日本の四季は美しい。特に2,3月の早春は命の恵みに満ち溢れ神の世界が際だって輝く。
今年は東京で3回も雪が降った。この厳しい冬の寒さを打ち破るかのように、庭に降り積もった雪の間から可愛らしい福寿草がひょっこりと2,3本顔を出した。茎の淡い緑はまさに春を告げる神の絶品であった。時の刻みと共に、真っ白いコブシの花、黄色い水仙、香り高い梅、それから日本列島は桜で包まれる。
今年の冬は、厳しい大雪に見舞われた日本から更に北に位置する北朝鮮を思うと、隣人である人々が、日常生活で飢えと寒さに凍えきり生存さえ危ぶまれるつらさを思いやられる。彼等との間は、独裁体制下であり国交もなく拉致の問題もあり大きな溝がある。人々の生活、生存に関わる政治の重大さ、貧困さ、危険さを思い知らされる。なんの情報もなく、お見舞いすら行くことも出来ない。
クリスチャンである私たちは「みことば」に生き、従うことが大切である。オバデヤ書で、主は「あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただながめているな。」と自分は大丈夫という思いが高慢を招き、隣人の苦しみに無関心となり神を遠くに押しやる。今一度、東日本の復興、北朝鮮の人々の幸いを祈ろう。
“故郷の山に向かっていうことなし、故郷の山はありがたきかな”
“雨にも負けず、風にも負けず、、、”
啄木と賢治の詩は、半世紀に渡って私が関西出身に関わらず逆境の時、いつも励まし慰めの歌であった。
10月末に、妻の親戚が住む南相馬の仮設住宅を訪ねた。これから厳しい寒さを迎えるために、暖房器を持参した大震災後二度目の訪問であった。
彼らは先祖から受け継いだ田畑、住宅を全て流され、近くに嫁いだ娘さんと夫の両親も流され、家も又流された。残された83歳になる老夫婦にとって負いきれないほどの大きな悲しみを受けている。
常磐自動車道は放射能のため広野町で閉鎖され、東北自動車道を迂回し高放射能で全村避難の飯館村、そして浪江町を通り抜け親戚が住んでいた海岸線にある村に到着した。高台から一望したとき愕然とする。創世記のソドムの廃墟を思わされるように寒々としたどこまでも続く荒れ果てた地であった。
これは大変だ!神の御手しかこの災いから生き残る道はないと直感した。さすが野田総理は「東北の復興なかりせば日本の復活はない」とその洞察力、覚悟を示した。希望こそ神の贈り物、來春には桃、こぶしが咲き乱れる福島の自然を夢み祈り続けよう。
三陸海岸の大自然の美は永遠の美しさをたたえています。空、山、海、川,野、日本人の心の故郷でもあります。岩手、宮城、福島、何千年も豊かに野の産物、海の幸を産み出してきました。そこに住む人々の素朴で、忍耐強い心を年月をかけ神は育ててきました。
今回の地震、津波によって目の前で家族をさらわれ、家々を流され、今も原発の恐怖は未解決のままです。気仙沼の町が津波によって石油タンクや転覆船の油が流れだし、まるで地獄の釜のようにぼうぼうと燃え上がっている火の海でした。
同じような体験を65年前大戦で経験しました。無差別大空襲、広島、長崎への原爆、目の前で多くの人が死に、家々は焼き払われました。国民は生きるため身を粉にして、戦後灰の中から極度の競争社会を働き続け、GNP世界第2位に上り世界の奇跡と言われました。しかし,私たちは気づきませんでした。物の世界、お金こそすべてというサタンから来る負の資産が生まれ大きな苦しみに出会っています。
年間3万人以上の自殺者が12年間続いています。今回の大震災が死者行方不明者約二万五千人ですから、毎年の自殺者の数がいかに大きな苦難であるか気づかされます。災害支援、補償まさに物の世界のやりとりには、十二分な注意が払わなければなりません。東京の物優先、効率の世界を極度に持ち込まないようにすることが大事です。与える方も、受ける方も東北の良さを守るようにしましょう!特に政治家は、「心の荒廃」を二度と生み出さないような対応が大切です。
私たちクリスチャンができる最大の支援は、ヨシャパテ王が祈ったように今回の災禍は大きく、神の戦いであり教会は心を一つにして祈ることです。
厳しい寒さの2月、節分を控え朝の6時半東京も氷点下を示している。日本海側は記録的な大雪、東京は乾燥注意報が史上第二位。火事が頻発し、新型インフルエンザが猛威をふるっている。
昨夏の炎熱地獄を思い出すと日本の恵みに満ちた美しい四季が温暖化で壊されている。神から託された非力な動物、植物がどんなに生きるために苦しんでいるか人は知らない。朝明けに散歩する。一輪の水仙が凍てついた荒地の片隅に、健気に凛と咲いていた。思わず立ち止まった。まさに神の愛が凝縮していた。神の豊かさ、優しさに涙する。
日本の各教会は教会総会を開き一年間の教会活動の総括と新年度の活動方針を立てている。教・財勢、若者達の心の苦悩を思うとき、厳しさ、閉塞感が立ちふさがり思わず、立ちすくむ。そのなかで、妻こそ生きるも死ぬも同じ戦友であると心から感謝する。
政府も日本経済のデフレからの脱却、人口一億人割れ、急速な高齢化社会と激変する社会で出口が見つからず、大きな痛みを国民に強いるであろう。教会も更に厳しさに直面する。イエスは4千人の給食の後、弟子たちに言われた。(マタイ16:9)「まだ分からないのですか?」私の心は神に向かってあやしく燃えだした。

風は自由自在に吹き抜ける、正に全能の神の息吹。冬の嵐の時は荒々しく、険しくそびえたつ山々の氷や雪をごうごうとはねとばす。春には、山里の乙女の頬を麗しく、優しくなでていく。私たちの喜びの心、悲しみの心すべてを知りながら、風は、だれにも姿を見せず、縦横無尽に四季の空を駆けめぐる。だれも捕らえることは出来ず、その力は測り知れない。風が吹き抜けると大きな木々の枝枝、葉っぱは風の中で高笑いし、命に溢れ揺れている。自然界は神が創造されたように美しく、豊である。

一方、日本の政治、経済、社会、キリスト教界は大変困難な時代を迎え、更に悪化しようとしている。社会は、互いに赦しのない冷たい厳罰主義の流れとなり、聖書が預言しているように愛がさめていく時が来たのだろうか。教会は、クリスチャンは更に、誠実に主と共に「みことば」に生き、歩み直すときが来たのだろう。エゼキエル書には「悔い改めて、生きよ」とあり、詩篇には「苦難の時には私を呼べ!」とある。皆で静まって祈ろう。

この季節になるとアジサイの花が絶品、雨露に濡れはっとするような美しさをたたえる。青、淡緑、白、紫、ピンク、、、濃い緑の葉っぱに包まれた丸い顔が一杯だ。
読売新聞で、宗教学者山折哲雄先生の鋭い洞察に出会った。90年前の菊池寛の二冊の小説「恩讐の彼方に」、「ある抗議書」と2007年カンヌ映画祭主演女優賞をもらった「シークレット・サンシャイン」という映画についての洞察である。
キリスト教の神の贖いと仏教の人による贖罪思想の違い。韓国映画の主人公は、自分の子供を誘拐し殺害した犯人が死刑執行前に簡単に神の祝福(洗礼)を手にし、大きな喜びと感謝にあることを知って、人格崩壊の危機にさらされる。凶悪な犯罪を犯した人間が赦されるのは、無限の贖罪行為が積み重ねられた果てにおいて初めて可能になるのだというこわい執念が、その背後に横たわっているのである。
今日我々の社会に広がり始めている人による厳罰主義の声も、そこに発しているのではないだろうか。昨今の小沢一郎氏への法治の枠を越えた裁きの思想など、、、。真理であればよいが一歩間違うと大きな危険がある。
隠された罪はいつか明らかにされると聖書は言っているが時に、衆愚政治の怖さ、愚かさは、レハブアムの過ち、イエスを十字架に架けた民衆の姿を通して語られている。
人によらず、神に全てを委ね、神の愛に生きる私たち(主にあって、よろこび、いのり、すべてに感謝)何と幸いでしょう。
「神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)
アメリカ政界では、黒人の政治家として、かってパウエル国務長官、ライス国務長官という優れた政治家がでました。ついに、アメリカの、全世界のリーダーとしてオバマ氏が大統領になったのはついこのまえのことです。
4年ぐらい前、オバマ氏は自分の先祖探しの旅へ。おじいさん、おばあさんが住むケニアを訪れたルーツ探しの映像がテレビに流れていました。まさに神のみ手で、歴史は大きく動いたのです。黒人の奴隷売買制度がリンカーンによって廃止されましたが、すでに1,500万人のアフリカ人がアメリカ大陸に売られてきたのです。

1956年、まだ約50年前の出来事です。最高裁判所で人種差別の憲法違反判決が下されたのは、キング牧師率いる人種差別反対運動を通してでありました。平和運動家としてキング牧師は先頭に立ってワシントンに向かって10万人のデモ行進を指導し、又、バスボイコット運動は一年以上も続きました。リンカーン記念堂前での演説は歴史的な名演説として知られています。
彼は暗殺され殉教しました
「私には夢がある。いかなる困難があろうとも、私はなおも夢を抱いている。その夢とは、何時の日かこの国に、すべての人は平等という当たり前の考えが実現するだろう」ということです。“アイ ハブ ア ドリーム。自分の息子が何時の日か、白人の子供と一緒にバスに乗り、同じテーブルで食事を共にする” 彼の心は、イエス様から出る隣人への「聖・愛・義」が清冽な泉のように流れ、勇気に満たされていました。
今も世界中に差別があります。肌の色が違うから、民族が違うからという理由で、人々が憎みあい、争っています。私たちの周りにも、自分と違っていると言う理由で仲間はずれにしたり、いじめたりする差別があります。けれども、神様がすべての人を愛していらっしゃることを忘れてはなりません。すべての人が愛し合い、お互いに尊重しあうべきなのです。
若いオバマ氏は、呼びかけました。チェンジ! 変革!大いなる希望を抱いて、世を変えよう。人種、文化、宗教の違いを乗り越えよう。そして今、罪にまみれ、不条理に支配された世界に真の平和(イエスの平和)を求め、「核兵器無き世界」の実現に向けて一歩を踏み出しました。
伝統的なナショナリズムをこえた初めての政治家の出現にクリスチャンとして神の御手を覚え緊張する。
2010年4月13日
このわらべ歌は戦後の幼い私の正月風景でした。戦後の貧しさの中ナイフで指を傷つけながら、嬉々として凧やコマを作った。

2010年正月、1日の元旦礼拝3日の聖日礼拝のため八王子の教会へと車を走らせながら、その風景はわずか60年で全く違っていました。わらべ歌に歌われている子供達の遊びはひとかけらも残っていなかったのです。

人の世の移り変わりの激しさ、日本固有の美しい文化と現実社会とのアンバラスの差、一方で、神が創られた大自然は変わらず、悠久なる空、雲、富士山をバックに稜線を描く丹沢、川の水の流れ、草木の美しさは不変で驚くように豊かなものでありました。

日本の政治、経済界はその成長回復のためアジア諸国との連携が叫ばれています。儲かればよいと言う資本の論理で突き動かされていくと、美しい細やかな日本古来のものは中国、インドの巨大な胃袋に飲み込まれ、いつしか日本の輝き、知恵は失われていくことでしょう。
まどみちお先生の童歌“ぞうさん、ぞうさん、お鼻が長いのね!そうよ、母さんも長いのよ”
私たち一人一人の個性を愛する愛こそ「神様の贈り物」なのです。
クリスマスの時期になりますと私は約60年前小学校3年生ぐらいのときのことを思い出します。戦後間もない時で、暖房の無い寒い図書室で私は一冊のアンデルセンの絵本に出会いました。マッチ売りの少女です。アンデルセンは敬虔なクリスチャンでありましたが、そんなことは幼い私は知るよしもありません。
どなたもご存知の物語ですが、抜粋をいたしますと「雪の降る晩です。暗い道を、小さい女の子が、とことこ歩いていました。「マッチは、いりませんか。マッチを買ってください。」女の子はお腹はぺこぺこだし寒くて凍えそうでした。明るい家の中からは、クリスマス・イブを祝う楽しそうな声が聞こえてきます。おいしそうな匂いもしてきます。「ああ、明日はクリスマス、今日はみんなお家で、楽しくすごしているのに。」寒くて、とうとうある家の前にしゃがみこんでしまいました。あまりの寒さに、マッチを出して一本すりました。

シュッ、ぱっと火が付くと女の子は、手を広げました。「ワア。あったかい。ストーブみたい。」足をあっためようとしたとき火は消えてしまいました。シュツ、女の子は二本目のマッチをすりました。・・・明るい光の中に、死んだ優しいおばあさんが現われました。にっこり笑っています。「おばあさん、私を連れてって。火が消えれば、あばあさんも、いなくなっちゃうんでしょう。おばあさん待って」女の子は叫ぶと、急いで残っているマッチをみんないっぺんにしゅっとすりました。ぱっと昼のように明るくなりました。おばあさんは、優しく女の子を抱きかかえました。そして、高く高く空へ、神様の側へ上っていきました。
あまりにも美しく、あまりにも悲しいお話です。何時しか、少年のほほには同じ年頃の少女の死を思い、大粒の涙が流れ落ちていました。少年の周囲にも戦後間もない時でもあり、見知らぬ人が戦争で家を失い、家族を失い、村々を流れ歩き、私の村でも寒い冬には吹きさらしの海の番小屋で凍え死ぬ人が、一冬に何人もでました。
この少年にとって少女の貧しさ、冬の厳しさ、命の危険が幼いなりに体験的に良く分かっていたのです。今も私は、いつもクリスマスイブのときこの「マッチ売りの少女」のことを思い出します。このマッチの火のようにすぐに消えてなくなるものでなく、永遠の火があればどんなに幸いな事でしょう。
イエス様のご誕生・福音の訪れについて三つのことを見てみたいと思います。
先ず第一に7節から「飼い葉おけに寝かせた。」とありますから、家畜小屋でお生まれになったことが分かります。人々の救い主でありますお方がこのような低い状態で生まれたのは、この世でどんなに低く貧しい境遇に置かれた人にとっても、イエスはその人の友となることが出来るという素晴らしい意味を持ちます。神の御子が馬小屋でお生まれになったのです。どんな人間にも自分の生まれを誇らせないためです。
第二にこの幼子の誕生は、羊飼いたちに最初に知らされたのです。9節〜12節に「今、私はこの民全体のための素晴らしい喜びを知らせに来たのです。ダビデの町で、あなた方のために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」
当時、羊飼いはその仕事の性質上、律法という多くの規則を守ることが難しい状態にありました。そのため見下げられ、裁判で証言することも許されていなかったのです。それにもかかわらず、幼子誕生の知らせは、社会で蔑まれていた最下層の羊飼いたちに真っ先にもたらされたのです。王様や貴族や祭司たちにではありませんでした。神様の温かい心が痛いほどわかります。
日本では自殺者がこの11年、年間3万人を越えています。主な理由は鬱などの病気、経済的破綻です。そのうち8割の方が一度は教会の門をくぐったといわれています。又クリスチャン人口は1%しかありませんが、国民の大半はイエス・キリストの名、クリスマスをよく知っており、又、マッチ売りの少女の物語や、賛美歌にもとづいてクリスチャンが作った『夕焼け小焼けの赤とんぼ』、『ウサギ追いしかの山』などは、多くの日本人の心に励まし、慰めとなっています。
私なども、小学生の時、大学生の時、社会人になってもつらい時にしみじみと、歌い続けました。このように日本の教会は伝道上大きな基盤が築かれていることは神の恵みです。日本はキリスト教について不毛の地と自分自身も言ったりしますが決してそうではありません。したがって、何かが日本のクリスチャン、教会に欠けているように思われます。それは実生活の中での「生き様」です。イエスの証人として輝くことが出来ないのです。
第三は結論的な部分であります「平和の君」としての姿であります。14節で「いと高きところに、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」、イエス様の平和に対する象徴的な姿は、ゲッセマネで逮捕されたときの姿に大きく表れています。
ペテロが相手の兵士の耳を切り落とすときイエス様は「剣を取る者は皆剣で滅びます。」また「それとも、私が父にお願いして十二軍団より多くの御使いを、今私の配下においていただくことが出来ないとでも思うのですか。だがそのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」と敵方の兵士の耳を元通りに復元されました。そのとき弟子達は皆イエス様を見捨てて、逃げてしまったのです。ペテロもヨハネもヤコブも。
ここでは二つのイエス様の姿が強調されています。一つは切り落とされた耳を復元される姿。倒れるものを支え、かがんでいるものを起こされるイエス。二つ目は平和の君の姿です。右のほほを打たれたら左のほほを与えなさい、70倍赦しなさい。憎むものを愛しなさい。
家族関係は生きるうえで最も大切な基盤です。イエスの愛に覆われ、何よりも身近なものへの愛を、イエスを愛するように夫を愛し、妻を愛し、子供たちを愛しましょう。平和に立ちはだかる暴力連鎖を断ち切るためにも私たち一人ひとりの心の奥に潜む「争いの根源プライド、高ぶり、自己中心」を日常生活の中で一つ一つを打ち砕いていかなければなりません。
簡単なことではありません。ジョン・ケネデイもオバマ大統領も共に極めてすぐれたクリスチャン政治家ではありますが、平和の君・イエスにつまずいております。十字架からあふれ出る贖罪の愛の力しか解決の道はありません。ヨハネの福音書に「闇は光に打ち勝たなかった」と証言しています。

平和が如何に難しくあっても主の十字架の愛を見上げるとき、私たちは、喜びと感謝の中に希望の火をともし続けることが出来ます。そして、生きるための力を得るのです。主の誕生こそすべての始まりであり、、私たち一人ひとりを罪から救い出す十字架への幕開けなのです。
いつしか八王子高尾の空も天高く、流れゆく雲も神の息吹の中にある。山々、里々が黄金色に輝く喜び。目覚めの朝、この豊かさ、ぬくもりの中に讃美する。
かつて、シンガポールのホット、ホッター、ホッテストの呪縛にとらわれていた鈍な我が身も、日本古来の“秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ、、、”と応答する美への回復がある。
秋の七草の一つ道ばたに咲く萩の美しさに思わず頬を寄せ、この天与の恵みを深く味わっている幸いなる武蔵野の散歩道。
このたびの政権交代は、人の罪が作り上げた何世代にもわたるこびりついた権益社会の悪の結果が、至る所でほころび露呈した。日本の政治は大きく変化するが、大きな痛みを伴う。日本国民は勇敢にも選んだ。この挑戦は、鳩山さんとはいえ、人にはとても困難であろう。
罪の除去には神への祈り,神の御手が必要である。阿部、福田、麻生政権が泡沫のように現れては消えていった人の興亡の哀れさをおぼえる。後には混乱と痛み以外、何も残らなかった。
人は、愚かにも何度も同じ過ちを繰り返す。滅亡への道へと歩んだ南北イスラエルの王達のように。静まって、神の世界の幸いを求めよう。“あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です”










