秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

狼の補足情報

2015-10-08 | 東北地方の狼信仰
知人が教えてくれたサイトを紹介。

「偉大すぎるオオカミの存在」
http://spotlight-media.jp/article/193275390987195519

イエローストーン国立公園でのオオカミ復活で、自然の生態系が戻った話。
自然を戻すことができるのが、オオカミだったこと。
なぜ、人はそんなオオカミを絶滅に追いやったのか?

狼が、オンカムの大神だったということ。



※画像:spotlightのサイトより
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狼と熊野信仰

2015-10-06 | 東北地方の狼信仰
狼が人の子を育てた話は、中世に成立したといわれ、熊野本地「動物諸相」にある。
この内容では、

天竺の王はたくさんのお妃がいたが、子供に恵まれず。
或日、その妃の一人が懐妊すると、他の妃にねたまれて山中に追いやられた。
王子を出産した妃は殺され、置き去りにされる。
ところが、殺された妃の乳房から乳がとくとくと流れ、王子を養い、
山の動物たちがこれをみて集いはじめ、虎や狼などが王子を見守り養うことになる。
成長した子は王と会い、この事情を知った王は天竺国を去り、秋津州、紀の国牟婁郡(ムロ)
に飛来し、熊野三所権現として顕れた。



※飛白書三社神号(橋本倫)天照皇大神、八幡大神、春日大神。図録「スサノオの到来」より
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岩手県室根山のムロは、熊野の牟婁からきているらしい。
室根山もセオリツヒメを祀っていたという話があるので、熊野権現に関係するようです。
この話は、熊野三社権現の由緒になっており、天竺という国には、
虎、狼、野干(やかん)の動物が中心になっていて、天竺はインドのことと言われる。
熊野本地の話に出てくる動物の中で、特に狼が重要だったとの専門家の指摘がある。

野干とは、キツネの異称でジャッカルのような動物。
キツネはアラブ名でシャガール、ペルシア語でシガルというそうで、
胡地がなまったが、射干と訳し、その射の字を野と同じ発音なので野干と書かれたと
考えられるそうです。
日本にきて、狼もキツネも似ているので、ジャッカルにも近いからと、
異国の人が狼をみて、キツネとして祀ったこともあるかもしれません。
お稲荷様がキツネ(白)に変化したのが、元は野干のことかもしれない。
大山津見神社にあったオオカミの絵馬が、中国の虎図によく似ているので、
虎から狼へ変わり、狼が日本では重要視されたのだと思います。

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狼に育てられた話は、奥州藤原氏にもあり「青い狼」という話になっている。
これはモンゴル地方に通じている。
秦大津父という人も狼に育てられた。

狼に育てられた話は、ローマのロームレスと、中央アジア・アルタイ系の烏孫国(ウソン)がよく知られている。
しかし、いずれも狼と烏はセットになっている。
どちらか一方に育てられたという話はない。
狼や烏をトーテムとした民族の婚姻という気もしますが、どちらも信仰していた可能性がある。
アルタイ系民族が狼と烏の信仰があったのですが、烏孫は、禹一族と考えられている。

禹については、こちらを参照して下さい。
http://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/b54858d48dd1ab8ee42fce3ac79514d5

禹の話の中にも、セオリツヒメのような水を清める祓いの力を信仰しており、
その信仰から治水技術が発達した。
余談ですが、伊達政宗も仙台の町並みを整備する際に、地形をそのまま利用して川を流している。
四谷用水というが、川の流れをせき止めたり地形を崩すような今のようなダムとは考え方が違っていたと思う。
地形の高低差を利用して流れをコントロールする知恵をもっていた。
それを知っていたのは、古くから伝わっていた禹一族の継承が残されていると私は思う。
その禹一族が母系社会のあった龍族だった。

ところで、烏孫国はBC161~5C、現在のキルギス遊牧国家のことでかなり古い。
イシク湖周辺に住んでおり、ここに遺跡が見つかっている。
不思議なことに湖の底に遺跡がみつかり、なぜ水没したか未だに不明。
しかも、遺跡は一つではなく、様々な時代の遺跡が水没しているという。
そのうちのひとつに、烏孫の城が湖畔で見つかっている。



※イシク湖:琵琶湖の9倍。標高1606mのところにある。
伝説では、この湖の水は使い終わったら必ず鍵をかけておくのだが、
ある時少女が聖者から鍵を盗み、もっていた壷いっぱいに水を入れた。
その時、仲の良い少年が声をかけてきたので、つい長話をしてしまい、
鍵を閉めるのを忘れてしまった。そうして湖の水があふれてしまったという。

この頃、秦の時代、匈奴がモンゴルと統一。
周辺の烏孫族、桜蘭などタリム盆地も匈奴により追われ、前漢時代に征服。
烏孫王は殺され、子の昆莫(コンバク)が、匈奴のもとで育てられた。
この昆莫が狼と烏に育てられたことになっている。
「昆莫の上空で烏が肉をくわえて飛びまわり、狼がやってきて乳を飲ませたので、
不思議がった単于(ぜんう:匈奴の君主号)は神だと思い、収容して育てることにした。」

ローマのロムレスにも同じ話になっている。


※マナス( 英雄叙事詩)を語る老人(テュルク系民族)
(Y染色体ハプログループはコーカソイド由来のR1aが63.5%の高頻度で見られる)
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成長した昆莫は、烏孫族を連れてキルギスにいた大月氏をつれて建国。
大月氏は東アジアにいた遊牧民で、大月氏はイシク湖に逃れていた。
大月氏は、月氏の系統らしい。
ゲッシとよむのですが、由来は不明。
いくつか説があるのですが、イラン語系の翡翠Yuiの産地なので、玉が訛った言葉だろう、とか。
また、この子孫が月を信仰していたという話もある。
天山山脈にいた弓月が、ツクヨミになっている話もあり。
それで烏孫の特徴は、青目、赤顔といわれた。

烏孫族も大月氏も、西へ東へと果てまで逃げてきた民族で、
イシク湖あたりで落ち着いたのだと思う。
また、匈奴に追われ逃れて日本に渡り、狼と烏の信仰を広めたと思います。
一概には言えませんが、翡翠の産地というところから、新潟~日本海に上陸したこともあるかも。
そしてこの一族も母系社会だったわけで、新潟県の黒姫山は翡翠の産地ですが、龍信仰があります。

閉伊(ヘイ)族-------------------------------------------

ところで、セオリツヒメが狼(白い)を従えている絵図が岩手県に残されている。
その図の詳細はわかりませんが、ずっと前に画像をみせて頂いたのですが、
妙見様のような中国っぽい風格の女神で、狼が一匹いる。

狼の話とずれますが、最強のエミシといわれた閉伊族(へい)がいた。
岩手県宮古市に住んでいたのですが、このあたりに住んでいる人は、
平均して日本一身長が高い(男性)のだそうです。

さて、この「閉」という漢字が、九州にも同じ漢字を持つ人がいると思いだした。
487年、「阿閉臣事代」という人が任那へ仕えて行った人物。
ヘイの由来は、エミシ語のぺ(p)水のことを示すらしい。
また、アイヌ語のペイの事。(リアス式海岸のように岩崎)の説もあります。

アヘイは、アヘ=アベと同じ意味がある。
阿部氏は、何かの総称になるかもしれない。

「閉」には、辺境の「辺」か、衰える意味があり、いずれにしても差別的に
良くない悪い言葉を漢字につけたと考えられています。

安曇氏の海人族とも関係している意味もある。
それは、壱岐氏(壱岐島)が月読信仰だったため。
古代には、女軍(めくさ)という女性の軍団がいた。
武器を以て戦うのではなく、巫女集団の争い、つまり祈祷で相手を倒すというもの。
特に恐れていたのが坂上田村麻呂で、閉伊族のことはよく書かれている。
閉伊族を恐れていたのが、巫女のシャーマンの力と思われ、
祈祷を利用して、エミシの鬼門に十一面観音像を建てたといわれる。

しかし、坂上田村麻呂も滝神信仰だったと思うのですが、円仁などの真言密教から
十一面観音にしただけであり、観ている方向は同じなんだと思います。
ただ、仏教が伝わると、人の死を仏法で以て成仏させるような考えになったでしょう。

阿閉臣事代も同じような男性?の巫女だったかと思います。
「遠征時、月神と日神が人にとりいって月読を祀れ」といった話がある。
それで、壱岐島に月読命を祀ったそうだ。

狼の骨を削って体内に入れるという発想も、シャーマニズムの意味があり、
外に出すのではなく、自ら霊的に変貌するというのは、他の信仰と異なる。
キツネ憑きに効果があるのが狼だったということは、母系社会の名残であり、
それを恐れた男性社会が今の社会(キツネ)に変貌している。

水神とよばれる祓戸神は、水葬というのがあり、病気か子を産めない女性が水葬だった。
天皇や貴族などは土葬が一般的。
いったん肉体を土に戻し、魂を入れ替えるために石舞台を作って納め、特に蘇我氏などがその信仰を深めていた。
石も記憶するため、天皇は昔は、霊知りだったので何度も生まれ変わることはでき、
次の天皇に魂を受け継ぐことができるようにした。(どうやったか知らないが)
火葬は普通の人でしたが、中国の母系社会では火葬だったので、それが日本に伝わったかもしれません。
熊野信仰は、鳥葬も行なわれていた。

遠野で聞いた話ですが、こけしは、子を消すことから由来している。
貧しくて捨てられたか、病気だったか、幼い子供も水葬が多かったらしい。
特にチベットは、カルマがあり悪いものを持って亡くなると、
来世もそのまま負を持って産まれると考えられていました。
水は浄化力が強いため、川へ流し、日本でも海洋民族が舟で遺体を流し火をつけていた。
灯籠流しはこれが由来かと思います。

それだけ強い祓いを引き受けることができたのが、荒魂と言われた瀬織津姫と
考えられてきたのでしょう。

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私は神社より、水場のある所の方が緊張します。
心地よい滝もあるのですが、滝神を祀るところには、特に願掛けが強いと感じる。
遠野のある水神を祀る所へ行ったことがある。
水気の多い鬱蒼とした森に、水の流れる音だけが静かに響いている所でした。
し~んとした森に社があり、そこには子を望む女性たちの願いがたくさん書かれていた。
中には流産で苦しんだ悲痛な叫びも。それでも子を望む願い。
奥に黒い何かが見えてゾっとしてよくみたら、八咫烏の絵馬がかけられていた。
ただ、水神とあっても瀬織津姫を祀っているとは限りません。



しかし、瀬織津姫がいつの間にか、子宝の神様とされてきたのは、
女性たちが広めた信仰だと考えられている。
そのような願いが、今世だけではなく来世も約束できた水神と考えられてきた
強い祓戸神だからこそ、男性社会には受け入れられなかった。

私は、瀬織津姫について詳しく知りたいとは思っていませんが、
そのような女神を信仰してきた過去の人たちには共感します。

なので、結構、水神は重いと感じる。
それに、何でもかんでも瀬織津姫にするのは、どーか?と思う。
人間の生きる姿は、そんなに美しいものではないと思う。
現実、とても苦しいものだ、ということが何となく見えてくる。
厳しい水神に対し、気軽にパワースポットなどと言えないのが、滝神(瀬織津姫)だと思う。


※月読尊像(江戸時代半ば)図録「スサノオの到来」より。

私は潜在的に水神を望んでいるのだろか?よく滝神へ迷いこむことがある。
でも実際、癒されていることは確か。私にも子供はいませんから。
過去、多くの女性が癒されてきたことはあったのだと実感します。

月読命は「変若水(おちみず)」といい、スサノオの涙と解釈され、スサノオとツクヨミが同一といわれる。
土が大事だと思うのは、その涙と共にあらゆる生命が誕生するという、ハイヌヴェレ信仰がある。
縄文土偶の妊婦をかたどっている姿は、オウゲツヒメだったと思う。
オオゲツヒメは、「大月姫」とかくそうだ。
ということは、ツクヨミでもある。

女性が子を産むのだから、命は子を宿す母の胎内にある。
月の暦やその考えを払拭させた男の力とは何だろう?
世の中を振り回しているのが、男ではなく、「男性性が異常に強い女」だったと思うのだが・・・。
祈祷争いは、女同士の戦いでもあり、女同士がつぶれていった歴史でもありました。
・・・重い話になるのでやめておこう。

狼話はこのへんで。
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東北地方の狼信仰:狼のゆくえ

2015-10-03 | 東北地方の狼信仰
「武蔵国秩父郡三峯山に、三峯神社あり、その山に狼いたく多し。
これも其の神に祈請ば、狼来りて猪鹿を治め、又その護符を賜はりてある人は、
其の身殃害に遭うことなく、又盗賊の難なしといへり」(
嚶々筆語より)


(妙法ヶ岳:三峯の奥の院。角が生えたような形の山。三峯の狼信仰の原点。)



「明治時代の末年を境に日本全土から忽然とその姿を絶った日本狼(山犬)とは北欧地方に棲む大形の狼が南下東進して
、蒙古や朝鮮半島等にヌクーテの名で呼ばれる中形の朝鮮狼を残し、さらに日本全土に渡ったものが、
なお一層小形に島化して日本狼となったと言われる。明治時代以降現在に及んで、秩父地方の名栗山、
武甲山中に棲息、又他の山岳地方に棲息と伝えられる山犬は、これは何れも家犬の野生化したので日本狼とは別に何の関係もない。」
(秩父山の考古:小林茂著)



狼には二つの型があったそうで、一つは体毛が灰色に黒ずみ形の大型。
これは明治時代以前に既に秩父から山中へ絶ってしまったようで、当時の人が単に狼とよんでいたのは、
この型のものを指していたようです。
もう一つの型は、明治中頃、甲州地方では明治時代末頃まで棲息し、
今なお狼の物語を残している狼の種類に入るらしい。

ニホンオオカミとヤマイヌが同じかどうか混乱が起こったきっかけは、シーボルトによる。
シーボルトが日本産オオカミの種名をつけたのですが、大阪天王寺の動物商から、
Okame,(オオカミ)Jama-inu(ヤマイヌ)を買いいれる。これらの動物をオランダ自然史博物館に持ち帰るが、
博物館にはヤマイヌが送られた為、館長がそれを「オオカミの新種」として発表されてしまった。

狼が人を襲う-------------------------------------------------------

1736年の記録に、「西国にて犬が病につき」と記されており、海外から侵入された話になっているが、
狂犬病が蔓延した理由は、はっきりしていない。
三峯神社やお札などが東北地方でも出回るようになったのは、狂犬病の他、盗難や火除けを守る神様との噂がたったことにあり、
遠野地方でも狼様を祀ると不思議と山から狼がいなくなったという話もある。

狂犬病かどうか定かではないが、狼が人を襲うようになった時期が、
生類憐みの令を発令した時代と重なるため、動物を駆除すると罰せられる場合もあった。
秩父では密かに行われたこともあったかもしれないが…。それについての記録はあってもごく少数のもの。
ただ、狼と人が二人三脚で暮らしていたのが、崩れてしまった。その理由はいまだに多くの説があって謎。

「東北学:特集オオカミの行方」を参考に北東北の狼駆除について。
江戸時代、弘前藩や盛岡藩では狼が人を襲うようになったことで、
「狼荒」とよばれた狼の被害が多く記録され、狼駆除が行われるようになる。



・弘前藩の事例―
夜四つ時(午後10時頃)のほぼ同時刻に四ヶ村で家の寝所から狼が子供を加え出るという事件がおこった。
家族が騒いで追いかけるなどしたので、いずれも狼が途中で子供を放した。
だが、女子(7歳)が即死、男子(5歳)が重体。女子2人(7歳・4歳)が軽傷を負った。

盛岡藩でも子供が狼に襲われる事件が多発する。7月~9月に襲われているので、夏~秋の熱い夜だった為、
開放的にしていた家が襲われたらしい。
盛岡藩では駆除の褒美が与えられていた。
津軽藩ではほとんどが狼の捕獲を熟知した足軽で、盛岡藩はいろんな者が捕獲していたようです。
要するに盛岡藩は身分を問わず百姓でも捕獲していた。褒美狙いということもあったと思います。

江戸時代、生類憐みの令があった時、狼駆除は難しいものであった。
狼は人間にとって害獣の役目であったが、飛びかかってきた狼を殺した人が、この事がすぐ庄屋へ報告され、
取り調べを受けた。結果、村預け(監禁のようなもの)という処置となり、番人をつけられたそうだ。
翌年には解除されたそうだが、半年間村預けになっている人もいたそうだ。
しかし、狼の被害は多く、弘前藩では鉄砲の足軽を派遣し、鉄砲打ちが始まる。
ただ、狼駆除は大変だった。なかなか狼を見つけることができない。
そこで狼の特性などの情報を江戸藩から収集し、この情報を元に対処法が教示され、
ようやく足軽の狼射殺が成功したと記録されている。

捕獲記録には、アイヌ人も動員した話もある。それだけに狼を捕獲することは至難だった。
弘前藩では津軽半島のアイヌ人を「ぶす矢」で人喰い狼を射殺するように指示している。
「ぶす矢」とは、トリカブトでありこの根の毒を使うように命じたそうだが、
アイヌには熊などのイオマンテの儀式があるので、むやみに狼を獲る習慣はないので威嚇はできないはず。
動物を殺したら、その霊を天に返すことをしなければならない。
毎度、狼にそのイオマンテの儀式をする大変さを考えたら、藩からの受け入れは拒否したいものと思われます。
津軽藩は、仕方なく足軽でしか頼るものはないと、上手い足軽を選び狼を射殺をしている。
 ところで、狼を捕獲した実測一覧というのがある。
捕獲した狼の寸法などが記録されているのですが、狼と判断した理由に、前後の足に「水かき有」と記載されている点。
狼と犬の識別に水かきが有か無かで判断していた。
水かきとは、指の間の皮膜を指すものらしい。
多くが全長150センチ前後の大型で、日本犬と比べて大きい。

さて、この狼捕獲は、単なる山犬や柴犬のような雑種の犬だった。ということはないのだろか?
狼の毛並みについて、小林茂先生は、
「体毛の色については、明治10年頃に、奥秩父~甲州に山間地方を歩いていた毛皮買の商人が、
当時山中で捕られた狼の生皮をその毛皮によって灰褐色のものを朝鮮山犬、灰ネズミ色の系統を単にヤマイヌ、
或いは狼とよんで、2つに分けて扱っていた事実。」

奥秩父産狼の二頭骨標本にはいずれも、後者に属する体毛の灰褐色系のものだそうだ。
狼か柴犬のようなヤマイヌを区別するには、骨格(頭蓋骨)しかないと聞いたことがある。
水かきは、あまり関係ないのかもしれない。
津軽藩の捕獲した狼の毛色の多くが、黒毛、粕毛、といったもので、馬の毛並みの茶色や黒に近い灰色の毛並みをしていた。
狼というよりは、ヤマイヌに近いものだったかもしれない。


(妙法ヶ岳から秩父連山)


(紅葉の三峰)

狼は邪気を払う-----------------------------------------------------
狼は絶滅しても信仰は広く伝わっている。
南東北では、大山津見神社の山津見の講が広めた。他は、秩父三峯講。
しかし御嶽講での狼信仰は東北地方には伝わっていない。(そもそも御嶽神社があまりない)


(三峰山の奥の院:妙法ヶ岳)

狼が動物駆除するだけではなく、キツネ憑きや、盗難除けの神様といわれるようになっている。
キツネ憑きとは、狂犬病の中で狂ったように叫んだり、気がふれたり奇妙な行動をする人をさし、
秩父では「オーサキ」とよぶ。それを祓うのが狼と信じられてきた。
秩父では三沢の蓑山(和銅がとれたところ)で、100年ほど前の刃物で削った古傷跡のある狼の頭骨が民家に保管されている。
山中で捕獲した狼を射殺し、その後「キツネつきのまじないのため保存」していたもので、
病者に骨を削って飲ませていた。

キツネ憑きを落とす際の煎薬として用いられ、「家宝として山神に祀られていたのは、狼頭骨が山神ではなく、
山神の御使いとして狼の頭骨を宝とし、他の病者やオーサキ憑きに薬として飲ませていたことがあった。
アイヌでも熊の骨がお守りの魔よけとして用いられていますが、それと同じもので、
「狼の霊力で邪気を払うものであり、薬のように飲むというのは、正月に餅を食べるのと同じで
体内に含めることで内側の魂に蘇生力を与えるというシャーマニズムにある」

と考えられています。



東北地方の太平洋側に多く三峯信仰が伝わっていますが、三陸地方には特に多く、
気仙沼羽田の三峯神社には、キツネを退散させた話がある。
秩父本社から勧請されたと伝わり、祀った人は小野寺助左衛門といい、小さい時に、神様がつき、
宗教者など近隣から祈祷を頼まれていた。その子孫の亀五郎は、易学を学びキツネについた者から話すことを得意としていた。
このことについて、明治時代、子孫の小野寺辰治郎は、
「三峯神社と狐離しとどう結びついたのであろうか。ある老人は三峯神社の随神は狼である。
いわば、三峯さんのガードマンが狼であるから、三峯さんを拝んで狐を追い払うことをお願いすれば、
狐を離し、之を追い払ってくれるものと考えていたのだろう
」と話している。

宮城県登米市東和町に狼河原という地名がある。
この辺りは、田畑を荒らす狼を幸いと考えるようで、狼を恐れることはなく、夜中狼に合う時は、
「狼様、鹿を追うて下さい」とあいさつして通る所だから、と伝わる。

盗人を見つける三峰様----------------------------------------------

・遠野物語71

この地方で三峰様というのは狼の神のことである。旧仙台藩の東磐井郡衣川村に祀ってある。
悪事災難のあった時、それが何人かのせいであるという疑いのある場合に、
それを見顕そうとしてこの神の力を借りるのである。まず近親の者二人を衣川へやって御神体を迎えてくる。
それは通例小さな箱、時としては御幣であることもある。
途中は最も厳重に穢れを忌み、少しでも粗末な事をすれば祟りがあるといっている。
一人が小用などの時には、必ず別の者の手に渡して持たしめる。
そうしてもし誤って路に倒れなどすると、狼に喰いつかれると信じている。
前年栃内の和野の佐々木芳太郎という家で、何人かに綿桛(わたがせ:束にした糸)を盗まれたことがある。

村内の者かという疑いがあって、村で三峰様を頼んで来て祈祷をした。
その祭りは夜に入り家じゅうの燈火をことごとく消し、奥の座敷に神様をすえ申して、
一人一人暗い間を通って拝みに行くのである。
集まった者の中に始めから血色が悪く、合わせた手や顔を震わせている婦人があった。
やがて御詣りの時刻が来ても、この女だけは怖がって奥座敷へ行きえなかった。
強いて皆から叱り励まされ、立って行こうとして、膝がふるえ、倒れて血を吐いた。
女の供えた餅にも生血がついた。修験はもう十分に見えたといってその女は罪を被せられた。
表向きにはしたくないから品物があるならば出せと責められて、
その夜の中に女は盗んだ物を持ってきて村の人の前に差し出した。


遠野地方では、村内で盗難が起こると、その盗人を探しあてるために、衣川の三峰様を勧請していたそうです。
イタコをよび拝んでもらうと、盗人の顔が赤くなり狼の顔になるともいった話もある。



三峰講は、「魚又講」といった海の幸を願う講もある。
東北でも山に魚の頭をシトギを供えていた。魚の頭は、マタギのオコゼの頭をポケットから少し出す、
というのと似ていて、山神が喜ぶことにある。ちなみに山神は女性。

岩手県の山間部でも小豆飯と魚をオオカミに供え「オイノ祭り」をしているところもある。 
他にもツトコに餅を供え、「オオカミ様」と言うところもある。その餅は2個と決まっている所もあり、
一つは狼に供えるもので、もう一つはその場で頂くものと考えられている。
狼に供えるシトギも半分にして、半分は家族と分け合う。
残りの半分は、下で火をおこして自分たちで食べ残し、持ち帰りはしてはいけない。


(気仙沼、神行堂山のツトコ)

我家でも、お正月のお飾りを家の入口に供え、御雑煮を少し置いていくのだけれど、
余った時は持ち帰ることはせず、その場で食べるように言われた。
なので少しあまった御雑煮を食べていたら、近所の人に、行儀が悪いと注意されたことを今でも覚えている。笑。

他にも東北地方の狼信仰は、たくさんありますが、また何かの機会に東北地方の狼信仰を
(気が向いたら)調べてみたいと思います。
狼については縁がないと動けないので。
今回は、たまたま村田町で企画展をやっていたからなんですが、意外にも東北に狼の石碑が多いので、
最近、道途中の石碑が何であるか、探す癖がついてしまった・・・。

ところで、狼信仰は山の暮らしと深い結びつきがあったことはわかったのですが、
昔は、修験のような講というのはなかったわけで、なぜ、三峯講はこんなに特殊?な狼部隊になったのでしょうか?
ちょっと気になる民族がいる。外国なのだけど、もしかしたら、自分たちは狼の祖です。
といった人が実際にいて、その子孫が狼信仰を流行らせたことはないのかなあ、と。
そうなってくると、民俗学ではなく単に先祖のルーツになるので、
視点をかえて狼の行方は世界を渡って日本へ逃れてきたと仮定して、妄想は続く。


(雲取山から富士山を眺める:三峰奥の院~雲取山への修験ルートもおすすめ)
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南東北の狼信仰:人と狼の関係

2015-10-01 | 東北地方の狼信仰
・丸森町(宮城県)に伝わる送り狼

平松から霊山に通じる笹ノ峠には、山神のお使いで旅人の通行安全を守る狼がいるといわれる。
昔、平松に百姓のかたわら商売をしている木村某という人がいた。
笹ノ峠を超すのは、夜になることが多く、山の神様に道中安全を祈りながら越していた。
ある晩のこと、峠をこえて家の前に馬の後ろで「ウォー、ウォー」と狼の声がした。
「大変だったな、もう帰っていいぞ」と一声かけると、笹ノ峠の方へ戻っていった。

※大きな石の上に、この人が祀った山の神の碑があり、現在も信仰されている。

東北では狼のことを「オイノ」や「オイヌ」とよぶ。
作物を荒らす鹿や猪がいるが、狼はこれらの動物を駆除してくれたので村人は助かっていた。
狼が信仰になったのは、人との接点・関係性からかなり古い時代から、狼と人が群れをなして山の暮らしをし、
互いに共存しあう時代があったと考えられている。

狼信仰の特徴ある神社は、関東地方では御嶽神社(東京都青梅市)、三峰神社(秩父)であり、
東北北部に多く三峰講が入り、狼信仰が伝わっていることは知っていたが、
南東北にも狼信仰が浸透していたことは今まで知りませんでした。

今、村田町歴史みらい館で、「オオカミ現る」展をやっています。(11月15日まで)
東北南部の狼信仰は、福島県飯館村にある山津見神社から狼信仰が南東北に浸透していったようです。




(狼の木像:丸森町・佐野山神社。木の狼像は珍しい)

その大山津見神社は残念ながら本殿は火災で焼けてしまいましたが、天井一面に、狼の図があったそうです。
狛犬だけは残されていますが、かっこいい~。

しかし、天井の図や絵馬などは、狼というより虎に似ている。
おそらく狼を見たことない人が、山の獣として想像して描いたような図になっている感じ。
いろいろなポーズの狼が描かれており、珍しい天井画だったな~と思い、残念。
飯館村周辺~宮城県丸森町が特に多く、北上して加美町、石巻、栗原~平泉に三峰神社や石碑が点在しています。




(狼が描かれていた天井画)

狼が次第に山の神とみなされ、人々は里山に狼の碑や、山神の碑を祀るようになっていった。
狼が信仰になった背景には、送り狼にあるように、人間の心理が働いている。
全国各地に伝わる「送り狼」について、「秩父山の民俗考古:小林茂著」を参考にします。



人と狼の関係では、狼は本来「人を見送り、送る」という「信」又は、
「契約」があると考えられていた。
そして見送られた人間は、礼を尽くし感謝の言葉や贈物をする「しきたり」があった。
狼が「後ろからついて来る」というのは、自分の縄張りに入ってきたものの後をつけて見張る行動、
さらに獲物を見たらこれをねらう際に現れる生態行動がある。
背後からついてくる狼の習性は、人間にとって恐ろしいもの。
暗がりの中、襲ってくるかもしれないし、去っていってくれるかもしれない。
それでもなお、狼は人を見送ってくれる「信」が成立するのは日常から暗黙の交渉関係が
成り立っていなければあり得るべくもない。


狼の産見舞(狼の子)--------------------------------------------------------

「狼が獲物にする以外の人里に対し関心をもつが、人との間に暗黙の繋がりがあるのは、
背後からついていく行動はするけど、それ以上襲うことがないのは、
「狼の子」という贈与関係の伝承が関係している」という。

・美麻村千見区(長野県)に花戸という村あり。村の下條家の持地であった。
岩穴に狼が子を産んだので、産養ひに赤飯を持たせっていった。
其下男が狼の子を見て、好い児を沢山産んだなあ、おれに一疋くれねえかと口から
出まかせ言って戻ってくると、翌朝の戸口に可愛らしい一疋の狼の子が居た。
そういうものを飼うわけにはいかぬので、又其児を狼の巣の中へ返しに行ったという。

(家の守り神:桃太郎の誕生」

・同じ郡社村の丹生子(にふこ)においても、或家の下男が山犬の巣を荒らしたところ、
其後此男が入れた苅敷を田から引き出してあったり、
馬をつないで置くと危害を加えたりした。そこで村の人たちが集まって思案をして、
山犬の為に七夜の祝いをした。まず赤飯をたいて藁の上に盛りこれを山犬の巣の側に供え、
村では酒宴を開いて賑やかに歌ったら、それから悪戯をしなくなったという。
(中略)他の多くの獣類に就ては少しも問題にせぬ事を、
特に狼に歓心を求めんとする場合にのみ、必ず守ろうとしたのには理由があったはずである。
つまりは狼の子といふことに、今は忘れてしまっている深い意味がもとはあったらしいのである。

(無意識伝承:「桃太郎の誕生」)

・東京の近くで有名なものは武州秩父の三峰さんであるが、それは三峰山誌にも、
又十方菴遊歴雑記三篇中巻にも詳しく出ていて、近頃までは行われていた式であった。
或夜狼の異様に吠える声をきくと、それで御産の有ったことを知って、
翌日には見舞ひに行くのだといひ、又山中に特に清浄に草木を除いた一地のあるのを
見つけて、そこに注連縄を貼って、酒と食物を供して来るともいひ、
是を御犬祭と名付けて毎月十九日に行ふともある。十九日は知っている人も有らうが、
子安講とも又十九夜講ともいって村の女人が子安神を祀る日であった。
是が後には一年に一度になっただけである。

(狼の産見舞:「桃太郎の誕生」


(白狼の木像:岩手県奥州市衣川:三峰神社)

 送り狼の話など、人間側で働きかけていることを、狼が受け取り応答している「人と狼との契約」と解釈される。
この考えは、柳田国男にもあったのですが、
狼との信頼関係を望んでいたのは、人間の方であり、狼はそれに応えているといった話し。
小林茂先生は、狼などの動物は騙すことをしないのだから、背後からついていくるのは動物の習性なだけであると。
「送り狼」という言葉は、近代では男が女を送ってあげると言いながら、
実はその女の性を奪うような「騙しの心性」を語る俗語になってしまった。


-------------------------------------------------------------------------

相変わらず変なことを言いますけどね、狼は自分で狼だと思っていないんじゃないか、と。
人間とも思っておらず。動物に「個」というものがあるか知らないが、ないよな・・・。
狼は自分が何者であるか知っている感がある。
私は狼の目が特にそう言っている感じがするんだけれど、狼の目はテレパシックな目をもっているな~と感じる。

西洋の神話でも、度々、狼は神の使いだとして、人間が悪い行いをしないかどうか、観察して見張っているという
考え方があるらしい。それは、かなり古い時代、狼が森の番人としているのは、後から人間が住むようになり、
自然を荒らされない為でもある。(人間は何かと環境破壊をする)
狼は、その神だか何かわからない崇高な存在との約束があるんだろう、という妄想。
狼を崇拝している地域では、人より上に狼が位置している。

次第にその信仰が薄れていくと、人は狼を単に狼としてしか見なくなった。
しかし、狼だけは、人の後をついていき、まだ天からの「待て」の合図があるまで、森の中で眼を光らせていたわけだ?
ま、妄想だけど。

飼いならされた犬は、人のお役に立っていることを自覚している、はず。
だから自分を犬だと自覚しているかもしれない。犬は犬と思っているのかね?
聞く術もないが・・・。
そこが犬と狼の違い・・・なんだな。
子供頃は、柴犬を飼っていたのだが、庭に大きな石があり、いつもその石に座って遠くをボーっとみているような犬だった。
何かと石が好きな犬だったから、私に伝播した・・・。柴犬が一番狼に近いと思う。笑。

里犬-------------------------------------------------------------

近世の村里では、各戸が飼っていた家犬の他に、各戸に帰属せず村に住みついている
「里犬」とよばれるイヌ類がいた。
里犬の群れは、耕作地と山地の間に「野」とよばれる共同地があったそうだ。
そこに里犬はすみつき、野生の獣との緩衝域をつくっていたという。
縄文早期、前期の山形県高畠日向洞窟、宮城県柴田郡槻木上川名貝塚には、
狼と家犬が交接してイヌ類の生態に変化したことが考えられる。
神奈川県の貝塚でもニホンオオカミに近い形質の狼の存在が確認でき、
それが家犬化され埋葬されていた。縄文時代に入って家犬との交雑により、
ニホンオオカミに近い骨格をもつ狼が生まれ、この2種が近世まで持続していたと考えられている。


※全然関係ないが、秩父には、一角の鹿が棲息していたんだ!「ソロッポ」という。貴重です!!

ところで、東北地方の狼信仰には、狼駆除の話がよく知られる。
明治時代から忽然と姿を消したように思われる狼だが、それ以前からすでに絶滅したと考えられている。

ということで、次回は、北東北の狼駆除について、東北のプチ狼学は続く。
考えてみたら今日から10月。
満月の頃に狼信仰を妄想するとは、・・・らしいな~。
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狼と月とアラハバキ

2015-04-24 | 東北地方の狼信仰
平泉に伝わる「空飛ぶ舟」の話。
「まんが日本昔はなし」より。

昔々、村から村へ旅をしながら、手伝い仕事で生計を立てる兄弟がおりました。
弟は働き者でしたが、兄は強欲な怠け者で仕事はすべて弟にやらせておったそうです。
それでも弟は、たった一人の身内の兄を大切にしておりましたそうな。

ある日、兄弟は「空飛ぶ舟を探し出し献上したる者に家屋敷と宝を与え、
姫の婿として迎えるべし。領主」と書かれた高札を見つけました。
兄弟は早速空飛ぶ舟を探し始めましたが、なかなか見つけることができません。
そのうちに兄は弟を足手まといに思うようになり、兄は握り飯を一つだけ弟に与えて、
二人は別々の道を行くことなったのです。

兄がしばらく行くと、道端に倒れた老人が握り飯を分けてくれと頼んできました。
しかし兄はそれを断りました。一方、弟の方も老人に声をかけられました。
弟がたった一つの握り飯を老人に渡すと、老人は空飛ぶ舟の見つけ方を弟に教えてくれました。
それは、峠に転がっている一本の丸太を、七日七晩、一度も手を休めずに叩き続けるというものでした。

弟は老人に言われたとおり峠に向かい、丸太を叩き始めました。
得体のしれない化け物達が現れては弟を苦しめ、さらに飢えと渇きが弟を襲いました。
それでも弟は一度も手を休めず、ただひたすらに丸太を叩き続けました。
そうしてついに七日目の朝、地面の中から空飛ぶ舟が姿を現しました。
弟は早速空飛ぶ舟に乗り、兄の所へ向かいました。

弟が兄の所に辿り着いた時、兄は盗みをはたらいて捕えられ、
千年杉から吊り下げられて息も絶え絶えになっておりました。
弟は兄を助け出し、命を助けられた兄は改心してすっかり心を入れ替えました。
そうして二人は空飛ぶ舟に乗って領主様の屋敷へ向かったのでした。

空飛ぶ舟を手に入れた領主様は喜んで、金銀家屋敷を兄弟に与えました。
そうして兄弟は領主様の二人の姫をそれぞれ嫁に迎え、奥州平泉に落ち着いて、
いつまでも幸せに暮らしたということです。



※無量光院跡:藤原秀衡が京都の平等院を模して建立した寺院。
当時は平等院の規模をも上回る煌びやかな寺院であったが、度重なる火災で焼失し、
今日では土塁や礎石が残るのみである。


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金に関係している伝説に、空飛ぶ舟という繋がりが面白い。
よくある兄弟の話では、どちらかが良い人と、悪い人と対照に描かれるが、
安倍氏のことを伝えているかどうかはわかりません。

平泉の三峯神社由来については、こちらを参照してください。
http://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/5cbad1664f4748c8e6470f3f8e842e11


さて、三峯神社手前に小さな神社がありました。
「淵端諏訪大明神(みちはたすわだいみょうじん)」といい、
846年~慈覚大師がこの川の深淵に臨み水底光明と輝くのに驚かれ、
その岸辺に祠を建てて淵端諏訪大明神と称し、タケミナカタを祀られたと

神社名は、旗鉾神社といい、飛騨地方にありました。
丹生川町にある高山市の神社。



慈覚大師が建立したとありますが、慈覚大師の出身は下野の壬生(みぶ)。
壬生も「にゅう」と読んだから、丹生と同じ。
三峯神社もあることを考えると、金採掘の守り神とも言えそうです。
神社名は、「旗鉾神社」という。
水銀のことを丹生というので、金のある所に丹生の地名をつける。

旗鉾神社の由来は、神功皇后は凱旋後、戦勝の報告に家来を派遣。
家来は多数の朱塗りの旗さお(鉾)をに旗をつるして、奉納して帰ってきたことから。
それから地名が旗鉾になっている。
また、天照大神を祀り、飛騨地方の丹生川地区には小型犬の山犬像が多く残されているという。
山犬像とは、狼のことだろう。

秩父は自然銅がとれたことから、丹生の名前を由来とする丹党一族が入ってきた。
飛騨地方~長野県(甲府)~秩父のルートがあるのだと思う。
で、このルートは縄文人が歩いてきた路と重なる。
その由縁から、旗鉾神社が建立されたのかもしれません。
ということは、どこかで縄文人の末裔などが関係していると思うのです。
縄文から住んでいた先住民の地へ、産鉄族が入ってきた道だと思います。

熊野では、水銀(金)を探すのに山犬を使用していたと聞いたことがあった。
犬の嗅覚なのか、それともある人物を狼として例えていたのか・・・。
金を見つけるのに長けていた人では、百済人がいる。
涌谷町の黄金山神社に石碑があるが。

平泉に、狼と月とアラハバキ(巨石)という不思議な関係。
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三峯神社入口に、三つ鱗の灯篭を発見。

三角形の連続模様を家紋にしているので有名なのは、桓武平氏の鎌倉北条氏がある。
源頼朝に滅ぼされた藤原氏は、鎌倉幕府の直轄になり、
葛西清重、千葉常胤、足利義兼、など38名の御家人に領地が与えられた。
その中に伊達氏もいる。
その為、山頂に祀られているワカエトノ神社の奉納額には、千葉姓の名前が多い。

三峯神社の縁起が書かれた看板をよく読んでみると、
「岩手県胆沢郡衣川村大字下衣川字松下鎮座」とあり、
「祭神:イザナギ・イザナミ・大口眞神」

奉納したのは、秋田県仙北郡角館町の田口家の名前が連なっていた。

はて?
あんまりよくわからないけど、秋田県角館といったら城下町で有名。
東北一、外国人観光客が多い場所が角館。
その田口家といったら、「たてつ家」が有名。
初代「田口家」は、1603年に「佐竹家」の国替えと共に、
常陸の国から殿様と共に秋田角館に来たという伝承が。
「たてつ家」は、田口鉄蔵の「たてつ」からきており、
代々商人?だったか立派なお屋敷が残されています。


(三峯神社)

ということで、三峯神社は関東から東北へやってきた武将たちの
守り神であることがわかります。

三峯神社の隣には、白馬を奉納した社もあります。
その奥に鳥居があり、階段を登っていくと、三峯神社奥の院?があった。
とその先へ登りながら進むと、展望がとてもよい。


意外?にも明るい。
神社の奥の院というと暗いイメージがあるのですが、
実際行ってみたら、アラハバキの明るいこと!

(月山神社)

月山神社の裏にあるので、月山神社からワカエトノ神社が見えない。
氷川神社の客人神も端にあるが、ここも見えないように隠しているのか?
裏を廻ってみたら、小さい神社があり、その前に埋れた岩場が。
少し高い所に祀られているので、ここが山の頂点にあたるのかも?


(光っている岩がアラハバキ)

木漏れ日から光が差して、意外と気持ちよかったりする…。
上を見上げたら、すぐ側に、ウツギの木がありました。
キラキラ光ってきれいだったので、よ~く観察していたら、
真珠のように固まった蕾がとてもかわいい。


アラハバキより、私はウツギの方が気になってしまった。
岩と植物はセットだから、植物から受けるメッセージもあったりする。



ウツギは、卯(ウ)の花とよばれ、茎が空洞のため、空木(ウツギ)とよばれるようになった。
卯は4月(旧暦)に花を咲かすため、卯月は、ウツギから名付けられたという。



ここで連想してしまうと、卯は十二支では兎。神話では丹波の白兎がででくる。
それが出雲(アラハバキ?)
そして白といえば、白山姫。
そしてククリヒメともいい、99の括り。言霊にも関係している言葉。

すると、次に行こうとしていた磐神社の住所が、
「衣川区石神99」だった。
99という数字の番地ってどうよ?
99という番地を聞いたことがない。しかも石神の99だ!

磐神社は安倍館の側にあり、ここにもアラハバキと称する磐鞍がある。
三峯神社から北へ約6kmの所にある。
やっぱり、アラハバキは白い女性的なイメージがあるのだな~。
山神には白い狼などの話も多い。
セオリツヒメやら、ククリヒメやら、何か縄文の女神と関係しているのでしょうか?
明るいイメージというのは、こういう事なのかもしれない。
美しいものは癒される。

そして、その磐神社が男石といわれ、女石は松山寺というお寺の境内にあるというが、
そこの住所が、「衣川区女石50」
50音の50だね。

番地からして偶然と思えない、そんな何かの計らいがあると思う平和な平泉。

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この日も天気雨のように風になびくと、サラサラと雨が降ってきたりして、
水神様は、子供のように遊びたがりな水の存在だと気付かされる。

昔話の多くは、水には河童のように、子供のようなイメージで語られる場合が多い。
また女性や龍の鱗伝説も多い。
それは、何となく、幼いイメージの存在だと、昔の人も感じていたからだと思います。
昔は貧しかったうえに、出産で亡くなる人も多かった。
女性の念が強いから、その霊がまだ残っている場所もあるかもしれない。
しかし、そのような重たい話でなく、明るいと感じるのは決して悪いものではない。

また、レムリアやムー大陸の時代、ヒト(人間)の精神は、肉体が完成してないことを意味しているのか、
まだ幼い12歳くらいの存在であったという。
やはり、古いイワクラなどは、そこから繋がっているのかもしれないと・・・。

常に、平和な気持ちで里山に入ることを心がけないと、その山に対して申し訳ないと思うので、
あまり興味本位で無理な行動はしないように、というメッセージもあったりして不思議な体験でした。

次は、巨大なイワクラを参拝しに、のんびりママチャリしてきた~。
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月蝕の狼

2014-12-27 | 東北地方の狼信仰
女川の民話より、月食の送り狼の話がある。

語り部は、明治生まれの岩崎としえさんという方で、
「女川・雄勝の民話(岩崎としえの語り)」(国土社)の本から紹介します。

村長さんは昼間忙しいから夕方、部落に用足しにいく。
村とのつながりで昔は何でも相談に行くと、時には遅くなってしまう。
ある時、今日こそ日の暮れないうちに帰ろうと急いでいたが、
村に近づくにつれ日が暮れてきた。
すると、向こうの方から大きい狼が口開いてやってきた。
ああ、出たな、会わないようにと歩いてきたんだけど、まともに口開いて
こんなに大きな狼があんのか、と思うほどの大きい狼だったと。

口開いて近づいてくるから、逃げたって食われてしまうと思ったから、
そこに腰かけて、タバコを一服吸ったんだって。

だんだん自分の前さ近づいてきたっけど、口開いてるから、
おかしいなあ、と休んでいると、自分のところに来て、口開いたままヒーヒー鳴くという。

犬がしっぽふるように、うれしいと村長さんの裾によってくるので、
不思議なこともあるなあと、調べてみたら、何食べたか、金物がコの字になって刺さっていた。
苦しいからと、人頼って山から降りてきたらしい。

このまま放してやるのはかわいそうだと、食われた時は運命だと思うか、畜生にも情というものがあるようで。
助けられたと思えば恩をおくるってこと聞いて、狼は性が違うから、取ってやっても
かみつくかもしれんけど、このまま見捨てられねえと、引っぱったりいろいろやってみたと。

それから中さ曲げてみたら、曲がってそのまま引っぱって抜いてやった。
そしたら楽になったから、犬が主人にからまるように、足にこすり歩いて、
裾をくわえて村長さんの村の見えるところまで引っぱっていったんだと。
ああ、いいよ、ここまででいいからお前は帰れと言ったら、わかったように帰っていった。

それからとゆうもの、村長さんが他の村へ寄合に呼ばれていくと、その狼が必ず迎えにくるんだと。
いつでも迎えにきて、村の降り口まで裾くわえて連れていく。
遅くとも狼が送ってくれると安心していつもそうやって送ってもらった。

そしたらある晩、自分の村の方さ送ってこないで、山奥へ連れていったと。
ああ、今夜限りの命かな、食べられるんかなあ。
今まで村さ送ったのに。今、山ん中まで連れて行くと思ってどこまでもどこまでも山奥までいくんだと。
山奥まで行くと、狼が村長さんを押したから、体が大きな狼だから
どっと転んで、村長さんの体にぴょんと狼が乗った。

ああ、この畜生、おれんとこ今夜食ってすまうんだなあと思っていたら、
なんの、山から谷から響くような声で、ウワーンウワーンって鳴くんでもなく、
うんうんうなって、ウオーって引き声ったらねえ、ほんとうに淋しい恐ろしい声で騒ぐんだと。

そうしたらあたりがにわかに暗くなり、自分の前を数えきれない狼がその引き声で、みんな呼ばれたと。
ぞろぞろと人の匂いがすっから、鼻ならすんだと。
それでも王様が人の上にあがってっから、黙って頭垂れて、王様の前を通り抜けたと。
その狼が山の主だった。

また自然とお月さまが見えて、明るくなったんだと。
今の月蝕の晩、お月さまが自分たちの病気を引き受けてくれて、暗くなる、その晩であった。
だから、そういう晩には、歩くもんでねえと。
山の魔ものがみんな出るっていう晩なんだと。

すると狼が村長さんの体からはねおりて、また裾くわえて来た道をずーっとひっぱって
家が見えるところまで送ってくれた。

「これこれ、おれがたった一回、骨をとってやっただけなのに、
こんなに送り迎えしてくれて、随分役に立った。
今夜は今晩限りの命だと思って観念した。これからは夜、必ず出歩かねえから、
おまえも今夜限りでくるなよ。
人に見つかったらば鉄砲で撃たれねえもんでもねえ。今までの恩を返してもらったんだから、
もうくるなよ。命を大切にしろよ」

と言って、家へ帰ってみたら、家の人たちが、
「お父さん遅いこと。今夜、月蝕でおらたちの病気、引きうけてくれてねえ、今暗くなったから皆で
口すすいで、お灯明あげてお月さまをおがんだ」
ってゆったんだと。

それまで今まで黙っていたけど、実はこういうわけで狼を助けたら、
夜道を送ってくれていたが、今夜は家へも二度と帰ってこれないと思った。
今から夜は出歩かないから、おまえも村ささがってこねえようにって
いいきかせて別れてきた。とゆったら、家族がびっくりしてしまったと。
それから絶対に夜は歩かねえと。
(姉に水浜で聞く)



(女川の海)

送り狼の話は全国にあるが、月食の晩に現れる狼の話は、西洋にもある。
これも月と狼の信仰が深く関係している。

西洋ではこんな話がある。


(オオカミに最も近いとされるシベリンハスキー犬)

月(マーニ)を絶えず追いかけており、月蝕はこの狼が月を捕らえたために起こると考えられた。
一説にはフェンリルの息子とされることもある。
フェンリルは、北欧神話に登場する狼の姿をした巨大な怪物。

日食や月食が生じるのは天空の怪物の仕業だとする説話は世界各地にあり、
北欧からゲルマン地域全体に渡って、そういった『天災』の象徴に『狼』
が使われる事がしばしばある。

マーニまたはマニとは、北欧神話に登場する月の神。

ムンディルファリという男が、自身の2人の子供があまりに美しいことから、
娘にソール(太陽)、息子にマーニ(月)という名をつけた。

神々はこれに怒り、2人を捕らえて、太陽を牽く馬車の馭者をさせた
。ソールは太陽の運行を、マーニは月の運行と満ち欠けを司る。
馬の名はアールヴァク(「早起き」の意)、アルスヴィズ(「快速」の意)といい、
体を冷やすための鞴ふいごが取り付けられている。
月は常にハティという狼に追いかけられているため、急いで運行しなければならない。
マーニは、ビルとヒューキが肩に負った天秤棒でセーグを担いでいるのを見つけると、
この3人の子供を地上から月へと連れ去った。
ヴィズフィンルという男の子供である彼らが月に付き添う姿は、地上からも見える。


ジョン・チャールズ・ドルマンが描いた、狼に追われるマーニとソール(1909年)。

天体の運行を表しているような神話。
日本の場合は、神話というよりは民間信仰となって狼と人との信頼関係が伝わっているところが不思議。

狼と人の関係がとても深いのは、古くから縄文?人によって、西洋によってもたらされたものか?
それとも星の知識を持っていた製鉄族(シベリアから)たちが日本に狼信仰をもたらしたものか?

いずれにしても、狼が多く生息していた北欧と日本は繋がっていることは確かです。

(女川の海を眺める熊野神社)
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若柳町の三峯神社

2014-11-06 | 東北地方の狼信仰
南北朝時代、北畠顕家は奥羽に南朝勢力を築き、
京により足利尊氏を敗走させたが、その後、和泉の石津で戦死。

これを知らない顕家夫人と、禰々麻、醍醐の姉弟は父を訪ねて京から陸奥へ向かうが、
途中夫人は病気により亡くなり、従者たちともはぐれ、幼い姉弟と従者一人だけとなった。

姉弟は、父の消息をつかめぬままさ迷い、この地の沼地に迷い込む。
しかし、醍醐は姉の禰々麻ともはぐれてしまい、姉を探して幾日かこの地をさ迷っていると、
この沼の水面に浮かぶ姉の姿を見つけた。

うれしさのあまり、沼の中に飛び込みはかない命を閉じたという。




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奥州街道に近い所に三峰神社があり、この境内に醍醐ヶ池というのがある。
昔は、このへんに大小の沼地があり、今では伊豆沼や内沼など白鳥やガンが飛来する所として、
ラムサール条約に指定されている自然豊かな場所にある。



思うに、この場所を好んでいた武将たちは、鳥狩りなどのハンターが好きだったのかもしれない。
沼があると鳥が多く生息するのだから、鳥狩りを好んでいた伊達正宗など、
戦国時代の武将たちの中での流行りだったり・・・。
なので、きっと狼もたくさん生息していたと思います。

北畠顕家は有名なのですが、この時代がよくわからないので、ざっくりと足跡を。

多賀城を統治した後、津軽へ(1334年)北条氏を追っかけ。
1335年鎮守府将軍に→鎌倉→足利氏に敗れ上京。
1336年再び鎌倉攻め、→近江→同年に!陸奥へ帰還。同年!武蔵国児玉郡(本庄市)で合戦。
(競歩なみ・・・)
1337年国府霊山(福島)に遷す。
ここで敵に囲まれ、上洛できず。なんとか霊山城を脱出。
下野へ。利根川合戦→再び鎌倉攻撃。
1338年1月鎌倉~遠江~尾張へ・・・・もうムリ。
結局最後は、石津にて疲れはてて、落馬。で討ち取られてしまった。

こんだけあっちこっち動いていたら、父を探しても探しきれず、追いつかず。
最年少で出世した顕家は、陸奥を若さの勢いで制覇してきました。
またこの頃活躍していた武将といえば、葛西氏がいます。



若柳町史によると、
陸奥では葛西氏が勢力をもち北畠顕家に加わる。
1340年頃、登米、桃生、気仙、本吉、牡鹿、胆沢と土豪を被官化し、栗原まで進出。
守護大名を大きくした。

文政(1818年~1830年頃)禰々麻の墓を掘り起こすと、無数の蛇がでてきたという。
母の死は誤伝で、姉弟を失った母が入道し、尼になり庵を結んで弔ったと伝わる。
それが、「道伝」という地名として残された。

また、「ねねま」とは、「あねのまつ」=姉松であり、「だいご」は、「おとごろう」=弟五郎とし、
身分の上から姉松姫、弟五郎(護王丸)との説がある。

五輪塔は、千葉丑之助という人が建立したそうです。
(千葉家も関東出身)




姉の松が何か?
この近くに姉歯の松があり、炭焼藤太伝説もある。
本当に北畠顕家の奥方であったとしたら?悲しい運命だと思います。

そんな奥方をかわいそうだと、弔うつもりで三峰神社を建てたかどうか・・・。

奥州街道沿いに、特に北に多い三峰神社があるのは関東からやってきた武将の産土神、
軍神、守護神などの陸奥への勝利祈願もあると思いますが、
元は狼を祀ることを考えると、三峰神社があるところには、山神としての狼信仰が
まだ息づいていたように感じます。
それに三峰講という修験の力を武将たちが借りていたこともあったでしょう。

また、三峰神社は源氏の守護神としての要素が強い。
葛西氏は平氏ですが、頼朝側についたという話もある。

余談だが、私の実家は平家出身の武士であり官僚の立場にいた。
源氏に敗戦して落ち武者のように、西から秩父にやってきて、武甲山の麓に住んだ。
若くして名主になったのは、西で教養や知識を身につけていたので、
それを武蔵のどこからか流れて、秩父を勧められて?か、勝手に選んだ地かどうか?やって来たようだ。

だからなのかどうか?三峰神社をすすんで参拝することなどあり得ない。
何となく、行くところじゃないと子供ながらに感じたということは、
しっかり遺伝的にそういうところも似て生まれる・・・。
系統とはそういうもの。

横瀬町では、多々、三峰神社には何の縁もない家(関心がない)が多い。
単純に遠いからと思っていたのだけど、そうでもないようだ。
奥宇根の友人も同じように、三峰神社へ参拝はしないと言っていたのだから
そういうことなんだろう。

ま、今はそんなことを気にしなくても生きていけるので、
三峰神社の本来の姿は、狼という森のハンターなのだから、その森の番人だった息使い
だけでも同じ時間を感じてみたいと思う。どこに行っても。

なのでこの辺りも、水鳥が群れるオオカミの湿地帯だった~。



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勝手な意見だが~、東北にいると、エミシとムサシが混ざってくる。
後の源氏と平氏みたいな・・・。
平氏は貴族的な品の良さを感じる。
こんなことを言うと源氏出身者に怒られそうだが、平氏の方がストイックに
戦ってきたイメージがあり、源氏はガツガツした(欲が強い)感じがする…。
禁欲的な戦いというと変だけれど、平将門の理想郷を考えると、
そんな世界を描いていたんだろう。だから潰されたのかな、とふっと思う。
エミシはストイックに戦っていたのだな、と感じる。

源頼朝(鎌倉)は、奥州平泉を作りたかったけど、できなかった。
でも奥州藤原氏は仏教の理想郷を現実に示すことができた。

秩父には平家の伝説で冠神話(ギリシャ神話)があるし、
平将門も嫌なイメージがない。星ばっかり見てたんだな~と思う。
実際、平家にはペルシャ人が多くいたことはわかっています。
大体、平家って何なんだ?というところからなんですが、面倒なのでスル―…。

さて、醍醐ヶ池の伝説と三峰神社との関係はわかりません。
三峰神社認証は、昭和39年8月26日とある。

ここに来て、とても合戦ばかりしていた武将たちが崇めた神社とは正直思えない。
池があり、尼がいて、戦国時代を乗り越えてきた人たちの伝説だけが残る。
三峰神社のすぐそばに、今は枯れてしまいましたが池があったような跡がある。

狼の門番が、その池を守っているだけの光景でした。


水の森の沼(仙台市)

ちなみに、藤原秀衡の道という名前で、仙台市内の「水の森公園」にも旧奥州街道がある。
ここから北上した富谷町の近くにも三峰の碑があり、
奥州街道に点々と三峰神社や石碑があります。


藤原秀衡の道

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白狼の墓標

2014-07-02 | 東北地方の狼信仰

友人が体験した不思議な話。

Photo01

場所はチベットで、長旅の疲れか体調を崩して高熱でダウンしていた時。
2.3日続き、かなり厳しい状態で食欲もなくなってきた。

そんな状態の時に、白い大きな狼がす~と目の前を通ったのを夢で見たと。

目が覚めてみると、体調がずっとよくなり熱も下がっていた。
食欲もでてきたので、大丈夫だ!と安堵。

すると、外が何だか騒がしい。
外に出てみると、なんと、ちょうど友人が休んでいた宿の前に、ダライ・ラマが巡礼に来ていたのだ。おかげでダライ・ラマに会うことが出来た。

友人がその場所へ滞在したのは、ダライラマがやってくる日にあわせて宿泊していたのだが、体調を崩し寝たきりの状態が続き、「その日が来ることをただ祈る」だけであった。
そんな時に、白狼が現れたという話。

Photo04 (石の海原)

そのタイミングを教えたのが狼だとしか思えないよね。それも命の導き。

白い狼はエネルギーなんだと、友人が言っていて、なるほど~、と感心した話だった。

また、友人は秩父人だから、白い狼は三峰の狼なんだと言っていた。

白狼の墓標----------------------------------------------

冬、大陸からやってくる風により灰色の空を駆ける白狼の群れは、この地で針葉樹にぶつかり、力尽きて樹氷に姿を変える。西吾妻山を訪れる修験者たちは、オオシラビソを「白狼の墓標」とよんでいた。

Photo05 (オオシラビソ)  

修験者も、白い狼をみていたのだろうか?
山形県西吾妻山にはオオシラビソのことを、巡礼者が「白狼の墓」とよんでいるそうだ。
理由はよくわからないが、樹氷の姿が白い狼にみえるのだろう。

龍は水を司り、狼は土を司る。
龍と狼は同一ではないが、互いに融合した霊体。

ちなみに、エーテル体は植物にもある。
アストラル体は、人間と動物にしかないそうだ。
アストラル体、エーテル体というのが人間の層にあって、ぼんやり白く見えるものらしい。
この層がいろいろ記憶している貯蔵庫の役目をはたしている。(オーラとは異なる?)
詳しいことはよくわからないが、進化しているのは人間の肉体だけではなく、それを取り巻く
層も進化しているという事。

Photo06 (天狗岩)

吾妻(あがつま)-------------------------------------------------------
「あずま」とも「あがつま」とも読むが、古くは群馬県の吾妻(あがつま)が由来。
ヤマトタケルが「吾妻はや」と妻を恋しく思った唄があると言うが、どうも、安曇の「あずみ」に関係しているような気がしてきた。

新潟~関東~会津~東北へ。ヤマトタケルは、何しに東国へ?
アテルイなども、京都で亡くなるし、ヤマトタケルも最後は大和に戻り亡くなって白鳥になって飛ばされた…。
でもその白鳥神話を長く受け継いでいる地域が宮城県の白石だったりする。

なぜ、東北へ行った人は、最後は奈良県や京都の大和へ葬られるのかでしょうか?
単純に、征伐してきました。といって大和に還るものなのだろうか?
逆に、西に捉えられて葬られたと考える方だと私は思うのだが・・・。
坂上田村麻呂は、寝返り、大和側についた人だと思う。

Photo02 縄文人の黒曜石の交流ルーツは、長野県の諏訪が中心地だし。
海人族の聖地は、日本海や青森県だし。
青森には巨大な王国は縄文時代からあるし、会津地方は奈良県の古墳が建てられる前からすでに巨大古墳があった。3世紀末頃からと考えられ、おそらく新潟県糸魚川からやってきた
安曇氏に関係しているようだ?
その途中に、関東地方があったのだから、糸井川や千曲川、利根川、荒川を利用してきたのだろう。
埼玉県の巨大な古墳も、大都市を築き、金をよく知っていた騎馬民族がすでにいた。
それがメソポタミア文明と同じ文化を持っていた人たちだったからびっくりだよね。

先に「さきたま王国」で軍事を司る物部氏や阿部氏は、「後になって」大和朝廷に出向いている。
軍事として転勤する、みたいなものだ。
だから武蔵といわれた土地に、物部氏を祀る神社や出雲神社が多いのは、そこを占拠していたからだよね?
大和朝廷は、さきたま国と同盟を結んだ方が良いと思ったから、大和へ行った人もいたし、反対した人は東北へ向かった。それが阿部氏や安東氏になるのでしょう。

西日本の歴史からみれば、東北は最果ての「端」であるから、東の端(つま)で「あずま」とよんでる。
だから吾妻は東北なんじゃないの?という妄想。
どうも、ヤマトタケルが一人の人物とは思えず。
ヤマトタケルは、東北地方では白鳥が飛来する地域の周辺に多く語られる。
秩父では狼とヤマトタケルはセットで語られる。
ヤマトタケルの最後をどうするか?考えた時に、白鳥信仰の関係が深いことを知って、記紀には、白鳥にして飛ばせた歴史を書いただけでは?
で、やはりそんな扱いをされるというのが、「武」の中にしつこいけど女性の存在があったんじゃないのー?

という事は、ヤマトタケルという人はいなくて、白鳥、狼、などのトーテム崇拝をしていた豪族を
征伐しました。と伝えるために、「武」という人が征伐したことにしただけだと思います。

それに、その武という人が複数いたとしたら、同じ豪族同士の争いもあったかと思います。大和朝廷建国にとっては、白鳥や狼は敵としてみていたのでしょう。

Photo07 (これが庭だったらいいな~…)

修験者は、その狼を白いエネルギーと捉えて、山の神々に捧げてきただけにすぎず。
で、その山神は女性。
やはり、男は母を求めるもの。
狼は姿・形を変えて生きているのだとつくづく想うお話でした。

※写真はすべて西吾妻山(2009年秋)

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仙台市中山の狼石(おいのいし)

2013-09-18 | 東北地方の狼信仰

昔、実沢の庄之助という人が馬に薪をつけて仙台へ売りに行き、一匹の狼が口をあけて苦しそうにしていた。
近づいてみると、のどに狼の骨が刺さっていたのでそれを取ってやった。
それからは、仙台から帰る時にはいつもその狼が後からついて自宅の近くまで送ってくれるようになった。
庄之助はお昼のおにぎりを二つ持って行き、一つは残して別れ際に狼にやるようにしたという。
庄之助が亡くなった時は、山の方から悲しそうな遠吠えが聞こえたということである。
狼石は後年、その子孫が狼供養に建てたものといわれている。

(仙台教育委員会)

Oino Oino02

(三峰山の石碑)

中山道の月坂とよばれる道に、小さな看板で「狼石」がみえた。
三峰山の石碑、天照大神、馬頭観音など4,5くらいあったと思うのですが、三峰山と天照大神の石碑しか立っておらず、他の石碑は地震のためか?すべて倒れていました。
草もボーボーだけど、お神酒などがあり管理されているようです。

東北地方では特に宮城県、岩手県に三峰山の「おいのいし」がいくつかある。
日本海側では聞いたことがない。
太平洋側に集中しているのも何か意味があるのかもしれない。
が、狼石は、たいてい三峰講の人達がおいていく。

秩父は盆地で地形的に狭い山里。
盆地と平野に住む狼ではタイプも違っていたかもしれない。
秩父では大滝地区や栃本のように峠に住んでいた集落が多く、山と接近しているため、狼との距離も近くにあり生活の中に狼信仰があると感じる。

Totimoto02 Myoukenview
(秩父:栃本集落と妙見神社)

東北地方でも峠はとても多く奥深い山々が連なっているが、栃本のように斜面に暮らしている集落はほとんどみたことがない。
なぜなら、冬はとても雪が深いため生活がたいへんだからだ…。

Ookami_2
東北地方の狼信仰は、昔は邪教と考えられることが多かったそうだ。
平泉の衣川にある三峰神社のように、神道が武力として利用されていた時代、三峰神社が政治の力に置きかえられることもある。

三峰神社の狼信仰は江戸時代頃から全国に広まりました。
この頃、狂犬病が流行し、狼が家畜を襲うことが多くなったため、各地で三峰神社や石碑が建てられるようになりました。

家畜を襲う狼を仕留めるには至難の業。
神(狼)にすがるしかない。という思いは、今も昔も変わらず…。
結局は、外来種や銃殺によって絶滅してしまった為、それから一気に狼信仰は途絶えた。

それでも三峰神社はある。(写真:三峰神社の狼)
ただそこに、狼信仰が入ってくるとだんだん人は動物と共存して生きていた時代を忘れてくる。
神社が悪いわけではないけど、あんまりにも神社を全面に出しすぎると本来の姿は見えてこない。

ここに住んでみて三峰神社や三峰講の人たちが、なぜ、この場所に石碑や祠を置いたのか?だんだん見えてきた。
この地形から、狼が森の番人だということが黒川郡同様、見えてくる狼森の風景がある。(今は団地が密集しているが…)

View01

このあたり、北中山~根白石方面に狼が棲息していた。
根白石には古くから信仰があり、泉ヶ岳も信仰の山。
泉ヶ岳から北西に縦走すると船形山にあたる。坊主岳といわれる名前の山は、別名三峰山という。
三峰講の人たちが、このあたりまでやってきたことがあったようです。

根白石方面は、熊野信仰の他、雷神、道祖神などがある。
魔よけとして建てられた道祖神であるから、このあたりの街道では、ムラを守るために置かれたようです。

伝承では、狼の石碑や三峰神社の祠を祀ると狼が村を襲うことがなくなったと伝わる。
大滝の他に西へ向かう横瀬~吾野~飯能にも狼がたくさんいた。
でも伝説として残っていても、形としてはほとんど残されていない。看板もない。

神社は、実はそこには何もなかったりする。
人が想像して瞑想して、自然に対して弔う場所を作りなさいということが信仰心だと思う。
そういう場所に石碑や祠は立つ。
人ではなく自然や動物に対し、命を弔う場所は必要だった。
山形県の草木塔など、東北地方の信仰心はとても奥深い。

仙台のこの地で、狼を供養する塔として置かれているのはとても貴重なのです。

Kannon View
(途中に仙台大観音がみえます。観音様の展望台から根白石方面。手前はゴルフ場)

<狼石への道>

仙台駅から実沢営業所方面行きのバスで、県特殊教育センター前下車。道なりに下ること約5,6分。 東北道ガードをくぐると看板があります。
※車の場合、駐車できる所がないのでバスがオススメ。

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三本木町の三峯様

2011-01-20 | 東北地方の狼信仰

San01 宮城県大崎市三本木町。冬は雪が多い所ですが広い田園風景がとても美しい所。

夏は、ひまわりの丘のように広大な面積にひまわりが群生するスポットにもなっています。

ここに「三峯荘」という温泉があります。

▲三峯山をめぐる今昔物語(三本木町史)----------------------------------------▼

三本木町の三峯様は、三峯山に祀られている社。昔、この峯に狼が出て、山へ行く人々に害を与え、地方の人たちは、常に脅かされていたと。

この災害を取り除くために、農閑日を祭日と定め、村人は全休し、赤飯を炊いて三峯様に供して祭る。(省略)

三峯山の連峯、山間の楽園も近き将来は、この地一帯の山は隅から隅まで何か引きつける魅力がみなぎっていると、近き将来は観光地としてふさわしいところである。

又、こうした所に何か不自由を感じている矢先に南町の早坂徳兵衛氏が、鹿の沢の地において、大豆板温泉を経営されたのは、今年の春まだ日浅いことである。

氏の計画されたのは、町の発展のみならず、町内外の観光団体の「憩」の場所を求めようとする人々のために施設されたのが、三峯荘である。

▲--------------------------------------------------------------------------------------------▼

三峯神社は、勧請は不明。火伏しの神として祀られたようですが、昔、三本木が大火にみまわれた時代に、秋葉神社と共に勧請されたものといわれています。

文久(1861年~1863年)の碑があるので、その頃にはあったらしい。

このあたり一帯は、神社が多く、古くから古墳も残る場所。

Enoki_2 鳴子温泉まで行く陸羽東線に乗って、列車からみえる冬の景色から、ここにも狼信仰が伝わっていたという事。昔の人の熱い信仰心には、常に感心させられます。

この時代は、飢饉が多く、火山の噴火、異常気象などに悩まされ、作物がとれず亡くなる人も多かった時代。そこへ信仰にすがる人々の思いが、各地に残されています。

三本木の地名は、「和名抄」にも記載され、三株の榎があったといわれています。江戸時代には、街道に榎が植えられていました。

山形県新庄では、ブナ木が街道に置かれている所もあります。大体は街道に松の木を植えますが、東北地方は別の種類の木が植えられている事が多いです。

(写真:エノキ by wikipedia)

San02_2 

大崎市平野からみる薬莱山(陸羽東線から)

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