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年寄りが昔話をすると自慢か愚痴になるので、発言は遠慮してきましたが、歳を取ってはじめて分かることもあるので、はじめます。

1964年

2017-03-08 06:16:52 | 日記

1964年は誰もが知っている、前回の東京オリンピックが開催された年です。現在の我が国はなんでもある世の中で、ないのはカジノくらいのものですが、1964年はカラーテレビクーラー・カーの新三種の神器が喧伝される前で、食料不足からは解放されても、まだ、生活様式は戦後から大きく変わってはいませんでした。

1964年は東京オリンピックによって、日本が再び国際社会に復帰した意味を持つ特別な年です。日米開戦前の1940年昭和15年)の開催権を返上した東京は、敗戦後の1964年(昭和39年)の開催地に再び選出されたのです。

開催の決定した日本では「東京オリンピック組織委員会」が結成され、国家予算として国立競技場をはじめとする施設整備に164億円、大会運営費94億円、選手強化費用23億円を計上し、オリンピックは国家プロジェクトになりました。

我が国では岩戸景気と呼ばれる好景気1958年昭和33年)7月から1961年(昭和36年)12月まで42か月間続きましたが、1962年は不況の年でした。オリンピックの開催に向けて競技用施設・選手村・公共交通機関などのインフラや、観戦客を受け入れるホテルに至るまで、東京都内のみならず日本各地で様々な建設・整備が行われ、東京オリンピック由来の好景気に繋がっていきます。

オリンピックのために米軍から全面返還された代々木のワシントンハイツ跡地に主たる選手村を建設し、八王子(自転車競技)、相模湖(カヌー)、大磯(セーリング)、軽井沢(総合馬術競技)に4つの選手村が設営されました。

競技場としては国立競技場国立霞ヶ丘陸上競技場秩父宮ラグビー場国立代々木競技場)・日本武道館駒沢オリンピック公園岸記念体育会館織田フィールド代々木公園陸上競技場)・三ツ沢公園球技場が造られました。

交通機関・道路等のインフラとして東海道新幹線東京モノレールの開業、東京国際空港のターミナルビル増築・滑走路拡張、首都高速道路名神高速道路の整備、環七通り六本木通りの拡幅、整備が行われます。

ホテルニューオータニ・ホテルオークラ・東京ヒルトンホテル(現・ザ・キャピトルホテル東急)・東京プリンスホテル等の一流ホテルの建築もオリンピックに合わせたものです。

東海道新幹線は1959年(昭和34年)4月20日に着工し、オリンピック開会直前の1964年(昭和39年)10月1日に開業しました。在来線は1956年(昭和31年)に電化され、特急「つばめ」と「はと」は東京駅大阪駅間を7時間30分で走り、1958年(昭和33年)には電気機関車が牽引しない電車特急「こだま」が6時間30分で走りましたが、1964年の東海道新幹線「ひかり」は東京新大阪間を4時間に短縮したのです。

開業時の新幹線車両は鼻先の丸い0系車両で、普通車グリーン車・ビュフェをもつ車両を組み込んだ12両編成でした。1970年(昭和45年)の大阪万博で16両編成が登場しました。時速200kmを超える高速運転のためレール幅は在来線の狭軌(1,067mm)ではなく幅の広い標準軌(1,435mm)とし、架線の電圧も在来線の交流2万ボルトから2万5千ボルトにしました。

新幹線は定時性が高く、年間12万本の列車が運転される東海道新幹線の2011年度の平均遅延時間は36秒です。2015年度の1日当りの列車本数は358本、輸送人員は44万5千人で、現在最速の「のぞみ」は新大阪発200号が2時間23分で東京に着きます。 

高度経済成長が始まった1950年代後半、東京では車の急増で交通渋滞が慢性化しました。1959年(昭和34年)首都高速道路公団が誕生し、1962年(昭和37年)12月20日 首都高速道路初の路線として、京橋 - 芝浦 (4.5km)が 開通しました。翌1963年12月21日 本町-京橋、1号羽田線 芝浦-鈴ヶ森、都心環状線 呉服橋-江戸橋JCTが開通します。

1964年8月2日 1号羽田線 鈴ヶ森-空港西、八重洲線 汐留JCT-新橋、神田橋-4号新宿線初台、都心環状線 呉服橋-神田橋が開通し、9月21日 三宅坂JCT-霞ヶ関10月1日 浜崎橋JCT-芝公園、3号渋谷線 渋谷-渋谷(環状線とは未接続)が開通しました。

これによって東京国際空港(羽田空港)から銀座東京駅皇居周縁・国会議事堂霞ヶ関官庁街などを経由し、国立競技場まで繋がる首都高速都心環状線が完成したのです。

この年は我が国にとっても、世界史の上でも、一つの転換点となる年でした。我が国はオリンピック招致の成功で、4月に経済協力開発機構 (OECD) への加盟が認められ、国際通貨基金(IMF)でもIMF14条国からIMF8条国へ移行しました。

国際的には10月12日打ち上げの史上初の3人乗り宇宙船ソ連ボスホート1号が東京上空を飛行し、オリンピックに参加する「世界の青年に熱烈な挨拶」を送りました。ソ連のフルシチョフ首相の解任、キング牧師ノーベル平和賞受賞の決定も会期中の10月14日です。10月16日には中国による初の核実験が行われました。

イギリス領北ローデシアは閉会式の日の1964年10月24日にザンビアとして独立したため、開会式と閉会式とでは国名が変わり選手村の国旗も新国旗に替えられました。

アメリカは8月2日4日に北ベトナム魚雷艇によるアメリカ駆逐艦への魚雷攻撃があったとして、8月5日より北ベトナムに対する大規模軍事行動を起こします。ソンミ村虐殺事件や無差別爆撃、枯葉剤やナパーム爆弾などの非人道的な軍事行動が批判され、世界各国で大規模な反戦運動が発生した10年間に及ぶベトナム戦争の始まりでした。

東京オリンピックでは、コンピュータによるリアルタイムの記録管理が初めて行なわれました。それまでもコンピュータは使われていましたが、記録管理はバッチ処理で最終的な公式記録の確定・レコードブックの作成には、大会終了後数ヶ月を要していました。

東京大会では日本青年館のプレスセンターに設置されたコンピュータでリアルタイムに記録が管理され、全競技会場の端末から入力された競技の記録が集められて、競技結果も各端末で参照出来ました。公式記録の確定も速やかで、閉会式では全競技の記録本がブランデージIOC会長に手渡されました。

このシステムは日本IBMが2年半がかりで構築したもので、リアルタイムシステムが日本で普及する契機となり、日本IBMは三井銀行第一次オンラインシステムマツダの生産管理システムなど、多くのリアルタイムシステムをその後手がけていきます。

東京オリンピックはテレビ中継技術が格段に向上した大会となりました。東京オリンピックの放送は衛星経由で、現地の映像をシンコム3号で日本からアメリカへ送り、その映像をリレー1号でアメリカからヨーロッパへ中継する方式でした。

スローモーション画像で競技での微妙な結果が、初めてその場で確認できるようになり、その後のスポーツ中継には欠かせない放送技術になりました。日本での放送はNHKも民放も同じ映像を使い実況アナウンスは局別にしたので、同じ映像で違う実況放送が行われました。

1964年には白黒テレビの普及が急速に進み普及率は87.8%に達しましたが、当時非常に高価だったカラーテレビの普及率は1% 未満で、カラーテレビの普及が白黒テレビを上回ったのは1973年(昭和48年)になります。

当時アメリカの委任統治下にあった沖縄では、琉球政府主席が「早期復帰がかなわないのなら、せめて本土と同じテレビが見たい」と関係各所に陳情、電電公社マイクロ回線那覇まで延長されて9月1日に開通し、本土と同時放送されました。オリンピックの放送は、結果的に沖縄住民の日本人意識を高めたとされます。

オリンピック組織委員会は警備に当たる警官数が足りないため、代々木選手村の警備民間警備会社「日本警備保障 現セコム」に依頼しました。この警備が無事に終了して民間警備が日本社会に認知されるようになります。

東京オリンピックによる経済効果は様々ですが、主なものは競技場や宿泊施設の建設およびインフラ整備等に関するものです。東京では国立競技場や日本武道館を始めとする競技場や、ホテルニューオータニ・ホテルオークラ等の宿泊施設、東海道新幹線・東京モノレールの開業をはじめとするインフラ整備に多額の資金が投じられました。

内閣府の「景気基準日付」で見ると、1964年の景気循環は1964年10月に景気の山を迎えており、まさに東京オリンピックの開催と同時期に経済効果を反映しています。景気動向指数からみると、東京オリンピックが開催された1964年10月から景気後退期に入って証券不況をおこし、1年後の1965年10月に底をついて上昇期に入り、1970年7月まで「いざなぎ景気」が続きます。

オリンピックが巨大な経済効果を生み出すようになったのは、その長い歴史の中で、この20年来のことです。近年のオリンピックを大きく変えたのは「商業主義」で、商業主義化の歴史で最も重要なのはサマランチIOC会長の登場とロサンゼルス大会でした。

1976年モントリオール五輪では10億ドルの巨額赤字を出し、2億ドルをモントリオール市が、残りはケベック州が負担しました。1984年のロサンゼルス大会では、サマランチ会長が世界最高のスポーツイベントとしてオリンピックの価値を高め、様々な方面から資金を調達しました。

大会組織委員会は大会のスポンサーシップシステムを確立して企業から資金を集め、大会マークやマスコットを商品化してライセンスで財源確保に努め、徹底的な商業主義路線の運営で黒字を達成しました。地元カリフォルニア州も連邦政府も運営費の協力は一切しませんでした。商業主義へのきっかけになったとは云え、ロサンゼルス大会は立派に運営されたのです。

しかしオリンピックの商業主義が許容されるのは、ロサンゼルス大会まででしょう。アマチュアスポーツの祭典であったオリンピックは、この大会を境に実質的にプロアスリートたちの闘いの場になりました。

画期的だったのは放送権のビジネス化です。放送技術の発展に伴いオリンピックの放送権の価値は増大していましたが、テレビ放送権料収入はオリンピック運営の最大の資金源となったのです。

テレビ放送はスポーツ競技への人々の認知度を高めましたが、放送権料の高騰はテレビ放送を意識したオリンピックの運営を招き、自国での放送時間帯の都合でメディアが開催国の主要競技の開始時間を決めたり、競技のルールにまで干渉するようになって、本来のスポーツ競技の姿が損なわれることがおきました。

現在では多くのプロスポーツが巨大ビジネスになっていて、世界的な一流選手は巨額な報酬を手にしています。毎年、世界選手権クラスのプロ競技が頻回に行われ、年間十何戦中何個の金メダルをとるかを競うようになって、オリンピックの金メダルも、数ある競技の金メダルの一つになってしまった感があります。

オリンピックに限らずスポーツ競技の記録が伸び、技倆が素晴らしく向上したのは誰もが認めるところですが、ドーピング問題や利権問題などの実情はよく分からないものの、かつてアマチュアスポーツの祭典であったオリンピックは、間違いなくプロスポーツの興行に変貌しました。半世紀前のような4年に1度の国際親善の場では、もはや、ないでしょう。

リオデジャネイロ大会では開幕まで3日の時点で、観戦チケットの2割以上が売れ残りました。大金を投じた競技会場、選手宿舎などはそのまま放置され、後始末は、今だ、着いていません。1兆6千億とも8千億とも云われる巨費を予定する2020年の東京オリンピックは、本当に開催意義があるものと云えるのでしょうか。

前回の東京オリンピックは気候のいい10月でした。2020年には熱帯並みと云われる高温多湿の7月下旬から8月上旬の開催予定です。アスリートにとってはマラソンをはじめ、酷暑の中のオリンピック競技は生命の危険さえ伴いかねません。観客にとっても酷暑の下での観戦は、我が国の誇る「おもてなし」の心に叶うとはとても思えません。開催時期の変更は是非とも考慮すべきだと思います。

 

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