秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

蔵王権現だった武甲山を想う その2

2017-05-03 | 武甲山
武州秩父郡武甲山蔵王権現記

「伏して惟(おもん)みるに一気わずかに動いて天地開いて萬物生ず
萬物生じて天地人の三際茲(ここ)に始まる。
三際茲に始まりて後神明徳威なるを以てす。夫れ、扶桑国は天地開闢
してより天神七代地神五代に到る。
皆、俱に神代なり。
天照大神第五代鵜草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)第四王子神武天皇
是れ人王の初めなり。仰も東海道武州秩父郡武甲山蔵王権現は、
人王十二代景行天皇の御守東夷大謀叛す。
天皇太子日東(やまと)武尊に命じて大将と為し東夷を征伐せしめらる。
日本武尊伊勢大神宮に参じ、斎宮倭姫に逢ひ宝劔を賜ひて進発す。
駿河の国浮嶋ケ原に於いて旗をなびかせて夷賊を亡ぼす。

夫れより相模国に到り又、武蔵を巡りて太子自ら此嶽に登る。
いっせん四望其れ景勝なり峯らん峨(ほうらんがが)として絶壁剣峻なり。
飛禽走獣往来す。
山?(さんてん)に白雲再として山腰を廻り渓水せんせんとして山根に流れ、
且つ山の形勢を視るに巍(ぎぎ)として威厳有り恰も(あたかも)雄武に以て
甲冑を帯ぶるの形勢なり及って武甲山と名づく。
是東夷征伐の吉兆なり言(のたまいて)、感悦無限なり即ち将に所持の
武具を此の岩蔵に納め以て鎮護の守りを為す。
而して太子常陸の国に往き筑波山に登臨す。
又陸奥の国に到りて悉く東夷を平ぐ。」




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まだ途中ですが、新編武蔵風土記から原文に訳したものをのせています。
漢字のつかない所は、平仮名にしてます。

扶桑国とは、中国伝説で東方のはてにある巨木であり日本のことをさすが、
太陽が昇るユートピアの意味と考えられる。

武甲山の由来が、ヤマトタケルが冑を置いて鎮護国家のために
武甲山と名付けたとある。
その前は、蔵王権現といわれていた。
秩父にも若御子神社がありますが、神武天皇を祀っています。
かなり古い地層に置かれているので、これを祀った人たちが、
和銅を発掘した新羅や高句麗と関係する氏族であることがわかる。
(詳しいことは後ほど)

おそらく武甲山を鎮護国家の山として神奈備としたのは、
鉱石を発掘するために渡来してきた帰化人だろう。
天武・持統朝の朝鮮出兵に戻ってきた帰化人を現在の高麗周辺や入間、
日高町へ住まわせた。その理由は、自然銅がとれたことを知り、
その知識をもつ人たちを派遣させた目的があった為。

続きをよむと、

「又、上野信濃を巡り美濃より還行す。然る後、まさに人王四十代天武天皇白鳳十二年
癸未四月八日勅して役優婆塞親(えんのうばそく)らの国并びに此の山の由って
来るところ尋ね、役行者委曲を旧記に聞達するなり。
此に於て天武天皇益々御感有りて亦勅して役行者に国名武蔵山号を武甲と言げしむ。
この山を国家鎮護と為して金剛蔵王権現を勧請せしめ可く行者詔命を蒙る。
村民森屋氏新に宮社を営建し祭杞を以ってす。
けだし、蔵王権現は本垂迹なり。
紀州吉野金奉山本地は盧舎那佛なり。末世の為に衆生済度をはかり出現さらるるなり。
今又、勅命を以て勤勧請奉り斬の蒿(いやたか)霊験新に増して鬼神妙応不可思議
を感ぜ令めて人夫を瞻仰(せんぎょう)し自らにして巳(すで)に来らしむ。
今毎歳四月八日頻繁祭尊怠り無く在る如く、郡民の帰崇日の昌(さかん)に国家
静謐(せいひつ)にして清平なり。此の山素(もと)より旧記に有りといえども、
蟲損断遍(ちゅうそん)するを以て今、古きを温めて以て其の闕略(けいりゃく)を補ふ。
爾記(しかき)しておわる。」


白鳳十二年癸未四月八日
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白鳳十二年は、寺社の縁起や地方の地誌や歴史書等に多数散見される私年号で、
日本書紀に現れない元号という。通説では、650年~654年の美称といわれる。
役優婆塞は、役行者のことで吉野の金峰山を開山した。
役行者の話から、天武天皇が武甲山に興味を示した内容になっているけれど、
武甲という名前は、かなり後になってからなので、(たぶん妙見山といわれていた後)
役行者と天武天皇の時代から、武甲とよばれていたのには、
時代錯誤がありそう。

この話から、かなり前にみた夢を思い出しました。
もう10年くらい前だと思います。
登山を始めた頃なのですが、知らない森で白装束の団体が下りてくるので、
私は道をゆずろうと後ろに下がろうとしたら、目の前にいたおばさんに、
「後ずさりするな!」といきなり喝をいれられた。
で、そう言うから、後ろに下がってはいけないのだな、と思い、
迷った私は横に歩いたという夢。笑。
そのまた続きで、別の森へ入ろうとしたら、また白装束の団体が下りてくる。
道をゆずり、また進むと広い展望のよい丘へ到着する。
遠くに山がみえた。武甲山に似ているがちょっと違う。
丘は畑が広がっていて、たしか、少年がでてきた気もする。
それだけなのですが、夢にでてきた山が気になっていた。

ちょうどその頃、修験系の山にはまっていたのですが、
役行者に興味をもったことがきっかけです。
一度でいいから吉野の蔵王権現に行きたいと思い、行き方を調べていたくらい。
ある時、奈良県の山の本をみていたら、大和葛城山があった。
その山の写真が、夢にみた山によく似ていたので覚えていた。
武甲山に似ているなあ、と思ったのですが、今となっては葛城山系に何かを感じて
いたのだなと思う。


大和葛城山
※YAMAKEIオンラインより

秩父に役行者がきていた説があります。
詳しいことはわかりませんが、今宮坊には、八大龍王をまつる池があるのですが、
武甲山の伏流水となっている。
この水を秩父神社に返す水分祭をすることから、
武甲山が水の神としている理由であり、それが龍神のことだった。


※家から武甲山が光っているから何だろうと思ってズームしたら、工事用のランプで、
まるで蛇のような長いホースがみえるね~。水をひいてるのかなあ。

いつも謎なんですが、あんなに破壊を30年以上続けているのに、
あまり水枯れを聞かない。横瀬町は水が枯れてきてますけど、秩父全体が水枯れというのは
聞かない。武甲山登山口にある延命水はいつも湧き出ている。
まあ、このあたりは石灰で掘られていはいないので大丈夫だと思いますが、
御嶽神社がある里宮は、完全に枯れてますけど。

蔵王権現を祀った人たちはどんな人だったのか。
それは和銅がとれた黒谷にヒントがあると思います。

天武天皇は、役行者のいた吉野へ頻繁に通っていたことは有名な話。
持統天皇も役行者と同じくらいの年齢だと思われ、頻繁に会っていたらしい。
持統天皇と役行者が実は仲が良かったんじゃないかな~、という妄想がふくらむ。

それで、天武天皇は、陰陽道をやっていたそうです。
天武天皇の養育環境があり、大海氏と役小角の賀茂家がともに葛城周辺に居住していた
こともある。
そのため、天武天皇は役行者に助けを求めていたのだろう。
陰陽道で。

秩父の和銅黒谷近くに、尺土(度)神社という変わった名前の神様があります。
尺土とは測量棒のこと。仙人がもつ杖みたいなものか?
これが葛城一族だと思う由縁。
測量技術を暗示する神名に、剣、蛇、雷の等式が成立するといわれ、
実は、この尺土という地名が、葛城市にあるのです。
大和葛城は大阪(たぶん)と奈良との県境にあり、一言主と役小角の神話がある場所でした。
赤い土がこのあたりに出たので、赤土を桂字にすると縁起がよいとされ、尺土となったそうだ。
春日神を氏神とする地なんですなあ。



葛城氏についてはいろいろと調べてみたい氏族なんですが、
あまり今の時点ではよくわかりません。
ただ、ヤマトタケルが私は以前からあまりいい気がしない。
雄略天皇とヤマトタケルの伝承の裏に、葛城王族がいたといわれる。
いつの間にか、消されたもうひとつの天皇家の一族として君臨していたと思われる
葛城王朝だが、蘇我氏や藤原氏たちの権力により消えていったイメージがある。

その影に、武蔵の建国があり、ヤマトタケルにより東夷したというのは、
葛城氏を征伐したように聞こえるのです。

また、和銅黒谷には「オシャングリ様」という金精様もある。
飲み水を求めて井戸を掘る時、オシャングリ様があらわれて、
「辰巳に向かって森のはずれに掘ればよい」と言われ、掘ってみると湧水が出たという。


オシャングリ様

で、このあたりサンカっぽい気もします。
梅ケ井戸がありますし、「ウメガイ」というサンカ用語の剣とか。
剣を埋めることを意味するのですが、剣と蛇、雷の成立が測量であるということが、
フギとニョカのコンパスと定規ということです。

つまり、灌漑用水など治水工事に長けていた禹の伝承は中国由来で、
その禹が五行説や陰陽師のルーツとなる。
役行者へ伝わり葛城氏たちが継承したと思われる。
それが北斗七星で結ぶといった星の信仰があるのですが、
和銅黒谷周辺の荒川に諏訪神社を北斗七星に結んでいるわけです。
荒川が荒れ狂う川と言われていたので、治水工事に大変手間がかかったのでしょう。
川を整備して人が生活しないと、自然銅の発掘ができないからです。

辰巳は、東南の方角。
武甲山の方角にあたります。
辰と巳の間を「巽(たつみ)」と書き、辰は龍、巳は蛇。
その間をとりもつのが巽というのですが、八卦のひとつ。
易の卦の名前では、
 ア:「八卦の1つ。表面は強いが、心の中では、素直であるという意味」
 イ:「六十四卦の1つ。相手を尊敬して忠告などを素直に受け入れるという意味」
※漢字辞典より https://okjiten.jp/kanji2436.html





あんまり詳しいことはわかりませんが、ちなみに、龍は「震(シン)」で、雷。
鶏が巽で風。
震の反対(陽2陰1)が、羊で兌(ダ)。
五行では羊は金を司る。
和銅黒谷の羊太夫の羊は、金も伝えているものかと思う。
また、シダ植物が砂金に関係する植物といわれますが、シダを「羊歯」とも書くので、
これも金を意味する言葉。
要するに、金を守り固めるために、五行説が使われている秩父なのです。
なんだか、とても宇宙考古学的なセンスよい人たちに見えてくるのですが、
こういう世界観の方が、私はとても惹かれます。

秩父妙見宮縁起では、巽は、武甲山をさす。
五行説をもたらした秩父の信仰は、黒谷の黒が「水」を示すこと、
円墳がたくさんみつかっていることなどから、
武甲山が水を司る黄泉国(死者の国)と捉えていたわけです。
霊魂は水に返るといった思想。
元は、秩父札所は武甲山で結願する流れだった。
が、室町時代頃に観光用としたのか、札所の順番が変わった。
ということで、和銅黒谷の発見にも、武甲山が大きく関係しているのでした。

もっと詳しく掘り下げると、古代の人たちのシャーマニズムになぜ龍や蛇かというと、
DNAの螺旋を伝えている。
私たちがみな、同じ遺伝子をもって分かれているのだけれど、
生まれる時の命は、みな魚なんです。
人間も鳥も動物も、胎内で育つ赤ちゃんの原型は魚類であった。
龍が世界神話に多く登場しますが、忽然と何かあって消えてしまうのは、
人類を創った起源が関係しています。
イルカが祖先ともいえる。
なので、イエスキリストが魚というのは、そういうこと。


※イクサスと車輪。
車輪はエゼキエルの智慧の天使のシンボル。
ニギハヤヒが降臨した地の生駒=生駒氏のシンボルも車輪。
それで、生駒は駒。
駒は高麗。葛城氏は加羅国からきたという説あり。加羅=任那。朝鮮における日本人の領土。


キリストのシンボル

加羅地域にヤマト朝廷から派遣された倭人の軍人・官吏、或いはヤマト朝廷に臣従した在地豪族が、
当地で統治権・軍事指揮権・定期的な徴発権を有していたことが有力視されている。
中国で東夷とは、狗邪韓国のことで、朝鮮半島の北が倭国の北限にあたる。

よってヤマトタケルは日本に帰化した人たちを、日本でも東夷とよんで、
征伐したと考えられる。その秩父にもいた東夷とは、これらのシンボルを従えた葛城王族だったかもしれない。
しかし、時代を経て、天武天皇は帰化した人たちを保護したと考えられます。


世界保健機関のシンボルもこれ。


ヘルメスの杖


伏羲(フクギ)と女媧:手にコンパスと定規をもっている。


しめ縄もそれ。

難しいけれど、鉱石を発掘するには環境破壊や汚染などのリスクが伴う。
土砂災害が一番大きな影響があったと思うのですが、そうならない為の知識や技術の他に、
地下水脈や鉱脈が山とどのような位置関係にあったか、ということも知っていたと思うのです。
その発見に五行説や易を使用していたと思います。
そのような占師みたいな人たちが必要だったので、
天武天皇は、たくさんの帰化人を受け入れたのです。

なので、蔵王権現を祀った由来に、役行者の葛城氏や賀茂氏などが関係しており、
秩父に役行者本人が来たのではなく、葛城氏たちの鉱石技術者がやってきたと考えられます。
役行者の弟子はたくさんいたと聞くし。

その人たちが五行説を元に、秩父を修験の聖地にしたということです。
後に、熊野修験が秩父を熊野とした。
そのため、秩父は御嶽山など時代と共にいろんな講に変わっているが、
軸となっているのは水と龍、蛇信仰で、横瀬も熊野修験の聖地となった。
守屋家が代々武甲山を管理しているのですが、元は、加藤姓だったそうです。


加藤家の家紋(蛇の目)

加藤家は横瀬に多いです。
加藤家の家紋は、蛇の目をあらわしている。
有名な加藤清正は、蛇の目と桔梗です。
桔梗といえば五芒星の桔梗姫。
後に平将門伝承があるように、秩父平家は、葛城系の陰陽師や道教を受け継ぎ、
蛇や龍信仰、金を守っていたようです。

※秩父水神巡礼④(秩父市黒谷) 水にまつわる民俗史
http://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/05c2da036750b5143ca2463cad45ed8a

火と水のカミ---------------------------------------------------
余談ですが、目がでてきましたけど、蛇の目というのはプロビデンスの目のことも示しているのでしょうか?
友達と、武甲山のコンクリートの段々のピラミッドのような崩落壁のことで、普通ではないよね、
と話をしていて。友達は、持山に登る前日、キャップストーンの話がでたと。
キャップストーンというのは、ピラミッドの頂点に蓋をするもので、
大英博物館に保管されているものです。
それに目が描かれているのですが、両目です。片目ではないのね。



五臓の話がありますが、火と水がなぜカミなのか。
今、北朝鮮が荒れてますけど、放射能の光をもし見てしまったら、蒸発してしまうといった
ニュースを聞いて、ぞっとしました。

友人に教えてもらった話。
火は肝臓をしめし、水は腎臓をしめす。
放射能は、水の分子を切ってしまうので、体内の水が蒸発してしまうそうです。
そうなると体内には火しか残らないから、燃えて蒸発してしまうという事。
ニュースで放射能の光をみると一瞬にして消えるという恐ろしいことを言ってましたが、
実は、それはちゃんと説明になっていたんです。
その火は、目から入るので、肝臓を悪くすると眼精疲労になるのは、ちゃんと意味があった。

武甲山が水の神だったのですが、世の中が水不足で、火をたやす怒りに燃えているのだから、
怒りをもつな。水を増やせという警告。
人も地球もリンクしていて、とにかく人類は水不足ということです。
とにかく水が足りない!

戦争も火ですから、それを止めるために水が必要ということで、そのバランスをとる必要がある。
そういう時に、私は瀬織津姫の言葉をよく耳にします。
世の中、みんなどこかで怒りをもっているから、水で冷やす必要がある。という警告でもありました。
私も実際、腎臓がもともと弱いこともありますが、身内のことで怒りをもってました。
最近、大量に漢方茶を飲んでいたので、そういうことか、と納得してました。

削られている武甲山の内部に思うこと。
ピラミッドみたいやん。


※秩父石灰工業(株)のサイトより。


※クフ王ピラミッド断面図

もう武甲山はピラミッドに変容していくと思うしかなく。
内部の削り方とか、はるか昔のピラミッドでしょ?
そういうのは偶然といえど、摩訶不思議な世界では、似てしまうのですよ。
そういう形状になってしまうのは、そういうことだと思うしかなく・・・。

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さて、そんな武甲山の古代史を考えている時に、これは、役行者のような人が実際、
武甲山にいたんではないか、と。
そんなアウトローな人が。と、思った。
本当に庶民の立場になって考えて全国を行脚して、祈りをささげて自身の体でもって
すべて救済のために尽くしたかっこいい人が。
本当は家柄がよくいい暮らしができたけど、あえてそれを拒否して隠居した人。

役行者は権力も持てれば持てた人で、政治の世界にも精通していたけど、
修験としての道を選びながら、庶民の立場で世界をみていたように思う。

そして、5月1日、イネハポ秩父二人で予定していた持山寺の即身仏伝承と流れる。
残念ながら一人参加できなかったので、2人の行脚となり、
偶然にも、というか忘れていたが、1日は武甲山の山開きだった。
これまた帰りは大雨にあい龍神の恩恵をうけた・・・。
家に帰ると晴れるのだよ。
そして2人だったのが、当日、もうひとり参加してくれて、
結局女子3人となった。
やっぱり、何か動くと必ず3人になる。
三位一体。面白い。





次は、持山寺の伝承について。
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蔵王権現だった武甲山を想う その1

2017-05-02 | 武甲山
GW突入ですね。
昨年1月に帰省した以来、ずっと帰っていなかったので約1年半ぶりに秩父へ。
こんなに帰っていないと、武甲山がどうなっているのか怖いものがあります。
案の定、変なモノができてた。

秩父は変わっとらんっ!




※芝桜

西武秩父駅はいつの間にか温泉らしきものができてまして、
観光客で大賑わい。
入館料金、土日祝1080円。高くね?そんなもの?(入らないけど)
お店の開館時間が10時からって遅くね?
友人が朝、トイレに行きたくてもお店が空いてないので、
駅員に話て、駅中のトイレに入ったという!えー。
そういうところが変わっとらん。

まあ、ちちてつ乗換は楽になったらしいです。
最近、秩父は観光に力を入れてますね。
私は横瀬に住んでませんし、税金も払ってないし、
嫁にいった者は、嫁ぎ先に専念すべきで、別に秩父がどうなろうか、知りません。
が、容赦なく古代史にツッコミする。
ここは私も相変わらず。

秩父夜祭が世界遺産になりましたけど、
武甲山あっての秩父夜祭ですよね?
環境破壊の山といわれ続けてコンクリートで補強している山に対し、
よくユネスコは世界遺産にしたなぁ。
だからいい加減なんです。
ますます私は秩父に帰省して浮いてしまう。
私は変わったのだ。


山頂にできたコンクリートの神殿、いやUFO発着地。いや、崩落防止壁だそう。
どうやら崩れはじめた。
前から聞いてはいたが。
でもこのピラミッドのような段々の形は異常だ。
崩落防止もあると思うけど、武甲山は空洞になっているので廃棄物を埋めるとみた・・・。
それを隠しているんだろうね。




せっせと掘る。

無形世界遺産の定義の中に、祭礼があります。
「自然および万物に関する知識及び慣習が含まれる」
中に、当然武甲山も含まれる。
また、「個人が自己の文化遺産の一部である」ことの定義に、
武甲山も秩父人も文化遺産の一部となることですよね?
人がその祭りを継承しているところが遺産となり後世伝えるべき
という意図があって、世界遺産がある。

しかし、秩父の場合は負の遺産でしょう?
秩父夜祭とは、武甲山あっての祭礼ですから負の遺産なら納得いく。

ですから、毎度帰るたびに、神奈備山といわれた武甲山が
目の前で破壊され続けている現実をみるのは辛いものがあります。
福島の方々も帰省できない地域は、とても辛いでしょう。
あらためて故郷があることは、本当に有難いと思います。
でも、その故郷の山がセメント開発で無残な形を見続けることも、辛いのです。


※フェンスあり。山頂までトラックは通れます。

でも仕方ない。
悪いのは、秩父。
秩父はそういう所。

武甲山はカミですが、人の悪業を映している鏡だと思う。
武甲山はなんとも感じてませんが、私たちがその痛みを感じるというのは、
山が鏡になっているからです。
カルマともいえますね。
東北の陸奥開拓で逃れた秩父平家や鉱石の開発技術があった武蔵一族(氏族)の
行ってきた環境破壊が、そのまま返っているカルマと思ってみています。
(大袈裟ではなく)


※産土神のお天狗様(サルタヒコ神)


※梵天

私は、それを東北で見続けて、関東の武将たちの悪行というものを感じることがある。
武甲山がそれを背負っているわけです。
秩父の人たち、特に高齢者や団塊世代の多くは、「無意識」が働いていると。
友達とそんな話をして納得したことでした。


※古くはここに天王さま(牛頭天王)があった(思索の森)

見ると苦しくなるから武甲山を見ない。
見ない人がいるから、私は見る。苦しいけど見ている。
これは介護でもそうですけど、自分の親のことなのに、大変なことをしない。
自分の手を汚したくない人がいるから、
誰かが手を汚していかなければならないのと同じだ。

秩父夜祭をみても武甲山を見れないのは、逃げているようにもみえますが、
単なる鉱石(石灰)の塊でしかみていないのだろう。
武甲山が「ヤマ」ではないと思っているから崩れる。
ホツマツタエで「ヤマ」は、陰陽のバランスを示している。



それが重なると六芒星になる。
でも、武甲山がバランスを欠いているので、ヤマとして見られなくなっているわけです。





なので、秩父の歴史に武甲山が入っていても、なぜかそれを見られないというのは、
ヤマトタケル伝承の冑を山頂に置いた伝承が、生きているからです。
勝利したというプライドがそうさせている。
しかし、「降伏」の意味で冑を置いたと、私はそう考える。
徳川家康も言っていたように。
秩父人は、とにかくプライドだけは高い。
カネにしか向いてない。

普通、プライドが高ければ、武甲山をあんな風にするのは、
恥ずかしいと思うはず。
でもそう思わないのは、無意識だから。
先日、復興大臣の失言がありました。
「あっちで良かった」と言えるのは、無意識だからです。
そういう人に、怒りをぶつけても意味がないのです。
むなしくなるだけです。
秩父の武甲山がそうだから、よくわかります。
政治家というか、日本の社会体制が、無意識に働いているだけです。
だから、意識をもって何かに接していたら、そんな言葉はでてこない。

でも、仕方ないんです。
無意識の中で生きている人もいるから、怒りを持たない方が賢いやり方です。
言ってわかる人ならば、意見を言えばよい。
ただ、怒りは持ってはならない。
実際、私の身体の変調で痛感したことです。




※現在の場所に移された天王さま。

ヤマトタケルは「武」となっている。
本来は「健」か「建」の漢字であった。
そっちの方が良かったのでは?
まあ、武甲山の山名由来はたくさんありますので、一概にそうとも言えないけど。
ただ、言霊はあると思っています。


※天王さまの道。(天王さまを担いで移したそう)


※ぼろぼろの橋・・・落ちそうで落ちなかった。
こういう橋をそのままにしているところが、秩父らしい。

また、秩父盆地という地形が、人をそうさせている事もあるわけです。
とにかく重たいのは、あんなに峠が深い場所に住んで、
すり鉢の底にいるような地形の中では、動きたくなくなる。
頑固さは、地形によります。
東北地方は、そこまでの盆地がないし、秩父に比べたら平野ですからとても広いです。

以前、ヒーラーな友人が、秩父を通過した時に、
すごい所だと。眠くて耐えられなかったと言われた。
こんな秩父に住んでいたんだね。すごいね~。と言われてしまった。
感じる人は、秩父は重たいようです・・・。
それも岩盤にあったりしてね。


※愛宕神社

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さて、武甲山が蔵王権現だったことを思い出したのは、ある伝承からでした。
家で武甲山を眺めていたら、「役小角」がでてきた。
ああ、そうだった。武甲山は元は、蔵王権現だった。
その話は、長くなるので次にします。

ところで、実家の庭には梅の木が3本あります。
白梅が2本、紅梅が1本。

仙台に帰る日の朝、父が、梅の木の下で庭いじりをしていたので、
私も梅の木の下に行ったのですが、ふっと、梅の木に実がなっているのを見つけました。
かわいいお尻みたいな、双子ちゃんの実。
わ~、かわいいお尻。と思って写真を撮ったのですが、とてもきれいな光も映りました。





「実がなってるよ」と言ったら、
父が、「あれ?実がなってる。珍しい。」
というのですね。
毎年、梅の実はなりますが、父が言うには白梅にはよく実がなっていたけど、
紅梅の実は初めてみたというのです。
偶然、私が見つけて良かったのですが。
そういえば、先月、梅の木から菅原道真のことを思い出していました。

梅は、ウメですから、桜より、ウメの方が私は好きです。



それで、片岡鶴太郎さんの話を思い出したのですが、
鶴太郎さんが画家になる時、ふと、道に椿が咲いていたのに気づいたそうです。
いつも歩いている道なのですが、その時は、ふっと椿に目がいったそうです。
鶴太郎さんは、花や植物は、人に何かを伝えているのではないか、と。
気づいてほしいというシグナルを送っている。
あの時、なぜ、椿に気づいたのか。
と、言ったことを思い出しました。
それから、椿の神秘に魅了され、椿を画くようになったそうです。

なので、私もこの梅の木の実に何かを感じたのだろうと思いましたが、
きっと、梅の実がシグナルを送っていたのですね。

ということで、武甲山で悶々としていたのですが、
梅の実が光を与えてくれました。

次は、武甲山の蔵王権現と、なんとなく役小角のような、
アウトローなお坊さんがいたと妄想したい伝承を。
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たったひとつの武甲山

2016-02-09 | 武甲山
今年に入って、いろんな情報がたくさん入ってきてしまい、自分でもどう頭を整理して
処理して手放してよいのかわからない。
とにかく一気にいろいろなモノがきた。
今年に入ってUFOの夢や不思議な夢がとても多い。
これも武甲山の思索の森を歩いたからだ・・・あの森は本物だった。
グリーンマンなんだよね。

さて、・・・あんまり外に出かけられないので、地元のネタを話そうか・・・。
秩父は何かと頑固だ。
ある地元の方が、「秩父人の多くが武甲山と秩父神社を愛しています」と言い切った人がいた。。。。
それが勘違いなのだ。
秩父神社は妙見信仰。横瀬のお天狗様は修験、札所観音霊場、三峰神社の狼信仰、御嶽信仰、宝登山神社・・・
などなど里山信仰も含めたら、秩父の信仰は秩父神社がすべてではない。
数多くある信仰の中で、すべての宗派、宗教、信仰のすべては武甲山から始まっていること。
なので「武甲山が環境破壊の山だといわれて、秩父神社がかえって被害を受けている」という意見はおかしい。
地元人が本気でそう思っているのだから、この頑固さにはお手上げ。
まあ、それが良い所でもあるんだけど、さすがに武甲山を美化できない。

さて、なぜ、秩父神社なのか?
それには星信仰がルーツにある。

秩父神社を中心にみる武甲山信仰と横瀬の武甲山信仰は違うようだ。
秩父神社を北極星としているため、宇宙の中心である天御之主神とした。
秩父神社を中心として車輪のように北斗七星が四季により型を変えて一周する。
地上にある北斗七星に結ばれた諏訪神を反転させると、
柄杓が地にこぼれるような図が出来るから?春の豊かな恵みに水は、
秩父全土に広がるよう構想されたものだろう。
そのへんは妄想するしかないが。

しかし、この話しは秩父神社を妙見信仰とあわせ、里宮とし、龍穴を奥の院とした場合の話だろう。
亀に乗った妙見様は、龍の瀬にのるのだが、それが地下水脈のことであり、
秩父神社の方まで水脈が流れているところから生まれた思想にある。
札所13番に居住していた丹党中村氏は、すでに龍穴からの水脈を当てていたわけだ。
その上に見える空は、天の川だったというロマン。(ホントカ?)

しかし、横瀬では大蛇窪の存在は認められても、その信仰を元にお天狗様を祀っているのではないようだ。
横瀬宇根地区のお天狗様は実家の氏神。
どのような経緯か不明ですが、正式に認められたお天狗様だという。
ということは、横瀬の武甲山信仰は天狗をもたらした修験だった。
その後、横瀬に住みついた人がそれぞれに猿田彦神を分請したという。

天狗とは、(Wikiより一部引用)
空海や円珍などにより密教が日本に伝えられると、
後にこれが胎蔵界曼荼羅に配置される星辰・星宿信仰と付会(ふかい)され、
また奈良時代から役小角より行われていた山岳信仰とも相まっていった。
山伏は名利を得んとする傲慢で我見の強い者として、死後に転生し、
魔界の一種として天狗道が、一部に想定されて解釈された。
一方民間では、平地民が山地を異界として畏怖し、
そこで起きる怪異な現象を天狗の仕業と呼んだ。
ここから天狗を山の神と見なす傾向が生まれ、各種天狗の像を目して狗賓、
山人、山の神などと称する地域が現在でも存在する。
したがって、今日、一般的に伝えられる、鼻が高く(長く)赤ら顔、山伏の装束に身を包み、
一本歯の高下駄を履き、葉団扇を持って自在に空を飛び悪巧みをするといった性質は、
中世以降に解釈されるようになったものである。


おそらく、赤鼻から猿田彦神をイメージさせるようになったものかと思うが、
修験の道が武甲山麓を巡礼するように作られたきっかけのひとつが、縄文遺跡だったと思う。
横瀬は根古屋、奥宇根、影森と修験の道を作った側に縄文遺跡が見つかっている。

古代には、魂は海へ還ると考えた氏族と、山へ還ると考えた氏族が別々に住んでいたと思う。
私は、この猿田彦神と天狗信仰、八坂神社などを考えると、
やはり、端のサエ神を元にしていると思う。
小百合の花が由来になったサユリから由来することもわかった。
横瀬は、三輪山に鎮座する狭井神社から由来していることはあるのか?


(梵天をあげるお天狗様)

奈良県三輪山に鎮座する荒御魂を祀る狭井神社がある。
疫病を鎮圧する神とされ、狭井が佐葦河(さいかわ)とよび、
その河の辺りに山百合草が多くあった為、その山百合草を取って佐葦河と名付けた。
この神は、佐毘売山神社といって金山彦を祀る。
武甲山は、オオナムチを由来とする大持山、スクナヒコを由来とする小持山という山がある。
秩父が三輪信仰であるというのも、諏訪神が最も古いものであり、
秩父は天武天皇の時代より、国譲りの舞台とされている。
天津神と国津神を祀る秩父神社は、天孫降臨の神話の舞台と位置づけるためだろう。

百合が秋田県の由利や閖に繋がっているのも、熊野修験があるが、このへんは不明。

縄文時代、武甲山の麓までは海であった。
大蛇窪の正確な位置はわからないが、石灰質の鍾乳洞は数多くあり、動物などの骨も多く
見つかっている。大蛇窪も鍾乳洞であり、海水により浸食された洞窟だったと思われる。
そこに人間に限らず全て動物をも墓場として葬ることをしてきた先住民がいただろう。
タイリクオオカミの骨が発見された根古屋の鍾乳洞は他にも動物の骨が見つかっている。
人骨は見つかっていないが、縄文人は食べ物も全ての生き物も同じ洞窟に埋葬していた習慣がある。
それを貝塚というが、だいたい海側につくる。東北では貝塚と巨人説は結びつけられる。
魂は天に還るのではなく、海に還ると考えられてきた先住民もいた。
それが、海神であり諏訪神を祀る人々であった。
武甲山の墓場は、根古屋鍾乳洞のように、麓にあったのだろう。

武甲山麓には洞窟が多く先住民の墓場としての祭器場であったことも考えられる。
それが、後に里山信仰となり、人の魂が海や洞窟ではなく、山へ天上するようになる。
それが天孫系がもたらした信仰と思うが、それも新たな先住民の思想だ。

また、疫病祓いも、海から異国人がやってくる海への侵入を拒むことから由来していると思う。
それを立てるイナウが、後に天狗信仰になり梵天をあげることになったことも?
神の依り代と立てるものだが、これもイナウがルーツではないだろうか。
イナウとはアイヌ語で「立っている」という意味。


※イナウ

天狗信仰では梵天を高くあげる。
仏教の守護神である天部の一柱で古代インドの神ブラフマーが仏教に取り入れられたもので、十二天に含まれる。
梵天は宇宙の中心としたものであるが、これも修験がもたらしたもの。
いずれも、宇宙の中心を置く場所が武甲山であること。
あの世とこの世の境として考えた先住民(海の縄文人)は、海はあの世、
陸はこの世としてイナウを立てた。後に渡来してきた人たちが結界(境)とし、お社を立てたのだろう。
武甲山を墓場とし、巡礼地にしたのは、縄文人の死生観が元にある。

もうひとつ、以前から気になることがある。
疫病祓いが、星神に由来するという説。
横瀬資料館に展示されている氷雨除けの護符が、香香背男(かかせお)という星神のことではないかと。
これは、遠野不思議空間に詳しく載っているので、詳細はこちら。
※鉄の蛇(日高見とアラハバキ)
http://dostoev.exblog.jp/22444456/

カカセオのことを、コオラサメとよんでいた。
氷雨は、ヒサメではなくサメであると解釈すると、ヤマトタケルや神武東征により
氷雨を降らされ、またナガスネヒコが降参したのは、龍神=水気であると考える。


※横瀬町資料館

その氷雨除けとして護符があるということは、疫病祓いは、武甲山に鎮座する龍を祓うことになる?
もし、それが祇園祀りとして秩父夜祭に伝わるのであれば、
星神を信仰していた先住民、カカセオを祓う目的だったことになる・・・。

横瀬では、秩父夜祭りにあたる祇園は、宇根八坂神社の天王様のお祭りである。
特に宇根の天王様のお祭りが重要だったとも聞く。お社の彫刻は諏訪神の彫刻のように立派である。
疫病を封じる神を祀ることで、氷雨という龍神を防ぐといったものか。
それが、星神であるということ。
また、それが秩父全土に諏訪神が多いのも、自らの疫神を自らの信仰で防ぐように仕掛けた
ようにもみえる。

また、この猿田彦神も、龍穴のハリサイニョと同じ女神であり水神である。
長瀞に鎮座する善女龍神社がある。祇園祭の神輿巡行に描かれている南海の神泉苑という龍宮城と関係している。
龍神は、祇園祭りより由来する井戸神である。
井は、また狭井でもある。

複雑な武甲山信仰--------------------------------------------------------

武甲山を死生観をもって祈祷していた先祖がいたにも関わらず、
破壊を続ける地元企業が信仰し、剣を奉納した神社が、白鳥神剣神社だった。
地元の方から教えて頂いた情報ですが、なぜ東に向いているのか、ようやくわかったが、ガッカリ。
「昭和7、8年当時、㈱昭和電工花岡工場長の信仰により、剣を埋葬してこの神社が造営。
神社造営にあたり、皇居から武甲山が見えるという由来によったものである」
そういうことか。東に皇居があるからか…
上からみたらこんな山頂になっているが。
剣を埋めたところで、穴はふさがらない。
その穴をあけている昭和電工は、剣を埋めたという。
その矛盾をどう説明してくれるのだろう?御嶽神社の下は空洞だ。
発破でかなり揺れる。地震のように。毎日、毎日、人工地震を受けている。
しかし、私たちは武甲山に手を合わせる。




※Goole Earthより

昭和初期といったら日本政府の経済投資が活発に行われ、産業革命の突入時期であり、
あの頃はそういう時代だったが、もう白鳥神剣神社の意味がない。

塞ぐ為のサエ神が、見事に発破によって穴をあけられた。
白鳥にしているのは、ヤマトタケルが白鳥だからで、
私がヤマトタケルが甲を置いたという神話を、「降伏」として見ているのは、
破壊を続ける人々全てが降伏する場所であるべきだと訴えたい思いがある。
誰がいつこの神話を持ち出したか不明だが。



信仰は人の心により動くモノである。
環境哲学という言葉がある。
特に高齢者は武甲山のおかげで豊かになったと思っていても、そのおかげで人間は生きているという考えに至らない。
武甲山が崩されていく痛みを感じるのは、自然と人間は共存しているわけで、
破壊が行われている心理的作用が人間の心理にも影響を及ぼすことを知らない。
わからない人が、社会を作っている。

反対する人は、自分たちの経済が破壊されると思うからでしょうか。
経済に影響を及ぼすと思う人と、自然に影響を及ぼすと思う人の違いは、真逆に働く。



崩された跡


秩父太平洋セメントのサイトより
http://www.ct-cement.co.jp/2jigyo_miwa.html

<ベンチカットを行っている主な企業>
・秩父石灰工業
http://www.titi-lime.co.jp/Company/Association.html

・宇根鉱山 菱光石灰工業株式会社
http://www.ryokolime.co.jp/ja/company/une.html

しかし、たとえそれが誤った祀り方をしてもその時代に生きてきた人にとっては、正しいと思っただろう。
貧しい家の若い女性が秩父銘仙へ厳しい環境の中、働かされることがあった。
何と言われたか忘れたが、「鬼~」で、秩父絹織物を鬼とよんだ。
それほど大変だった為、自殺も多かった。
姿の池は、その霊を弔うお地蔵様が静かに座す。
武甲山の石灰開発が始まったおかげで、家族が集まり食事ができるようになった。
だから、高齢者の方の多くは、武甲山が破壊されているとは思っていない。
有難いとすら思っている。
どちらが正しいのではない。また、破壊だけの武甲山でもない。
しかし、今の時代もう必要ない。
白鳥神剣神社は今は何の機能もない。

秩父は、セメント開発が日本経済の発展になるという神話を掲げた。
発破の破壊から祟り神を恐れるために戦勝の神であるヤマトタケルならば、自然神に勝つことができると。
その償いもすべて武甲山に背負わせることにした。
それを地元の人は、崇拝している。これが今の武甲山信仰だ。

だから、岩手県に祀られている三峰神社も、戦勝の神として鬼門におくといわれる。
そのようなやり方を秩父人(平家?)がするから、未だに東北地方では三峰が狼信仰であることを知らない人が多い。
ヤマトタケルの戦勝の神としての方が根強く、安倍氏を討伐したものだと言われるだけだ。

徳川家康が平和を望んでいた経緯があるのは、
江戸幕府では、秩父はやはり墓場=聖地としてみていた。
天下統一の基盤をたてるために行った検地が、52年間もの長い間、
横瀬、大宮郷、山田村など行われていない。
(詳細は、秩父聖地説で)
西北は神が座すと考え、武甲山と両神山を神格化していた徳川幕府の歴史がある。
それはまた武甲山を恐れていたことにあるだろう。
なぜ、徳川家が武甲山=横瀬を特別にみていたかはいろいろな説があるが、
おそらく検地をすることができなかった理由に、横瀬の名主たちや肝煎り衆がいたからだろう。
肝煎り衆は、東北で名主のことを言う。新潟か東北地方から名主としてやってきた人の力の恐れも考えられる。
徳川家が配慮していた可能性もあるのだが、どんな人物かわからない。
また、もし肝煎り衆が、東北からやってきた人だとしたら、秋田県へ行った横瀬の安保氏がいる。
その末裔が横瀬に戻ってきたならばとても興味深いが、その血を受け継ぐ人々が行った結果、
今は、私がその苦しみを背負うことになった。
すべては武甲山の鎮魂の為に、東北を歩くことになったのだ。
だれにも理解されない孤独な作業・・・

ということで、武甲山は複雑な土地をもつだけに、信仰も複雑なんです。
こんな山は世界中探してもない。
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徳川家康と武甲山

2015-03-21 | 武甲山
武甲山の山名由来は、「ヤマトタケルが山頂に甲を置いたから」という話はよく知られている。
甲は、武将の命の次に大事な武具の中でも重要な部分。
その甲を置いたという事は、降伏したと考える。
高貴な人に対しては冠であるが、この言い伝えは、武甲山が武蔵国の武将たちにとって、
戦争のない事を願う平和な象徴であったことを伝えていると思います。

それがヤマトタケルではなく、徳川家康であったら?という面白い話。
横瀬町誌から、ちょっと紐解いてみよう~。

現在の武甲山は御嶽神社ですが、その管理を任されているのは代々守屋家と伝わる。
北条氏邦より御嶽社の修復を命じられ、横瀬に移りすんだという。
武田勢が秩父に侵入し、北条氏邦は武甲山に祈誓するも敗退。
その際、国光の太刀(鎌倉時代の刀工。相模国鍛冶の祖)を奉納したとある。

国光の刀は後に正宗の基礎となり、「相州伝」と称される作風を確立した姐である。


※三井記念美術館 短刀名物日向正宗

守屋家は、大連物部守屋35世後裔と伝えている。
ただ、物部姓を名乗る一族は関東地方に多くいたので、
物部「守屋」か諏訪の「守矢(洩矢)」なのかは不明。

古くは御嶽神社の前は、熊野神社を祀っていたようです。
武甲山麓に五社、熊野権現を祀っていたという。その管理を任されていたのも守屋家であり、
後に名主たちが住むようになってから、氏神様を祀ったようです。
宇根地区の梵天をあげるお天狗様も、元は熊野神社であったという。
おそらく、その五ヶ所は、武甲山を囲むように、
1、根古屋の愛宕神社と猿田彦神社
2、猿田彦神社(三菱セメント側)
3、宇根地区お天狗様(猿田彦神社)
4、宇根地区愛宕神社(思索の道途中にあり)
5、宇根地区天王様(八坂神社)の5箇所かと。
もしかしたら6箇所あるかもしれない。

武甲山麓には、上郷(根古屋・宇根)、中郷、苅米、下郷(現:川東、川西)と区部され、
武甲山に近い所を「上(かみ)」とよび、その上郷中心に、熊野神社を置き、
熊野古道のように武甲山古道として修験の山として位置づけた。
そのため、武甲山御嶽神社の神主や管理などは根古屋、宇根が中心に行っていたようです。
現在は、「思索の森」と名付けて歩ける道があるのですが、
熊や猪が急に増えたそうで、歩く時は要注意です…。

武士たちの信仰を集めたのは、蔵王権現を祀っていたこともあるようです。
史料によると541年、武甲山に蔵王権現を祀るとある。
そのため、吉野の信仰が入り、熊野権現が武甲山に定着したのだと思います。


(西武線と武甲山、まれに山頂の削られた部分に霧や雲がたまるらしく山頂部分が見えない事が多々ある)

さて、北条氏の軍神であった武甲山は、後に徳川幕府にも影響を与える。

幕府が横瀬郷を信頼していたのは、
武甲山麓に住む人たちが、代々、鎮守の武甲山を守護するために幕府の元に
属していた武士が横瀬に移り住み、帰農したからである。
また、鉢形城の城落から移り住んでいる武士も多かった。

銃の扱いも知っていたので、各地でおこる一揆を今の自衛隊のように派遣されていた
こともあり、唯一、銃を保持することを許されていたという。

また、古く嶽山といったのは、蔵のある山と見たて、豊穣があり米俵を多く
保管できた蔵がある所に名前をつけるそうだ。

秩父は比較的豊作な地であり、江戸時代、札所霊場が特に盛んになったのは、
他の地域に比べ奥まった盆地であった為、
封建的な部分はあれど、かえってそれが秩父の財産を守ることができたという事になる。

その武甲山に、徳川家康も北条氏のように祈願していた思想があった。


昔の武甲山

武蔵国武甲山が太古以来、関東鎮護の御神体のまします霊山であることを知り、
1596年、鉢形城主日下部丹後守に命じて、武甲山の社前に、神楽装束鏡百面太刀
三十振白銀三十枚、社領三貫文、および永年太々神楽奉奏という莫大な寄進をした。
家康江戸入城後6年のことである。この後、家康は天下を二分した関ヶ原の戦いに
大勝し、ついに征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を創立する。
しかし、後に豊臣秀吉との和平共立は不成立に終わり、ひき続き1615年、
大阪冬・夏の陣を戦うことになる。
この時、家康は人を遣わして、五郎入道正宗の太刀を武甲山社頭に捧げる。
家康は最後まで、豊臣方との和平共立を願っていたと思われる。

「横瀬町誌 人と土より」


懸願:家康は、関東鎮護の霊山として宝剣一振を奉納、次の秀忠も奉納したと思われる文書もある。
数度の落雷の火災のため確証はないが、上の図のように宝刀といわれるものが伝わる懸願が現存する。

徳川家康は、幼い時から家族と別れ、一族が戦死している。
自身も人質となり戦乱を乗り越えてきた。
その辛い経験から、「厭離穢土、欣求浄土」という意を大樹寺登誉上人から受け、
浄土思想をもつことを志したという。

大樹寺は、愛知県岡崎市にある。
ここから岡崎城が見えるように建っている。
徳川氏と松平氏の菩提寺であり、歴代将軍の位牌が安置されている。
1560年、桶狭間の戦いで今川軍は敗走し、松平元康(徳川家康)はここに逃げ帰り、
先祖の墓前で自害しようとしたが、住職の登誉に諭されて思い留まったと伝わる。

------------------------------------------------------------

(東:根古屋)

武甲山は、徳川家の隠れ里として考えられていたのだろうか?

例えば、武甲山生川源流地にある持山廃寺跡は、駿河大納言松平忠長の子、
松平長七朗の入定伝説をもつことで知られている。
長七郎は、永見長忠(従兄の松平忠直の子)といわれるが、
忠長の実子の存在を証明するものがないため、架空の人物として今に至る。
しかし、武甲山から続く小持山の山腹に隠居していた高僧がいたことは確かであり、
「武甲山のカキット」という白い鳥になった僧侶の話は、長七郎をモデルにしている。

※カキット伝説はこちら・・・
http://blog.goo.ne.jp/inehapo/d/20130802

松平忠長は、徳川秀忠(徳川3代目)の三男であり、松平姓を賜る。
その子、長七郎が実際いたとなると、徳川家としては重要な跡継に成り得る人物であったらしい。

長七郎亡き後、徳川綱吉(徳川5代目)の時代、隠密を横瀬に派遣している。
それは、長七郎の調査の為であるが、誰にも知られてはいけない事だったので、
「武甲山測図」という名目で、幕府から多くの使者を派遣するも、
奇妙な行動であったと記されている。
隠密は宿泊する宿には泊まらず、当時の宇根名主の勘右衛門と猟師の3人だけで、
こっそりと武甲山を案内したと記録されているのだ。

ちなみに、この時立ち会った名主が私の先祖なのだ。
よく横瀬を代表して江戸まで峠を越えて歩いていったと。足の早い即道さんみたい。
この時代に、中国まで仏教の勉強をしに旅行をしていたというのだから、
よほどの経済力と知識があった方なんだろうと思う。
おそらく、武甲山の信仰という意味での土地の権利(影森まで?)を所有できる力があった為か、
横瀬の名主を頼まれて、移り住んだという話もある。

さて、長七郎伝説については、ここでは割愛しますが、
なぜ、長七郎という人がわざわざ武甲山まで隠居していたか?

徳川家康の鎮守としていた武甲山であったからこそ、
長七郎という徳川家の血を継ぐであろう人は、家康の欣求浄土を望んで、
武甲山まで逃れてきたのではないだろうか?という歴史ロマンが広がる。
戦乱が絶えない時代、持山寺での隠居がどんな気持ちであったか、知る術もないが。

武甲山は、活躍した武将たちの平和の象徴であり、
戦争の無念さから逃れるために、武甲山に浄土を託したのでした。
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武甲山の水神 2

2014-09-20 | 武甲山
はるか昔、関東平野は湿地帯で葦が生えているような所であった。
氷河期の前は、温暖な気候で緑豊かな沼や湖も出現し、
水鳥が飛来し、動物が多く生息すると山のハンターである狼も増えていった。


武甲山

武甲山はいろんな信仰により時代が変わる度に神々を変えられている。
しかし、武甲山は本来は無神であり、それは両神山も同じく。
なので狼信仰ではない。
山そのものをご神体とする。
地球の化石といっても過言ではないくらい、1億年以上も前の岩石があるのだから。
それに、武甲山はハワイ諸島から断層が長い時間をかけて海底から移動し、
関東地方に最初にぶつかって隆起した山と聞いた。
それは龍の背のように沖縄諸島まで続いているという。

秩父帯は、関東平野~赤石山脈の諏訪湖、天竜川などを含む山脈、
熊野がある紀伊山地、四国八十八か所や四万十帯を代表する四国山地、
日向国があった宮崎県を含む九州地方そして沖縄諸島。
1500kmにわたるジュラ紀の(2億年~1億四千年前)帯状の構造地帯である。

縄文人や海人族の歩いた道はもちろん、鉱石を求めて歩いてきた産鉄族は、
この地層を頼りに九州~関東平野へ渡ってきた。

その一番最初に日本列島にぶつかって隆起した島が、千葉県と茨城県の房総半島であり、
昔は鹿島灘という湾があり、それを「古鬼怒湾」とよんでいる。

武甲山も含めた秩父がその一帯であったことを諏訪も熊野の修験者たちのみならず、大和朝廷も知っていた。

その鹿島灘は、古墳時代の日高見国であった。

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武甲山山頂の御嶽神社

秩父では丹生一族が和銅を開拓したので、丹党という武蔵武士団が秩父で勢力をふるっていた。
時代背景はよくわからないが、東北のエミシ征伐で陸奥国へ来ているのでそれは後ほど。

妄想だが、茨城県が日高見国であったことを考えると、ヤマトタケルが伊吹山の蛇や、
氷雨、猪など説はいろいろだが、「イフキ」がきっかけで亡くなっている。
このイフキは伊吹山ではなく、茨城県にいたイフキ族であったとしたら?
と考えるとちょっと見方が変わる。

ヤマトタケル伝承がイフキ氏によって消され、その舞台が茨城県で、ヤマトタケルは必要になくなった?
から大和へ返し白鳥にした。
というようなことを物部氏や多氏たちが言い伝えてきたとしたら?

伊福部神というのがあり、イフキとよみ伊福部氏族であるといわれ、イは「鋳」の意味がある。
オオナムチの子孫?とか。史料では系図の中にニギハヤヒがあるが、
エミシ(東国)征伐で景行天皇の時代に加わった氏族と伝わる。

その鉾田には白鳥伝説がある。
また、茨城県鳥取部は「白鳥を捕獲し献上するために置かれた部」
であり、昔の河内郡浮島村であるという。
そういえば、秋田物部氏の租である那加世を出羽へかくまった人も鳥取という名前の人だった。
鳥の声が愛すべきものと景行天皇が捕獲を命じたと伝わる。(常陸風土記)
国造はタケカシマ=タケミカヅチで、ここにいた二人の酋長を侵略した。
縄文時代から住んでいた国栖(くず)を勢力下に置き、鹿島神宮を造ったと。
その祭事をしていたのが多氏だった。

茨城県鹿嶋市、鉾田には製鉄跡があり多氏の痕跡がある。
多氏は秩父へ丹党よりも早く入ってきたかどうか定かではないが、
丹党が羊太夫伝説と関係しているならば朝鮮からの渡来人で、新羅系と高句麗(多氏)と異なる一族であったかもしれない。

岩手県の浮島古墳を思わせるような三峰神社を祀る送仙山を考えると、やはり日高見国であった茨城県の
鹿島神宮と関係しているのでは?



武甲山山頂の白鳥神剣神社

日高見と常陸について-------------------------------

武内宿禰がみた常陸は、広大で田植えに最適な肥えた原野であった。
霞ヶ浦~常総台地(千葉)にかけて製塩遺跡や土器が出土している。(縄文晩期頃)

ヤマトタケル征伐で何人かの捕虜を連れて帰る話。
日本書記には、エミシを残らず平定し日高見国より引き返して西南方の常陸を経て、
甲斐国に至り酒折宮に滞在。

「ヤマトタケルの叔母(倭建命)がおり、エミシがうるさくて困るので、
ここに置いておきたくない、という。大和朝廷にエミシを全部贈ると。
贈られたエミシは、三輪山の側に置くが三輪山の木をことごとく切ってしまったので、
この横行ぶりに何とかしてもらいたいと天皇に訴える。
仲国の大和に置くわけにはいかないから、他の郊外にやれ、との命令。
結果、エミシを播々、讃岐、伊勢、安芸、阿波の五国を配置した。
これら五国の佐伯部が彼らの先祖になる。」


「日高見の源流 その姿を探求する 菊地栄吾」著によると、
神宮といっているのは、伊勢ではなく鹿島神宮であり仲国とは「那珂」ではないか?と。
(九州にも神功皇后がみぞを掘って稲を育てた話も那珂川とよぶ。)
水戸周辺に流れる那珂川の西に、愛宕山古墳があるがタケカシマ(タケミカヅチ)の墓という伝承もある。

エミシたちを鹿島~大和へ連れて行く話では、御諸山(みもろ)であり、
全国にある山名だが、三輪山とは限らず茨城県にある「くれふし山」であるとの説。
この山も蛇を生んだ妹の話がある。

---------------------------------------------------------

大滝

水神とは話がそれてしまうが、
美濃に多臣品治がおり、この人が多氏の系統といわれる。
古事記を編纂した太安麻呂の父らしいが、多氏は神武天皇の子とも。
神八耳井命という名前であるが、このへんよくわからない。
ただ、系統は神武天皇。それがミシャグチの諏訪と秩父が深い関係があることを考えると近いと思います。

秩父の宝登山は神武天皇を祀っていると聞き、他にも若御子皇子(神武天皇のこと)の神社もある。

地名では、太田、太田部、久那、別所などは多氏と関係しており?産鉄族の地名でもある。
秩父の椋神社や猿田彦神を祀る神社が多いのも、ニニギの天孫降臨や
神武東征の話を、猿田彦神(国津神)が天津神の道案内をしたことと重ねて崇めた氏族が秩父には多かったと思います。

元は国津神であった氏族が大和に寝返ったけれど、氏神はそのまま継承するといった
ようなもので、産土神はそのまま信仰していたと思います。

また、芦ヶ久保の「保」も国府の置かれた所の地名にあたるので、
羊太夫が住んでいた伝承もあることから、丹生一族かその前の多氏などの河内からきた氏族が住んでいた可能性もあります。
また、ここもヤマトタケル伝承があり、足を踏み入れた場所=足ヶ窪=芦ヶ久保になったという。
この周辺にも「日向」の地名もあり、長者屋敷伝説もある。
かつて火炉を使っていたタタラ製鉄が由来にあり、砂鉄の収集をしていた人のことを言うそうだ。

多氏のルートは、「産鉄族の多氏 柴田弘武著」より、
下野国~茨城~那賀後、後に那珂川へ下り水戸へ移す。ここにある大井神社は多氏であるとされる。
それ以前は九州へ上陸した海洋民族であり、九州~鹿島へいった。
日高見国とは、常陸風土記では旧信太夫(シダ)郡であった。

このルートに装飾古墳が点在しており、福島県相馬~宮城県北部まである。
福島県相馬市の妙見神は秩父神社の妙見神と縁が深い。

相馬の中太田にある太田神社は、相馬妙見神社といわれる。
三妙見のうちの一社で、里宮とも称する。
祭神は天之御中主神。1323年相馬重胤が相馬郡から陸奥彷方郡太田村に妙見神を移住。
居を構え、別所館の跡地とする。
神職の姓は江戸時代まで「多」姓であったそうだ。
これが太田地名の多氏と考えられ、別所は俘囚となった人を移配した所といわれる。
多氏はその征夷に参加した。


---------------------------------------------------

昔の女性巡礼者背後に武甲山

武甲山は滝神で龍を祀ることから、それだけ古い山にふさわしい神は女性であり瀬織津姫(セオリツヒメ)になるだろう。
武甲山が島であった一万年前には、縄文人も住んでいた。
その頃は、武甲山が陸にあった。

古代の武甲山を考えると、セオリツヒメとニギハヤヒの日神を祀り、荒川の水が祓い川と
され海に流れ出て清らかな水に変えてくれる。
それを祝うのが夜祭りの七夕様。

夜祭りが12月3日でなければならないのは、その時の星の位置や宇宙の宿図が関係している。
詳しくないのでわからないが、疫病などの悪い神を払うことが目的としてあるだろう。

持統、天武朝の頃から特に大和に対抗するものたちを封じよう。と、香香青男という星神や滝神の女神も消されてしまった。

でも、その後、亀に乗った妙見様が現れる。
セオリツヒメの復活?
いずれにしても陰陽道にも祓い神は続き、武甲山が秩父の祓い神となった。


秩父市内に流れる武甲山の伏流水。柞(ははそ)の井戸

また、武蔵の一団であった秩父丹党氏は、秩父の和銅から東北へ向かっている。
意外と知らなかったあの山にも?
次は○○山の伝説~。
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武甲山の水神 1

2014-09-18 | 武甲山
アイヌ語で「トペ」は、女神のお乳や母乳といった水神を表現していると聞いた。
巫女がトベやトメになった語源はここからなのだろうか?
昔は栄養失調などで母乳が出ないことが多く、そうなると子供が成長しないから大変だった。
秩父に梅ヶ井の井戸があるなど、母親の子供を育てるために必死だった時代が伝わってくるし、
秩父は乳でもあるから、札所が置かれ女性が多く参拝したという歴史があるのがわかる。
母のための巡礼地に秩父があるのは、水神がいたから。。。それが武甲山のセオリツヒメだった。



武甲山も滝神で龍神を祀るのだから瀬織津姫(セオリツヒメ)なんだな~と、わかった。
山頂にある白鳥神剣神社は、二ギハヤヒなのかもしれない。
太陽神の二ギハヤヒ(アマテラス)と、水神のセオリツヒメは一対。

横瀬町資料館でみかけたのだが、武甲山にたくさんある岩には名前がついている。
その中に、大蛇窪とよばれる上あたりに三輪(美輪)神の名称があった。
あれ?と思ったのだけど、今は全く武甲山にオオナムチの気配がない。
かつて、武甲山には三輪信仰があったのだ。

井戸水の神や龍神も元は、ひとつの神であり、アマテルの日神とセオリツヒメの水神は一体として男神、女神と考えられるそうだ。
ということは、牛頭天王のハリサイニョが「2番目」の后にされている(スサノオの)のは、
最初は1番目にしていたのを2番目にされた。
それも消されたセオリツヒメと同じような感じがする。

高麗駅(西武秩父線)にあるチャンスンの文字、「大将軍」は、牛頭天王の話でもありましたが、
韓国語のムーダン(シャーマン)の意味であり、武塔神であり「武」は「巫」の意味と同じ。
奈良県にある大将軍神社の主祭神は、セオリツヒメ。

このチャンスンは塞神というもので、ここから先はエミシの地ですよ~、という印であったかもしれない。
この塞ぎる神というのは、星の運行の説が有力で、悪い星めぐりになると、病気や災害など混乱が生じると考えられていました。
その星が金星(太白)であり明けの明星。
それはカカセオでありセオリツヒメとなる。
水神などの荒神とされた女神を排除することに積極的?だったのが、持統天皇といわれ、縄文神を排除してきた。


荒川

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「エミシの国の女神」菊池 展明著を読んでいて、秩父と似ている所があった。

私は以前はあまりセオリツヒメに関心がなく、興味がなかったので特段気にしていなかったのですが、
7月の蜂子皇子ご開帳の時から、度々、セオリツヒメなのかどうか?水神と縁のある場所へ行くことが多くなった。
この本との出会いも偶然で。

それは最近気付いたのだけれど、先日湯殿山へ行くことになり…これまた不思議な流れで。

それから、熊野が信仰してきた水神とは何だろう?ということを考えさせられる出来事が増えてきたので、
菊地著を参考に妄想してみました。。。

すると、武甲山がどうしても出てくるのです。

陰陽道では、天神地祇(てんじんちぎ)は、天津神と国津神という全て?の神々を祀るのだが
、秩父神社がそれを継承している神社になっている。
ということは、かつては国津神であった秩父が、天孫降臨で天津神の地にされたということがわかる。

秩父と似ている話が、河内国(現:愛知県)にあった。
「三河のアラハバキ」と称して、このあたりでは天御中主神を主神としている。
石巻山(いしまきやま)という名前の山があり、三角すいで巨石の山。
オオナムチを祀り、元は、美和郷にあたり、三輪山のルーツはここからきている。
三河国のアラハバキを祭る本宮山(ほんぐうさん)は、砥鹿神社(とが)奥院の岩座。
オオナムチとアラハバキ(荒羽々気神)を一緒に祀る。
三河最古といわれる石座神社に豊川が流れており、地主神の天御中主神と伊雑神(いぞうかみ)と
アラハバキ、タケミナカタの末社を祀る。
伊雑神は、伊勢内宮荒祭宮と同じで大年神の太陽神とされる。
これは、アマテラスと一対神のセオリツヒメの総称神だといわれている。
(参照:エミシの国の女神より)



例えば、秩父にあてはめると武甲山がセオリツヒメ=アマテラスで、荒川は豊川(三河でいう)。
荒川を織姫が下る銀河と見立て、秩父神社(天御中主神)男神と出会い国づくりの密会を受ける。
大国主の国譲りと同じだ。
でも途中で、諏訪神(国津神)がいる。諏訪の女神に対する後ろめたい気持ちがあり、
諏訪神=タケミナカタへの忠誠心を無視して天津神についた(国譲りをした)
国津神の神話が、秩父夜祭に隠されていると思うのだが・・・。

だから、諏訪神の近くを通る時は、屋台囃子の音を止めるという伝承があるのは、そういう配慮からであると。

元は秩父は諏訪神のミシャグチやモレヤ一族の領地でもあった。
それは縄文時代から続いているものだと思う。

出羽三山の羽黒山の滝近くには、大年神を祀っている。
それは、熊野信仰がセオリツヒメを祀ることに等しく、那智の滝はセオリツヒメであり、
出羽三山はその滝神を祀っていることになる。

簡単に考えると、持統天皇は女性だから嫉妬もあると思う。
セオリツヒメという水神を崇める人たちの巫女的な存在やパワーというものや文化、風習の異なる
自然信仰に何となく敵対心を抱いていたと思う。
しつこくそれを消そうとしていた持統天皇は、役小角にも助けを求めているくらいだから、よほど、嫉妬していたのでは?
(持統天皇の三河行幸は、701年~703年頃と考えられている。)
このあたりから、積極的なえみし征伐の時代に突入。


大滝の不動滝

------------------------------------------------
オオナムチとは、大蛇の穴のことで蛇体伝承であると石巻山は伝えている。
三輪氏は賀茂氏と同族とされ、三河の尾張国まで統一していた。
また、秩父蓑山の山名由来と思われる美濃国にも三輪氏と同族の多氏(オオ)がいた。

この多氏が秩父に深く関係していると思います。
武甲山に龍神の話をもってきたのは、多氏かもしれません。
多氏については、後で書きます。

実は、伊勢も東国に入るエミシの入り口でした。
関東も東国でエミシの入り口。
だからヤマトタケルの伝承がある。
伊勢にもヤマトタケルの叔母である「倭姫命」によりアマテラスが祀られているとの伝承があり、
大和から伊勢へやってきたという経緯を正当化する意図があって考えられると、著者は伝えています。

ということは、秩父の宝登山や三峯神社も同じようなもので。



三峯神社の由緒-----------------------------------------------

「当社の由緒は古く、景行天皇が、国を平和になさろうと、皇子日本武尊を東国に遣わされた折、
尊は甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中当山に登られました。
尊は当地の山川が清く美しい様子をご覧になり、
その昔伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)が我が国をお生みになられた
ことをおしのびになって、当山にお宮を造営し二神をお祀りになり、
この国が永遠に平和であることを祈られました。これが当社の創まりであります。」


伊勢の東国計画に秩父も含まれていた。
三河も東国のエミシの入り口で、山間は異界。

岩手県の三峯神社は大和側の軍神、八幡神社と同じように征伐してきた神社で昇格している。
だから、エミシにとっては敵になる。
けれど、元は三峯神社も宝登山も、砂鉄や鉱石、大滝では砂金もとれたと史料にあるので、
縄文遺跡も多いことから、先住民が住んでいたところであった。
三峯神社は元は、アラハバキであることも地元の人から聞いている。
ただ、そのイワクラ(アラハバキ)がどこにあるか不詳。
実は、ごもっとも様の風習だったりして。それもそれで面白い(笑)

後にエミシ征伐の対象とされているのだから、秩父も伊勢と同じようにエミシの入り口だった。
今の三峯神社は、東北へ行くと邪教とみられている。
実は、同じエミシの国だったにも関わらず。

岩手県に置かれている三峰神社や三峰講の碑は、狼が多く生息していたところや
セオリツヒメの伝承が残る所にあることを考えると、
三峯神社が本来は滝神でありアラハバキを崇めていたと考えてよいと思う。
「大滝」という地名があるように、滝が多いのだから熊野信仰が注目していた土地でもある。
熊野信仰から秩父の札所観音霊場があるといっても過言ではない。



三峯神社の由緒の続き------------------------
 
「その後、天皇は日本武尊が巡ぐられた東国を巡幸された時、上総国(千葉)で、
当山が三山高く美しく連らなることをお聴き遊ばされて「三峯山」と名付けられ、
お社には「三峯宮」の称号をたまわりました。

降って聖武天皇の時、国中に悪病が流行しました。
天皇は諸国の神社に病気の平癒を祈られ、三峯宮には勅使として葛城連好久公が遺わされ「大明神」
の神号を奉られました。
又、文武天皇の時、修験の祖役の小角(おづぬ)が伊豆から三峯山に往来して
修行したと伝えられています。この頃から当山に修験道が始まったものと思われます。」


役小角の伊豆からの秩父入りも謎。
伊豆神社は遠野にあり、(出羽三山にもあり、宮城県では悪玉姫の伝承がある)伊豆の神様もセオリツヒメ。
秩父が早くから養蚕を行っていたのも、セオリツヒメの伝承と一致する。
このへんは、長くなるので後で。



話は三河に戻り、武甲山の名称由来の中に、兵庫県六甲山の武庫山(むこやま)説がある。
六甲山を領地としていた廣田神社は向津峰とよんだ。
廣田神社の祭神は、セオリツヒメ。
むかつ=むこ(武庫)=六甲になると。明治時代からなので比較的新しいが、
武甲山をセオリツヒメと見立てているから、六甲山の武庫山が同じであるという伝承が生まれる。

また、武庫山と武甲山に共通している伝説が、「藤がはえない」という伝説。
武甲山は山姥の話があるが、他に秩父にいた畠山重忠が松と藤は生えないという話もある。

武庫山も藤がはえないとの伝承があり、その理由が、
山頂で戦う日神と大国主の領土争いは、決着がつかず藤カヅラに石を結び、
その石が落ちた方がその土地の領土を治めると約束。
その石は天日槍(ニギハヤヒ)は出石地区へ、大国主は因幡へ落ちたと。
これが国譲りの話を武庫山に模したようなもの。

「むこ」は、「むこう」からきている話もあり、
畿内からみて向こうにあたる場所とか?

また、藤は「ふち」で淵であるとの説もあり、蛇の木が藤=淵であるので、
オオナムチのことだという。


長瀞:埼玉県自然史博物館。産鉄族にとって豊富な鉱石がある秩父は魅力的だった。

大国主やら大物主やら、ごっちゃになるのだけれど、
簡潔にいうと、国譲りをした大物主を消すために、大国主という名前をつけて復活させた、という。
オオナムチは天孫系よりも先の三輪信仰の国津神であると。
国譲りの助っ人はスクナヒコだけれど、第二の助っ人に大年神やセオリツヒメの別名
の女神などがいるが、名前を消すために、記紀を編纂したといわれます。

秩父神社再建の由来に、2つの説があるのは、天武・持統時代、オオナムチ(大国主)を祀ることにし、
国津神から天津神にした(征服した)土地神に変える為だったのでは?と思います。
でも、三輪氏の祖である天御中主神は消せなかったのでしょう。

じゃ、こんなスケールの大きい話を武甲山にもってきた人はどんな人だったのか?
それが一つの説として出雲系ともいわれる最古の氏族、多氏の存在があります。
秩父は九州からきている豪族の痕跡がある。

母系が出雲だといわれる多氏ですが、調べてみると物部氏と重なります。
物部氏と同族のように思いますが、そのあたり定かでなく。
物部氏と一緒に行動していたともいわれ、最初に鹿島へやってきて鹿島神宮の祭事を
司る位置にいましたが、後に中臣氏にとられます。
そのまま茨城県~福島県相馬~宮城県北部までいきますが、
その痕跡は、横穴式石室というもので幾何学模様を残した石室でした。
発端は九州の熊本県。


武甲山麓にある鍾乳洞。オオカミの骨が発見された。(埼玉自然史博物館)

埼玉県にある渡来系氏族が残した横穴式石室。

秩父郡皆野大塚古墳と金崎古墳
秩父郡大野原古墳と氷雨塚。
埼玉県東松山市石橋 若宮古墳
埼玉県行田市荒木小見観寺古墳
埼玉県行田市藤原町 八幡山古墳
埼玉県比企郡小川町増尾字岩戸 穴八幡古墳
埼玉県児玉郡児玉町 稲荷塚古墳と庚申塚古墳など。

ということで、水神は続く。
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武甲山という祖霊

2014-02-13 | 武甲山

大国主は人で、大物主は霊力だと考える人は多い。
私もそう思う。

国は、巨大な集合体。

物=モノは何だろう・・・。

想念などで生まれたものが物質化されて・・・という説明があるようだが、モノが形になって現れる場合や、目に見えない霊的なエネルギー体のようなものが人を成長させているという事実もある。

悪い方へ流れる人もいれば、良い方へ流れる人もいて、モノを流動的に自由自在に操っているのは自分自身の中にある。

その存在が何かはっきり説明できることはないが、「もののけ」や「もののふ」という言葉があるように、武士という意味のある「もののふ」でも、「物が生まれる前は何もないモノ」だったことを起源とする意味がある。

オオモノヌシは、その巨大なモノが生まれた時にあたる。

地球そのモノと考えることもあるし、山全体を神奈備というのも、神を導くモノの意味があるからだ。それは天にも導く意味も含める。

武甲山がそのように見られるようになったのは、荒川が死者を導いていたからだろう。

そのようなモノに気付いている人たちは武甲山に何かを感じている。

秩父は荒川があるように、長い歴史をみると墓場であったかもしれない。
死者を弔う場所だった。

奈良時代、始めて火葬にしたのは持統天皇だった。それ以前は、貴族など位の高い人は土葬だった。子供や病気のなかった人は、川へ流した。病気や伝染病で亡くなった人たちは火葬であった。

荒川に人身御供としてささげる風習はかなり昔からあり、そのようにして自然災害を防いできた。
荒川に限らず、横瀬川、生川もそうだ。

生川は、武甲山の麓を流れるため、名前のように「生まれる川」になっているわけだ。

多くの人が身投げし、神に自分の身体を捧げるという風習もあった昔・・・
敵から逃れるために、奥秩父まで逃れてきた氏族もいる。

秩父は武蔵の終焉地だった。
武蔵国があった時、秩父は墓場(死へ向かう土地)だとみていた傾向もある。
だからあまり武士が近づかなかった、という話もあるし、山人が住む場所に武士は近づけない
何かがあったのだと思う。
「あそこには何もない」と言っていた古代人は、死に近いところだと感じていたかもしれない。

秩父の人たちが堅いのは、そういう風土で育っていることがあるからだ。

そう考えると、秩父は端山・深山信仰の構図にも当てはまるのだと思う。

Buko01

「山形精神文化考:千歳 栄氏」より---------------------

死体を葬る→霊は山に昇る(里山)→33年を経て深山(葉山・羽山)に昇る→深山→さらに天に昇る。

山形県は強盗や殺人などの凶悪犯罪が日本一少ない。
背景には、道徳心の高さがあり山が育んだ山の信仰があるからと思います。
出羽三山は、自然崇拝と祖霊崇拝の二つが残っているとされています。
この二つの信仰は、人間の信仰心の二つの核で、哲学的な意味も含んでいます。

人間の命は親がなければありませんし、親もさらにその親の命がなければなりません。
その命も空気、水、動物など自然の恵みがなければ生きられません。

そう考えると自然崇拝と祖霊崇拝は、人類存在の基層になるのではないか、と思います。

神は国家神道や神社神道ではなく、自然の神です。
仏は仏教の仏ではなく、先祖の霊です。

----------------------------------------------------------

出羽三山の標高の高い月山でも、地元の人は里山とよぶ。
その信仰心の深さは、山形県が日本一だと私も思う。

写真は月山山頂付近にある「八絋一宇」の碑。
大正期、国家神道を思う人もいるかもしれないが、月山にあることを考えると、もっと深い意味がある。

日蓮主義者の田中智學という人が使った言葉だが、

「日本国体の研究」に、「人種も風俗もノベラに一つにするというのではない、白人黒人東風西俗色とりどりの天地の文、それは其儘で、国家も領土も民族も人種も、各々その所を得て、各自の特色特徴を発揮し、燦然たる天地の大文を織り成して、中心の一大生命に趨帰する、それが爰にいう統一である。」

八絋は、8つの方位又は点を結び、一宇は、一つの屋根の意味がある。

Tuki

武甲山の麓に「宇根」の地名がある。
宇のつく地名には、屋根の意味もあるのだろう。
根古屋の「屋」もそうで、武甲山周辺に「宇」や「屋」の地名があることに、信仰の深さを感じる。

武甲山も信仰の山。
そこに住んでいた先祖が武甲山を崇めていたのだから、私は武甲山も祖霊としてみている。
武甲山を祖霊とするからには、先祖もどこか、そこにオオモノヌシの「モノ」の主を感じていたと思う。

その人を通じてみた時に見える武甲山の姿が、祖霊になるのだという。
私の場合は、武甲山は天使にみえる。少女のように幼い。
ある時、そのビジョンが夢で現れた時に、偶然にもその話をする機会を得、ある人から教えてもらった。それは私という体(肉体)を通じて見た時の武甲山の姿なのだ、と。

特にクリスチャンではないのだが、処女的な純粋さを武甲山に求めるならば、天使の姿に変わるのだろう。

他の人では別の姿に見える。
ある人の声から、スサノオに感じたこともある。
武甲山は七変化。

でも肝っ玉母さんのように、いろんな人たちにいろんな役目を与えることもする。

秩父へ何度も足を運ぶ人は、いろんな人生を経験している。
そこからいろんな事を学んで、別の場所で開花させている人もたくさんいる。

私も実際そうやって教えてこられた。
だから、オオモノヌシという武甲山の祖霊は人をいろんな所に飛ばしていろんな役目を与えているようだ。

そこに武甲山の魅力を感じている人も多い。

では、その武甲山の原動力は何だろう?

崩された結果、いろんなモノが中から出て来ているような気もする。
それはそれで良かったのかもしれないが、あの武甲山の持つ力とは何だろう・・・・

秩父古生層に隠された謎?武甲山、両神山、三峰など、その歴史を解いていくと・・・レムリアになるのだろうか?

それがその大地に育まれた自然環境もあるし、永い歴史を生きてきた人たちの叡智みたいなモノが吸収されている場所が、実際あるのだと感じる。

Buko02
それに気付いている人は、どんどんその場所へ行って開拓する。
それがオオモノヌシの計画でもあるだろう。

この想いだけは親子の絆みたいに、大地と人との絆が深い根っこで繋がっている。
古代の人たちは、必死に陰陽師や風水、占いなどでその根っこを取りたがっていたけど、
今、だんだんとそれがもっと太い根に育ってきて、とうとう大きな芽を咲かそうとしている時期にきている。

嬉しいね!!

占いも祈祷も必要なく、何もせず。
当たり前のことが当たり前であるシンプルな自然の掟がある豊さを、秩父は持っていると思う。そんな事を日々、感じる秩父の風土。

東北にいればいるほど、秩父が理解できる。 

繋がっている証拠なんだ!

(写真:木の根に置かれた石灰石)

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レムリアのゆりかご 武甲島

2014-02-02 | 武甲山

-------------------------------------イネハポ発起人 わたなべみよこ

長瀞の自然博物館に行って、あらためて秩父の土地柄というか、ジオパーク的に、地質的に、岩盤的に、スピリチュアル的に、妄想のままに秩父を見直してみた…

関東の、人がいっぱい住んでいる平野の部分というのは地質的には比較的新しい新生代の堆積層からなっているそうだ。

それに比べて、埼玉の西に広がる山たちには、古代の地層が表出している。

山は平野より古いんだなって、実感できるのが秩父。

太古と繋がる場所が山なわけ…そう思うと、
なんだかやたらに山に行きたがる私の中の衝動も理解できそうな気がしてくる…
古い方へ古い方へ行こうとすると、いつのまにか山の中にいるんだなぁ…笑っちゃうことにね。

古代の秩父湾から望む山は、山ではなくて『島』だった。

豊かな海が広がっていたに違いない。

鯨が回遊し、珊瑚が広がる、海。

その島は、石灰の山になり、海の引けた湾は盆地になって広がった。

Photo_2(C)イネハポ
 

太古の武甲島(ハワイ島から移動し隆起した岩盤が日本列島にぶつかり、秩父湾ができる。両神山(右後方の山)と武甲山は島となった。

関東平野は海だったけど、それが湿地になりやがて乾いて、いまある風景になっていく。

利根川も、荒川も、流れている場所は、海の底だったところ。海の名残。

秩父の山はたっぷり水を保ち、記憶にある懐かしい海へ繋がろうとして、川となり、そして様々な堆積物を運び、関東平野を作った。

江戸も、東京も、そんな上に出来た人間の町。

山の恩恵が人間の営みを支えた。

山にはイワクラがあり、そこを祀る祠があり、修験が札を収め、守る。

山の上では古くから祭祀が行われ、それは、その場所が古く神聖な古代の祭祀場であった
名残なのではと思える。。。いや、きっとそうなんだ。
山には独特のエネルギーがあり、平野とは異なる時空間を持っている。
まるで異次元に通じるような曲がり方をしている場所があったり。
突然、空に向けてカーッッと繋がっている場所があったり。
地にずぶずぶとめりこみそうな場所もあったり。それはもう、リアルテーマパーク。
間違うと命を落としかねない場所。

秩父の札所はそんな地質的なエネルギー特異点に建てられている(ような気がする)

昔の日本人は場のエネルギーに敏感で、そういう特異点を見つけては祠を建て、祀っていたもんだ(多分)
古代と繋がるということは、日本という場のエネルギーと繋がること。

だから、古くなくてはいけない。新しいものではない。古いものの中に、大事なものが隠されている。

日本列島は龍体だから、その龍体と繋がりが断たれてしまうと重篤な問題におちいる。

…戦後産まれの日本人の多くが、日本との繋がりを断たれてしまっている。
『今』という時代の問題のどれもこれも、龍体との繋がりがなくなってしまったためと思う。
あ、戦後生まれでなくても、今の政治家とかって、めっちゃ日本人の精神性無くしてるよね。
あれも結局そういう事から来てるのかもしれないな。

日本人の精神性って、けして低いものではない。

むしろ高かった。

目に見えないものに対する尊敬や、感謝、謙虚さを持っていた。

それこそが、肉体を持つうえでの「支え」だったのに。

最近、日本との繋がりを再構築する為のあれこれのスピ系セミナーも多く。

っていうか、結局わたしたちが癒されるには日本と繋がる事が一番じゃあないんかぃ?って思うわけで…

だから、古い場所、古いエネルギーに触れる必要があるんではないのか…
と、思うの。

いきなりだけど、レムリア、という時代があったと思う。

(ここからはだいぶ妄想が暴走してるので注意だ←何を?)

Old_2

古事記にあるウガヤフキアエズ。

それって、ウガヤちぅ王朝があってそれは結局レムリアの王朝だと思うわけ。
(ウガヤの母は「わたつみ」の娘で、龍体でウガヤを産んだ)陥没したふたつの国の話、
オリハルコン=ヒヒイロカネ(とんでも話ではよく云われていることですけど=竹内文書)
ということは、日本人は龍の子孫ってことでしょう?レムリアの子孫。

そして、上古では女性が支配し、呪術的で大地的で神霊的だった。

日本のあちらこちらに、レムリア人の残した(隠した)ものがあって、それを感じた修験たちが祠を建て…てってことじゃないかなと。
日本人のDNAの中にレムリアの記憶があって、それと繋がることで修験は謎の一部を伝えたってことじゃあないかなと。

秩父とのレムリアのつながりを考えるなら、秩父湾だったころの古代の記憶。

途切れなくわたしたちはつながってる。DNAという鎖で…

そいで。。。。

私の秩父通いの中で思った、秩父の土地と秩父のひととなり。
秩父の人たちはあまり現世に興味がなさそうに見ゆる…あの世の事には凄く熱心なんだけどね。
秩父地方の祭りは年間で400種類以上あって、一日一つどころの話じゃあない。
見えないものに対する思いも濃い。『秩父夜祭り』を見れば解る。そこに費やすエネルギーって見事。
それはもしかしたら、この世界の仕組みを知ってるから……かも???みたいな?

  現世の儚さ、もろさ、嘘

などなど。
だから、目に見えない世界を大切にする。

秩父の人達はいにしえの王国の名残を知り、だから妙にプライドが高く、現世にはあまり興味がない。あのヤルキのなさは見事ですね。
駅前にコンビニなんかないんだから。そんなもの必要無いって知ってるのよ、きっと。
でかでかしたマンションもひとつも無い(地元の人が言っていたけど、秩父にはバブルが無かったそうな)。で、妙に文化度が高い(あ、誉めてるんですよ!)

その秩父の人の拠り所の武甲山。

それが見事に破壊されていて、胸が痛むけど、これもまた複雑な過去との絡みがあるような気がする…

私もあの姿を見て、何度か泣いた。

秩父が目覚めるとき、きっと世界を面白くさせる。

きっと、秩父の人も、繋げて来た目に見えないたいせつなものを世界に受け渡す事ができれば、すごく癒されると思う。秩父は、それをたいせつに守ってきたから。

頑固中の頑固で、現世に興味なくて、プライド高くて、古代を受け継いでいて、観音霊場。

これだけ揃ってたら、やっぱりなにかあるって思います?

あと、さんかの民なんかも気になります。

何かを受け継いでいるとしたら、そういうペイガン(異教徒)的な人々にじゃあないかな。
ペイガンって、ケルトでもあるのか。先住民だよね。先住民の血ってことかな。
秩父からそれが復活するのか。

先日「低炭素町作りフォーラム」で「秩父から世界へ」のフレーズがあったけど、
まさに今それが始まってるようです?すげー

-------------------------------------------------------------Watanabe Miyoko

OLD SPIRIT http://www.geocities.jp/singa2012/3.html

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スサノオの武甲山

2013-12-02 | 武甲山

数年前の体験。
秩父夜祭になると思い出すこと。

Buko01_2

今だから話せることかもしれない。
賑わい塾が秩父で開催されたとき、みんなで登った武甲山。

山頂での祈り。

一緒に登った現沖縄大学長(野本さん)の力強い声が響きました。

御嶽神社裏の祠で皆で集まりしばらく数分の沈黙後、先生は、

「ひとつをふたつに、ふたつをよっつに、
よっつをやっつに・・・別れるな。

ひとつになれ!」

という言葉を伝えてくれました。
その太くて低い声がとても力強く、魂が揺さぶられたようで、そこにいたみんなが泣き始めました。

それは武甲山に対して申し訳ないという罪悪感のようなものではなく、強くて凛々しい言葉から、

その声の主が武甲山であることを悟ったからです。
野本さんを通じて初めて武甲山と繋がり、実は武甲山は強いのだ、と。

でもあの時、神話にでてくるスサノオらしい声だと感じたのは何故だろう・・・。

そのメッセージの意味は、みんながバラバラになってはいけない。
と、私は解釈しました。

参加者は10数名でしたが、初めて会う人が多かったけど、家族のような存在だったと思います。

その時、長年住んでいた仙台を離れ秩父に戻ることを考えていましたが、「まだ戻るのは早い」

という言葉が頭の中をぐるぐる駆け巡っていたので、しばらく仙台にいることになりました。

しかし、そのメッセージが後に痛感な響きになるとは・・・。

その2年後の東日本大震災。

家族がバラバラになってはいけないことを痛感した出来事でした。

避難所では、おばあさんと小さな女の子が、だれかを待っている姿。
お母さんは行方不明、お父さんは関東地方へ単身赴任だったのでいない。
避難所にはたくさんの子供たち。
でも職場が気になると子どもを置いて同僚を探しにいくお母さんたち。
震災後、直ぐに仕事へ向かう人もいました。

子どもたちはどんなにか心細い思いをしただろう。
東北地方は単身赴任者が多い。

そばにいてあげられない葛藤をもつ父親は増えたことだろう。

朝日新聞は、毎日一面に亡くなった方の名前と年齢を載せていました。
毎日毎日、片面いっぱいに0歳~90歳までのたくさんの命。

私は震災時は一人でした。幸い、親戚など身内は東北地方にはいませんので、

安心しましたが、あまりにも短時間で起こった大きな被害に、

生きている意味は何だろうと、仲間と語りあったものです。

何かあるときはいつもひとりだ・・・と友人に洩らしたら、

「それはそうでしょう、ひとつの所にいないのだから」、と。

その通りだ。

スサノオの声みたいだ。

帰る場所があっていいよね、と言われたこともあった。

その通りだ。
秩父があるから。

仙台と秩父を行ったり来たり。
土地に束縛されない自由な生き方。

ホツマツタゑでは、スサノオは地球。
子どものように大暴れして地鳴り、地響き、火を噴くエネルギー。
そういう時はさびしいからと、かまってほしい時。
地球(子ども)が太陽(母)に甘える時、スサノオは走り寄ってくるのだ。

スサノオが来た!!と、身構える人は昔もたくさんいました。
でも今は甘えたいのだ、と受け入れる術を持っているのが武甲山だ。

スサノオもゆっくり休みたい。
でも武甲山に降りてきてしまう。

この日がくると、武甲山は楽しみにスサノオを待っているかもしれない。

長く続く秩父夜祭。
武甲山に降りてくる神は、何でもいいだろう。
先祖の霊でもいい。

でも私はあのメッセージを、どうしても思い出してしまう。

「ひとつになれ」

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Buko02_2(昔の羊山公園)

※ホツマツタゑに出てくる武甲山
(秩父郡市医師会 「秩父とイチョウ」より引用)

古伝「秀真伝(ホツマツタエ)」によれば、景行天皇の子であり、
次期天皇と目されていた日本武尊は吾妻巡礼鍚の祈り、雁坂峠を超えて秩父に立ち寄っています。
「花彦尊は わが幸御魂 知ろし召し 川合の野に 大宮お 建てて祭らす 氷川神 戦器は チチブ山」

 

日本武尊は、自分がスサノオの生まれ変わりであることを悟られ、川合の野には氷川神(スサノオ)を
祭り、チチブ山(武甲山)には、武具を奉納したというのです。

 

川合の野とは、氷川神社のある大宮のことかもしれません。
しかし、秩父にはスサノオを祀る神社がいくつかあり、皆野町金沢の荻神社もその一つです。

 

日本武尊が当地を訪れたとき、萩がたくさん咲いていたので、
「あな美し萩よ萩」と感嘆し、スサノオを祭られたということです。

 

チチブ山に武具をおさめた伝承は、古事記や日本書紀には記載がありませんが、
秩父では古くから伝わり、日本武尊の伝承が多いことから、
場合によっては秩父に長く滞在した可能性もあります。(以下省略)

 

志半ばで倒れた日本武尊は、歴史上最大の英雄でした。
その勇ましさを考えるとき、秩父人に尊崇された武甲山と日本国民に嘱望された日本武尊が
妙にだぶってみえるのです。

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秩父の神々に向かって、出発の時を待つ宵祭り。

Titibu Chichibu_2

★明日は秩父夜祭ですよ~。今年はあったかいのかな?

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氷雨除けの護符

2013-10-07 | 武甲山

Fuda01
横瀬町資料館に展示してあったのを気づかなかったのですが、端っこに不思議な護符が。

「武甲御嶽大神氷雨除守護」
「熊野大神氷除御秡」

氷雨とは何だろう…
冷たい雨の事だけど、雹(ひょう)や霰(あられ)ともいう。
雷とも関係してたりして。

冷たい雨が作物に影響を及ぼすことによるものか、それとももっと深い意味があるのか…

秩父は焼畑をはるか昔からやっていました。
秩父に諏訪信仰が多いのは、焼畑農業を進めていた人たちが秩父に住んでいたからでしょう。
神話で火に囲まれる話は、焼畑のことを伝えていると思います。
氷雨が降らせるのは、焼畑から稲作農業への変換期の象徴もあるだろうし、異文化の交流や、中には権力者への支配に翻弄された山人もいたと思う。

氷雨を避けるということは、農作物の被害を守る意味もあるだろうし、権力者の交代という意味もあるかもしれない。
でも伝説の中の氷雨には、不思議な話が伝わっていた。

武甲山の伝説では、ヤマトタケルが兜を山頂に置いたので武甲と名付けた。
ヤマトタケルの最後は、伊吹山で神の化身である白い大猪に氷雨を降らされて失神してしまう。その後、気を取り戻すがそれが原因で亡くなってしまう。そして白鳥になったヤマトタケルは大和へ帰るのでした。
白い猪の怒りをかってしまったのは、ヤマトタケルが猪が神とは知らず、帰りに打ちまかせて戦おうとしたから。

伊吹山も石灰の山で武甲山と同じ性質の山。
ヤマトタケルは石灰山が好きらしい?

氷雨によって亡くなってしまったヤマトタケルの伝説が伝わるから武甲山も氷雨除けの護符で祈願をしていたのでしょうか?

この氷雨について考えてみました。(考えるのか…)
まとめてみると、

1.火の神を冷やす(消す)ための雨
2.「ひさめ」は女性酋長の象徴
3.女性との結界を示す

氷雨が古代にどのように考えられていたかわかりませんが、

古事記や神話などの話によると、氷雨がでてくるのは、先に説明したヤマトタケルの伊吹山と秋田県の鳥海山、神武天皇東征の時です。

いずれも、大和側?か古代王国を支えていた氏族と後からやってきた渡来系氏族が関係しているようです。

▲氷雨の氷(ひ)----------------▼

氷雨の「氷」は、「ひ」とよむ。
古くは冰(ひょう)と書いた。これは、氷の割れ目を描いた象形文字の「冫」に「水」で「冰」となった。

氷川神社も氷を使っていますが、旧漢字を使っているのが、宮城県陸前高田市にある「氷上神社(ひかみ)」です。
氷上山は信仰の山で、神社はその山をご神体にしている。
ご祭神は、衣太手神(きぬたてのかみ)、登奈考志神(となこしのかみ)、理訓許段神(りくこたのかみ)あるいは、天照大神、スサノオ神、クシナダヒメ(稲田姫命)

(あるいは、天照大神、速進男神、クシナダヒメ(稲田姫命))
この三神の名前は、アイヌ語からきているそうです。
きぬたての神は、森の中に鎮座する神、となこしのかみは、沼を超えた遠くの神、りくこたのかみは、丘の村の神。
土着神と大和神が一緒になっているみたいです。
氷上山付近の3か所に神社を祀っていたようですが、昔は境内に三峰神社が祀られていました。
現在は、陸前高田市の町(名前忘れた)に遷されています。
震災の時、津波はぎりぎりで大丈夫だったらしく今もあるようです。

氷上山の伝説では、太陽神と考えられ山頂付近では火事があっても自然に消えるので、火の神として祀られた。火=日の神ですが、なぜか氷という漢字になった。

秩父の宝登山にも火災に囲まれてしまったヤマトタケルに狼が助けて導いてくれたという伝説がある。
どちらも火に関係してる。

火と水の融合と考えた信仰でしょうか?

Yokoze_2 (横瀬町の棚田)

▲鳥海山の鬼は女性?------------------▼

鳥海山は卵生神話の山で古くから信仰の山として有名。
伝説では、慈覚大師(864年)が日本の東北から五色の光が放たれていたので、訪ねて登ってみると、鳥海山だった。
そこには鬼が住んでおり、氷雨を降らせて抵抗したので大師は、火生三昧(かしょうさんまや)
の法で火災を起こして焼きつくしてしまった。
鬼は退き、仏法を保護することを誓い、大師を先導し大路を開いたと伝わる。

鳥海山は、578年、708年~715年、それ以降の140年間は活火山でした。
噴火の話とも考えるのですが、エミシは天変地異が起こると反乱をおこすと信じていた大和朝廷の人々の恐れもあったと思います。
自然災害の度に神社が昇格するのは(秩父神社もそう)エミシなどの土着民の反乱を、朝廷の命令から鎮めたことへの報酬と考えられています。

なので、抵抗したのはエミシなどの先住民で仏法を受け入れた話だったりする。
また、鳥海山は大物主忌神を祀っている。
ここで気になるご神祭が、トヨウケヒメ。
トヨウケヒメは伊勢神宮の最もな神らしいですが(あんまり伊勢神宮のことはわからない)元はイザナミ(女性)からでてきた神様で、カナヤマヒコ、ミツハノメなどの一族となっている。

白鳥説の中で、イザナギは白鳥、イザナミは鷹。という異なる鳥のトーテムを信仰していた部族同士の結婚だとする説がある。
東北では日高見(北上)の神話が確かに多い。日高見の高は鷹のことで、タカミムスビの事だという。とすると、その5代目がトヨウケヒメとか。
タカミムスビは、熊野から大和へ道案内した賀茂建角身命で化身がヤタガラス。
味鋤高根彦と同一といわれていて、タカヒコネの高が、鷹ということも言われている。

その系譜にトヨウケヒメがいるとしたら、女性であって鷹族のイザナミの系統をもつということでしょうか?

鬼というと大体、鬼婆場で女性の話が多い。鬼爺はあんまり聞いたことがないな…。
鳥海山の鬼が女性だったとしたら、大師に導き、その路を開いたのは女性であって、外部の人を受け入れるか否かを決定した人が女性だったでしょう。
そのような女性がリーダとなる女性酋長の村があったと思います。

氷雨を降らせた鬼は、火災を消す火のおまじないのような事をしていた気もする。
火は水より強いから。
それより強い仏法の教えによって降参したということを伝えたかったのでしょうか?

また、女性だと思う理由は、もうひとつあって熊野の氷。
これはこの護符に関係しているかどうかわかりませんが、神武天皇の軍勢が、長すね彦を攻撃した時、なかなかうまくできなかった。
その時、氷雨が降り金色のトビが飛んできて弓に止まった。鷲という説もあるのだが、トビという鳥。トンビの事かと思うけれど、鳴き方に特徴がある。

その矢に止まったトビが光輝いて目がくらみ、長すね彦は降参する。

このトビの由来が、トベの女性酋長のことでは?という話。
女性の酋長には、○○トベという名前がつく。それがトベ~トメ~トネになったという。○○トメも女性酋長の名前。
利根川はトネからきている。利根川付近には土蜘蛛とよばれる先住民がたくさん住んでいたそうですが、その氏族たちは女性酋長であることが特徴なんだそう。
確かに、鹿島神社は利根川など川を挟んで三角形を造るのが好きだから、水神を意識して祀った祠は、水神の女神を考えていたかもしれない。

長すね彦のような戦いにてこずるほど強い人が降参するのだから、よっぽどだと思う。
母か妹か同じ家系の女性だったりして。
似ているのは、役小角。この方の魔力があまりにも強いので捕まえることができず。そこで役小角の母を人質にして役小角を呼びよせる話は有名。

長すね彦の話も、婚姻が関わっているかもしれないのですが、それが原因?で東北へ逃れます。

Buko01
▲ひさめの響き-----------------▼

「ひさめ」はとても女性的な言葉です。
母音がたくさん詰まっているような音に感じます。

女人禁制とは、女性との結界を置くために石を置いた風習があったそうだ。
でも仏教は女性に対して積極的で、比較的受け入れてきたのです。
秩父の太陽寺があるように女性を受け入れています。
しかし、人間の欲は離れることができず、そこに境界を設けて女性から立ちきることをしたのが、男性主体の修験にあると考えます。煩悩を捨てられない時は、その結界をくぐる・・・。
意外と自由な山生活もあったと思いますが、下界に帰りたくないから山に登ったのに、女性がたくさんいるのも困ったことだと…。
仏法により鳥海山を焼きつくしたというのは、女性に対する穢れもあったと思います。

結界を象徴する道祖神は猿田彦と結びつけられますが、これも婚姻が関わっています。
天孫降臨の時に、アメノウズメを道案内した猿田彦は結婚したという話になっている。先に住んでいた先住民と後からきた渡来人の婚姻のことだと言われています。

そのまんま素直にみたら、白鳥は白人、鷹人はアジア人にみえる。
白いものは、白い人、石灰の山は白いから白い神。
昔はそのまま考えていたわけだから、やはり異なる氏族同士の結婚が流行っていて?
そうやって日本人の血縁を広めたのが物部氏や秦氏などの渡来系氏族ではないでしょうか?

今よりは自由ではなかった時代、女性たちは必至に抵抗していたのかもしれません。
差別的に女性を排除された歴史があるから、観音霊場が建てられ多くの山神、鬼伝説など、女性を弔うようになっているのです。

秩父では鬼女を祀っている観音堂があります。(このお寺については後で)

単一民族の中で9種類のDNAを持っているのは日本人だけ。
普通は2,3種類なのだそうですが、これだけ多くの遺伝子を持っているということは、地球上の全人類を統合させたい民族を作りたかったと言っているようなものです。

だから日本の神話はいろんな人物や名前がごっちゃになってとっても複雑!
でもなぜか、世界中に伝わる洪水伝説だけは日本の神話にない。
それが日本列島に残された秘密。

武甲山が氷雨除けとして考えられていた信仰があったことだけでも大きな発見でした。
鳥海山のように、武甲山も火神と水神であったと思います。
氷雨の月神、太陽の天照神。
男性と女性の融合で子供が生まれる三位一体。
宇宙では、月と地球と引力。
宇宙の摂理に関係している山には、この三神を置きます。
秩父は武甲山だけでなくて荒川も含まれる。

やはり、武甲山は母なる山で武甲山の清水は命を産み、荒川に流れているのでした。
昔は鍾乳洞窟がたくさんあったと思うので、洞窟は胎内だから母神として祀られていた古代から、修験道ができて観音霊場が伝わり武甲山が太陽神になったと思います。

最近、角田や蔵王方面などへ行くことが増えて、白鳥やヤマトタケルの話が降ってくる。
ヤマトタケルは女性だったのでは?と思います。
実際にいたかどうか不明だということは、女性であった事も無視できない。
東国征伐で大和朝廷に帰ってきても、何も評価されず白鳥になって飛んでいったという完結は不自然だし無理がある。

今度は、総本山の蔵王山に登ったら何かわかるかも?しれません…妄想は続く。

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