夢と希望と笑いと涙の英語塾

INDECという名の東京高田馬場にある英語塾で繰り広げられる笑いと涙の物語
新入会員募集中!

本当なのか、高倉健さんの意外な女優との交際

2014年11月28日 06時05分38秒 | 高倉健

高倉健さんに関するスポーツ新聞・週刊誌報道には一切目を通さない方針できました。真偽のほどがつかめないからです。しかし、ニュースソースとしての「高倉健」は格別。各紙・各誌、本当かどうかはわかりませんが、大胆な記事を書いているようです。「本木昌彦の深読み週刊誌」にまとめてあった『週刊新潮』『週刊文春』『週刊ポスト』の記事の内容を記録しておきましょう。

**********

本当の高倉健「処世術に長け人付き合いもすごく器用」健さん撮り続けた写真家が知る素顔
J-CAST テレビウォッチ 2014/11/27 15:00

    <「後輩の役者が挨拶に来ると、自身もすっと立ち上がり、一礼をする。まめに手紙を出す。サプライズ・プレゼントを贈る。私も母が亡くなった時、健さんから葬式に香典とお花を贈っていただきました。かように、健さんは気遣いの人なのです。ただ客観的に見れば、こうしたことからも、彼が処世術に長けた人だということが分かります。不器用どころか、実はすごく器用な方だったと評価できる。知人に数え切れないほどロレックスをプレゼントしており、確かに気前は良いのですが、値段の高いデパートなどでは買わず、輸入会社から直接仕入れていました。こういう細やかさ、周囲への気配り、まめなところは、剛健な俳優というより、柔らかさを持った女優的なものを感じます」>

   網走番外地シリーズ時代からスチール撮影で高倉健に密着し、公私ともに親交の深かった写真家のムトー清次氏は『週刊新潮』で高倉をこう分析している。

   今週は各誌グラビアを含めて健さん一色といってもいい。週刊誌には「おめでた1号悲しみ3号」という言葉がある。結婚などのおめでたい話は1週間しかもたないが、有名人の離婚や葬儀は3週間もつというのだ。

   健さんのプライバシーの多くはベールに包まれているが、少しずつ明らかになってきている。たとえば、江利チエミにぞっこんだった健さんは、ストーカーまがいのことをやっていたという。彼女の所属事務所社長だった木村隆氏が振り返る。

    <「生前のチエミから聞いた話ですが、大豪邸だった江利家の前の電柱に、夜な夜な身を隠すようにして立つ人影があったそうです。家人が気味悪がり、父親が誰何すると、『俳優の高倉健です』と答えた。しかし、空前の人気を誇ったチエミに比べ、当時の健さんはまだ無名。父親は『そんな俳優、知らん』と取り合わなかった」>

   それでも彼はチエミ詣でを続け、鉄格子の門からチエミのいる洋館のほうに向かって靴を投げ込み、自分の来訪を知らせたという。父親もここまで娘のことを思っているならと交際を許したそうだ。

東京・高輪の理髪店にあったチーム高倉の「執務室」

   健さんが東京にいるとき、世田谷・瀬田の自宅から毎日通ってくる「場所」があった。ボルシェやマセラッティなどこだわりの車コレクションの管理、ロケ同行、諸々の手配をこなす「チーム高倉」がそれだが、そこは港区・高輪の商業施設内にある理髪店なのだ。

    <「一見したところ、高級理髪店の雰囲気なのですが、隠し部屋がありまして。実はそこ、健さんの『執務室』になっているんですよ」(ベテラン芸能記者)>

   部屋の中央に散髪台が置いてあるほか、テレビやFAXなども完備していて、店主とコーヒーを飲みながら歓談して1日を過ごした。

   高倉健にはしばしば「ゲイ説」が流れたことがあったが、実際の彼は無類の女好きだったと、ベテラン映画記者が明かしている。<「古くは、東映ニューフェイスの2期生として入社した直後に同期の女優、丘さとみに手を出し、付き合っていた。江利と結婚していた当時も、女遊びは豪快でした。たとえば木曽でロケを行った際、1日時間が空くと、後輩たちを引き連れて、名古屋まで繰り出し、遊郭で遊ぶこともありました」

   倍賞千恵子とも男女の仲を疑われたことがあった。60代半ばに差し掛かった90年代後半、ある女性タレントに夢中になっていたという。長渕剛や広岡瞬と結婚、離婚を繰り返し、当時は独身だった女優で歌手の石野真子だ。(健さんてああいうのが趣味なのか?)。口説き方が凄い。北海道・札幌すすきのにある豪壮な寿司屋を丸ごと借り切り、二人きりで寿司をつまみながら語らい、彼女への熱い思いをぶつけ、その夜、彼女を口説き落としたそうだ。

   さらに、高倉健には80歳を超えてなお、親密に会食を楽しむ女性がいたという。この数年、自宅に近い高級イタリアン・レストランに40代の女性を伴って、お忍びで食事に来ている姿が何度も目撃されていたそうだ。

裏方も必ず名前で呼んだ撮影現場の気配り

   『週刊文春』によると、健さんが入院した病院は慶應大学病院のVIP病棟。健さんの知人がこう話す。<「健さんが本当に心を許していた人は、数少なかった。俳優では小林稔侍さん、中井貴一さん。それに、毎日のように通っていた理髪店の主人Sさんと、都内で飲食店を経営するJさんです」>

   とくに、中国から来日して苦労して事業を成功させたJさんを弟のように可愛がっていて、中国ロケの際も通訳として同行させた。闘病中もずっと一緒で、悪性リンパ種を患った健さんを連れて上海、北京に行き、高名な漢方医や鍼灸医、気功医に見てもらっていたそうだ。Jさんは自宅に大きな祭壇を作っていて、そこに健さんと親しかった人たちが訪れ、別れの挨拶をしているそうである。先日は長嶋茂雄も顔を見せたという。

   多くの人が健さんについての思い出を語っているが、『週刊ポスト』にあった「鉄道員」「ホタル」で助監督を務めた佐々部清さんの話を紹介しよう。

<「『鉄道員』の完成をお祝いした時でしょうか。撮影所の中で、降旗さん、高倉さんを真ん中に記念写真を撮ったんです。倉庫整理の人、美術、カメラ整備など東映を下支えして定年を迎えられたり、退職した人たちを含めて100人ほどが集合しました。

   何十年、ともに映画をつくってきた人たちです。みな、おじいちゃんです。高倉さんは全員の名前を憶えていました。昔から、『そこの照明』とか絶対いわない人でしたが、その時もみなさんの名前を呼んで、おじいちゃんたち泣いておられました。

   高倉さんはおっしゃった。『あと何年、自分は役者でいられるか。もうあと何本出られるかわからない。だから何を撮ったかではなく、なんのために撮ったかが大事なんです』と」>

   人一倍寂しがり屋で話し好きだった高倉健は、生涯「孤高の昭和の男」を演じ続けた。最後の映画俳優の死を心から悼む。高倉健も立川談志もいない人生なんて、寂しい。

**********

丘さとみさんは、1935年9月15日生まれの79歳。健さんの4歳、5学年下ということになります。東映時代劇のお姫様役が印象的ですが、健さんとは『宮本武蔵 二刀流開眼』(1963)、『宮本武蔵 一乗寺の決斗』(1964)、『宮本武蔵 巌流島の決斗』(1965)で共演しています(なお、そのとき健さんはすでに江利チエミさんと結婚しています)。

石野真子さんというのは、強烈なボディブロウでした。ただし、石野さんとは『居酒屋兆治』(1983)で共演していますから、接点がないことはないわけです。ちなみに、石野さんの役は大滝秀治さんの後妻役でした。

秘密主義を通した健さんですから、慶応病院のVIP棟にいたのだろうと思います。ここは、受付に行っても、入院しているかどうかもまったく教えてくれないところです。一度知人のお見舞いに行って、門前払いになった痛い思い出があります。

それにしても、最後まで健さんがもてていたというのを聞いて、ファンとしてはうれしくなりました。クリント・イーストウッドもそうですが、このくらい元気でないと映画スターではありません。合掌。


コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 充実の中村芝雀丈、『伊賀越... | トップ | アメリカの成人喫煙率が、17.... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
天川貴之 (カメラマンの想い)
2016-11-17 05:10:46
マイケルジョン,フォックスの監督とか、福山雅治の監督とか、も、私の写真撮っていた。早稲田卒のデザイナーも写真撮っていた、一つ一つの写真に込められた、思ひがおもわれる、のだ。

コメントを投稿

高倉健」カテゴリの最新記事