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花巻空襲から71年

2016年08月10日 | 日記

花巻空襲

 本日8月10日は、私の住む花巻では「花巻空襲」があった日として記憶されています。正午には、花巻空襲の犠牲者を追悼するサイレンが鳴っていました。

 JR花巻駅ロータリーには、「やすらぎの像」と呼ばれるモニュメントが建っています。モニュメントの女性像は右手に平和の象徴である鳩をとまらせ、左手には「こぶし」の木(花巻市の木)を持っています。

 

 1995年、花巻空襲50周年を記念して建立されたものですが、この「やすらぎの像」の裏には、空襲の被害の記録を記したプレートが掲げられています。


《昭和20年(1945年)8月10日ひる

来襲 米軍艦載機グラマン15機

投下爆弾 20個(推定)

機銃掃射 各所

死者 42名

負傷者 約150名

焼失家屋 673戸

倒壊家屋 61戸

資料 花巻市中央公民館発行「忘れまいあの日」より》。

 


 加藤昭雄氏の『花巻が燃えた日』(熊谷印刷出版部、1999年)という本では、花巻空襲による死者は少なくとも47名で、身元の分からない人々を加えると、60名近く、あるいはそれ以上にのぼるのではないかと記されています(20頁)。

「やすらぎの像」が建つ花巻駅前は空襲によって最も被害を受けた場所であったようで、駅前地区だけでも少なくとも32名が死亡したそうです。負傷者も多数、建物等も大きな被害を受けました。

 私が牧師をしている花巻教会は空襲の直接的な被害はなかったようですが、教会の記念誌には「教会堂の筋向いに爆弾が落ちて会堂の窓ガラスがめちゃめちゃになってしまった」との証言が残されています(中村陸郎氏の文章より)。

 一方で、教会が隣接する花巻の中心街は、空襲による火災によって甚大な被害を受けました(同書、19頁)。 
 落とされた爆弾は4発だけでしたが、1発の爆弾によって上がった火の手が西風にあおられて燃え広がり、現在の上町・双葉町・豊沢町・東町のほとんどを2日間にわたって焼き尽くしたそうです。花巻の中心街の死者10名はすべて爆弾および機銃掃射によるもので、火災による死者は出なかったそうですが、この大火災によって673戸もの建物が焼失したとのことです(当時の花巻町全戸数の約5分の1)。《燃えに任せた焼け跡はまさに焼け野原と呼ぶにふさわしく、家々は柱も残らないほどに焼け落ち、黒焦げになった土蔵だけが点々と残っていた》(同書、217頁)。

 火災によって焼失した家屋の一つに、宮沢賢治氏の生家がありました。賢治さんは敗戦の年の12年前にすでに亡くなっていますが、当時の豊沢町の生家には賢治さんの両親と弟の清六さん、また東京から疎開してきていた高村光太郎氏が暮らしていました。弟の清六さんが、ちょうど空襲の前日に光太郎氏の身の回りの品やお兄さんの原稿を防空壕に移していたおかげで、賢治さんの原稿は焼失を免れたとのことです。

 花巻に住む者として、この空襲の日のことを忘れず、記憶にとどめ続けてゆきたいと思います。

 

無差別爆撃としての空襲

 加藤昭雄氏『花巻が燃えた日』の中に、「無差別爆撃の思想」という項があります。花巻空襲の犠牲者は1歳から65歳のお婆さんまで、そのほとんどが民間人です。軍関係者は3名のみで、この3名も列車で移動中にたまたま空襲にあった非戦闘員であったとのことです(同書、284頁)。すなわち、花巻空襲も、戦闘員と非戦闘員の境界を取り払った「無差別爆撃」であったことを加藤氏は強調しています。

 加藤氏の著書の中で私が知ったのは、この「無差別爆撃」を初めて行ったのは日本軍であった、ということでした。1931年の満州事変における「錦秋爆撃」において、日本軍は史上初の無差別爆撃を行った、と加藤氏は述べています(同書、285頁(追記:加藤氏の文章は、正確には「第二次世界大戦において無差別都市爆撃を初めて行ったのは日本軍の『錦秋爆撃』であった」というものでした。無差別爆撃そのものを歴史上初めて行ったのが日本であったと加藤氏が記しているわけではありませんでした。筆者の読解が不十分でした。無差別爆撃」自体は、第一次大戦においてすでに行われています。お詫びして訂正いたします。2016.11.18)

 関東軍航空部隊が落とした75発の爆弾のうち、半数以上は軍関係施設を逸れ、錦秋駅近くに落下、15名の民間人の死者を出しました。のちに国際連盟のリットン調査団はこの爆撃の「無差別性」を厳しく批判しました。

 この無差別都市爆撃を組織的、大規模なものに発展させたのが、ピカソの『ゲルニカ』で知られる1937年のナチスドイツによる「ゲルニカ空爆」でした(同書、19頁。)。

 このナチスドイツによる無差別爆撃の戦法は、さらに日本軍に受け継がれてゆきます。1938年から始まる日本による中国四川省重慶に対する空襲(重慶空爆)はおよそ5年の長さにわたって繰り広げられ、結果、死者1万以上という惨禍をもたらしました(286‐287頁)。そのほとんどが非戦闘員である民間人でした。日本軍は相手国の戦意を喪失させるために、意図的に人口が過密する住宅街を狙ったのです。

 日本軍の「重慶空爆」によって確立された「無差別爆撃の手法」はさらにアメリカに引き継がれ、それが日本全土に対する大規模な空襲と、広島・長崎に対する原爆投下となってはね返ってきた、と加藤氏は述べます(288頁)。日本が手を染めた「無差別爆撃の手法」は、最後に、何十倍、判百倍もの規模の大量虐殺となって、自国に降りかかってきたのです。

 皆さんもよくご存じのように、空襲としての史上最大の大量虐殺となった3月10日の東京大空襲の死者は10万人以上、日本全土の150の都市に対する空襲による死者は計50万人以上。広島と長崎の原爆による死者は、その年だけで、合わせて20万人以上に上ります。これら虐殺によって失われた一人ひとりの命が、代替不可能な、かけがえのない命でした。

 満州事変に始まる「無差別爆撃」の狂気は、ここに極まりました。私たちは何としてでも、この狂気の連鎖に抗ってゆかねばなりません。     


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2 コメント

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知らなかったです (いのうえゆきこ)
2016-09-01 18:03:33
鈴木先生ご無沙汰しています。
花巻空襲のことを初めて詳しく知りました。
駅前のモニュメントを毎度素通りしてしまっていたことを今更ながら残念に思いつつ、興味深く読みました。
また、無差別爆撃を初めて行ったのが日本だったということも初めて知り、考えさせられています。こういう歴史こそ、語られなければいけないのに。
昨今の危うい空気に流されてしまわないように、もっと知らなければ、学ばなければと、あらためて思わされました。
ひとのこ通信、これからも楽しみにしています!
Unknown (Suzuki Michiya)
2016-09-07 19:18:05
ゆきこさん、この度はコメント&励ましのメッセージをいただきありがとうございます。
無差別爆撃を初めて行ったのが日本だったということを確かめるためにさらにいくつかの文献をあたる必要を感じていますが、日本が最初期に無差別爆撃を行い国際社会から非難された、というのは確かなことであると思います。
時代が造り出す空気に知らず知らず流されてしまわないように、私たちはより過去の歴史を学んでゆかねばなりませんね。
この度はありがとうございます!

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