あちらこちら文学散歩 - 井本元義 -

井本元義の気ままな文学散歩の記録です。

№95 パリ郷愁 ブルトン 自動筆記 磁場 佐伯祐三 レオナール藤田 金子光春 林芙美子 パンテオン モンパルナス 

2017-06-25 14:28:52 | 日記
パリがこの頃またひどく懐かしくなる。これからはもう長期滞在はむりだろう。
2015年にフランスに俳句で招待されてアルザスで5日過ごしたが、パリは2日だけだった。その前は2012年に家内と3週間ほどオデオンのビッシの辻の10番地に泊った。その部屋の前に昔テオドールバンヴィルの空き部屋があったので、ランボーがい週間ほど泊ったということだった。「これは前に書いた」
その前の2011,2010,2009年は毎年3か月、観光ビザのギリギリまで滞在していた。これも何度も書いたが、なつかしくなると、思い出す。

5区スフロ通り、パンテオンに向かって手前の右手の7階建ての高級アパルトマン。その8階の屋根裏が棲家だった。2メートル3メートルに、洗面台、小さなシャワーとトイレ、机、冷蔵庫の上に温熱器、「人貸し用に改造されていた」斜めになった屋根の下の隙間がマットのベッド。斜め屋根についている小さな天窓を押し上げると、目の前にパンテオンの屋根がすぐ先に見えた。雨の降る日は天窓の隙間から雨が漏ってきて僕のほほを濡らし、寝ぼけた僕を起こした。朝はパンテオンから昇る朝日の美しかったこと。夕方は西の方に夕日が沈むのが感じられるが、壁で見えない。しかし夕日が東のはずれの丘の上まで照らし、そこのアパルトマンのガラスを真っ赤に染める。夜は彼方にライトアップされたサクレクール寺院が哀しい風情に見えた。目の前はソルボンヌ大学の法学部、朝早くから夜遅く迄授業があっていた。このアパルトマンは2階から6階まではかなり裕福な人が住んでいた。一階は何時間もそこで過ごしたカフェ、と薬草や「このアンバランスが面白かったが今は変わった」。この建物のパンテオン側の端は、5区の区役所と交番。一階の大きな木のドアを開けると、左に降りていくとリュクサンブール公園、右手にはパンテオンが大きくたっている。

僕のパリ滞在は、ランボーをはじめとする詩人たちやカミュなど作家のの足跡をたどることと、ちょっとフランス語を勉強することだった。また1920、1930年代のパリに興味がありながら、美術にも興味がありながら、その足跡はその内にと思いながら特別にはしなかった。それをいま後悔している。
モンパルナスの界隈はしばしば散歩したが、モジリアニの部屋を下から見上げたくらいだった。藤田の旧居や佐伯のアパルトマンなど素通りしてばかりだった。キャフェ、ロトンド何時間も座って、商売女が声をかけてくるのを楽しんだりしたが、特別なことは起こらなかった。ヘミングウエイも、デスノスも藤田もユキもキキにも逢わなかった。「話はそれるが、この画家たちが多く住んでいた有名なドランブル通りには、親しい日本の女性が二人、親しくはないが日本女性が一人仕事をしている。一人は福岡出身のナオコ、美容室を開業している。医者の旦那と別れた。フランス人と結婚しているジェラール久美子さん、あるレストイランの支配人、後はよく知らないが、有名な花屋の奥さん」

今回改めて20,30年代のパリを読んでいて後悔ばかりである。藤田のエッセイ集、金子のパリシリーズ、清岡の小説、野見山のエッセイ「少し時代が新しいが」佐伯の物語、などなど。
佐伯祐三の絵が好きなったのはいつからだっただろうか。ブラマンクも好きだった。彼らの因縁を知らないときから両方が好きだった。彼らの絵を見ると心が落ち着くのだ。彼らの苦悩を知っているのに、お構いなしにそれを知っているのに彼らの絵画を楽しむのだ。彼の悲しい運命を知っているからこそ、その絵の美しさを感じるのだろうか。

ひとりの青年が画家を目指して苦しんでいる小説を書いていた。才能がはたしてあるのかどうかはまだわからない。「季刊午前」という雑誌に書いているうちに、かれが変貌しようとしかかっているのに気づき、二部として続きを「雑誌、海」に発表した。それがまた、発展しようとしている。ついに彼はパリへ行くことを決心するのだ。次号の「海」に発表する。多分大して才能がないのに気づく彼は苦しむだろう。しかしもう自分では止まらない。コッマったことに彼は佐伯祐三の絵がす気なのだ。

話は戻る。アパルトマンをでて、ムフタール通りのヘミングウエイが好きだったカフェにビールを飲みに行くとき。パンテオンの横のグランゾンムというホテルの前をとおる。「偉大な人びと」という意味で、パンテオンの入り口に大きく書かれている。パンテオンはその聖廟である。そしてそのホテルの入り口に、ブルトンがここで云々と表示してある。いうまでもなく、シュールレアリズムのブルトンだ。このホテルは超高級ホテルでゆっくり眺めるだけでも勇気が要るくらいだ。ブルトンは金持ちだったのか、と思うくらいだった。ところがこの度調べているると、佐伯祐三が初めてパリに来た時に住んで、1928年に死んで病院から帰ってきた部屋がこのグランゾンだったのだ。ココから彼の死体はペーラシェーズへ馬車で運ばれたのだ。またその部屋で、佐伯の娘も結核で死ぬ。もっと、感慨を込めて毎日見るべきだった。お隣同士だったのだ。しかし、ここで疑問も出た。昔の貧乏画家は、こんな高級ホテルに住んでいたのか。ブルトンもここで詩集(磁場」を書いたのだろう。さっそく福大の藤本教授に「ブルトンの専門」電話した。彼の話で納得がいった。昔はそのホテルはそう豪華ホテルではありませんでした。いつ改装されたかは知りません。ネットで見ると超豪華ホテルだが。そういえば、ある雨の日にそのホテルの前を通っていたら、女の乞食が毛布をかぶって寝ていた。いつも見る乞食だった。雨が降るのに。僕は小銭をあげたが、いつまでもそれが忘れられない。






 
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№94 鎌倉文学館 三島 川端 夏目 円覚寺 長谷寺 追

2017-05-22 22:52:11 | 日記
№94で書いたブログで三島の小説「春の雪」を間違えて「春の海」としていた。訂正する。
読中、どうしても主人公の顔が三島の若いときに見えて仕方がなかった。三島の自分がこうであるだろう、こうでありたい、という思いが感じられる。読者としては主人公を愛するのが、三島を愛することになってしまう。余談であるが、昭和44年、三島が「豊饒の海」の3巻目「暁の寺」を「新潮」に連載していたとき、同じ号に僕の短編「鉛の冬」が新潮新人賞佳作として掲載されているのはうれしい。

今回は長谷寺も訪れた。10メートルの木造の巨大観音像を見上げた時は、圧倒された。慈愛、祈りとかを求めるではなく、人はもし神経を傷め、悩みに沈んでいる時だったら、その足元に身を投げ出して気を失うに違いない。
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№94 鎌倉文学館 川端 三島 夏目 円覚寺 長谷寺 なだいなだ

2017-05-22 14:37:19 | 日記
同じフランス語のクラスの近藤さん「老婦人 元九大法教授の奥さん」が鎌倉へいって、友人のなだいなだ夫人「フランス人」と会い、2日ほど泊ってきたといって、名物の鳩サブレをお土産にくれた。いい香りと味がする。娘四人は独立して、フランスや日本あちこちに住んでいる。老婦人が2日も何をしていたのですか、と聞くと、昼はソファーでぼんやりして居眠りしたり、夕方はタクシーであちこちイタリアンやフレンチを食べに行った、たのしかった、少し疲れたとのことだった。

それにつられたわけではないが、先週は鎌倉へ行った。最初の計画では山中湖畔の三島文学館へ行くつもりだった。平日だとホテルも空いているだろう。東京で孫を見て、ゆっくりしようと思っていたら、まごの運動会とのこと。それで山中湖は中止にして、一度行きたかった鎌倉文学館見学にした。

ここは、江戸時代の加賀藩の前田侯爵の別邸だったということだ。戦後はデンマーク公司の別荘や、佐藤栄作が別荘に借りていたらしい。代々金持ちの家が子子孫に残っているのは、戦争中に当主が戦死したら相続税は免じられたということだ。ほんとうに戦死だったかどうか疑わしいなどと、何かに書かれている。文学館のある丘の入り口に「前田」と門札のある古い風格のある家があったが、そこが子孫の家か。

三島の「豊穣の海」の一巻目「春の海」に主人公と親友の本多、タイの留学生の王子たちが夏の数日を別荘で過ごす。その別荘のモデルがこの家である。佐藤栄作が首相の時、三島が訪れてモデルとした。初夏の美しい若緑の森を抜けて、大きな石の門をくぐり、別荘を見あげる。鬱蒼とした森を背後に前方には由比ガ浜の海が輝いている。「小説の短い抜粋では十分ではないのでここには記さない。」古い美しい洋館である。
ベランダからは芝生の庭の先の薔薇園が満開である。その先が海。小説ではここから5分ほどで海岸へ出れるが、実際は2キロほどあろう。タイの王子は恋人からの贈り物を失って元気がなく、またそこで恋人の死を知る。物語の主人公、清顕は悲恋の相手の聡子を東京から秘密裏に呼び寄せ、あいびきを重ねる。その想像に十分に耐えられる、アールデコの味のある別荘だった。それでも5月とはいえ、直射日光は強く、木立の木陰へ避難しても咲き誇る夏の薔薇の香りがそこまで追いかけてくる。

三島は僕の好きな作家の一人だ。主のいない馬込の三島邸を何度訪れたことか。そしていつも彼の足音をひそかに想像したものだ。
彼の作品の主人公がぼくにはいつも三島自身にみえて仕方がない。その悲劇を受け止め彼をいつくしみたくなる。そんなものかきなのだろう。太宰にむかって「先輩の作品は嫌いです」といったらしいが、僕にはその意味で二人は似ている。たとえば、ドストエフスキー、マン、バルザックなどの主人公は、大体において独立した人格として、読者をひきつける。カミュやヘミングウエイなども一見は作家自身を思わせるが、冷たく突き放して別の人間としている。それが僕を引き付ける三島の魅了でもあるのだろう。ついでに言うと、村上春樹の作品は、むしろ読者を作中の人間になったような気にさせるのではなかろうか。

文学館資料は様々な作家の原稿や手紙、本、略歴などが展示され、生の原稿もそれぞそれに僕の興味をひいた。鎌倉には、正確には数えなかったが、30人から50人の作家が住んでいたようだ。30度近い気温なのに、空気は乾燥して、木陰は風が通り、鎌倉は気持ちがいい。寄る店、寄る店でビールを飲んだが気持ちよく酒気は蒸発する。


今回は最初は北鎌倉だった。鎌倉は3度目だが、円覚寺は初めてだった。門、池、仏殿、庵、どれもが庭の庭に囲まれて美しい。緑は背後の大きな緑に吸い込まれて広がる。北条時宗の時代の古刹。廟もある。
川端の「千羽鶴」の主人公の菊治はそこで「桃色のちりめんに白の千羽鶴の風呂敷を持った令嬢は美しかった」という女性に会う。円覚寺の茶会に行く途中だ。だが女主人公ではない。亡くなった父の恋人と再会し夜を共にし、その妖艶な暗い魅力に陥るが、自殺させてしまう。その娘を愛し始めるが、そこで物語は終わる。合間合間に茶の文化、茶器、日本美が語られる。娘は菊治の前で母の愛した志野焼をことごとく割る。そして行方をくらます。王朝文化的と評したものもいた。詩的なエロチックがあふれ、十分に楽しめる作品だ。

また、夏目漱石は神経衰弱気味の日、この円覚寺で冬の一週間を過ごすが、座禅からなにも得ることができず帰ってくる。それでも「門」という作品で主人公が悩みの末にここに籠る場面を書いている。主人公、宗助は昔、親友の妻を横取りし、ひっそりとすごそうとするが、尽きない悩みに苦しめられる。味のある小説だ。今、ふと思った。夏目漱石作品はバルザック作品に似ている。
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№93 ロシア映画 ツルゲーネフ ゴーゴリ ロマノフ王朝 猟人日記 ラスプーチン

2017-04-25 16:20:54 | 日記
ロシア旅行から帰ってきたら、福岡市図書館でソビエト映画祭」があっていた。印象ふかいロシア旅行だったのでその余韻を楽しむべく、出かけた。「ゴーゴリの外套」「ツルゲーネフの猟人日記」「ロマノフ王朝の最期」「炎」というものだった。

「外套は」昔パリ、カルチェラタンのすみの小さな映画館で見た。昼間は年寄りたちが、並んで開場を待っていた。暇な僕も彼らに混じった。そこは古い映画ばかりで、オスカーワイルドの「ドリアングレイの肖像」とかラディゲの「肉体の悪魔」とかジュラールフィッリプの若いころの映画や、マストロヤンニの演ずる「異邦人」や「メリウイドウ」もみた。 懐かしい。この時観た「外套」も思い出に残る。ついでに言うと、隣の映画館では一か月、黒沢月間があったり、2室でビートタケシのオールナイトがあって、朝食付「多分パン一個」とかもあっていた。

今回はそれはパスして「猟人日記」について書きたい。主人公が、狩りの度に、出会った人、百姓、農奴、友人などのことを記した短編集である。その中の「狼」という短編だ。森番の男は、幼児と娘と3人で貧しい小屋に住んでいる。妻は駆け落ちしていない。厳しい男だと評判で、皆に嫌われているが、森番としては優秀だ。愚痴ひとつこぼさない。黙々と働く姿は胸を打つ。森の情景の映像も素晴らしい。娘の髪を梳いてやる何もないくらい夜。彼が木笛を吹くと娘が静かに踊る。そこでふと涙がこぼれるのは僕だけか。最後は貴族の戯れの弾か、誤射か、を受けて彼は死ぬ。娘と赤子は何も知らず、貴族の残したお菓子を食べている場面。すばらしい映画だった。貴族を憎むという、社会主義主張だけでない。それを越えて人間がいかに無為に死ぬかという感動もくれた。僕の記憶に残る大切な映画の一つとなった。
原作は、狼と言われる男のことが書かれているだけだが、これは後半を付け加えて映画にしたようだ。原作は農奴解放の動きの一つとしても当時のロシアで評判だったらしい。「彼はドストエフスキーと仲が悪かった?」

「ロマノフ王朝の最期」は期待していたので落胆した。ラスプーチン物語で、ドキュメンタリーの白黒も入ってはいたが、映画自体はラスプーチンが暴れているだけの映画だった。ロマノフ家の最期、虐殺銃殺されて終わったのではなかった。ソヴィエト社会主義全盛のころの映画だろうか。映画の題名は日本の会社が勝手につけたのだろう。

「炎」は村の少年がナチスに対抗するグループに入り、村全体が人もろとも焼き尽くされるのを目撃する映画で、これもドキュメントが入っていた。ナチスの残酷さが描かれて、やや興奮したが、ふと我に返ってみると、中国もこのような映画を作っているのだと気が付く。

60年前、初めてソヴィエト映画を見た。ショーロホフの「静かなるドン」である。ロシア革命の内戦を描いたのだろう。中学生の僕にはまだ理解ができなかったが、美しい雪の場面「少し黄色ぽかった」、女性、戦い、長い映画だったが感動した。前篇、後篇に分かれていて、たしか後編は来なかったか?そんなことまで覚えている。機会があればもう一度見たい。

もう一つはドストエフスキー「白痴」これは予告編だったが鮮明に覚えている。画面はやはり黄色ずんでいた。ナスターシャが狂い笑いしながら、札束を暖炉に投げ込むのだ。この予告編だけで僕は感動した。いまだに忘れられない。この数秒が僕を露西亜文学ファンにさせたのだ。だが本編は見ていない。がわかる。小説は2度ほど読んだが、たまらん。
高校の部活で図書部だった。文化祭の時は、映画の写真を映画会社から借りてソヴィエト文学の紹介をしたこともおもいだした。そういえば、歌声喫茶で人気はロシア民謡だった。

30年ほど前、「ピロスマニ」という画家の映画も思い出す。朴訥な絵描きの話で印象に残っている。それと同時に見たのだろうか。「ジプシーは空に消える」ゴーリキーの短編をミュージカルにしたもの。踊り、歌どれも滅多に触れることのない世界が僕を魅了した。発売になったレコードをすぐに買った。

露西亜文学ファンとしてはどうしても見たい映画がある。「ドクトルジバゴ」だ。アメリカ映画でなくて、ロシア映画で。いつか、期待したい。





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№92 ドストエフスキー ペテルブルグ プーシキン 罪と罰 モスクワ ロシア

2017-03-03 12:15:42 | 日記
生涯を文学書愛好者として過ごしてきた。少年時代の僕をその道から離れられなくさせたのは、小説の様々な主人公たちだ。ジム「宝島スチーブンソン」アントニオ「即興詩人」ジャンクリストフ、ジャンバルジャン、神犬八房「南総里見八犬伝」そして「罪と罰」のラスコーリニコフだ。その中でもラスコーリニコフはわが分身、わが子、我自身というほどいとおしい。何度読んで涙したことか。読み終えても数日間はその舞台から出ていくことができずまた悩んだものだった。

ペテルブルグへ行くことは長年の希望だった。がそこはなぜか、不可能の町に思えていた。想像の場所だった。しかし想像と言っても僕にはどの現実よりも心の中ではもっと身近な場所だった。それで極寒の冬のペテルブルグの旅がとてつもなく安いツアーであるのを新聞で見た時に迷いはなかった。マイナス20度の世界に僕は耐えられるか。しかしもう考えなかった。

ロマノフ王朝、イワン雷帝、ニコライ二世、ラスプーチン、エカテリーナ、レーニン、ロシア革命、云々、歴史を読みだすと時間はいくらあっても足りない。これらはこれからの折にふれてまた読んでいこう。
ぺテルブルグ観光は、エルミタージュ美術館、エカテリーナ宮殿などのほか、数百の博物館、劇場ががあり時間はいくらあっても足りない。参加したのは短いツアーだったので、自由時間はほとんどなし。抜け出しは禁止と言われた約束の旅だったので仕方がない。いくつかの観光スポットを回ったが、一般的な場所は観光本にいくらでも出ているので省く。

まず小説に出てくる、ネフスキー通り、センナヤ広場、凍ったネヴァ河、そこらを観光バスで回るだけで、もう僕の頭は半分はイカレタ。

最初からの計画で、ガイドに内緒で夜に抜け出すことにしていた。ただ、言葉は通じない、大きな露西亜人は少々怖い、誰か日本人のガイドはいるのか、など不安ばかりだった。しかし最初に最高の幸運があった。ツアーのホテルは遠くであったのに、出発前に変更になって市内のど真ん中、古い界隈、しかもホテルの名前がドストエフスキー。彼の晩年の家の近くだった。これで一気に度胸がついた。朝早く、6時くらいに出かけよう。ダウンを二枚、ズボンを二枚。帽子とマフラーをまいて行けば死ぬことはないだろう。マイナス20度でも。

それでそれは翌日にとっておいて、夕食の後、抜け出した。タクシーの運転手に英語が話せるのが少ないと聞いていたが、ホテルの前に停まってているのが英語が少し通じた。
最初はセンナヤ広場とラスコーリニコフの住んでいたというモデルの家を回ってホテルへ戻るのに、600ルーブル「約1500円」という約束をした。一万円出しても行けたらと思っていたところだったので、うれしくなりまた度胸がついた。
観光本の通りにセンナヤ広場を通り、その家を見て、約束の道を外れて、さらにネフスキー修道院「彼の御墓がある」閉まっていたので、鍵穴から覗いて拝んだが、ついでにアンナアフマトヴァ記念館の前を通り、「文学カフェ」で降りてそこで一杯飲むことにした。露西亜の赤ワインは少し甘いがおいしかった。「プーシキンの家、記念館へ行くことを忘れた」このカフェはプーシキンが決闘に行く前に立ち寄ったという、そのあと死ぬ、またドストエフスキーなどもしばし通ったというカフェで、入り口にプーシキンが座っている人形があるノスタルジックな、素敵なカフェだった。約束以外まで相当に走らせたのでここまでタクシーは2000ルーブルになっていた。「5000円くらい、それでも僕にとっては何と安いことか」

センナヤ広場、この言葉は長い間僕の心に潜んでいた。飲んだくれのソーニャの父親が酔っ払い、そして馬車に引かれ死ぬ場所。ラスコーリニコフがさまよう場所。夏の暑い雑踏の広場。そして最後にラスコーリニコフがソーニャに促されて、通行人があざ笑うにまかせて、罪を悔いてその泥の地面に伏して口づけをするのだ。いまは車が走り抜け、町の灯が明るくにぎやかで、誰も彼のことを知らない。僕にはそこは聖地だ。
タクシーは地図を見ながら横道に入る。横道といってもロシアの道幅は広い。やっと見つけたのはラスコーリニコフが住んでいたというモデルの建物だ。普通の5階建ての古いアパルトマンだが、角にドストエフスキーの黒い彫刻が浮き彫りに掘られている。その屋根裏部屋にラスコ―リ二コフが住んでいたのだ。彫刻の足元にプレートがあるが読めない。細かな雪が降りやまず、街灯の光が彼を浮かび上がらせる。優しくそして苦悩に満ちた表情を見上げる。僕の人生における最高の一瞬だ。
僕はその足元に唇をつける。すべての書を読みつくすより、深い感動に陥る一瞬だ。ラスコーリニコフがさらに奥深い僕の心に住み始めたのだ。

「罪と罰」を書いたというドストエフスキーの家を観光本の地図で探したが、見つからない。タクシーがこれだという家と違うがあきらめた。
 
翌朝は予定通り、朝6時起き、極寒の早朝の街へ出かける。彼の銅像は懐かしい。何年も見続けてた優しい表情で僕を迎える。座って考えている立派な銅像だ。そこから歩いて少し行くと、彼の晩年、死んだ棲家のある建物も見つける。そこで「カラマーゾフの兄弟」を書いた。100年以上も前だろうと思われる古い建物が並んでいる通りだ。当然しまっている。残念だが仕方がない。入り口の扉を何度も撫でる。それで感動する。無類の賭博好きだった彼は勝っても負けても悔悟に責められながらこの扉を通ったのだ。20か所ちかくかれはペテルブルグを引っ越したらしい。新婚の部屋、二度目の妻との部屋、幼児を亡くした部屋、すべてを追っかけたい。

帰り道、大きな野菜の卸市場を通ったので寄ってみた。大きな男たちが野菜、ネギや芹菜、白菜らしきものなどを売っていて買え、買えと言ってくる。にこにこ笑いでごまかして早々に出た。地下鉄で出勤してくる人たちに混じってやっとホテルへ戻る。

どこも美術館や部屋や店の中は暑く、外へ出ると気持ちがいが、すぐに寒くなる。
ラスコーリニコフの部屋から見えたという尖塔のイサク寺院の前の広場は寒かった。マイナス7度と言っていたが、風が強く10分も耐えられなかった。エルミタジュの前の広場も寒かった。ネヴァ河は凍っていて、凍った運河は人が歩いていた。しかし帰って来ると、その寒さは懐かしいだけだ。

プーシキンは一番の人気らしく、見事な銅像があちこちに立っていた。エカテリーナ宮殿の学習院で勉強した優秀なプーシキンの座像は雪の公園にあったが立派なものだった。また市内の芸術広場なるところの立像は彼の人気をうかがわせた。ほかに大きなレーニン像も残っていた。

モスクワはクレムリン、赤の広場、ボリショイ劇場などまわった。スターリン時代の建物、政庁、アパルトマンはどれも荘厳で、フルシチョフ時代になると急に貧素になったといっていた。グムデパートで皆が買い物をしているときに、抜け出してドストエフスキーの生家、生家博物館、へ行こうと思ったが、その日は休みで、しかもガイドはゼッタイに許してくれなかった。彼の少年時代にも触れたかった。そのあとバスは空港に向かう予定だったから。遅れでもしたらどれほど他人い迷惑をかけるか、、、。やすいツアーは不満だが、仕方がない。

最後に思い出すのは、ホテルドストエフスキーにある24時間営業のバー「ラスコーリニコフ」だ。入り口に彼の顔の「絵」が飾られている。優しいインテリの痩せた表情。その優しさが苦悩に歪んでいる。忘れられない顔だ。背景はセンナヤ広場の雑踏が薄く描かれている。また更に涙が出るほど彼がいとおしくなる。

お土産やも24時間開いているところがある。早朝そこでチョコレートや本を買った。読めないがロシア語の本「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」

時間外なのでどの博物館も閉まっていたが、それは、もう一度来い、という暗示だろう。
家に帰ると、庭に大きな椿が一輪咲いていた。ドストエフスキーの影をかすかにかすっただけの旅だったが、それでもまだそこから抜け出せない。







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