因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

文学座4月アトリエの会 『野鴨』

2016-04-29 | 舞台

*ヘンリック・イプセン作 原千代海翻訳 稲葉賀恵演出 公式サイトはこちら 信濃町/文学座アトリエ 30日で終了
 来年創立80周年を迎える文学座において、1940年、試演期間を経て"公演"と称す る1本目の演目が近代演劇の確立者と言われるイプセンの『野鴨』だったというから、原点回帰とも言える演目であり、古いものを古いままではなく、新鮮な舞台として現在の観客に届ける企画であると考える。『野鴨』といえば、2007年晩秋のタニノクロウの舞台の印象が強いことや、「3時間越えの長尺」との情報にいささか怖気づいたが、舞台の緊張を客席が受けとめ、弛緩するところは遠慮せずのびのびと味わうことができた。もっとも小さく弱いものが大人たちが作ってしまった重荷を背負い、みずから未来を断つ悲惨な物語であるのにもかかわらず、終演後のアトリエ周辺には明るく高揚感に満ちた観客の笑顔が多く見られた。
 
 客席が演技エリアを「く」の字のかたちに挟み込むような作り。床のまんなかが四角く切り取られ、水が湛えられている。あるときは天井から水が滴り、あるときは水が溢れて床に流れ出す。ずっと室内で進行する物語だが、撃たれた野鴨が水底に沈む逸話を象徴するものであろう。

 かんたんに言えば、ある夫婦にまつわる過去の秘密が暴かれ、家庭が崩壊する話なのだが、登場人物の多くが一筋縄ではいかない性質の持ち主で、演じる方としても大変であろうし、見る方も骨が折れる。自分にはその筆頭がグレーゲルス(中村彰男)だ。ヤルマール(清水明彦)の学生時代からの親友だというが、彼がヤルマールの家庭に手出し口出しをしたばかりに夫婦にも親子にも亀裂が生じる。彼はなぜここまで執拗に過去の事実を白日のもとに晒そうとするのか。ヤルマールのために「真の結婚生活の基礎を築いてやりたい」などと言っているが、不実な夫に悩まされて不幸な死を遂げた自分の母への愛と憐憫、愛する母をそのような目にあわせた父への復讐でもある。いわばヤルマール一家はグレーゲルスの父への代理戦争の犠牲にされたのではないか。
 ヤルマールの妻ギーナ(名越志保)は、グレーゲルスを「頭がおかしい」と言い、レリング医師(大原康裕)も彼を「正義病」だと言い放つ。

 グレーゲルスの造形は非常にむずかしい。父親である豪商ヴェルレ(坂口芳貞)に比べれば、社会的野心や征服欲もなく、堅実で良識ある男性である。真実を自分だけの心にしまっておくというのならまだわかるが、彼はそれを当事者であるヤルマールに知らせようとする。今回のグレーゲルス役・中村彰男はそうとうに考え、試行錯誤ののちの演技であると想像する。物語が進むにつれて彼は猫背になり、声が上ずり、奇天烈な笑い声をあげる。これをどう受けとめるか、賛否は分かれるであろう。

 ヤルマールの妻ギーナもむずかしい役どころだ。圧巻は、ひとり娘のヘドヴィクがほんとうは誰の子かと夫から問い詰められる場面。床穴の水に当たる光が顔に反射してゆらめくなかで、ギーナは「知りませんよ」と言う。YesでもNoでもない。むろんこの台詞を、「そんな昔のこと、今さら知ったことじゃありませんよ」風のニュアンスで発することもできる。しかしギーナを演じた名越志保は、この台詞に関してどのような演出がつけられたのか、自分がどう言いたいと思ったのか、まったく想像できない言い方をした。ほかの俳優が同じように発することはできないであろう。名越は和物のイメージが強い。昨年劇団文化座+劇団東演の共同企画の『廃墟』のせい子役は俳優として堅実な歩みを示すものだ。たしかに夫を「あんた」と呼ぶときなど、世話物のように聞こえなくもないが、逆に翻訳劇が持つぎくしゃく感を自然に消す効果も上げている。

 さて今回注目すべきは、ヤルマールとギーナのひとり娘ヘドヴィク役に抜擢された内堀律子である。もとサッカー選手としてなでしこリーグで活躍していたという珍しい経歴の持ち主だ。ヘドヴィクは14歳という設定である。たとえば子役を配することもできるが、文学座は内堀に白羽の矢を立てた。実年齢よりも若い役、それも明らかに子どもを演じる場合、華奢で小柄な、声の高い俳優を配したり、いかにも子ども子どもした造形にする方法がある。
 内堀はがっしりとは言わないまでも、じゅうぶんに大人のからだつきであるし、女性にしては低く、太い声である。その声のまま、14歳のヘドヴィクを素直に演じているところが非常に好ましかった。もじゃもじゃのショートヘアに縁の太い眼鏡がよく似合っており、若づくりならぬ「子どもづくり」的な造形から解放された、のびのびとした演技であった。タニノクロウ演出の舞台でこの役を演じた鎌田沙由美は、当時10代なかばくらいであったのではなかろうか。少女が少女のまま、自然に舞台に存在していた印象がとても儚げだっただけに、今回この役にどのような方向性を持たせるのか、大いに興味があったのだが、内堀律子の起用はこの役に対して、さらに子どもの演技に対する自分の既成概念を気持ちよく払しょくしてくれたと言えよう。ふと内堀がジュール・ルナールの『にんじん』の主人公にんじんを演じるところを想像し、とても楽しい気持ちになった。

 演劇はひとりでは作れない。多くの人々が、それぞれの持ち場で力と愛情を注ぎ、さrさに本番において観客が存在することで完成する。手間がかかり、非経済、非効率的である。しかしそこに演劇の魅力があり、希望がある。文学座の『野鴨』は、大いなる希望を与えてくれた。強い風の吹き荒れる春の夕暮れ、幸せな心持ちであった。

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