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飛鳥寺 蘇我馬子 法興寺 百済 三宝興隆の詔 慧慈 慧総

2017-07-27 05:27:06 | 評論
古代史探訪 飛鳥寺建立の真実
 588年(崇峻元年)、飛鳥寺の建立が始まる。国内では初の本格的な寺院である。物部守屋を討伐した翌年である。
 真神原にあった飛鳥衣縫樹葉の家が解体され、寺院建立の整地作業が始まる。
真神とはオオカミの意、神の使いとして畏怖されるオオカミが群生する神聖な地が伽藍造営の地に選ばれた。

 同じ年、百済は僧恵総、令斤等を遣わし、仏舎利を献上した。朝貢物を進上するとともに、僧6人、寺工(てらたくみ)(寺院建設技術者)2人、鑪盤博士(ろばんはかせ 塔の鑪盤や相輪造営する工人)1人、瓦博士3人、画工(えかき)(仏画、仏具の制作者)1人を派遣した。
 百済は、すでに577年(敏達7年)、経論、律師、禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工の6人を進上している。
 飛鳥寺造営工事の技術者は整った。

 蘇我馬子は、善信尼を、帰国する百済の使者、恩率首信らに託し、仏法の修行に渡来させた。善信尼は、まだ当時15歳だった。
隋や唐への遣隋僧・遣唐僧に先立つもので、海外で仏法を修行した最初の僧である。百済で十戒、六法、具足戒を受けた。 591年、2年間の留学を終えて帰国し、蘇我馬子が提供した大和国桜井寺(現在の明日香村・豊浦?)に住み、大伴狭手彦(おおとものさでひこ)の娘・善徳(ぜんとく)をはじめ多くの女性を得度、出家させ、仏法興隆に貢献したといわれる。

 590年(崇峻3年)、飛鳥寺の造営工事が始まった。この年、「杣取り(そまどり)」(杣山 木材を切り出す山 杣取り 杣木を伐採すること。また、造材すること)が始まり、ヒノキの大木が切り出された。

 592年(崇峻5年)、「杣取り」から2年後、仏堂(金堂)と歩廊を起工した。
 この年、崇峻天皇が暗殺される。

 593年(推古元年)、「刹柱」を建て、「仏舎利」を心礎に納める儀式が執り行われた。儀式の際、蘇我馬子は、頭髪は僧形にして、「百済服」を着ていた。(元興寺縁起)

 この時代寺院建築の手順は、仏舎利を柱頭に納めた刹柱塔を建て、寺院造営を天に告げる。そして仏舎利を心礎に納めた層塔を造り、地に向かい寺院建立を告げ、金堂や回廊を備えた伽藍を造営する。
刹柱塔の用材は、層塔の心柱に利用される。
この年、推古天皇が即位、厩戸皇子が「太子」となり「摂政」を任じられる。

 594年(推古2年)、「三宝興隆の詔」を出す。諸群臣は、競って仏舎(寺)を造営した。「三宝」とは、「仏・法(経典)・僧」のことである。

 595年(推古4年)、高句麗から、慧慈が渡来し、厩戸皇子の「師」とする。
同じ年、慧総が、百済から渡来する。

 596年(推古4年)、「層塔」が完成し、「中金堂、西金堂、東金堂、塔、講堂、中門、回廊」からなる伽藍が完成する。
飛鳥寺「造り意(おわる)」(日本書紀)と記されている。
蘇我馬子の子、善徳が「寺司」に任じられ、慧慈、慧聡の二人の僧は、飛鳥寺の「住持」に就いた。慧慈は、厩戸皇子の師になるために渡来したのではなく、飛鳥寺の「住持」就くことがが目的だったのであろう。

 598年、厩戸皇子、斑鳩の地に刹柱が建て、斑鳩寺の建立開始。

 605年(推古14年)、丈六釈迦如来像の造立を発願する。
高句麗の大興王は、仏像の鍍金用の黄金300両を倭国に贈った。(日本書記)高句麗僧、慧慈が本国に情報を伝えたのだろう。高句麗の倭国接近戦略である。

 606年(推古14年)、鞍作止利が銅像と繍像の丈六仏が完成、「金堂」に安置する。「金堂」は、遅くともこの頃までに完成したと考えられる。

 610年(推古18年)、高句麗の僧、曇徴・法定が来朝。

 飛鳥寺の伽藍の配置様式は、塔の周りに三金堂(中金堂、西金堂、東金堂)を配置する一塔三金堂方式で、回廊で囲まれている。この様式は、高句麗の清岩里廃寺(平壌市)に類例があるとされてきた。
これにたいして一塔一金堂方式の伽藍配置の四天王寺式は百済から伝わった様式だ。
二つの寺から出土した瓦は、百済風の瓦で、百済から渡来した「瓦博士」に対応する。

 2007年11月、百済の扶余に位置する王興寺という百済時代の寺院跡で、重要な発見が相次いだ。
 百済時代、扶余は泗沘と呼ばれ、都が置かれていた。
 百済の王によって建立された王興寺の伽藍は、発掘調査により、中央に五重塔、背後に金堂、塔の東西に付属の建物が配置されていたことが明らかになった。飛鳥寺との関係が指摘されている。
 また舎利容器や数々の工芸品が発見され、飛鳥寺の五重塔の下からの同様の遺物が発見されており、飛鳥寺と百済の仏教文化の関連性を示す貴重な手がかりとなった。
 飛鳥寺の伽藍配置も、百済から伝わったと考える方が、仏教伝来の経緯を見ると納得できる。しかし、その伽藍配置は、高句麗から百済に伝わった可能性が大きい。

 1956年の飛鳥寺遺構の発掘調査で、塔の地下式心礎から、木箱に収められた舎利容器が発見された。舎利とともに埋葬された硬玉、瑪瑙、水晶、金、銀、ガラスの玉、金環(耳飾り)などの舎利荘厳具が発掘されている。
こうした埋葬物は古墳の埋葬物と似ている。馬具や武具なども収められていたとされている。倭の独自性がある。
現在の飛鳥寺は、旧中金堂の位置に建てられている。飛鳥大仏が安置されているが、建立当時から残っているのは頭部と目や額の一部のみだ。

 厩戸皇子の建立した斑鳩寺(若草伽藍)の着工は、厩戸皇子が斑鳩宮に移住した605年とされている。(670年 焼失)
伽藍配置方式は、塔と金堂が一直線に並ぶ四天王式配置である。
再建された法隆寺は、法隆寺方式と呼ばれる伽藍配置方式だ。

飛鳥寺、斑鳩寺、四天王寺の造営順序は?
 最近の発掘調査の結果、飛鳥寺、斑鳩寺、四天王寺で使用された軒丸瓦(のきまるがわら)は、いずれも同じ「瓦笵」(がはん 瓦用の木型)で作られたいたことが明らかになっている。瓦の製作を指導したのは、588年に百済から渡来した「瓦博士」だろう
四天王寺の瓦は、飛鳥寺や斑鳩寺の瓦より一時期新しく、四天王寺の金堂は、斑鳩寺の金堂造営が一段落してから、造営されたと見られている。
三寺の造営順は、飛鳥寺、斑鳩寺、四天王とされ、四天王寺は斑鳩寺の造営が一段落してから行われたと考えられる。
 飛鳥寺、斑鳩寺、四天王の造営で、「飛鳥文化」の花が、一気に開いたのである。

「先進国家」のシンボル飛鳥寺
 600年、第一回遣唐使が派遣され、隋皇帝、文帝から「これ大いに義理なし」と叱責され、倭国は、政治制度の改革や都の整備、仏教興隆に全力を挙げて取り組む。
 飛鳥寺は、606年ごろ、金堂も完成し、伽藍全体が完成したと考えられる。鞍作鳥が制作した丈六の釈迦繍仏像も完成し安置された。
 そして、その翌年、607年、遣隋使、小野妹子が派遣される。
 唐に対して、倭国が、「先進国家」であり、朝鮮半島三国の上位にあることを認めさせるために、仏教文化の充実度を示して国力を誇示することは必須であった。
 そのシンボルとして飛鳥寺を建立したのである。
 隋は、当時、仏教全盛時代であった。

 608年、唐史、裴世清は小墾田宮を訪れたとされている。 完成して間もない飛鳥寺を来訪した可能性が大きい。壮大な伽藍で、国力を誇示する飛鳥寺のインパクトは大きかったのではないか。

外交政策を担っていた蘇我氏
 570年(欽明31年)、高句麗の朝貢使が渡来したが、越(こし、現・福井県敦賀~山形県庄内)の海岸に漂着した。ヤマト王権は、高句麗の朝貢使が滞在する賓館、「相楽館」(さがらか、相良郡、現・京都府南端)に、群臣を派遣し、貢物を調査した上で、「国書(上奏文)」と「調物」を受けた。
572年(敏達元年)、敏達天皇は、「大臣」、蘇我馬子に、高句麗の「国書」を解読するよう命じ、蘇我馬子は配下の百済渡来人、王辰爾に解読させた。
 「国書(上奏文)」はカラスの羽に書かれており、そのままでは読めないようにされていたので、誰も読むことができなかった。王辰爾は、湯気で湿らせて布に写し取るという方法で解読し、敏達天皇と蘇我馬子から褒めたたえられた。
(日本書紀)
 王辰爾は、553年(欽明14年)、蘇我稲目(そがの-いなめ)の命で、船賦(ふねのみつぎ)をかぞえ記録したことにより,船の長(つかさ)に任じられ、船史(ふねのふびと)の姓を賜っていた。
 この記述からヤマト王権の外交関係は蘇我馬子が担っていたと思われる。
 蘇我馬子は、「嶋大臣」と呼ばれた。
 飛鳥川の畔の明日香村島庄に邸宅、「飛鳥河傍」に居を構えた。 邸宅の庭に小嶋の浮かぶ池があったので「嶋大臣」と呼ばれた。「勾の池」、「上の池」など複数の池があったとされている。
 島庄にある島庄遺跡の発掘調査の結果、池は発見されたが、嶋は存在していない。謎である。

■ 難波吉士木蓮子
 飛鳥(あすか)時代の官吏。
 敏達天皇4年(575)、任那に使者として派遣され、敏達13年(584年)新羅へ使したが、至りえずして任那に赴いた。崇峻天皇4年(591)、任那を再興しようとして、紀男麻呂ら4人の大将軍が、2万余の兵を率いて筑紫に出陣したとき、任那に遣わされ任那のことを問うた。推古天皇8年(600)、新羅王が任那を攻めたとき、天皇は大将軍境部臣らを遣わし新羅を撃たしめた。新羅はわれに降伏し、六城を割いたが、天皇はさらに難波吉士神を新羅に、難波吉士木蓮子を任那に遣わして、事の状を検校せしめ、両国はわが国に貢調したとある新羅と任那があらそった際にも任那に派遣され、事情をしらべたという。

推古天皇の時代の寺院数

 624年(推古32年)、日本書紀によれば、「寺46か所、僧816人、尼569人、あわせて1385人」としている。
そのすべてを厩戸皇子建立と「聖徳太子伝私記」は記している。
厩戸皇子の時代の7世紀前半の創建された寺の遺構は、これまでに約31か所発見されているとしている。(仏教考古学の森郁夫氏)瓦葺でない簡素な「草堂」もあったと思われるので46は妥当だろう。
 その大半が畿内である。
 諸豪族は、競って寺院を造立した。

仏教が「国家宗教」に 「仏教興隆の詔」 孝徳朝
 645年(大化元年)、「乙巳の変」後、孝徳天皇は、飛鳥寺に使者を派遣して、僧尼を集め、欽明朝以来の仏教受容における蘇我氏の貢献を讃え、仏教への崇拝と普及を述べた。「仏教興隆の詔」(日本書紀 大化元年八月条)である。
 
「詔」では、「朕は更にまた仏教を崇め、大いなる道を照らし啓こうと思う」
と述べ、仏教受容の経緯を述べた。

▼ 百済聖明王の「仏教伝来」の際は、群臣は同意しなかったが、蘇我稲目のみこれを信じ、天皇は稲目にその法を奉らせた。
▼ 敏達朝でも蘇我馬子は仏教を崇めた。余臣は信じず、仏教は滅びようとしたが、天皇は馬子に法を奉らせた。
▼ 推古朝では、馬子は天皇のために、丈六の繍仏と銅仏を作った。

そして、「詔」では「仏教興隆」の仕組みを整えている。
▼ 沙門狛大法師、福亮、恵雲、常安、霊雲、恵至、寺主僧旻、道登、恵隣、恵妙をもって十師とする。別に恵妙法師を百済寺の寺主とする。
この十師は、僧侶たちを教え導いて仏教の修行を必ず法に如く行わせよ。
▼  造営中の寺で中断しているものは、朕が皆助け造らせよう。
▼ 寺司と寺主を任命する。諸寺を巡行して「僧尼、奴婢、田畑」の調査をして報告せよ。
▼  久目臣、三輪色夫君、額田部連甥を「法頭」に任じる。

 この「詔」で、「乙巳の変」以前は蘇我氏が担っていた「仏法」の統括は、大王が担い、大王が直接、寺院や僧尼を管理すると宣言したのである。
注目されるのは蘇我氏の仏教興隆に果たした業績を高く評価し、仏教興隆の歴史を飛鳥寺本尊の完成をもって締めくくっていることだ。
これまでは、僧正、僧都、律師の三人を任じる僧綱制をとっていたが、「十師」制に改め、寺院造営の援助を約束した。
飛鳥寺を始め、大勢の僧侶が集まっている場所で、蘇我氏への批判は一切言わなかった。蘇我氏の役割を大王が引き継ぐと宣言したのである。
蘇我氏を逆賊として誅殺したという日本書紀の歴史認識はとはまったくそぐわない。
孝徳天皇の「仏教興隆の詔」で、倭国は「仏教国家」の道を歩むことを内外に宣言したのである。 

蘇我氏の功績 仏教が日本の礎を造る

 当時、東アジア全体では大乗仏教の全盛期だった、中国や朝鮮半島の国々は、結局、仏教国家にはならなかった。日本だけが仏教国家として生き続けた。その礎を築いたのは蘇我氏他ならない。(梅原猛 「日本史のなかの蘇我氏」 消えた古代豪族 「蘇我氏の謎」 歴史読本編集部 角川書店)

 蘇我氏は物部氏など他の氏族から度重なる激しい反対に合いながらも、粘り強く崇仏の道を追求したのは、単に政治的な背景だけでなく、蘇我氏なりの仏教に対する強い信仰心があったのではないだろうか。
 「仏教国家」の道筋を付けた蘇我氏は、古代日本の国家の方向を決めた歴史上、最も大きな功績を上げた「功労者」である。
 「蘇我氏」は「悪者」というイメージは捨て去るべきである。


(参考文献)
「蘇我氏の古代」 吉村武彦  岩波新書 2015年
「蘇我氏四代 臣、罪を知らず」 遠山美都男 ミネルヴァ書房 2018年
「謎の豪族 蘇我氏」 水谷千秋 文春新書 2006年
「ヤマト王権 シリーズ日本古代史②」 吉村武彦 岩波新書 2010年
「蘇我氏 ~古代豪族の興亡~」 倉本一宏  中公新書 2015年
「蘇我氏四代 臣、罪を知らず」 遠山美都男 ミネルヴァ書房 2006年
「消えた古代豪族 『蘇我氏』の謎」 歴史読本編集部 KADOKAWA 2016年
「天皇と日本の起源」 遠山美都男 講談社現代新書 2003年
「飛鳥 古代を考える」 井上光定 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「飛鳥史の諸段階」 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「飛鳥 その古代史と風土」 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「大化改新 ―六四五年六月の宮廷革命」 遠山美都男 中公新書 1993
「日本史年表」 歴史学研究会編 岩波書店 1993年







2017年7月25日
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廣谷  徹
Toru Hiroya
国際メディアサービスシステム研究所
代表
International Media Service System Research Institute
(IMSSR)
President
E-mail thiroya@r03.itscom.net  /  imssr@a09.itscom.net
URL http://blog.goo.ne.jp/imssr_media_2015
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