ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2017.12.19 言葉は蓄積する~悲嘆の門

2017-12-19 21:34:21 | 読書
 久しぶりに宮部みゆきさんの作品を読んだ。「悲嘆の門」(上・中・下)(新潮文庫)。
 合計1,100頁、これほどの長篇、そして物語らしい物語を息もつかさずに読ませて頂いたのはとても久しぶりだ。そして、私の心に残った言葉が今日の表題の「言葉は蓄積する」という主人公の上司の言葉だ。
 “書き込んだ言葉は、どんな些細な片言隻句でさえ、発信されると同時に、その人の内部にも残る。つまり<蓄積する>。言葉は消えない。溜まっていく。その重みはいつかその発信者自身を変えてゆく。
 「英雄の書」(上・下)(新潮文庫)と対を成す物語だというけれど、こちらは未読だ。それでも十二分に楽しむことが出来た。
 
 帯には上巻に「切断魔による猟奇殺人 全国で見つかる身体を切り取られた死体。そして、新宿のビルの屋上から会仏像が消えた・・・。あなたに会いに来たのよ 少女は問うー」というおどろおどろしい文字が躍る。そして中巻には「第五の事件、怪物の降臨。 幸太郎の前に現れた謎の美少女と、クマーを襲う悲劇。慟哭と悔恨を経て、青年の胸に決意が宿る。おまえは後悔する “物語”は終焉へー」と、下巻では「犯人を生んだ悪の物語。連続殺人を追う元刑事・都築と幸太郎。だが、憎悪の連鎖は身近な少女に迫っていた。」と。
 
 裏表紙にあるサマリーをかいつまんでご紹介すると、“主人公はインターネット上に溢れる情報の中で、法に抵触するもの、犯罪に結びつくものを監視、調査するサイバー・パトロール会社「クマー」でアルバイトをする大学一年生、三島幸太郎。
 全国で起きる不可解な殺人事件の監視チームに入ることになるが、その矢先、同僚の大学生が行方不明になる。失踪した同僚を探す中、西新宿のビルで元刑事・都築に出会う。2人を待ち受ける“怪物”と呼ぶべき存在、謎の美少女ユーリとの遭遇。
 主人公が尊敬し、あこがれる社長を悲劇が襲う。悪意による言葉(物語)が拡散し、汚濁に満ちた闇が日常へと迫る中、正義と復讐に燃えた主人公は、ある決断を下す。お前は後悔するーという守護戦士の度重なる忠告に耳を貸さず、連続切断魔の特定に奔走する。
 なぜ、惨劇は起き、どうして憎しみは消えないのか。犯人と関わる中で、主人公の心もまた、蝕まれていく。一方、主人公の妹の友人の周囲で積み重なった負の感情が、新たな事件を引き起こす。都築やユーリの制止を振り切り、主人公が辿り着いた場所<悲嘆の門>が、いま開く”。

 ジャーナリストの武田徹さんが解説を書いておられるが、“ネットに一度書き込んだことは、たとえ本人が削除したところで消えることはない。期待や妄想や情念、一時の感情に駆られて書き捨てられた暴言や誹謗中傷がネット上には蓄積される。”―まさにそうなのである。
 物語の中で「言葉という精霊(すだま)」という言葉があるが、「言葉がなかったら、誰も物語を語れない」一方で、「言葉の始原についての語りは、物語である」はあまりに正しい。言葉を使う動物である私たち人間は常に「物語」の中にいる。

 日々、私たちが言葉にして想うこと、それが善であれ悪であれ、全て自分を形作っている。見る人が見れば自分の器である外観とは違う黒い大きな巨人の影が見えていたら・・・。そう考えると、その恐ろしさに息を飲む。
 ネット上で、匿名だから何を書いてもいい、誰かを傷つけるのはハンドルネームのネット上の自分で、本当の自分とは無関係。そんなことはあり得ない。

 “『悲嘆の門』の正しい読書法のひとつは、決定できない目眩のような感覚を存分に味わい、楽しむことだと思う。その経験は、フェイクニュースや日々ネット上に吐き出される暴言の類までも生み出しながら、「物語」を盛んに更新し続けているネット社会のリアリティを知り、自らもその被害者にならずに生きるために必要な「物語」に対する適度の距離感や、「物語」への免疫力を身につける機械にもなるのではないか」という武田さんの解説の言葉の重み-こうしてブログという発信をしている者の一人としてそのことを感じざるを得ない。

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2 コメント

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私も読んでます (リリー)
2017-12-28 13:40:14
悲嘆の門、今中巻を読了しました。
はらはら、ドキドキの中、言葉のマジックにも感嘆。
本当に素敵な言葉がちりばめられていますね。
大学の<スピリチュアルケアと芸術>という授業を聴講しているのですが、若松英輔さんが講師だった講義の中で<悲しみは愛の重さだけ大きい>ということをおっしゃったのですが、素敵だなと思いました。 悲しい時、その人をどれだけ自分は愛していたのかを知るのがしれませんね。お友達の訃報の記事を拝読して、ふとそんな言葉を思い出しました。 
ヨガ講師なさるとか。残念ながら受講できないのですが、またチャンスあればぜひ。 久しぶりにお会いしたいし。 あわただしい年の暮れ、風邪ひかないようにね!
お久しぶりです (ロッキングチェア)
2017-12-28 21:23:59
リリーさん、こんばんは。
お久しぶりです。

悲嘆の門、お読みになっているのですね。面白いですよね。あのボリュームにビクともせず、息もつかずに一気読みをしたのは久しぶりでした。
そして悲しみは愛の重さだけ大きい・・・というお言葉、そうなのですね。
今も彼女のことを思い出してはいろいろ話しかけています。
“言葉”とは素晴らしいものですが、諸刃の剣でもあります。だからこそ言葉を間違って使わないように、日々心して過ごさねば、と思います。一度発してしまった言葉はやはり取り返せないですから。(今日の記事にも書きましたけれど・・・)

さて、ヨガ講師の件、3月以降も体調と相談しながら(リクエストがあれば・・・、ですが)続けさせて頂きたいなと思っています。励みがあるので頑張れるのですね。まだまだめげてはいられません。しぶといのがウリですからね(笑)。

リリーさんとお目にかかってからもう随分経ってしまいました。
来年はお目にかかれるといいですね。
リリーさんもどうぞお身体ご自愛の上、良いお年をお迎えください。

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