秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

武甲山と松平長七郎伝説その1

2017-05-05 | 新横瀬町誌
「この石塔を建てて、日本国中二千万人の人の、ほんとうのしあわせを願い、
香花を供えて供養をします。
どうぞ、男女の別けなく仏の心を持つことができますように」




という意味の言葉が刻まれている石塔。
これを主となって建てた人は、時の天領時代官伊奈半十郎富田吉右衛門であり、
これに賛同したのが、井上雅楽介富田内匠高野右衛門である。

この人たちは横瀬村、大宮郷の名主格の人であると推量する。
塔の名を「阿弥陀山光西塔」という。



武甲山伝説の中でも一番の伝説といったら祖圓和尚です。
「武甲山のカキット」という話があります。
即身仏になったお坊さんが亡くなる時に、
白い鳥になって飛んでいったという話。
この話は、武甲がヤマトタケルの冑であるというように、
ヤマトタケル伝承にのせている話かもしれません。

もう一度、カキット伝承を。

「昔、武甲山麓に歳をとった上人さまがいた。
ある日、小僧をよんで言う。
もう最期が近づいてきかたら、仏につかえることにする。
影森までいって鎌をもってきてくれないかと頼む。
小僧は頼まれた通り鎌を買ってきた。
上人さまは、庭に出ると井戸で水をかぶって身を清め、白い法衣で身を包んでから、
小僧に静かに言った。

「わしの言うことをこれからよく聞くがよい。
よいか、わしはこれから穴に入って、 念仏を唱えなくてはならぬ。
それがいつまで続くか、ともかくわしの鐘をたたく音が 聞こえなくなったら、
ひもを穴の上に出しておくから、それをひっぱってくれ」
念仏を唱える声とともに、鐘の音が静かに穴の外に流れた。
念仏は次の日も、その次の日も続けられて4日目になっても、まだ鐘の音は やまなかった。
小僧は上人さまに言いつけられた通り、鐘がなりやむのをいまかいまかと待った。

しかしいつまでたっても、鐘はなり続けるので、とうとう我慢ができなくなってしまった。
小僧はまだ鐘がなり、念仏が唱えられているのに、穴の上に出ているひもを両手に にぎると、
ぐいと土にひきあげてしまった。
とたんに、今まで静かに流れていた念仏の声と鐘の音がぱたりとやんだ。
無残にも上人さまは首を 切られて死んでおった。

ああ、おしょうさま。
と小僧が上人にとりつこうとしたとたん、不思議にも白い小さな鳥になってしまった。
そして、「カキット、カキット」と、うらめしげに穴の中でさえずりながら、
飛びまわったとさ。
上人さまの魂が、白い小鳥の姿になってしまったのだ。
それ以来、武甲山では秋になると、カキット、カキットとうらめしく悲しい声で
白い小鳥がさえずっておるのが聞こえると。」




このブログを書き始めた頃いろいろ秩父のことを調べていたら、
父から、昔、横瀬の武甲山ふもとに立派なお坊さんが住んでいたと。
その人が、徳川家を継ぐ人だったと言われるが、追われて逃れてきた。
といった話を聞いた。
亡くなる時、横瀬では誰にも知られないように密かにお葬式を行ったというような話も聞き、
今までずっとその和尚のことは隠されていたため、
地元でもほとんどの人が知らない話だと。



それを聞いて、いつか持山寺跡に行ってみたいと思ってましたが、
なかなか機会がえられず。
ようやく、武甲山の山開きという記念すべき日に、参拝することができました。


いつの間にかヤギがいて、

いつの間にかカフェができていた。(近日オープン)

さて、この人が実際、松平長七郎かどうかわかりませんが、
そのような人物であったと思わせる資料が横瀬に残っています。
「人と土:横瀬町誌」の本から参考に、まとめてみました。



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まず、松平家といえば時代劇でも登場するほど有名ですが、
あまりこの時代のことは詳しくないので、
詳細は、Wikipediaなどで確認してみて下さい。


松平家の家紋
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%95%B7%E4%B8%83%E9%83%8E

簡単にまとめると、松平長七郎は、徳川三代家光の弟だった徳川忠長の子とされます。
ですが、架空の人物とされているものの、全国に長七郎が逃れていたという伝承が残っています。
長七郎の終焉地はいくつか語り継がれていますが、横瀬町もそのひとつです。
駿川大納言忠長ともいう。
実在しない理由は、忠長の子が記されていないことや、
父の忠長が家光から恨みをもたれ殺された(切腹させられた)こともあり、
子をかくまるために、後世、子がいないことにしていたなどいろいろな説があります。

松平家は、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の
小豪族であり、後に江戸幕府の征夷大将軍家となった徳川氏の母体である。

考えてみると、徳川家康が武甲山を崇拝していたことや、
横瀬町では長年、税金を免除していたことを考えると、もしかしたら、
租圓和尚が実際、松平家の人だったから・・・と妄想できる。
徳川家康も松平元康(もとやす)と言ったのだから。

もし徳川家に継ぐほどの人であったならば、
武蔵の山といわれた秩父に武甲山があり、昔から落里としていた村であり、
武士から農民に帰農している環境が、かくまるには最適だったかもしれない。



横瀬に伝わる口承-------------------------------------------------------

父の年表
1606年 国松(忠長)出生。
1620年 駿河遠江甲斐に於いて五十五万石駿府城主、この年大納言甲州に押込となる。
1632年 秀忠没す。忠長の領地を没収され高崎へうつす。
1633年 忠長、高崎にて自害。
長七郎は、1636年 圓福寺入山。祖圓となる。

長七郎の話は、秩父市尾田蒔(おだまき)の圓福寺から見つかった資料により明らかになったという。
あまり人に話をしてはいけないと言われ、そのままにしていたようだ。
若い高貴な雰囲気のお坊さんがお寺にたずねてきたことが口承としても伝わる。



横瀬にもこんな口承がある。

1、持山寺にはお籠り堂が何軒かあり茶店がでるほど賑わっていた。
ある年の秋に、顔がやつれた若い年の人がやってきたが、
旅僧には思えない風貌に、誰もがあれは僧侶ではないと噂されていた。
その旅僧は、21日間のお籠りをすませ、寺近くにある茶店の娘おゆきさんに、
「私はあの石室に入って七日七夜のおつとめをする。わたしの振る鈴の音が絶えた時、
この綱をひいてくれ、あとは何もかまってくださるな」と言った。
おゆきさんが綱の先をたどると石室の中へ通じていた。
それから鈴の音が聞こえなくなった時、おゆきさんは泣く泣く綱をひいた。
おゆきさんは、前から旅僧のことを知っており、綱をひくとどうなるか知っていたという。


(巨岩の下に生川が流れる)

2、いつの頃か、昔、田村の円福寺にひとりの旅僧がやってきた。
そこで寝起きするようになり、とても熱心に働いた。
あまりにも熱心に働くが、子供たちと遊んでも明るくふるまうことがなかった。
ある時、方丈さまが名主に相談し、名主のせがれを連れて、
大宮郷の町場へ遊びに行ってもうらう事にした。
賑やかな町で酒屋をみつけ、お坊さんを誘って店に入った。
あまりお酒は飲まなかったが、酒屋の娘、おゆきさんと話がはずんでいた。
このことがあってから、当時の名主様は、せがれにお坊さんを大宮郷へ誘うように命じたそうだ。

3、大宮郷の酒屋(結城屋という)へ、立派な和尚さんが訪ねてきて、
「いままで随分世話になった。これから旅に出るのでもうこの地へは帰らぬかもしれぬ。
おゆきどのにも世話になった。これは私がこの世に残す大事なものの一つである」
といって、小さな包みを差しだした。
それには、阿弥陀様の掛軸と粟田口という短刀が入っていたと。
この後、和尚は、町場を出て横瀬に入り、それぞれの形見の品をお世話になった寺社へ
挨拶周りをしながら、持山寺に登った。この人が、松平長七郎祖圓和尚と伝わる。



4、これは実話。
昭和4年3月、時の村長富田氏が役場の事務室にいた時、
職員事務室へ小柄ではあるが風采のよい人が入ってきて一礼した後、
村長にお目にかかりたいと言った。
村長室へ案内すると、その人は、包から紫の紐のかかった桐の小箱を取り出し、
「この中にかねてからご存知の松平長七郎祖圓和尚の金肖像があります。
私が年来心掛けて特に鋳造して頂いたもので、武家最高の家柄に生まれ、
最も恵まれる事のなかった方の供養のためでもあります。
 祖圓和尚入寂の地横瀬村の方々の手に保管して頂ければ、私にとっては幸いなことであります。」
と静かに話した。
富田村長は、その小箱を受け取った。
その桐の小箱の中には、昭和4年3月、為祖圓松平長七郎供養、秩父町新井徳太郎と
記された銀製の小箱があり、その中に黄金のまばゆい金肖像があった。




真実の探訪-----------------------------------------------------

このような口承がありながらも、長七郎が実在しないとなったのは、
忠長の子が実在していないことがあげられる。
「人と土」には、実在する立証として細かい記載があるのですが、
このあたりは、また改めて紹介したいと思います。
興味がある方は、横瀬町資料館にお尋ねください。
他にも資料がたくさんあるそうです。

私は、これらの話から、実在したと思っています。
長七郎のような立派な即身仏をめざした人がいたことは事実です。

不思議なことがたくさんありますが、「霊統」というのがあります。
霊統とは、血統ではなく前世やその土地の縁で結ばれることをいう。
その霊統が私たちを動かしているといわれる。
それはいつも感じていますが、このブログを書き始めて6年以上がたちます。
先祖とはいうものの、何に対して先祖といっているのだろう、
といつも思うことはありました。

常に、導かれる場所が、先祖や霊統にとって大事な場所だったことを、
後世、今、私たちが生きている中で、記憶として留めておくことの重要性というのは、
まだまだ来る未来があり、それに道筋をたてていくことを、これからもずっと
行っていく業にあると言える。
それが大きな光となって、みんなの記憶と習合する共同作業。
それが大地と繋がる地球の目的。
いつまでも大地と繋がっていたいからです。

講の人が山を歩くのはそういうことだった。
長七郎も峰々を歩いてきた人だった。

お天狗様(宇根地区のお祭)のお祭りの最後に打ち上げをするのですが、
大きな白いオーブが映りこんでいました。
当然、先祖の魂ですが、このような白いオーブ状のものが、最終的には光になり、
みんなの集合意識になっていくと聞きます。

時間、場所、民族を関係なくして、共に、協力してほしいという願いです。
私は祈りを捧げることがあまりできないのですが、その時代の歴史を知り参拝することが、
先祖供養になることはよくわかります。

ですから、長七郎という人は、武甲山に何を残したのかを考えると、
私個人の感想ですが、私だけではなく、みんなのストーリーなんだろうと。
武甲山があんな風になっていくので、私はもう秩父の歴史を終わりにしようと決めていた。
もう秩父は終わったし、私には関係ない土地だと本当にそう思ってました。
過去、なんどもそうやって秩父を離れた人がたくさんいました。

ですが、持山寺に登ると、相変わらず歴史を調べる。
武甲山がどんな形になっていっても、相変わらず淡々な気持ちに戻る。
なぜか?
武甲山の行く末を案じて、長七郎が祈りを捧げていた姿が浮かんだ。
なので、武甲山の最後を見届けなければならないと思った。
まだ終わりにできないのだな・・・。



それは、みんなが武甲山をみていろいろなことを想い、葛藤するのですが、
同じように長七郎も人生に葛藤して武甲山に来た人なんです。
持山寺にいくと、私もその気持ちを受け取ることができる。
亡くなった霊は、それで終わりではありません。
みんなと繋がっていたいのです。
だから、祖霊も孤独なんじゃないか、と。


(ヒトリシズカ)

本当の歴史を学んでいないから、真実を知りたくなるのは当然のこと。

ある人物の歴史は、私の歴史でもあると思う。
仙台・名取では名取熊野老女を調べているのですが、
歴史会のみんなで名取熊野那智神社でご祈祷をお願いしていた時、
太鼓のドンドンという大きな振動に、チャクラの心がビビっと響いて感激してしまった。
何かが始まったような気がしたから。

すると、先祖が名取老女という方に言われたこと。
「これから、名取老女がひとりひとりの物語になる」と。
それは、本当にその通りで、
ある一人の歴史が、みんなの物語になっていき、伝説が作られる。
それが霊統という働きなんです。だから集まってくる。
ひとつひとつのパズルのピースを集めて繋げて、
ひとつの大きな絵が完成する。それが目標。


名取老女も長七郎も同じ阿弥陀如来(南無阿弥陀佛と書かれた石碑)。
祈りはひとつ。
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さて、松平長七郎について、興味をもったもう一つの理由は、
長七郎が亡くなった後、徳川吉宗が隠密を横瀬に派遣し、武甲山の測量図作成という名目で、
長七郎について調査することが実際にあった。
その資料によると、私の先祖が関わっていた。
代々、宇根地区の名主として横田勘衛門という人がいたのですが、先祖は、
幕府からおくられた隠密に持山寺を案内していたのです。
先祖が、長七郎の存在を知っていたと思うから、私はこの伝説に食いついたわけで…。
が、長七郎について言及はしていない。
やっぱり隠し通すわけですから。

持山寺跡に入る前に、蔵王権現を妄想してました。
まるで役行者のような人だと。
調べてみると、やはり蔵王権現に繋がるようです。
長七郎は、行脚している途中、いろんな修験の人と会って話を聞いていたと思う。



だから、武甲山の麓に隠居し、即身仏を目指したわけです。
それは武甲山が、黄泉国である紀州熊野の影響があった事もあり、
古くから蓬莱山として観音寺が建てられたこともあり、また、ここが秩父修験として
機能していたお籠りだったことの証明だ。
そこには死と再生の働きをもつ聖山だったことを長七郎が証明している。

もう少しそのへんについて、妄想するっ。
つづく。
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2 コメント

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またシンクロです (LEIKO)
2017-05-05 20:39:25
今日、横瀬の友達のうちにお邪魔したのですが(>日々こんなばっかの私っ.......)それがね、先日の武甲山山開きの日に、電波が届く場所を探して、民家が何軒かあるところの坂を登ったでしょう?あの何軒かのうちの一軒だったの〜びっくり。3日と開けずに、同じ場所に行くご縁。これも見えない存在の導きなのかか。。。。

今日は、遠くから武甲山を見ましたが、やはりあの段々がくっきりすぎるほどよく見えました。あれ、相当大きなものだと思う。
Re:またシンクロです (inehapo)
2017-05-05 21:04:53
LEIKO さん

ええ~。面白すぎ。電波といえば延命水の場所では、たまに電波入るのが不思議だね。
たぶん、武甲山というか長七郎に呼ばれているのかもよー。(笑)

そうそう、あのビデオから裸足で歩くことにしました。自然のあるところでは。実験的にやってみます。(^.^)

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