の場合、実際、人柱にあったということ。
霊感が強いとか、非常に美しい女性や、何か魅力的な力をもっていても、
貧しさから、人柱にされることがあった。
荒れ狂う川を鎮めるのは、人柱しかないという風習。

秩父にも「姿見の池」というのがあり、
何度も土砂災害にみまわれ、なかなか治水工事が進まない。
人柱をするしかないと村人が話をしていると、ちょうど女の旅僧がやってきた。
可哀そうなことに、その女の旅僧は村人に騙されそのまま人柱にされ亡くなったという。
それから、この池には、絶えず入水する話が多いという。


※姿見の池:新編武蔵風土記

秩父銘仙で名が知れた絹織物ですが、若い女性が丁稚奉公で大変だった。
昔は、今みたいにパワハラで訴えることなんてできないし、辞めて家に帰ることなんてできない。
今は守られてますよね~・・・。
そういう若い女性が、姿見の池で入水したという話があったりするのです。


(武甲山と若佐織物の看板、横瀬にも織物工場が数軒ありました。)

橋姫も同じで、広瀬川も洪水が非常に多かった。
そういう川は、人柱伝承が多いです。遠野では若い男性の話もある。
部落の人が選ばれたそうだ。

そんな話をしていたのは、10月末に鹿島神社(宮城県)へ行った時でした。
Nさんが橋姫がとても気になるという話で。
その後、Nさんは広瀬川の橋姫のところへお参りしてくれたのですが、
Nさんは見えないモノが見える人なので、橋姫の鎮魂をしたと教えてくれた。

Nさんは優しいので、橋姫の祠に赤い花だと感じて、それをもっていて感謝してくれた。
それから河原でごはん食べてたら、目の前の大きな灰色の大きな雲の真ん中に、
キレイな雲が急に現れて、それが天女と牛車だったと。
「天女さん先導でゆっくりゆっくり太陽に向かって昇っていって、
天女が一回転してくれて○を作ってくれた」と。

Nさんの優しさが、金寧橋橋姫に繋がったような気がして思い出したのです。
平家と話がズレてますけど、「葛原親王の何かが気になった」というのは、
金寧橋の橋姫が、そんなNさんにお礼を言っているような気がしたのです。
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夢の話に戻します。
秩父平家がどーのこーのより、私は女性なので、
この時代、自由な結婚ができなかった女性たちの運命の方に共感します。

機織り姫の夢で思いだしたのですが、奥の院の名前が「大町」という名前の神社だった。
大町という地名と機織り、平家で調べると長野県の大町にある弁天堂が近い・・・?
また謎解きが始まった・・・。
長くなりそうなので、次にします。
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