因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団劇作家「劇読み!vol.1」より『円山町幻花』

2007-06-13 | 舞台
*三井快作・演出 新宿Miracle 公演は3日で終了 公式サイトはこちら
 劇団劇作家の旗揚げ公演の最終演目。この作品だけ、作者自身の演出により行われた。

 リーディング公演においてト書きを読む演出を初めてみたのは、2004年3月公演の『雌鶏の中のナイフ』(デイヴィッド・ハロワー作  谷岡健彦訳 宮沢章夫演出 シアタートラム)だったように記憶する。ト書きを読む俳優は、登場人物と同じように舞台にあって唯一演技をしない、不思議な存在だった。忘れられないのは、ト書きが読まれることによって、どきっとする場面があったことだ。これが実際の上演ではト書きは読まれないのだから、ここまでの劇的効果をあげるのは難しいのでは?と思うほどであった。「馬小屋の中から女の笑い声が聞こえる」。このひと言だけなのに。

 今回の『円山町幻花』では、舞台下手に電気スタンドの置かれた小さな机があり、そこに「語り」として俳優が位置し、ト書きを読む手法が取られた。俳優は全員台本を持ち、多少の動きはあるが基本的に椅子に掛けて読む。ト書きが読まれるので、舞台や人物の様子もよくわかる。ところが中盤からト書きがまったく読まれなくなる。人物が壊れた椅子を直したり、段ボールを組み立てて家を作ったり、それを壊したりという場面で、俳優は手に台本をもったままそれらの動作を行うのである。俳優が動くのでト書きを読む必要がないのか、椅子に掛けたままでは非常に読みにくい場面であるからなのか。最後は再びト書きを読む方法に戻ったのではあるが、やや中途半端な印象は否めなかった。

 いや待てよ。考えてみるとリーディング公演そのものが、ある意味で中途半端なものではないのか。本読み段階の稽古や試演会ならまだしもリーディング公演である場合、前述のト書きの扱いはじめ本式の上演よりも、ひょっとすると演出家のエゴ(きつい表現であるが)が出やすい可能性もある。結果、観客にしてみると、戯曲を味わいたくて行ったところが、「演出家のお手並み拝見」状態になり、妙に居心地の悪い思いをすることになるのである。大胆で新鮮な手法に出会えることは嬉しいが、それはあくまで戯曲の魅力を観客に伝えるものであってほしい。

 本式の上演ではなく、どうして戯曲を読むことを敢えて観客にみせようとするのか。戯曲の何を伝えたいのか、そして観客は何を求めて劇場を訪れるのかを、もう一度考えてみたい。

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