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年寄りが昔話をすると自慢か愚痴になるので、発言は遠慮してきましたが、歳を取ってはじめて分かることもあるので、はじめます。

私鉄

2017-07-12 06:12:08 | 日記

我が国に蒸気機関車が走っていた時代には、蒸気機関車の国鉄と電車の私鉄の区別が容易でしたが、国鉄が官営から公社になり民営化されるに及んで、今やJRとそれ以外の私鉄としか区別のしようがなくなりました。

明治政府は1872年10月14日明治5年9月12日)に新橋駅-横浜駅間で官営鉄道を開業し、1874年5月11日には大阪駅-神戸駅間を開通させました。政府は西南戦争後に財政難に陥り、半官半民の「日本鉄道」が1881年(明治14年)に設立され、その後幹線を担う私鉄が次々と誕生して「北海道炭礦鉄道」「関西鉄道」「山陽鉄道」「九州鉄道」を併せて明治の「五大私鉄」と呼びます。

日露戦争で鉄道の戦時輸送の有効性を認識した一方、私鉄の割拠による路線の統一運用の困難さを痛感した政府は戦後に五大私鉄を含む私鉄17社を国有化しました。買収前の官営鉄道の総営業距離は2,459 km、買収した私鉄路線の総営業距離は2倍の4,806 kmです。

官営鉄道では蒸気機関車が客車を牽引したのに対し、明治末期から大正時代に都市近郊に建設された私鉄の多くは最初から電車を走らせました。1899年(明治32年)大師電気鉄道(京浜急行電鉄大師線)が六郷橋駅-川崎大師駅2.5 km間で初の電気鉄道を開業し、1904年には甲武鉄道JR東日本中央本線飯田町駅-中野駅間が電化されました。

1905年関東では大師電気鉄道の品川駅-神奈川駅間、関西では阪神電気鉄道梅田駅-三宮駅間が開通しました。阪神電気鉄道は一部で道路上を走る軌道扱いでしたが、開通時からボギー台車を備えた高速電車を使用し、国鉄から客を奪いました。日本鉄道の山手線1909年に電車運転に切り替えられました。

1910年京阪電気鉄道天満橋駅-三条駅間で大阪京都を結び、1914年初めて「急行」を運転します。箕面有馬電気鉄道(阪急電鉄宝塚線箕面線梅田駅-宝塚駅箕面駅間も開業し、創設者の小林一三は乗客誘致のために沿線の宝塚温泉に少女歌劇を創設しました。

1911年京成電気軌道(京成電鉄)が押上駅-市川駅間を開業、1926年成田まで延長されました。1913年京王電気軌道(京王電鉄)が笹塚駅-調布駅間で営業を開始し、1914年大阪電気軌道近畿日本鉄道)の上本町駅-奈良駅間が開通しました。東武鉄道参宮急行電鉄など100 kmを超す長距離運転を行う私鉄、阪和電気鉄道新京阪鉄道など現在と遜色のない高速運転を行う私鉄も現れます。

1930年(昭和5年)までには、現在大手私鉄と呼ばれている鉄道会社の主要路線はすべて開通しています。大手私鉄は乗客誘致のために沿線の住宅地を開発し、遊園地を作ります。阪神電鉄は1924年に甲子園球場を建設して1935年にはプロ野球大阪タイガースを設立、阪急電鉄も翌年阪急軍を設立して対抗しました。

私鉄沿線の住宅地開発は、箕面有馬電気軌道阪急電鉄)が1910年池田駅1911年桜井駅箕面市)近郊の開発を行ったのが先駆けです。1920年代には甲子園藤井寺の開発が行われ、大阪住宅経営株式会社や関西土地株式会社によるイギリスの田園都市をモデルとした千里山住宅地(吹田市)、大美野田園都市堺市)、初芝堺市)などの開発が行われました。

東京では渋沢栄一が1918年に田園都市株式会社を設立し、理想的な住宅地として1922年に洗足田園都市を開発・分譲し、交通の便のために鉄道会社(東京急行電鉄)を設立しました。交通機関よりも住宅地の開発が先行した発想で関西とは逆でした。

1920年(大正9年)東京の白木屋百貨店が阪神急行電鉄(阪急電鉄梅田駅構内に店舗を開きましたが、ターミナルデパートの将来性を確信した小林一三は梅田駅ビルを地上8階地下2階に全面改築し、1929年(昭和4年)に阪急百貨店を開きました。現在の阪急うめだ本店は、2010年(平成22年)竣工の地上41階地下2階の梅田阪急ビル内にある関西地区最大級の百貨店です。

日本の百貨店の2大潮流の1つとなったターミナルデパートは、1934年(昭和9年)に渋谷駅に出来た東横百貨店(東急百貨店)や、1937年阿倍野橋駅に出来た大鉄百貨店(近鉄百貨店阿倍野本店)などが私鉄の直営で、1932年(昭和7年)の南海鉄道の髙島屋、1931年の東武鉄道の松屋などは、既存の百貨店が私鉄のターミナルに進出したデパートです。大手私鉄による百貨店事業への進出は1960年(昭和35年)代まで続けられ、大手私鉄のほとんどは系列に百貨店を持つことになりました。

戦前の大手私鉄各社の沿線開発の一環に、学園都市開発があります。高等教育機関の招致は沿線開発を促進し、乗客数の増加で収益を上げました。小田急の成城学園前駅付近は武蔵野の雑木林原野が広がっていましたが、小原國芳は最寄り駅開設の約束を取り付け、学園建設資金を捻出するため周辺の土地2万坪を購入し、区画整理して売り出します。

1927年(昭和2年)4月成城学園前駅が開業しました。学園用地2万4千坪のうち1万坪は地元の大地主鈴木久弥の寄付によるもので、成城学園が売り出したのは駅北側、鈴木久弥が駅南側を売り出しました。

成城高等学校は1926年(大正15年)に設立された7年制の私立旧制高等学校で現在は成城大学となり、成城学園は小学校から高等学校までの総合学園です。1927年10月に小田急全線の複線化が完了して急行の運行が始まり、多くの文化人が移り住みました。1932年には東宝撮影所が出来、この関係者も移り住みます。

1936年(昭和11年)に東京市世田谷区に編入されて成城町となり、1970年(昭和45年)の住居表示で成城一丁目から九丁目になりました。現在は成城学園の他に東京都市大学付属中学校・高等学校区立砧中学校、科学技術学園高等学校東京都立総合工科高等学校東京都市大学付属小学校などの学校群があります。

第二次世界大戦中、国策上必要な産業用路線は国有化の対象になりました。1938年(昭和13年)の「陸上交通事業調整法」で私鉄の地域ごとの集約が定められ、1944年に現在の東京急行電鉄小田急電鉄京浜急行電鉄京王電鉄相模鉄道の路線が東京急行電鉄(大東急)1つに集約されます。

関西では1943年阪神急行電鉄京阪電気鉄道が合併して京阪神急行電鉄が、1944年関西急行鉄道南海鉄道が合併して近畿日本鉄道が誕生しました。豊川鉄道鳳来寺鉄道三信鉄道伊那電気鉄道の4私鉄が国有化によって一本化され、国鉄の飯田線となったのもこの時です。この路線は図らずも終戦前の国鉄で最も長い電化区間となりました。

第二次世界大戦で私鉄が蒙った被害は、専ら電車でした。私鉄の路線領域である首都圏には海外からの引揚者が数百万人規模で流入したため、通勤・通学時には座席にも立ち、連結器の上にも乗るほど私鉄の輸送力は極度に逼迫しました。

戦後のGHQの指示による財閥解体に並行して、戦時中に大合併した私鉄は1947年から分割されて、東京地区では大東急東京急行電鉄小田急電鉄京浜急行電鉄京王帝都電鉄の4社に、大阪地区では近畿日本鉄道から南海電気鉄道が分れ、京阪神急行電鉄から京阪電気鉄道が分かれました。

私鉄の車両は次第に新型に置き換わって編成も長くなり、運行速度の向上と急行の増発で通勤所要時間が短縮されていきます。首都圏の私鉄には富士見台とか富士見ヶ丘と云う駅名が結構多く、終戦直後にはそのほかの多くの駅のホームからでも富士山が眺められましたが、次第に大きな建物が建って富士山が見えなくなります。

1957年に登場した小田急の特急電車(3000形電車)は、中空軸平行カルダン方式と連接構造の軽量車体の採用で、速度と乗り心地がとも画期的に優れた電車で、新宿と小田原を結び、当時、狭軌で最高速となる145 km/hを記録しました。

 

1960には東京地区に通勤時には乗車率300%を超える路線があり、この混雑解消のために国鉄は「東海道本線」「中央本線」「総武本線」「東北本線」「常磐線」の5線に電車線を併設し複々線化しました。

東京地区の私鉄と国鉄は、営団地下鉄都営地下鉄の路線に郊外からの通勤電車がそのまま乗り入れる「相互直通乗り入れ方式」により、乗客の利便性向上とターミナル駅の混雑を緩和しました。相互乗り入れは1960年に京成電鉄が都営地下鉄に乗り入れたのが最初で、1962年の東武鉄道の地下鉄日比谷線乗り入れが続きます。

大阪では阪急電鉄堺筋線乗り入れ以外には進展せず、乗降客の増加対策としては阪急電鉄の梅田駅1973年9線10面)、南海電鉄難波駅1980年8線9面)などの大規模ターミナルで対応しました。阪急梅田駅は自動改札を全面的に採用した最初の駅です。京阪電気鉄道近畿日本鉄道は市内中心部へ路線を延ばして、地下鉄との乗り換えの便を図りました。

戦前に私鉄沿線に開発された住宅地は、沿線の「線」と駅周辺の「点」で成り立っていました。線と点以外には広い農地や雑木林が残されていましたが、戦後の大都市周辺への人口集中の結果、1960年代から1970年代前半にかけて急速に宅地化が進み、各私鉄直営の不動産部門や沿線の住宅地開発目的とした不動産会社が次々に設立されていきます。

その結果戦前の「線」と「点」の間がすべて宅地化されて、「面」になりました。「面」内の住民の日常生活のための商業施設の需要が強く喚起され、私鉄のバス事業も有力な面内交通手段となりました。

私鉄は不動産業で鉄道以外の事業のノウハウを獲得し、事業を次々に多角化していきました。その一環としてホテル業にも進出し、国立京都国際会館が1966年洛北の宝ヶ池に誕生した際、西武鉄道が国際会議場に隣接した最高級のホテル(現グランドプリンスホテル京都を建設し、外国からの要人を迎え入れて注目されました。プリンスホテル系は現在4つの最高級の「グランドプリンスホテル」の他、定評のある「プリンスホテル」を全国に多数所有しています。

東急はシティホテルの「東急ホテル」とビジネスホテルの「東急イン」を全国の主要都市や観光地に次々に開業しました。現在は最高級ブランドの「ザ・キャピトルホテル東急」を筆頭に、「エクセルホテル東急」「東急REIホテル」までブランドを細分化して展開しています。

この他に全国チェーンの「第一ホテル」を中核とする阪急阪神HDや、西日本を中心に展開する「都ホテル」を抱える近鉄グループHDが、鉄道系ホテルの大手です。東急観光・近畿日本ツーリスト・阪急交通社などの、旅行業者としての私鉄の実績も見逃せません。

私鉄になったJRとその他の私鉄の現在の売上構成比をみると、JRでは今でも交通が売り上げの65%以上を占めますが、その他の私鉄では本業の鉄道による売り上げは30%乃至それ以下です。

 東急電鉄の輸送人員は私鉄最大、営業利益は首都圏地域で首位です。継続的な沿線開発で東急の輸送人員や運賃収入は増加していますが、営業利益構成比をみると交通の割合は36%に過ぎません。二子玉川から中央林間の東急多摩田園都市地域で展開した多くの商業施設、渋谷や二子玉川を始めとするオフィス物件、大井町線沿線の賃貸住宅などの不動産の営業利益が47%と、ほぼ5割を占めます。

近鉄グループでも営業利益は交通48%、不動産26%で、阪急阪神電鉄では物流が別会社のため構成比には含まれませんが、交通40%、不動産38%と、いずれも交通による営業利益構成比は50%に達しません。

私鉄が鉄道会社でありながら鉄道会社でなくなったのは、戦後、私鉄交通網に沿って集中した巨大な人口に対して、日々の生活手段を提供する商業圏が私鉄によって確立されたためです。

私鉄は人口集中に伴う不動産業で成功し、不動産業の結果手にした広範囲の住宅地対象の商業圏の確立にも成功しました。これらの事業で得たノウハウを活かした経営の多角化は、自社の沿線を超えて全国展開する流通業・ホテル業・観光業にも及び、海外進出まで果たしています。

私鉄の事業の構成は戦前と戦後では、まったく変ってしまいました。最近の世の中の変化はIT化による目覚ましい変化が主導していますが、私鉄と云うアナログに属する世界でも、時代の流れが大きく変わったのを如実に感じさせられます。

 

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