秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

秩父の虎と二十三夜寺

2017-12-10 | 秩父の祭りと信仰
恒持神社付近をマップで調べていると、
富士仙元神社とその先山中にある二十三夜寺というのを見つけた。
十八夜や二十三夜とか、月待講に関係するのですが、
皆野町三沢に月待講があることは知りませんでした。


三沢:二十三夜寺から秩父方面

ところで、秩父神社で寅の秘法を信仰した徳川家康がいた。
という話は、鬼門を開いた意味になるのかね?
「寅の秘法」が何のことやらわかりませんが。

信貴山というのが、奈良県生駒山にあります。
生駒といえば、あの車輪の家紋ですね。天使ケルビムです。



※生駒氏の家紋

生駒氏の車輪の象徴は、波を切ってすすむ波切車という。(なぜか半分)
また、生駒氏の「駒」の意味に、回転する光のほか(隕石説も)、
駒は、高麗、狛、独楽・・・といろいろある。
狛犬は高麗の犬。独楽は、回るものだが古代にあったものか不明。

生駒は、元は二ギハヤヒ降臨の鳥見白庭山という所を占拠していた氏族。
これは、秋田の鳥海山と同じ二ギハヤヒ降臨地やエミシの地周辺に駒形を祀る
のと同じ意味があると思った。

駒形神社は東北地方に多く、エミシ征伐に必ず祀られるといわれ、
それが私が勘違いしていた千葉県市川市大野に駒形大神社があったのです。
平将門を祀る神社でした。大町のとなり町。
父の平高望王が上総に任じられ坂東に下向けした。

駒形を祀るのを嫌がるエミシとは、大国主を祀る(ミワ信仰)ことを排除されたから?
それを物部氏が嫌がったということもあり得ます。
そこに何かありそうで、物部氏が嫌がった理由に、寅が関係していた・・・。

信貴山の縁起に、
「毘沙門天に援(助)けられたのが寅年、寅日、寅刻だったので、
これに因んで「虎」が神使としての扱いを受けている。
しかし、毘沙門天の本来の神使は百足(ムカデ)とされる。」


ここでムカデが登場。
ムカデといえば、秩父和銅黒谷に聖神社がありますが、
百足を奉納しています。
聖神社は二十三夜寺のすぐ西側にある。


信貴山の絵馬
毘沙門天の神使である百足と虎の絵が入った絵馬。
毘沙門天=百足=和銅黒谷=聖神社(大国主)=二十三夜の月=聖徳太子。

信貴山朝護孫子寺は、奈良県生駒山にあります。
全国の毘沙門天を祀る社の総本山とされる。
「縁起」の概要は、
「聖徳太子が、朝敵物部守屋を討伐しようとこの山に来て、
戦勝の祈願をすると、天空遙かに毘沙門天が出現して、必勝の秘法を授けてくれた。
その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻であった。

聖徳太子は、そのご加護で敵を滅ぼすことが出来た。用命天皇2年(587)。
世が治まって後、聖徳太子自ら、毘沙門天の尊像を刻み、
伽藍を創建して、信ずべき山尊ぶべき山「信貴山」と名づけた。
延喜2年(902)、醍醐天皇から病気快癒に謝して、「朝護孫子寺」の勅号が贈られた。
以来、信貴山の毘沙門天は虎に縁のある神として信仰されている。


※毘沙門天の百足より
http://www9.plala.or.jp/sinsi/07sinsi/fukuda/tora/tora-1-1-1.html
---------------------------------------------------------
偶然なのかわかりませんが、皆野町三沢の二十三夜寺に12月3日に参拝しました。
後で調べてみると、興味深い伝承のお寺でした。
二十三夜といえば、月待講です。
しかも、なぜかここに聖徳太子が開山しているお寺と伝わる。
このお寺の由来がなかなかです。





「その昔、聖徳太子がこの地を巡訪された際、諏訪明神から夢の中でお告げを受けた。
ここは仏法隆盛の地であると奇異な思いを感じた太子は、自ら薬師如来の像を彫刻して
 草庵に安置、医王善逝の寺とした。これが今の奥の院である。
聖武天皇の時代には行基菩薩が巡訪され、勢至菩薩を安置し、師慶山観音院と名付けられた。」




まだ伝承はある。

「弘仁元年(810年)に弘法大師が訪れ、この地が往古の霊場との念から坊舎仏閣を建立、
大師が自ら馬鳴菩薩を彫刻し、これを安置した。
また、境内地に井戸を掘った際に不思議な球体の石を得た。これを「月輪石」と名付け、
火防の象徴として祈念した。」





勢至菩薩とは、先月、名取の高舘山に登った時のキリークの石碑が勢至菩薩で、
あまりお目にかからないな~と思っていた菩薩様でした。



「聖徳太子開山の祈願寺」
詳細は、こちらのサイトへ。
http://nijusanyaji.com/





このお寺には、不思議な月輪石というのがあります。
通常、開放していないようです。
古来より雨乞いの儀式(雨乞い祈願)の際に逗子の扉を開いて
祈願する霊験の石と伝えられているそうです。

こんな話がサイトにありますので紹介します。
平成25年秩父に例のない大雪をもたらした日。
平成25年1月27日は、初護摩の縁日だったのですが、その矢先の大雪。
天気予報は午後10時~翌朝9時まで雪だったため、
「月輪石」の御宝前で「降雪伏せ」の祈願を厳修したところ、
雪はおろか小雨さえも降らない天候に落ち着くという、不思議な体験をしたそうです。

他にも、平成25年10月27日、大型の台風が関東地方に接近しており、
台風の影響で二十三夜の月見ができないと思っていた。
しかし、午後になると雨はすっかりあがり、晴天になったという。
27日午後11時半からの少しの間だけ、晴れて月観ができたので喚声があがったそうです。
翌28日午後には曇りはじめ、29日は雨。天気予報では台風が去った後は晴れると
いう予報でしたが、それとは逆の天気になったそうだ。
その日は、月観の午後に、参拝者から月輪石を見せてほしいとの要望があり、
ほんの数分だけ扉を開けたそうです。


お産の石仏と如意輪観音

-------------------------------------------------
月輪石は、扉を開けると晴れになり天候が変わることがありそうです。
雨乞いにふさわしい石なんですね。
私の父が、子供の頃、三沢まで歩いて参詣したそうです。
父は祖母と一緒に二十三夜寺の下に小さいお社があるのですが、
金比羅さんで、そこまで来たそうです。





・・・だから私もここまで参拝してしまうのかなぁ。
でもこの場所までは車で来ましたけど…。
さすがに横瀬から歩きはきついね~。



でも、なぜ毘沙門天と寅なんでしょう?
方角に意味もありそうなのですが、
物部氏と聖徳太子の話は、八尾市の歴史に物部氏と蘇我氏の仏教をめぐる
争いで古戦場になった場所です。
聖徳太子は、戦勝祈願のため四天王を祀り、その加護によって
物部守屋を打ち破ることができたとして、その地に大聖勝軍寺八尾市太子堂3丁目)
を建立したといわれています。

その話の中に、神妙椋(しんみょうむく)というのがあり、
物部守屋に攻め込まれて聖徳太子が危険な状態にあったとき、
椋の木に寄り添うとその幹が割れて開き、聖徳太子はその割れた幹に身を隠して
難を逃れたという伝承がある。

椋神社は秩父固有の神様です。
猿田彦神、天児屋根、経津主神(ふつぬし)、応神天皇を祀る。
景行天皇御字の創建にして、もと猿田彦大神一柱を祀ったと伝わる。

聖徳太子が助かった椋の神が、高麗ならば納得できます。
椋は「モグ」の高麗語で村という意味。
もぐ→むくになった説があります。
高麗神社は猿田彦命と高麗王若光を祀っています。
つまり、椋は高麗の人たちと考えると聖徳太子は高麗人に助けられたと。
信貴山でも聖徳太子が秘法により助かったのは、
生駒の駒→高麗であると考えられます。

祖母の実家は吉田町で近くに椋神社があったので、小さい頃、よく獅子舞をみにいってました。
その神社は、秩父事件でみんなが結集した場所です・・・
かなり前ですが「草の乱」という秩父事件の映画があり、なんと両親と仙台でその映画をみたのよ。
夜、椋神社に集まって反旗を翻しているのをみて、あそこかっ!!ってなるさね~。
そんなところで遊んでいた私・・・。

県外の方が言っておりました。
秩父人が本気になったらすごいでしょうね。って。
・・・でしょうね。笑
でも、ばあちゃん家は、秩父事件には一切関与してませんでした。
曽祖父は、屋根裏に隠れていたそうです。(捕まると困るから)

といった歴史があるならば、椋というのは深い意味があり、
何か過去のいろんなわだかまりを清算するために秩父事件になったと感じます。
民族の誇りをもちつつも、先祖への恩返しができない怒りが爆発。
そういう遺伝はもっているでしょう。

そんな秩父では、高麗人は赤平川~蒔田地区に住んでいたそうです。
高麗と対立していた新羅は、先に和銅黒谷を占拠していたのですが、
後に高麗人によって政権が変わったのでしょう。
和銅黒谷は新羅系の金上元→金山洞窟にシャングリ様の小社があり、養蚕の神である。

なので、新羅人は養蚕を伝えた秦氏系であり道教も伝えた。
でも、秦氏・物部氏VS蘇我氏とは単純に言えません。
ここは難しいところなのですが、縄文遺跡も多く見つかっている秩父なので、
先住民族が崇拝していた土地に開拓してきた渡来人が入植してきた。
新羅や高句麗・百済などの帰化人が多い。
もともと日本人だった人が多いのですが、
戻ってきてから互いの権力争いに巻き込まれたでしょう。
元あった諏訪神の信仰を、上書きされて新羅由来の養蚕・妙見信仰、
高麗由来の椋の神という宗教に変わった。

九州では豪族(先住民)と手を組んだのが新羅。
大和朝廷(渡来人)と手を組んだのが高句麗。
その対立が、そのまま東北へ流れているようなんですね。

しかし、新羅のほうが縄文の精神を継ぐ意識があったのか、
北斗七星や北極星などの星信仰はそのまま継承したのだと思います。
それが平家集団として形成されたわけです。
天の岩戸開きは、秦氏はユダヤ人が定説なので、
ユダヤと日本の融合を考えていた場所のひとつに、秩父があり、
思兼命を崇拝したのだと思います。
それが艮の金神、国常立命なんだと思います。
この存在の働きを知っていたというか、縄文回帰という言葉がありますけど。



なので、ひっそりと武甲山麓に、国常立命をおいたのは、
御嶽講と富士講の人たちだったわけです。
あぁ、そうだった。
元々この妄想は、富士塚の「ひふみ」国常立命でした。
武甲山麓に「神様の墓場」と勝手に命名したくなる古御嶽城跡にたくさん石碑があります。
ずっと前にみよさんと探検してきましたけど。
国常立命の石碑と氷川大神、春日大神が中心にある。


(中央に三創世神の国常立命、右:三大神社の春日大社、左:氷川太神)

コノハナサクヤヒメの産泰神社や、「岩戸神社」と刻まれた石碑も。




岩戸神社

だから、武甲山麓にも誰かが国常立命を降ろしたわけでしょう?
それで武甲山が破壊されたというのは、シバ神みたいですが、
その代わり、何かが潤っているわけです。
それは東京でしょうね。。。
トーゼン、首都東京が潤っているから、武甲山が破壊される。
しかーし、日月神示のように、もうそれが厳しい状態になっている暗示ですね。

その潤いが単なるお金という経済であり、それが正当に潤っているならばよいが、
間違った方向へ行っていたら大惨事になる。
それこそ後の祭りじゃ。
そうならないように、秩父夜祭が武甲神にご機嫌をうかがっている。
機嫌を損ねないように?





長瀞にも、石上神社、光玉稲荷神社があります。
国常立命を中心に、氷川太神、春日神社の他の神々が連なるのは、
魂を天へ上昇させることができるように氷川と春日の神々を祀ったと考える。
-------------------------------------------------
最後に、面白い話を。
1万5000年前にモンゴルとシベリア境界付近に衝突した隕石とみられる仏像があった。
なんで毘沙門天なの?という疑問があって調べたら、デタ。
その隕石で作られた毘沙門像があったというのだから。
ホントカ?

チベット仏教が盛んになる11世紀より前に、ナチス親衛隊が見つけた仏像。
ヒトラーはアーリア人が最も優秀であるということを言い張っていた。
「仏像は高さ24センチ、重さ10.6キロの毘沙門天の座像で、
開いた右手を下に向けている。
化学分析の結果、鉄とニッケルを多く含むアタキサイトという極めて
珍しい隕石を彫ったものであることが分かった。」
だそうです。

像はこちらで。
http://www.afpbb.com/articles/-/2904113
しかも卍のマークだ・・・。


シャンバラ王のヤシャスみたいで。
時論のタントラ。
やっぱり地球の時間が変わってきている。

で、このポーズがどこかでみたことあるような。
思いだせないけど、踊るシバ神にも似てますね。
足が踊っているみたいな。
右手を下にしているのは、教えを受けるポーズ。
日本の大黒天は、シバ神と大国主が融合している。


いい笑顔だね~!(Wikipedia)
笑みしだね~。

シバ神は、破壊と再生の神。
シバ神は虎柄のパンツをはいているね~。
シバのリンガは蛇で、クンダリニー。
光の結合の意味があるそうです。


(Wikipedia)

過去に無理やり抑えてきたことが爆発してきてるのかも。
みんなストレスや怒りで蔓延してるし。
でも、ナチスが見つけた毘沙門天が、あんまりイメージないですけど。
毘沙門天というよりは、聖者みたいですねえ、宇宙人の。

岩手の成島毘沙門堂を想う。
まだ行ったことないけど。
なんかね~、フツウツと思うね。
成島毘沙門天は、坂上田村マロでしたか?
聖徳太子が毘沙門天と一緒に物部守屋を倒したというのなら、
エミシの地に毘沙門天を祀ったマロは、物部守屋のことを考えて?
悪路王の主は、物部氏=もののふだったとも言えますね。。。

言霊入門「ひつく神示」によると、
ヤマトタケルの唄にもある
「八雲立つ、出雲八垣 妻篭みに 八重垣つくる その八重垣を」
これを言霊で解釈すると、八を4回言っているのは、
四方八方のこの世を越えた次元の法則があり、ヤマトタケルは魂の目覚めの
唄を言っていると解釈される。
八は空間の広がりであり、妻篭みの「篭」は、かごのことだが、子宮を現す。

三柱の神は、神と天と地を表し、天と地の橋渡しをする役目は国常立神。
言霊のいのちは「ヒ」「ミ」の火と水の意味がある。
いのちのヒミを司る国常立神に、地の世界がオトヒメ(龍神)とされる。


かご・・・籠神社・・・。
三柱は、シバ神の三頭と同じです。
シバ神は日本でいう国常立神なのかもしれません。

ということで、どうなることやら。
日本から始まる=日本がますます厳しくなる。
世の中のいろんな仕組みを知りたければ、
まずは、先祖参りが欠かせません。
そうすれば、この先の道筋を照らしてくれます。
しばらく物部氏のことを忘れてましたが、
私はもののふ(武士)の鎮魂が意味あることだと思えてなりません。

秩父妙見と狼の話をしようと思ったら、
こっちの妄想が強すぎて書けませんでした。
また後で何か出てきたら秩父妙見の妄想してみます。

ということで、ひふみ探訪は終了~。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

秩父夜祭と秦氏の機織り

2017-12-09 | 秩父の祭りと信仰
私はよくやる「勘違い」をしてまして、
長野県市川市大町・大野町には、平将門伝承があったと思ったら、
市川市は長野ではなく千葉県でした。笑

でも、長野県にも大町市という場所があった。
12月6日に長野県中部にM5.2の地震があったそうです。
大町市は震度4だったそうです。
大町市には地震が昔から多いようで、
大町地震といわれる大きな地震が大正7年にありました。

千葉県の大野城に将門さまといわれる弁天祠がありまして、
蛇の形をした弁天さまもいらっしゃる。
地震と弁天様(蛇)と何か関係ありそうですが、千葉と長野が混同しているので、
妄想は無理~。後で何かでてきたら書いてみます。
--------------------------------------------------
さて、秩父夜祭の謎に寅が関係していた話があります。
秩父は妙見信仰のメッカで、秩父神社は天之御中主神を祀り、思兼命も合祀してます。
おそらく思兼命が古く、後から妙見様を置いたと思います。
地方史研究によると、明治30年まで広見寺の住職が、
12月3日の朝、秩父神社の寅の門を開く定めがあったと。
広見寺は妙見堂があり、正門前にある妙見菩薩と関係するそうです。


また、鬼門寺ともいう。
なぜか、虹の寺。
廣見寺のサイト
http://www.chichibu.ne.jp/~kokenzi/

徳川家康公は、寅歳の誕生にあったので、秩父神社に寅の秘法を信仰したと。
「大星妙見の大斎秘法の御手洗を汲んで祈念したと伝わる。
その水は、秩父神社の近き辺なる七ツ井戸として七星の神水になり今日に至る」と。
その7つは、小鹿野藤原、皆野金沢、長瀞矢那瀬、東秩父村安戸、
横瀬町大野、入間名栗、飯能市北川が北斗七星となって秩父郡の境を守っていると伝わる。


日光東照宮の表門には、家康の生まれ年の干支が「寅」であることから、
虎の彫刻が幾つも施されている。

寅は、北東(艮=うしとら:丑と寅の間)です。
秩父神社の裏に「北辰のふくろう」が彫刻されていますが、
体は南に向いているのに、顔は北を向いている。



南に鎮座するのは武甲山。
フクロウは、平家の祖、高望王(恒持神社?)か平将門
伝承のある高篠の方角にあたるので、平将門が反乱をおこさないように
見張っているといった説もある。

けれど、こういった祀り方も、天変地異への恐れからきているのだと思うのです。
フクロウの北は、渡来する人たちがその方向から来ているわけで、そこには荒川がある。
東の横瀬町は山に閉ざされている。
川の方が入りやすい。

その先は武甲山など秩父連山がそびえています。
なので、武甲山から先へ伝播させないために、武甲山麓に八坂神社(牛頭天王)
や塞神をやたらと祀っているのです。
災害による伝染病への蔓延を留めるといった意味のある夜祭は、
秩父の神がそれを阻止することを願っての意味もあるのです。

秩父神社を参拝すると自然に北極星に祈る形になる。
このような思想をもたらしたのが、秦氏説もあるのです。
機織りの秦氏ですね。

また、秩父神社を中心に置くと、ちょうど北東は恒持神社の方角に。
でも、玄武は北にあるけど、亀の子石は南の方角にあるなあ。
まあ、一応、南を武甲山とし、北を秩父神社とみた場合です。


南は直線に飯盛山、水を司る辰巳の方角は武甲山の横瀬町にあたる。
秩父夜祭が機織り姫伝説のように、年に1度、武甲神と秩父神社の神が出会う
天の川伝説になっている。龍神=武甲山なので、
その方位が、秩父神社から辰巳にあたるからです。



秩父夜祭の日、屋台のお囃子の音を止めて通る習わしがある。
「武甲山男神(龍神様)の「本妻さん」とよばれています。
妙見祭礼(秩父夜祭)は、俗に秩父神社の妙見様と武甲山男神が年に一度の
逢瀬する祭りといわれ、このお忍びに気を悪くなさらないようにと
祭礼の前日の2日夜に諏訪本宮にお参りして「諏訪渡り神事」が執行されます。」
(江戸時代には、祭礼当日の朝に神事が執行されていました。)
3日の夜は、屋台と笠鉾がこのお諏訪さまの近くを巡幸する際はいったん停止し、
屋台囃子は休めるという風習は今も残っています。」



----------------------------------------------------
国譲りのような話ですが、天孫系が稲や蚕をもたらした。
麻から絹の転換に秩父夜祭がある。
諏訪神は縄文であるから、後から来た渡来系の氏族(おそらく秦氏)
が秩父に養蚕をもたらした歴史があったのでしょう。
なので、秩父夜祭の時に、繭を奉納します。



昨年の話ですが、平成28年12月2日(宵宮(よみや))3日(本祭(ほんまつり))
に開かれた「秩父夜祭」は、別名「お蚕祭り」とも言われ、
繭を大神様に奉献(ほうけん)し、1年間の恵みに感謝します。
翌日4日、JAちちぶ養蚕部会は、秩父神社にて「養蚕倍盛祈願祭(蚕糸祭)」を
厳(おごそ)かに執り行い、生産者や養蚕関係者、JA役職員ら39人が出席しました。



※JAちちぶ
ということで、毎年、繭が奉納されています。
寅と一緒に・・・。


繭(まゆ)


子育ての虎

秦氏は雅な人だったと思うのです。
いろんな神事を残し、機織り技術を奨励し、麻も養蚕も見ている先は同じだと思う。
自然を破壊するためにもたらされた物ではないこと。
体に「纏う(まとう)」ことの意味がある。
そんな風習を秩父にもたらした秦氏はすごいなあ、と思います。
秦氏が開拓した嵯峨野・太秦周辺にある木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)
という噛みそうな長い神社がありますが、蚕の社といわれ、天之御中主神を祀ってます。

また、その信仰が妙見信仰となって北斗七星になる。
これは諏訪のルーツをそのまま継承しているのでは?
秦氏は「侵略者ではございませんわっ。」(ちょっと雅な言い方で)
…そう言いたいのでしょう。

さて、もうひとつ、なぜ寅なのか、毘沙門天の虎というのがあります。
これまたあるお寺に参拝して繋がっているような気がしました。
いや、繋がっているから参拝したんだな。。。
調べてみると寅が聖徳太子に関係する。
実は、恒持神社へ行く前に、最初に参拝したお寺があったのですが、
それが聖徳太子に関係していた・・・。

次は、不思議なお寺の話。
秩父ネタが長いのですが、
懲りずに、つづく~
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

秩父平家と機織りの夢 

2017-12-08 | 秩父の祭りと信仰
久々に不思議な夢をみました。
昨日の晩ですが、私の母方の祖母のことをノートにいろいろ書いてました。
いろんなことを調べているみたいで丁寧な文字で書いてます。
その内容について、母に聞いているのですが、
祖母が「機織り姫」だったことがあるといった内容でした。

機織りか~と思っていると、場面が変わり、モノクロの風景。
知らない村を散策しているのですが、どの家を覗いてみても、機織りがあった。
この村では機織りをしている家が多く、どの家にも立派な神棚もありました。
どの家も機織りで生計を立てているようで、神棚も立派なのは珍しいと思い、
奥の院は何だろう?と思って、
googlemapで調べたら、写真がでてきた。
山中の奥に小さい岩山がみえ、松が映えている。
そこに赤い橋がかかっており、弁天様だ!とすぐわかった。

そこまでまっすぐ歩いていけそうなので、行ってみようと歩きだしたら、
スマホに着信が何回も入っていた。
電話してみると、知らないおじさん。
もう帰らないといけないという。
ここから家まで4時間もかかるらしい。
電車で帰るから、と断ろうと思ったが車の方が楽。
おじさんは車で送ってくれるというので、弁天堂へ行くのはあきらめた。
土産店で待ち合わせしてみたけど、60代くらいの知らないおっさん。
でもそのお店は、中国のお店で定員も中国人。
お土産を買うにも、私は中国と知って値切りまくっている。
しかし、日本円しかないので、しゃーね~な、という顔をされて安く購入できた。笑。
何を買ったか覚えてないのですが、おっさんの車の運転が大丈夫か心配している。
そんな夢でした。

弁天堂には行けなかった残念な夢でもありましたが。
祖母が機織りに関係している夢だったのですが、祖母は全く機織りなんてしてませんし、
蚕も飼ってない。
祖母の家系を詳しく知らないのですが、鉢形城で北条氏側についていた立派なお坊さんがいたそうで、
その僧侶に関係しているとは聞いていました。
祖母の家はお屋敷で立派な蔵もあり、吉田町では裕福な方でした。

夢の中の村の風景は、昔の秩父だと思います。
秩父は養蚕が盛んな所なので。
いつの時代か不明ですが、秩父にもあんな小山に弁天堂があったんだ~と思うのです。

さて、前回の話から、恒持神社の話をしようと妄想を膨らませていたのですが、
この夢をみたら、秩父平家=平将門=桔梗姫みたいな流れになっている?と思ったのです。
その間に、橋姫が登場・・・どーいうこと?
まずは、恒持神社について。
------------------------------------------
恒持神社(つねもち)の由来。(秩父市山田)

「現在の恒持神社は、明治41年に近在の丹生社、諏訪社、稲荷社を合祀したものである。
そのうち、恒持神社の由来は、平城天皇の御代(大同元年806年)恒望王(平家の祖
高望王の弟)が武蔵権守に補せられ、官舎を新木の地(現恒持神社)に置いた際、
神沢(現横瀬村)にあった高斯野社(たかしの)を官舎近くに遷し、ここに勅定
高斯神社の社号を賜り十五か村の総鎮守とした。





祭神は水の神で、高篠山山頂清水のこんこんと湧き出るところに竜神社をまつり、
旱魃で水が不足すると笛や太鼓で御幣を振りながら「雨賜べ竜王なあ」と
哀調子で天に向かって叫びながら、竜神社まで登り、雨乞いを行ったものである。
毎年三月十五日、恒持神社例大祭は、「山田の春祭り」として秩父地方へ
春を告げる最初の祭りである。
江戸時代から伝えられた屋台、笠鉾が秩父屋台はやしのリズムにのり曳きまわされ、
山挟の歳時記として一段と風情をかもしだしている。」






秩父人の寡黙なプライドの高さは、下向などと言われた貴族出身者による、
悔しさみたいなものはあるのでしょう。
高望王の父は、葛原親王の第三皇子とされる。(786年)
葛原親王の父が桓武天皇。
母親が多治比家なんですね。
サンカの話に登場する、イタドリの葉の由来があるタジヒ。


----------------------------------------------------------
高篠山に「わらび長者」話があります。

「秩父の高篠山に、栄華を極めた長者が住んでいた。
この長者は、毎年春になると屋敷中の人間を駆り出し、高篠山のわらびを採るのが習わしだった。
ある年のわらび狩りの日、長者がこう厳命した。
「良いか皆の者、あの日が沈むまでに高篠山のわらびを全て採り尽くせ。
日が沈むまでに高篠山のわらびを全て我が屋敷の倉に納めるのだ」

幼子から年寄りまで駆り出されてのわらび狩りは続いたが、
とても1日では山銃のわらびを採り尽くせるものでは無かった。
じりじりとその様子を眺めていた長者は、何を思ったか愛用の扇を取り出し、
「エイホゥ 夕陽よ戻れ、エイホゥ 夕陽よ戻れ」と叫びながら扇で夕陽を指し招いた。

すると、沈みかけた夕陽が再び戻って辺りを照らし、やがて高篠山のわらびは全て採り尽くされた。
ところが、高篠山のわらびが全て蔵に納められたと同時に、
蔵の中に積まれたわらびが赤トンボに化けて次々と高篠山に戻って行った。
季節外れの赤トンボが群れ飛ぶ中、長者は狂ったように扇を手に「夕陽よ戻れ」と叫びながら舞い続けた。
その内扇をひと振りする毎に屋敷が消え、蔵が消え、しまいには長者の姿も消え、後には扇と無数のわらびだけが残された。



以後、高篠山はわらびの名所になった。
また、後々の時代になっても山の頂上で時折「夕陽を戻せ、夕陽を戻せ」と
言う叫びを聞く者があったと言う。」

※まんが日本昔はなし。

わらびがトンボに変わった話を聞くと、秋田の大日堂の「だんぶり長者」を想像してしまいます。
だんぶりとは、トンボのことで、秋田の鹿角に伝わります。
関係しているかわかりませんが、横瀬に安保氏という人がいて、その人は秋田の鹿角に行ってます。
秋田のだんぶりと、高篠のわらびトンボが似ていると思いますが・・・。
--------------------------------------------------------
さて、「葛(くず)」の言葉を使うのは、葛城系だったり国栖や土蜘蛛やらいろいろ。
藤原不比等は、律令制度を作った中心人物でした。
その大宝律令に反対した人は、自害させられたり左遷されたりした。
葛城氏の他、物部氏、多治比氏、上毛野氏、穂積氏など。
その左遷された人の中に、高望王がいたわけで、諏訪を経由して秩父に入ったと思います。
後に平家VS源氏となっていくのですが、
まつろわぬ民と言われた人は、日本を独立国とすることに反対したと思います。

昔から東北地方は積極的に海外と交易を進めていた場所です。(十三湊など)
中国大陸、朝鮮半島、東南アジア(九州)と日本を含めたアジア圏としてみていたのですが、
中臣鎌足など朝廷側は、日本を独立させて神国を目指すために、
大宝律令を考えていたわけです。
天武天皇の時代から発令され施行されるのですが、秩父の歴史はこの時代から分岐すると思います。

私が歴史好きになったきっかけは、中臣鎌足の「小国なれど大国あれ」という言葉でした。
日本を意識し始めた時代。それから日本史にはまったのですが・・・。

しかし、まつろわぬ民としては、自由な交易ができなくなる他、土地の税収を課せられる。
その派閥が拡大し、陸奥征伐に拍車がかかったと考えられます。
なので、武蔵の平家や農民たちが、陸奥へたくさん移民させられた。
もしくは、藤原不比等の反対勢力の貴族出身者が、関東から陸奥へ流れていったと思います。

717年に物部氏の石上麻呂が亡くなった時に、弔いに参列した人達は、
長屋王、多治比真人三宅麻呂、上毛野麻臣広人、穂積朝臣老、当麻真人東人など。
この人たちは、藤原政権からはじき飛ばされた人たちと考えられると。
長屋王の変で自殺、多治比真人三宅麻呂は伊豆へ流罪、上毛野麻臣広人は陸奥国で蝦夷に殺される、
穂積朝臣老は佐渡流罪、物部氏側のもののふ政権が消えたのは、
藤原勢力への反発からと考えられています。
※古代探訪 藤原不比等の律令より(ブログ)

当麻真人東人という人は、当麻真人という人に関係するのかどうか。
当麻真人は、奈良県葛城市に当麻寺がありますが、
藤原南家の中将姫伝承に関係します。
中将姫は、「当麻曼荼羅」を織ったとされる人です。
星神(カカセオ)を織物で封じた話が想像される。。。
曼荼羅は鎮魂ですから、星神を鎮魂したように感じますけど。

中将姫は、あこや姫の姉といわれる方。
河内国(大阪府太子町)聖徳太子の弟古麻呂が建てた万法蔵院(山田寺とよんだ)
を当麻真人が現在の地に移し、当麻寺としたと伝わる。
兵庫県のあこや姫伝承にも山田の地名が登場している。
山形のあこやの松伝承は、中将姫の話を「妹」としてもたらしているわけで、
奈良と出羽・陸奥の繋がりがあるようにしているわけです。
それは、熊野信者によって陸奥へもたらされた話だと思います。

そう考えると、秩父が熊野修験によってもたらされたのだから、恒持神社の山田という地名が浮かぶ。
熊野修験は天皇家との分断があった時に、保護した物部氏側の修験であり、
秩父もその一つだったかもしれない。


中将姫

目的は?迫害された貴族への弔いといったものでしょうか。
そのような物語を伝え歩く巫女がおり、比丘尼などの巫女たちが伝承したものでしょう。
歌や琴、笛の音に合わせて村人に伝え歩いていたのだと思います。



その中将姫は、775年29歳で入滅。
阿弥陀如来を始めとする二十五菩薩が来迎され、生きたまま西方極楽浄土へ向かったとされる。
------------------------------------------------------
ところで、私は葛原親王という人の何かが気になってWikipediaですが、探していたら、
「金寧橋橋姫」がでてきた!
橋姫?!
葛原親王の妻とある。


※葛原親王(慈しみ深い性格でおごり高ぶることはなかったと伝わる)

しかーし、その後、またwikiで確認しようとしたら、橋姫の言葉が見つからない。
おかしいなぁ。ちゃんと系譜にあったんだけど、違う人だった?
そんなわけないなあ。
金寧という言葉は、中国か朝鮮かもしれないが詳細不明。
ということで、それ以降、見つけられない金寧橋橋姫。

「橋姫」ということから、もしかしたら正妻ではないのかもしれない。
橋姫といえば、仙台の広瀬川に橋姫伝承があった。
以前、このブログで橋姫とマロとかぐや姫妄想してましたが、
橋姫の「はし」は、「愛し」の「あい」が転じた説がある。
愛人という説もあり。

しかし、広瀬川の橋姫に限らず、京都にもあっちこっちに橋姫伝承がある。
広瀬川の場合、実際、人柱にあったということ。
霊感が強いとか、非常に美しい女性や、何か魅力的な力をもっていても、
貧しさから、人柱にされることがあった。
荒れ狂う川を鎮めるのは、人柱しかないという風習。

秩父にも「姿見の池」というのがあり、
何度も土砂災害にみまわれ、なかなか治水工事が進まない。
人柱をするしかないと村人が話をしていると、ちょうど女の旅僧がやってきた。
可哀そうなことに、その女の旅僧は村人に騙されそのまま人柱にされ亡くなったという。
それから、この池には、絶えず入水する話が多いという。


※姿見の池:新編武蔵風土記

秩父銘仙で名が知れた絹織物ですが、若い女性が丁稚奉公で大変だった。
昔は、今みたいにパワハラで訴えることなんてできないし、辞めて家に帰ることなんてできない。
今は守られてますよね~・・・。
そういう若い女性が、姿見の池で入水したという話があったりするのです。


(武甲山と若佐織物の看板、横瀬にも織物工場が数軒ありました。)

橋姫も同じで、広瀬川も洪水が非常に多かった。
そういう川は、人柱伝承が多いです。遠野では若い男性の話もある。
部落の人が選ばれたそうだ。

そんな話をしていたのは、10月末に鹿島神社(宮城県)へ行った時でした。
Nさんが橋姫がとても気になるという話で。
その後、Nさんは広瀬川の橋姫のところへお参りしてくれたのですが、
Nさんは見えないモノが見える人なので、橋姫の鎮魂をしたと教えてくれた。

Nさんは優しいので、橋姫の祠に赤い花だと感じて、それをもっていて感謝してくれた。
それから河原でごはん食べてたら、目の前の大きな灰色の大きな雲の真ん中に、
キレイな雲が急に現れて、それが天女と牛車だったと。
「天女さん先導でゆっくりゆっくり太陽に向かって昇っていって、
天女が一回転してくれて○を作ってくれた」と。

Nさんの優しさが、金寧橋橋姫に繋がったような気がして思い出したのです。
平家と話がズレてますけど、「葛原親王の何かが気になった」というのは、
金寧橋の橋姫が、そんなNさんにお礼を言っているような気がしたのです。
------------------------------------------------------
夢の話に戻します。
秩父平家がどーのこーのより、私は女性なので、
この時代、自由な結婚ができなかった女性たちの運命の方に共感します。

機織り姫の夢で思いだしたのですが、奥の院の名前が「大町」という名前の神社だった。
大町という地名と機織り、平家で調べると長野県の大町にある弁天堂が近い・・・?
また謎解きが始まった・・・。
長くなりそうなので、次にします。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

富士山の噴火信仰と秩父

2017-12-05 | 秩父の祭りと信仰
横瀬駅~高篠町へは徒歩40分くらい。
横瀬のすぐ隣町なのですが、高篠に「恒持神社(つねもち)」があります。
ここへ行く前に、気になったのは、ここから先へいくと八坂神社が分岐にあるのですが、
その向かいに富士仙元神社がある。
マップにはのっているが、実際その場所へいったら、立ち入り禁止になっていた。
表からもわからないが、この山に祀られている・・・?
秩父は八坂神社も多いのですが、富士山に関係するお社でもあります。







恒持神社も富士仙元神社も地名が「山田」。熊野に関係する山田という地名。
山田の春祭りは有名です。

「桓武天皇の曾孫の高望王(たかもちおう)の弟である恒望王(つねもちおう)は、
大同元年(806年)武蔵の役人に任じられ、統治した山田・大野原・定峰などの一帯の
15ケ村を恒望荘とし、高斯野社を恒望荘の総社に定めた。
恒望王が没すると里人は王の御霊を高斯野社へ祀ったと伝えられ、
この時、社号を王の名を冠して、恒持明神と改めたという。」


山田の春祭りについては、こちらのサイトを参考にしてください。
http://shinobue.sakura.ne.jp/hoops/report-1-yamada.htm

高篠山山頂の水神を祀る話など、いろいろ伝承はあるのですが、
秩父平家の説明の前に、ちょっと富士塚について。
---------------------------------------------
いろんな妄想ができると思いますが、富士山のような塚を盛るには意味がある。
日月神示になぜ富士山なのか、そのルーツにこんな図があった。
八方(伊勢)→九方(大本)→十方(日月神示)。


※日月神示「天変地異」の超暗号 岡田光興著より

ちょっと意味わかりませんが~、山は、丸に十の印になるという意味にもなるのかね?
十というクロスが10という数字にあてはまり、それはピラミッドで~。
この形には縄文から使われるいろんな意図がありそうです。

さて、関東地方には富士塚が多いのですが、さいたまの古墳群の中で、
富士山を意識してつくられたのが、稲荷山古墳です。
こちらのサイトがわかりやすいので、参考にさせて頂きます。

「富士山が変える古代史観 富士山と埼玉稲荷山古墳」
https://tokidokizm.amebaownd.com/posts/1787092

「埼玉稲荷山古墳の祭祀位置からは、相当大きな規模で東国に富士山を意識した
信仰と文化が存在した様子がうかがえる。
つまりその信仰は、そこにあった社会が直接的に富士やその周辺の火山活動の影響、
具体的には大きな噴火災害を受けていたことが起源になっているようである。」


諏訪大社社殿の配置は、二等辺三角形により火山祭祀をするためとも言われる。
無理やりこじつけかもしれないが、熊野神社の奥の院にある玉置神社から
名取の富士塚までのラインに、火山の多い山がかぶっているのも、
長野県や群馬県の火山噴火を意識しているようにもみえます。



福島県の磐梯山もライン上にあります。



埼玉の古墳群は中央構造線の上に建てられているのが多いという。
それでこのサイトに、榛名山の噴火で亡くなった武士の遺体がのっていた。
これはっー!
・・・ここで登場したか~。

数か月も前になりますが、いつも仙台探訪しているRさんが教えてくれた話。
NHK歴史ヒストリアなのですが、案の定、私は見てないのだけど、
この甲冑をきたまま土石流に巻き込まれた将軍の生きざまがすごいのだ。
けれど、この男性の最期がなぜこうなったかは神のみぞ知る・・・。


※渋川市の金井東裏遺跡で発掘された武人の胴体(群馬県埋蔵文化財調査事業団)

ちょっと要約しますと、榛名山は1500年前に噴火し、
鎧を着たままの完全な姿で残されたのは初めてという。
他に3名の遺骨が発見されたが、おびただしい数の足跡が見つかり、
それは1つの方向に向かって整然と秩序だってついており、
噴火のさなかであってもパニックにはならず、避難できたと考えられる。



しかし、鎧をきた男性は、榛名山に向かったまま亡くなっている。
鎧は大変貴重なもので、王の証と考えられている。
鎧の形から、馬にのって戦う鎧であるとされるが、噴火を鎮める祈祷をしていたとの説も。

番組をみてないので詳細わかりませんが、
私は噴火を鎮める説が有力だと思っています。
蔵王の刈田岳の噴火の時、伊達宗高という人が祈祷したという話がある。

「元和9年(1623年)4月16日、刈田岳が噴火し、噴石・降灰等により領内に甚大な被害が生じた。
年が明け寛永元年(1624年)になっても噴火は収まる気配を見せなかったので、
政宗は明人の易者・王翼に命じて刈田岳で祈祷を行わせることにし、
宗高を藩主名代として同行させた。
10月5日、宗高と王翼は刈田岳の火口付近に祭壇を設け、
噴煙と降下物に曝されながらもこれに耐えて祈祷を行った。
それから程無くして噴火が終息に向かったため、
人々は宗高の真心が天を動かしたのだと噂した。」


私が感じるのは、この男性は山に対する懺悔みたいなものをもっていると思う。
祈祷をしていたからだろうが、噴火を鎮めることができなかった。
「山に背を向けて逃げることができない」宿命みたいなものを背負っているような。
古代の人は、今よりずっと自然神に対する意識は非常に高いものだったのです。
昔は、将軍や王に成り得る人が即位した時に、天変地異があるとその王に問題があると
考えていました。
そうなると困るので、巫女が占いをし、天皇にふさわしい人を選んでいた。

でも、この男性に家族がいたのだろうか。
祈祷のためであれ何であれ、位が高い人であれば何かの伝承が残っていそうですが。

榛名山神社のご神体は、岩です。
コノハナサクヤヒメをお祀りしていますので、富士山と同等な山神です。
榛名富士というように、榛名山もきれいな三角錐です。

そう考えると、秩父神社は北緯36度線上にある。
他にも地震を起こす鹿島神社。武甲山がこの世の破壊を請け負っているが、
その武甲神(スサノオの力)を祀っているのが秩父神社。
噴火を阻止するために祀られた諏訪大社、火山の御嶽山なども北緯36度線上にあり、
「ミロクライン」と言われている。
共通するのは自然の脅威である破壊と再生のラインです。


横瀬:武甲山


※秩父神社境内:スサノオを祀る。

世界に目を向けると、ずっと前に夢でみたジブラルタル海峡がありましたが、
ここも北緯36度線上にあった。(ぴったり北緯36度0分)
なんだか、あの世とこの世の境界の扉があるラインという感じだね・・・。



「民俗的に言えば、両神社が御柱と呼ぶ柱立てを共通する特殊な儀式は、
共に中央構造線上に位置し地震断層を意識するからであると思われるが、
中世の行基図に表わされているように、鹿島神宮の要石を含めて、
それらは地震鯰などの伝承を遡る地中の龍や世界魚を押さえつける
古い鎮めの風習に基づいているようである。

またその柱立てに類似する儀式が、起源不明であるのに現代でも一般に行われている
砂盛に弊を立てる地鎮祭に残されていることにも注目したい。」

(「富士山が変える古代史観 富士山と埼玉稲荷山古墳」より)

秩父夜祭の笠鉾の上にも弊(笠)を立てる。
笠の鉾で、笠鉾という。
秩父も中央構造線の秩父帯という帯をもっている。





※中近屋台


※中町屋台(スサノオみたいな彫刻)

秩父神社の社格は、治安確保や災害が全国に起こった時の治安維持のために、
検非違使が派遣されていた。
その度に、秩父神社が昇格されているというのは、
秩父神社の神が、思兼命である天の岩戸開きに関係するからです。
破壊があれば同時に再生される。
陰と陽の両方を備えているというのは、禍津日神(まがつひのかみ)の働きでもある。



そのような秩父に災害の信仰をもたらしたのが、秩父平家でしょう。
秩父は噴火というよりは、水の災害に近いかもしれないが。
秩父神社に妙見信仰をもたらしたのは、平良文とも言われる。
徳川家康にも絡んできます。

小さい富士山を造ることで、富士山信仰を広めたのが関東地方の武将達。
関東も、噴火の火や地震の津波と向き合うことが多かった。


なんとか、この世を整えてから、蓬莱山へ行きたい。
そんな思想でもって屋台を見てしまう秩父夜祭りなんだな。

平家が岩戸開きに関係するならば、あえて「平」という「一八十」の文字を
想像するよう仕向けていると。

秩父平家になった貴族は、下向貴族といわれるように、
天皇家(桓武天皇)の血筋をもっていても、貴族社会の中では、正妻ではなかったなどの
理由で遠い血筋になる人は、優先されないことがあった。
でも、高望王の一族たちは、周りから信頼され評判よい人だった伝承があるんだよね~。
なので迫害されたと思われる・・・。
貴族であれど、貧しい生活をしていた人もたくさんいた。


横瀬:双子山

そんな下向といわれた貴族は、京都を離れ地方にいく。
そして秩父に流れ着いた人が、平家の祖といわれる高望王と伝わり、
秩父平氏系図によれば、高望→良文(村岡五郎)→忠頼・忠通。
忠頼→の子が、恒持(常)秩父五郎(秩父、畠山)となっている。

この方の神社を巡ってから、後になって知ったのですが、
高望王の系譜が、「葛」にあたる。

妄想するに、下向貴族といわれて迫害された貴族を利用したのが、
東北の蝦夷であって、彼らは、藤原勢力(藤原不比等)に反対した人たちとなる。

そんなルーツをもっているだろう恒持神社へ行ったら、
また今度は、Nさんのシンクロに繋がった。
名前をふせてアルファベットで述べてますけど、
RさんもNさんもシャーマンだから、いろんなことを受けてしまうのです。
それを誰かに伝えることで、受け取った私は、現場へ行ってしまう。
しかも、後になって知るのだから、困ったもんだ。笑。

その場所へ行って、何をするわけではなく、こうやってブログで「報告」しているにすぎない。
それをどう処理するかは、またRさんやNさんなりの方法で。
そういうのが、ずっと続いているようなんですけど~。
忙しいね~笑。



次は、恒持神社へGO。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

万物の原始は水であるby武甲山

2017-05-19 | 秩父の祭りと信仰
「すべては水である。水こそ万物の始原(アルケーarchē)である」
と言ったのは、タレスという哲学者。
水から空気、火、あらゆる万物を生み出したギリシャ神話がうまれる。

秩父今宮神社(八大龍王宮)宮司さんから情報を頂きましたので、
共有します。
いつも読んで頂き、感謝しております。
地元の人に読んでもらうのが一番、うれしいことです。
宮城県民ですが、秩父は故郷なのでこれからも武甲山を見守っていきます。
みんな葛藤はあります。
今は、企業が神ですから。

秩父御田植祭り--------------------------------------------

当社では(おそらく秩父神社でも同じく)次のような解釈のもとで、
長年にわたり神事を営んできております。
すなわち、「水分祭」は、秩父神社が、今宮神社の龍神のもとに「水乞い」に参られ、
今宮神社が武甲山の伏流水(龍神の分霊)を秩父神社にお分かちし、
秩父神社がそれを持ち帰られて境内にて御田植神事を執り行い、
氏子たちはこの水をそれぞれの御田に頒かち持ち帰って一年の農耕生活を営む。

やがて、秋の収穫を終え、農耕生活を終えるにあたり、秩父神社の例大祭(秩父夜祭)にて、
この水をもういちど武甲山にお返しする。御神幸行列の先頭にて、
水の霊を依さした藁の龍神を大榊樽に巻き付けて御旅所までお運びし、
お水を武甲山にお返しする。これが御旅所での神事の原点であると。

このような解釈は、4月4日の「水分神事」で水乞いに参られた秩父神社が、
今宮神社のご神前にて奏上する水乞祝詞の中にも見受けられます。
        記
  掛けまくも畏き今宮の神社の大前に
  謹み敬ひ畏み畏みも白さく・・・(中略)
  此の御垣内の御池に湧き出づる
  清き水の甘き水沢々に戴き持ちて
  夫々に御田に頒ち
  奥津御年の八束穂の稔の秋を迎ふべく
  御田を耕し早苗を植え草取り
  歌声も面白く田人等が向股に泥掻き寄せ
  或はまた泥掻き慣らし
  仕草も面白楽しく仕へ奉る
  其の元つ水は御池の水にこそ在れ・・・

つまり、龍神の恵み(=武甲山の伏流水)は、
今宮神社が秩父神社にお返しするものではなく、
春に今宮神社が秩父神社に「お分かち」し(水分祭)、
秋に秩父神社が武甲山に「お返し」し、その龍神が春になると、
武甲山の伏流水を伝わって里(今宮神社)に下りてくる、と考えられているわけです。


------------------------------------------------------
秩父御田植祭りの水の循環は、水分神社などとして秩父だけでなく全国にもありますが、
秩父の御田植祭りについて詳しく知りませんでした。
調べると、なぜ武甲山に蔵王権現なのかも水に関係していました。
水分は水配で、金剛山、葛城山の灌漑用水を司る神(水分神)になると。
天水分神、国水分神とした。
それがたぶん、今宮神社を祀るイザナギ・イザナミとしているのかもしれない。
水の要素が強い神という点で。



残念ながら、皮肉なことに、武甲山にお返しする水を飲んでいるのは、
三菱やセメント会社、西武鉄道などで、地元には水は返ってきません。
横瀬は民家の家の井戸が枯渇しています。我家も減ってます。
龍も空に帰っています。
なので、今は龍は降りてきてません。(それだけはわかる)
要するに、水が枯渇すると蒸発しないから雲も雨も降らない。

変な話だけど、その龍を戻すために?
山頂に変なピラミッド型のものを作っている感じを受ける。

横瀬の宇根・根古屋地区は、秩父神社が氏神でなく三峰神社もそうで、
武甲山を祖霊とした修験系が原点にあります。
神を信仰するというよりは、山信仰です。
蔵王権現~熊野~御嶽~天狗信仰と流れています。
今は、猿田彦神を祀る天狗信仰となり、牛頭天王の天王様のお祀りが重要です。
それは、南(鹿島の方)に武甲山があるため、海からもたらされる人や動物、鳥などの伝染病を
防ぐ役目が武甲山にあるからです。
昔、横瀬は忍藩にあったのですが、忍を「おし」とよんだのは、
忍壁皇子とか、大阪の由来にもなっている忍坂だったりしてね。
そうすると、賀茂家だから武甲山に蔵王権現をもってきたのも忍に繋がる。(たぶん)
福島だと信夫(忍)だね~。

秩父は内陸にあたるので比較的、伝染病にかかることはなかったようだ。
そのため、秩父札所が有名になった話がある。
札所があるから御加護を得られると。
全国から参拝が増えたのは江戸時代頃からです。
全国で伝染病や土一揆などの天変地異や政治的な変化が起こると、
秩父から検非違使を全国に派遣していました。
その度、秩父神社が昇格している経緯がある。
武甲山が昔、嶽山とよばれたのは、豊な実りがある山のことを言っていた。

それを名神祭(みょうじんさい)という。
国家的事変がおこり、その発生が予想される際に、
解決を祈願するための臨時の国家祭祀のことだが、
武蔵では名神にあげられているのは、氷川神社と金佐奈神社のみ。
今宮神社もこの名神の役目として含まれると考えられます。

今宮神社取調書によると、701年~704年(伊豆に左遷された時期?)に、
役小角が隅々までこの地に立ち寄った際、
深山幽谷の悪獣毒蛇が出て来て作物や人畜を害し、
人々が困り果てている状態を知ったので、八大龍王を祀り、信心堅固に
悪獣毒蛇の降伏を祈り村人たちを救ったことから、この地に八大龍王を祀る。
明治の神仏分離で修験道廃止、八大龍王の奉祭は禁じられたが、
龗神(おかみのかみ)と呼称を改めて信仰している。


秩父今宮神社ご朱印神社メモ
https://jinjamemo.com/archives/36592992.html

熊野は山から生み出される水が滝となり、その山水を海へ流し、
プランクトンが成長し魚がそれを食べ、人が魚を食べる。
その食べたものを土に返す。雨が降り蒸発した水は雲をつくり、
山に水がもたらされる。そして山から水が降りてくる滝ができる。
その滝が海へ流れ~という循環を信仰としています。
この気や流れを龍と見立てていました。

全てのサイクルに「分け与える命」があります。
全ては命に関わること。
世の中がバランス悪くなり、病気が蔓延しているのは、
秩父に限らず全国の神事に矛盾がありすぎるからです。


役行者の怒りから生まれた蔵王権現。(正義の為の怒りはもってよし)
http://wakuwaku-nara.com/kankou/zaoudouhibutu/(わくわく奈良情報館より)

「蔵王権現のご開帳:
次回 第11期特別御開帳は、平成30年春を予定しております。(日程は未定)
ご参拝をお待ちしております。」

だそうです。
いくっ!忘れそうだが…。
-----------------------------------------------------------

https://www.tunami-shelter.jp/
勝手にエネルギー論/自然エネルギーと水循環の考察/より



「世は「電力不足」のあとは「水不足」に喘いでいます。
水は人にとって「命」です。
水がなくなれば「死」に至ります。
世界の四元素説として「物質は、火、水、土、空気の四元素からなる」という。

「地球上には多くの水が存在しており、生物の生育や熱の循環に重要な役割を持っている。
その97%が海水として存在し、淡水は残り3%にすぎない。
そのほとんどが氷河や氷山として存在している。
このなかで、淡水湖・河川水・地下水浅が、人間が直接に利用可能な水で、
総量の1%未満である。飲料水として利用できるものはさらに少ない。」

「地球における継続的な水の循環は水循環と呼ばれている。
太陽エネルギーを主因として、固相・液相・気相間で相互に状態を変化させながら、
蒸発・降水・地表流・土壌への浸透などを経て、地球上を絶えず循環している。
また、この循環の過程で地球表面の熱の移動や浸食・運搬・堆積などの地形を形成する
作用が行われる。」

「自然は太古から「循環」してきた。
地球上では「水循環」が人類発生以前から行われてきたのであって、
人類はその流れの水から「おこぼれ」を頂戴して生きてきただけである。」

「電力不足」など笑い事で済ませることができますが、「水不足」
は社会基盤を根底から消失させます。
「水危機」は何か日本と日本人に対する「天罰」のような「予感」がします。
3.11被災地を見捨て「政争」に忙しい世の様は、「最後の審判」を受ける
「堕落した人間界」のようです。 」

「水」の重要性を再確認しなくてはならない。
日常の蛇口を捻れば出てくる「水」の「ありがたみ」を今こそ感謝し、
更に「水力」は人類に「エネルギー」をもたらしてくれる。」

-------------------------------------------------------
そう考えると、三菱の三つ柏の家紋と、宮城県北部を領主としていた葛西氏が重なる。
何度も言いますが、誰が悪いか、ではなくて、
歴史は何度も繰り返す」と言いたいのです。


三菱のマークについて。
https://www.mitsubishi.com/j/group/mark.html


※葛西氏の家紋

三菱マークの由来は、秩父にいた北条氏も同じルーツをもつようですが、
一番、震災で被害が大きかった陸奥国牡鹿郡石巻(登米)、三陸岩手南部を領主とし、
巨大卍の旗を掲げて戦っていた葛西氏も、三つ柏の家紋をもつ。
平泉や舞草刀、骨寺村がある一関博物館では葛西氏の展示テーマをよくやっている。
「中世の支配者葛西氏」と。
その葛西氏は秩父平家の出。
平氏良文流秩父氏一門豊島氏支流。
豊島氏は、東京豊島区がそう。

本家より別れた一族で血族集団といわれる。
だから濃い。秩父は血がとても濃ゆいのだ。
かつて秩父事件があったように。
この地域の頑固さが良いんだけど、悪い方に働くと天変地異も起すくらい激しい土地なんです。
だから、私はこのマークをみると破壊の象徴なんだ、と思ってしまう。
たぶん、妙見が破壊神だというのは、エミシ征伐でもそうですが、
そういう激しい民族を鎮めるために、武甲山を信仰した感じも受けます。

しずまれ、しずまれ。
と言うのは、世の中の不都合なことに対する怒りを鎮めるものだと思いますが、
その怒りの発端を、人に向けられるものではなく、目に見えない頑固なモノです。
自分自身だったりするものです。

平家というのは濃い血の集団が起す要因に、妙見信仰があると思っていたこともあるでしょう。
ただ、そこに薬師如来を祀るというのは、やっぱり病気を起す原因に、
人々の怒りや反乱があることはわかるような気がします。
で、それがサンカみたいだな、と。
島国根性とかいいますね。
サンカも征伐されてきたような。
秩父は海ではないが、あんな奥深い山でよく生きてきたな、と思うのです。
一切、秩父の外から出ないで。
その根性は、部外者をよせつけない雰囲気をかもしだしている。

サンカの人々も島から一切出ることはせず、その世界で自立できることを
知っていたので、船で島へやってくる人を歓迎しすぎると別れる時が寂しい。
島の人たちのクールさは、生き抜くための精神力であって、
感情を表に出さないような人たちだったと思います。
秩父が平家落里とよばれ朝廷から逃れてきた人が多く、
持山寺の長七郎など、秩父にいたサンカの人たちを
信頼していたから情報を集めることができたのだろうと思います。

そのくらい山が深いので、人が入ってくることがないから、
観光してくる人などあり得ないわけです。昔は。
何かあって逃れてきたんだろうけど、そのことについてはお互いに触れない。
一族で固まって住むから、地方はみなそうですけど、
その寡黙さは、今でも健在…。
----------------------------------------------------
震災の津波で大量の水を受けた場所があるのに対し、
30年以上も掘り続けて水が枯渇した武甲山の伏流水が枯れているというのも、
ある意味、水の循環ともいえる。
ある地では異常な水を得、ある地では完全に枯れているという極端なアンバランスは
全国で起こっていること。
だから、歴史は何度も繰り返し、それがカルマとなっている。

ちなみに、秩父氏は平将恒を祖とし、平将門の「女系子孫」であると!
だから平将門は女ぽいんす~。
優しかったんす~。
全然怖い人ではなかったんす~。

つまり秩父氏は、母方の血統に根拠を求めるので、女系優先の母系制だった。
まさにイネハポ。これもある意味、コワ。笑。
ですから、日本の女は強すぎる。いや、世界中がそうだね。
その強さを封印してしまった男社会だから破壊されるんですね。
でも~、男は大変です。(サラリーマンが一番えらいんだな…)
「次生まれ変わる時も同じ国で生まれますか?」というアンケートに、
日本人は、83%が「YES」と答えた。へ~、
もう生まれ変わる気がないですけど。

水の象徴が、女性であることは言うまでもなく。
でも考えてみると、女性優先ではないが、どこかで母系制が残っている
日本のような国は、なかなかないと思っています。
政治家がいろいろもめてますが、日本は恵まれすぎていると思います。
水の枯渇も、女性に問題があると思っています。
家族のことを置き去りにして、自分ばかりみている人が多すぎるわけで。
神社参拝もそうで。

まあ、そんなことを言いつつも、私も昔はそうだったから。
私はなんとか介護を通じていろんな事を経験し、
主人の両親を看取ったことで、家族が何であるかよくわかりました。
それだけのことをしないと、こんな内容のことは書かせてもらえませんし、
東北探訪だってさせてもらえません。
それだけの苦労を、どこかでしないとな。
それだけの重荷を背負うことをしないとな、と思っていました。

義理の両親が亡くなった後、ご飯を盛る夢をみてました。
2回も。先祖供養をしている夢らしんです。
数十人のたくさんの人がいて、あの人たちは、あの世へ行く人たちなのかなあ・・・。
義理の父が亡くなった後にも見た夢で、おばちゃんの先輩がいて、
まだ私はおにぎりの握り方が甘いと指摘された。ワラ
俵型のおにぎりなんです。「たわわに実る」という意味らしいです。
もがりの風習もいろいろ。

結婚は、過去に互いに敵だった者がくっつくものです。
だから夫婦ケンカが絶えないとか言うのは、当然です。
そうやって育むことが、先祖供養になることは昔から言われてきました。

葛西氏は、地元の豪族たちと婚姻を結ばせて金採掘を行っていたようです。
葛西氏は謎でして、実態がよくわかりません。
なんというか、他の氏族は過去にここに住んでいたんだな、という人の気配を感じます。
例えるならば、新築物件と中古物件を見る時に、新築は人が住んでいないから無機質な感じ。
葛西氏の気配がそんな感じで無機質に感じるから、知りたくてもよくわからない。

ま、いつかご対面することはある?と思いますが、
秩父平家がどれだけ陸奥に関係していたのか、改めて思います。
でもその結束は何だったかは謎。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

アマテラス巡幸と秩父の札所

2016-06-28 | 秩父の祭りと信仰
こんな図をみていたら、似ているな~と思いました。
秩父札所巡礼も三角形で結ばれている仕組みになっている。



アマテラスと豊鍬入姫及び倭姫の「元伊勢」巡行順路(「倭姫命世紀」などの記述から)
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53070432.html
※民族学伝承ひろいあげ辞典より


(長享番付:秩父札所巡礼図、秩父大祭より)

アマテラスの巡礼は、50の三角形を結んでいるといわれ、天津金木の雛型という。
五十鈴フトマニシクロの結界の呪法という。
天津金木というのは、武内宿禰の秘儀といいますが、
日本を経の文明、アメリカを緯の文明とし、
縦と横の関係になっているそうだ。このへん難しいし宗教っぽいのでパス・・・。
その形は、四角いご神体であり、そこにアマテラス神が統治すると坐すという。
フトマニシクロは、伊勢五十鈴のことで、霊的バリアがあり、
29か所に結んで形成される五十の三角形。シクロとは、天地運行のエネルギーだそう。
五十を往復すると百になるので、右回り、左回りといったように、
両方を交互に巡ることも重要らしい。

特に秩父札所観音巡礼については、3つの川を三角で結ぶようになっているが、
諏訪神社が荒川に沿って北斗七星においていることからわかる。
このへんは、以前にもしつこく妄想しているので割愛します。
ただ、私はどうしても禹歩がルーツのように思えてならない。
それに、最近、ノアの大洪水が気になる。


※とりあえず線で結んでみた。たぶん、これで50の三角になっていると思う。。。
現在の順路とは異なるのですが、川に沿っておかれていたのがわかります。
最後の結願33番は、武甲山としています。

さて、なぜ秩父札所観音霊場は、そのような仕組みになっているのか?
詳しいことはよくわからないのですが、古くは崇神天皇に関係していそうなのです。

日本書記によると、伊勢神宮10代の崇神天皇は、大和国に疫病が流行り、
鎮めるためにアマテラスのご神体を「御霊代みたましろ」をトヨキイリヒメという
斎宮(巫女)に託して、かさぬい村に移した。

秩父神社の創建由来はかなり古く、崇神天皇に関係する。
「平安初期の典籍『先代旧事紀-国造本紀-』によれば、
第十代崇神天皇の御代に知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である
知知夫彦命が、祖神をお祀りしたことに始まるとされており、
武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至っています。
元慶2年(878年)には神階正四位下に進み、延長5年(927年)に編算された
『延喜式』にも掲載されるなど、関東でも屈指の古社のひとつに数えられています。
また、中世以降は関東武士団の源流、平良文を祖とする秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し
長く秩父妙見宮として隆盛を極めましたが、
明治の神仏判然令により秩父神社の旧社名に復しました。」


ということで、崇神天皇の時代、何があったんでしょう…。
この方は、神武天皇だという説もありますが、だとしたら秩父に神武天皇をまつる
神社があるのはそうかもしれない。
それより、秩父神社の古くは天之御主中神ではなく、思兼命でしょう。
崇神天皇は卑弥呼が亡くなった直後に即位している。
イヨの代になり、崇神天皇が歩いて結界をはったような話…。
そうなると、神武東征の話も結界を歩いているといってもおかしくはないかも。
崇神天皇は、和風諡号はミマキイリヒコで、朝鮮半島最南部の任那(ミマナ)の「城」
(シロ=キ)であるとされ、騎馬民族の由来があるが、ミマナが朝鮮半島の名前ではなく、
「高貴な人」という意味もあるそうで、騎馬民族説はあやしい。

崇神天皇3年9月、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に遷都。とあり、
その後に疫病がはやったので、鎮めるべくアマテラス神と、大和神社を祀った。
またその後に大物主を三輪山で祀るようになる。
要するに、疫病が流行る度に、いろいろな神の祈祷をしているということでしょうか。
崇神5年には、とうとう疫病を抑えきれず、四道将軍がでてくる。
ここに以前にも書いた大彦命などが登場してきます。

この疫病からスサノオの牛頭天王に広がった気がするのですが、
もう少し、秩父札所巡礼について考えてみたくなった。

秩父札所巡礼-------------------------------------

武甲山は補陀落山としている。
海と山が繋がる所で観音には、聖、十一面、千手、馬頭、如意輪、不空羅索or准胝
の六(七)観音が代表。
3を重視しており、観音菩薩の三十三変身に由来。
34ヶ所は、江戸時代になってからで本来は33ケ所。
女性の講に人気があり、千葉県では男は伊勢、女は秩父といわれていた。
同行は必ず2人といわれ、一人巡礼は、観音の導きにより共に歩む意味がある。

さて、秩父札所の最後の結願は重要で、それがどこだったか?
今は、33番は寄居の水潜寺ですが、横瀬町だった説が有力。
図の巡行は最後が横瀬川に設定されています。

私は武甲山しかないと思っています。
最後の結びに武甲山は当然でしょう。
すべてのお寺に武甲山が見えるようになっており、目的は、補陀落山ですから。
最後は武甲山でしめる。
開く時は、再び武甲山から開く。

また、逆うち(さかうち)というのがあり、8番から9、7、6、5、4、2、1、3、10
と参拝する。11番以降は本(順)うちとなる。
これが開くと閉じるという陰陽のスパイラルな関係を結ぶように仕掛けているような気がするのです。
(五十鈴の仕組み)
札所の仕掛けをしているのは、丹党中村氏で、秩父神社周辺に集中しているため。
秩父のゆかりの武士は、熊野権現を崇拝しており、熊野信仰は観音信仰と深い関係がある。
熊野信仰があった理由は、蔵王権現を祀っていた武甲山があり、
役小角の影響があったともいわれます。
伊豆へ左遷された時に秩父に入っているということは、何か理由があったわけで。

初めは、妙見宮が先に祀られ、秩父市宮地、その次が妙見宮の合祀されていた
秩父神社境内の観音堂であった。
最終の結願は、秩父神社のご神体であった妙見山(武甲山)である可能性が高い。

(横瀬町史より)


(秩父神社)


(秩父神社:妙見宮)

天白神-----------------------------------------

さて、私は結願というのは、何かを封じたり、結界がどうだの関係ないと思う。
宇宙には数多くの星が輝いている。秩父の冬の星空はとてもきれい。
あの宮沢賢治さんが秩父の三峰に来た時に星をみて故郷を懐かしく思った歌もあるのだから。
それだけ秩父は非常に宇宙と近い場所だったわけです。
修験者により秩父札所が完成されたのは、陰陽道が深く関係しています。
ノアの大洪水のトラウマはあるでしょう。
しかし、北斗七星と秩父妙見を考えると、秩父夜祭の意味もみえてくるのです。


(C)イネハポ

そして崇神天皇の疫病というのは、天白神に関係していることもありました。
天白は、太白で金星の意味がありますが、天白神を崇拝していた麻積氏がいます。
天之志良波神社があり、岩戸隠れの時に麻で青和幣を作り、
麻を植えて織物にして広めた風習から、かなり古い縄文時代の人たちが浮かんでくるのです。
イナウもここからきていると思うのですが、「白羽の矢をたてる」もここからでしょう。

麻を使用することで、人々の天性の祈りをしていた氏族だと思います。
機織りの縦と横の関係は、日本を経の文明、アメリカを緯の文明の意味と同じようです。
機織が重要だったのは、もっと深い意味で世界の和を紡ぐ意図があり、
秦氏はそれを知っていた為に、麻から絹へ転換したのだと思います。
機織りという行為そのものが、霊的な神事であったと感じます。
なので、巫女はみんな機織りをしていたのです。

天白神は、縄文時代に遡る狩猟民や焼畑をしていた人たちの信仰という説が有力。
秩父や横瀬町には「指(さす)」という焼畑の地名も多い。
機織りも古くから行われている。
また、天白は水神でもあり、星神のカカセオ(セオリツヒメ)との関連もある。
秩父札所巡礼を視点に考えると、水の祓いというのがとても強く感じる。
氷雨除けの護符は、天白神のこともあるかもしれない。=氷雨(こおらさめ)

信州遠山郷の「霜月祭り」サイトから引用します。
http://www.tohyamago.com/simotuki/index.php
「飯田市南信濃の和田や八重河内の霜月祭りでは、面をつけた「水の王」「火の王」
などが「六方」という独特のステップを踏みながら釜の四方を巡ります。
このように大地を踏みしめる所作は、一般的に「反閇」とよばれる陰陽道の呪法
のひとつで、霜月祭りばかりではなく、新野の雪祭りや花祭りでもみられます。」


「反閇」というのは、禹歩の道教の呪術で、北斗七星を地面に描き、
その星を踏むことで不吉な状況を反転させる目的があった。


和銅黒谷や荒川の諏訪神社は、北斗七星におかれている。
禹の信仰を受け継いでいると思い、禹の文字の意味は、九と虫だそう。
九は、身を折り曲げた龍の形。虫は元々、蛇や龍などの雄と雌の爬虫類のことをさす。
また、九と虫を合わせた文字の意味が伏羲(フギ)とニョカだとする説がある。
これがノアの大洪水の伝承。

秩父夜祭は七夕の話に設定されています。
銀河を荒川と見立てるものであり、天白の水神=織姫と、秩父神社の神が、
年に一度会う話。これも機織りを模しています。
信州の遠山地方では、天白様は天狗であるとされ、天狗は星に関係しますが、
おそらく、秩父では天狗が天狼となり、狼信仰になったと思われます。
その星とは、日本書記によると、「流星の音なり」とあり、
流星に非ず。是天狗(あまきつね)なり。其の吠ゆる声、雷に以れるのみ」
流星群かどうか、この時、天から何かが降ってきたことは確かなようです。

秩父夜祭の宇宙------------------------------------------

最後に、秩父の星に詳しいイネハポ(妙子さん)から教えてもらったこと。
北斗七星は、人が宇宙と繋がるための、おまじないのことでした。
秩父夜祭がそれを伝えていました。
果てしない宇宙を想像してみる・・・。

「秩父夜祭の頃、銀河の中心、北極星、太陽、地球、シリウス、オリオン、
銀河の外側が一直線上に並びます。秩父社を拝むということは、
この一直線に人が自分の中心軸を合わせることになります。
地球、太陽、銀河と気を合わせて通わせ交流して一体となることで、
もともと一体なのを再確認したり、場を改めて構成して創ったり、
ということを祭りでしていたのでしょう。

夏至や七夕の頃は、銀河の中心、いて座、地球、北極星、太陽、銀河の外側が
一直線に並びます。
冬、夜祭の頃の北斗七星は、北にみる(秩父神社を拝む形)と向かって
東から上がってきます。
午前1時頃には北極星のやや右上の位置になる。
夏至の頃は、ちょうどこの逆になります。
夏至の8時頃は、空は星がみられる時間ですが、北斗七星は西にもう沈んでいる。
冬の夜空に見える星は、夏の昼間にあたり、
夏の夜空に見える星は、冬の昼間にあたる。
つまり、夏と冬の夜空は表裏一体です。」

※秩父夜祭は、夏にも行っています。

「秩父神社は北に拝むようになっているので、武甲山は南で背中を向ける形になる。
秩父神社に神が帰る午前1時頃、境内の全ての電気が消え、狼の遠吠えのような声で
神官が奉る。その時、北斗七星は柄杓の形がちょうど下向きになる。
水は下に向いて地上に流れるようになる。それがお清めの姿なのです。」


(武甲山と銀河)

「其の吠ゆる声、雷に以れるのみ」
狼の遠吠えは、北斗七星の祈りでした。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

生まれ変わった妙見さま

2016-01-30 | 秩父の祭りと信仰
秩父ネタ。
秩父市役所も建て直し中で、先に妙見様が新しく生まれ変わった。

見れば見るほど不思議だね~。
耳が尖ってて、ちと、すきっ歯でね?…
人だか生き物だか。ふっくらしてる。
この姿のルーツは、熊本県八代妙見信仰にあるようです。
いろいろと結びつく妙見信仰について妄想。





八代妙見様の由来--------------------------------------------

妙見神は、北極星と北斗七星を神格化したもので、神道では「天御中主神」「国常立尊」と称され、
仏教とも結びつき「妙見菩薩」と称されます。
北極星は天の中心にあって動かず、その周囲を星がめぐることから、天を支配する星として、
また、北斗七星は一昼夜でその周囲12方向を指すことから、
時を定め寿命の長短をつかさどるものとして信仰されています。
江戸時代の記録によれば、妙見神は、中国明州(寧波)から亀蛇の背に乗って
海を渡って来た、あるいは百済国聖明王の第三皇子琳聖太子であるとの説が伝えられています。
いずれも海を渡ってきた神(渡来神)であり、海を通じて交易が盛んであった八代の歴史が垣間見えます。
亀蛇は、北の方角を守護する霊獣「玄武」が原型と考えられ、
亀に蛇が巻きついた姿をしています。妙見神の仏神像は、亀蛇の形をした台座にのって表されます。
八代妙見祭の亀蛇は、江戸時代、八代出町の人々が、
祭神渡来伝承をもとに周辺の雨乞いなどの造形を妙見祭に取り入れた可能性が考えられます。


※八代市のサイトより
http://www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/ar/article_view.phtml?id=36525

亀だか、ウロボロスだか、手がライオンみたいだけど、手をもっと丸めたらドラえもんだし。(違う!)
ちょっと怖い顔なんだけど、親しみを感じるのはなぜ?
夜も見に行ったんだけど、しばし、オリオン座がよく見える下で、ぼ~んやり妙見様を眺める。
北斗七星ではないが…。
やっぱり秩父は星がよく見える。

禹と妙見信仰-----------------------------------------------------

これは、禹歩にも繋がると思う。
荒川と北斗七星で以前書いた内容ですが、
千城著の「古代東北の城柵と北斗七星の祭祀」によると、大和朝廷が置いた多賀城、
桃生城、伊治城、覚べつ城、胆沢城、志波城、徳丹城の側に軍神、タタラ系、
伊勢神宮系などのいくつかの神社が7社祀られ、
どれも5番目と6番目の間に小熊座(β)にあたる社が必ずあることでした。
これを参考にすると、秩父荒川沿いにたくさん諏訪神社が祀られていますが、北斗七星でむすばれている。


(すべて諏訪神社)

なぜ、川沿いなのか?と考えると、ルーツは禹歩なのかもしれない。
伝説より、禹は羌族出身で石紐から産まれたとある。
石紐とは、岩間の窪みのことで、岩塊中より生まれた人は死して再び岩塊中に帰ると信じられてきた。
これを岩間葬(がんかんそう)と言って自然岩の亀裂部分を利用した特殊な墓葬。
禹の伝説の特徴は、石から産まれたことと、魚にある。
イエスキリストも魚をシンボルとする。


(三峰:妙法岳のイワクラ)

千城著にも、
このような北斗七星の祭祀については、「禹(う)歩の祀り」といわれ、
白い衣姿の陰陽師が呪文を唱えながら地上に描いた北斗七星の形をめぐって歩くことで祓い、
地を鎮め、福を招くとされた。北辰(北極星)の周りを休むことなく回り続ける
「車」に例えられ、北斗七星で結界を張りその形通り歩く(巡礼)こと。
と記されている。
秩父の場合は、夏の北斗七星のようなので、冬の北斗七星を元に地上に反転させている。
秩父夜祭が冬に行われる意図も、ここに関係している気もします。

※荒川と北斗七星
http://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/e232f1181cb6cb09a829c4570be8a829

縄文と妙見信仰------------------------------------------

それで、面白い情報をみつけました。
ネットからですけど。

星たび:金山巨石群・岩屋岩蔭遺跡のサイトより一部を紹介。
http://www.hoshitabi.com/kanayama/1311/iwaya-yorishiro.html

「岩屋を構成する巨石のうち、 東側のE石と呼ぶ巨石には逆向きの北斗七星が刻まれています。
私は天文シミュレーションを使うことで、石に刻まれた年代を推定することができました。
その結果、紀元前5500年の頃の古代人が当時の北斗七星を、
石面に刻んだものであるという結果を導き出しました。

これまで、考古学者は 紀元前2800年頃の北極星トゥバンを見いだすため、と推定していました。
それよりさらに2700年を遡る今から7500年前ということになります。
これは縄文時代早期という時代です。

北斗七星の七つの星のうち、柄杓の柄の先から2つ目の星を ミザールといいます。
7500年前、北天に北斗七星がかかり、ミザールが子午線を通過するそのとき、
ミザールの真下(真北)に天の北極があります。
そこで、北斗七星の形を写し取り、水平にパタンと反転する。
それを岩屋岩蔭E石の石面に刻んだのが、裏返しの北斗七星です。

その北斗七星の柄杓の柄、その先から2つ目がミザールで、その真上にE石の最頂部があります。
ここが天の北極を示しています。
古代人は巨石のてっぺんが天の北極になるように北斗七星を刻んだのです。
岩屋岩蔭遺跡のある地区には、明治8年まで美濃国郡上郡に存在した岩屋村があって、
遺跡と参道付近は、古くから岩屋妙見神社の神域になっています。
祭神は天之常立神 と記載されていますが、取材では別の神の名を聞きます。
『日本書紀』で 天地開闢の際に最初に現れた神とされている、 国常立尊(国之常立神)です。

日月星辰は天の北極を中心に回転しているように見えます。 現在、北極星ポラリスが真北にただ一つ止まっているように輝いています。
ところが7500年前には、天の北極付近に北極星とする輝星は無かったのです。
シミュレーションによると、天の北極には目立たない微妙な光の星が有るような無いような闇の中にあります。
古代人はその暗闇の中を目を凝らして微妙な光を見ようとしていたのではないでしょうか。
なぜなら、その暗闇に神がいると信じていたからです。」


へ~。
ミザール、イワザール、キカザール。三猿だったか。違うし。
そういえば、アイヌ語でホシとは犬のことを言ってたと思う。
全部繋がるね、
星信仰、諏訪神、ミワ信仰、龍、狼、美濃(ムカツヒメ)、秩父。
すべては、宇宙です。栃本を歩くと秩父が星の世界というのがわかる。




(秩父栃本の妙見神社)

狼と妙見信仰(山形県天童)----------------------------------

その昔、この地では三年に一度魔物に人身御供を捧げる風習がありました。
魔物達が恐れているのが「信濃のべんべこ太郎」であることを知ったある僧侶が、
べんべこ太郎を探しに信濃へ赴きましたが、べんべこ太郎とは大きな犬でした。
苦労の末、僧がべんべこ太郎を借り受け魔物を退治したと伝えられています。

言い伝えによれば、べんべこ太郎と魔物たちの戦いは麓の山口から谷の奥の田麦野まで、
激しく繰り広げられたそうです。その後には魔物の正体であるタヌキが骸をさらしていたといいます。
べんべこ太郎も力つき、山口まで辿り着いた時に息絶えたと言われています。
村びとがこの地に、べんべこ太郎を葬りお堂を立てたのが、この妙見神社のはじまりだそうです。
田麦野とはタヌキ野の意味であり、大昔からタヌキが田畑を荒らす害が深刻だったと言われています。
このため魔物退治の伝説が生まれたのでしょう。

この田麦野から山を越えた所に、芭蕉の句で有名な山寺立石寺があります。
立石寺は慈覚大師の開基になる天台宗の古刹です。
また、ヒヒ退治で有名な早太郎伝説の残る信濃の光前寺は、
慈覚大師の直弟子である本聖上人が開いたもので、
立石寺と光前寺は深い関係があったことが分かります。

もしかしたら、べんべこ太郎を連れて来た僧とは山一つ越えた立石寺の僧であり、
信濃のべんべこ太郎とは、早太郎と同様に光前寺に飼われていた狼犬だったのかもしれません。

(来福@参道より http://www.raifuku.net/index2.html

山寺の磐二、磐三郎のマタギ話に通じているようですが、
早太郎伝説は、白羽の矢をたてられた女性を救った話。
猿退治の話になっていますが、生贄を見つけるところは、スサノオのヤマタノオロチと同じ。
ある旅人が、村で生贄にされる娘の話を聞く。
不審に思ってこっそりのぞくと、化け物が「早太郎に聞かせるな」という声をきいた。
早太郎を探したところ、早太郎とは光前寺の犬だった。
娘の変わりに早太郎を送りだすと、犬猿が死んでいるのをみつける。
娘の名前は、矢奈比売という。
矢奈比売天神社が静岡県にありますが、他に菅原道真を祀っています。
また、この娘も天皇家に関わっていたようなので、巫女のような存在だったと思います。

そして、狼の方が古いと思うのですが、狼と龍が関係するのも、
それ以降、龍と蛇退治や百足退治に話が変わっていく。
俵藤太の滋賀県三上山の大蛇と百足退治として伝わる。
俵藤太は、武蔵の鎮守府将軍でした。


(妙法岳に向かって建つ妙見社)


(栃本:竈三柱神社)


(栃本:ワタツミの和田神社)

飯盛山----------------------------------------------------

妙見信仰と関係しているのかわかりませんが、気になるのが、マップにも出ている飯盛山。
ここは多分、大蛇窪に関係してそうな。
確か、横瀬町資料館に展示されていたのですが、昔は、飯盛山あたりにミワ信仰があったようで、
三輪神の名前があった。
秩父夜祭りは、妙見様が武甲山から降りてくるのですが、
飯盛山あたりからスーッと降りてくるならば、秩父神社にぶつかるのかね?
夜祭りは、藁の龍を柱に祀るので、龍神をお迎えするのだから、妙見様は龍だから狼(大神)ともいえる。




(google earthより)

「飯」とつく山名は全国に多いです。
古代では亡くなる時に、もがりと言って、しばらく亡き人の枕元に供物を与えていたそうです。
こんもりとお椀に乗せたご飯をのせる風習もあるようですが。
飯盛山は、その意味でお米を盛っていることの意味があるのでは?
要するに墓場のこと。
死者の食事を用意していたのが、飯炊きの昔話があるように巫女である女性たちでした。
なので、飯盛山は儀式をしていた場所だと思うのです。
お米は、民俗学ではエネルギーでもあるから、魂を呼ぶ意味があり、団子など白いお餅も、
魂を繋げる鎮魂の意味があったそうです。

しかし、飯盛山は、石灰開発で完全に崩されてしまいました。
雪が積もっているのではないよ。石灰ですよ。
偶然にも真っ白いセメントが、ますます鎮魂の色を示している…
武甲山が武甲山自身で鎮魂しているようだ。

あり得ない光景ですな。
秩父人として恥ずかしい。

グチるけど、三菱の三角マークは、トラウマになるね。このマーク、武甲山の森には要らない。
ちなみに、北条氏の三つ鱗も同じ意味で、三角形のマークはここから派生している。
このあたり、北条氏の家臣たちがいっぱい入ってきているよね。
ユダヤ人なんじゃないか、と。



武甲山は複数の企業や個人が所有しているから、面倒くさい。
セメントで年間約 200万の収入を得ている人がいると聞いた。
主に公務員とセメント会社。何もしなくてもお金が毎年入るので、セメント開発をやめない。
今は少なくなっていると思いますが。


(ミワ信仰の特徴、三つ鳥居(三峰神社):3は破壊の数字になってしまった?)

我が家には一銭もお金は入らない。当たり前だ。
そんな生き方を望んでいない。

地元の人なら三菱セメントの工事見学ができると聞いて、知人を通して希望したが、
何の連絡もなく結局は、断られた。
良からぬものがあるからだろう。
そう思われても仕方ない。
一般人を入れると何かとSNSやブログに書かれるから都合が悪くなるということか。
何を燃やしてるのか。ぼやっとしているところに問題がある。

水俣病を引き起こした企業が、秩父のセメント開発にも携わっている。
こういう企業が関わると、自然破壊があっという間に行われる。
マスコミは中国の環境汚染などしつこい報道をするけれど、どっちもどっち。

武甲山のおかげで、唯一、横瀬町が秩父の中で毎年黒字。だから、秩父市と合併しない。
そう思われても仕方ない。
でも、石灰開発を推し進めてきたのは、地元の人。政治家と絡んでる。
秩父鉄道は、セメントを運ぶために開通した。
今は人を乗せるようになり、鉄道マニアに大人気ですが、武甲山の歴史も知ってほしい。

目の前で環境破壊が進んでいる山は世界的にも珍しい。
武甲山は負の遺産です。
美化することはならず。
再生もならず。
人間のエゴによって犠牲となった山。

そんな代名詞をもつ武甲山は、今もどんどん削られている。(二子山も同じく)
まだこの先、10年は続くだろう。


(妙見様が下りる時は、幣束をたてて準備をする)

それでも毎年、秩父夜祭りを行う。
本当に妙見様は下りてきているのでしょうか?
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

多治比氏と山窩(サンカ)

2015-11-04 | 秩父の祭りと信仰
山窩(サンカ)は、山人だが、マタギでも木地師でもない。
山窩は聞いたことがあったけど、何も知らなかった。
しかし、その山窩が、タジヒと呼ばれ多治比となっているそうだ。

また、サンカはエミシやクマソ、ツチグモなどのように、差別用語でもある。
サンカというより、「ナデシ」といわなければ、サンカにはわからないそうだ。
ナデシは、漢字にすると、「撫師」と書き、これが本当のサンカの自称だという。
その由来は不明だが、撫でる神様がいる。テナツチ、アシナツチ。

どうも私はこのような言葉に敏感に反応してしまう。
歴史においては無知が差別を生むのだから、知らないことは罪だといっても過言ではない。
外国人に、日本人は母国の歴史を知らない民族だといわれる事がある。
本当にその通りだ。
義務教育での歴史授業の時間が、他国と比べて少ないと聞く。
知る時間が少ないから、妄想するしかないわけよっ!

で、だから山窩も、まつろわぬ民である。ただ、山窩用語が犯罪用語に使われていることもある。
でも、ここでは、純粋に民俗学からの山窩を考えてみたくなった。
ということで、漠然とですが、サンカは実は誇り高い山民だったと思われる話を。

サンカは「傘下」などともいうように、集団のある組織の中で庇護されるような
意味合いでとられますが、「山窩は生きている」「山窩奇談」などの著で、
山窩研究をされていた三角寛の本を読んで頂くと興味が湧きます。



ある事件により、犯罪集団のことをいわれる場合もありますが、
県境に住むことが多い為、犯罪を犯した者が逃れて住む人々ともいわれていた。
警察も県境までは追ってこないという理由らしい。
まあ、それが誤解や山窩を遠ざけている一因にはなっているだろう。
確かに、怖い一面もある。
しかし、実際は違うようだ。

民俗学の説では、移住生活をし、自然洞窟、遺跡跡付近に住み、戸籍はもたない人々。
あるいは、古代史では追われた山人として、縄文時代から続く先住民、大和朝廷
から追われて山生活を強いられた人との説もある。生活は少しマタギに似ているが主に川漁をする。
日本のジプシーのように自然の中で暮らす人々のことも含まれる。

山窩は九州の隼人説、近畿、関東地方特に山梨県では山窩のための捜査まであったそうだ。
そして武蔵七党の中に、サンカがいた可能性大という妄想。
その前に久々に秩父ネタ。
まず、横瀬の歴史を復習。
--------------------------------------------------
横瀬町歴史民俗資料館より、
横瀬町は、平安時代から南北朝時代に活躍した同族的な武士団、
武蔵七党のひとつ、丹党の一族が居住し、在名を名字として名のった土地として知られています。

古文書に「横瀬」の文字が初見されるのは、南北朝時代になってからで、
「安保文書」の中の1340年安保光泰(6代目)の譲状に「秩父郡内横瀬郷」とあり、
横瀬はこれ以前、丹党安保氏の所領であったことがわかります。


ということは、横瀬は丹党安保氏だったのだ。
安保姓は秋田県にたくさんいる。
埼玉県児玉郡神川町大字元阿保に居城していたが、鎌倉幕府が崩壊し、北条氏と共に滅んだ氏族といわれる。
1189年初代安保実光が、奥州合戦に参加。奥州藤原氏との対戦。
6代目の光泰が足利尊氏の先陣であった分家で、旧領地を与えられたとされる。
安保氏は阿保という同じ一族もいて、出羽の安保氏もいる。
秋田の鹿角盆地の中央あたりに安保氏の居城があり、武蔵から陸奥へ渡り、秋田に落ち着いた安保氏もいた。
秋田では「あんぽ」とよみ、出羽の安保氏は武蔵の安保氏の支流。
山形県余目城を居住。
鹿角四頭は、関東武士団の成田氏、奈良氏、安保氏、秋元氏の四氏のことをいった。
ところで、児玉郡の出身といえば、長瀞に白鳥氏がいましたが、
多治比彦王の系譜の子が土着して、武蔵に配流したと言われた人が桑名峯信。
この人が丹党首になり、一大勢力となる。
ここから、武峯→経房が秩父中村郷に住んだ。
白鳥氏を名乗ったのも、この系譜で元をたどれば、多治比彦の安保氏に繋がる。
その系統に桓武天皇がおり、桓武平氏として武蔵は強大な平家集団となっていく。
秩父平氏もその中から派生している。


根古屋から見る武甲山

イタドリと蝮---------------------------------------------------

多治比彦の名前の由来が不思議。
多治比彦の「たじひ」が、イタドリからきているから。


(イタドリの花)

タジヒは古名であり、日本書紀には、「天皇初め淡路宮に生まれる。
生まれつき歯ひとつ骨の如し、容姿美麗、ここに井戸あり端井(みずのい)と日う。
すなわちこれをみて太子を洗う。時に多遅花(たじひのはな)落ちて井戸の中にあり
因りて太子の名となすなり、多遅花は今の虎杖花(いたどりのはな)なり。
故に多遅比端歯別天皇(たじひみずはわけ)という。


産湯の井戸の中に、イタドリの花が落ちてきたので、その花の名をつけた話になっているのですが、
古事記では、水歯別の名代を蝮(たじひ)部を設けたとなっているが、マムシとなっている
蝮は、ヘビの「真虫」と解釈されるが、この場合、蝮一族のことを指す。
これは、蝮を生活の中で使用する独特な職業のこと、それが山窩のことだといわれ、
多治比彦のタジヒとは、山窩の出であるという。
蝮のタジヒは、「這う虫」「咬む虫」の意味がある。

ちなみに、古事記を編纂した太安万侶も、多治比氏の多、らしい。
なので、秩父にも関係しているらしく、女性だった説も。巫女?
だから、古事記にはちゃんと蝮と記す。

三角氏の「山窩奇談」に「蝮天皇の史実」がある。

山窩の「田地火(たじべ)」という人がいる。
田地火の火を「ヒ」と言わず、「ベ」という。
なぜ、ベというのか?「ハンゼイさんの田地火だ」と、地元の人がいう。
ハンゼイさんとは、18代目の反正天皇(はんぜいてんのう)のこと。
「オオサザキと申しあげるのは、つまり仁徳さまですわ。
このお子様がイザホワケ17代、の履中さまでしょう。
その次が弟王で、マムシ天皇の蝮端歯別天皇です。この18代のマムシ天皇が反正天皇でしょう」


田地火とは、蛇捕りのことで、縄文以前からの職業であるから、
「ツチカミのタチゴモ」といって火明命の一族だという。
※火明命は、(日本書記では)天火明命、
(先代旧事本紀では)天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(ニギハヤヒ)、
穂積臣、物部連の祖である饒速日命(ニギハヤヒノミコト)と同一神としている。 
一方、『播磨国風土記』ではオホナムチの子とする。

ツチカミは、漢字以前の言葉で蝮のこと。
タチゴモは、断ちごもで、蝮を捕る者の掛け小屋のことで「瀬降(せぶり)」という。
※「瀬降り」は、河川敷のテント集落のことの意味や、眠る、寝るの意味。
また、セニフルという隠語もある。瀬に降るで、雨とも飛沫とも解らぬよう行動すること。
この語源は、900年前からあるそうだ。

ちなみに、三角氏の「山窩は生きている」で
取材をしていた山窩の場所は、所沢(埼玉県)だった。

「田地火から聞いたところを申しますと、蝮のことを太古にはタチヒといったんですね。
これも漢字の来ない縄文時代を八千年以上の昔としても、それ以前ですから、
漢字では書けません。太古には、いえ、歴代はじめ頃でも赤土の野や山を歩いていると、
あの逆歯でグシリと噛まれる。それが焼けた刃物で刺される痛さを増してくるから、
タチヒというのだと言ってますから、太刀火とも書きますか。
ですから昔は、蝮を捕る役目の人間(かみがみ)が大勢いたんです。
火明命は、その首の神です。
竪穴の上に薦屋根をふいて住みながら、転住生活をしていた縄文時代や
その以前には、この国土には余程蝮が多かったと見えて、後の古書にもカマゴモ(防壁)
で蝮を防いだとありますが、田地火はその蝮の防人ですわ」


丹比という村は、日本中に河内(大阪)と因幡にしかなく、
この丹比が蝮を丹治比と書いた名残だという。
しかし、蝮(タジヒ)に、丹と比の当て字にした理由は定かではなく、
日本書紀など、天皇制について蝮という漢字を当てる(意味)のは無礼だという
ことで、なぜか、蝮をつけないようになったという話などが記されている。
------------------------------------------------------
天皇についてはここでは述べませんが、実は、山窩は誇り高い山民だったのでは~?

しかし、謎多し。
他にもマタギのように、決まりもある。
また、妙に先祖のことを気にし、神社の由来や神社の建築に詳しい山窩もいた。
山刃というウメガイは、他人に見られることはタブーとしている。それは、薙の神剣に似ているそうだ。
が、たまに悪いものに使うから埋めにいく。だから、貝掘りにゆくと言い、埋めた貝=ウメガイだそうだ。
そのような隠語は、百種もあるそうだが、そんな山窩の結束が不思議だ…

奥秩父では、木地師はいました。それも山人ですが、山窩とは違うようです。

ところで、多治比真人という方がいます。
真という漢字がつくのは相当認められた人だと思います。
和銅がとれた秩父の頃に、丹党が早くに入っていましたが、
藤原氏とも関係をもっていました。藤原不比等とか・・・。
中臣鎌足との関係も深い。
また、本拠を河内国におき、その子孫が秩父にいて鍛治集団となっている。
河内国の石上神宮と同じ長瀞にも石上神社があります。
境内には、光玉稲荷神社という光の玉?という不思議な名前のお社もある。
多治比真人は、大化の改新の頃にいたらしいので、ここから枝分れして、秩父平家がうまれている。
そして和銅の開発も進めてきた。

どうも、秩父にはモノノフの影はないが、物部氏の末裔が入ってきている感がある。
それ以前から早くに多治比氏が入ってきていたら、追いかけてきた物部氏系に対し、
多治比氏は、やはり「多」だから、オオ氏なんだろうか?
その神聖な刀が必要になった時に、自然銅を生かそうとした人々もいただろう。砂金を追って。
それに、平家はよく逃げる。平家落里はあっても、源氏の里とはあまり聞かない。

また、多治比真人は「霊寿の杖」というのを授かっている。
功績と高齢に与えられる杖らしいが、鳩がついている杖?とも。
当時は鳩だったかわかりませんが、中国の「鳩に三枝の礼あり、鳥に反哺の孝あり」という難しい言葉ですが、
礼を重んじ、孝養を尽くすべきとの意味があることから鳩の杖となった。
多治比真人が、こんなに立派な方とは知りませんでした。

産鉄族のオオ(タカ)氏?----------------------------------------------------------

反正天皇は、淡路宮(不詳、淡路島?)で生まれ、容姿美麗(色白)であったそうだ。
※イタドリの花も白い。
生まれながらにして綺麗な歯並びであったので、瑞歯別の名があるという。
武蔵と考えれば、このミズハの「歯ひとつ」とは、
「目ひとつ」や片足という鍛治のイメージがある。
やはり、産鉄の神と考えるのが武蔵らしいと思うのだが、どこかで、山窩と産鉄族が混じっている気もする。
朝鮮語でオオは「タカ」とよばれており、タカの地名が東北には多い。
武蔵には高麗人の里もある。

縄文時代から生活していた先住民と、渡来人が混在して
名前を「多治比」と漢字にしたとしたら、どこかで自分たちの租を名前にいれていると思うのです。
オオは神武天皇の系統だといわれていますが、出雲族といわれ古い産鉄族です。
オオ氏も忽然と史料から消えます。
そのようにしていったのが物部氏と藤原氏だと思うのです。

それに、丹生都比売を祀る社は秩父にとても多い。
それは丹党氏が祖神としているからでもあるが、湯から生まれる話は、
おそらく刀の誕生といった霊刀を伝えるものと思う。
丹生都比売は奈良県吉野なのですが、「イザナミのゆばりから生まれた神」といわれる。
灌漑用水や治水工事の神といった説もありますが、水銀から金を産出することになった水銀を敬う風習もあり得る。
丹生=水銀。

また、生まれつき他の人の容姿が異なることを伝えているのは、
多治比彦が特別な存在であったことを記し、もしかしたら、ミズハはミズハノメの意味もあるかもしれない。

丹生川上神社(奈良県吉野郡)などで淤加美神とともに祀られているのも、ミズハノメの水神である。
ということは、武甲山が龍神とされているのは、丹党の思想?で、
「ぶこう」が六甲山の「むかつ」から「むこ」となっているルーツには(江戸時代頃)、
武甲山を水神=ミズハノメとしているから、このような思想になることもないだろうか?
という妄想は、前にも記していますが・・・なので、武甲山の山姥伝説や藤が生えない話しになる。
藤が生えない話しも、産鉄用語で解釈することもできるし、
藤を生えなくした氏族がいたという事も伝えている。

ミズハノメは龍神でもあり、水神、瀧神でもある。
亀に乗ってやってくる妙見様も、ミズハノメの姿としてみえるかもしれない。



武甲山と妙見宮の昔の写真があります。(横瀬町資料館より)
大正12年、灯篭と神使の亀の子石。
秩父夜祭になると、亀の子石に妙見様が降りてきます。
鎌倉時代から秩父の武士たちは武甲山を観音様や龍神、水神、いろいろな姿でみてきました。
観音霊場、熊野信仰が秩父霊場として今でも武蔵の聖地としてあり続けるのは、
多治比真人の系譜を受ける武士たちの信仰が秩父の景観や風土に合ったのでしょう。


(横瀬町:昭和初期の根古屋城跡:右側の山が武甲山)
ここが秩父の東にあたる辺境地。ここから先へ行くことを留めるための、御嶽講が残っている。
荒川から上流へ向かってやってきた平家は、ここから先は山の峯でふさがっているため、
ここから先へ行くことをためらう。こうして横瀬に住むことになった武士が多いという。
そしてこのすぐ隣の山名は、三角山。
三角山下には飯能までセメントを運ぶ地下トンネルができている。

多治比氏がいなくなった訳------------------------------------------------------------------

山窩は山人とは異なる点から、差別され部落があったことも指摘されている。
例えば、エミシの話しで多賀城を焼き打ちした呰麻呂(アザマロ)という人は、同じエミシの中でも差別的に見られていた。
お互いエミシで豪族の出なのに、位の低い豪族から成り上がったとして、自分の方が上だと主張する者がいた。
その恨みから呰麻呂は反乱を起こす。同じエミシ同志の仲間打ちがあったわけだ。
これらの差別とは、同族でも階級があったことを示している。
その呰麻呂は、アテルイといわれた人たちと関係をもっていたと言われる。
ということは、本当は、呰麻呂の方が身分は上(天皇の血筋をひいている)だったけど、
熟エミシの朝廷側から排除されそうになったから、その政権を正そうとしたこともあり得ます。

多治比氏がマムシの山窩であったから、差別され朝廷からは排除の対象になる。
その恨みから、「平」を名乗り新たな国家を取り戻すことを考えていた人だと思うのです。
それを受け継いでいるのは平将門なんじゃないかな?という妄想。
出羽三山に五重塔を建てたという話にも、何か意味がありそうです。
それに言霊の霊力は刀の先端に込める。
刀の先は、非常に強い霊力が宿るから触れてはならない、という夢をみたことがある。
それは2本の直刀でした。
二本なのは、陰陽で一つに合体した形が不動尊が持っているような剣になる。

昔は、木で結界を置いてました。
鉄ができると、陰鉄(隕石に鉄が含まれている)といって宇宙の力が宿ることを知った産鉄族は、
鉄で剣をつくり、山頂に剣をかざします。
宇宙からの結界をはるためでしょうが、早池峰山山頂には、剣がたくさん天に向けられていますね。
姫神山もそうですが、早池峰の方が数が多い。
剣を持つ力は、不動尊です。
悪を跳ね返すためであるから、上に刃がむいている。
人はそれに対して剣を横に切る。
人を殺めるための剣ではない。

山窩は、神社などのお堂に住むことはなかったという。
山窩ではない人は、お堂などに住んでいたようで、それは単なる山人というだけで、
山窩は他の人たちとは違うと区別していた。

お堂を避けていた山窩は、自分たちの祖がその系譜にあることを知っていたが故に、恐れ多くお堂には住めなかった…。
という妄想をしてしまう。

山窩は理由があって逃れ、山奥へ住んでいた人のことも言うのだから、
村人との暮らしから完全に孤立して暮らしていた人が多い。
なので、自らを明かすことはない。
また、言語も特有のものを使用する。
山窩文字は、神代文字といわれるがよくわからない。
大和朝廷から追われた古来の日本人=縄文という説もありますが、
戦国時代に特有の職業を持った集団との説もあり、ハッキリしていません。

今はすでにない廃墟な家が山奥にあるならば、もしかしたら、
それは山窩の形跡かもしれない?
----------------------------------------------------------------
日本の古代史は、大和が中心のヤマト言葉になって書きかえられている。
元は漢字を用いていなかった言語をもつ人々の歴史が不明なのは、語ることをしなかったわけです。
だからそれを読み取るのは大変。

自分たちの先祖のルーツを知っていたから、他者を受け入れることをしなかった為もある。
自分たちの種を守るためであるが、
社会から切り離した生活をしているのは、自然を愛するといったものとは遠く、
山窩を読んでの感想だが、先祖は争いを行ってきた民族で、その償いのために集団から外れた生活を強いられた感じも受ける。
でも人々を招く時には、礼儀を尽くす。そして水にも非常にこだわる一面もある。
でも一切、身を明かさず。
それが先祖からの教えなのかもしれない。

山窩は、山窩研究をしていた三角氏を通さないと詳しく教えてはくれないようだった。
当然だが、それは山窩のことを三角氏が理解していたからで、それが信頼関係を保っていたのですが、
三角氏は新聞記者であったにも関わらず。

今回も、南国の海が浮かぶような話だ。
タチヒが、タヒチに似てるし。
マムシが多いのは、沖縄や九州だから、カヌーが浮かぶような話だ。
山窩もはるか遠く、海から山へ逃れてきた人々なのかもしれない。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

秩父の峠萌え~

2015-05-23 | 秩父の祭りと信仰
「先代旧事本紀」より
「神武天皇東征の時に、二ギハヤヒの従者として32人の防衛を為し、天降共奉る。
その中に八意思兼神の子、表春命、信乃阿智祝部らの姐、天下春命、武蔵秩父国造らの姐」とある。
また伊勢天皇大神宮(内宮)の相殿神には、「御戸開神天手力男神」が祀られる。


なぜ、秩父がこの書に記されているのか。
秩父神社境内にある長屋は、天神地祇神が祀られている。
天神は「天津神」、地祇は「国津神」のことで、天と地の神々を総称していうようだ。
平安時代から中世にかけて、
全国各国毎に「一ノ宮」「総社」の運営、祭祀の尊重が図られるようになったとある。
かつて秩父地方は、知知夫国として独立した存在ではあり、
その当時にはすでに武蔵国に属していた。
現在の東京都府中市に鎮座する大国魂神社が武蔵国の総社とされ、
その第四ノ宮に当社のご祭神が奉祀された。

全国の一ノ宮(計75座)をお祀りしているので、
出雲のように、神々の契約をここでも行っていた。
それは東北にも移り、天孫系の人々が入ってくるたびに、国津神との条約を結び、
これからの日本をどのように一国(宮)にするかを考えていた場所なんだと思います。

秩父神社のご祭神はオモイノカネ(思兼命)という神であるのだが、
どんな存在かよく知らない。
「思いを兼ねる」とはどういう意味だろう?

秩父の峠---------------------------------------------------

敗戦した苦悩があるのか、遠くから逃れてきたこともあったから
なのか、秩父人は寡黙で、あまり多くを語ってはくれない。
ただ、秩父の女性は厳しくて強いが…。

古くから狼煙の祭りがあるように、鉄砲などを使う火薬など、
火を扱うことに熟知していた。



実家に帰省した時に、素敵な本を見つけました。
おばあちゃんの手がドラえもんみたいに丸くてかわいい。
理想は、こんなおばあちゃんになること~。

秩父のおばあちゃんは、小さくて丸っこい人が多いと思う。
急斜面の畑でも小さな背を丸めて、せっせと働く姿が秩父の風土でもある。

「秩父ー峠・村・家」著者は井手孫六さん、写真は南良和さん。
1984年発行。

その中に、惚れ惚れした写真を発見。
かっこよすぎ。
「鉄砲祭り」
鉄砲の火薬の煙から浮かぶ人影が、武蔵の武将に見えてくる。
馬もすごい。
このように秩父夜祭りでもそうですが、馬は特に神格化され、古くから狼煙をあげ、鉄砲という火薬の技術が入り、
それをシンボルとしていた先祖たちの面影を、
祭として残しているところが、秩父らしいな~、と思うのです。




著者より「秩父の今も行われている村祭りのなかで、多様性ということに力点を
おけば、まずあげられるのは、小鹿野町飯田八幡の鉄砲祭りだろう。
飯田耕地には昔、播磨国(現:兵庫県)から六部の姿に身をやつして落ちのびてきたという
播磨一族がいまもなお播磨姓を名乗って現存し、祭りに深く関わっている。
(12月14日、15日の2日にわたって行われる)

「(省略)なぜ、秩父にはこれほど祭りが多いのか。
それは深鉢にたとえられるような盆地と、深く結びついているにちがいない。
長瀞の貯えられた荒川の水は鳥の首に似た波久礼の急流をかけぬけて、
一気に関東平野へ流れ出る。逆に外界の文化は、永い歴史の中でその細い鳥首のような
パイプを通じ、あるいはいくつかの峠越えにこの盆地にもたらされた文化は、
ゆっくりと醗酵する酒のように深鉢の中で育まれ、祭り文化として花開いた。
いったん定着した秩父の祭り文化は、逆にその盆地性ゆえに烈しい近代化の波にも
さらされることなく、風化をまぬがれて今日まで生きのびたのではなかったろうか。」



(右上の高い山が武甲山)

播磨国は、山陰地方の兵庫県にあたるが、武甲山の山名由来が
兵庫県の武庫山からきている話は、このあたりからきた人たちが語り継いだのかもしれない。

ところで、「先代旧事本紀」に戻るが、
「表春命」「天下春命」という名前を聞いたことがなかったので、
ネットで調べたら「ウワハル・シタハル」の事だと。

信乃阿智祝部の阿智は、元は恩智と書いたそうだ。
長野県に阿智神社がありますが、470年河内国で天八意思金命を祀ったとある。

イザナギ・イザナミが最初に生んだとされるヒルコは、
夫をアチヒコという。和歌が上手なヒルコはアチヒコにラブレターの歌を
送るが、アチヒコは歌が苦手だったので、手間がかかったというような話が、ホツマツタエにある。
ワカヒコは、アマノコヤネの斎名とある。
そのワカヒコが秩父に関係しているようです。
神武天皇とウガヤフキアエズの関係もあるらしいが、
「アチ」という名前が、元はアイヌ語からきているのだとしたら、
やはり、このへん、国譲りの二ギハヤヒから政権が変わったことを伝えているような気がします。
その前は、ナガスネヒコが大和政権を握っていたのを、
神武天皇と共に、二ギハヤヒが降臨したという事なんでしょうか?

ところで、私は最近、宇宙ばっかり気にしてますが、
これも龍と牛の融合に行きあたるのだと思う。
宇宙ばかり見るのもよくわからないのだが、
あまりにもいろんな出来事が(自然災害など)続くので、落ち着かない変な感じ。
標高の高い山に登った後の変性意識状態のような。まだ続いている。
それに女性性がまた高まってきた。
変わったと思うのだが、何が変わったのかわからない。

なぜ、秋田なのかもわからないし、
唐松神社なのかもわからない。
ニギハヤヒに関係しているのだとしても、わからない。

ど~も、この「アチ」という名前が気になったので、いろいろ調べてみたら、
アイヌ語のピカタの牛になり、アジスキタカネヒコにいきついた。
どういうこと?

アイヌ語で「ア」は、私、我々など私達のことをいう。
「チ」は、意味をもたないが、強調して使う場合にも用いる事があるらしい。
という事は、アイヌ人がたくさん住んでいた古代を考えると、
アチは、「我々そのもの」であるという事なんだろうか?
私達を強調している言葉なら、私たちがカムイであること。
そのように聞こえる。

古代史では、阿智使主(あちおみ)という人がでてくる。
百済系の漢氏(あやし)がいる。
物部氏は、その愛子神を崇拝していた。
ユダヤに関係している氏族だと思うので、マグダラのマリアをさしているのもあると思う。
妊婦の腹帯を奉納するという伝承があるのは、聖杯をさしていると思うし、
日本海へ逃れたのも、意味があるのだと思う。
その青森県には、キリストの墓といわれるヘブライ人の痕跡が残されている。

唐松神社は子宝の神様といわれる。
西洋はマリア様にあたり、日本では神功皇后といわれる人なんだろうか?
日本書記では気長足姫尊や古事記では息長帯比売命といわれる。
それに北斗七星に関係している。
柄杓の形をした水で産湯を使ったという伝承が壱岐島にある。

妄想ですが、日本にきてアチと言う存在が神々しい意味があるから、
アチの主であることを言いたかったので、阿智主という漢字をあてた気もする。
物部氏は、そのようにいろいろと名前をかえたりしている。

漢氏は、物部氏と同じ系統だといわれるが、古事記の国譲りで大国主がスクナヒコと
交渉?している話があるが、スクナヒコという小さいイメージが、天孫系なのかもしれない。
阿智のことを朝鮮語では、「小児」と書くらしい?
子供の意味があるかどうか不明だが、『延喜式神名帳』にある「阿知江神社」
なども、祭神がワタツミで、少童命と書く。これが、安曇氏が姐神としているという。

何となく、ヒルコとスクナヒコが似たような境遇をもっているような気もします。
「少」や「小」という意味が含まれているのならば、
大国主や大物主といわれる人たちは背が高い巨人の子孫だったでしょう。

----------------------------------------------
先代旧事本紀の32人はどんな意味の数字なんだろうか?
前に松の木の話しで、32のことを書いた記憶が。
松という漢字を崩すと、十、八、八、ム(六)=32.
と勝手に6をムとしているが、松に精霊が宿るならば、32は自然界の数字を伝えていると思う。
これは、八進法のことだと思う。
八進法は、0~7の8種類の数字で、8×2、8×3、8×4、8×5・・・
と倍数にすると、「4」は、「32」になる。
この世が「7」の世界というのは、こんな意味?なのかどうか…。
0を加えて7までを数えると8になる。
八百万の神というのも、自然界を伝えていると思うので、
私が感じるものとしては、二ギハヤヒの響きが、高速回転する振動のように感じる。
人物であると言うのは、今の3次元で捉えるならば、物や人物になるからそういえる。
8の世界にいくと、振動や化学反応の自然界を伝えていると思います。
宇宙そのものでしょうか。
--------------------------------------------------------
秩父にアマノコヤネを祀る痕跡があるという話しは、
ずっと前の、古御嶽城跡の探訪でいろいろと妄想していましたが、
アジスキタカネヒコという人はなんでしょう?
この人を祀る神社なども多く、高という名前が大体つく。
この人は、父が事代主で、母は玉依姫?らしい。
オオナムチの子がアジスキタカネヒコだといわれていますが、
このへんちょっとわからない。
ですが、アジスキタカネヒコは出雲の人だったと。

旧事本紀に、事代主Or大物主の后が、玉櫛媛(たまくしひめ)といわれ、
その子が「天日方奇日方(あめのひかたくしひかたのみこと)」といい、
別名:櫛甕玉(くしみかたま)で、スサノオの子孫にあたる。

詳しい話しはわかりませんが、アジスキタカネヒコは角のイメージがあります。
妄想ばっかりですが、天日方をヒカタと読むのは、
元は、ピカタというアイヌ語的な、ピカタな人。
ピカタは牛のことをいうので、牛を神格化していた人々だったのでは?と思った。
角がはえている神々は多い。
役小角など、角を名前につけるのはなぜだろう。
スサノオも角があり、それは鬼だったのか?
ヒカタ(ピカタ)は、太陽神と思うのですが、「日の形見」という意味にもなる。
その太陽神で女性といったら、やはりヤマタイ国の卑弥呼から継承するもので、
出雲族のなんかに関係しているとか。

そして、そこには「黒」があると思った。

事代主は鶏を嫌う。
鶏を嫌う話は、秋田のなまはげなどと同じような話がある。
鶏は白いから、白鳥などど同じ信仰だろう。
それにサメに手を噛まれている話しもあり、貝に手を挟まれて亡くなった猿田彦神と似ている。

アジスキタカネヒコは黒神のイメージ。
埼玉の比企郡に黒岩横穴古墳群がある。ポンポン山という面白い古墳がありますが、
ポンポンと音がする山だったから、
その名がついた。
そこに「高負彦根神社」が祀られている。
これが、アジスキタカネヒコ(味耜高彦根尊)であり、他にオオナムチか
スサノオのどちらかを祀っているという。
ここが黒岩といわれる由縁がよくわからないが、比企郡は横見神社があり、
スサノオを祀り、出雲系の神社としている「伊波比神社(いわい)」もある。

伊波比神社は応神天皇を祀る。
このへん、いろいろな意味があると思いますが、ここではスル―。

「スキ」という漢字が含まれるものでは、宮城県に鋤神社がある。
行き、過ぎるという意味をあてているという神社で、
スキ神社はスサノオを祀り、ユキ神社は猿田彦神を祀る。
そして、この神社のある所も黒川郡という。
秩父の和銅が発見された場所も黒谷という。
黒には何かある?
単に地層が黒々していたから?黒曜石があったから?
クロマンタというピラミッドが秋田県にあったな~。
クロのマンタは、野の神ともいうらしい。
信濃町の黒姫山も黒姫伝説として龍と水害の話しがある。
日本では黒を神格化する山が多いと感じる。
中国と朝鮮半島にある長伯山にも龍伝説があるが、昔大噴火を起し、
岩木山(青森)まで灰が積もった。
でも長伯山には「白」をあてる。

宮城県のスキ神社は、埼玉県の児玉氏と関係が深い。
児玉氏の金山彦を祖神とすることにある。
おそらく、アジスキタカネヒコは金山彦を祖神としたアフリカ系の人々からきているのでは?
と思ってしまう。それは金に関係してるから、シュメールに繋がるかもしれない。
また、インドやスリランカ、ネパールなどのアジア人も含まれている。
はるか昔、アフリカからきているのだろう。
古くからキリスト教が盛んに信仰されているのはエチオピア。

また、黒はマグダラのマリアに通じるものもある。
蜂子皇子も黒だった。
今は白にされてる。
古くは、本来の天皇制を正そうと排除された氏族や豪族たちが、最果ての東北にルーツを残したと思う。
児玉氏が藤原氏出身でないならば、エミシ征伐ではなく、児玉氏も武蔵のエミシなのだ。

縄文人が崇めていた龍と渡来人(騎馬民族)が崇めていた牛の
婚姻があったことを物語るような神話も世界に多い。
この場合、何をもって龍や牛というのか?

宮崎県に幣立神社があり、五色の祭りが有名。
世界各地から平和の祈りの場として集まる。
これこそ宇宙人類の結束のための、契約の場であると思う。
契約とは?
失われたアークは、契約の箱という。

五色の人々が、平和に暮らしていた時代があった。
赤、青、黄色、白、黒の人々。
赤、青はよくわからない。
変な話だが、赤と青は宇宙人かもしれない。
白は白人で黄色はアジア人。黒は黒人でアフリカ人と解釈されるが、ある特定の地域を差すかもしれません。
人類で例えるなら、その黒は、ホモサピエンスのルーツなんだと思う。
Dタイプの遺伝子が縄文人やアイヌ人に残した祖先という話。

ということで、黒の精神文化にはホモサピエンスのアフリカに繋がる。
黒を崇めるのは、そんな意味があると思う。
人類が最初に生まれた地であり、その濃い系統を縄文人が受け継いでいた。

黒はあまり良いイメージがない。
光の原則では、ブラックホールのように黒は光を吸収してしまう。
混沌としたものから、「光あれ」と言ったことが聖書に書かれている。
でも、日本人は、それを闇として完全な暗闇を体験しようとするのは何だろう。。。

善光寺のお戒壇めぐりとか。あれはすごすぎる。あんなに暗いってどーいうこと?
夜、部屋の明かりを真っ暗にして光を遮断するとかのレベルの暗さじゃない。
体験した人は、あの暗さにびっくりします。
死を闇として考え、闇の世界から一筋の光が差した時、人は生に感謝できるのだという。

秩父にも、アジスキタカネヒコの祖を名乗る氏族がいて、銅や鉄などの技術をもっていた。
コーカサス、スキタイ族の人々がきていたかもしれない。
サスとかスキとか…

でも、なぜ秩父に13権現者がやってきて何を残そうとしていたのかは、よくわからない。

峠って実は大事なことなのかもしれない。
波打つ峠の姿が龍の背と考える。
修験者たちは峠を歩いた。


(C)清水武甲 昭和30年代前半の栃本)

埼玉県百科事典にこんな話が。

「将監峠(しょうげんとうげ):
秩父那大滝村と山梨県塩山市との境にある峠。秩父多摩国立公園に属し、
唐松尾山と竜喰山との 鞍榔で標高1800m。
奥秩父主脈縦走路が束西に走り、南より塩山市三之瀬からの登山道が合流する。
南面は明るいカヤトの原で、すこし下がったところに将監小屋がある。
往時の峠は唐松尾山寄りの牛王院平とよばれるカヤトの原で、
甲斐武田氏が秩父の金山経営に 利用したほか三峰、秩父と甲斐との交易路として利用された。
峠名は武田氏の家臣の名に由来し、 武田氏御用金が理蔵されているとの伝説もある。」



(麻は生きている)

秋田の唐松神社など「唐松」や、気仙沼の唐桑など、唐や松には、龍が宿るといわれている。
松に神が降りるのも、松の木肌が爬虫類系の鱗に似ているから。
龍が松の精霊に変わったこともあるのでしょう。



それは高い山から宇宙の気が降りてくる時、里山の峠の峰をつたって流れるからかもしれない。
そう考えると、奥秩父の峠はすごい。
また、ここで生活している人はもっとすごい。
栃本を歩いた時を思い出す。目が回るほどの急斜面に人が住んでいる。



おばあちゃんの手がすごいのは、この土に触れているからだよね。
歩きたくなる峠萌え~。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

星座でよむ秩父の宇宙

2015-05-08 | 秩父の祭りと信仰
横瀬町資料館にあった秩父札所の「長享番付(1488年)」の33か所巡りです。
現代とは異なり、妙見菩薩(定林寺)から始まり、妙見宮の2番(蔵福寺)
から荒川本流を南に一巡、大宮郷の13番西光寺、14番~赤平川流域、
22番に戻り、横瀬川流域を巡り最後に29番の武甲山山麓の生川流域となり、
結願は33番の水潜寺になる。
大宮郷の武士階級のために創られた道順だという。




ところどころに二等辺三角形で川を挟んでいる。
13、14、15番の線は自分で引いてしまいましたが、
点線は、33番の最後を結んでいます。
各々のお寺を三角形で結ばれるようになっているようで、
これも不老不死の伝承に由来するものでしょう。
観音霊場は、病気や怪我もなく健やかなに暮らしていけることを願うもの。
また、この順路が武士の為とならば、余計に呪術的な歩き方を考察しているような感じも受けます。

どこか、羽を広げた鳥のような図にも見える。
この図を宇宙に反映させると、どんな星座になるのでしょうか・・・。

ちなみに、今は建物が建ってしまい、あまり見えないこともありますが、
荒川、赤平川、横瀬川の3つの川を巡り、どの位置からも武甲山が見えていました。
-------------------------------------------------
ところでなぜ信仰には「七」の数字が多いのでしょうか?
これが記憶に関係するという。
人間の脳は、一度に7つのプラス・マイナス2といミラーの法則
「マジカルナンバー」があると発見されました。
一度聞いただけで、直後に再生できる記憶容量は7個の塊=チャンクというのが
働いているといいます。
例えば、「かがみもち」を平仮名で5文字として知覚し、
鏡と餅で2文字、鏡餅で1文字というような塊をチャンクという。
その限界が7であると。
星座にも神話の多くは、7とする。
多くても9個で記すものが多い。
日本で8を聖数とするのは、人間の能力を超えると8になるからとされる。

さて、「和」の意味を宇宙へ向けて広げると、
シリウスに繋がる。
秩父の壮大な宇宙を妄想してみた。

信仰は、宇宙をなくしては語れないのだ…。

おおいぬ座は、犬の口あたりにちょうど「シリウス」があります。
冬の星座でオリオン座の三つ星の東におおいぬ座がある。


(おおいぬ座:Wikipedia)

前にも話たと思うのですが、大口真神が狼とされるのは、
星座でみると、おおいぬ座が関係しているからだと思うのです。
つまり、シリウスの口。

聖徳太子のシリウス信仰は、和で以て・・・という言葉から、
「ま・ほろわ」で真実の和=真実の口であり、
言葉が大事なんだと、伝えています。
世界共通語。
それは日本語のこと。

狼はそれを常に叫んでいるということで・・・。

秩父は北極信仰や北斗七星信仰がある。
妙見信仰が芽生えたのは、平家が由来でしょう。
平家の落里といわれる秩父は、平将門伝説が多いが、ギリシャ神話の
冠座等も、将門の居場所を敵に知らせてしまった桔梗伝説と同じように伝わる。

平家がペルシャやギリシャのルーツがあるのは、元は、原始ユダヤ教であったから?
秩父はユダヤ教の影響を受けていると思います。
ヘブライの「ヘ」を「平」とあてているとの説もあるくらい。

秩父を星座でみると面白い。

武甲山の龍神や牛頭天王の祇園祭りの由来がある秩父夜祭や七夕の話から、
牛頭天王がなぜ、厄病神とされたのか?

おうし座は、牡牛である。
オリオンに襲いかかる2本の角をもつ。
牡牛は上半身しか星座には描かれない。
なぜなら、下半身が人間だから。
それはアトランティスの時代がそうだったから。

日本では牡牛座を「昴(すばる)」といい、プレアデス星団のこと。
スサノオと同じ一族?といわれている猿田彦がいるが、
猿田彦は、プレアデス星団の中にあるヒアデス星団が関係しているから。
他にも、「六連星(むつらぼし)」ともいう。
肉眼では6つの星にみえることから。
昴は、「統ばる」という集まっているアクセサリーの玉飾りに由来している。

武甲山をシリウス信仰とし、武甲山麓に猿田彦神を置いたのは、
プレアデスの名残だろう。
秩父の吉田町に椋神社が多いのは、猿田彦神を祀る。
それもプレアデスに関係しており、スサノオになる。

また、おおいぬ座は、オリオン座のオーリーオーンの猟犬という見方もされ、
オーリーオーンの足元でこの犬は、
ウサギ(うさぎ座)を追いかけているとしている。

兎を追いかけるのは、丹波の白兎の神話にあるように、白いものを追うことになる。

オリオンが、牛や兎を追いかけるのは、
牛(プレアデス)VSオリオンという図式が星座にあるからでしょう。
シリウスは仲介役?

ノアの大洪水を想像させるような中国の伝説では、

中国ではプレアデス星団を二十八宿の『畢宿(ひつしゅく)』と呼びました。
畢はうさぎを捕る網でVに柄のついた形がそれに似ているからだといわれます。
そしてギリシアの雨降り星と同じく、
古い詩経に「月畢にかかれば滂沱(ぼうだ)たらしむ」とあり、
これは、ここに月が位置するのを雨の知らせとしたものです。


星座の神話については、こちらのサイトへ。
http://yumis.net/space/

なぜ兎を捕まえるのでしょうか?
ここでも出雲が関係しているように思います。
-------------------------------------------------
ずっと前にみた夢の話。
横瀬にある根古屋の古御嶽城跡の石碑探訪をしていた頃にみた夢なんですが、
武甲山にUFOが降りてきて、白人のようで西洋ぽい男性が立ってました。
ただ、それだけなんですが、宇宙人は普通の人間と変わりません。
目が異常に大きい変なグレーではなく。(大体、そんなんいるのかね?)

余談ですが、小さい頃からよく宇宙の夢をみていましたが、
大体、小さな宇宙船に乗ってやってきます。中見は無い。
乗り物そのものが宇宙人で、森の中を高速で走ってます。
時には、人の背後にぴったりついている事もある。
本体の色は銀色で、青か赤の色が入っている。
のせてもらった事もある。色は赤い宇宙船だけれど、居心地が良かった。

たぶん、私は宇宙人というより、宇宙という存在の生き物は、
宇宙船だと思いこんでいるから、そういう形で現れるんでしょう。
それも星のようなもので流動的にいろいろな形に変化するもの。
言葉では言い表せない。
でも色が、ちゃんと赤と青の2色を出しているところは主張している。

空一面に、大量の宇宙船が星のようにうごめいているんですが、かなりリアルで怖かった。
成人してみる夢ならば、そーとーなストレスだな、と思うのですが、
子供だったからね。
どんだけトラウマ抱えているのだろう、と思うことがありました。笑。
今は、不思議な夢だったね~と思って話せるからいんだけど。
---------------------------------------------------------
なぜ、武甲山に降りてきたのか、その時は武甲山が単に霊的な山だと思っていた
のですが、最近、起こったネパールの大地震で、また宇宙の記憶がよみがえってしまった。
武甲山はヒマラヤと繋がっている証拠なんだと思う。
そしたら、また、聖徳太子の「和を以て~」が出てきた。

武甲山がレムリア大陸の記憶を持っていると思うのは、
洞窟があり、おそらく、はるか昔、宇宙と繋がっていたシャーマンがいたのだと思います。
宇宙のエネルギー?を下ろす時、最初はシリウスだったと思う。

それが、後になって、なぜか、オリオンの物質的な精神が降りてきた。
神降ろしにオリオンが降りてきたというのか?
それを下ろした巫女がいたんだと思う。ヤマトタケルみたいな人が。
下ろしたというよりか、下りてきちゃった。
それから、武甲山は石灰開発で破壊されるようになってしまった。

たぶん、宇宙の視点からみると、古御嶽城跡の石碑の意味は、もっと深いもので
シリウスの復興を祈る場であったかもしれない。
だから聖徳太子の石碑が真新しいもので立派だった。

シリウスは龍であるという説がある。
縄文人は古くから、シリウスと繋がっていたのかもしれない。
単に、森や動物やあらゆる地球の命を謳歌し、自然と共に暮らしていただけのことだった。

その森が、破壊された。
武甲山はその象徴である。
しかし、武甲山は、それをあまり何とも思っていないのか、
気にしていない感じで、フトコロの大きさがある。
「ひとつになれ」という言葉も、和であると思う。

オリオンが悪いとか、どーのこーのでなく、大事なのは「融合」で。
いろんな人々が宇宙から地球にやってきているのだから、融合するしかなく。
排除でなくて。
変な話だけれど、武甲山がレムリアだと確信できるのは、破壊されても強いところにある。
秩父の水は永遠に枯れることなく、荒川は小さな水流と一つになって大きな大河へと海へ注がれる。
秩父の環境破壊は他と同じように問題が多い。
でも、あれだけ破壊されているにも関わらず、秩父の山々の水が、東京へ注がれているのだ。

互いに「和」で以て尊す。
嫌というほど、何度もそれが出てくるのだから、そういう事なんだと思いながら、
森を見つめるようになった。

オリオンのベテルギウスは赤。
地球でいう太陽に値する。
リゲルもあるが、リゲルは白い。
赤のオリオンは赤鬼、青い星のプレアデスは青鬼。
だとしたら、役小角は、オリオンもプレアデスとも一緒に行動していたのだろう。
これだって敵としてみるのでなく、融合と考えていたのがシリウスなんだろう。
シリウスの精神が「和」であり、それが龍族たちの望みだった。

でも、封じられてしまった。


(C)NASA:プレアデス星団)

奈良県美輪山信仰の話に、捕虜になったエミシたちを美輪山につれてきて住まわせたが、
樹を伐採したり大声をあげたりしてうるさいから、美輪山から離し、
各地域に分散させたと。
それが、後の四大将軍といわれる、大彦命や吉備津彦などといった東国征伐で
派遣された人たち。
エミシがうるさいというのは、美輪山の神(大国主)に対する信仰の姿で、
修験道などでも狼のような声を発するのがある。
その美輪山は大国主である龍族で、シリウス信仰があったが封じられたと伝わる。

やたらと三角形など、△に結びたがるのでは、物部氏がいる。
藤原家の呪縛をほどきたかったのかどうか?
オリオンの精神を受け継いでしまった者は、戦争が好きだ。
なんでかわからないけれど、ネパール大地震から異常に秋田へ行きたくなり、
唐松神社へ参拝したくなった。
行きたい衝動にかられるのは、あんまりないので変な感じ。
そう簡単に行けるわけがないから、行かないけど。
ほとぼりが冷めるまで、ほっとく。

妙見信仰も、シリウスのことでしょう。
年に一度、妙見様が武甲山におりてきて、秩父神社の天之御中主神と会う。
宇宙会議?

大国主や思兼命、国常立命が秩父に置かれている理由は、宇宙の創世に関わっていた
場所であり、それがシリウス信仰やプレアデス、オリオンなどいろいろな星が集まっていた
わけです。

物欲だったアトランティスが、レムリアも引っ張られて落ちてしまった。
この再生は、再び、レムリアを思い出すしかなく。
落ちてしまったというのも、シリウスからオリオンの精神に変わってしまった
ことを伝えているのかもしれない。
破壊の精神という残念な結果だが・・・。

他にもレムリアの記憶がよみがえる場所がある。
福島県なら、阿武隈山系。
阿武隈鍾乳洞の鬼穴に行って、こうやってレムリア妄想が始まるのだから、
鬼穴も宇宙と繋がっていたシャーマンがいたのだと思う。
やっぱりそういう場所へ行くと、ちと悲しい。

そういえば、「平和」という漢字は、平家の和にも通じるような。
シリウスは和を以て尊す精神をもっていたのでしょう。
平家封じは、後のエミシ征伐に繋がる。
大滝にある三峰神社は狼信仰ですが、シリウスだったのが源氏によって
オリオンにされたかもしれない。


(ドイツ:星図書に描かれているオリオン。いつも何かを追いかけている…)
----------------------------------------------------------
5月6日は水瓶座流星群でした。
地球は太陽の周りをまわっているのですが、
螺旋状に直進して動いているという世界。
猛スピードで螺旋状に果てしない宇宙を直進しているという話。
進んでいるけれど、気付くとまたスタートに戻っているものだ。


(オリオン星雲)

ただ、私はオリオン星雲は好きです。
2月の極寒に生まれたのも、そういう理由もあるかもしれない。
オリオン座を見ることが当たり前になっているのですが、
ベテルギウスの爆発の話などがありますが、もうすでになかったりして。
まだ今は光の時空で光ってますけど。

星座をみながら、そんな宇宙の妄想をする。
して、現実に戻る日々…。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加