因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団民藝公演『送り火』

2017-04-14 | 舞台

*ナガイヒデミ作 兒玉庸策演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA 24日まで1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25,26,27
 
今回民藝初登場のナガイヒデミは京都在住の劇作家で、幼少から青春時代を愛媛県今治市郊外の農村で過ごした。演出の兒玉も同じ愛媛県の中島の出身とのこと。郷里を同じくする作り手の思いの込った舞台である。休憩なしの1時間45分だが、ゆったりとした劇空間に身を浸すことができたせいであろう、いい意味で長く感じられた。

 公演パンフレットには、ナガイヒデミのインタヴューや、ナガイが劇作家を目指して研鑽を積んだ伊丹想流私塾で講師をつとめた劇団太陽族の劇作家・演出家の岩崎正裕から、ナガイの作品が民藝で上演されることを心から祝福する寄稿もあり、劇作家がひとつの作品を生み出すことと同時に、それをかたちにする劇団との出会いがいかに貴重であるかがわかる。

 家族が皆亡くなり、ひとりになった老女吉沢照(よしざわてる/日色ともゑ)が、家を仕舞い、ケアハウスへの入居を明日に控えた夕刻から夜半にかけて、家を訪れる本家の嫁、幼なじみ、かつて照と心を寄せあったその夫がつぎつぎに訪れ、語り合う。その会話のなかで、召集令状が来たのに出奔した照の兄のために、家族がどれだけ不遇をかこつことになったか、親戚も迷惑を被ったと照たちに冷たく、照は結婚を諦め、独り身で家を守り通したことなどが明かされてゆく。

 なぜ兄は失踪したのか。これが本作の核であり、観客を物語に引き込み、進めていく。

 幽霊を登場させることについて少し考えてみる。『ハムレット』の父の亡霊の登場は、ハムレットに仇討ちを決意させ、その後の行動に多大な影響を与える役割があり、その存在は必然である。現実には起こらないことでも、舞台(あるいは映像)ならできることはいろいろあって、幽霊を登場させるのもそのひとつであろう。しかしながら、劇中に幽霊を出していろいろ語らせるのは奥の手、というより、一種の禁じ手ではないだろうか。たとえ幽霊でも構わない、夢の中でもいいから、亡くなった家族に会いたいと願うのは、自然な気持ちだろう。ただそれを映像や舞台などでで表現する場合、現実の部分とどうつなげるか、どのように収めるかは難しい。

 思い出すのはNHK朝の連続テレビ小説『とと姉ちゃん』と『べっぴんさん』だ。ドラマ終盤に早世した父、もしくは両親が主人公の夢に現れ、それまでの娘の労をねぎらい、悩める彼女に適切な助言を与える。大変美しく、視聴者の涙をそそる場面で、主人公が救われることは喜ばしい。しかしながら、「それができれば簡単ではないか」と思うのである。

 『送り火』の兄(塩田泰久)は照の手料理を喜び、さまざまなことを語る。塩田の口調はややゆっくりだが、とても丁寧で慈愛に満ちており、妹への愛情、後ろめたさや悲しみが伝わってくる。照は若いときのままの兄を前にして、子ども時代に戻ったかのようにはしゃいだり甘えたりする。その様子がとても可愛らしい。とくに日色の声の魅力。子どもの声を出しても「作っている」感じがなく、自然に聞かせるのである。その一方で、手厳しい本家の嫁にひたすら低姿勢で従うとき、幼なじみと宮沢賢治の「風の又三郎」の劇の台詞を諳んじるとき、認知症を患っていることの恐怖をつぶやくとき、単に声の強弱、高低、大小ではない微妙な色合いの変化が素晴らしいのである。

 それだけに、物語の終わり方にはもの足りない思いが残った。兄との語らいが、照のなかでどう結実したのか。長年の謎が解けたとは言え、そのために照が味わった苦労や悲しみは計り知れない。結論を示してほしいわけではなく、ナガイヒデミの書く物語をもっと知りたいのである。

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