秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

和で以って尊す

2015-04-11 | エミシについて
アテルイについての英雄伝説はいろいろ聞きますが、あまりよくわからない事が多かった。
が、ブログを読んでくれている方から教えて頂き、あっさり解決。

アテルイと坂上田田村麻呂は同族で仲間とは聞いたことがあった。
確かに、アテルイがやってきてから大きな争いは起こらなかった。
大和朝廷をよく知っている人だと思っていたが、やはり大和朝廷の人だったようです。

元は、エミシ征伐で向かったはずが、エミシやアイヌの人たちと関わるうちに、
影響を受けそのまま、エミシ側についてしまったという話。
なかなか戻ってこないので、坂上田村麻呂が様子をみにいくと、アテルイは
エミシたちと仲間になっていた。
アテルイの意図を知って、朝廷に背くことができない坂上田村麻呂は和平交渉に京へ呼ぶのだが、
朝廷はアテルイを殺害してしまう。
それに坂上田村麻呂は憤慨するのだが、朝廷には逆らえなかった。

エミシ征伐があった場所に、坂上田村麻呂創建の寺社はたくさんある。
本当はアテルイを祀りたいところだが、反逆者になってしまったので都合が悪い。
坂上田村麻呂を祀るということはアテルイを祀ることに等しい。
東北ではエミシの敵であったはずの坂上田村麻呂が尊敬されていたのは、
同じエミシの立場で動いてくれていたからと、ようやく理解できた。

地元の方からの話で、坂上田村麻呂を祀る寺社は、クリスチャンであったという。
キリシタン弾圧の時に、田村麻呂を祀っているといえば、免れたそうだ。
そんなところでも救われている。

ということで、ざっくりとですが、アテルイは大和から派遣された人だったという話。
アテルイとモレは、802年河内国杜山にて処刑される。
その20年くらい前、伊治公呰麻呂(あざまろ)の名で帰服し、
エミシの族長として伊治城の城主を務める。
多賀城を焼き打ち、北の胆沢城へアテルイという名に変えて戦う組織をつくったとある。
しかし、多賀城についてはあまりよくわかっていないそうだ。
まだまだ調査中のようですが、アテルイが朝廷の人だとしたら、話も変わってきます。



その後も小さな反抗はあり、八幡平などは酋長が住んでいた場所で、
アテルイは水沢~盛岡周辺にいたそうですが、朝廷側が陣をとっていた時も悪路王という人が、
降伏したと伝わる。
八幡平は聖地であり、岩手山がある。
麓にストーンサークルがあり、縄文時代から続くムラがあった。
悪路王は岩手山の方へ逃げたという話もあるが、
聖地を血で汚すことはできないので、降伏するしか方法なく。
その後もゲリラ戦は続くが、仕方なくエミシたちは北上を続け、秋田の鹿角へいく。
そこには、古くから安倍氏がいたからだろう。
安倍氏も元は大和朝廷にいた軍事を司る氏族出身。
物部氏や大伴氏と一緒にいたが、早くから日本海や東北を拠点にエミシたちと交易を行っていた。

阿部比羅夫や阿部鹿津奈なども日本海を拠点に新たに建国するつもりでいた。
朝廷側の阿部比羅夫もエミシ側にいたと思うが、やはり族長が討たれてしまう。
エミシやアイヌ人たちを援助していた朝廷側の人もいたけれど、
朝廷に反抗はできなかった。
後に、源氏(朝廷)VS阿部氏になっていくのだが、
エミシ征伐とは、結局、大和朝廷どうしの争いともいえる。

アテルイがどのようにしてエミシやアイヌの人たちに影響を受けたかわからないが、
「日本中央」の石碑が青森県にあるけれど、これもエミシ征伐の頃~という話になっている。
古くは、日本海に漂着したスサノオでその系統をもつと思われる長脛彦がいる。
後にスサノオは牛頭天王とよばれ、疫病神とされ牛に変化。
牛頭天王伝承は、朝鮮半島の女性のシャーマン=ムーダンからきておりムは「武」という漢字を用いる。
秋田恩苛が越王神社(胡四王)に縁があるという伝承があるのも、
元は、長脛彦という縄文人のルーツがあったと思うのです。

また、征伐とは古くからの大地母神を信仰する、女性シャーマンのいた時代、
卑弥呼であった頃から続く排除に繋がる。
アテルイは、九州~出雲~紀伊~諏訪~北関東~東北という長~い歴史をエミシたちから聞いていたかもしれない。
日本海、特に東北がその終着地であるということ。

----------------------------------------------------------
アテルイ処刑後、坂上田村麻呂は「植民地政策として寺院建立をすすめる」とあるが、
本当は、アテルイを弔う為に寺院建立をすすめたのだろう。
その後も柵は作られ続けるが、あくまでも形だけのものであった。
それからしばらく経つが、851年胆沢郡駒形神社、862年黒石寺の薬師如来をおき、
五大菩薩をおいて弔う。それから東北は鎮魂の地となっていく。

近畿地方も多くの人々が犠牲になっている。
東北も同じ。しかし、寺院数は東北の方が圧倒的に少ない。
仏教が伝わるのが遅かったこともあるが、先住民の独自の祈祷や死者を埋葬する原始的な信仰が
多く根付いていたので、寺社寺院はそんなに必要なかったと思う。
東北地方は鎮魂の思想が根付くシャーマニズムな場所は、巨石群として残されている。

後の阿部鹿津奈も、まさかアテルイが処刑されるとは思わなかっただろうし、
大和朝廷に背くことは難しいとも思っていた。
しかし、凶作が続き厳しい租税の値上がり、また朝廷の不信感から、
12の村の族長がたちあがる。この乱で、朝廷側の藤原氏は退散する。
秋田河北の領土を要求するが、交渉は決裂。
阿部鹿津奈8人が引上げようとしたところ、100人ほどの兵が襲撃し、3人を射殺。
汚いやり方に憤慨した阿部鹿津奈はその日のうちに攻撃。
兵数は安倍氏側の方が少ないが、朝廷は苦戦する。

それから源氏と阿部氏の戦いになり、東北地方は、「エミシ征伐」と言われ続け、
金がとれたことから、京から多くの都人が入る。
そんな流れで、あこや姫伝承など、○○姫といった京の女性と金採掘の炭焼太夫の伝説などが
うまれていく。

-------------------------------------------------
ここからは余談ですが、
実は、アテルイが大和朝廷の人で~という話は、「天下泰平」という興味深いブログを
書いている方がいらして、最近知ったのですが、先月仙台の講演会の際、
知人が話を聞きにいき、アテルイのことを教えてくれたのです。

先週からエミシやアテルイのことが気になって、なんだろな~と、
モヤモヤしていたので、エミシについて知ることなんだろうと。
そしたら、すぐ答えがかえってきた。

こうなると不思議なもので、「和で以って尊す」とはエミシのことで、
それを実行した人がアテルイや阿部氏たちだとわかった。
しかし、東北から和を広げて一つの国にすることを考えていた人達が、みんな朝廷に討たれてしまうことに。

また、不思議な現象は続き、高橋克彦氏のエミシ考察が私は好きなのですが、
改めて読み返してみようと思った本があり、内容をほぼ忘れていましたから。
パラパラとページをめくると、あるページで止まり、わからないんだけど、
そこを読め、みたいな。

すると、そこにはちゃんと和のことが書いてありました。
「蝦夷は和の国の人々だった」


「東北蝦夷の魂:高橋克彦」

改めていろいろな方の意見を聞くと、なんだかエミシの歴史認識が、ガラリと変わってしまった。
アテルイだけがエミシの歴史ではないのだが。
別にアテルイがどちら側でもよいと思う話かもしれないが、
アテルイが処刑されていなければ、東北の歴史は変わっていたはず。
それが残念でならない。

歴史書の多くは勝者の都合よい書き方になっている。
そのまま書くと外国から野蛮な国と思われてしまうから、
悪い人を征伐したと編纂していたこともある。
真実は歴史書ではみえてこない。
その場所へ行って感じるしかなく。
ただ、私は、先祖が武蔵にきて武士としての系統を持っているだけに、
どこかで朝廷側で見ている部分もあった。
そんな葛藤もあったり。

エミシを思うと、鎮魂のような思いで東北探訪しているところもある。
関東系土師器や横穴式古墳が懐かしいわけで。
でも、霊統は先祖が誰とか血統は関係ない。魂でつながっているのだから。
それをエミシが繋げてくれたのだから、系統より霊統を重んじる人々なのです。

エミシ妄想の間は、寒々とした雨が続いていた。これも何かあるんだろう。
あれだね、StingのEnglishman in Newyork♪の曲が流れてきそうだよね。笑。
くだらんけど、秩父人in東北みたいな孤独感。笑。

なんか寂しんだよな~。
エミシを考えてると。
古代から、和は崩されていたのだな…

鷹や白鳥の妄想から、和になり、エミシと繋がった。
今も、霊統となり生きている。
ジャンル:
ウェブログ
コメント (2)   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« カイナーな蝦夷 | トップ | 薬師如来と大野東人 »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
アテルイ (Luca)
2017-11-09 23:31:29
わたしは語り部です。古代史も好きで 今回 学校から 頼まれて 以前から手がけたいと思っていたアテルイを語ることにしました。テキストをつくるにあたり本を読み ビデオを見 ネットで検索しまくって 貴ブログに辿り着いたのですが 阿弖流為が 朝廷側の人間だという説は 初めて知りました。
たいへん 興味深いのですが あり得ないと思います。アテルイは 日高見の族長のひとりではなかったかと思います。そのころの日高見は独自の文化を持ち 公益もし 辺境の鄙の地ではなかったと思われます。蝦夷 と名付けたのは大和ですが 東北の部族連合を束ねた 人望と気骨のひとでした。
大和の懐柔策はいつも同じです。内側から崩してゆく 蝦夷の族長たちの中から しだいに 連合を離れ 大和朝廷につくものが増えていった...... それが アテルイが田村麻呂に投降した理由のひとつだったのでしょう。さみしい話ですが アテルイの武人としての輝き 部族を思う気持は色褪せることはありません。
思えば 東北は 幕末の東北連合で東武天皇を立てて 敗れ 3・11で比類ない苦しみを舐めました。実際のところ アテルイの時代から そう変わっているわけではないのです。東北は貶められてきました。
秩父も似たようなものです。秩父事件で天朝さまに楯突いたのですから。
わたしの親族も連座し 処刑されています。フクシマとも因縁深いのですが 縄文の血にかけても 生き抜いて いこうと思います。
それでは 夜分 失礼いたしました。
Re:アテルイ (inehapo)
2017-11-10 08:17:23
Luca さん

コメントありがとうございます。
また、ブログを読んでいただきありがとうございます。
アテルイについては、自分の解釈であって史実とは異なるので、読む方に委ねています。

アテルイについてはもちろんよくわかりませんが、朝廷に精通していた人であったと思います。朝廷もアテルイを熟蝦夷に仕立てることは考えていたと思いますし、利用されてきたこと、また多くの地元人が熟蝦夷になっていくことの葛藤があったと思います。

私も前はLucaさんのような思いでいっぱいでした。過去、何度も争いを繰り返し、無惨な死を遂げた蝦夷や豪族、貴族、村人、たくさんいます。でも私は地元の人たちがいつまでも悲しみと被害者意識をもち続けることではいけないと気づきました。

正しいことをしてきた歴史を塗り替えられている地方の古代史だけに、どうしてもアテルイなどの勇者だけは正当化していきたい気持ちにはなります。しかし、アテルイが勇者としてきた力の裏には、大和の軍人もたくさん亡くなっています。秩父もそんな地ですが、秩父は地元人が無の中で生きてます。武甲山をみても何も感じてません。感じることしかないのだと、今はそう思えるようになりました。

貴重なご意見、ありがとうございます。
ぜひ、たくさんの人にLuca さんの思うアテルイを伝えてください。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。