因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

板橋ビューネ2017参加 サイマル演劇団 イヨネスコ作『授業』

2017-10-19 | 舞台

・ウジェーヌ・イヨネスコ作 赤井康弘演出 板橋ビューネ2017サイトはこちら 板橋サブテレニアン 22日まで(1
 昨年サブテレニアンにて、ちがう劇団による『授業』を観劇し(1,2)、同じ劇場で3度めの本作となった。因幡屋の『授業』歴については、1に書いております。サイマル演劇団の『授業』は、2012年に神楽坂ディプラッツで初演ののち、今年5月、韓国の礼山で行われた「礼唐国際演劇祭」で再演、今回が凱旋公演となる。

 演出によって、座組によって、さまざまに変化しうる柔軟性と、相当な荒技力技をもってしても、戯曲の核が壊れない堅固な構造を持っていることとは矛盾しない。両立するのだということを改めて実感する。

 今回の『授業』は客入れから時計の振り子の音がずっと鳴らされている。やや耳に障るほどの音量である。場内が暗くなり、開演の導入で流れてくるのは、きゃりーぱみゅぱみゅの「CANDY CANDY」。なぜこの曲なのかはわからないが、見る者の気持ちを弾ませることは確かで、明転すると、女生徒(岩澤繭)は既に部屋の中央にすっくと立っている。金髪のショートボブにふっくらした頬、黒い瞳は生き生きと光り、白い半袖のブラウス、ミニのフレアスカートから伸びた腕や足にも若さが漲る。上手奥の車椅子に座って登場する教授(山本啓介)は顔を白塗り(といっても歌舞伎の化粧ほどではない)にしている。女中(葉月結子)は、何か巻いているのか、下半身が異様に大きい。音楽はいつのまにかパッヘルベルの「カノン」の美しい調べに替わっており、そのあいだも時計の振り子は鳴りつづけている。

 渋谷ジャンジャンで見た、中村伸郎直伝(という認識でよいと思うが)の『授業』における中山仁の教授と中村まり子の女生徒や、アドリブを多発しながらも、戯曲の構造を変えない東京乾電池の柄本明の舞台とは、明らかに異なる空気だ。教授は異様にテンション高く台詞を発し、女中は前述のような衣裳で、腰を落とした姿勢をとり、能役者のような摺り足で、女生徒と教授がやりあう周辺をゆっくりと歩き、声も非常に大きい。女生徒が唯一日常的なものを持ち込んでくる存在なのであるが、彼女もまた舞踊のような動きを見せて、舞台の緊張感を否応なく高めている。

 さらに大きな特徴は、冒頭とラストシーンに棺おけに釘を打つ音をさせなかったところだ。この趣向については、自分の中で躊躇と受容の異なる感覚が湧いてきて、それが今回の観劇の収穫となった。

 冒頭では、導入の仕掛けとして「この音は何だろう」と観客に疑問を抱かせる。そして終幕、殺してしまった女生徒を教授と女中が抱えて奥へ運ぶ。そこに聞こえてくる、同じあの音。そうだったのか!途中の段階で、訪れる女生徒を教授が次々に殺していることは徐々に示されており、観客にとってもわかりやすい流れではある。しかしはじめての観劇なら、「あの音は!」と衝撃を受けるに多大な効果があり、『授業』リピーターであっても、「あの音」を聞く終幕に向かって気持ちを高めていけるのである。

 サイマル演劇団の『授業』から聞こえてくるのは、声にならない死者たちの声であろうか。時計の振り子の音は、棺おけを叩く音に代わる効果音かとも思ったが、演出の赤井が当日リーフレットに「循環性をモチーフとした作品」と記しているように、飽くことなく繰り返されている殺人、もしかすると教授と女中の二人だけの行為ではなく、世界のどこかで絶え間なく行われている夥しい殺人行為(戦争、内紛を含めて)を示すものであるとも考えた。

 女中は前述のような動きをしながら、腰に巻いたものを少しずつ外して床に落とす。それは夥しい量の女の子の服であった。棺おけを見せず(感じさせず)、ブラウスやセーターなどで、死者の存在、生きていたときの少女たちの体温や、叫び声までもが迫ってくるよう。
 
不意に想起されたのは、ユダヤ人絶滅収容所に残された大量の服や髪の毛である。『授業』終盤では、女生徒の金髪は吹っ飛び、ブラウスを脱がされる。もしかすると彼女は棺おけにも入れられず、服を剥ぎとられ、髪の毛も切られてそのまま埋められたり、焼かれたりするのではないか。町なかのアパートメントの一室で行われている殺人が、空前絶後の大量殺戮のひとつの風景として描かれているようにも思われた。

  緩みの一切ない演出で、舞台の空気は終始張りつめている。しかし思いのほか爽快感があり、その理由は、冒頭とカーテンコールで流れた歌のせいであろうか。きゃりーぱみゅぱみゅの「CANDY CANDY」。軽く可愛らしく、まさにポップな曲である。だからといって、劇の雰囲気が壊れたり、別ものにならなかったのはなぜだろうか。

 わたしが『授業』を見る楽しみのひとつは、目の前の舞台から、あの昭和の名優・中村伸郎の教授を想像することである。これまで見た『授業』のどれとも違い、けれどどこかに匂わせるもの、通じるものがあるのではないか。こうして心のなかの『授業』はどんどん変容していく。幸せなことである。

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