秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

熊本県水俣の水神(袋地区)

2016-08-10 | 水神巡礼(秩父編・その他)
遠く九州の熊本県水俣市。
友人が水俣で農家兼ゲストハウスをやっていたので
4年前に、遊びに行った熊本県の水神巡礼を。いまさらですが。
私は水俣から水の大切さを学び、水神を祀る湧水へ行くことが趣味みたいになってきて、
どの水もすごく美味しいけど、地元の人が管理して守っていることが
何よりもうれしかった。



水俣市は、有名な水俣病を引き起こした所です。
ほんと~に辛い出来事です。
水俣資料館では、ほんとに考えてしまいます。
ため息しかでてこない。

こんなことが世の中におこってはいけない。
といったことは、九州もあるのです。東北と九州はそういうところが似ています。
なぜか、そこを引き受けてしまう・・・。ほんとに。
でも、そうやって大変なことを背負っていきながら、たくましくなっていくんですよね。

水俣病で可哀そうなのは、母親が妊娠中に摂取したメチル水銀が、
胎盤を経由して胎児に移行、発症したのが胎児性水俣病です。
母親は無事だったけど、赤ちゃんが水俣病になってしまいました。
赤ちゃんがお母さんの変わりに、水銀を吸ってくれたから、
お母さんが大丈夫だったのです。
お母さんたちは、耐えられない辛さがあったでしょう。
その苦しみは、私には想像できません。

胎児性水俣病になった方は、私よりも上の年齢になっていますが
、胎児性水俣病でいらっしゃる方を
ちょっとだけ友人宅でお会いすることができました。
それでも、私はこうして生きていることに何も不自由をしていない。
といったことを話してくれたのを覚えています。
たぶん、友人の知人が、胎児性水俣病の方なんですと紹介したから、
ご本人は、水俣病でも他人が思うほど、私は大変ではないです。
と、伝えたかったからだと思います。
車椅子でしたが、堂々とお話される方でした。
笑顔なんですよね。
何も返せる言葉がみつからず、私も笑顔で返しました。




(体からあらゆる食べ物を生み出した命の母=ウケモチノカミの碑)と、コトシロヌシ。

友人が言っていたのは、
この頃は、まだ直接大臣に、モノ申すことができたからまだ良かった。
直接、怒りをぶつけることができたから。
政府の人(たぶん当時の厚生大臣?)に、怒りをぶつける市民の写真が資料館にありました。
怒りの声を聞きながら、正座してうつむく政府側。
あの顔は、一生償えないほどの重みをもった顔。
互いに被害者。

でも、今は、それができない。
直接、政府に意見がいえない。
そうする前に、捕まる。
言わせないようにしている壁がある。
福島の原発についても、直接、国に言えないものどかしさが福島県民を苦しめると。
今は、市民にはモノを言わせず、見えない所でボンボン破壊をしています。

水俣病がおこる前の不知火海(八代海)の中でも、
最も魚がたくさんとれる場所で、とてもきれな海でした。

水俣湾埋立地の歴史背景-----------------------------------

看板の説明より
「あなたが立っているこの場所は、海を埋め立ててつくられたものです。
この場所でおきた水俣病は、チッソ(株)水俣工場の排水に含まれる
メチル水銀が原因でした。
このメチル水銀により魚介類が汚染され、それらをたくさん食べてきた水俣病周辺の
住民は激しいけいれんの末、亡くなったり手足の感覚が鈍くなったりするなどの
症状があらわれました。(これらの症状は人間だけではなく猫やカラスといった
魚介類を食べるすべての生き物に現れ、多くの命を奪いました。



一方、水俣病の海底には、水銀を含むヘドロがたまっていました。
その面積は約209万㎡、量にして約151万㎡という大変な量でした。
このままではさらに水俣病が広がると考えた熊本県は、
昭和52年から湾内で水銀濃度の特に高い部を含んだヘドロをくみあげ、
合成繊維製のシートをしき、きれいな土砂をかぶせ、水銀を含むヘドロを
封じこめる埋め立て工事を始めました。工事には14年の期間と、
約485億円の費用がかかり、平成2年に終了しました。

今、あたなが立っているこの土地は、こうした悲しい歴史をもつ場所なのです。
人々の苦しみや生き物たちの犠牲の上に作られたこの地で、訪れる人のすべてが
環境を保全することの重要性を理解してもらえるよう心から願っています。」

「今、公園になっている場所が過去にきれいな海であったこと、
そして元の海には戻すことができないことを忘れてはいけません。」




人は美しいところだけ見ていては、ダメなんですよね。
でも八代湾の海は美しかった。
犠牲の上に美があるのだから、聖地などと軽々といえないけれど、
水俣は水の聖地だったのです。



パワースポットといって、そのような場所は守られていると言いますが、
守られている場所など、どこにもありません。



でも、それを元に戻すことはできません。
かつて美しかった場所は、記憶に残すしかありません。



痛みを知らない人が世の中をつくっているので、
水俣病になった方のシンプルな言葉が心に響きます。





これだけのことを経験しても、人を好きになれ、と・・・。

「カミもホトケもないのよ。
でもそれがないと、人は生きていけないから、
自からカミをつくるのよ。人は孤独だからね。」

そんなメッセージが。
ほんとにそうだよね・・・・。

それでも生きるというのは、地球で生きること自体が、もう懺悔なんですよね。
私はそう思ってしまう。
悔い改めることができない人間がいるから、
悪い人間の罪も背負って生きていく運命なんだな、と思った。
地球人の連帯責任みたいな。
だから私だけ幸せになる。というのは、ムリなんじゃない?

他界した知人の話を思い出すんです。
秩父が好きな方で、
「自分だけ精神を高めて天上する(地球を離れる)考え方が好きじゃない。
人間だけではなく動物も植物も、みんな一緒にいかないと、僕は一人ではいけないなあ」

うんうん、わかる。それは私も思うことがある。
でも、地球は、ガイアのごとく生き物のように変容しているので、この先はわからない。
皆、一緒にいくかもしれないし。


水俣を知っている熊本県民だから、守ることを知っている石碑。
ここを阻止した方が、友人のお知り合いの方でした。
よくぞ止めてくれた!!
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さて、友人が水俣市内、袋北地区旧薩摩街道近くの湧水に連れて行ってくれた。
大きな湧水池を潤し、泉のほとりには水の神と、山ノ神(古木)が祀られている。
近くに水汲み場もある。





国道3号線から程近い場所に所在しながら、原生林に囲まれた閑静な湧水である。
また、水源の水は付近住民の雑用水として使用されているほか、
用水路へと流れて袋地区の田畑を潤している。
熊本県昭和の名水百選。
地区住民による清掃活動が実施されている。








ということで、この池は、「冷水泉水(れいすいせんすい)」という湧水。
いっぱい蚊にさされたけど、とってもきれいな泉でした。





3人で観賞していたら、ちょうどタイミングよく、この池を管理されている
おばあちゃんがやってきた!
いつも毎朝きてお掃除しているのだそう。





他にも大きな滝のある場所へ。
すごい迫力!力強い流れ。
九州の滝は、どこか東北とは違うね?









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震災から1年後に水俣へ行ったのですが、
「行かねば!」という強い気持ちから。
ある事があって。
このことは、ブログにもちょっと書いたかなあ?

その時は所沢に住んでいたのですが、仙台の友人がフラメンコをやっていて、
たまに東京でフラメンコしていたんです。
踊りを見に行った時に、友人の大学時代の恩師(アメリカ人)も見に来てました。
駅までの帰り道、先生から出身地を聞かれ、
「秩父です」と答えると、先生は山が好きで、秩父の山へ登ったことがあると。
なので、「武甲山知ってますか?」と聞いたら、
「知ってますよ。かわいそうな山ですね」と悲しそうな顔して言った。

先生は、環境学の専門だったので、先生なら武甲山がわかると思い、
「武甲山をどうにかなりませんか?」と聞いてみたのです。

すると、先生は、
「水俣を知っていますか?」と。
石牟礼道子さんの天湖という本を読んでみるようすすめてきたのです。

石牟礼さんは、水俣の作家です。
実は、先生は、天湖を英語に翻訳した方でした。
なので、早速図書館で本を借りて読んでみたのです。
内容は、ダムに沈んだ村の話。
秩父も同じようにダムに沈んだ村があり、その後、「あらかわ」の上映でみた話に繋がります。

震災から1年くらいしかまだ経っていなかった時。
「クマソに会いにいかねば!」そんな気持ちが沸き立ってしまった。
クマソとは水俣で頑張っている友人のこと。笑

水俣は遠い・・・でも行かなければ。
武蔵の友人も一緒に。

水俣にいる友人は、前世か過去世がクマソだったと思う。
クマソ(熊襲)は、人吉市周辺にいた先住民で、大和朝廷に抵抗した人たち。
ハヤト(隼人)は、隼人の盾があるように渦巻きなどの幾何学模様
を残したクマソと同じ民族といわれ、熊本県に集中しています。
彼らは、盾をよく使っていた民族だったようです。
想像するにもののけ姫でも、アシタカが使っていたような盾ですね。

私が気にしている九州にいたオオ氏などの豪族は、熊襲と暮らしていたと思います。
その人たちは、東北へ逃れてエミシとよばれていたわけです。
特徴のある幾何学文様のある横穴式石室は、茨城県~相馬地方、宮城県北部に残されているが、
ルーツが熊本県になる。
北緯39度線上には残っていないので、
植生や環境の変化によって、宮城県北部が終焉地だったと考えられています。

秩父には九州からたくさん移住しています。
奥秩父に多い千島姓の中に、ダムで沈められた村長さんがおりました。
また、秩父には木地師もいました。
ルーツは九州です。それに山梨県を甲斐と昔はいいましたが、甲斐さんという名前が
熊本県に多いと聞いた。
縄文の道かもしれない。

友人は、武甲山のセメント開発をする前に、山頂にあるイワクラ遺跡を調査していました。
その図面をおこし、発破してなくなる遺跡を史料として残す仕事をしていました。
後に、それがセメントで破壊されることを知らず。
発破のための遺跡調査だったことを知り、秩父から出ていきました。
しばらく放浪し、水俣へ到着したそうです。
ここには、県外からもたくさんの人が集まっていたからです。
罪悪感をもったまま秩父を離れた友人は、水俣で償うことをしています。

彼女は、太陽みたいな。
ま~、とにかく私以上によーく歩く太陽で、周りを賑やかに明るくするから、
ニギハヤヒ。笑(こんな感じ↓)



よく彼女の頭上には虹がでます。晴れても曇っても関係なく、虹彩がよくみえる。
クマソは平和を望んでいただけなんだよね。

「いのるべき 天と思えど 天の病む」(石牟礼さんの言葉)

なんでもかんでも祈ればよい、ってことでもないのか。
天が、もう疲れました。と言っています。
これからは、逆に、人が行って天を癒すしかありません。

湯の児の歴史----------------------------------------

大正末、50℃を超える源泉を堀削(くっさく)し、
県内有数の温泉地として知られるようになりました。
湯の児の由来は古く、景行天皇が九州平定の途中、海中の一部がぬるく
「湯」よりも「湯の子」であると言ったところから地名となったと伝えられています。




 湯の児島を中心とした湾の海岸一帯は、
以前からところどころに低温水の湧出が見られ、湯けむりを見ることもありました。
地名の変遷は「湯の子」に始まり、「湯之児」を経て、
現在の「湯の児」となっておよそ30年がたっています。




 また、傷ついたウミガメが湯浴みをしていたとも伝えられています。
水俣にはその他にも亀に関わる故事が多くのこり、亀の里として、
水俣川沿いなどにウミガメのモニュメントを多く見ることができます。




熊本の海は、亀の島だったのですね。
カメに乗って上陸した浦島太郎のような。



カメは、海そのもの。
海の命が、カメになっている。
亀=甕だし。甕を沈められた箱のようなものが海に眠っていると思う。
毎年、年に一度、妙見様は亀にのって武甲山から降りてくる。
でも、今は、天ではなく海の底に沈められた。
武甲山の大蛇窪の沼は、今はありません。
石灰開発が進んで枯渇したからです。
武甲山の地下に大きな沼が埋まっているという都市伝説のような話がありますが、
もう土砂に埋まって水は枯れてないでしょう。
人は汚すから、何も触れない方がいい。

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栃木県塩谷町の尚仁沢

2014-08-22 | 水神巡礼(秩父編・その他)

ちょっと秋田の物部氏の話は一休み。

お盆は栃木で過ごしたので、北関東について妄想・・・。

栃木県尚仁沢に行ってみました。塩谷郡には大蛇伝説が多い。玉牛村(たまにゅうむら)、船牛村(ふにゅうむら)という不思議な名前の村名があり、栃木県には壬生があるのだから丹生の故郷であります。

河川が、利根川水系鬼怒川、那須地方から流れ出る那珂川水系荒川が合流する地点。この場所が廃棄物処分場の候補地とされ揺れています。

Photo12

なんでここを候補地にするのか・・・処分場は仕方ないけれど、なにもここに置かなくても。と、栃木県民は思う。私も思う。敢えてこの町を選んだとするならば、日本の水を牛耳ろうとする黒幕がいるとしか思えないが・・・。

ジト~っとハンパない湿気がありましたが、森を包む霧の幻想的な風景が素晴らしい!

Photo02

高原水系から流れ出る水に覆われた森は、どこか違う。いろんな森をみてきたが、ここはやはり別格かもしれない。写真家も多く来られるというのがわかる!撮りたくなる風景かも。

環境省が認定した名水百選に認定されているとっても美味しい水が尚仁沢湧水です。あまり名水には詳しくないですが、今まで飲んだ湧水の中で一番おいしかった。この水を飲めるなぞ幸せだ。

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Photo04 ふと、武甲山を思う…

何が一番辛いかって、もし、最悪ここが処分場になると、森を守れなかったことへの罪悪感や自分の無力さに苛まれることでしょう。
国や政治が、というより人の愚かさ、無力さ、その精神的苦痛が一番辛い。

これは後世に渡って延々続きます。

武甲山がそうでした。
山頂に磐座や遺跡があったなど全く知りませんでした。
当然、爆破されたから無いわけです。でも、過去にはあった。

その武甲山に対して大変なことをしたんだ。と、その申し訳ない思いが今も続いている。それを背負うのは地元の人たちで子供たち。大人になって気づくもの。

当時も武甲山の開発が決まると、住民は反対しました。崩してまでも必要なのか考え、清水武甲は写真を通じて武甲山の保護を訴え続けていました。
しかし、秩父銘仙があるように養蚕工場が横瀬にもありましたが繊維産業は廃れ、セメント産業の需要が伸び、町の為にも貢献できると。
横瀬の産業を活発にするために、経済が潤い雇用も生まれることが、地方にとって当時は魅力的でした。

そのため、反対から賛成に変わる人が増え、秩父で養蚕を長くから行ったていた人までが賛成します。
これは政治も絡んでいますが、最終的に開発が始まると、「山頂が崩されるからこれが最後だ」と武甲山登山をしたそうです。

Photo05 Photo00

塩谷町も、ニュースで報道したため、たくさんの人が尚仁沢へ来ていました。駐車場は満車。県外ナンバーも多い。
もしかしたら、最後の水になるかもしれないと…

武甲山は、皆が賛成に回るなか、一人だけ最後まで座り続けて反対した方がおりました。最後の最後まで、たった一人。清水武甲ですら、住民を敵には回せないと諦めたのだか…

無念にも山頂は爆破されました。遺跡は跡形なく、磐座も一部のみ。
その方は二度と秩父には戻らないと、秩父を出て行ったと聞きました。

当時、その山頂の磐座や遺跡の設計図を調査していたのが、イネハポという名前で活動している水俣の高倉さん(あっちゃん)、秩父でも大変お世話になっている方。

爆破されるための設計だったことを知り、あっちゃんも秩父を出ていきました。水俣で秩父の武甲山と重ねながら活動していますが、その時の無念さが今でも蘇ってきます。

Photo06

今は武甲山を植林していますが、約3社?がバラバラに関わっているようで、ある箇所は木ではなく何かの雑草のような草?を植えただけの所があり、いい加減。と地元の人からの情報。
それに、一度崩されたものは元に戻せません。

Photo07

ただ、何も感じない人もいます。
経済が豊かに生活が楽になると、これで良かったと麻痺します。お金を消費することで紛らわすことはできる。
政府はそれを狙いとして、お金を操ります。
結果、村や町がまとまらなくなり、分離。

ムラとしての機能は崩壊していきます。

Photo10 Photo09

(写真上:ここが湧水の源流。冷たくてとても美味しい)

なぜなら、もうすでに自立できないところにきている。私たちの生活は、お金なしでは生きていけなくなってしまった。

今も仲間たちと武甲山に登る。申しわけない気持ちと、自然と命は繋がっていることへの感謝。それが、私には精一杯の武甲山への恩返しなのです。

だからといって、石灰開発を全面止めろとは思わない。それで生活している人がたくさんいるから、お互いに必要。

Photo08

賛成するも反対するも、自分が選択したことに責任を持てなかった高度成長期。

自分たちがこの日本を経済大国にしてきた。あの頃は必死だったと自負する年配の方たちの意見を聞いてきた。確かに暮らしは良くなった。しかし、その日本が今、若い人たちが償う(つぐなう)形になっているのはどうだろう?

武甲山の歴史について、学校や家族、周りの大人は誰も教えてくれませんでした。セメントの山だから、神奈備山ではないと。

資源がある山は崩されるものだから、武甲山は他の山とは違うと思っていた。
しかし、東北の大自然の森から教えてもらった。
森は人間がいなくても子孫は残せるが、人間は森がないと子孫を残せない。

しかし、時すでに遅し…

Photo11

塩谷町をみて思う。
自然豊かだった森が、水を汲んで飲んでいた水が、日に日に衰えていく姿をだまって見過ごすしかない現実がくるのだろうか?
武甲山と同じことが起こるのは避けてほしい。

塩谷町だけではなく、これから日本の森は少しつつ消えていくかもしれません。水も守れないかもしれません。
その痛みを何世代にも背負うことになる。
そのことに覚悟を持って、また後世に伝えていけるかどうか。
多くの犠牲の上で楽をしている自分たちをどれだけ理解し、許すことができるか。
到底、腑に落ちない話ではありますが、現実とは惨酷です。

Photo01

今、若い人たちが秩父に戻ってきています。一人一人、自分の出来ることからコツコツと、武甲山や秩父を良くしていきたいと活動しています。

最悪、ここが処分場になっても、若い人たちが戻って来れば救いになる。
そして若い人たちで、尚仁沢の水を伝え続けてほしいと思います。

※宮城県加美町も候補地になっています。

次回も、栃木県の不思議探訪へ。

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閻魔大王の妹?(札所25番久昌寺)  

2013-10-11 | 水神巡礼(秩父編・その他)

秩父水神巡礼12 (札所編)


鬼女伝説

奥野という所に住んでいた女は、欲が深く悪い性格のため夫や村から見放され、いたたまれなくなって山の麓にこもっていた。
しかし、まだ悪業を重ねたため、村人によって荒川へ投げ込まれたが、不思議にも命は助かり久那の岩窟に住みつく。ここで女の子を出産する。
悪人たりともわが子はかわいい。子供が15歳になるまで育てるがその成人を見ずに女は亡くなる。残された子は心優しい持ち主で、邪悪な母なれど母を思うたびに悲しんだ。
娘は母があの世で苦しむことなく悪行を弔うために観音堂を建立する。
村人はその心情にうたれ、御堂は建立され観世音が安置されました。

25view 25art

▲閻魔大王の御手形の由来--------------▼

Temple00
このお寺は、性空上人をはじめとする13人の聖者が、秩父札所を巡っていた時に、閻魔大王(えんまだいおう)から石の手判と証文を賜ったと伝わる。(600年頃?)
証文は西国24番の中山寺へ納め、手判は久昌寺(きゅうしょうじ)へ納めたという。
※拝観はできませんが、写真があります。

住職の方orお寺の関係者の方に、鬼女の伝説のことについて訊ねたら、「この伝説は作り話なので、どこからか来た話を付け加えただけですよ」とあっさり否定されてしまった…。

それじゃあ、つまらないな~と思っていたら、もう一人のお寺の方が
「この鬼女は閻魔大王の妹ですよ」と言うではないかっ!

そして十王経物語絵図の資料を見せてくれた。

えーっ、妹がいたんだ。
でもほんとに?

あの~死んだら閻魔様がいて、生きていた時に悪行があったら正直に言わないと、舌を抜かれるって聞いて、子供ながらに地獄絵を想像していたあの閻魔様でしょうか?

閻魔大王に妹がいたって本当かな~。と、思って試しにネットで調べてみたら、

いた。
名前はヤミー。

閻魔大王は、十王の中で一番有名な大王。
9人の使いを従える太陽神の息子とされる。
インドから仏教と共に中国に伝わり、冥界の住人として信仰をあつめる。
十王の審判の日に(7日ごとに行われる)遺族が供養することにより、善行が故人にも及び魂が少しでも早く極楽に行くことができるという。

その審判には盗みや殺生、嘘がないかどうか。

その中で閻魔大王は、六道の行き先を決定する。
6つの鳥居が並びそのどれかの鳥居をくぐることにより、来世が決まるという話し。
六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6つ。

(十王経物語絵図より)

閻魔は「ヤマ」ともいいチベット仏画にもあらわれる。
ペルシャ語では「イマ」という。
ヤマ(閻魔大王)の妹がヤミーといい、兄弟姉妹婚で最初に人類が生まれ人間で最初の死者となったそうだ。
そのため、死者の国の王になった。また、ヤミーは双生神とされる。
ヤマは、天界の国のことで、地獄のようなドロドロしたような所ではなくとても美しい世界なのだ。

Temple02ヤミーは女性の死者を役目として受け持つそう。
また、太陽神の兄は昼を意味し、兄が冥界で役目をもつことは妹との別れでもある。
あまりにも孤独でさびしいというので、夜を作ったといわれ、夜は眠っているから悲しみをもたなくて済み、孤独を忘れることができるからという。

これが闇のことで、妹の名前、ヤミーからきた・・・というのは本当かどうかわからない…。
黄泉の国がヨミと読むのも、閻魔大王のヤマor妹のヤミーから関係しているというのもあるかも?

鬼女伝説は、娘が母を供養することで来世、幸せになれるように魂を上天させた話なのだと思います。
そういった女性を担当したのが閻魔大王の妹というのならば、鬼女の娘は閻魔大王の妹なのだろう。
受胎告知みたいに誰の子かわからないけど、岩場で生まれた子は聖者と解釈される。
なので鬼女伝説はマリア信仰にも似ている。
そういう場所には水を祀る。

久昌寺の風景はとてもきれい。
のんびり里を巡りながら、母娘の伝説を想像してみるのも面白い。
このお寺に来ると、鬼女といわれても悪い人ではないのだよと、優しく受け入れてしまう。
そんな気持ちにさせるお寺でした。

※山名は岩谷山といいこの岩の側に観音堂があります。
(左に光が写ってる~)

25_2

▲別所の地名---------------------▼

もうひとつ気になるのが、久那と別所という地名。
久昌寺(きゅうしょうじ)は久那にあり、この地区では水神と聖天社を祀り、鎮守が葛城神社なのだ。
葛城は大和国(奈良県)の頃、山岳信仰を集めた所で役小角が関わっていた。
葛城神社は武甲山を向いている。
もう一つこの地区には、杵築神社がある。こちらは武甲山御嶽神社にも祀られていた出雲系の神。こちらも武甲山を向いている。

ちなみに北へいくと吉田町など椋神社を鎮守としている地区が多く(皆野、薪田など)
雷神は、皆野、定峰、寺尾地区が鎮守。(これは群馬県からきていると思う。)
東へ南下していくと水神社と聖天社が集中しており、久那地区意外では、水神社は田村、大滝、坂本地区が多い。
芦ヶ久保や名栗方面の多くの地区では聖天社を鎮守としている。

巴川は大きく8の字に濁流している川で、江戸時代の日本画家、谷文晁の名山図絵にも描いていたほど
昔から有名な場所でした。
この巴川のある久那の隣が「別所」という地名。
別所は、縄文遺跡の集落がある所につけられるようです。
ベツは「ペッ」で、アイヌ語の川の意味。
ペツは小さい川で、ナイは大きな川で分ける。

他にもこんな説があった。

「別所」という地名は、奈良時代から平安時代初期に行われた征夷の結果、俘囚となった人々を移配した所だとされる。(全国地名辞典)
その関係で別所を設けたという説が、福島県相馬市にもある。
福島県相馬市に太田神社があり、相馬妙見信仰で星宮ともいった。
ご祭神は、天之御中主神。
1323年、相馬重胤が下総国相馬郡から陸奥国行方郡太田村に妙見神を持して移住し、最初に居を構えた別所館を跡地とする。

この神社の宮司さんは佐藤姓なのだが、江戸時代まで「多」姓を名乗っていたそうだ。
太田神社も多氏のオオからきているという。
多氏は、その征夷に参加しており、その関係で別所が設けられたという説。
相馬市の太田神社は妙見宮とされる以前から多氏が宮司を続けていたと考えらています。

(参照:「産鉄族のオオ氏」)

2501_2 Temple01_2(弁天池と観音堂)

秩父にも太田部という地名がある。
秩父神社の妙見信仰と相馬市の妙見信仰も同族といっても過言ではない。

久那の久昌寺は白龍王弁財天があり、この近くの札所12番は「白山別所」といわれ、別所小太郎という人が住んでおり、縄文時代~古墳時代の遺跡が3か所見つかっている。

秩父の地名にはアイヌ語が残っている所が多いのですが、久那というと、岩手県にある「久那斗神社」を思いつく。
クナトは他に、山梨県久那土(くなど)がある。

岩手県久那斗神社のご祭神は木箱だとか。
明治政府が押し付けた?らしい。
木箱とは国家の象徴というが。。。
本来は、仙人様という一つ目の神様。岐之神ともいう。

この神社があるところは、平泉の黄金ルートのひとつで、鉱山開発のために仙人峠を越えるのが大変だった。その安全を祈願するという事で建てられたようですが、エミシの境界を引くために置かれたと思います。

久那斗神社に伝わる伝説は、983年、俵藤太秀郷の嫡子俵之助秀忠が修行の途中にこの地に立ち寄り、赤渕に住む大蛇の頼みを聞いて黒渕に住む非道の黒大蛇を退治し、その礼に赤大蛇から大鏡を送られた。
その大鏡を山の上に引き上げ御宮を建て、荒神を祀り「岐之神仙人大権現」として祀った。

岐神は、黄泉国から帰るイザナギが筑前日向で禊をする。
その時に投げ捨てた杖から生まれた神が、幸神、塞神=道祖神とされる。
それに対し、海神は都岐多都久那登(ときたつくなと)という。
また岐は、「ふなと」のことで海神の意味。

道中の安全にクナトを置いている?
それは、鉄族にも深く関係していて、塞神のサイは鉄の意味の古語「サヒ」からきているとか、
イザナギ、イザナミの語源は、鉄鐸を「さなぎ」と読み、そこからきているとか、いろいろとあります。
アラハバキなどの「アラ」には、鉄の意味があることは定説になっていますが、常陸国風土記に「あらさかの神」という歌がある。
あらさかとは、荒神のことで産鉄族が信仰していた神のことだといわれる。
荒川のアラも、あらさか神の川だから、荒川なんだと思う。

Kunaview

Benten_4(弁財天)

(杵築神社から見える武甲山)

和銅開珎の聖神社(黒谷)にも古くから東北地方との交流があったのだから、秩父にもそのような鉱石を求めて遠くからやってきた鉄族がいてもおかしくない。
それに武蔵国の(現行田市)古墳などの特徴から、畿内地方にはなく群馬、埼玉県にしかない特徴ある古墳が発見されている。

偶然というのは必ずしもなく、その土地の因果関係があって地名や伝説は作られると思っています。

また面白い風習では、「ジャランポン祭り」というのがあり、生きたまま人を棺桶に入れて葬る
儀式。このような儀式があるのも、死からの再生を願う人たちや命を宿す所であったと思います。
水神社の御神体は、鏡だというのだから。

閻魔大王の妹という話をここに伝えた意味は?
別所に白山信仰のククリヒメが伝わっているのは?
弁天池を祀り鬼女を祈願する久那の由来は?

秩父は、はるか遠くから逃れてやってきた人たちの住処でした。
争いよりも山での生活を選んだ人たちの、厳しいけれど里の楽園でした。

<札所25番への道> 電車:秩父鉄道「浦山口駅」より徒歩30分。

西武秩父駅から西武観光バス・久那線乗車、終点「久那」停留所下車 徒歩10分。

春はカタクリ、秋は彼岸花が見られます。

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武甲山の生川延命水

2013-06-26 | 水神巡礼(秩父編・その他)

秩父水神巡礼 11(自然編)

武甲山といえば生川(うぶがわ・おぼっかわ)

おぼっかわの水は小さい頃から美味しいとよく飲んでいた。実家の井戸にもまだ水はある・・・と思う。(今は使っていないけど)

Sbuko03 (延命水)

武甲山の生川登山口に小さな祠の隣に湧水があります。山へ行く前にここのお水を汲んでいく人も多いようですが、登山途中にも滝があり、湧水が結構あります。

その手前には「武甲社」の文字が、かっこいいお社もあります。

素通りしてしまいそうですが、生川はかつては鵜飼をしていたようです。

Bukosherin

鵜を馴らして川猟を生活する者には、毎年5月頃、御陣屋の賄役(まかないやく)から、網札鵜札を受け取って猟をする掟があった。

・・・・鵜札網札(川猟)望みの者、之れ有り候はば、御陣屋へ罷り出て請け候様に、大宮郷大野原村、黒谷村、横瀬村両影森村、久那村、上田野村、白久村いのはなへ申し觸れ候。

鵜札(鵜飼の許可証)網札は、荒川本流横瀬川本流の川猟の許可証、横瀬村生川浦山川などは早くから留川として、札による漁猟を禁止して、川魚の繁殖を図っていた。ただ、願い出て留川の管理人となった者から銭(川猟をする権利金)を納めさせて、一定の川漁を許可した。

留川で猟をしたい者は、川銭を出した者(川番)に許可を受けて入猟した。川番は、入猟銭を取り立てた(川番収入)

江戸時代、「生類あわれみの令」で、漁猟の規則が厳しく決められた時なども、鵜飼を幕府に願い出たこともあったそう。

多摩川も同様、留川での漁猟を行っていて、網札、鵜札という鑑札が発行されていた。網猟か鵜飼い猟かによって異なっていたようだけど、鵜飼いは一般的に江戸時代でも行われていた川漁で珍しいことではなかったのかもしれない。

Ajisai 
 

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こんぴらさん

2013-06-06 | 水神巡礼(秩父編・その他)

秩父水神巡礼 10(金毘羅神社と札所26番・27番)

琴平丘陵の名前の由来は、金毘羅神社があることからですが、この金毘羅様は水神様でもあるのだとか。

Kotohira_2影森駅から徒歩10分くらいに札所26番円融寺があり、その裏道をまっすぐ歩くと昭和電工にぶつかり、金毘羅神社に行くことができます。
そこから階段へあがると、右側に湧水があります。
ため池だったら雨が降ると濁りますが、それが無い様子。
つねに水がある状態のようで、湧水があってこのように小さな池になっているようです。
これは、金毘羅神社~武甲山の地下に何かつながっているものがありそう。

さて、ここの神社は、何度も行っている縁のある神社です。
昔は父が子供の頃、横瀬町~ここまで歩いて参拝していたそうです。横瀬~影森を歩くルートは武甲山を歩いているかのように常に隣に武甲山がいてくれる。
横瀬川も影森(荒川)も鵜飼をしていた歴史もあり、横瀬町とよく似ている。

影森は早くから石灰工業が入り、秩父鉄道を使ってセメントが運ばれていました。(現在は廃業)

Kotohira007 (昭和電工からみる武甲山)

なのでそのままの状態で残っている風景もあります。(水が緑色)ここから見える武甲山は横瀬と違ってとても古い時代の空気を感じます。
常にあの階段上に彫られた所に立ってみたい!と小さい頃から思ってるのですがあっちこっちで立ち入り禁止。
そう簡単には入れてくれない。

Bukog View01_2

その武甲山をずっと見守ってきた金毘羅神社は、琴平丘陵の修験を守ってきた神様でもある。

金毘羅大権現は、神社の奥にひっそりたたずむ。
とても静かなところに鎮座するここは、森の妖精がいるかのような雰囲気。
突如、道に迷った女性にばったり会いびっくりしたが岩井堂まで連れていく。
はて?この奥の院でばったり出会ったというのも不思議な感じ。
きっとその方も連れて金毘羅大権現を拝観してほしいということだったのかもしれない。

Kotohiraoku_2(金毘羅大権現)

琴平山は日和山ともいい、吾野~高麗の山々に琴平神社が点在している。
また、金毘羅神社(琴平神社)が祀られている山には巨人説がある。
これが共通しているかどうかはわからないが、修験者は大きくみえたのかもしれない?

讃岐の金毘羅さんは、空海が誕生した密教の聖地で十一面観音を本地仏とし、明治初期、「金毘羅宮」と改称。祭神は大物主神、崇徳天皇。

象頭山は琴平山の別名で、大麻山と峰つづきになっておりご神体が大麻山だという。
この山に役小角が開山との話も伝わり、神事や神託を与る職といわれています。
金毘羅さんは唄が有名なですが、航海を守る神様が一般的。
このことが海に宮があった海津見(わたつみ)の国ではないか?という説もあって興味深い。

(参照:金毘羅大権現 大森秀樹)

古事記によると、崇神天皇の時代、疫病が流行し多くの人が亡くなった時に大物主大神が現れて、「わが児、意富多々泥古をして私を祀らせれば天下は平らぎなん」
そこで、意富多々泥古を神主として御諸山の意富美和之大神を斎き祀る。
物部氏の祖、伊香色雄命(いかかしこおのみこと)に命じて天の八十びらか(土器の皿)を作ると、疫病が治まった。」

・・・?はて、難しい話ですが、「天の八十びらか」がよくわからないが、言霊で解釈できると思います。

要するにこの話では、大国主が国譲りをしたから、疫病など悪いことが起こってしまった。
と、祟りと考えられ三輪山に大国主の霊力を封じ、「大物主」とよばれるようになった。

Sherin_3疫病の話では、蘇民将来の話が有名。
金毘羅大権現の著者大森氏は、「意富美和之」オオ氏といっている。
かつて鹿島神宮は、剣神・雷神と、海神・塞神と別れていた。
海神・塞神の多氏を祀っていたという。

伊香色雄命は、物部氏の祖。

水口神社(滋賀県)は、オオナムチ、スサノオ、クシナダヒメを祀る。
川枯神という記載があって、物部氏系の大水口宿禰命の祖母、淡海川枯姫(あはみのかはかれひめ)と関係しており、物部氏一族が祀ったという説がある。

古御嶽城跡でも触れましたが、物部氏は「物部」という名前を隠して先祖を祀っていた?
と考えられる。
でもオオ氏との関係はよくわかっていない。

オオ氏も鹿島と同盟を結んでいたと思う。
宮城県伊達神社は、鹿島ではなく香取神宮を祀ってた。なぜ香取なのかは、オオ氏を祀っている裏があってもしかしたら物部氏を祀っているのではないか?と思えてきた。
東北での物部氏は、アラハバキに変わったように点在する鹿島神社は、藤原氏の系統ではなく、排除された物部氏の子孫が、宮城県で残した痕跡なのかもしれない。

東北の鹿島は、タケミカズチではなく物部氏・・・

だとしたら興味深い。

Inariさて、話は戻りますが、疫病を治すのは水だったようです。
蘇民将来の疫病伝説、牛頭天王などは水に住んでいた人みたいな、なにか・・・。
金毘羅さんは、ワニ族だというが、龍かもしれない。
龍は水神様だから。
牛頭というと、想像するのは迷宮のラビリンス。
ギリシャ神話だったかな?地下宮殿に隠されていた角をもつ人間。
その人が地下に住んでいたのは海に住んでいたからで・・・。
妄想は膨らむ・・・。

その金毘羅さんのワニ族が、国譲りをするよう大物主を促したようだ。
国譲りの証として、タケミカズチに火を起す臼、杵、魚料理などを差し出し「言向け」を説いて従わせたとある。
このへん、よく理解できないがこれも言霊でわかるかもしれない。

言向けの「こと」は、この場合「琴」に変化したのではないかな~と思います。
それは、琴は音であって、言葉ではないからです。
金毘羅大権現は、落雷の荒れる海の中を琴を響かせながら航海したことに関係しているからです。
琴は何かを発する音みたいですが、雷と関係しているのでもしかしたら発電機みたいなものがすでに何千年も昔から存在していたかもしれない。

という謎が深い海の神様なのです。

Kannon_2
さて、岩井堂から護国観音まで歩きます。
約20分くらいで到着。
ここからの景色は絶景!秩父がよく見渡せます。(両神山も素晴らしい!)
こちらの観音様も、女性的。観音様の台座に彫られた図は、マリア像のよう。

この時は、東京から散策してきたOLさん3人の方と出会う。
お互いに写真を撮り合う。
女性に優しい観音様だからこそ、出会いも女性が多いのが琴平丘陵の特徴。

観音様から下りる道は、札所27番大淵寺になる。
ここにも御水があります。
「自然の湧水で、年間渇水することなくこの水を飲むと33か月長生すると昔から言い伝えられ、遠方から汲みにくる人もおります。
観音菩薩お恵みの延命水と呼ばれています」

Temple27 Temple271

(左:延命水)

Tera_2
また大淵寺の入口に大きな碑がありました。
「大患平癒」とあります。
大病が治った御礼に建てられた碑。
ここは癒しを与える巡礼地。そこに御水も湧き出る。

昔は、影森の水は乏しかったようです。

1845年当時の影森村名主関田宗太郎氏が、戸数八十二戸の同村に二か所の井戸があるばかりで、飲料水やその他に困っているのを見て、私財をもって、三輪谷(大蛇窪あたり?)より水路を通じて村内に給水したもので、これによって、上下影森の人々の飲料水はもとより、作物を作るにも非常な恩恵を受けました。
氏は、大宮郷(現秩父市)への給水を計画、大野原村荻原佐伝次氏と協力して、1860年、橋立川の水を疏水し、沿線の田畑に灌漑し、新田16町歩の開懇を進め、それらの功が認められ忍藩より名字帯刀御免(江戸時代武士の身分制度で領知の名前に由来し、刀を腰に帯びることを許される武士の特権)
などの名誉を与えられました。

ポケットマネーで水を供給した武士が影森にいた!かっこいい仕事をしますね~。

Yousui (影森用水)

水は自然だけではなく、信仰や生活など私達に多くの恩恵を与えてきました。
武甲山の地形にもあると考えますが、そこに金毘羅さんが鎮座するのには、偶然ではないと
思うのです。

どんな神様がよいかではなく、大事にしてきた土地には、必ず水が枯れることなくある。

そういう場所に祠を置く。
それを村の財産と考え大事に開墾してきたのです。特に江戸時代は立派な日本人の精神が生きていました。

今は利益が優先。勘違いしている人が多い世の中。
この世界を作ってきたのは、私達ではなく水そのものです。
それによって生かされていることを、どうやって多くの人が学んでくれるのか?
武甲山も悩んでいます。

それが何か?を歩いて感じてみて下さい。
水のありがたさが、フツフツと湧水のように感じてきます。

Kotohiramori Yamakami

<金毘羅大権現~護国観音様への道>

影森駅下車~札所26番~裏道を歩く~昭和電工~金毘羅神社(ここまでおよそ30分)奥の院~岩井堂(10分)~護国観音様(20分)~札所27番(10分)

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浦山口の不動名水

2013-03-16 | 水神巡礼(秩父編・その他)

秩父水神巡礼⑨(神社編)

暖かくなりました~。

今日は東京では桜の開花宣言がありました。

いつもより10日早いとか?

さて、これから足を運んでみたくなる季節に、湧水が飲めるというのは登山好きにとっては最高です。

武甲山の登山道にも湧水が何か所かあります。雨が降った後は小さい湧水も含めたら、あっちこっちに見当たります。

ここの不動尊も、そんな武甲山からの水が流れ出ている事で有名。

ちちてつ浦山口駅を下車して国道140号線へ少しだけ進むと、不動尊があります。

武甲山地中の石灰岩が流れ出ているそうで、日照り続きでも絶える事無く大地震の前にはこの水が白濁した事から、ここに不動尊を祀ったといわれています。

Photo Photo_2

ここから反対側に歩き山神様の赤い鳥居を過ぎて登っていくと、浦山の鍾乳洞(橋立鍾乳洞)があります。

縦型鍾乳洞は珍しいものなので一度は行ってみることをおすすめします。

ここにある「カフェ:花散る里」は、おいし~いジェラートとコーヒーが飲めてGOODです!

「食べログ」http://tabelog.com/saitama/A1107/A110701/11024003/

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丹生から乳へ

2013-03-04 | 水神巡礼(秩父編・その他)

秩父水神巡礼⑧ (井戸にまつわる民俗史:梅ヶ枝の井)

梅の大樹が枝をさしかわす奥に、梅ヶ井神社が祀ってあるが、社の前に直径1,2メートル、水深3メートル余りの井戸がある。
これが梅ヶ枝の井である。この井戸はどんな干ばつにも枯渇しないといわれている。

昔から母乳の出ない婦人が、この井戸の水をもらってお粥をたいて食べると、母乳が出るようになったと伝えられている。
ミルクなどもなく、母乳が唯一のものであった頃には、この井戸水を求めて遠くから訪ねてくる者で賑わったといわれ、今でも婦人がお水をもらいに訪れるという。
また、梅ヶ井の井戸水を3日汲めば、3日雨が降るといわれ干ばつ時の雨乞いの際にも使われたという。

Wacca02

「井」とは、水が出るところと、古事記から記されているくらい古い。
一番古い井戸は、奈良県唐古遺跡。弥生時代から掘られているそうだが、祭器のためであり
実用として使われていません。
生活として使われるようになったのは、仏教が伝来してからといわれています。

平安時代では、枕草紙に
「井は、ほりかねの井(入間郡)、たまの井、はしり井(滋賀県)は逢坂なるがおかしき也。
山の井、などさしもあさきためしなりはじめけん。飛鳥井はみもひもさむし、とほめたるこそおかしけれ。千貫の井(京都)、少将井、さくら井、きさきまちの井」

ほりかねの井は、掘りにくい井戸ということらしく入間郡掘兼村の井戸のことで、関西からも来られたほど有名でした。
関東ローム層は地下水が深く10mを超えるという。
東京都羽村市は、「まいまいず井戸」というカタツムリのように深く掘られている井戸が有名。武蔵の台地は洪積台地といって水利の便が乏しい。
崩れやすく、すり鉢状態に掘って井戸をつくる方法で3年もかかったという。
多摩川の洪水より移住したが、多摩川まで水を汲みにいくのが面倒で不便なので井戸を掘ったといわれています。
地下水は安定しているので河川水よりは有利という点から。
(参照:「地下水は語る」守田優 → 関東地方の水について参考になる本です)

地下水が豊富な秩父では札所20番の伝説と同じように、荒川の存在がとても大きく関わっていました。
井戸が人々の心の支えになっていたとわかります。

▲丹生(ニュウ)は祈りの乳?-----------------------▼

River_2
長瀞は、武蔵七党とよばれた土着の武士団が結成され、その中に丹党が住んでいた場所でした。
彼らは、和銅黒谷の自然銅が発見されるようになりこのあたりの採掘に力を発揮します。

秩父では丹党、児玉党があり、児玉党は武蔵七党の中では一番大きかったといいます。
それは藤原氏の権威を背景にふるっていたという。
丹党は、宣化天皇(535~549年)の末裔であるといわれています。
天皇の皇子殖栗王の後裔であり、タジヒとは、いたどりの花が浴場の中に散ったので多治彦と称したといわれています。
いたどりを象徴として使う家紋があるのですが、開墾に当たる部族が使用したといわれているように、未開拓な秩父にやってきて「丹」と名乗るようになったとされます。

(写真:荒川と金ヶ嶽(正面に見える山)

丹は水銀のことで、丹生都比売神社があるように、紀伊山地では丹=朱砂の鉱石から採取された朱を意味しており、その丹の鉱脈があるところに「丹生」という地名や神社を建てていきました。
朱なので赤い色をしていたという事で、神社などを朱色にするのはここからきているともいわれています。
水銀の鉱脈は全国にたくさんありました。
特に日本海側~紀伊半島、吉野あたりにも多くの金が採掘されています。
吉野にある蔵王権現は、役小角が金採掘を隠すためにその地に置かれたという説もあります。

東北では遠野地方にある有名な河童淵は、裸の女性を象った河童がお祀りされており、(観光名所のひとつといわれるガイドのおじさん(笑)がうれしそうに見せてくれるのだ・・・)
乳水神様ともいう。いつの頃かはわかりませんが、丹生が必要なくなった時に、乳に変わり民俗風習へ流れていったと思います。

やたらと関東には多いと感じる菅原道真という方。
この方の乳母を務めたのが、多治比文子であり巫女でした。
母乳がでないという事は、赤ちゃんが育たないという母にとってとても辛いことでした。
そのため、貴族などは乳母など育ての親が大事でした。
栄養失調やまだ早い出産が多かった為、母として未熟な場合は、出産経験のあるベテランに育てられることも不思議ではありませんでした。
北野天満宮の始まりは、文子が道真のお告げを受けて建てたといわれています。

Kasuga01
丹生が乳にかわったのも秩父の「ちち」とも縁あると考えるのです。
壬生という地名も丹生からきていると聞いた。
円仁の故郷が下野国壬生というところで(現在の栃木県)この壬生が、「みぶ」ではなく「にふ」と言い、丹生が転音したという。
円仁は摩多羅神を日本にもってきたといい、古御嶽城跡にあった碑があるように、御嶽教ともここにつながっている。
この井戸にも最近建てられたような真新しい大きな碑があるのも御嶽教だし。
正直いって井戸より目立つ碑が残念。もう少し配慮すべき。
他にも男根信仰を思わせるような石や、馬頭尊、少名彦などの碑もあった。

もしかしたら秩父の「ちち」も乳とも考えられるかも、と思い、ただ訓読みで読んだ場合だが…元は丹生だとしたら?ちちぶと「ぶ」が濁るより「チチフ」といった方が自然で、丹生や壬生の「ふ」or「う」が「生」と漢字を当てるのは、生み出すことに意味がありそうなのです。

産まれる出産と、地中から噴き出る水。(ちなみに水銀も噴き出すのだそう)
水の噴き出す泉から乳が噴き出して子供が育つと考えてもおかしくない。
生まれる命とは、「ち」にその意味があり神名によくある「ち」
は超自然的なことを現す。そこに生み出す力=呼吸の「ふ」で命が芽吹く意味も考えられると思います。何度もいいますが、秩父は荒川から大きな影響を受けているからです。

当然、水もなかったら金の採掘はできません。土と水と火はかかせない道具なのです。

金を生み出す大地は渡来系がもたらした思想。

生を生み出す大地をもたらしたのは、アイヌや縄文人の思想。
その融合した地が秩父の特徴でしょう。
春日神社の「春」の文字は、まさしくその意味を表しているのです。

この文字について友人から、

「春の文字だけ篆書なんですね。あとは隷書体。春を意識してる碑ってこと?篆書は金文から発達した、象形に近い文字です。この「春」も、寒い冬の間閉じ込められた草が日の光を受けて芽を出す、というようなことらしい。甲骨文字には四季にあたる文字が確かめられないそうで、比較的新しい金文から推測しているようです。ちなみに、春、は象形文字ではなく、形声文字です。白川静によると『漢字』というのは文字というより神事に使う霊力を秘めた形…というのがもとであるとか」

Sekihi
春日神社隣の法善寺に女人講の碑を発見。
「如意輪尊」と読むのか?その下に女人講とある。
秩父は他県からも多くの女性参拝者がやってきた歴史があります。
水銀の丹生一族の支配から衰退し、庶民の人たちの信仰に変わったのが乳であり、女性の命の水として変化したことはあり得ると思うのです。
なので、丹生を乳に変化させたのは女性たちだったのです。

▲金の産地----------------------▼

「この地、まことに尊き地なり。金(銅)を産す。近くに金石、北に北尾、南に金崎、中心に金ヶ嶽ありて高くそびゆ。このふもとに井あり。水徹して富士の金明水の如し、四時洄るるを知らず。この井をくみて用うれば乳出ずることこの井の水の如し。」
生む井がウメが井と転じて、梅ヶ井といわれるようになった。
乳がたくさんでるのだから、たくさん産むがよいということ。
長瀞町井戸の地名由来はここから。

「水銀のあるところに金あり」と、昔の人は水銀を見つけるためにシダ植物や犬などの嗅覚も
使って峠を歩いていたといいますが、なぜ水銀が貴重だったのか・・・
水銀と金属の化合物を総称してアマルガムといいますが、水銀は、金、銀などの金属と溶け合って合金を作りやすいといわれます。
金だけを取り除きたい時に、古くから使われていた方法で金が含まれている鉱石に水銀を混ぜると水銀のみ蒸発して金だけが残るのです。
この手法を知っていたのが、丹生一族だったといわれています。

奈良の大仏の金は、そのまま金メッキとして使っていたので水銀を取り除くことなく、そのまま有害な水銀を吸ったり流したりしていたので大公害になっていたそうです。それを阻止したのが渡来人の技術でした。

それが地元の人にとっては有難い事だったのです。それで寿命が延びたわけでもありますから。
奈良の大仏の金が宮城県涌谷町から使われていた事からも、鉱石のネットワークを管轄する集団は、奈良県を中心に全国各地の東北地方まで伝わっていました。
その指揮命令などをしていたのが現在の修験の発祥と思われる役小角のような人たちでした。
飛脚のように足が早い。馬も自由に乗りこなせる、そし不老不死を探しに日本へやってきた金探しの僧侶たちの仲介をしていたので、山は一般に普通の人が入れないようにしていたのです。


Temle_2鬼伝説や山姥、神隠しなどなどいろいろな話をしながら山に近付けないようにしたのは、金を取られないためでした。
金を扱えるということは、不老不死といった薬の他に空海が持ち込んだ即身仏として存在している肉体への探求
です。
それが山形県の湯殿山付近のお湯です。(場所は不明)
水銀を多く含む湯を飲むことで、即身仏が完成すると記したのは空海でした。
それも不老不死と関係しているのですが、金が物質界では不変なものであり、肉体を持つことの苦しみの解放に金が関わっているという事なのでしょう。

秩父の伝説で足の速い六兵衛さんの話がありましたけど、六兵衛さんも渡来系の人ではないか、と思うのです。

寄居町には鉢形城があります。寄居は土師器や須恵器などが発見され渡来人が多く住んだところでした。根古屋や古御嶽城跡のある横瀬町にここから多くの人がやってきた事もあり、横瀬に向かうということは、武甲山に向かっていくことと等しいわけです。

横瀬町にも丹生社があり古い書には記載されているのですが、現在は不明。

金ケ嶽が古御嶽城跡の奥にある三角山と似ていると思うのですが、目立つ里山と水銀鉱脈には何か関係があるのでしょうか・・・
水銀鉱脈を探し歩くということだけでもすごいのですが、それを祈りの形に変えた女性たちもすごい!と改めて感じる長瀞町でした~。

【イネハポからのお知らせ】

古御嶽城跡報告会 3月24日(日)に行います。
あ、別に何かの宗教団体とか、異常にスピリチャルにはまっているとかではないです。
ごく普通に皆さんお仕事をされていて、秩父が好き、自然が好き、歴史が好き、山歩きが好き、という方たちですので。

ここでいう御嶽教という言葉は、信仰の一つとして捉えています。修験という言葉を何度も使っていますが、もうひとつの祈りの形です。

日光では土日に山伏になるサラリーマンが増えており、そういう方たちの修験講座などもあります。健全に生きるとは単純に山と対話することに尽きるわけで、それはただ肉体に費やすという簡単なものです。

ようするに運動をして体を使うと気持ちがよい!という当たり前のこと。

なぜ、人はその体をもって生まれたか?肉体をもって生まれたことで苦しみを味わう事とは何か?障がいも含めてです。その疑問が生まれて初めて、私とは何か?という存在が意識されると、木や川や水は・・・?とミクロな世界へ向かい自分自身への関心に向けられるようになります。

マクロ的に広がった宇宙をみる傾向が強い人というのは、アメリカや中国など消費が高い国だと思います。日本は逆にミクロに向かっていると思います。内側へ向かうのは人間の核となるものと地球の内部で、全ての本質です。

現在はその森と人との関係が多様化しています。

森でのお茶会であったり、医療として行うならば森林療法、宗教観や哲学の視点からでは修験や山伏といった信仰につながる事で、ただシンプルに生きる方法を知るだけです。

いろんな角度から、これから緩やかな波で秩父を盛り上げていきま~す。

https://ja-jp.facebook.com/Inehapo

Train
<梅ヶ枝の井への道>

ちちてつ野上駅下車→妙音弁財天→橋を渡ると「元気プラザ」あり。その先信号を渡って長瀞方面を歩くと春日神社あり→小さな看板を頼りにそのまま進んで5分くらいの所にあります。(車道より少し奥)徒歩約20分。

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女性のための札所9番

2013-02-14 | 水神巡礼(秩父編・その他)

91_2
秩父水神巡礼⑦(札所編・9番)


昔この村に親孝行な少年がいた。

盲目の母の眼を開かせようと、日夜老母の手を引いて観音様にお詣りしていた。

ある日のこと、老僧が現れて、この母子の健気な姿を大いに哀れみ、母に眼を救いたければ観音経の「無垢清浄光・慧日破諸闇」の二句を唱えるよう論すとそのまま姿を消してしまった。

母子は、堂にこもって、一心に観音経の二句を唱えつづけていると明け方、内陣から明るい星が光りまたたき二人を照らした。

そのとたん母の眼が一瞬のうちに開いて、暗黒の世界から解放されたという。

これにより山号を明星山、開基が明智禅師であるところから寺号を明智寺とした。

また、安産子育ての観音様として、1月と8月のそれぞれ16日の縁日には、たくさんの女性の信者達で賑わう。

如意輪観音が、安産・子育てに霊験があるので、妊婦や若い夫婦連れが訪れ、安産の護符や岩田帯等を求めて帰る。
92 (六角堂の建物)

境内にある井戸は、武甲山の伏流水だったが現在は枯れてしまい水がでなくなっている。

残念・・・・。

Buko01_2本尊の如意輪観音は恵心僧都作と伝わる。平安時代に一条天皇の妃が難産で苦しんだ際に、勅命を受けて長さ九寸一分の香木から如意輪観音を彫って祈願したところ親王が誕生、母子ともに無事だったという。

札所巡礼地が最後の秩父になったのはなぜか。

そんな事を考えていると何かみえてきそうな、みえてこないような、はがゆい感じが観音様だけ知っていることなのかもしれない。

また札所9番は、観音様の隣に青石(緑泥片岩)の石碑などがありますが、秩父の青石は有名。庭先などに使います。

※秩父青石は、白亜紀・秩父中・古生層が地下20~30kmの深さまで沈み、200度~300度の圧力で変成したものとされる。海底火山の噴出物が変成した緑泥石片岩のことを秩父青石という。美しく加工しやすい。


93_2
<札所9番への道>

横瀬駅から徒歩約15分。芦ヶ久保方面へ歩き左へ曲がる。(三菱セメントの方を歩く)

直進していくと道標石があるのでわかりやすい。正面は三菱セメントと武甲山が見えます。

 

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龍岩と乳水

2013-01-29 | 水神巡礼(秩父編・その他)

秩父水神巡礼⑥(札所編・19番、20番)

・弘法大師が天皇の病気平癒のため千手観音様を刻んだ。(810~813年頃)

ある年、日照りがつづき人々は飢えと渇きで苦しんでいた。この地を巡錫した弘法大師が雨乞いの業法を修したところ、突然大岩が二つに割れ大きな竜が天に昇った。すると間もなく大雨が降り、人畜草木ことごとく生気を取り戻し、五穀も豊穣となったという。

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札所19番 龍石寺飛淵山

大きな岩の上に建つ札所19番。周りは住宅なのだが、降りてみると段丘崖に建っているのがよくわかります。新第三紀の地層。(2,303万年前から258万年前)

龍穴・・・陰陽道や古代道教、風水術における繁栄とされる場所。

陰陽道では露出した活断層は、神社を建立する際その土地の構造を鑑み、陰陽が重ならない土地が龍穴として選定された。日本国内ではほとんどの大きな龍穴に場所に古社があるという。(wikipedia)

秩父は古い地層で成り立っており、ほとんどの札所は古い地層の上に建っている。龍にちなんだ話があるのはこのお寺。秩父ジオツアーにも組み込まれている所です。

弘法大師の雨乞いは、有名な伝説では神泉苑の清瀧権現がありますが、京都の醍醐寺の守護神としておかれていて、元はインド神話の八大龍王の一つ(第三王女)で良い龍。インドでは悪い龍もあるが、秩父では悪い龍を退治した話が多い。

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観音様は龍にのってやってくる話があるけど、飛来してくる何かなんでしょう・・・か。

このお寺は珍しく茶筅塚があり、茶道において抹茶に使う道具を燃やして灰にして供養するのだそう!こういうのは日本人の崇高な精神が受け継がれていると思います。(写真右)

ちなみに、御堂のすぐ横に三途の川という名前が書いてあって老婆の御堂もあったのですが、ここは怖い感じですがとても感じが優しくて癒されました。

鬼とかいわれる老婆というのは、悪く捉えがちなのですが私は大体多くの寺院では癒されます。少しの間でしたが、このお寺では気持ちがとっても楽になりました。不思議・・・。

19番から下へ下り秩父橋を渡って歩くこと15分くらいで、札所20番があります。今は崖崩れがあって近道を通ることができないため、橋を渡ってそのまま車道を歩くと美容院過ぎたすぐ先に細い登り道があるので、そこから行くと近道で20番までいけます。(看板があります)

さて、札所20番岩之上堂もなかなか癒される所にあります。

伝説① 急病の母のもとにかけつける娘がいたが、荒川が増水して渡し舟が出せません。そこへ一人の若者がやってきたので、舟に乗り母のもとへ駆けつけると病気が治っていた。
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伝説② 昔、この里の豪家に仕える乳母があり。如何なることか日毎に乳房細まり授乳することかなわず、ついに解雇されようとしたので、この岩之上堂に来り、本尊を拝し泣きながら後生安楽を祈り、母子ともに岩下の淵に沈まんとした時に、後より声あり

「汝死することなかれ、岩下の苔の滴を呑むべし」と振り返りみれば姿なし。不思議とこの水の滴を頂くままにち乳房張り乳ほとばしる。嬉しさのあまり直ちに主人の家に走りこのことを告げしに、、是れ実に観世音の利益なりと主人と共に伏し拝み、始めのとおり乳母として仕える身になったという。

これにより、乳水場として婦女子信仰の場となったと伝えられる。

201_7 (乳水場)

氷河期に海水面が下がり荒川の浸食が進んで、高、中、低段丘と3段になっており、19番や20番は低段丘で約7万年前にできたものといわれています。溶けた石灰分が小さな鍾乳石を作っていて、滴のしたたる音が聞こえて神秘的な所です。197_5 

(この岩の下に乳水場がある。浸食された古い地層というだけあって岩場の迫力は圧巻!)

境内には熊野神社もあるので巡礼には良いです。20番の乳水場は階段を降りていくのですが、少し急なので足場に気をつけていけばOKです。ただ荒川の展望は望めません。

龍の荒々しい19番と、荒川の優しい20番の空気がちょうどよく、ゆっくり散策するのは最適です。特に女性の方には!時間があれば、21番、22番へ足を運ぶとよいでしょう。

このあたりはずっとブコウさんが見えてます。

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札所19、20番への道>

ちちてつ大野原駅下車→改札を出て209号線を歩き橋を渡った先を右。看板あり。宗福寺を過ぎて碑があるところ左折。細い道を歩いて行き二股の道を右折。大通りに出て酒店がみえるとすぐです。

20番へは、ちちぶ橋を渡って車道を少しあるくと美容院があるので、その先細い道があるので、登ってあるき、次の道を左折。5分くらい歩くと20番に到着。

 

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小鹿野の観音院

2013-01-06 | 水神巡礼(秩父編・その他)

秩父水神巡礼⑤(札所編)

アラハバキのお山を発見。
場所は小鹿野町の札所31番観音院。

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(左:観音山  右:大石山)

奥の院から二つの山が見えます。
大日如来や祠堂が
山に向かって立っています。

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地元の方に案内して頂いた夕暮れ前の観音院は魅力的でした。
お墓のない札所のお寺はここだけとの事。
トンネルを過ぎて沢沿いに走ると仁王門に到着するのですが、
このあたりから夏は蝉の声がぱったり止むのだという。
山形県の山寺は松尾芭蕉の歌にあるように、夏は蝉の声がとっても賑やか。
でもここは、蝉の声が聞こえなくなる場所。
蝉も寄せ付けないほどの岩鞍は、歴史を感じる風格がありました。

石段を登り着いた先に、大きな岩がドーンとお目見え。
すぐ横の滝は、今は水量が少なくなっていますが、昔はここで荒行をしていた場所でした。

この観音院の特徴は、岩にあると思います。
奇岩な風格だけではなく、その背後に三角形の観音山と台形の大石山がある事。

日が当たると際立って光って見える山だから、縄文時代から聖地とされていたとわかる。

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※長方形は二等辺三角形ができる。前方後円墳は円と長方形(太陽+水)を表すとされる。(新たな再生を願う図式)

大石山の石は、秩父神社に使われるとの事。
ほとんどはこの石を神社では用いるという。
それがアラハバキだと地元の方が教えてくれました。
アラハバキは、一言でいうとアイヌと出雲の混血で岩を信仰していた人たちのこという。
自分と異なる人と交わることで強い種を作るというのは、生物学ではよくいわれる。
他に縄文人やアラハバキが男根信仰など性に重きをおくのは、新たな種族をつくり強い子孫を残すという意味も含まれているかもしれない。

Kannnon04_2奈良県の三輪山のように、火、水、太陽の三位一体。
水のコントロールは融和、太陽の運行は輪廻転生。
(参照:国作り神話と大和三山 大谷幸市著)

火と水で土器が生まれたことで、水壷は完全にコントロールできるものとみた。
壷に入れていた水から偶然、塩が発見されたのも壷にはそのような力がある事を知り、壷を神としたのが塩釜神社(宮城県)の始まりである。
これもアラハバキの流れにあると思う。

それと同じように、三角形と長方形の山が自然(人工ではなく)に存在しているから、ここに観音霊場をたてたとのだと思う。

創世記の古い文書には、「最初に6ありき」と記されている。
四角形の中に直線を引いて三角形を作る。
その中心に目がある。それを上方へ引っ張るとピラミッドになり、下方へ引っ張るとまた新たなピラミッドが投射される。
それを点で結ぶとまわりに正八面体ができる。
前後、左右、上下の3つの軸を中心に回転すると球体になる。
(参照:フラワーオブライフ D・メルキゼデク著)

これが完全な円を作り、日本の神を形容する言葉でいうと「ちはやふる」の正体なのではないか?と思う。

そんな事を考えさせてしまう小鹿野の観音院はすごい所だ!

観音山の下にも同じ三角形の山が存在しているとして、それが地球のフラワーオブライフを
作っているならば、ピラミッドといわれる三角形の山が重宝されるのがわかる気がする。

音山は登山OK。

他にも、納経所の奥の左手には、新生代第3紀(2千万年前)の地層があって圧巻。

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その先の階段をあがると奥の院です。

▲鷲窟磨崖仏(県指定史跡)-----------------------------------------------------▼

およそ3千万年前の海底に小石や砂が積もってできた轢質砂岩の岩肌を利用して
刻まれたものである。
岩肌の上方に「南無阿弥陀仏」と大きく刻み、高さ18センチメートルの座像と立像の仏像が、幾重にも浮き彫りにされている。
地中にも数段の磨崖仏が残っており、俗に「十万八千仏」といわれている。
室町時代の作。
群像として刻まれたものとしては、県内では例がなく貴重なもの。

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▲札所31番について-----------------------------------------------------▼

札所巡り遍路情報サイトから・・・http://www.geocities.jp/fudasyo34_jp/temple-31.htm

秩父札所31番寺の水子地蔵の紫雲山地蔵寺は、山を切り開き、ひな壇式に地蔵が並べられている。この世に生まれ出ることのできなかった水子が安らかに成仏できるよう、その菩提を弔うため石彫の地蔵を納めた霊場で、一体一体に赤い前掛けや風車が供えられています。そこを突切り、トンネルをくぐり沢沿いの道を行くと、右手の山麓に仁王門が見えてくる。

仁王は身の丈1丈3尺、台座まで入れると4mを超す札所第一の高さを誇る荒削りの石像で、
1868年長野の石工藤森吉弥一寿の作と言われます。秩父札所31番の門をくぐると、不規則に踏石を置いた急な石段道で、上りつめると三方を岩壁に囲まれた平坦地で、正面奥に近年再建されたコンクリート造り、三間四面の観音堂が建っています。

堂の左側岩壁から一条の滝が落ちていて、その落差は約60m、滝下の池のそばには不動明王が立っています。秩父札所31番は昔は、水量も豊富で修験者たちが滝に打たれて荒行をしたといわれ、それを証するように池の近くの断崖には体長18cmほどの爪彫り千体仏が浮き彫りされております。

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納経所の奥の左手には、新生代第3紀(2千万年前)の地層があります。
花崗岩質砂岩と礫岩の互層、ノジュール(結核もある)もあります。
とてもすごくて見上げるよな地層です。多くの巡礼者がここを通り奥の院へいきます。

<札所31番への道>・・・バスの場合、西武秩父駅から①乗り場 栗生行き終点まで。

その後40分くらい歩きます。

バス停から観音院までは、31番入口の石碑、大日如来像と道祖神が祀られる大日堂や、茶屋にWCもあるので安心。

※栗生行きバス時刻・・・http://www.knet.ne.jp/~ats/i/mb/sa/seti/oga.htm

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