秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

一関六芒星の中心にあるのは…

2017-06-27 | 東北地方の伝説(岩手県)
平泉へ行くちょっと前に、一関の神社を結ぶと六芒星になるとの情報を教えてもらった。
へ~、一関に六芒星があったとはねえ・・・。
それで悶々としていたところ、平泉の刀八毘沙門天が見たかったので、
行けたらその中心の神社に行ってみたいな、と思っていました。

こちらのサイトを参考にさせて頂きました。
http://daiken.cocolog-nifty.com/blog/2017/05/post-38c5.html

六芒星のほぼ中心にあたるのが、なんと、山目の配志和神社だという。
なっとく~。
平泉へは何度も行ってましたが、この神社にも何度も前を通っていました。
配志和神社のことは知っていたのですが、あまり興味がなく。
立ちよることもありませんでした。


①中尊寺
②達谷毘沙門堂
③舞草神社がある観音山
④三島神社
⑤狐禅寺の滝神社(藤の沢)
⑥鹿嶋神社

実は、1年以上前から山友と、宮城県志津川の保呂羽山へ登ろうとずっと言っていて、
全然いけなくて、都合も合わない事もあり、行かないままでいました。

配志和神社(はうしわけ)とは、秋田県横手市にある波宇志別神社があります。
志津川の保呂羽山(男保呂羽山、女保呂羽山)にも波宇志別神が祀られている。
たしか、物部氏が関係していた話があったと思ったけど、忘れた…。

その波宇志別神と山目の配志和が全く同じかどうか微妙なのですが。
これを祀った人は、舞草神社と同じ御霊というのはわかった。

以前から、物部氏のことを思うと無念さがこみ上げていました。
一関や平泉、水沢などの地では無念さや、悲しみがいつもあるのですが、
妄想するに、物部氏は「仕方なく」母性の力を封じてきたんじゃないか、と。
そんなことをふと思う。
「いたしかたなく」
だから、東北に逃れて「物部」という名前も封印したのです。
とはいうものの、私個人のことかもしれないけどね。
そういう悲しみはもういいのかな。
いつまでも引きずっていてもしょうがない。

考えてみると、東北地方に多い鹿島神社には大体、イワクラなどの巨石がある。
また鬼伝承もある。
まさに、一関の六芒星がそうなんですね。

導かれた山目の配志和神社。
本当は、これをブログに書くことをためらったのですが、
知られたくない情報は、自分のところにはこないよね…。
なぜなら、ブログに書かれるから。笑
というポジティブな言い訳をしつつ、勝手に書く。
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私の身近な友人、知人たちが、いろんなインスピレーションで、
いろんな情報を教えてくれるおかげで、ブログが書けるようになってます。
今はもうそうなってる。不思議ね~。
みんなで作っている歴史なんだよね。
で、そういう話を聞くと、私は動くんだ。
それが面白い。
でも残念ながら感じることが弱いので、頭で分析してしまう。
まあ、いっか。

きっと、こうやってパズルのピースがはめられて、
結果、大きな一つの絵ができるんだね。
一関の大きな絵がみたい。
そう思う一心で、妄想ス。

さて、神社説明の前に結論。
女性性の芽生えを恐れ、母神を封じてきたけれど、
今、開かれていることを示している。
ククリヒメやセオリツヒメやコノハナサクヤヒメや、いろんな名前が登場しますが、
ひっくるめて、女性性のエネルギーという大地のクンダリニーということを、
私は感じます。
世の中が男すぎる社会、強い男性性をもつ女が壊していく世の中。
それに対する反動が、今起こっていると思うのです。
世界中に天変地異のような山火事、大洪水、地震・・・といったものは、その反動です。



あまりにも男性のエネルギーが強すぎた結果、
埋められていた女性性のエネルギーが地上へ持ち上げられ、
噴火しそうな勢いになっている。
怒りではなく、抑え込んできたものが出たがっているわけです。

バランスが大事というのは、そういうことなのですが、
巨大地震が起こるのは仕方ない。
正しい歴史を解明する努力を怠った結果でもあり、
信じてこなかったことが悪い。
誰も信じてもらえない深い歴史が、東北地方にはあるのですがそれを怠ってきた。

でも、これ以上東北地方を背負わせるわけにはいかない!
なので、女性性を高めることが、これからのために必要だと思ったのです。

その女性性のエネルギーがあった場所がここだったと思う。
で、これからそのエネルギーが上昇していく、いや、もうそうなっているのかな。
千厩、室根山など気仙沼から一関の場所には、女性性を高める何かをしてきた。
という漠然としたモノを感じました。
それを破壊されそうになっているところで、今、一番重要な一関なのです。
そこで六芒星だったのです。
朝廷が恐れた女性性の目覚め。
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ということで、配志和神社へ行ってみると、すごかった。
舞草神社によく似ている雰囲気。
ちと、寒い風が上から、さ~とくる。
涼しくて気持ちよいけどね~。これが霊気なの?



やっぱり、こんな形で、三角で結ばれる。
舞草神社と達谷毘沙門堂と配志和神社。
舞草神社のある観音山は、白山ククリヒメが祀られている(麓に)ので、下向きに流れている。



三角で結ばれる神社や山は多数あるのですが、剱坂(男)と産湯ヶ池(女)がある。
このあたりもタタラ場があったそうです。







下向き三角=女=水
上向き三角=男=剣

聖杯伝説っての~?
秋田唐松神社で妄想したのと似ている。
だから、古くは東北に逃れた物部氏が関与しているはず。
だから舞草神社とよく似ている。
それに磐だし。



ヤントラ(マカバからきている)ヒンドゥー。
「儀礼には念珠を用い,マントラ(神歌)が唱えられ,
御詠歌に似たバジャンが熱狂的に歌われることもある。
またヤントラという象徴的・神秘的図形が用いられ,
卍(まんじ)がスワスティカー(幸福の印)として使われ,
儀式を行うためにマンダラ(曼荼羅)と称する一定の円形の場所を設ける場合もある。
宗教的なめでたさ(吉祥)の象徴として種々の花が用いられるが,とくに蓮華はその代表である。」




六芒星の立体が、マカバ。



※画像:ダヴィンチコードの謎を解く
http://mandalaya.com/code.html

日本刀発祥地である舞草刀がある神社と悪路王の達谷毘沙門堂、そして配志和神社。
剣と産水。火と水。そしてなぜか、毘沙門天。
これは教えてもらったのですが、坂上田村麻呂は毘沙門天で祀られているのだと。
義経の持仏も毘沙門天で、(中尊寺の白山神社の縁起に義経の持仏は毘沙門天とある)
ということは、私が刀八毘沙門天にビビっときたのは、
マロや義経が関係しており、その力に毘沙門天の働きもあるのだと。
毘沙門天は、多聞天ともいい、字のごとく、聞き入れてくれる力がある。
悪を退散させると言われているのは、実際は、封印ではなく、
悪を聞き入れる働きがある。

なので、実際エミシを征伐するというのはなく、マロはエミシたちにとって守護神であった。
よって、悪は吸収して、消化し、良く吐きだせばよい。
だから、お正月に餅を食べるのは邪気を食べるといわれる由縁です。




※このような森が残されていて良かった。

そしてそれが女性性の働きに繋がるというのは、ここはマリア様の働きがあったと
思うような場所でもある。
私はそのような解釈をしてしまうのですが、どんな女神であれ、大地母神を守ってきた
存在であることに間違いない。



配志和神社の由縁。(看板の説明)
「延喜式内神名帳に記載される延喜式内社で、磐井郡二座のうちの西岩井・流の
総鎮守守神として、崇められてきました。
はじめ磐座山に鎮座して火石輪(ほしわ)と呼ばれ、後に始輪大明神(しわだいみょうじん)
穂志波社梅森明神、蘭梅明神(梅の宮)、刃蔵社とよばれていました。
配志和神社に改めたのは927年で中世に現在地に移されて今日に至っています。
1763年によると、その創建は日本武尊が蝦夷征伐の際に、高皇産霊尊、瓊瓊杵尊(ニニギ)
木花開耶姫命の三神を祀り戦勝祈願したことといわれ、その三神が祭神とされています。」


磐井は、言霊では「祝い」で、
元は、「ほしわ」とよばれ、「しわ」ともよばれた。
紫波みたいな。
そういえば、紫波姫にも近い場所ですね。
コノハナサクヤヒメを祀っていたのは、紫波姫神社もそうでした。
諏訪神にも関係しているのかなあ。

戦勝祈願というのは、母神の強さを封じたようにも聞こえる。
妄想するに、ニニギとコノハナサクヤヒメは、イエスとマリアみたいなものです。
スピな話ですが、男女神を祀るのに、イザナミとイザナギの関係を、
ニニギとコノハナサクヤヒメにしたのは、
人間が心をもち自我が芽生えるためには必要な働きで、
それは、イナンナの話にもあったように、肉体をもつことで美を得たという伝承は、
寿命をもたらしたことにある。
ニニギがコノハナサクヤヒメの愛を繋ぐために必要だったのが、
ムスヒ(高皇産霊尊)の神だったと思います。
そういう展開があったと考えれば、六芒星の中心にある理由がみえてくる。



死を意識したということは、心をもち私という個を得たけれど、
苦しみも同時に得ることになったと。そして死と向き合うことになった。
その苦悩は、水沢で聞いた「アルファでありオメガである」という人間の命のサイクルがあり、
「我ゆえに我あり」の私とあなたの客体を生んでいる。
五十と五十。百にすることの大事さは、モモにある。
桃は、私とあなたが一体になった瞬間生まれるもので、子供だけではなく
いろんな閃きも含んでいます。



ニニギは妹のコノハナサクヤヒメの人間の寿命と美=いろんな苦しみも含め、
地球で生きることを選んだのに対し、
姉のイワナガヒメは人間ではなく、エーテル体のような肉体をもたないから、
死もなければ寿命も関係ない存在だった。
それは、地球が形成される以前の話で、ニニギが降臨した話をもたらしたのは、
キリスト教でもあると。

隠れキリシタン、伊達政宗、仙台も六芒星の街。
その力を守っている六芒星というのは、マリア様に関係していると思う。
タタラとイエスキリスト、西洋でいう剣で、日本でいう刀。
地球が大地母神というは、出産にある、と思う。
胎水で生まれるのは、地球が水の惑星だから。

産まれることに敏感になってしまうのは、この森は蘭梅山といい、梅がついている。
伝承では、菅原道真の子がここに梅を植えたところ、梅が満開に咲き乱れた話になっている。
梅のパワーは、桜より強いと思う。(御霊信仰とかあるんでしょうけど)

梅ヶ井という清水は各地にあります。
ここもそんな清水があったと思います。
洗礼をうけていた水だったかもしれないし。







ニニギが降臨し、「わたし」という意識をもたせ、
男女のクンダリニーを地上にたくさん植えた。
それが木(樹木)で、森なんですね。
たぶん、宇宙と繋がるためには、木を通さないとならないから木をご神体とするのでしょう。



一関では、最大で最古の杉だそうです。





だから、ここにも立派な老木があります。
ほんとうに素晴らしい木でした。





しかし、男は女を支配した。
それから破壊が始まった。
そこに無念を感じるのです。
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火石輪というのが、ストーンサークルみたいですね。


石が4つあった。

ここでは、古く、先住民が暮らしていたと思います。
縄文かどうかは不明ですが、インディアンみたいな人だったかもしれない。
昔は、アイヌ人とは違う民族のインディアンがいてもおかしくないと思ったことがあります。



また「実は」という話になってしまうのですが、
一関に鬼死骸村という地名が昔ありました。
現在は、その名前はありませんが、真柴という地名のあたり。
最初、ここに行きたいと思っていたのですが、その晩、インディアンが夢にでてきました。
残酷に殺され、首をとられた夢だったのです。
その時のインディアンの悲しみに打ちひしがれた苦しむ顔を見てしまった。
嫌な夢をみたな・・・と思ったのですが、夏至の日にみたのです。
しかもその原因が、アヘンなんです。
アヘンとインディアンについて調べたら、暗い歴史がありました。

鬼死骸村に埋められた首の伝承があります。
それが「大武丸」なんです。
そこがシンクロしていると思ったのです。
だからといって大武丸がインディアンと言っているのではないです。
白人に迫害されたインディアンと、朝廷に迫害された大武丸が同じ苦しみだと気づかされたのです。


※TABI LABO
http://tabi-labo.com/263919/native-amerian

大武丸の首は、伝承には達谷毘沙門堂へ飛んでいったと。
そういう場所は、宮城県でも「鬼首」という。
だから六芒星の中に入っているのです。
そして、室根山も鬼首山といった。

首を埋めたというのは、ハイヌヴェレで考えれば、
再びその御霊を別の肉体に宿すための伝承にしている。
大武丸の分霊を、例えば、義経や伊達政宗といった人たちに宿す。
そのような蘇生をしていたのが、物部氏の十種神宝だったかもしれないのです。
幽体離脱に近いかもしれない?

でも、私が思うのは、もう、誰もが義経や伊達政宗や、イナンナとか
セオリツヒメとか、なんでもなりたいものに、なれると思うのです。
特別なことではなくなります。

義経は平泉で亡くなっていないのですが、別の肉体に宿し全く別の人に
生まれ変わった可能性もなくはない・・・。
それを伝えるために、北上し北海道まで渡った伝承になっているのでしょう。



てなことで、まだまだ続く。
いったい、六芒星を繋いでる神々とはどういう意味があるのか?
六芒星に関わる神社と大武丸について妄想はつづく。


三宝大荒神社


白鳥神社


月見ヶ池
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源義経の家人たち

2017-06-25 | 東北地方の伝説(岩手県)
夏草や 兵どもが 夢の跡(松尾芭蕉)



ここで戦場があったとは思えない平和な風景。
松尾芭蕉の碑もある高舘義経堂の景色は、
束稲山がみえ衣川も雄大に流れている。
平泉では好きな風景のひとつです。



以前からずっとシンクロしていた「鈴」でしたが、
人物であれば、鈴木氏がいるのですが、穂積氏や鈴木氏の系譜に、
義経の家臣だった「亀井六郎重清」という人がいます。

『源平盛衰記』では一ノ谷の戦いで義経の郎党亀井六郎重清として登場する。
『義経記』では義経最期の衣川の戦いで「鈴木三郎重家の弟亀井六郎、生年23」と名乗り、
奮戦したのち兄と共に自害した。弓の名人であった。






同じく自害した重清の兄:重家とはどんな人か。

源義経に従い源平合戦(治承・寿永の乱)の諸戦で活躍し、衣川館で義経と最期を共にした。
紀州熊野の名門・藤白鈴木氏の当主。
平治の乱で源義朝方について戦死した鈴木重倫の子とされる。


Wikipediaより
重家は、熊野往還の際に鈴木屋敷に滞在した幼少時代の源義経と交流があり、
『続風土記』の「藤白浦旧家、地士鈴木三郎」によると弟の重清は佐々木秀義の六男で、
義経の命で義兄弟の契りを交わしたとされる。

その後、重家は義経が頼朝の軍に合流する際に請われて付き従ったとされ、
治承・寿永の乱では義経に従って一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどで軍功を立てて武名を馳せ、
壇ノ浦の戦いでは熊野水軍を率いて源氏の勝利に貢献した。

また、重家は義経から久国の太刀を賜ったとされる(穂積姓鈴木系譜)。
平家滅亡後は源頼朝から甲斐国に領地を一所与えられて安泰を得ていた。

しかし、後に義経が頼朝と対立して奥州に逃れた際、義経のことが気にかかり、
所領を捨て長年連れ添った妻子も熊野に残して、腹巻(鎧の一種)だけを持って
弟の亀井重清、叔父の鈴木重善とともに奥州行きを決意し、
文治5年(1189年)に奥州に向かった。

その奥州下りの途中に一度捕らえられて、頼朝の前に引かれた時には、
頼朝に堂々と義経のぬれぎぬを弁明し功を論じた。→衣川館で自害?

重家の妻・小森御前は、重家が奥州に向かう際は子を身ごもっていたために
紀伊国に残されたが、夫を慕いわずかな家来を連れて後を追った。

しかし、平泉に向かう途中に志津川(現在の宮城県南三陸町)の地で
夫が戦死したことを聞かされ、乳母とともに八幡川に身を投げて自害したとされる。
その最期を哀れんだ村人たちが同地に祠を建てたと伝わり、
現在でも小森御前社として祀られている。



供養塔

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といった歴史があるのですが、義経が逃れた痕跡は、この場所で途絶えている。
が、義経が北上した説があり、北部岩手、青森~北海道まで義経伝承が残されている。



宮古市の横山八幡宮という神社に伝承されている話がある。
「源義経の主従であった鈴木重家は、文治5年に平泉を脱した後、
老齢のためこの地の「近内」というところに住み、
義経の命により横山八幡宮の宮司として残ったと記す古文書もある。」


ということは、鈴木重家は生きていたと。
自害はしてない。よって義経も自害していない。
「判官(ほうがん)びいき」といわれ、義経が責任逃れみたいに
されている部分もありますが。
このへんの歴史はわからないので、義経の詳細は割愛します。


※「大」文字



宮城・岩手海岸沿いに義経伝承が残されている理由はよくわかりませんが、
そこまで逃れる理由というのは、やっぱり気になる。

おそらく、迫害された?天皇家を代々かくまっていた熊野信仰というのもからんでいると思い、
また、鈴木氏は、室根山に瀬織津姫を熊野から勧請した人であった。
伝承には、鈴木重義とあるが、該当する人物は穂積姓藤白鈴木氏の系図になく、
鈴木重家の子で陸奥国に住した重義のことであるとも云われると。
古館家が後裔を称する。

室根神社の創祀伝承より、
「養老二年(718年)、大野東人は鎮守府将軍として宮城県の多賀城にいて、
中央政権に服しない蝦夷征討の任についていた。
蝦夷は甚だ強力で容易にこれを征討ができなかったので、神の加護に頼み、
当時霊威天下第一とされていた紀州牟婁郡本宮村の熊野神をこの地に迎えることを
元正天皇に願い出て認められ、その結果、
「紀伊国名草藤原の県主従三位中将鈴木左衛門尉穂積重義、湯浅県主正四位下湯浅権太夫玄晴」
とその家臣が熊野神の神霊を奉じて紀州から船出して、五ヶ月後に陸奥の本吉郡に着いた。



中尊寺近くにある熊野三社



「鈴木重家は、遡ること、藤原実方の母に至る。
実方の母は、熊野別当だった。(熊野別当祖泰救母)
あこや姫と藤原実方。
あこやの琴ひきは、熊野のコトビキの事もあり、琴=事でもある。
言霊のような祈祷にも通じる意味があるのですが、鈴が関係している気がしてならない。

私が鈴に導かれているのは、住んでいる熊野のルーツをたどっている意味もあるわけで、
それが目的でもあるんですけど、鈴といえば、秋田唐松神社の鈴が浮かぶ。
私はこっちの印象の方が強い。これも物部氏に絡んでいると思う。

陸奥国で影響を及ぼしていた熊野信仰は、義経の家人としていた鈴木氏が関与し、
そのルーツは、二ギハヤヒを敬う穂積氏にあたる。
その人たちが、室根山に瀬織津姫をもってきたらしい。
また、その鈴は、「祈祷」するための神の道具でもあった。
そこには東北に逃れた物部一族が背景にいたことは言うまでもなく。。。



蝦夷を征伐できない理由。
その力を抑えるには、熊野しかないと考えた大野東人がいた。
大野東人は、日本刀発祥といわれる平泉の舞草神社そばにある白山神社にも関わる。
看板の説明より「724年大野東人がこの地に勧請し建立したと伝え、
白山妙理大権現と称していた。」
どこかでその力を恐れつつ、どこかでその力を敬う。


※舞草神社がある観音山

また、大野東人や坂上田村麻呂などのエミシの地を征伐する理由。
瀬織津姫や白山菊理媛などの力を征伐するとはどういう意味か?
そんなことばかり気にしているわけではないのですが、
エミシが重要なんです。良くも悪くも。

妄想ですが、義経は女性的なイメージがあります。
女であったとは言えませんが、義経の分霊が、どこか強い霊力を宿していた力を
もっていたことを恐れていた兄の頼朝がいた気がするのです。

この妄想から導かれた場所が、一関のある神社でした。
(義経とは関係ないです)

鈴からシンクロするその意味は、「振動」のことでもあります。
それは、私が学んでいることでもあるのですが、
私自身が変わるために必要なことでもあった。
もうこれはそのような時代に変化していることを自覚するために、
あの場所へ行ったのだな。
そこでわかったことがあった。

やっぱり、そういうことなんだ・・・つづく。

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義経堂へは、毛越寺から歩いて15分くらい。
レンタルサイクルを利用している方が多いです。
駐車場もあり。
(写真:おまけ)






※「卯の花清水:残念ながら水は枯れてしまったそうです。
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毛越寺の刀八毘沙門天

2017-06-24 | 東北地方の伝説(岩手県)
6月のあやめの季節。
また、平泉へ行ってきました。
2008年6月14日、М7.2の岩手・宮城内陸地震があった時、
友達がその時一関に住んでいて、しかも、この地震は2回連続して起こった地震でした。
2度目の地震がおきた時に、友人がもう嫌になったと言っていたので、
心配になり様子をみに一関に行ったことがあります。





思ったほど市内では被害がなく友人宅も大丈夫だったので、その後、平泉に行ったのですが、
世界遺産になる前だし、地震があった直後だし、ほとんど人がいない寂しい
毛越寺だったのを覚えています。

その地震で、衣川が泥で濁っていて、本線でその川を渡る時、
何とも言えないものを感じたことがあります。



さて、今回、平泉へ行きたかった目的は、毛越寺宝物館で特別展示している
「刀八毘沙門天(とうはちびしゃもんてん)」を観たかったからですっ!



この情報は、山形で見つけました。
なんかすげーっ、となって。
目をあわせられないほどの形相。

それで期間は、第一期が7月10日まで。
第二期は9月15日~10月2日。
・・・行くなら、いまでそ。
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刀八毘沙門天とは、(Wikipediaより)

「正式な経典、由来は定かではない。
「刀八」とは、兜跋(とばつ)から発祥したと考えられ、
戦国時代に多くの武将達の信仰を集めた。

姿は、兜跋毘沙門天とは異なり、三面十臂像・四面十二臂像など様々である。
共通して特徴的なのは、刀を八本持ち獅子に乗る像が多く見られる。
さらに大部分の刀八毘沙門天は、頭上に如来を頂いている姿が目立つ。
信仰の上で、通常の毘沙門天信仰と変わりはなく、
戦国武将の守り本尊として祀られるケースが多い。
戦国武将の上杉謙信は、刀八毘沙門の旗を掲げていた。」


掛け軸の絵になっているのですが、よくよく見ると、
毘沙門天は木の切り株のような上に建っている図なのです。
世界樹を想像しますね。
天空の城みたいな。
へ~、面白い。







思いだした!
もうかなり前、10年以上も前かなあ。
米沢の泥足毘沙門天を見せて頂いたことがあります。
上杉謙信が越後の春日山本丸北側にあった毘沙門堂のご本尊で、
出陣の前、夜を徹して祈願をしていると朝、護摩壇の上から外に向かって
点々と毘沙門天の足跡がついていたと。
上杉謙信の戦場まで、一緒に出向いてくれたのだ、ということで、特に上杉謙信が
気に入っていた毘沙門天です。

http://www.houon.org/houonji/houmotsu.html写真は、こちら。

それで、この泥足毘沙門天が大きいと思っていたら、小さいのです。
40、50センチくらいのものですが、とっても素晴らしい彫刻でした。
人間業とは思えないほど、素晴らしい毘沙門天だったのを覚えています。
とても貴重なものを見せて頂きました。

毘沙門天といえば、東和町(花巻市)にある成島毘沙門天の、達谷の兜跋(とばつ)毘沙門天が有名ですね。
京都に埋葬されている坂上田村麻呂は、平城京に向いていたという説がありますが、
ある説では、東和町の兜跋(とばつ)毘沙門天に向かっているとも。
なぜなら、毘沙門天は、鬼門(東北)におかれるといった話があり、北を守るとされている。
成島毘沙門堂と達谷窟毘沙門堂(西磐井郡平泉町)
ともに、坂上田村麻呂創建の由緒を持つことからです。



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改めて毛越寺をまわってみて、こだわっているな~と思う所もあって面白かったです。
毛越寺は、850年慈覚大師の創建と伝わります。
12世紀頃には、堂塔40あまり、禅坊500余。
中尊寺を上回る規模だった。
池の庭園は、浄土を具現化したもので、北に山水を入れる遣水(やりみず)があった。


(遣水)

この遣水は、庭園の発掘調査中にそのままの姿で発見されたもので、
遣水の遺構は奈良の宮跡庭園を除いては例がなく、
平安時代の遺構としては唯一のものである。遣水は池に水を取り入る水路であり、
玉石を底に敷きつめ、流れに水越し、水切りの石、その他水の曲がりや角や池への
注ぎ口に石組みを配するなど平安時代の指導書「作庭記」の様式を伝えている。
その美しい流れとせせらぎは、浄土庭園に風雅な趣を添えており、
「曲水の宴」の舞台ともなる。



願い事をかなえてくれるお地蔵様。

さて、この寺が慈覚大師の創建ということですが、
開山堂に近づいた時に、地元らしき女性の方が、
「普段開いてないのに、珍しく開いている~」という事を言ってました。



改築工事中だったから?開いていたのですが、
普段は開いてないというので、のぞいてみると、行基の像がありました。
へ~、普段は見られないものなの?と思い、しっかり見てきましたが、
どうして顔は白いんだろうね?
みんな大体、顔をまっ白しろすけに塗るよね。(そんなことどうでもいんだけど)
蜂子皇子もまっ白だったなあ。
という感想でしかならない・・・。



池には、のっほほ~んと龍頭船。
微動だにしない。全然ゆれてもない。(勝手に動いたら怖いけど)
乗りたいな~、乗れないよな~。

一番気にいった魔多羅神。
かっこよかった~。いいお顔をされてます。





毛越寺には不思議なまつりがあり、基衡の妻にまつわる
哭き祭りがあるそうです。僧侶が列になって悲しげに読経して歩くのだそう。
愛妻に先立たれた基衡の悲願ぶりを伝えるようです。



藤原基衡(奥州藤原二代)が、毛越寺を造営させたそうですが、
この方は、文化の摂取に財力を注ぎこんでいたそうです。

基衡は、円隆寺の本尊、薬師如来尊、十二神像を雲慶という京都の仏師に
依頼したのですが、仏像が完成するまでの3年間、
砂金百両や駿馬、鷹羽、アザラシの皮、絹や白布などの産物を陸路、
海路で山ほど送りつけたそうです。
仏像が完成すると、その出来が美しいので、鳥羽法皇は京都から持ち出すことを禁止した。
が、基衡は円隆寺の寺額を書いてもらった藤原忠道などに働きかけ、
平泉への搬送を実現させたという。

また、左大臣、藤原頼長から陸奥、出羽にある5か所の荘園の増税を
要求されたときには、金を10両から50両に引き上げるなど、
理不尽だとして要求を拒否、最終的に双方が納得できるところで妥協にこぎつけた。
※岩手大陸より

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数か月前に、場所は平泉であろう夢をみました。
私の先祖は、本当は誰なんだろう?と思っている夢でした。
こんなブログを書いているからですけど・・・。



いろんな歴史上に登場する名前が出てくるのですが、
一番、濃くはっきり出てきた名前が、「藤原秀郷」だった。

少し小高い丘のようなところにいて、
空は明るく日差しが点々とさし、花々が咲き乱れる美しい高原地帯に、
十二単衣を着たような男女の長い列が、大きな牛車を引いていた。
どんな人が乗っているのだろう?と牛車をのぞくと、
大きな人の顔がありました。
肌が焼けただれて火傷をした顔。
ぞっとしたのですが、殺されたか火災の被害にあったのか。
その人を埋葬するための列だったんです。
きらびやかな牛車にのせられていたので、平泉に関係する人なんだろうな。と
思った夢でした。
あの世界は、平泉の黄泉国なのかな、そんな風景をみせてもらった気がする。

遺体は惨酷なんです。
でも風景や物や人やすべてが光に包まれて美しい。
そのギャップがわからない。。。



しかし、なぜ、藤原秀郷が先祖となり、
平泉なんだろう?と思ったんです。

初代清衡は、陸奥国国府多賀城の官吏でした。
藤原経清の嫡男として生まれたのですが、父である経清は、
百足退治をした藤原秀郷(俵藤太)の血筋を引く家柄と言われます。

本当の先祖というよりは、霊統の方かもしれませんが。
平泉に何度も足を運んでしまうのは、先祖と関わりがあるのだな、と思う。

さて、もうひとつの平泉の目的は、義経堂へ行くことでした。
ここは、1度だけ行ったことがありますが、けっこう前だったのでほとんど覚えてません。
鈴のシンクロは、ある人の事かもしれない。

つづく。
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地震は進化している?

2017-06-21 | 日記・エッセイ・コラム
東京の続きなのですが、用事が住んで豊洲に戻り、
姉の部屋にはスカパーがあるので、見たい番組を探していると、
タイミングよくナショジオ(ナショナルジオグラフィック)で「巨大地震」をやっていました。

東日本大震災の大津波と地震の話をやっていて、
あの時をまた思い出す番組でした。
震災から、世界中の学者や研究者が、地震のメカニズムを詳細に
調べるきっかけになった巨大地震でしたが、予測ができないこともわかった。
それは推測でしかならず、当然、犠牲者を減らすための推測。
そのためには巨大地震や大津波を理解しなければならないという。

ナショジオは、世界中で一番よく見られているドキュメンタリー番組で、
前、住んでいた時によく見ていたのですが、とても面白い番組です。
番組では震災が再び起きたらどうなるか?
をシミュレーションし、リアルな映像が流れてました。
南海トラフ、東京直下型地震、富士山の噴火など。
とても大事なことを上手く伝えていると思い、この番組をみて感じたのは、
近く、巨大地震は起こると確信してしまった。

外国のある研究者がこんなことを言っていました。
「地震は進化している」「地震は千差万別」と。
それは、3・11の震災は、常識では起こり得ない事象があったとことを示しているのです。

そうなると、ナマズが地震を感知するように、人間も感知しているのだから、
研究者の意見よりは、信頼ある予測になるだろうし、「普段とは違う」ことに
アンテナをはっている方が、より防げるものです。
もうこれは自分たちで地震がきても大丈夫なように備えるしかありません。

震災の前兆に、たくさんの人が空がおかしいことに気づいていた。
異常な青空、虹の曇、赤い月、動物の異常な行動、耳鳴り(これが一番多かった)
などなど。
詳細はこちら。
東日本大震災前兆現象(Naver)
https://matome.naver.jp/odai/2130337723186404701

昔の史料にも、紫色の曇や黒々とした青い空といった描写には、
大体、行基が蝦夷の地でよみあげているものに出てくる。
仏法で帰依させた話も、大地震の前兆を伝承していることがあると思う。

空がおかしいのは、電離層というものだと。
難しいのでよくわからないが、震災の3日前、電子量が異常に多かったといわれます。
通常、太陽の光で起きる現象ですが、日中は電子量が多い。
夜は光がないので通常はデータには反映されないのだが、震災前は夜でも黄色データ
が消えず、電子量が異常に発生していたことがわかる。


※ナショナルジオグラフィック(巨大地震)より

震源地域からは赤外線が放射され、その放射は地震数時間前に最大値を記録しているという。
3月8日には、熱の動きもあり、地殻変動により熱エネルギーが放出。
大気中のガスが放出され、熱をもっていた。
東北が熱くなっていたんだね。
これがラドンガスの発生といわれ、ラドンというのは体にとてもよい
病気もなおすラドンのことか?
あれが東北地方の上空で固まっていたんだ。


※ナショナルジオグラフィック(巨大地震)より
---------------------------------------------------------
しかし、東北地方と九州は、なぜ連動するのだろう?
電離層が九州でも反応している。


※カラパイア(東日本大震災直前に大気と電離層に異常を確認(NASA発表)

東日本大震災の2日前、3月9日の地震情報。
1時間に数回、三陸沖で頻繁に地震が起こっているのだが、
その間に、熊本県も揺れていた。
これが電離層の影響と考えられる。



※tenki.jpより

番組の中で、南海トラフの巨大地震が起こった場合、関東でも北海道でも、
もちろん東北地方でも、連動型地震といい、複数のプレート間地震(海溝型地震)、
あるいは大陸プレート内地震(活断層型地震)が連動して発生するとする仮説があり、
震災の時も宮城沖のプレートのずれで、大きな津波(50mもずれた)がおきたが、
そのプレートの隣でも新たなずれが起こり、2つのプレートが合わさり、
2度の津波を引き起こした。一度目の津波は小さかったのだが、
2度目のずれによって2つめの波が起こった時に、巨大化したことが
大津波を発生させた要因になっという。
3度目の津波は、福島県沖で原発を襲った。

連動型というのは、この宮城沖プレートのずれで、遠く離れた九州の熊本でも
同じように連動したことになる。
連動関係にある地震はほぼ同時に発生する場合だけでなく、
時間差を置いて発生する場合があるという。

これがシンクロ(共振)というものになるのだろう。
海底で何が起こっているのかわからないが、熊本県で大地震があった時、
私は名取の十三塚古墳で妄想していたが、東北と九州が繋がっていると思った。
その時、阿蘇氏を想像し、阿蘇神社のことを心配した。
私は、地震というのは単なる自然現象だと思っていない。
なぜ、九州の熊襲で、東北の蝦夷なのか。

869年の貞観地震があった時、「波分神社」がありますが、この神社で津波が止まった。
それから波が分かれると書いて「波分」という名前がついた。

時代もシンクロする。
1950年9月浅間山噴火。
1960年5月チリ地震発生。
超巨大地震といわれたチリ地震では、津波が岩手県のリアス式海岸でも到着し、
大船渡、宮城県志津川、北海道十勝平野などで死者が多数でてしまった。

噴火と地震も連動している。
世界でМ9クラスの地震は5回おこっている。
共通点は、火山の噴火が起こった数年以内におきていること。
地震が頻発する陸と海(フィリピン海峡)境でひずみがたまり、
関東地方では、そのひずみが3か所あるという。
西の方向に押されていた断層が、震災により逆方向に動いた。
断層が互いに反対方向に、引っ張りあっている状態との事。
このように互いに断層がひっぱりあっている状態は東北地方の沿岸沖でもあるそうだ。

富士山も厳しい状態にあるという。
50年ぶりにアンデスの方で大噴火がおきました。
噴煙は141kmにおよんだ。
断層が大幅にずれ、引き伸ばす力によりマグマが地下から上昇して噴火を起した。
富士山も震災によって、アンデスと同じ状態になっているという。
富士山の中央の北東部の地下は引っ張りあっている状態だという。
いつ噴火がおきてもおかしくない状態。

つまり、東日本大震災によって日本列島の地下や海底に異変が起きているという事。
それは、何かが目覚めたように動き始めたことを伝えている。
始まりは東北だったといっても過言ではない。
しかも、いまだに、東北地方は断層のずれが続いているのだ。

「東日本大震災をもたらした東北地方太平洋沖地震によって東北地方・太平洋沿岸部の
地盤は沈降したが地震後は隆起が続いていることが国土地理院の観測で明らかになった。
巨大地震から6年を経ても地殻変動が続いていることを裏付けている。
これまでのさまざまな研究機関の観測や研究から、
大地震を起こした断層の周辺がその後もゆっくりと滑るように
ずれ動いていることが影響しているとみられる。」

「東北地方の太平洋沿岸部の地盤は大きな地震に伴って水平方向東向きに大きくずれ、
上下方向では沈降。例えば宮城県・牡鹿半島周辺では地震直後に東向きに5メートル以上ずれ、
1メートル以上沈降した。
しかし地震後は隆起傾向になり、地震5年後から最近までの約1年間で6センチも隆起した。
地震前から最近までの沈降、隆起の累積としては約70センチ沈降になっているが、
隆起に転じた後の隆起幅は30センチを超える計算になる。」




サイエンスポータル
https://scienceportal.jst.go.jp/news/newsflash_review/newsflash/2017/03/20170310_01.html

気づかないところで、体に感じないところで、
毎日揺れながら、東北地方の太平洋側が、隆起と沈降を続けている!
大地が上下に揺れているとは・・・。
よくもまあ、ここで生きているなあと思う。ほんとに。
つくづく東北地方は謎な土地だと改めて思う。
震災前は、どんな妄想していたんだろうとブログをよみかえしてみると、
マタギを妄想してた・・・マタギかよ。犬かよって話だった。

ただ、
「探求とはスタートに戻ること。という宇宙の法則に従っており、
日本の山信仰がその宇宙の根本にあり、
信仰は人間が作りだした心の糧とし、そこに自然や動物を含めて、物語が始まるのです。」
と言っていた。
まあ、仙台を離れる予定だったから、自分の中では新しく変わっていくと思ってました。
まさか・・・それが大震災だったとは。

最後に気になったこと。
津波研究をしている東北大の今村教授が、宮城県の北側で、巨大津波が起こったのですが、
断層で説明できない津波が起こったと。それが宮古の方で特別な津波だったと言っていた。
この解明を急がなければ、巨大津波の説明ができないとも。

宮古といえば、田老地区の防波堤を思う。
明治(1896年)、昭和(1933年)と続けて大津波による壊滅的被害を受け、
「万里の長城」と呼ばれる長大な防潮堤を築いた岩手県宮古市田老地区(旧田老町)。
過去に何度も津波被害を受けていたので、防災に関して一番力をいれていた所でした。
しかし、震災の津波には及ばなかった。
誰もがショックでした。
それでも今、各地の海に防波堤を作っています。
海には勝てない。



宮古地区は、上閉伊郡と下閉伊郡があり、田老町は旧閉伊郡に属す。
洪水被害のあった岩泉町も。

古代史の話になりますが、
閉伊は、閉伊氏という人が支配していた土地です。
閉伊氏は長身といわれ、この地区では全国で男性の平均身長が高いと聞きます。
先祖は、閉伊氏になる。
家紋が興味深い。鹿の子絞りの四つ目結となっているが、この家紋を用いる
代表的な一族は、佐々木氏と近江源氏。



ススとかササとか、以前からシンクロ続きですが、
佐々木氏のルーツをもつ神社が沙沙貴神社(ささきじんじゃ)といい、滋賀県にある。
「沙」は水に至る。そして少名彦を祀っている。

三十八年戦争というのがある。
774年、按察使大伴駿河麻呂が蝦狄征討を命じられ、811年までを三十八年戦争とよび、
蝦夷征討の時代となる。
第1期~第4期までとし、アテルイがいた第3期では、日本後紀(平安時代初期に編纂された勅撰史書)に、
編集は藤原氏ですが、アテルイとモレは、閉伊村まで平定されていたことが書かれている。

後に閉伊氏は、船で唐桑の尾崎へ上陸したと伝わり、黒崎神社は閉伊氏を祀っていると。
北上山地の金を産出していた氏族で、後に、商人たちも訪れた場所でした。

汚してはいけない聖地がある。
津波も地震も進化している。
蝦夷征伐でたくさんの犠牲者をだした地には、
いまだに大地が何かを求めて揺れているような気がする。
まだ戦いは終わっていないとエミシが盾をもって立ち続けているような姿が浮かぶ。

だからか、私は映画「アンダーグラウンド」の、地上で戦争が終わっても、
地下でまだ終わっていないと武器を作り続けている矛盾な世界が、
いまだに蔓延していると思うから、この映画をいまだにフツフツ思いだしたりするのだな。
北朝鮮の問題もそうだし。
まだ終わっていないと武器を作り続けているのは、日本だったりする。
なぜ、北朝鮮は日本にむけてミサイルを撃つのか。
あの軍事費はどこからきているのか。
そうか、やっぱり問題なのは日本だった。
日本の都市が東京なのだから、「要」である豊洲で巨大地震を見せられた話でした。

※ナショジオの番組からの「まとめ」として書いてますので、
間違って解釈している部分があったらすみません。
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豊受大神の豊洲

2017-06-19 | 日記・エッセイ・コラム
久しぶりに東京へ。
家族の用事で会食してきたのですが、大事な「食」について考えさせられました。
やっぱり食べることが今回、いかに大事なことかを知らされる。
なぜか、豊受大神だ!という衝撃?が、仙台へ帰る時にジワジワと出てくる。

姉が住んでいる豊洲へGO。
私もちょっとばかり居候していたので、
豊洲とは縁があります。
というか、お世話になってました。

和食が世界遺産になりましたけど、豊洲市場はどうなる?
せっかくなので、どんなものか、豊洲市場をみてきました。
外からちょっとしかわからないけど。
つい最近のニュースで、小池都知事が汚染対策が進んでなくて申し訳ないと謝罪してましたね。


※青果東門


※オリンピック用の道路も工事中(ゆりかもめ線の奥左側が豊洲市場)

ただ、私は豊洲が好きです。
この場所はとても海風が気持よく、明るく、「気」がとても良いと感じます。
なんか、アジアの風景なんですね。
高いところから見れば。日本とか東京というよりか、アジア!な街。
香港やシンガポールとか南の方のアジアを感じる。
曇ってますけど・・・。



地名のごとく、(由来はわかりません)
トヨスだから、「ス」が入っている。
だから、豊洲はとても重要な場所、「東京の要(かなめ)」だと思うのです。
その「豊」に、豊さを意味する言葉が入っているから、
豊洲に「食」をもたらす流れになっているんですね。



ただ、豊洲市場の場所は、元は東京電力の火力発電所があった場所で、
近くに東京ガスの建物もあり、エネルギー資源の「要」でもあった。
なので汚染対策がなされていないというより、除去が無理なんだろう。
やっぱり聖地は海を汚されている。
こういう話を聞くと、水俣を思いだします。
メチル水銀の垂れ流しで、多くの犠牲者をだしました。
豊洲市場も、地下汚染対策という問題が、食に通じていて似ています。

その水俣湾にいつの時代かわからない石碑があります。
海の岩にある石碑なので近くまで行けないですが、
「保食神(うけもちのかみ)」です。



体からあらゆる食べ物を生み出した命の母=保食神の碑と事代主。
水俣の埋め立て地の公園にある碑に、作家:石牟礼さんの言葉が刻まれています。
「いのるべき 天と思えど 天の病む」
なんでもかんでも祈ればよい、ってことでもないのか。
天が、もう疲れました。と言っています。
これからは、逆に、人が行って天を癒すしかありません。


水俣の埋め立て地。お地蔵様の背中が寂しい・・・。

保食神は、女神です。
保食神は、
「陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、
山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。
月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、
保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、
もう月夜見尊とは会いたくないと言った。
それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。」


これは、食物起源神話で、世界中にあるハイヌウェレ神話です。
保食神は女神なので、かつて実際にいたであろう女性首長の体をバラバラにして
埋める伝説を残しているのは、ハイヌウェレ神話にしているのです。
ナグサトベがそうですね。
実際、身体をバラバラにしているわけではないです。
おそらく、縄文土器も同じようにバラバラにして埋めるので、
生と死(人は亡くなると土にかえる)思想がルーツにあると思います。
オウゲツヒメも同じようなものです。
オウゲツヒメは土を司る女神だと思います。
土からあらゆる芽を出すから。

同じ食物神である宇迦之御魂神とも同一とされ、
宇迦之御魂神に代わって稲荷神社に祀られていることもある。
また、神名のウケは豊受大神の「ウケ」、
宇迦之御魂神の「ウカ」と同源で、食物の意味があるといわれる。

豊洲の豊が、食物をもたらすように仕組まれている。
それに向き合うのは、女性の都知事。
豊受大神としては、女性(母)にお願いしたいということがあるんでしょう。
男性では向き合えないということでしょうか?

食物神というだけでなく、「頭から牛馬が生まれた」ということから牛や馬の神ともされ、
東日本に多い駒形神社では、馬の神として保食神が祀られており、
さらに「頭から馬」ということで馬頭観音とも同一視されているそうだ。
なんと~駒形様が、ウケモチとはね~。。。


※オラクルカードのウケモチ神

水俣に長年住んでいる友人は、
髪の毛に、何らかの水銀か何か他の物質だったか、他の人より多く蓄積されていると言っていた。
だからといって、何か問題があるということではないのですが、
水俣でも水銀を多く含む土壌をコンクリートで固めているのですが、
もれてしまう可能性はあるので、完全に防御はできないと。
豊洲の汚染物質がどんなものか詳しくわかりませんが、
水の汚染とはいうものの、液体から気体となり空気へ流れ出ることはないだろうか?

豊洲市場も汚染された水を直接使うわけではないからと、気にしない人が多いだろうが、
豊洲を受け入れるには、何らかのリスクが伴うことを知った方がよいと思った。
実際、この場所へ来ると、とてもここに新鮮な食べ物が置かれる場所にふさわしいと思えない。
こんな無機質な所に。人が住むならよいが。


豊洲市場の向かいの空き地。移転したらここにもいろんな建物ができます。

食は海から生まれている。
命も海から誕生している。
運搬するために必要とはいえ、こんなすぐそばにガソリンスタンドを置くことは
ないんでねーの?(ENEOS)



いずれ、半ば強行されて不満の中、豊洲市場に移ると思います。
日本人はすぐ忘れるから。もういいや、てなる。
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さて、場所を移し、今さら知ったことがある。
仙台へ帰る前にお参りしたい神社がありました。
この神社とも仙台へ戻ってから一度も訪れていなかった。
東京大神宮なんですが、実は、ここで数年前に挙式しました。
(どうでもいい話でスミマセン)
なので、お礼参り。



元々、この神社との縁はなかった・・・。
主人が選んだので、私は神社だったら何でもよかったし。
けっこうこだわって神社参りしているくせに、結婚式という重要なイベントの神社は、
「どこでもいい」という感覚が、我ながら理解できない。ワラ

東京大神宮は、東京のお伊勢さんといわれ、
ご祭神が、天照大神と豊受大神(外宮)だった。
今さら、ご祭神をみて、へ~っと思った。
だからか、豊さんとのご縁を頂いたから、豊受大神に魅かれるのですな。
天之御中主神、高御産巣日神、神御産巣日神、倭姫命も祀られています。





そういえば、よくよく説明書をよむと、五十鈴川がでてくる。
どうも、倭姫命が五十鈴川に関連するようですが、
伊勢神宮についての知識がほとんどないので、なぜ五十鈴川なのか。
なぜか、じっくり読む気がしない。頭に入らない。
ここ最近、おかしいくらい「鈴」の話がおまけでついてくる。
もう鈴をどうにかしろ、と言われているみたい。
むむ~、わからんねえ。
きっと、答えがみつかるまで、ずっとシンクロすると思います。
その答えが、東北地方にあることは薄々感じてます。



東京大神宮の由緒は、江戸時代、伊勢神宮へ参拝する人たちのために、
東京における伊勢神宮の拝殿として、明治13年に創建されました。
なので新しい神社です。
元は日比谷大神宮とよばれ、戦後は東京大神宮とあらためたそうです。
神前結婚式の発祥なので、結婚式をする時にしか見られない舞があるのです。

豊寿舞(とよほぎのまい)といい、
「子孫繁栄の象徴である蝶の装束をまとった巫女が舞う、東京大神宮独自の舞。
かつての伊勢神宮祭主・北白川房子さまより賜った祝婚歌の調べにのせて舞います。」
だそうです。

これが一番、感激しました!
ほっとして、癒される神社であること間違いなしっ!


画像:東京大神宮
http://www.tokyodaijingu.or.jp/kekkon/

ただ、なぜこんなにも縁結びの神様として女性たちの参拝が絶えないのかよくわかりません。
冊子の説明には、「天地万物の造化三神が祀られているから」とあります。
神社は、出雲があるように縁むすびの「むすひ」からきています。
いろんな人や土地、仕事などなど、生きていく上で必要なご縁を結ぶ神が鎮座するのだから、
その気持ちで接していれば、後になってその縁がどういう意味をもっていたか、必ずわかる時がきます。



ここは飯田橋の駅から近いのですが、神楽坂も近いし。
神楽とは群馬県の赤城山の神輿をかついだ道で、神楽坂という名前がついたと聞いた。
なので、神楽坂には都会的でおしゃれな赤城神社があります。
一度、参拝したことありますが、素敵でした。


※赤城神社
http://www.akagi-jinja.jp/akagi/

このあたりも、信仰が深い場所だったのかもしれません。
ということで、豊受大神とのご縁に、改めて御礼できて良かったです。しかも東京で。
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愛瀰詩(えみし)と蝦夷神社

2017-06-17 | 東北地方の伝説(山形県)
赤湯駅周辺にも神社がいくつかありますが、
散策していた時に、見つけた神社です。
初めてお目にかかりました。
「蝦夷神社」(えぞじんじゃ)というのですが、お祀りしているのが
「久延毘古(くえびこ)」という神様です。



久延毘古は歩けない神様で案山子(かかし)であると。
古事記には、大国主の元に海の向こうから小さな神がやって来たが、
名を尋ねても答えず、誰もこの神の名を知らなかった。
するとヒキガエルの多邇具久が「久延毘古なら、きっと知っているだろう」と言うので、
久延毘古を呼び尋ねると「その神は神産巣日神の子の少彦名神である」と答えた。




大国主の国譲りに登場するクエビコ。
歩けないとはどんな姿か・・・。

さらに古事記では「久延毘古とは"山田のそほど"のことである」と説明されている。
「山田のそほど」とは、かかしの古名であり、久延毘古はかかしを神格化したもの、
すなわち田の神、農業の神、土地の神である。
かかしはその形から神の依代とされ、これが山の神の信仰と結びつき、
収獲祭や小正月に「かかし上げ」の祭をする地方もある。

また、かかしは田の中に立って一日中世の中を見ていることから、
天下のことは何でも知っているとされるようになった。
神名の「クエビコ」は「崩え彦」、体が崩れた男の意で、雨風にさらされて朽ち果てた
かかしを表現したものである。また、「杖彦」が転じたものとも取れ、
イザナギが黄泉から帰ってきた後の禊で杖を投げ出した時に生まれた
船戸神(ふなとのかみ、岐神、道祖神)との関連も考えられる。




石川県鹿島郡中能登町や大神神社(奈良県桜井市)
末社・久延彦神社などで祀られている。

ということで、あまりクエビコを祀っている神社はないので、
とても珍しいなあと思いました。

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蝦夷神社についての由来などはわかりませんが、
「山田のホソド」と聞くと、ホソドは「ホト」に繋がると思った。
タタラ製鉄にも関係していそうです。
崩れている体というのも、磁場の崩れとか土砂崩れとか、まあ、なんでも妄想できますが。
タタラが崩した大地という意味で。

巨大な藁人形は、遠野でも見かけたことがありました。
秋田県にも巨大な藁人形(鹿島様)があります。それが案山子に繋がっているのですが、
案山子=猿田彦の説も考えてみたい。

※秋田の各地に出現する謎の巨神「鹿島様とは」


http://www.tenki.jp/suppl/kous4/2016/07/23/14141.html
鹿島様(出典:公益社団法人日本観光振興協会)

また、カカシは「カカ」」で蛇の意味がある。
赤い目をしたほおずきと言われたのも猿田彦である。
ホトの火が赤いことと、クエビコには何か関係がありそうな気がします。


※遠野の藁人形

ところで置賜の古代史が気になった。どんな時代があったんでしょうね~。
とってもきれいな田園風景。ここはお気に入り。(写真が暗くてすみません)
奥羽本線の米沢行きへ乗ると車窓からよく見えます。
フラワー長井線もおすすめです。



会津にも蝦夷神社がありますが、こちらは「えびす」とよむそうです。
この神社の場合、蝦夷(エゾ)に関係する氏神を祀っているのかもしれません。


※右にみえる大きな池は、白竜湖です。

エミシの話になりますが、
蝦夷は古くは愛瀰詩と書いたそうです。(神武東征記)
愛瀰詩を「えみし」と読んだのです。
愛という漢字が含まれている!
「瀰」は、「弥」が簡体字で、呉音でミになる。
漢字の中に、さんずいの「水」が含まれているので、水や雨の滴を連想させる。
私は霧のような意味があるのでは、と思い、女性的な言葉だと思いました。

愛の歌にいとおしさを感じる。そんな意味の言葉だとしたら、素敵ですね~。
「蝦夷」とは、全く異なる意味になるわけですが。
エミシは、詩をよく歌っていた民族だったかもしれないんですね。

「蝦夷」表記の初出は、日本書紀の景行天皇だとされる。
ヤマトタケルの時代ですね。
熊襲をたおした頃になって、愛瀰詩が蝦夷になるのです。

愛瀰詩が登場するのは、日本書紀に久米氏という九州の豪族がいますが、
クメール文明の久米氏のルーツをもつとされる人たちです。
宴会の席で、お酒をのませ抵抗できない状態で、エミシを殺害した時にうたった詩に
出てきます。ヤマトタケルが女装して宴会の席に入って殺害した方法と似ています。

「愛瀰詩(えみし)烏(を) 毘ダ利(ひだり) 毛々那比苔(ももなひと) 
比苔破易陪廼毛(ひとはいへども) 多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず)」


えみしは一人で百人にも相当する強者だと言っていたが、
朝廷には抵抗もせずに、やられてしまった」
といった意味がある詩です。
ただ、言霊など詞の中に隠語もある気もしますね。

蝦夷神社に関しての詳細はわかりませんが、
エミシが由来ではないと思います。
しかし、置賜の古代史を妄想すると、「蝦夷」という人が登場する。

文献初出は『日本書紀』の持統天皇3年1月3日(669年2月8日)で、
陸奥国優*雲郡の城養蝦夷の脂利古の息子2人が出家を願い出て許されたという記事にある。
この当時は評制なので、正しくは優*雲評であろうが、
この優*雲(うきたみ、うきたま)が置賜の前身とされる。
城養蝦夷とは、城柵から食糧を給付されていた蝦夷なので、
この頃の置賜評に名称不明の城柵があったこと、蝦夷が居住していたことも推定できる。


脂利古(しりこ)は、北海道の地名に多いシリに由来する説が有力です。
シリは蝦夷の地名だったので、アイヌ語説から、脂利古もアイヌ人だったことも考えられます。

蝦夷と名をつける人では、蘇我蝦夷が有名ですが、
蝦夷と名をつけるのは、勇敢という語感の意味が考えられると。(高橋富雄先生によると)
確かに蝦夷は、外国からも勇者といわれたように、弓の達人で戦に強い人だと書かれていることが多い。
例えば、弓が強いというのは、矢を射る力というよりは、
アイヌ人が矢に毒を塗って射る戦術をもっていたことに、
衝撃をもった渡来人がいたと思います。
外国では、このような戦術はありませんでした。

蝦夷は他には、エビの由来もあります。
会津の蝦夷神社を「えびす」と読ませるのは、
「えび」の古語の「夷」の字を分解すると「弓人」となることから、
えびす様=蝦夷になると思います。

また、蝦夷には、「赤」色というイメージがつきまとう。
赤には、丹=丹生があります。
丹生から想像されて蝦夷神社になると考えられると。
祀られているクエビコという神は、スクナヒコを知っていたわけですが、
スクナヒコは、美保岬からやってくる。

大国主神が出雲の御大之御前(みほのみさき、現在の美保岬)にいるときに、
飛沫立つ波頭を伝い、天の羅摩船(ガガイモの船)に乗りヒムシ(蛾)の皮を
身にまとってやって来る小さな神様がいたと伝わる。

スクナヒコは一寸ぼうし。
体の細胞の中に入って病気を治す妖精??
以前にも妄想してましたが、愛媛県(伊予国?)の温泉地だったか、
スクナヒコと温泉伝承があります。

温泉といえば、ここにも赤湯温泉がある。
「赤湯」の地名は平安後期の1093年に源氏の八幡太郎義家が奥州平定のために
戦っていたところ、義家の弟の加茂次郎義綱がこの地を訪れ、
八幡のお告げで温泉を見つけ、傷ついた武士を湯治させ、
湯が真っ赤に染まったので「赤湯」と呼ばれるようになったという。
アイヌ語の熱泉(アツカユ)からきた説や赤井郷という呼称が変化した説もある。

(赤湯温泉の歴史)

やっぱり、赤なんですね。
置賜を支配していた長井氏という人がいますが、承久の乱で、兄が後鳥羽上皇方に味方したため、
没したといわれますが、家紋が「一文字に三つ星」。



三つ星は、オリオン座です。
元は、大江氏が一文字に品という漢字を三つにした家紋でした。
由来は、一品の文字を図案化して「一文字に三つ星」の紋を創出、用いるようになったのだという。
「一品」とは、大江氏が祖とする阿保親王(あぼ)は、平城天皇の第一皇子であったことから
一品の位にあり一品親王と称された。
阿保親王は、平城天皇の第一子。

古代置賜の卑弥呼-----------------------------------------------------------

東北地方における仏教の伝播について、日本書紀では、689年(持統天皇3)年
正月三日条に陸奥国優嗜曇郡(現在の山形県置賜地方)の麻呂と鉄折の二人が、
出家を願い出て許されたこと,
また同年の七月一日条に陸奥の蝦夷僧自得が金銅薬師仏像・金銅観音菩薩像などを授けられた
ことを記しており、正史上の記録ではこれが最も早い。

(引用:陸奥国色麻郡所在の渡来仏:門脇佳代子・渡邊泰伸)

最も古いといわれるのは、前回のすすき姫でも少し触れましたが、
山形県は御所山、宮城県では船形山ですが、船形山に伝わった菩薩立像です。
置賜の出羽国から陸奥国へ派遣された関東の武将が6世紀頃からたくさんいました。
しかし、船形山に伝わる菩薩立像は6世紀頃とされていますが、それ以前から
もたらされたこともあり、4世紀にも遡るほど古い頃から仏教が伝播した可能性もあるそうです。
山形は越国に含まれるので、日本海に上陸した朝鮮系渡来人の集団がいます。
そのような人たちが、仏像をもたらしたと思います。

かつて、ここに女性が君臨していたと思われる古墳があるんです。
戸塚山古墳といい、骨を調べた結果、骨盤が明らかに女性で、
虫歯が7本くらいあったそうです。
それは、甘いものが食べられた貴族出身者と考えられるそうで、
骨も細いので重労働をしていなかった人だそう。
身長145cmくらいの40~50代と推定される小柄な女性。

お墓には、長い櫛くしが3個、握りの部分を鹿の角で作った鉄製の刀子(とうす)が発見されました。
古墳から人骨が発掘されたのは珍しいのだそう。
古墳時代の祭祀用具に櫛や刀子や勾玉など納められていますが、
古墳に埋葬されているのが男とは限らないのです。
ほとんどの古墳が発掘調査されていませんが、甲冑などの武具がない古墳は、
女性の可能性が高いのです。
4世紀頃まで、ヒメ・ヒコ制度があったそうですが、
卑弥呼や台与の時代からの女性首長が、古代の東北地方に静かに根づいていたかもしれません。

愛の漢字の成り立ちは、
もともと「㤅(アイ)」に「夂」を組み合わせた漢字だった。
「旡」は後ろを振り返る人、「夂」は人の足、これに「心」を組み合わせて、
「心が揺れて足を止める様子」を表現している。

「夂」は人の足を表し、「心」はそのまま人の心のことを指しています。
これらを全て組み合わせて、「心が揺れて足を止め、
振り返る→後ろ髪を引かれる→気にかかる」と変化し、
「心が引きつけられ、慕う」の意味が生まれました。

(一期一会より https://ichigoichina.jp/kanji/13/)

「後ろを振り返る」のは、古事記ではイザナギの話にありました。
イザナミのいる黄泉へ来た時に、地上へ戻る時は、振り返ってはいけない。と言います。
鶴の恩返しでも、「見てはいけない」というタブー神話は、
人間の心理に向けているもので、そういわれると人は、かえって見たくなるという事。
イザナギの話は、振り返る=過去を振り返る。といった意味があると思われ(個人的な見解)
過去の良かった時代なのか、イザナミとの愛を思いだしたい衝動にかられたのかは
わかりませんが、振り返る行為が、愛に繋がっているようなのです。

最後にイザナギのふり返りに、エミシの愛でしめる。
これって、クエヒコの神話の中にでてくる杖彦に戻りますね。
「イザナギが黄泉から帰ってきた後の禊で杖を投げ出した時に生まれた」のが、クエヒコ。

ええ話やね~。
つーことで、山形のお話は終了~。
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最上のすすき姫伝説その2

2017-06-15 | 東北地方の伝説(山形県)
すすき姫が、白鳥十郎長久のことだったりして・・・?
他にも、あこや姫が村人たちにお米を分け与えた話があり、
財産をもっていた人だから、お米をたくさん持って出入りしている=米五合=ごんご様。
といわれるようになった。
そいえば、お米を題材にした昔話は、安倍氏もそうでした。
あこや姫は、地元では都からやってきた才色兼備と語られ、地位が高い人といわれた。

混乱するので、わざわざ書いてみた。
地元の伝承だとこんな関係に。ちょー簡単ですけど。
最上義光の方が年上?

すすき姫にとって、ごんご様(あこや姫)は、義理の姉か妹にあたる。
実際、そうだとしたら。
それに、すすき姫も白鳥十郎長久も最期は、義光に殺されている。

白鳥十郎の話では、(以前書いた内容を再度)

「白鳥十郎長久は、織田信長より出羽国の国主を命じられ、「ひおどしの鎧」を受けました。
(ひおどし:鎧の縅が、クチナシやキハダで下染めし、
その上から紅や緋で染めた紐や革緒などで縅したもの)
最上氏がそれをうらやましく思い嫉妬したのかどうか、
「私こそが国主になるべき」という思いから、白鳥氏を呼び寄せます。
最上義光は病気といつわり「まだ幼い義康の後見役をお願いして、
死後のことなども頼んでおきたいから来てほしい」と言って見舞いをこうたのです。
一時、このことを白鳥十郎は疑いましたが、自分の幼い妻の父ということもあって、
見舞いに出かけたのです。
その時、義光の枕に隠されていた刀で白鳥氏は斬られました。
その血が桜の木に飛び散ったといわれ、その木が山形城址に残されていると伝わります。」


岩手県の安倍氏と白鳥氏についてはこちらで妄想してました。
アイヌ語のピラトリ。
樺山縄文遺跡までの道。
http://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/0276bca8a3ab04fee3d181dc8768f179

また、すすき姫も血を流した赤い沼となる。
白鳥十郎も血を流し桜を赤く染めたとなる。
二人とも義光に殺され、「赤」や「血」という描写で完結させている。
まるで、疱瘡神のような・・・。

また、最上氏は白鳥氏の鎧を欲しがっていたそうです。
白鳥家の鎧は永いこと長松院に隠されていたそうですが、火事になり鎧はその際、
持ち出されて大丈夫だったようですが、その後どこへ行ったか行方はわからないそうです。

最上義光の姫君(ごんご様)は、白鳥長久が殺されてから、
農地の大豪富に隠れ住むなどしたそうです。

ヤタガラス--------------------------------------------

「隠れ住む」という話が共通している点で、それをかくまった人は?
と思うと、やはりヤタガラスのような「三本足」が登場する。
例えば、ごんご様(あこや姫)の伝承の中に、
「奥方は1日5合の米を節約して、三本指跡のついた独得のゆべしを作り売り歩いた。」
と、三本指というのが出てくる。

また、白鳥十郎長久は、義光に山形城へ呼び出された時に、
ヤタガラスが危険だから行かない方がいいと引きとめた話も書かれている。

「白鳥十郎が38人の重臣たちを付き添わせて出発、城をでた。
田井橋の所の渡し場で一回目の休憩をとっていると、
白鳥十郎の乗りかごに烏が飛んできて、糞を落して鳴きながら飛び去りました。
それを見た熊野三郎は、「烏が湯野沢の熊野山の方から飛んできて、糞を落して
、また熊野山の方へ飛び立った。これは熊野山の神の使いとされている
八咫烏が危険だと知らせにきたのだ。」と思い「殿、今日は縁起が悪いから……」
といって最上義光のところに行くのは取りやめなさるようご忠告申し上げたが、
白鳥十郎は「気にすることはない。」といって、そのまま山形城に行きました。」


熊野の由来は、お籠りなどの意味がある「隠国」(こもりく)とし、
それが「隠野」→コモリノに転じてクマノになったという説があります。
出羽三山信仰もそうですが、熊野信仰も、修験というのは古来から天皇家に係る
人たちを「かくまる」ことをしてきたわけです。
伝承に、逃れて隠れ住むという話の裏に、修験者がサポートしていたのがわかる。
ススやササという言葉をのせているのも、
天皇家の血筋をもつ皇女も巫女の役目を果たしていたのですが、
権力争いに負け、本来の正統な天皇を失うことになるのを阻止するために、
ひっそりと一族が固まって暮らしていたことがあったと思います。


月山がみえない・・・。

ウヤムヤの鳥-----------------------------------------------------

そういえば、山形へ行く時、高速バスで行ったのですが、
バス中で、ちょうど川崎を過ぎたあたりです。
チョウクライロの舞を観たかったんだ!と、突如思いだしました。
いつ舞があるのか調べたら、なんと先週で終わっていた・・・。
なんだよ。。。
毎年6月の第2土曜に行われる。

 チョウクライロ舞の中に、とっても不思議なお面をかぶった舞があるんです。
なんというか人間ではないよな・・・と。想像するに何かの動物か鳥なんだろうか?
よくわからないけど。

旧象潟の金峰神社で行われ、神仏分離以前は蔵王権現を祀る蔵王堂であり、
龍山寺【りゅうざんじ】がその別当で、祭事は龍山寺院主が所掌していた。
蔵王権現は、役の行者が奈良の金峰山より勧請したと伝えられている。
小滝地区およびその周辺には龍山寺配下の修験の坊があり、
チョウクライロ舞の担い手は修験の関係者に限られていたとされる。
明治以降は、金峰神社の氏子有志により、さらに昭和三十九年以後は
鳥海山小滝舞楽保存会によって伝承されている。
チョウクライロ舞が演じられる金峰神社の祭礼は、
明治三十年ころまで毎年旧暦の三月十七日に行われてきたが、その後、
数度にわたり期日の変更があり、現在は、六月の第二土曜日に行われている。
五月中旬ころになるとチョウクライロ舞の練習が始まり、
祭礼前日の日中、神社境内の舞台で最後の稽古が行われる。


こちらのサイトに、その不思議なお面の写真がみられます。
文化遺産オンライン。
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/137297/2

なぜ、鳥海山なんだろうと調べてみたら、これもすぐ見つかった。
手長足長伝承がある鳥海山は知っていたのですが、
「三本の足をもった鳥」のような話が伝わっていたことは知らなかった。
そのキーワードが峠なんですね。

「昔、鳥海山に、山から山に届くほど長い手足を持つ「手長足長」という化け物がいて、
旅人をさらって食べたり、日本海を行く船を襲うなどの悪事を働いていました。
鳥海山の神である大物忌神はこれを見かね、霊鳥である三本足の鴉を遣わせて、
手長足長が現れるときには「有や」現れないときには「無や」と鳴かせて人々に
知らせるようにしました。
そしてこの地を訪れた慈覚大師が、吹浦で百日間祈りを捧げたところ、
鳥海山が吹き飛んで手長足長が消え去ったといいます。
また一説によると、消えたのではなく大師の前に降参して人を食べなくなったともいわれ、
手長足長が人に替わって食べる食糧としてタブノキの実を撒いたことから、
この周辺にはタブノキが茂っているのだといいます。
タブノキはにかほ市、由利本荘市に群落が見られますが、それが北限とされています。」

※まるまる秋田より。

おそらく、「人を食べる」というのは、死者を連れていくあの世の黄泉国のことではないか、と思います。
鬼伝説がそうであるように。

すすき姫から離れていってしまいますが、
要は、このような姫伝承がある(あこや姫などもそうですが)意味とは、
熊野信仰に関係する伝承だということです。
名取老女もそうです。

タブノキはイヌグスとも言いますが、船にのってやってきた人が
船の素材に、タブノキを使ったという話があります。
日本でも棲息する普通の木々ですが、匂いに特徴あり香取線香に使われている。(葉の方)


※東:宮城県側の峰々。峠を越えて陸奥国へ入った貴族たちの山の峯が塞ぐ。
----------------------------------------------------------
峠といえば、あこや姫伝承にもある「笹谷峠」ですね。
あこやが名取太郎(松の精霊)との別れで、ささやいたということで、
ささや峠という名前がついた説もありますが、「ササ」であることを考えると、
ススやササは、サの働きを司る言霊のことも表しているのでしょう。

これを熊野信仰と繋げるならば、鈴木家がいる。
鈴を使った祈祷をしていたと考えられる鈴木姓の系譜に、穂積氏がいる。
すすき姫の話に、すすきを植えたとありますが、
すすきが稲穂の意味をもたらしていると思います。

稲穂=稲をもたらした天孫系の神。
妄想ですが、二ギハヤヒを祖とする穂積氏は、元々日本にいた先住民ではなく、
渡来してきた新しい豪族かと思う。
なので、二ギハヤヒは縄文とは関係ない?古来、日本にいた人ではないと思うのだが・・・。
それ以前は、やはり安倍氏などに関係する?ナガスネヒコたちで、
白鳥家もシラトリとサ行なのですが、白い鳥と黒い鳥の描写をもたらしていると思います。
闇=光と同じだから、善悪二元論とは違います。

峠のような峰々に、そのような働きをもたらしている巫女の祈祷というのは、
国境や境界にあたる場所ですが、そこに「鳥」という霊鳥をもたらしている気もします。
それが塞神となり岐神となるクナトであり、諏訪神に由来するのだろう。
諏訪もスなんですよね。
スという音は、想像や創世、というサ行の力を生み出す力という意味でしょう。
その力の象徴が鳥なんでしょうか?
生と死を表す伝説だとしたら、最上氏か白鳥氏かどちらかの、
鈴を祈祷としていた巫女のような女性が葬られたかのように受け止めてしまう。

戦に負けたのは、祈祷が弱いからだと。
そんなところで責任を追求されて自害させられたとか。
その怨霊を封じてるようなことは、古代にあったのでは?

東根(山形県)にある若木山で妄想してましたが、
あこや姫などの姫伝説にある「五合様(ごんご様)」というのは、
五芒星で、疱瘡神のこともあるのかな、と思ったのです。
新潟県に伝わる阿古谷(あこや)という地名は、峠であって「関」という地名なんです。
大里峠という所で蛇伝承があり、
そこにたくさんの遺骨があったという墓場のような伝承がある。
同じような話では、蛇骨峠というのもそれで、山形県の東根にあるらしい。

ということで、「有耶無耶関」というのは、
あの世とこの世の言霊みたいなものではないかな。
鳥葬だったら興味深い!

門番がいて、それが鳥海山の手長足長になっている。
それを導いているのがヤタガラスという霊鳥なんですね。
チベットの世界みたいなんですよ。
曼荼羅の世界です。
鳥が人の魂をあの世に天上させるから、鳥海山は鳥見山になっているんです。
トリミ=トミで、トミナガスネヒコ。
後に、ニギハヤヒに変わった。

そんな妄想すると、鷹という猛禽類と水鳥の白鳥の異なる鳥の文明が、
交差しているのが東北地方の特徴であると思います。
白鳥と水田はセットなので、白鳥が飛来する所に水田などの田を潤す鳥と考えるので、
稲をもたらした氏族に白鳥をもたらした伝承が重なるものです。
また白鳥飛来には、砂鉄が埋まっている説もありますが、
砂の鉄という砂には、言霊学では、砂のスは命を産むという意味からきている説があった。

豊玉姫は、亀のような爬虫類で描かれますが、
海に帰ったのは、砂で産んだからでしょう。そのまま読んでしまえば。

焼畑のある地名をサスという。「砂州」というのは海岸の地形を言いますが、
「佐須」という地名もあります。倒語は、スサになるから、スサノオは、焼畑を伝えた人だと思います。
やはりサ行には、産まれる思想があったことを由来しているのだろう。 

スサノオ、スセリヒメ、サルタヒコ等の神名などもそうですが、
佐渡も「サ」ですね。サという音の戸。
そして、なぜか、佐渡にはたくさんの天皇が配流されている。
ヤタガラスはそのような土地を案内してきたように書かれている。

名取老女の伝承にも、後鳥羽上皇がでてきますが、
後鳥羽上皇と、3男の順徳天皇も佐渡に配流されていた。
順徳天皇の伝承は、佐渡にたくさん残されており、
上陸する時に、海に刀を落としてしまったが、海から龍があらわれ、
その刀を拾ってくれた話がある。
順徳天皇は、その刀を地元の人に与えたと。

山形県に御所山があります。
宮城県では船形山とよびますが、
御所山は、順徳天皇が隠れ住んだ山と伝わっている説がある。
5つの峰から五か所の山の意味で、御所山となった説などがある。
五合様や、5つの峯など、5が貴重な話でもあり。

「御所」という漢字から、位の高い人が住んでいたような名前です。
宮城県では船の形をふせたように見えるから、船形山という名がついたようですが、
一番古いといわれる薬師如来像がもたらされた話があるのだから、
日本海へ上陸し、御所山~船形山へ移りすんだ貴族がいたのかもしれません。

順徳天皇は、1210年~1221年に即位しており、
承久の乱で佐渡へ配流されたようです。
天皇の皇室争いみたいな感じもしますが、実際は、わかりません。

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修験の謎が、ますます謎に深まるだけですが、
自害する話が、どこか美的に考えられていた気がします。
そんな話として残しているような気もします。
巫女もそういう運命なのか、勝利品といわれて敗者の男に嫁ぐなんぞ、
生き地獄ですよね・・・。夫を殺されているのだから。
子供を守るためとはいい、どこまで本当なのか疑問もありますが、
今では理解しがたい厳しい現実があったと思います。

だから入水とか自殺が多かったらしく、子供も・・・。
地方にいくと河原に石碑があるのは、そういうことですが、
別に巫女ではなくて女性は嫁ぐと、洗礼のように厳しい掟を守らなければ
なりませんでした。女性に自由はなかったのです。
それでも、嫁というのは姑からいろんな知恵を学んできました。

子供に恵まれない女性もいましたが、きっと追い出されていたと思います。
そのような女性は出家しました。
そのような女性たちが住む修験もあったんです。
秩父では、三峰が男の修験に対し、太陽寺が女の修験といわれます。
秩父は昔からそういう土地だったので、室町時代頃~江戸時代に観音霊場が栄えたのは、
女人禁制が多い中、秩父は女性を受け入れる修験場だったわけです。
まあ、修験者は普通に結婚をしていたので、婚活もあったと思いますけど…。

すすき姫の伝承が、どこか女性の苦しみを伝えているような気がします。
世の中は、男と女しかないし、その両方でもあったり。
世界は陰と陽という2つだけで、とてもシンプルに出来てます。
0と1の世界だけです。

この前も友人と縄文と弥生の話をしていたのですが、
縄文と弥生という違いも、女性性と男性性の区別と考えるとわかりやすいと思いました。
古来は、どちらも備わっていました。
麻も絹もどちらも取り入れていたんです。
考え方や思想の違いというのは、男性性が強いか、女性性が強いかという区別で
説明できるんだろう。

友達は、どっからどうみても縄文人で、本人も自覚するくらい縄文です。
考え方、思想、生活の中で取り入れていることが、縄文人と同じなんです。
心で感じる方で心で説明する方が縄文なので、麻に魅かれると。
それが女性性の象徴になっている。
でも、縄文が嫌いという。笑

それに対し、私は絹の弥生人の方です。絹の方が惹かれます。
だから男性性が強いんです。
頭で考える方で、心より頭で説明し理解する方です。その方が得意なんです。
ま、一概には言えませんけど、私の場合はそうだと思っています。

麻より蚕の方が好きで、蚕を育てたいと思う衝動にかられる時がある。笑
蚕を育てる段階をふんでみて、初めて糸が生まれるという経緯にあこがれる。
麻はそういうのはない。
でも弥生人や渡来人に対する嫌悪感がある。弥生人が嫌い。
嫌いな方が、本当は自分が求めているものだったりするのです。
こんなことに気づいたのも、荒雄川神社で麻と絹の妄想したからです。
ああ、自分は縄文人だと思っていたけど、弥生人だったことに気づいた。

だから縄文人がうらやましいので、縄文遺跡にいってみたりする。
縄文人からいろんなことを学んだ弥生人だったんですね。
その続きが今に至るっちゅー話かい。
まあ、どっちでもいいじゃん、となりますけどね。

どっちに魅かれるかで、
それが本当の自分の求めている姿だと思うと面白いものです。
インドはどうなんだろう??
麻か絹か、どっちを体にまとう方が好きか。
そういうところで、自分を知るのも面白いものです。
------------------------------------------
東北地方の悲恋な昔話は、大体、貴族と豪族の娘というパターンです。
それもどうなのかなあ、と思いますけど。

戦国時代は特に、貧しい中での争いでしたから、
天皇家が分断したり、たくさんの武将たちが翻弄されていたのは、
あまりにも残酷な時代があったからです。
修験者たちはそんな女性たちの弔いをしてきたのだろうと思います。
そんな自分たちの母親をみてきたのだろう。

いくら女性性の時代とはいえ、スピリチャルな話だけでの完結は難しい。
神社にいけば、女性性が高まるわけでもない。
うさぎ=女性性と言われていますが、その通りです。
本来はそういう意味です。
出羽三山は男のカラス(太陽)と女の兎(月)を信仰しています。
カラス飛びや、兎ぱねという神事があるくらい。




・・・兎の着ぐるみ…
※日本の神社:出羽三山より(DeAGOSTINI)

まじめっ!
どちらも備わっていないとバランスが保てないわけですから。
0と1のスイッチを交換したりする場所であったり。

熊野信仰は、山形の南陽市にある熊野大社には、三羽の兎の話はありますが、
熊野はヤタガラスが主です。
なぜ、熊野が姫伝説を持ち込むのかは、妄想ですが女の巫女をもたらすことで、
女性性のバランスを補っているのではないかな。
ヤタガラスの太陽神に対し、月神の巫女は人間の女。 
名取老女やあこや姫や、すすき姫など。
それをいかに持続させるか。それが世の中のバランスに伝播していく働きに繋がる。
まずは、自分たちがそうならなければ、ということを知っていたのは修験者だったのでは?

この世がもっと女性性で高まっていけばよいのでしょうが、
その方法は、自分の経験で知っていくしかないと思っています。
いや、みんな知っているはず!
思い出せばいいだけ!

かなり前にみた夢ですが、檻の中にたくさんの兎がいた夢をみました。
女性性を閉じ込めているのは自分だと気づいた夢です。
登山に興味を持ち始めたばかりにみた夢で、
それから登山をするようになってから、女性性が高くなってきました。
結婚できたのも、たぶん、そんな修行があったような。笑
女性性が高まったおかげです。

でも!そこまで至るまで、自立神経失調症とかになっているんですよ~。
大変だよなあ。それが人生の修行とか言われるのは腹が立つ。ワラ
そこまでしてあげあげしたくねっ!と思うわけだよ。

顔がよく変わる人みたいです。私は。
特に登山後は、血行がよくなるからお肌つるつるで、
目が全然違います。

セッションの前と後も全然違いますが、いつもセッションする時、
顔が男の顔になっていたよ。(セッション前)といつも言われる。
やっぱしな~。。。。セッション後はいい顔してます。
普段は男性性の強い目をしているんです。
変な話ですけど。
だから私の中には、おっさんがいるんだろう。小さいおっさんみたいのが。
スクナヒコだったらいいな~。
どうやら、癒されると目に現れるようです。面白いね~。
このままずっとそうしてもらえばいんでしょうけど、
ウルトラマンみたいに長持ちしない。。。(3分以上はもつが)

そのくらい私は目の表情がよく変わります。
そのうち何かに変身するんじゃね?笑

そんなこと妄想してしまう姫伝説でしたが、
戦国武将も大変だったんですね~という感想でしかならない現代の平和さが邪魔をして、
もうこの時代のことなんて別に・・・という冷め方が相変わらずハンパない。
さっさと終了~。(おいおい)

次も山形ネタ。
初めて出会った謎の神社。
ぜんぜん由来も何もわからないけど、(とりあえず)紹介します。


※矢印の山は、西のピラミッド富神山で~す。(遠くてすみません)
とにかく、山形県にはきれいな三角形のピラミッド山がたくさん見られますよ~。
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最上のすすき姫伝説その1

2017-06-14 | 東北地方の伝説(山形県)
前々から、鈴のシンクロが続いていましたが、
このお話も、どうやら、ススやササやら、何かと鈴が関係していそうな気がします。

先日、山形に用事があったので久しぶりに山形へ行ってきました。
街を散策していたら三の丸に来ていた。



山形城跡(国指定史跡)
1357年に斯波兼頼に築城されたと伝わります。
これを最も大きい規模にしたのが、山形城主最上義光でした。
この裏手に、歌懸稲荷神社がありますが、このあたり巨木が今も残されており、
樹が繁茂していた場所だったそうです。




(虹色のオーブ)

霞城公園とは離れていますが。
歌懸神社とは、以前、あこや姫伝承でのせていました。


※歌懸稲荷社

言い伝えでは、
むかし、藤原実方がやってきた時、一条天皇の命を受けて陸奥国を廻り、
和歌の歌枕を見てくるように命じられ千歳山の阿胡耶の松を見に来た。
その時、稲荷神社で和歌を奉納したところからこの名前がついたという。

後に、名取郡笠島村の道祖神の前を馬が通りすぎようとして、
神にとがめられて落馬して亡くなったという。
実方の墓は千歳山にあることになっている。


※千歳山(美しい~ピラミッド)


※千歳山と山形蔵王



西行も滝の山に来た折、歌懸稲荷の名を聞いて和歌を奉納したとも、
父の後を追って京からはるばる来た小野小町が歌を奉納したことから、
この名がついたという説もある。



歌懸稲荷に詣でるには、歌を詠まずに入ることはできないとも、
歌を詠まずに社の前に架かっている小さな橋を渡ってはいけないものと言い伝えがある。


もともと、1504年最上義定が城内に社殿を建立したものだと言われ、
天童氏との合戦にあたり、戦勝を祈願して大勝利したこともあって、
歌が献上されたことにある。




はあ、なるほど。
山形市内の観光をするつもりが、結局、こういう所にきてしまう…。
三の丸に歩いてきてしまうというのは、何かあるんだな、と。
あこや姫、実方中将、小野小町、西行。

-----------------------------------------------------
さて、最上義光という人がどんな人か知るすべはありませんが、
いろいろな話から、この方は、良い人だったのに騙されたのか、
本当の悪人だったのか。どっちの伝承もあるのです。
が、この方にからむ女性の話があります。
それがどうも本当の娘の伝承というよりは、
巫女さんの、やはり熊野や出羽三山修験系の残した話のようなのです。

この時代は詳しくないので、伝説で妄想します。
最上義光の長男、最上義康の妻が、すすき姫という言い伝え。
そして、すすき姫の父親が白鳥十郎長久。
この話は、数年前に岩根沢の三神社へ行った時に知りました。

すすき姫の伝説「西川町岩根沢は月山登山道の宿場の一つである。
谷地の殿さま白鳥十郎の娘に、すすき姫という美しい姫がおりました。
山形城跡の城主最上義光の頼みによって、義光の子最上義康の妻となった。
白鳥十郎からすれば、山形に城をかまえる最上家と手を結ぶことが、
好ましいという配慮もあったろう。

ところが、義光の家臣は義康が率直な人柄で、人の道ははずれることには、
ずけずけと言って怒る上に、きれいなすすき姫を妻にしたことに嫉妬し、
あることないこと義光に報じたので、怒った義光は息子の義康を殺害してしまったのだ。

自分の身にもふりかかることを恐れた姫は、父(白鳥十郎)に相談し、
岩根沢の沼の平に身をかくしたが、それがまた義光の怒りにふれ、
父白鳥十郎をも討ち殺し、白鳥一族をことごとく滅ぼそうとしたという。
すすき姫の居所もさぐらせて、すすき姫は山形城につれもどされてしまった。

次々に白鳥一族の悲報が伝わってくるのを耳にして、
すすき姫はある晩、こっそり山形城を抜け出して、
またまた沼の平城まで逃れたが、すすき姫の姿を隠したのを知って、
あの城にちがいないと、義光は追手を差し向けたのだった。
姫は城の前まできて、城門が義光の軍勢にすっかり固められているのを見て、
月山の参道に変え、やぶに身を隠しながら岩根沢の先まで来たが、
なれない山道に足をとられへとへとになって沼のほとりで倒れるように座りこんだ。

姫を守ってきた家臣に
「もうこれでわたしをかまわず逃れよ」というと覚悟をして
ふところにしてきた刀を取り出して、
えっと喉をついてそこに倒れた。
どくどくと吹きだした真っ赤な血は、沼の色を真っ赤にかえたほどであったという。
それから村人たちはこの沼を赤沼と呼ぶようになり、家臣たちが姫の名にちなんで、
沼の辺にすすきを植えて、霊をとむらったという。」


-------------------------------------------------------
この話は、3年前だと思うのですが、岩根沢の三神社へ行ったことがある。
そば畑が広がるとても良い所でした。



すすき姫がこの神社まで来ていたのかわかりませんが、
この境内には「要害神社」があるので、出羽派の修験者が
結界として金や鉄を守っていた時代があったのだろうと思います。





歴史をみてみると、
すすき姫は白鳥十郎の娘とあり時代は、1575年頃。
白鳥家の出生はよくわかっていませんが、村山市最上川を拠点としていた領主だそう。
そして、織田信長に信頼されていた事もあり、
福島県の女神山(小手子姫伝承がある)がありますが、機織りを伝えた話です。
この山にも織田信長の娘「笹姫」が逃れたという伝承がある。

ススとかササとか・・・。

父が息子を殺すという衝撃な話ですが、実際は?
Wikiですが、調べてみると、父子とも仲が良かったのですが、
義光の近臣の里見氏が二人を陥れるために、悪い噂をたてたとある。
それから父子の仲が悪くなったそうですが、息子の義康が誤って股に傷をつけて
しまうと、「大殿を恨み、自害しよとしている」と告げ口したとか。
他にも徳川家康が長男の義康より次男の家親の方をつがせたいと思っていたなど。
息子の義康は図られたのか、無念な死をとげたようで、
父の義光は、息子の死をなげき、里見氏にこの件について調査の命令を下したと。
それで都合が悪くなり、里見氏は山形から逃れたが、途中で引き渡される時に、
山賊に殺されたという。

この事から、里見氏一族の大半は、最上氏の恨みによってか、殺されたという話。
豊臣側についていた里見氏だったようで、豊臣VS最上のようです。
父は息子の死後、病死したようですが、そのあたりはよくわかりません。

いずれにしても、シンクロしてるのはあると思いました。
ススやササというのは、鈴を祈祷としていた鈴木家と
関連しそうなもので?
出羽派や熊野派の修験者たちが、過去、戦ってきた武将の怨霊を鎮めるために、
巫女の要素をもつ「姫伝承」の話をもってきたように感じます。
それは、この時代は戦乱の時代でしたから、
互いに巫女の霊力を利用していたからだと思うのです。

その責任を、巫女(姫)に背負わせているのかもしれない。
だから自害し弔うことにした。
それも修験者の役目だったのだろう。


※霞城公園

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さて、すすき姫の話が、白鳥十郎の最期の話にも似ているのです。
これはどういう意味でしょう?

つづく。
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アイヌ人のシトキ

2017-06-11 | 日記・エッセイ・コラム
三種の神器とはいいますが、一番、そのことを理解していたのは、
アイヌ人ではないか?とそんなことをふと思ってしまった。
身につけるだけで、その霊力をどのようにしたらよいか、
ということを知っていたのだろうと思うことがあった。

かなり前の話ですけど。。。
東北歴史博物館で以前、アイヌ人の神器として鍬形の神宝をみてました。
まるで、もののけのようだと思い妄想してましたが、
その時に別の部屋で展示していたアイヌ人がコレクションしていた物の中に、
鍔(つば)がありました。
なぜ、このような物を大事にしていたのか?と思う。
使えない刀を大事にしていたアイヌ人。



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まあ、私はアイヌ人について何もわかっていませんし、
ご縁もありませんが、アイヌ人から学ぶことがたくさんあります。

さて、このような事を考えるのに至ったのは、
答えはまだないのですが、なぜ、鏡を大量に埋めるのか?ということでした。
例えば、出羽三山神社の池には、大量の鏡が発掘されています。


出羽三山神社:目の前が池です。

また、これは私も知らなかったのですが、名取高舘の熊野那智神社でも、
大量の鏡が地中から発掘されました。(明治31年)。
それらの鏡などは、仙台市博物館と東北歴史博物館に保管されているそうです。

アイヌ人が祭りや儀式に身につけていた装飾品を「シトキ」と言います。
ガラス玉などの物で、母から娘に受け継がれるものでした。
「タマサイ」といい、タマ=玉、サイ=連ねるの意味があるそうです。
あれ?逆に読むとサイタマだね。。。


※タマサイ(ネックレス)。山丹交易で得たガラス玉が使用されている。

タマサイが鏡と勾玉の原型ではないかなあ、と思い、
とんぼ玉みたいなもの。(アイヌ玉ともいうそうです)
吉野ヶ里遺跡からも勾玉と、とんぼ玉が出土しています。
穴があいているガラス玉です。
それがエジプト製なんだそう。
すでにこの時代から、交易が盛んだったんですね。

「モノから見たアイヌ文化史:関根達人」より、
アイヌ社会では、20世紀頃まで玉、鏡、刀剣をイコロ(宝物)として、
大事に扱っていた。
アイヌ人は、刀装具は呪術的な力を持っていると、メッカ打ちやニウエンとよばれる
刀として扱っていた。
メッカ打ちとは体についた悪神を払うことの意味がある。


その刀剣に付随した鍔1枚でさえ、これを病者の枕元に置けば、
病魔を退け、又、その苦痛を訴える処をこの鍔でなければ、
その苦痛はたちどころに去るといわれた。
護身用に婦人の玉飾にシトキという中心板に配し、又、死者あるときは、
その冥福を祈る為に、鍔を胸につけて送り、実物ないものは、
木型に写してまで死出の旅路につけてやる。
刀類や矢筒を、イナウのカムイへの供物と共に、家屋の後ろの壁につりさげていた。


それを「トンペ」=「光輝くもの」と呼ばれ、金属装飾の施されたイコロは、
何の霊力もない手で触ると、魔よけの霊力が薄れると考えられ、
わざわざくすんだまま屋内に安置されたという。
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秩父に若御子神社がありますが、「わかみこ」とよむ。
神武天皇の別名というが、他にも「わかみこ」には、巫女説があった。



柳田国男の山人論集成に、こんな話が。

ワカという言葉は、会津地方、福島県のイタカ(口寄せ)をワカと称した。
それを若神子といい、若宮と同じという。それが若宮八幡宮になっている。
巫覡は、神の血統上の子孫となるため、神に近い神意の仲介となっていた。

梓の弓を手にして神霊の言を伝えるなど、
熊野神社の伝承にも、梛の葉が出てきますが、巫女が用いた神霊と考えられるのです。
オシラ神とアイヌの共通性もあり、オシラ神像の胸にも、鈴を7個つけて結ばれた
飾があるそうですが、
満州のシャーマンにも同じような飾が見られるそうです。
(また鈴がでてきた)

また、イタコの語源について、アイヌ語の説がある。
イタクという言葉から、イタクベ・イタクペという語源説。
ベやペというのは、「物」のことで、モノノフというように、
モノは霊的な物ととらえる。
それが「語りの物」とされ、語り部となった。
つまり、イタクとは、我が「言う」のことで、儀式の詞を意味する。
ユーカラの巫女が神意を告ぐるところ必ず、
イネやイタキ(かくのごとく言えり)という語を用いるという。

伝承・伝説・神話の数々は、女性の巫女が語り継がれた神言から生まれている。
女性たちが畑仕事が大変な作業でもあったので、歌で紛らわせた事や、
淡々とした作業にあきてきた時に、歌ったものだといわれているのが、
伝承となっているのですが、おそらく、ナニャドヤラの唄(ヘブライ語)も、
先祖からの言い伝えを女性たちが唄い始めたことにあると考えられます。

詞の神言を歌にしてのせるというのが、巫女の特徴と考えると、
子守歌などもそうで、子供たちを安心させるための術というのは、
やはり母親に限って出来ることだったのです。
アイヌ語の子守唄などを聴いてみると、私はとても安心します。
歌の旋律や詞に、とても惹かれます。

あのような歌の中で死者が眠りにつけば、確かに、安らかに天上できると私は思ってしまう。
感動すら覚える旋律です。
本当にゆりかごだな~と思う。

そして、そのイタクがイタキソのことではないか?と。
柳田国男の山人論にも、少し触れられていました。
断定はできませんが、イタキソ=五十猛と考えますが、
イタキやイタケは、霊巫の名称と考えられるとある。

紀伊国(和歌山県)の伊太祁曽神社(いたきそ)は、
五十猛命を祀り、別名が大屋毘古神(おおやびこ)という。
大屋都比賣命 (おおやつひめのみこと)が配神としてあり、五十猛命の妹神と、
都麻津比賣命 (つまつひめのみこと)も同じく五十猛命の妹神といわれる。

大屋毘古神は、禍津日神(まがつひのかみ、まがついのかみ)と同一とされ、
神道の神とされる。
禍(マガ)は災厄、ツは「の」、ヒは神霊の意味であるので、
マガツヒは災厄の神という意味になる。

男神と妹の巫女が2人いる神社と考えられます。
林業が盛んだった木の国が、紀の国になったといわれていますが、
「素戔嗚尊が鬚髯から杉、胸毛から檜、尻毛から槇と榧、眉毛から楠など体毛を抜いて
作った各種の樹木を、二柱の妹神(大屋津姫命と枛津姫命)とともに全国に植えたとある。

それは、まるで世界の木々をここに集めたような話です。
地球上にある樹の種を残すためのものだったかもしれない。
それを植林していた可能性は大きいのですが、気候はどうだったのか?
東北地方は寒冷期だとなかなか照葉樹林は育ちません。
和歌山県はちょうどよい中間の気候にあったと考えれば、
この場所が選ばれたと思います。

スサノオとセオリツヒメを祀っていた池月の荒雄川神社は、熊野修験が背景にあったりして。
五十猛命がスサノオの子といわれる。
イソタケルが別名、おおやびこの「彦」と、おおやつひめの「姫」という構図。
彦姫制度は、沖縄の話に出てきた。
セオリツヒメを祀るのも、禍津日神(まがつひかみ)の事をさしているかもしれません。
なぜなら、この神社には剣を奉納した伝承がある。
沖縄のユタのルーツであり、東北にも残されたイタクのルーツであり。
巫女の姿と三種の神器は、アイヌ人の飾りに今も残されているのかもしれません。
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雨乞い儀式が最強すぎて大荒れに。

2017-06-09 | 日記・エッセイ・コラム
海外のお話。
場所はアフリカ。
なんだか、世界中で豪雨の被害がありますね。
水の災害が増えているような・・・。
これから梅雨に入るので、気になってしまいます。

さて、興味深いニュースですが。
世界中で雨乞い儀式は行われているのですね。
日本でも「雨乞い」の話はたくさんあります。

でも、雨乞いとは言うものの、
いったいどんなことするの?と思ってしまう。
例えば、雨女とか言われるように何かをすると雨が必ず降る人が
旱魃している所へ行ったら雨が降るんじゃないか、と思うくらい、
自然な事なんだろうと思うのですが・・・。

「ケープタウンは毎年、この時期になると水不足が懸念されているが、
今年はより深刻である。5月22日頃にはダムの貯水量が20.7%にまで低下し、
危機的状況に陥った。」


アフリカ・ケープタウンではかなり深刻な水不足で、
下水まで飲んでしまうほど、大変な状況になっているそうです。
そこで、市長が雨乞い儀式をしたというニュース。

アフリカのある部族が雨乞いをすると、100%雨が降るという。
なぜなのだろうと、アメリカの研究者が調べたところ、
「雨が降るまで祈る」ことだった。
・・・そうなるよね。
ん~、あきらめないってことか。

「5月25日午後2時。イスラム教、キリスト教、コイサン族、バハイ教、
仏教、ヒンドゥー教、ユダヤ教などの長がケープ半島北部にある
テーブルマウンテンに集められ、雨乞いの儀式が執り行われた。」


すごいね。
世界中の民族が集まって雨乞いをするとは。
最強だね。
その雨乞いの祈りが届いたのかどうか。


雨乞いの儀式が行われたテーブルマウンテン
(出典:http://www.iol.co.za)
http://japan.techinsight.jp/2017/05/flynn05262225.html

私は最初、こっちのニュースを先に見つけました。
6月8日、昨日ですけど、
「【6月8日 AFP】南アフリカ西部の沿岸部が7日、猛烈な嵐に見舞われ、
これまでに8人が死亡した。
当局によると、ケープタウン(Cape Town)の港が閉鎖され、鉄砲水も発生、
被害は広範囲に及んでいる。」


「6日に発生した嵐によって建造物が損壊し、木々がなぎ倒され、
4万6000世帯が停電。強風と洪水で鉄道や空の便にも乱れが生じた。
西ケープ(Western Cape)州当局によると、雷が原因の火災や建物の崩壊などにより、
これまでに合わせて8人が死亡したという。(c)AFP」



南アフリカ・ケープタウンの港で、激しい嵐により防波堤に打ち付ける波(2017年6月7日撮影)。
(c)AFP/RODGER BOSCH
http://www.afpbb.com/articles/-/3131238

アフリカで鉄砲水が起こるほどの雨が降るのは珍しいと思い、
何があったんだろうと思って調べたら、雨乞い儀式のニュースをみつけた。
はあ、なるほど。

ちょうどよく雨が大地を潤してくれるというのは、なかなか難しい…。
これは、雨乞い儀式が最強で、大荒れになってしまったんだなあ。と思ったわけです。

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さて、日本での雨乞いとはどんなものなのでしょうか?
いろんな方法があると思うのですが、ちょっとスピリットな本ですが、
雨乞いのことが触れてありました。

「五次元世界はこうなる:ゲリー・ボーネル、高橋克彦」より



高橋:日本は「言霊の国」という。出口王仁三郎のような大霊能者は、
言霊で天気を操った。
神道の本物の神官の人は、祝詞はいろいろな種類の音の振動であることを知っていて、
これで人の病気を治すこともできる。
昔の神道の神官は、5つの鈴をもっていて使い分けていた。
全部音が違っていて、それでも人を治していたと。

ゲリー:全くそうです。
それがユニティのときの叡智なんです。


話それますが、いつ買ったか覚えてないんですけど、実家にあったので持ってきた本です。
1999年に対談した話をのせているのですが、
世界超変貌が2012年までに行われることが書かれていて、
まさに震災後なんですよね。
震災がきっかけで目覚めた人は、た~っくさんいますから。
スピにはまった当初は、ゲリーさんも高橋克彦さんも好きでした。

さて、「鈴」がでてきましたけど、
秋田物部氏の文書が発見された唐松神社にも大量の鈴が奉納されていました。
最近、鈴のシンクロが多かったので、こういう繋がりに至るのが面白い。

以前に書いた、穂積氏と鈴木姓の話で、
「鈴を使った神事や祈祷とする由来や、小竹のササやスズという言葉から祭事に使うもの、
いずれにしても鈴は祭事に使用するものを意味し、穂は、ススキから由来する。」
というのは、言霊のことでもあるんですね。

つまり、五十鈴神社の「五十鈴」は、五十音の言霊のことを伝えているわけです。
日本語という音を鈴によって表していたのではないか、と。

海外でも古代ケルトのドルイドがもっていた鈴を「ドルイドベル」といいますが、
瞑想する時に鈴を使ったといわれます。
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きれいな音色の鈴虫がいますが、虫の音色を音で聴けるのは、日本人とポリネシア人だけと聞きました。
虫の音をどちらの脳で聴くかという実験で、
西洋人は虫の音を機械音や雑音と同様に音楽脳で処理するのに対し、
日本人は言語脳で受けとめている。

しかももっとすごいのは、日本人が外国語を母国語として育てられると西洋型となり、
外国人でも日本語を母国語として育つと日本人型になってしまう、というのである。
日本語の五十音が、脳に影響を及ぼすことがわかっているのです。
だから、五十音の日本語のことを「言霊」というのです。
意識していなくても、日本人は、自分で自分を癒すことができる。

友人のはなし。
若い時に、脳の手術をして医師から聞いた話です。
ひらがな、カタカナ、漢字とそれぞれ異なる言語中枢で、脳は、理解しているのだそうです。
ですから、それぞれの言葉には進化がみられます。
最初はカタカナ、次にひらがな、そして漢字。
原始の脳波?にカタカナを司る働きがあり、進化すると、ひらがなを司る脳が新たに追加されたとか。
そんな脳の仕組みになっていたりして。まあ、妄想。

また、これは他人を癒すこともできるのではないかなぁ。
良い言葉を発するだけで、相手は元気になる。
そのとーり。

音霊というのもありますが、
天気などの自然現象を、音によって変化させることができるというのは、
人間の体内が非常に天気と密室に繋がっているわけですね。
例えば、低気圧がくると調子が悪くなるというのもそれで。

病気などを音で治していたというのは、その音の振動は、
雲をつくり雨を降らせ、風を起す力をもっているわけで。
それは人の精神にも影響することなんです。

確かに、振動は素晴らしい無音=神の音ですね。
「気づき」というような。「ひらめき」とか。
きっと、その人にしか聞こえない振動が伝わっていると閃くのだ。
その「閃」の漢字が、まさに門に人だもの。

それを表現しているのが日本の伝統芸能である能なんですね。
能=脳だものね。

余談ですが、友達が、神のような存在がいる時、
ドーンというとても大きな音がするんだそうです。
誰かが床をドーンとたたいたか、何かが落ちたかみたいな音だそうです。
だから、雷というのですね。
空気と電気との摩擦で引き裂かれた音はすさまじいものです。
実家ではよく雷が落ちていたので、雷の音は恐怖でした。
近くに落ちると爆弾が落ちたような音ですが、それが雷=神鳴り。といった。

日光も落雷が多い所です。
だからあの場所に修験ができたのだな、と思います。
かなり前に日光へ行った時、夕立の雷がすごかった。

ということで、雨乞い儀式もほどほどに。。。
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