秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

古来から有名だった千貫の松

2017-12-12 | 東北地方の伝説(宮城県)
ここんとこなぜか、千貫・深山にハマってます。
私にとってこんなに魅了される里山はありません。
ここには何かあるな~と思っていろいろ調べてみると、
やっぱり、というか私はこの存在に魅了されているのだと気づいた。
豊受大神!
それを知って、嬉しいほどのドキドキ。
こんなに嬉しい気持は珍しい。
それについては後ほど。

でもって、やっぱり探しモノは見つからない。笑
見つからなくてもいんですけど、不完全燃焼。
この前、また千貫山へ登ってきました。
今度は深山から先の千貫山まで。


ムラサキシキブ

まず、岩沼の由来から。(岩沼市のサイトより:岩沼入門)

今から2000万年以上前、人類の誕生よりはるか昔に、陸上や浅い海で、
火山活動が盛んになり、岩沼の西部には小高い地域ができました。
それから長い年月をかけて、火山岩や溶岩が雨や風、川によって削り取られ、
その上に火山灰が降り積もるなどして岩石の多い平野や丘陵地帯がつくられました。
縄文時代には、気候が温暖になり、大陸を覆っていた氷河が溶けて海へ流れ込んだため、
海面が上昇します。海岸線が陸地に入り込み、約7500年前には、
西部丘陵地帯の近くまで海が来ていました。
その後、逆に気温が下がりはじめると、海岸線が東に後退していきます。
その間、波の作用で土砂が溜まって周りより1m程高くなった浜堤(ひんてい)と
呼ばれる南北に走る堤防がいくつかできました。

その最も西の浜堤付近には今の東北本線が通っています。
浜堤の周りは低地だったため、やや高地となるこの浜堤には、
早くから人が住みはじめました。



平野が広がると、阿武隈川は蛇行しながら海の方へと伸びていきます。
この川は何度も氾濫し、流路を変えたので、亘理町逢隈や仙台空港の方へも
流れたことがありました。旧奥州街道の岩沼小学校付近は、
阿武隈川が流れていたときにできた自然堤防の上です。
これらの浜堤と自然堤防以外の凹部(おうぶ。低湿地)には、
水が溜まってできた沼がたくさんありました。
このように、岩沼はもともと岩石と沼が多い地域だったのでした。
「岩沼」という地名が文献で初めて確認されているのは、16世紀半ば頃です。
当時の領主は、伊達氏傘下の泉田氏で、鵜ケ崎城(うがさきじょう)に本丸を築いたり、
お城周辺のまちづくりを行っています。
城は沼に臨み、城郭が多くの岩に囲まれていたことから「岩沼」
と呼ばれたといわれています。


値千貫の松(あたいせんがんのまつ)---------------------------------

「西部の丘陵地帯にある標高191メートルの山の頂から峰伝いに、
かつて数千株の松が一列に並んで生い茂っていました。
1600年頃に政宗が仙台城を築城する際、この松を切って用材にしようとした時のこと。
ある漁師が「この松は古くから沖に出た舟子の目標となっている。
伐採すると舟子が迷う」と、銭千貫文を差し出して伐採を免れました。
以来この松は「値千貫の松」、一帯の山は千貫山と呼ばれるように。
千貫松は、無線や灯台の無い時代、命綱のように大切にされていたのです。




(千貫神社の奥の院)らしい。ちょっとさびしいね~。

1611年(慶長16年)に発生した大津波は阿武隈川を遡上して氾濫し、
千貫松まで届いたとか。
政宗が駿府城(現・静岡市)を訪れた際、徳川家康に話したとして、
伊達・徳川両家の記録に残されています。
遠く離れた地で岩沼のことが話題にのぼったのです。」




阿武隈川と国道4号が走ってますが、
海岸線には古代の街道があり、「東山道」でした。
縄文時代から山を囲むようにして松が群生していた場所です。



山頂から阿武隈川が木々の合間から見えます。
防波堤のような役目もありますね。
当時は、360度ぐるりと見渡せる場所だったと思います。
今は木々が生い茂りあまり見えませんが。



昔は阿武隈川も大河だったので、川の氾濫に何度も悩まされていたのです。
どのあたりか不明ですが、船着場があったそうで、
奈良の都や海民が太平洋側から北上するときに、阿武隈川を利用していたそうです。
深山山頂から上陸してくる人を、見張っていたのかもしれません。

この街道には、「玉崎の関」「武隈館(たけくまのたち)」もあった。
千貫神社から山頂191メートルまで松の巨木が一列に並んで群生していたそうです。


(王ノ浦の図)

まるで馬の背のように巨木が群生する松だったので、
太平洋側から石巻牡鹿半島、金華山沖合で漁船をする船が漁を終えて帰る時、
必ず南西にある千貫山に自生する松の木を目指して舵をとっていたという。

千貫山の松は、白鳳時代・奈良時代から有名だったそうです。
「名取の名勝松」として奈良や京都の貴族たちの間で、歌枕として詠まれてきました。
竹駒神社は、武隈でした。
藤原実方も歌っている。
「みちのくにほど遠ければたけくまの松まつ程ぞ久しかりける」

後に松尾芭蕉も武隈の松を訪れ、感激した話があります。
「岩沼に宿る。武隈の松にこそ、め覚る心地はすれ。
根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先能因法師思ひ出。
往昔むつのかみにて下りし人、此木を伐て、名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、
「松は此たび跡もなし」とは詠たり。
代々、あるは伐、あるひは植継などせしと聞に、今将、千歳のかたちとゝのほひて、
めでたき松のけしきになん侍し。」

ちなみにこの松は、竹駒神社の近くにあります。

二木の松史跡公園の一角に八代目の松が育っているそうです。
亘理郡山元町で見出されたもので、歴代の武隈の松と同じく地際から2本の幹が伸びている。
奥州の名松として、他に、姉歯の松(宮城県栗原市金成)、阿古耶の松(山形市)、
末の松山(宮城県多賀城市)があげられる。


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古来、ここに国府を置き、多賀も置いていた場所だったが、
大津波などの被害により失われていたことがあったのです。
過去、奈良の都から貴族が訪れ、豪族たちと新しい開拓を夢見た土地だった。
その風景が、失われた事がある。
そんな歌を和歌にして鎮魂していた藤原一族(藤原実方は藤原北家)がいたんですね。
東北地方の太平洋側は何度もそんな歴史を繰り返している。

もしかすると、津波被害ではるか昔、松を植林していた人がいたのかもしれない。
一列に並んで松があったのは、自然ではなく人工で植えたことはないかね~?
松の木は依代(よりしろ)です。
神がよりつく樹の中で、松が重要だったでしょう。
松は常緑樹なので冬でも夏でも年中、葉が落ちることがない。
朽ちることがない=不変。と考えられているからです。
あこや姫の話も、松の木に降りた精霊がいました。
言霊では、松は「待つ」です。
神が降りてくるのを待つ。

松の背中とは「龍気」そのものである。
そうであれば、ここに日高見国を置いた理由が見えてきそう。
が、もっとつっこむと、背中のように一列に並ぶのは、
磁場が関係していると説明できそうな・・・。
名取のある場所が玉置神社と磁場で繋がっていそうな話からすると、
深山はその通過点にあるわけですから。
そこだけ大きく松が生息するというのは、珍しいことです。



阿武隈川側の斜面は杉が植林されているようです。
この道をすすむと深山山頂なのですが、路挟んで木々の植生が異なってます。

他にも、妄想するに深山に埋まっている巨石は、アラハバキだと思った。
イワクラ信仰の名残があるような・・・。
石にも意思がある。

名取老女生誕と伝わる岩蔵寺の裏手に、三宝荒神を祀っている場所がある。
これは巫女さんと繋げると、荒神と箒(ほうき)の信仰があります。
出産の時に、安産祈願として妊婦さんのお腹を箒でなでます。
荒は顕(あら)の意味があり、箒がはくという意味の「ハハキ」となって
アラのハハキとなる。
命の誕生は、赤ちゃんにとってお母さんからの顕(アラ)になるわけです。
顕とは、内観です。
新たな誕生は、お母さんの顕から生まれると考えた。

屋敷神もそうですが、平泉の舞草刀に関係する鍛冶集団がいましたが、
鬼とされました。
鍛治神掛図というのがあり、一関博物館で見られます。
中央に立っているのが、三宝荒神とよばれる鍛治の神様。
3つの頭と6本の腕をもっている姿をしている。
手前には、鍛冶場の様子が描かれ鬼が剣を作っている。
奥には稲荷(狐)も描かれています。

3つの頭とは、シバ神でもあるのです。

古事記のみ登場する「天津麻羅(あまつまら」は鍛冶の神です。
「天の金山の鉄(はがね)を取りて」とあることから、
伊斯許理度売命(いしこりどめ)が鏡を作るための製鉄を行ったとも考えられると。
岩戸隠れの際に金属製の武具を製作している。

要は、東北の日高見国とは、古来の産鉄族アラハバキのことを言うのでしょう。
縄文に隠されたルーツ。

その深山に埋まっている石が、平泉の和我叡登挙神社(ワカエトノ神社)の
アラハバキに似ていると思った。
ここまで大きくないですが、いくつか岩が埋まっています。


※ワカエトノ神社(手前にアラハバキのイワクラが埋まっている)

※ワカエトノ神社のアラハバキ

山頂は、熊野みたいに岩盤になっているのかもしれない?
安部氏が敬っていたワカエトノ神社。
その石は、アラハバキといわれていますが、角田~岩沼~高舘への道は、
安部氏のアラハバキ信仰が根付いているのです。



津波伝説として有名になった千貫の松ですが、ホツマツタエでは、
縄文時代の起源前1200年とかなり昔のことですが、
「松・萱」に、「巖上にそびえる松」といった話が書かれているそうですが、
実際、2000年前の最古の津波歴史として痕跡が残されています。
それは、西暦110年に日高見国がおかれた時代にあたるとの事。

この頃の大津波によって阿武隈川が氾濫し、仙台平野まで至った。
200年経っても水がひかず、再び大地震が起こったという説。
95年~110年頃におこった地震の後、2度目の大津波は、西暦300年頃。
この時の震源地が岩沼と名取の境界線まで海水がおよび、また津波で
甚大な被害を受けたが、陸だったのが海のようになったので、
このときがチャンスだと、内陸へ進出したい海民が手漕ぎの船をつくり、上陸した説があります。
その海民とは、上総国(かずさ)であると。
常盤国風土記の千葉・茨城県の海民。
※参照:「解き明かされる日本最古の歴史津波」飯沼勇義著

上総国(かずさ)の海民といえば多氏ですが、安曇氏、宗像系も関係しているかもしれません。

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もうひとつ、古代史の中で奇妙なことがある。
「謎の4世紀」といわれるもの。
300年~330年頃にこの地で大津波や大地震があった歴史が、
日本全体を揺るがす大きな転換期だったともいえるのです。

東京大学名誉教授の江上さんという方は、
「前期の古墳文化と中・後期の古墳文化とが根本的に異質である」
と言っている。

「中・後期古墳文化が王侯貴族的・騎馬民族的文化であり、
その広がりが武力による日本征服を暗示している。
またその文化の濃厚な分布地域は軍事的要衝に多い。
4世紀ごろ、古代日本に大陸の騎馬民族が大挙に侵入して、
邪馬台国をはじめとする倭の国々は征服された。この征服王朝こそ大和朝廷である」


むむむー。
一気に大和政権が東北に移住してきたわけですなぁ。
この時代から倭国の本格的な国づくりが始まる。
その時に東北に派遣された人は、千熊長彦(ちくまながひこ)とされる。
熊だから隈でしょ。

「神功皇后(第14代仲哀天皇皇后)の時に対百済・新羅外交にあたったとされる人物である」。
となっていますが、古事記にはこれについてはのってません。

一説に武蔵国の人物で額田部槻本首(つきもとのおびと)や、
百済記には「職麻那加比跪(しくまなかひこ)」という。
この方は、以前、秋田物部氏の妄想で、
367年、「百済と新羅の朝貢使来朝」事件がありました。
百済の使が、途中で新羅に貢物を奪われたと言上した為、
千熊長彦は新羅に派遣され貢物を乱したことについて新羅を責めたといった話。

それが七枝刀であり、ユダヤのカバラをルーツとするものだと思います。
ただ、なぜ、千熊長彦が陸奥へやってきたのか具体的なところはわかりません。
国造のために、古川の大崎へ向かったという伝承はあります。


七枝刀

とにかく、このあたりは古墳が非常に多いです。
「武蔵から」というのは、謎の4世紀という時代に大量の騎馬民族がまず関東に入ってきたと。
さきたま古墳群は、騎馬民族の巨大な墓です。
特に群馬県に非常に馬が多くいたというのは遺跡でわかっており、
以前書いた榛名山の噴火で騎馬民族の将軍が見つかったことを物語っている。

この時代にはすで400基の古墳が宮城県南にはあったと推定されます。
私は蔵王に建てられた古墳群を思います。
火山に向かって建てられた大王の古墳。(主は不明)


蔵王連峰(雪雲ですね~)

さて、その百済と新羅が言いあっていた珍物から繋がるのが、
石上神宮になり、どうやら、千貫・深山にもそれらしいことを伝承してきた
海民がいたと思われる話に繋がってしまいました。
そのきっかけが、千貫山の麓にあるお寺の話。

つづく
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