秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

秋田県の物部氏4

2014-09-06 | 東北地方の伝説(北東北)

能代は「ぬしろ=渟代」と書き、秋田県の古名。
658年、越の国守である阿部比羅夫が軍船180艘を率いて東進。
飽田(あぐた)と渟代の二郡のエミシは、その大船国を目にして恐れ戦わずして朝廷へ恭順を誓ったとされる。
659年頃、飽田、渟代、津軽のエミシたちを集めて大いにもてなし物を与えた。

ナガスネ彦の兄と伝わる「安日彦」は、大和にいた鳥見族の長であった。
天孫系に敗れて、生き残った一族を率いて高志国(越国)へ逃れる。
そして越国の姫と結婚し、寿速(スハ)の子を産むと伝わる。

___3_2 (秋田港)

津軽外三郡誌
「日本には古くからヤマタイ国があり平和であった。
高砂族による西方の侵略があり、安日彦はヤマタイに敗れ、国が滅びる。
日高見国へヤマタイ族をめざし、会津を通り霊剣の導きにより東日流へ身をよせる。
阿蘇辺族、津保化族、晋族、ヤマタイ族の4族が合一して日高見国に東日流アラハバキ国を新たにつくる」

阿部氏は越国の阿部比羅夫と繋がり、分かれて津軽~陸奥六郡の安部一族と繋がったとされる。
由利氏は後の秋田南部に展開した。
安土桃山時代、「由利十二頭」というのがあり、鳥海山を「本地」とする薬師如来の眷族である
十二神将をなぞったといわれている。

秋田物部文書には、降臨地は鳥見山の潮処。ニニギの前より天降りし、河内へ下りるとある。
天孫降臨地は記紀では、日向の高千穂、旧事本紀では、河内国いかるが峰。
古事記では天地創造は造化三神に五神を具体的に述べている。
秋田物部文書では、皇結七柱大神とだけ記されている。
神々の名前を省略したのは、神武東征以来天皇の結びつき以後、長期間臣下になりさがった結果、自ら系図を省略したか、又は、ある権力により無理に省略させられたか、不明な部分が多い。
ただ、古事記では八柱だが、物部氏は七柱の違いがある。
これは物部氏が大切にしていた、七支刀にも関係しているかもしれない。

___21

菅江真澄の出羽の道。 湯沢の浦。(昔も今もあまり変わらない風景)

Photo05

饒速日命と瀬織津姫-------------------------------------------------------------------

鳥海山に降臨した二ギハヤヒは、正式に「天照国照彦火明櫛玉饒速日命」という。
訳すと、「天照国照彦」=光は天地にあまねき行きわたる。(領土)
「火明」=太陽神
「櫛玉」=神霊魂
「饒速日命」=豊穣、天と地の支配。

「光は天地にあまねき行きわたる」とは、「エミシの国の女神」の菊池氏によると、海照神と同じで天照の原型である姿。三輪山の神であるとされる。
もと三輪山の大神(おおみわ)神社のご祭神は、「倭大物主櫛甕玉命(ニギタマ)」といい、大物主神である。
元々、ニギハヤヒは天照だったのが神武の天孫により大和に寝返ったことになる。
「和魂(にぎみたま)」とは、大和に帰順、服属した神の比喩で、大物主と事代主のことであり、帰順した酋長。
また、「荒魂(あらたま)」とは、大和に帰順しなかった人々を差す。
つまり、大和に抵抗した神は荒魂といわれ、アラハバキ神とよばれるようになった。
瀬織津姫も伊勢では荒魂神とされている。

アラハバキ神は、国ゆずりの神で大国主の別名、大己貴(オオナムチ)の荒魂とされる。
大国主と大物主は別なのですが、難しいのでスルー。。。

ということで、日本海へ逃れた人々は、大和に対抗した国津神で大物主神やその霊魂を代々
受け継いできた人たちでした。
鳥海山の山姥は、瀬織津姫や原始信仰に基づいた伝承です。
荒魂は後に仏法により征伐されてしまう。でも、良かれと思ってやったことではあったが・・・。
鳥海山に降りた二ギハヤヒは、まだ大和に帰順する前だった国津神を残しているような気がする。もし、先に鳥海山に二ギハヤヒが上陸したならば、後にナガスネヒコや物部氏がそこへ戻ったのも、出雲族がいたからだろう。

___2 (雄物川流れる能代)

物部氏VS蘇我氏-------------------------------------------------------------

物部氏は蘇我氏に負けた後、出羽国へ蜂子皇子を保護するために逃れていた。

歴史に興味がない人でも、蘇我氏と物部氏の対戦はほとんどの方が知っている。
でもその後どうしたの?・・・が闇の中。
それを記していたのが秋田物部文書でした。
蘇我氏と物部氏の対戦について、さくっと復習。

Sherin08 阿部比羅夫遠征は、658年頃。この頃にはすでに物部氏は出羽に逃れていたようです。
仏教が伝来したのは、522年、司馬達止(しばたっと)より、自由な礼拝だった
584年頃~疫病が流行り、仏教礼拝を天皇が認めたことに罰があったといわれるようになる。(おそらく物部氏がそのように仕向けただろう)

蘇我稲目~馬子までの間、天皇に仏教礼拝をすすめているが、疫病がある度に、物部氏は仏像や礼拝堂を焼き払った。

しかし、蘇我馬子も物部守屋にも疫病にかかり、用明天皇も疫病が原因で亡くなるとある。
それが、神道などの宗教では疫病も抑えられないとなり、物部氏の排仏派の立場が弱くなる。
587年物部守屋は舎人により殺され、翌年588年、崇俊天皇が即位。
その後、崇俊天皇が暗殺され、
593年、丹波国の由良港から佐渡~出羽へ蜂子皇子が逃れる。
596年蘇我馬子は法興寺を建立(飛鳥)。

(写真:能代の松原に祀られた八大龍王)

なぜ、崇俊天皇が暗殺されたかよくわからないが、崇俊天皇を即位させたのは物部氏のようだ。
しかし、この頃は、「大王(おおきみ)」とよばれていたので、天皇(スメラミコト)とは呼ばれていなかったはず。その後の天武天皇により、大祓の修正や歴史の改変が行われてから天皇とよばれるようになったといわれるので、あまり信憑性がない。
それに、本当に崇俊天皇の息子、蜂子皇子なのだろうか?という疑問もまだある。

当時は蘇我氏と物部氏が「大王」だった。
蘇我氏が政治に長けていたことを考えると、蘇我氏が当時は大王だったと思われる。
今でいうと蘇我氏が天皇のようなもの。

Photo04 (風の松原)

(能代の海沿いには「風の松原」という松が棲息している。潮風が吹く時になびく松の音が、波の音に聞こえるので、音の風景のひとつになっている。ぜひ、足を運んで音を聞いてほしい。 )

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秋田物部文書では、物部守屋一族は、河内の渋川で滅亡した折、物部尾輿(おこし)の臣であった捕鳥男速(とっとりおはや)という男が、守屋の一子で3才になった「那加世(なかよ)」という男の子をかくまり、東北の地へのびたという。
守屋には2人の子がいたとされ、その一人が不詳だったことから、那加世ではないか?と
いわれている。

この那加世が秋田物部氏の祖と伝わる。

崇俊天皇の蜂子皇子と、物部守屋の子が逃れる時期が重なる。
はっきりと守屋の子が逃れた年はわからないが、崇俊天皇が暗殺されたことがきっかけであることは言える。
なぜ、出羽三山には物部氏が逃れたことが全く伝わっていないのだろう。

蜂子皇子も謎が多い。

妄想だが、出羽三山の開祖時期を考えると、その前は大和に対抗した人たちがおり、その後に蘇我氏に敗戦した人々が逃れたアジールだった。

そのような場所にした影に物部氏がいる。元は、葉山も含まれていて、葉山は端山(はやま)というが、役小角が開山したと伝わる。多くの子供たちも含め、権力争いでたくさんの人たちが大和建国に対し、犠牲になってきた。

その無念な死を遂げた魂を天へあげる、浄化も含めそのような聖地として選んだ場所が物部氏のもうひとつの出羽三山であり、蘇我氏から寝返った人たちも含め、産鉄族として強化していきながら、エミシ側につき、再び争うことに執着していく。

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崇俊天皇のお妃の大伴小手子は、なぜ、福島へ逃れたのだろうか?
暗殺の原因は、天皇が蘇我氏の娘を后にしたことで、小手子が嫉妬したから暗殺したとの説があるが・・・。

Photo03


小手子は父と秦氏と共に少人数で逃れたと伝わる。
福島県川俣に落ち伸びた小手子は、養蚕を伝え地元の人に貢献している。
鎌倉時代に入り、源氏が小手子の墓があるとされる女神山に向かって祈願するところや、役小角の蛇伝説、巨石や月山神社を立てた理由に観音様の話があること。
入水して最後は亡くなる話。また、エミシ征伐の際は、阿部氏の戦闘に八幡太郎義家の密かに祈願したといった伝承が残っている。
平泉藤原氏ゆかりの小笹姫もこの山中に隠れ住んでいたなど、いろいろとある。

Photo01 武将に祈願される姫になったという事は、天皇家の正当性を伝えるためではないだろうか?
それは大和朝廷を認めていることにもなるが。

また養蚕を伝えるところから、秦氏と関係が深かったのか、小手子を水神でもある祓い神と重ねている部分がある。

秦氏が蘇我氏と共に行動していたのならば、蘇我氏は小手子をかくまったとも考えられる。蘇我氏が大伴氏を保護したのならば、物部氏とは違うルートで逃れると思う。

(写真:女神山からみえる千貫山。砂鉄を多く含んだ人工の山ともいわれる)

女神山に何かを残したかった子孫が、後に、機織姫と重ねて、水神や祓い神とし、役小角により大地母神のような存在として語られるようになったと思います。
もし、暗殺していたならば、その怨霊を祓うための祓い神にされたということもあるかもしれない。
どこか荒魂と一緒にされているような気もする。
それに女神山は巨石信仰であるアラハバキとも考えられる。

戦闘祈願の為に祈るのは、神功皇后の伝承と同じ。
どこか、祓い清めるというよりは、時代に翻弄された母親の力みたいなものを感じます。
役小角は母の事を想い、自分と重ねたのでしょうか?
そんな単純なものではないかもしれないが。

Photo02 (女神山の山頂)
崇俊天皇の即位に、大伴氏の娘を后としたのはこれが唯一の記録といわれ、蘇我氏を受け入れたくなかったから?か、どうかはよくわからない。
しらばく、この時代は大伴氏の后はでてこない。

大伴氏は早くから住んでいた豪族で、物部氏と蘇我氏の権力争いに敗れた。
物部氏とは同じ立場の「連(むらじ)」であったので、物部氏と協力していたと思う。
大伴氏の失脚は、三韓制政策の失敗を物部尾輿に責任をとらされたと伝わっている。これが本当だとしたら、物部氏が大伴氏を排除したことになる。(540年頃)

物部尾輿の子は物部守屋なので後に、蘇我馬子と対戦する。

この頃、百済・新羅・任那の朝鮮出兵の時期。
どの国もリーダが亡くなると極端に弱くなる。
物部氏は百済側についていた。新羅に攻められた時、尾輿は兵を送っていたが敗れる。
その時の百済王聖明王は日本に仏教をもたらした人といわれるが、亡くなったことで、百済も任那も勢力が弱くなり新羅の勢力が強くなった。
新羅側にいたのが蘇我氏なので、朝鮮半島の情勢に翻弄された時代、国内より国外の影響により物部氏が衰退したと考えられます。

神功皇后の三韓征伐の時期は、391年と中国の好太王(高句麗王)の碑に記されているそうで、実際にあった。

蘇我氏は平和主義者?------------------------------------------------------------------

蘇我氏は強引に仏法を人々に順守させたわけではなかった。
単に、自分の礼拝を持ちたかっただけだろう。
それが物部氏が天皇家の礼拝が仏教になると立ち場が危うくなるから、案の定?疫病が流行ると「それみたことか!」と、焼き払うのである。 

結局、どちらも疫病が流行り、神も仏もないとようやくわかったところで・・・。
蘇我氏は天皇の許可だけはちゃんと認めてもうらよう計らっていたことがわかる。蘇我稲目がなくなった後も信頼を得るために、行政や財務に力を入れる。物部氏は軍事の方が得意だったから、蘇我氏のようにはうまくいかなかったのかもしれない。

ということで、物部氏も蜂子皇子を保護するような形で出羽三山に逃れていた。
それを知っただけで、何だかすっきりした。
東北の謎はまだまだ続くよ~。

___41_2 (青森へ)

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