あちらこちら文学散歩 - 井本元義 -

井本元義の気ままな文学散歩の記録です。

№93 ロシア映画 ツルゲーネフ ゴーゴリ ロマノフ王朝 猟人日記 ラスプーチン

2017-04-25 16:20:54 | 日記
ロシア旅行から帰ってきたら、福岡市図書館でソビエト映画祭」があっていた。印象ふかいロシア旅行だったのでその余韻を楽しむべく、出かけた。「ゴーゴリの外套」「ツルゲーネフの猟人日記」「ロマノフ王朝の最期」「炎」というものだった。

「外套は」昔パリ、カルチェラタンのすみの小さな映画館で見た。昼間は年寄りたちが、並んで開場を待っていた。暇な僕も彼らに混じった。そこは古い映画ばかりで、オスカーワイルドの「ドリアングレイの肖像」とかラディゲの「肉体の悪魔」とかジュラールフィッリプの若いころの映画や、マストロヤンニの演ずる「異邦人」や「メリウイドウ」もみた。 懐かしい。この時観た「外套」も思い出に残る。ついでに言うと、隣の映画館では一か月、黒沢月間があったり、2室でビートタケシのオールナイトがあって、朝食付「多分パン一個」とかもあっていた。

今回はそれはパスして「猟人日記」について書きたい。主人公が、狩りの度に、出会った人、百姓、農奴、友人などのことを記した短編集である。その中の「狼」という短編だ。森番の男は、幼児と娘と3人で貧しい小屋に住んでいる。妻は駆け落ちしていない。厳しい男だと評判で、皆に嫌われているが、森番としては優秀だ。愚痴ひとつこぼさない。黙々と働く姿は胸を打つ。森の情景の映像も素晴らしい。娘の髪を梳いてやる何もないくらい夜。彼が木笛を吹くと娘が静かに踊る。そこでふと涙がこぼれるのは僕だけか。最後は貴族の戯れの弾か、誤射か、を受けて彼は死ぬ。娘と赤子は何も知らず、貴族の残したお菓子を食べている場面。すばらしい映画だった。貴族を憎むという、社会主義主張だけでない。それを越えて人間がいかに無為に死ぬかという感動もくれた。僕の記憶に残る大切な映画の一つとなった。
原作は、狼と言われる男のことが書かれているだけだが、これは後半を付け加えて映画にしたようだ。原作は農奴解放の動きの一つとしても当時のロシアで評判だったらしい。「彼はドストエフスキーと仲が悪かった?」

「ロマノフ王朝の最期」は期待していたので落胆した。ラスプーチン物語で、ドキュメンタリーの白黒も入ってはいたが、映画自体はラスプーチンが暴れているだけの映画だった。ロマノフ家の最期、虐殺銃殺されて終わったのではなかった。ソヴィエト社会主義全盛のころの映画だろうか。映画の題名は日本の会社が勝手につけたのだろう。

「炎」は村の少年がナチスに対抗するグループに入り、村全体が人もろとも焼き尽くされるのを目撃する映画で、これもドキュメントが入っていた。ナチスの残酷さが描かれて、やや興奮したが、ふと我に返ってみると、中国もこのような映画を作っているのだと気が付く。

60年前、初めてソヴィエト映画を見た。ショーロホフの「静かなるドン」である。ロシア革命の内戦を描いたのだろう。中学生の僕にはまだ理解ができなかったが、美しい雪の場面「少し黄色ぽかった」、女性、戦い、長い映画だったが感動した。前篇、後篇に分かれていて、たしか後編は来なかったか?そんなことまで覚えている。機会があればもう一度見たい。

もう一つはドストエフスキー「白痴」これは予告編だったが鮮明に覚えている。画面はやはり黄色ずんでいた。ナスターシャが狂い笑いしながら、札束を暖炉に投げ込むのだ。この予告編だけで僕は感動した。いまだに忘れられない。この数秒が僕を露西亜文学ファンにさせたのだ。だが本編は見ていない。がわかる。小説は2度ほど読んだが、たまらん。
高校の部活で図書部だった。文化祭の時は、映画の写真を映画会社から借りてソヴィエト文学の紹介をしたこともおもいだした。そういえば、歌声喫茶で人気はロシア民謡だった。

30年ほど前、「ピロスマニ」という画家の映画も思い出す。朴訥な絵描きの話で印象に残っている。それと同時に見たのだろうか。「ジプシーは空に消える」ゴーリキーの短編をミュージカルにしたもの。踊り、歌どれも滅多に触れることのない世界が僕を魅了した。発売になったレコードをすぐに買った。

露西亜文学ファンとしてはどうしても見たい映画がある。「ドクトルジバゴ」だ。アメリカ映画でなくて、ロシア映画で。いつか、期待したい。





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№92 ドストエフスキー ペテルブルグ プーシキン 罪と罰 モスクワ ロシア

2017-03-03 12:15:42 | 日記
生涯を文学書愛好者として過ごしてきた。少年時代の僕をその道から離れられなくさせたのは、小説の様々な主人公たちだ。ジム「宝島スチーブンソン」アントニオ「即興詩人」ジャンクリストフ、ジャンバルジャン、神犬八房「南総里見八犬伝」そして「罪と罰」のラスコーリニコフだ。その中でもラスコーリニコフはわが分身、わが子、我自身というほどいとおしい。何度読んで涙したことか。読み終えても数日間はその舞台から出ていくことができずまた悩んだものだった。

ペテルブルグへ行くことは長年の希望だった。がそこはなぜか、不可能の町に思えていた。想像の場所だった。しかし想像と言っても僕にはどの現実よりも心の中ではもっと身近な場所だった。それで極寒の冬のペテルブルグの旅がとてつもなく安いツアーであるのを新聞で見た時に迷いはなかった。マイナス20度の世界に僕は耐えられるか。しかしもう考えなかった。

ロマノフ王朝、イワン雷帝、ニコライ二世、ラスプーチン、エカテリーナ、レーニン、ロシア革命、云々、歴史を読みだすと時間はいくらあっても足りない。これらはこれからの折にふれてまた読んでいこう。
ぺテルブルグ観光は、エルミタージュ美術館、エカテリーナ宮殿などのほか、数百の博物館、劇場ががあり時間はいくらあっても足りない。参加したのは短いツアーだったので、自由時間はほとんどなし。抜け出しは禁止と言われた約束の旅だったので仕方がない。いくつかの観光スポットを回ったが、一般的な場所は観光本にいくらでも出ているので省く。

まず小説に出てくる、ネフスキー通り、センナヤ広場、凍ったネヴァ河、そこらを観光バスで回るだけで、もう僕の頭は半分はイカレタ。

最初からの計画で、ガイドに内緒で夜に抜け出すことにしていた。ただ、言葉は通じない、大きな露西亜人は少々怖い、誰か日本人のガイドはいるのか、など不安ばかりだった。しかし最初に最高の幸運があった。ツアーのホテルは遠くであったのに、出発前に変更になって市内のど真ん中、古い界隈、しかもホテルの名前がドストエフスキー。彼の晩年の家の近くだった。これで一気に度胸がついた。朝早く、6時くらいに出かけよう。ダウンを二枚、ズボンを二枚。帽子とマフラーをまいて行けば死ぬことはないだろう。マイナス20度でも。

それでそれは翌日にとっておいて、夕食の後、抜け出した。タクシーの運転手に英語が話せるのが少ないと聞いていたが、ホテルの前に停まってているのが英語が少し通じた。
最初はセンナヤ広場とラスコーリニコフの住んでいたというモデルの家を回ってホテルへ戻るのに、600ルーブル「約1500円」という約束をした。一万円出しても行けたらと思っていたところだったので、うれしくなりまた度胸がついた。
観光本の通りにセンナヤ広場を通り、その家を見て、約束の道を外れて、さらにネフスキー修道院「彼の御墓がある」閉まっていたので、鍵穴から覗いて拝んだが、ついでにアンナアフマトヴァ記念館の前を通り、「文学カフェ」で降りてそこで一杯飲むことにした。露西亜の赤ワインは少し甘いがおいしかった。「プーシキンの家、記念館へ行くことを忘れた」このカフェはプーシキンが決闘に行く前に立ち寄ったという、そのあと死ぬ、またドストエフスキーなどもしばし通ったというカフェで、入り口にプーシキンが座っている人形があるノスタルジックな、素敵なカフェだった。約束以外まで相当に走らせたのでここまでタクシーは2000ルーブルになっていた。「5000円くらい、それでも僕にとっては何と安いことか」

センナヤ広場、この言葉は長い間僕の心に潜んでいた。飲んだくれのソーニャの父親が酔っ払い、そして馬車に引かれ死ぬ場所。ラスコーリニコフがさまよう場所。夏の暑い雑踏の広場。そして最後にラスコーリニコフがソーニャに促されて、通行人があざ笑うにまかせて、罪を悔いてその泥の地面に伏して口づけをするのだ。いまは車が走り抜け、町の灯が明るくにぎやかで、誰も彼のことを知らない。僕にはそこは聖地だ。
タクシーは地図を見ながら横道に入る。横道といってもロシアの道幅は広い。やっと見つけたのはラスコーリニコフが住んでいたというモデルの建物だ。普通の5階建ての古いアパルトマンだが、角にドストエフスキーの黒い彫刻が浮き彫りに掘られている。その屋根裏部屋にラスコ―リ二コフが住んでいたのだ。彫刻の足元にプレートがあるが読めない。細かな雪が降りやまず、街灯の光が彼を浮かび上がらせる。優しくそして苦悩に満ちた表情を見上げる。僕の人生における最高の一瞬だ。
僕はその足元に唇をつける。すべての書を読みつくすより、深い感動に陥る一瞬だ。ラスコーリニコフがさらに奥深い僕の心に住み始めたのだ。

「罪と罰」を書いたというドストエフスキーの家を観光本の地図で探したが、見つからない。タクシーがこれだという家と違うがあきらめた。
 
翌朝は予定通り、朝6時起き、極寒の早朝の街へ出かける。彼の銅像は懐かしい。何年も見続けてた優しい表情で僕を迎える。座って考えている立派な銅像だ。そこから歩いて少し行くと、彼の晩年、死んだ棲家のある建物も見つける。そこで「カラマーゾフの兄弟」を書いた。100年以上も前だろうと思われる古い建物が並んでいる通りだ。当然しまっている。残念だが仕方がない。入り口の扉を何度も撫でる。それで感動する。無類の賭博好きだった彼は勝っても負けても悔悟に責められながらこの扉を通ったのだ。20か所ちかくかれはペテルブルグを引っ越したらしい。新婚の部屋、二度目の妻との部屋、幼児を亡くした部屋、すべてを追っかけたい。

帰り道、大きな野菜の卸市場を通ったので寄ってみた。大きな男たちが野菜、ネギや芹菜、白菜らしきものなどを売っていて買え、買えと言ってくる。にこにこ笑いでごまかして早々に出た。地下鉄で出勤してくる人たちに混じってやっとホテルへ戻る。

どこも美術館や部屋や店の中は暑く、外へ出ると気持ちがいが、すぐに寒くなる。
ラスコーリニコフの部屋から見えたという尖塔のイサク寺院の前の広場は寒かった。マイナス7度と言っていたが、風が強く10分も耐えられなかった。エルミタジュの前の広場も寒かった。ネヴァ河は凍っていて、凍った運河は人が歩いていた。しかし帰って来ると、その寒さは懐かしいだけだ。

プーシキンは一番の人気らしく、見事な銅像があちこちに立っていた。エカテリーナ宮殿の学習院で勉強した優秀なプーシキンの座像は雪の公園にあったが立派なものだった。また市内の芸術広場なるところの立像は彼の人気をうかがわせた。ほかに大きなレーニン像も残っていた。

モスクワはクレムリン、赤の広場、ボリショイ劇場などまわった。スターリン時代の建物、政庁、アパルトマンはどれも荘厳で、フルシチョフ時代になると急に貧素になったといっていた。グムデパートで皆が買い物をしているときに、抜け出してドストエフスキーの生家、生家博物館、へ行こうと思ったが、その日は休みで、しかもガイドはゼッタイに許してくれなかった。彼の少年時代にも触れたかった。そのあとバスは空港に向かう予定だったから。遅れでもしたらどれほど他人い迷惑をかけるか、、、。やすいツアーは不満だが、仕方がない。

最後に思い出すのは、ホテルドストエフスキーにある24時間営業のバー「ラスコーリニコフ」だ。入り口に彼の顔の「絵」が飾られている。優しいインテリの痩せた表情。その優しさが苦悩に歪んでいる。忘れられない顔だ。背景はセンナヤ広場の雑踏が薄く描かれている。また更に涙が出るほど彼がいとおしくなる。

お土産やも24時間開いているところがある。早朝そこでチョコレートや本を買った。読めないがロシア語の本「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」

時間外なのでどの博物館も閉まっていたが、それは、もう一度来い、という暗示だろう。
家に帰ると、庭に大きな椿が一輪咲いていた。ドストエフスキーの影をかすかにかすっただけの旅だったが、それでもまだそこから抜け出せない。







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№91 ロシア芸術 ロプーシン アンナ アフマートヴ 「蒼ざめた馬」 「夕べ」 ショスタコビッチ

2017-02-14 13:45:21 | 日記
60年前からの友人、財部満は其の60年に渡って僕の作品をずっと読んでくれた。感想は一言二言だったが、その言葉が作品を最後に完成させてくれた。彼は対馬の寒村の出で、よほど秀才だったのだろう福岡の高校に来た。東京外大露西亜文学に進んだが、学園紛争で退学しそれ以来個人の塾をしてまた秀才を育てている。
55年前に僕が東京のサラリーマンしていたころ、一人の友人を紹介してくれた。外大の大学院で露西亜文学を勉強している工藤正弘という男だった。3人でコーヒ屋で2,3度文学を語り合った。そのあと彼が翻訳したロプーシンの「蒼ざめた馬」は学生翻訳家の華々しいデビューだった。
帝政露西亜末期の革命家たちを描いている。ロプーシンもこの作品で一気に名をあげる。しかしそのあとスターリン時代に彼は反体制派として亡命する。パリで反スターリン運動を展開するが露西亜へおびき寄せられ逮捕される。裁判で死刑判決を受けるがスターリン承認の宣言で減刑される。しかし1925年、謎の死を遂げる。暗殺されたということである。

35年ほどたって、僕は仕事の関係で時々北海道へ行くことが多くなった。あるとき北海道大学を訪ねた。工藤が露西亜文学の教授をしていると聞いていた。狭い教授室には本があふれ、彼はびっくりして僕を迎えた。あれ以来一切の関係がなかったのだからかすかな記憶を辿って思い出してくれた。露西亜文学、フランス文学についてしばし語り合った。共通の友人の財部満についても懐かしんだ。僕が小川国夫の話をすると「花村満月と小川国夫」の対談している雑誌をくれた。パステルナークはじめ様々の翻訳実績を残している。僕は帰ってから僕のの詩集を送った。彼は今定年で退官した後「北海道文学館」の館長をしていると聞いた。その後は会っていない。特別な長いつながりが多くなくても、友人の一人として思い出すと懐かしい。

それから何年かして、福岡のジュンク堂で立ち読みをしていて、アンナ・アフマートフという女性詩人の「夕べ」という詩集を見つけた。「本屋の立ち読みで偶然に素晴らしい本を見つけるのが僕の趣味というか、楽しみである」訳者は工藤正弘だ。彼女の詩集を短歌にして構成している。すばらしい本だった。愛の悲しみ美しさが気品のあるかあたり口で表現されている。彼の短歌もまたいい。彼は学生時代からこの詩集が好きだったと言っている。僕はジュンク堂で初めて知った。1912年発刊。わずか300部だったらしい。美しい黒髪の青い目の22歳のアンナ。だが革命のあと、スターリン反体派になっていく。パステルナークのノーベル賞事態させられた事件など目にして、彼女は抒情詩人こそ強靭で男性的であらねばならない、という信念を貫き始める。しかし長い間沈黙を強いられるが、第二次大戦のあと、政府から夫と子供を救うことの交換条件で体制賛美を始めさせられ書き始める。その心の矛盾はいかに彼女を苛んだか。僕も一緒に悲しむ。1965年没。

体制に抹殺される危機に面して、政治家や思想家は理論でどうにでも逃げることができる。しかし理論屋でも詩人的な思想家はそれに耐えられない。ましてや、ロプーシンやアンナなどまさに詩人たるものが、どれだけの心の亀裂を味わうのかと思うと、その隠された情熱に、僕の心も痛む。運よく亡命できたものはいい。それなりの苦労はあるだろうが、故郷と引き裂かれた痛みのほかに、解放された喜びもあるだろう。音楽家はまさに心そのものだからその感はひとしおだろう。アシュケナージ、ロストロホービッチ、ブーニン、作家ではソルジェニッチェン、など。

数年前の自分の無知を恥ずかしく思うが、ショスタコヴィチを知ったのもその感覚からだった。体制賛美の音楽を多くの作品を作曲していたと思っていた。それが強いられていたとしても、体制側は喜んでそれを受け入れていた。ところが底に流れる、反体制への想い、その抒情を感じた時、僕はその美しさに感動した。底に流れる彼の悲しみ、苦悩がさらに聞くものに感動を与えるのだ。表面的には理解できない心の奥底、ロプーシンやアンナやショスタコヴィチなどの、美しさは、反体制という政治的なものを通り越した芸術である。これは政治の問題だけではない。人間の生そのものをいかに愛するか、存在の価値理由の問題だ。

露西亜には言うまでもなく素晴らしい芸術家が多くいる。名前をあげなくても日本人は多くを知っている。僕にとってはドストエフスキーである。彼の作品はほとんど読んだ。代表作は3度以上は読んだ。若いときは3日で3大小説を読み切った。彼が愛したペテルブルグには墓はもちろん書斎もある。また作品に出てくるセンナヤ広場や、通りや、ネヴァ河がいつも目に浮かぶ。観光本を見ると、実際には存在していない、ラスコーリニコフやソーニャの家も出てくる。架空のものだろうが、僕の憧れの街だ。
その長年の憧れの街、ペテルブルグへ来週行く。「短いツアーなのでどこまで探究できるか、」




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№90 グラナダ ガルシア・ロルカ アルハンブラ宮殿  フラメンコ スペイン ゲルニカ ドンキホーテ

2016-12-02 14:26:27 | 日記
スペイン南部のグラナダは1492年までイスラム文化の街であった。その最後の文化の花はアルハンブラ宮殿として残っている。多くの観光客が訪れる美しい街である。街路樹には柘榴がたわわに実り、オレンジが明るい秋の光を反射している。「このオレンジは苦くて食べられない」

キリスト文化とイスラム文化が融合して、独特の遺産を残している。たとえば、ゴルドバという町にある、メスキータというかつてのイスラムのモスク、2万人が入ると言われる、にはキリスト教が町を占領してからは、その真ん中に教会が建てられている。イスラムの建物を壊さずに融合している。異国情緒たっぷりの、ヨーロッパの都市である。
アルハンブラ宮殿は、1492年から、町がキリスト教徒に奪還されてから、18世紀のナポレオン戦争を経て、300年余り捨て置かれ、荒廃していた。19世紀にアメリカ人のアービングが旅行記で紹介して再び世界の注目を集めた。今や、スペイン有数の観光地となって人びとを魅了している。

1931年、内戦で君主が亡命し共和国になった。その約十年前、ガルシア・ロルカ、21歳、はグラナダからマドリッドへ出てきた。それから十年、彼はダリとか、多くの芸術家と交流を深め、楽しく充実した日々を送った。ピアノを弾き自作の詩を朗読し仲間たちを魅了した。周囲の誰をも虜にしてしまうカリスマ的魅力の持ち主だった。「秘められた同性愛傾向は彼を悩ませていたが」
1930年、彼はアメリカやキューバを訪問する。その後、演劇が彼の活動の中心になる。「血の婚礼」「イエルマ」「ベルナルダの家」などの3大悲劇と言われる戯曲がある。これは岩波文庫で読むことができる。また「ジプシー歌曲」などの詩集もある。これらの芝居を持って全国を回っていた。4年間にわたり60か所をめぐる。

古い田舎の因習やしがらみから抜け出そうとする人間をどれも描いている。誰もが情緒の発露を希求しながら最後は死を迎える。主人公は女性が多い。誰もが何か血管の奥深いところを流れる得体の知れない衝動にかられるように突き進む。不条理に生きる人間を描くのが現代文学であるが、これらはまさに情熱の国スペインにふさわしく激しい。意識を失うほど激しく踊るフラメンコは美しくもあるが、これらの悲しみや喜び内包している。そして破滅する女性たちは誰も後悔はしていないのだ。解放されたと思う。

ロルカは「アンダルシアの地霊」という講演で、「すべての国では、死は終末を意味するが、スペインではその時に幕が開く。ここでは多くの人が死ぬまで壁に閉じ込められて生き、死んではじめて陽を浴びる」と語る。この破滅から生が始まる。3大悲劇の一つ「ベルナルダの家は第二次戦争後に見つかり公演される」

1932年、彼は共和国政府の社会教育相に任命される。「私はアンダルシアの土地を愛しています。私のすべての情感はこの土地を結び合っています」「私は政治家ではない、詩人です。その意味で私は真の革命家です。芸術家は言葉のの最高の意味でアナーキストだ」
1936年、右翼勢力による内戦が勃発する。フランコ、ファシスト政権の台頭のその時、ガルシア・ロルカはグラナダ郊外のオリーブ畑で銃殺される。38歳。

1926年から36年まで、彼の家族の別荘がグラナダ市内に残っている。当時は田舎だったらしい。現在は市内の中心「ガルシア・ロルカ公園」でロルカ記念館になっている。グラナダ滞在中に短い時間をぬって3度ほど訪れたが、入館できる時間が制限されていて、入れなかった。非常に残念。中には彼の愛用のピアノや彼の絵や、友人のダリがくれた絵などがあるらしい。ここで数々の作品も執筆した。受付の男は愛想が悪く、スペイン語でまくしたてるので困った。せっかく、ロルカファンが来たというのに。ロルカの詩の朗読のCDを買った。彼の声ではないのが残念。ダビングして友人の詩人にも送ろう。日が暮れてから夜道を一時間ほどさまよった。迷子になったのだった。

マドリッドからグラナダへ続く高速道路の周りは果てしもないオリーブい畑と葡萄畑だ。雲や空が雄大で、夏はヨーロッパのフライパンを呼ばれるごとく熱いらしい。しかしバカンスには多くの人間が来る。

雨の中のマドリッドを一時間以上歩いた。はだしのホームレスのおばさんが物乞いするソフィア美術館で「ゲルニカ」を見た。昔はプラド美術館にそれはあったらしい。

アルハンブラ宮殿、ドンキホーテの風車「まだ読んでない」、フラメンコ、メスキータ、。街中のバー、タパス料理。それらは観光本に詳しいので省く。

観光のツアーに参加したのは初めてだった。街中で記念にCDを買おうとおもったがなかなかCD屋が見つからない。結局帰国してから「アルハンブラの思い出」のギター曲を買った。それを聴きながらスペイン旅行を思い出すと、楽しかった日々に、甘いノスタルジー、哀愁が蘇る。荒廃して長い間忘れ去られていた丘の上のアルハンブラ宮殿。別の丘からみたライトアップされた宮殿はまた美しかった。


















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№89 石山寺 秘仏 紫式部 琵琶湖

2016-11-03 12:54:07 | 日記
5年ほど前だったか、パリから電車で一時間ほどのシャンティィというところへ行く時に電車の中で初老の日本人の女性にあった。彼女は水彩画を描いていた。素人ながら味のある絵だった。僕はシャンティイ城に行くところだったが、彼女はどこかによってあとでその城に行くと言っていた。湖上のきれいな小さな城である。白鳥が悠々と遊び、森の先へ消えていく。ココは僕は3回目だった。じゃあ後でまたお会いできるかも、といって別れたがそのままだった。
それからは忘れていたが、数日後空港でばったり会った。飛行機も同じだった。住所を交換した。滋賀県の大津の人だった。「前に一度書いたことがある」

翌年の春、京都で彼女の絵の個展の案内が届いた。家内と出かけた。丁度桜の季節だったのでそれも兼ねた。パリの街角の油絵だった。素人とは思えない立派なものだった。その時に大津に招待された。琵琶湖ホテルの会員になってるので、半額以下で泊まれる優待券があるとのこと。数か月後に家内と出かけた。
琵琶湖は何度も訪れたがどのホテルだったか覚えていない。格式のある古い琵琶湖ホテルの記憶はない。琵琶湖遊覧船に乗ったのは覚えている。ああこれが琵琶湖かという印象だけであった。また三井寺や比叡山に登ってそこからバスで京都へ入ってきれいな紅葉を鑑賞したこともある。ただの観光気分だった。ところがあるとき、川端康成の「美しさと哀しみと」を読んで、その気分で琵琶湖を眺めてみたいという気が起った。なかなか読み応えのある作品だ。また琵琶湖の北部の寺をいくつかまわって十一面観音めぐりをしたこともあって、琵琶湖は僕には特別な意味を持つようになった。井上靖の「星と月の祭り ? 」正確には忘れたが、は十一面観音と琵琶湖を書いてある。どちらも琵琶湖で水死する若者がいる。十一面観音を訪ねたある冬の、雪に転びながらの一日はいまだに僕の心に蘇る。これ以上の美しい女性にはまだ会わないというくらいの観音様だ。また大津市には芭蕉の墓のある「義仲寺」もある。

そして何よりも、紫式部が訪れて感動したという石山寺だ。そこからの琵琶湖の十五夜の眺めから、源氏物語を書き始めたという話だ。寺の本堂には源氏の間があり紫式部の人形が座っている。浜大津の飲み屋街の思い出から、様々な琵琶湖の思い出がいつの時もふと浮かんでくる。
さて、その時も石山寺を訪れて家内に説明し、また比叡山にも昇り楽しい時間を過ごした。たしかそれは2013年のことだったろう。その時に2016年に石山寺の秘仏が開扉になると知った。33年に一度しか扉は開かない。その秘仏を生涯で3度拝む人はそういないだろう。「例外として天皇即位のときは開く」僕はその時から、指折り数えて今年の秘仏を待っていたのだ。

本尊の秘仏は「如意輪観世音菩薩」で1096年平安時代に本堂ができたころに造立されたということだが、寺は747年天平時代に開かれたらしい。大津の女性は都合がつかず、今回は会わなかった。「わが長男が年末からアメリカに家族とともに4、5年いくのでその家族と同行した。夫婦と8,7,2歳の孫。その妻は源氏物語のファンで喜んでいた。」
さてその本尊は台座からは5メートルあまり、本体は3メートル余りの大きさである。ほっそりした小さな静かな本尊が33年の闇からふと微笑みを浮かべながら出でますと思いきや、大きな本尊でまずびっくりした。そして感動した。ふっくらとした体は荘厳で閉じた目は慈愛にあふれている。前に立つだけでその懐に抱かれている気がする。何年も前、仕事をしていた時、日々が戦いで苦しみに満ちていた時この本尊に出会っていたら、僕は間違いなくその安らかさに触れて涙を抑えることはできなかったろう。この感動は残り少ないわが人生にいつも座っていてほしい。これ以上はこの如意輪観音菩薩についてはもう書けない。わが拙文で汚すような気がする。

紫式部は1016年?ころに亡くなっているのでこの菩薩は見ていない。

追 ずいぶん前に京都の国立博物館で「三井寺」の本尊を拝んだことがあった。「奇麗な少女のようなやんちゃな姿」その数年後初めて三井寺を訪れた時に坊さんに本尊はどこですかと尋ねると、60年に一度しか拝めませんと言われたことがあった。この前、博物館でみましたというと、国立などの特別な展示では拝めます、と言われた。




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