因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

シアタートラム『管理人』

2017-11-29 | 舞台

*ハロルド・ピンター作 徐賀世子翻訳 森新太郎演出 公式サイトはこちら シアタートラム 12月17日まで 12月26,27日 兵庫県立芸術文化センター阪急中ホール
 2017年最後の月にピンターの『管理人』である。劇場に入るや、舞台のあまりの汚さに圧倒される。ベッドが2台、暖炉、椅子、トランク、そして崩れ落ちんばかりに積み上げられた古紙(新聞紙か)の山、あとは何が何か判別できないほどのがらくたの山なのである。天井も破れかけて、雨漏り用のバケツが吊り下げられている。床は八百屋になっているのだろう、舞台手前から次第に狭く見える作りになっており、ますます閉塞感が募る(香坂奈奈・舞台美術)。森新太郎のピンターは、開幕前から大変な気合いで観客へ戦いを挑むかのよう。

 出演者の意気込みも並々ならぬものがあるのだろう。劇場サイトのインタヴュー動画や、情報サイト、せたがやアーツプレス掲載のインタヴューにおいても熱く語っている。そして自分はまたぞろ喜志哲雄著『劇作家ハロルド・ピンター』を開くのであった。

 気になったのは、若い出演者が本作を「不条理劇」だと言っている点である。さまざまな演劇に接し、人間の現実との虚実、舞台において、何がリアルであるのかなどを考えたうえで、「やはりピンターは不条理劇だ」と着地したのならよいのだが、自分がかつてそうであったように、「ピンターは不条理劇」というあまりに大雑把なくくり、難解であること、これまで見てきた既成の演劇と同じような受け止め方がしにくいことをひとまず「不条理」とまとめてあることを、「そういうものなのだ」と思っているのであれば、とても残念なことではないか。

 自分が喜志哲雄本に頼りすぎていると思ったこともある。一読してすっきり頭に入る論ばかりではない。何度読み返しても、自分が観劇したとき、あるいは戯曲を読んだときの感覚と考え合わせるのに非常に苦心するときもある。これはこれでひとつの考え方であり、「ピンターは不条理劇」であることを、きちんと読み解く思想があれば、それを知ったうえで自分の捉え方を考えるべきであろう。

 なのでピンター劇に出演する幸運を得た俳優さんには、ノーベル賞受賞作家であるとか、不条理劇という既成概念にとらわれず、「不条理とされている劇世界の条理」に向かって正面からぶつかり、とにかく誠実に挑戦してほしいと思う。出演者の1人は、「(不条理劇は)理解しにくく、回収されないまま進んでいく。そういうものだからこそリアリティがある。世の中には不条理なことはいっぱいある。だからこそ舞台でも回収されずに考えさせるものがあってもいいというのが不条理劇だと思う」とも語っており、観劇前の期待がいよいよ高まったのである。

 休憩なしおよそ2時間10分の『管理人』は、前述の舞台美術はじめ繊細で緻密な音響や照明、出演者の健闘もあり、手ごたえのある舞台であった。ただ人物の造形として、別の方法もあったのではないかと思われるところもある。兄のアストンは歩幅の狭い小走りの奇妙な歩き方をする。なので登場してすぐの段階で、彼がいささか心を病んでいるらしきことが示される。一方で弟のミックは自信満々に振る舞い、言葉も行動も暴力的である。この人物の声の大きさ、台詞の勢い、速さはこれが適切なのだろうか。

 兄は偶然入った食堂で、馘になったデーヴィスをうちに招き、この家の管理人にならないかという。優しい兄に対して、弟は前述のようにデーヴィスを激しく攻め立てる。しかし彼もまたデーヴィスに管理人の仕事を持ちかける。兄弟が舞台に揃う場面は非常に少なく、彼らの言動はちぐはぐである。デーヴィスは兄弟に翻弄されつつ、次第に図太くなっていく。この3人の力関係の変容を見せるには、今回とは違う演技も「あり」ではないだろうか。兄は弟をどう思っているのか、彼らはほんとうのところはどうしたいのか。デーヴィスは「シッドカップへ行けば」と言いながらアクションを起こさない。彼はどこへ着地しようとしているのか。
 これらの答がほしいのではなく、彼らの心象、背景などを想像すること、ひとつの台詞の裏側の意味や、(間)が及ぼすものをもっと考え、迷いたいのである。

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