『たちばな』(高津図書館友の会誌)No.38(1973.3)pp.30-32
【p.30】
祖 父 悟 朗 を 思 う
祖父が逝った昭和二十年は私の生れる五年前だから、私は生前の祖父をしらない。しかし祖父のおもかげは、私にとって幼い時から夢寝にも忘れ得ぬ親しい、なつかしいイメージだった。
祖父は、殆ど名を成さなかった。バートランド・ラッセルの研究家、市井三郎氏は氏のラッセル訳書の解説中、祖父を日本では初めてラッセルを翻訳し、わが国に紹介した人物と称しているが、正しく一連のラッセルものが祖父の残した業績の中では、最も傑出した存在として認められるべきであろう。特に社会問題に関心を持っていた祖父は、社会思想の通俗的解説書を著したり、ルクセンブルグなどの理論家の本を訳述していた。そのため当時、特高が絶えず祖父の身辺にまとわりついていたと聞かされている。しかし私に関心があるのは祖父の思想や学識ではなく、むしろ祖父がどんな人柄の人物であったかである。私は祖父が天才的な閃きを持った人であったことを疑ったことはない。そして、この私の想像する祖父の天才は、丁度バルザックのある小説の主人公のように、一瞬目眩めくばかり輝いたかと思うと次ぎの瞬間に挫折し、絶望のドン底に落ち込んでしまう。そしてその絶望のドン底から最も美しい輝きを発するのであった。
ホフマンの「悪魔の美酒」を読んだ人なら、血ということを幾分信じるだろう。祖父もこのデーモニッシュな血の分け前に与っていたらしいのである。祖父の父は福島は板倉藩の槍の師範であり、豪傑でもあったが、後年酒が祟って発狂し、座敷牢で死んだのだそうな。あの青山半蔵の様に。彼に半蔵の苦悩を見出すことはできないにしても、私としてはそこになんらかの共通する精神的悲劇を夢想しないではいられないのである。
そうした宿命のためか、祖父は生前、自分の生い立ちについて他人に語ることを好まなかったらしいが、武士の子としての気概だけは終生堅持していたらしいのである。祖父の持って生れた志士的正義感や潔癖も、それと無縁ではあるまい。祖父の生家は父の死後、極貧の状態に陥り、そのため祖父は幼時、郷里のある寺に引き取られた。寺では小僧として厳格な教育を受けたが、しかしそこで宗教性の萌芽が祖父の心に植えつけられたか否かは甚だ疑問である。何となれば、祖父は晩年に至るまで反宗教者というよりはむしろ脱宗教者で、時にはニーチェなどに私淑して、キリスト教的奴隷道徳を罵倒することもあったからである。因みに祖父は特にニーチェが好きだったらしく、ニーチェの著書だけは一生読んでいた。晩年の単調な日記の中にも「終日ニーチェを読む」などという語句がよくでてくる。年老いた祖父が一体どのようにニーチェ【p.31】を読んでいたものか、私はそれを酷く知りたいと思う。
その後祖父は福島中学を卒業し、苦学して東洋大学に学んだ。そして大正から昭和初期にかけては祖父にとって一番良い時代だったらしい。雑誌『第三帝国』の仕事やラッセルものの翻訳、講演等。そのころ、祖父は理論家および評論家としてもやや認められ、経済的にも幾分安定していた。当時流行のインバネスを着てステッキをついた颯爽たる祖父の写真が今も残っている。
そのころの祖父の文章を読んで感じることは、祖父が鋭い批評的精神を持っていたことである。祖父はとくに、社会的矛盾や偽善的道徳への盲従を生一本の性質も手伝って強く反撃した。また時流に従い自我や個性を主張したとはいえ、それは祖父の魂の内部からの要求に基づくものであり、祖父自身の信念に立脚していたから、軽佻浮薄に陥ることは決してなかった。その証拠に、岩野泡鳴の半獣主義が祖父にとっていかに笑うべきものであったことか。元来、祖父は主義など信じられる人ではなかった。泡鳴との論争に見られるように人間性の救い難い矛盾を感じていた。そしてこの矛盾は当然人をして神へ、そして信仰へ向はしめるものである。しかし、祖父は晩年ある種の諦観に達したとはいえ、生涯ついに回心しなかった。なるほど、ニーチェによって宗教に対する誤った見解を持たされたかも知れない。しかしそれは弁明にならない。問題は人間性の矛盾という深い淵に臨みながら、自己を滅すことができなかったということである。私が祖父にいささか不満を感じるのは、この宗教性の欠如という点である。嗚呼、祖父のごとき賢き人にしてどうして信仰にまで進まなかったのであろうか。
「祖父とお酒」というテーマがここに関連してくる。祖父は極端に飲み、身体をこわし、それでもなお飲んだ。お酒を飲まない私でも、そうした自暴的飲酒の結果がどのようなものであるかということは想像するに難くない。ポーが愛妻を喪った時の泥酔はひどく、「どんなにしばしば飲み、どんなに多く飲んだか、神のみぞ知る」と言っている。これは象徴主義と共にフランスから日本へも伝ったデカダンのお酒である。マルメラードフは、自ら苦しむために飲んだのであり、これは宗教的お酒。しかし祖父のは東洋風な悲歌慷慨の君子のお酒であったように思われるのだ。祖父は家で飲む時はいつも殆ど徹夜で飲み明かし、天下国家を論じ、社会学、哲学、婦人問題に論及して家人を悩ませ、ことに祖母を困らせたそうである。祖父は自分が不遇なのは世の中が悪いせいだと思っていたらしい。実際官憲から多少の圧迫を受けていたことは事実だが。
もっとも祖父は晩年に至って、かなり宗教に近づきつつあったものと見ることができるであろう。それは人一倍波乱に富んだ人生を送った祖父の、やがてくるべき死を予感した静かな悟境の時代である。もちろん、大戦末期に、かつて幼少年時代を過した郷里の寺へ疎開したこともこの精神上の変化を助長する一因となっているだろう。祖父は、低い山の中腹にある寺から阿武隈川の流れる平坦地を見下せる庫裡の二階に独りいて、汽車が通るのを遙かに眺めては、涙を流していたそうである。その祖父の姿に、私は無限の親しみとなつかしさを感じる。祖父は自分が死んだら骨片を飛行機で空から寺の境内にバラ播いて欲しいなどと言っていたそうだが、祖父のお骨を安置してあった本堂がそ【p.32】の後火災にあい、まる焼けになってしまったので、祖父の望みは偶然にも叶えられたわけである。
最後に思うことだが、祖父の一生は、私どもの考えるほど、それほど不幸でもなかったのではないか。祖父には案外、ノン気な面も茶目気もあり、人なつっこい人で、また多くの人から愛され、それらの庇護も受けたのであった。ともかくもその生涯を通して、自分の好きな道を歩むことができた祖父は、見方によっては大いなる幸福者であったかもしれないのである。(筆者は松本悟朗氏の令孫、目下駒澤の仏教大学でインド哲学を専攻中。)
(*)本記事は、『インド論理学研究』創刊号掲載「松本史朗著作リスト」にある(357頁)、松本史朗教授が最初期に発表した祖父松本悟朗氏をめぐるエッセイの修訂版である。本誌創刊後、編集部に、同文に対する問い合わせが少なからずあり、掲載誌『たちばな』が今となっては簡単に閲覧参照できない点を顧慮して、編集サイドで松本氏に再録掲載の許可を求めたところ、「あれには、誤植・誤記・脱落があり、訂正したいと思っています」とのメールを頂戴した。編集部で作成した元テキストのワ−ドファイルを直ちに送付して、それに松本氏自身が修訂した結果出来たものである。唐突なお願いにご快諾いただいた松本史朗氏に心より感謝申し上げたい。松本史朗教授の愛読者と松本悟朗氏を哀惜するフアンには何よりの贈物となる筈である。総じて「誤記・誤植・脱落」の修正にとどまるものと考えられるが、参考までに元掲載誌の頁番号を編集サイドで埋め込んだ。掲載文になお不備があるとしたら、その責任は編集サイドにある。了とされたい。(K)
【p.30】
祖 父 悟 朗 を 思 う
松 本 史 朗
祖父が逝った昭和二十年は私の生れる五年前だから、私は生前の祖父をしらない。しかし祖父のおもかげは、私にとって幼い時から夢寝にも忘れ得ぬ親しい、なつかしいイメージだった。
祖父は、殆ど名を成さなかった。バートランド・ラッセルの研究家、市井三郎氏は氏のラッセル訳書の解説中、祖父を日本では初めてラッセルを翻訳し、わが国に紹介した人物と称しているが、正しく一連のラッセルものが祖父の残した業績の中では、最も傑出した存在として認められるべきであろう。特に社会問題に関心を持っていた祖父は、社会思想の通俗的解説書を著したり、ルクセンブルグなどの理論家の本を訳述していた。そのため当時、特高が絶えず祖父の身辺にまとわりついていたと聞かされている。しかし私に関心があるのは祖父の思想や学識ではなく、むしろ祖父がどんな人柄の人物であったかである。私は祖父が天才的な閃きを持った人であったことを疑ったことはない。そして、この私の想像する祖父の天才は、丁度バルザックのある小説の主人公のように、一瞬目眩めくばかり輝いたかと思うと次ぎの瞬間に挫折し、絶望のドン底に落ち込んでしまう。そしてその絶望のドン底から最も美しい輝きを発するのであった。
ホフマンの「悪魔の美酒」を読んだ人なら、血ということを幾分信じるだろう。祖父もこのデーモニッシュな血の分け前に与っていたらしいのである。祖父の父は福島は板倉藩の槍の師範であり、豪傑でもあったが、後年酒が祟って発狂し、座敷牢で死んだのだそうな。あの青山半蔵の様に。彼に半蔵の苦悩を見出すことはできないにしても、私としてはそこになんらかの共通する精神的悲劇を夢想しないではいられないのである。
そうした宿命のためか、祖父は生前、自分の生い立ちについて他人に語ることを好まなかったらしいが、武士の子としての気概だけは終生堅持していたらしいのである。祖父の持って生れた志士的正義感や潔癖も、それと無縁ではあるまい。祖父の生家は父の死後、極貧の状態に陥り、そのため祖父は幼時、郷里のある寺に引き取られた。寺では小僧として厳格な教育を受けたが、しかしそこで宗教性の萌芽が祖父の心に植えつけられたか否かは甚だ疑問である。何となれば、祖父は晩年に至るまで反宗教者というよりはむしろ脱宗教者で、時にはニーチェなどに私淑して、キリスト教的奴隷道徳を罵倒することもあったからである。因みに祖父は特にニーチェが好きだったらしく、ニーチェの著書だけは一生読んでいた。晩年の単調な日記の中にも「終日ニーチェを読む」などという語句がよくでてくる。年老いた祖父が一体どのようにニーチェ【p.31】を読んでいたものか、私はそれを酷く知りたいと思う。
その後祖父は福島中学を卒業し、苦学して東洋大学に学んだ。そして大正から昭和初期にかけては祖父にとって一番良い時代だったらしい。雑誌『第三帝国』の仕事やラッセルものの翻訳、講演等。そのころ、祖父は理論家および評論家としてもやや認められ、経済的にも幾分安定していた。当時流行のインバネスを着てステッキをついた颯爽たる祖父の写真が今も残っている。
そのころの祖父の文章を読んで感じることは、祖父が鋭い批評的精神を持っていたことである。祖父はとくに、社会的矛盾や偽善的道徳への盲従を生一本の性質も手伝って強く反撃した。また時流に従い自我や個性を主張したとはいえ、それは祖父の魂の内部からの要求に基づくものであり、祖父自身の信念に立脚していたから、軽佻浮薄に陥ることは決してなかった。その証拠に、岩野泡鳴の半獣主義が祖父にとっていかに笑うべきものであったことか。元来、祖父は主義など信じられる人ではなかった。泡鳴との論争に見られるように人間性の救い難い矛盾を感じていた。そしてこの矛盾は当然人をして神へ、そして信仰へ向はしめるものである。しかし、祖父は晩年ある種の諦観に達したとはいえ、生涯ついに回心しなかった。なるほど、ニーチェによって宗教に対する誤った見解を持たされたかも知れない。しかしそれは弁明にならない。問題は人間性の矛盾という深い淵に臨みながら、自己を滅すことができなかったということである。私が祖父にいささか不満を感じるのは、この宗教性の欠如という点である。嗚呼、祖父のごとき賢き人にしてどうして信仰にまで進まなかったのであろうか。
「祖父とお酒」というテーマがここに関連してくる。祖父は極端に飲み、身体をこわし、それでもなお飲んだ。お酒を飲まない私でも、そうした自暴的飲酒の結果がどのようなものであるかということは想像するに難くない。ポーが愛妻を喪った時の泥酔はひどく、「どんなにしばしば飲み、どんなに多く飲んだか、神のみぞ知る」と言っている。これは象徴主義と共にフランスから日本へも伝ったデカダンのお酒である。マルメラードフは、自ら苦しむために飲んだのであり、これは宗教的お酒。しかし祖父のは東洋風な悲歌慷慨の君子のお酒であったように思われるのだ。祖父は家で飲む時はいつも殆ど徹夜で飲み明かし、天下国家を論じ、社会学、哲学、婦人問題に論及して家人を悩ませ、ことに祖母を困らせたそうである。祖父は自分が不遇なのは世の中が悪いせいだと思っていたらしい。実際官憲から多少の圧迫を受けていたことは事実だが。
もっとも祖父は晩年に至って、かなり宗教に近づきつつあったものと見ることができるであろう。それは人一倍波乱に富んだ人生を送った祖父の、やがてくるべき死を予感した静かな悟境の時代である。もちろん、大戦末期に、かつて幼少年時代を過した郷里の寺へ疎開したこともこの精神上の変化を助長する一因となっているだろう。祖父は、低い山の中腹にある寺から阿武隈川の流れる平坦地を見下せる庫裡の二階に独りいて、汽車が通るのを遙かに眺めては、涙を流していたそうである。その祖父の姿に、私は無限の親しみとなつかしさを感じる。祖父は自分が死んだら骨片を飛行機で空から寺の境内にバラ播いて欲しいなどと言っていたそうだが、祖父のお骨を安置してあった本堂がそ【p.32】の後火災にあい、まる焼けになってしまったので、祖父の望みは偶然にも叶えられたわけである。
最後に思うことだが、祖父の一生は、私どもの考えるほど、それほど不幸でもなかったのではないか。祖父には案外、ノン気な面も茶目気もあり、人なつっこい人で、また多くの人から愛され、それらの庇護も受けたのであった。ともかくもその生涯を通して、自分の好きな道を歩むことができた祖父は、見方によっては大いなる幸福者であったかもしれないのである。(筆者は松本悟朗氏の令孫、目下駒澤の仏教大学でインド哲学を専攻中。)
(*)本記事は、『インド論理学研究』創刊号掲載「松本史朗著作リスト」にある(357頁)、松本史朗教授が最初期に発表した祖父松本悟朗氏をめぐるエッセイの修訂版である。本誌創刊後、編集部に、同文に対する問い合わせが少なからずあり、掲載誌『たちばな』が今となっては簡単に閲覧参照できない点を顧慮して、編集サイドで松本氏に再録掲載の許可を求めたところ、「あれには、誤植・誤記・脱落があり、訂正したいと思っています」とのメールを頂戴した。編集部で作成した元テキストのワ−ドファイルを直ちに送付して、それに松本氏自身が修訂した結果出来たものである。唐突なお願いにご快諾いただいた松本史朗氏に心より感謝申し上げたい。松本史朗教授の愛読者と松本悟朗氏を哀惜するフアンには何よりの贈物となる筈である。総じて「誤記・誤植・脱落」の修正にとどまるものと考えられるが、参考までに元掲載誌の頁番号を編集サイドで埋め込んだ。掲載文になお不備があるとしたら、その責任は編集サイドにある。了とされたい。(K)










