gooブログはじめました!

年寄りが昔話をすると自慢か愚痴になるので、発言は遠慮してきましたが、歳を取ってはじめて分かることもあるので、はじめます。

公職追放とレッドパージ

2017-04-19 06:19:20 | 日記

敗戦翌年の1946年昭和21年)1月4日附の連合国最高司令官覚書「公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件」に従い「就職禁止、退官、退職等ニ関スル件(公職追放令、昭和21年勅令第109号)」が勅令で公布・施行され公職追放が行われました。

対象者は戦争犯罪人海軍職業軍人超国家主義団体等の有力分子、大政翼賛会等の政治団体の有力指導者、海外の金融機関や開発組織の役員、満州台湾朝鮮等の占領地の行政長官、その他の軍国主義者・超国家主義者でした。

翌年の「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令(昭和22年勅令第1号)」で公職の範囲が広げられ、戦前・戦中の有力企業や軍需産業の幹部も対象に追加され、1948年(昭和23年)5月までに延べ20万人以上が追放されました。

政財界の中枢が公職追放により一気に代替わりしましたが、官僚に対する追放は不徹底で、裁判官は旧来の保守人脈が温存され、特高警察の場合も多くは公安警察として程なく復帰しました。政治家衆議院議員の8割が追放されています。

陸海軍の学校の廃止に伴い1946年(昭和21年)以後の上級学校入学試験には、軍学校に在籍した者を一割しか入学させない入学制限が課せられました。旧制高校は厳守したようですが、東京商大(現一橋大)は海軍経理学校の生徒が多数進学したと云われます。海軍予科兵学校や陸軍幼年学校生徒は中学校の原級に復しました。

公職追放の異議申立に対処する公職資格訴願審査委員会1947年3月に設置され、1年後に廃止、1949年2月に再び設置されましたが、1948年に楢橋渡保利茂ら148名の追放処分取消と犬養健ら4名の追放解除が認められています。

1950年(昭和25年)の第一次追放解除では、石井光次郎平野力三らの政治家や旧軍人の一部が追放解除されました。翌1951年5月1日にマッカーサーに代わったリッジウェイは行き過ぎた占領政策の見直しの一環として、日本政府の公職追放の緩和及び復帰に関する権限を認めます。これによって25万人以上の追放が解除されました。

1952年(昭和27年)のサンフランシスコ平和条約発効と同時に「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令等の廃止に関する法律(昭和27年法律第94号)」が施行され、公職追放令は廃止されました。

この直前にも岡田啓介宇垣一成重光葵ら元閣僚級の追放が解除されており、同法施行まで追放されていたのは岸信介ら5,500名ほどでした。公職追放解除後、多くの人々が戦後再び活躍しています。

公職追放該当者の主だった者は、赤尾敏(右翼活動家、翼賛選挙で当選。追放解除後大日本愛国党総裁)・赤城宗徳(追放解除後農林大臣官房長官防衛庁長官)・石井光次郎(戦時中朝日新聞取締役、商工大臣在任中に追放。朝日放送社長を経て政界に復帰。法務大臣衆議院議長)。

石橋湛山(戦前東洋経済新報社主宰。大蔵大臣在任中に公職追放。1956年内閣総理大臣)・市川房枝(婦人運動家、戦時中大日本言論報国会の理事。参議院議員中に追放)・植村甲午郎農商務官僚。企画院次長として国家総動員法制定を指揮。日本経済連合委員会会長在任中に追放)。

緒方竹虎朝日新聞主筆。小磯内閣情報局総裁。1945年A級戦犯指定のち不起訴、第5次吉田内閣副総理)・唐沢俊樹内務省警保局長、阿部信行内閣で法制局長官。貴族院勅撰議員。東條内閣内務次官天皇機関説事件大本弾圧に関与。第1次岸内閣で法相)・河野一郎朝日新聞記者。1942年の翼賛選挙で当選。衆議院議員に復帰後農林大臣)。

渋沢敬三日本銀行総裁。幣原内閣大蔵大臣)・灘尾弘吉(終戦時の内務次官。追放解除後文部大臣、衆議院議長)・鳩山一郎政治家統帥権干犯問題を発生させて軍部の暴走を招いたとして追放。1954年内閣総理大臣)・三木武吉報知新聞社社長。1942年の翼賛選挙で当選。1945年の日本自由党結成に参加。翌年の総選挙後、衆議院議長に内定するが追放。衆議院議員に復帰)。

足立正王子製紙社長)・石田礼助三井物産代表取締役。追放解除後国鉄総裁)・伊藤忠兵衛伊藤忠商事丸紅の基礎を築いた実業家)・大河内正敏(貴族院議員。理化学研究所の所長。1945年A級戦犯として収監。1946年公職追放)。

小平浪平日立製作所社長)・五島慶太東京急行電鉄社長。東條内閣運輸通信大臣)・小林一三阪急電鉄創業者。第二次近衛内閣商工大臣幣原内閣国務大臣)・堤康次郎西武グループの創設者で衆議院議員。追放解除後衆議院議長)・松下幸之助松下電器産業社長。1946年に公職追放。松下電器労組と連合国軍最高司令官総司令部の交渉の末1947年に追放解除)。

菊池寛(作家。大映社長。内閣情報部参与として文芸銃後運動を提唱)・正力松太郎読売新聞社長。1945年A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収容。1947年に不起訴で釈放され追放)・徳富蘇峰(ジャーナリスト。思想家。1945年にA級戦犯指定を受け不起訴となり追放)・円谷英二映画監督特撮監督。戦時中に軍人教育用の「教材映画」、戦意高揚目的の「戦争映画」の演出・特撮監督)・山岡荘八(作家。戦時中従軍作家)。

日本の占領政策を担ったGHQの民政局(GS)は敗戦直後に治安維持法の廃止、特別高等警察の廃止、内務省司法省の解体・廃止など日本の民主化を推進しました。日本共産党も主要幹部が刑務所から釈放され、初めて合法的に活動を始めました。社会主義を背景にした労働運動が激化し、日本共産党は1949年1月の第24回衆議院議員総選挙で35議席を獲得します。

公職追放は戦時中に戦争協力活動をした「右翼」に対して行われたものでしたが、保守層の有力者を社会から追放した結果、学校マスコミ言論界で労働組合員や共産主義シンパなどの「左翼」が大幅に勢力を伸して労働運動が激化し、中国国共内戦での中国共産党の勝利などGHQにとっては大きな誤算が生じました。

アメリカはアジア・太平洋地域の共産化を恐れ、GHQの主導権がGSから参謀第2部(G2)に移り、一旦解放した共産主義勢力を再び弾圧する方針に転じました。冷戦の勃発に伴う「逆コース」です。

1949年(昭和24年)下山事件三鷹事件松川事件国鉄三大ミステリー事件が1か月の間に起こり、日本共産党と国鉄労働組合が仕組んだ事件として、日本共産党や共産主義者排斥を容認する風潮が作られました。この3事件で起訴された共産党員は結果的に全員無罪です。

1950年5月3日マッカーサー共産主義陣営による日本侵略の恐れを警告し、日本共産党がそれに協力していると非難、同党の非合法化も検討する趣旨の声明を出しました。これは第2回参議院議員選挙を1か月後に控えた時点で、共産党は強く反発しました。

5月30日に民主民族戦線東京準備会は人民広場(皇居前広場)で5万人規模の人民決起大会を開催し、集会に紛れ込んでいた私服警官を追及したのを機に警備中の占領軍との小競り合いに発展、民主青年団東京都委員長ら8名の労働者、学生が逮捕されました。

警視庁は6月2日に都内での集会・デモの禁止措置を発令、更に3日には占領軍の軍事裁判で逮捕者に重労働10年などの有罪判決が下されます。4日に行われた第2回参議院議員選挙では、共産党は改選議席である2議席を引き続き確保しました。

6月6日GHQと政府日本共産党中央委員会委員24名の公職追放と機関紙「アカハタ」の発行禁止命令を出し、レッドパージが本格化します。7月には団体等規正令に基づく政府の出頭命令を拒否したとして、9人の日本共産党幹部に逮捕状が出て、9人は地下に潜行し一部は中国に亡命しました。

こうした流れの中で7月以降はGHQの勧告及び9月の日本政府の閣議決定により、報道機関・官公庁・教育機関・大企業などで日共系の解雇が行われていきました。銀行業界で「当職場に共産党員は居ない」として日共系の追放が最小限度に留まった例や、日共系の追放が殆ど行われなかった大学の例もありますが、逆に反対派を共産党員として解雇させ主導権を奪った国労のような例もありました。

このように公職追放の該当者が戦争協力者だった右翼から、1950年には戦後解放された日本共産党員や共産主義者とそのシンパに対する左翼のレッドパージへと、GHQの占領政策が正反対に転換されました。日本共産党員とその支持者の公務員民間企業の1万を超える人々が職場を失ったのです。

当時の日本共産党は政治局員野坂参三が連合軍を「解放軍」と定義したこと、占領下での平和革命論を唱えたことが1950年1月6日付のコミンフォルム機関誌で批判の対象となりました。政治局は12日「所感」を発表して反論しましたが、中国共産党も日本共産党を批判したことから、党内はコミンフォルムや中国共産党の批判を容認する「国際派」と、「所感」に賛同する「所感派」に分かれます。

徳田・野坂らは中国亡命北京に指導部を設置します。翌年開催された日本共産党第5回全国協議会(五全協)では、徳田らが起草した「日本共産党の当面の要求」により、党は再統一されて武装闘争路線を採ります。

山村工作隊」「中核自衛隊」などの武装組織がつくられ、派出所襲撃、火炎瓶闘争などを行い、これに対して政府は1952年に「破壊活動防止法」を制定します。共産党は世論の支持を失い、同年の総選挙では全員が落選しました。軍事路線を指導した徳田は1953年に中国で客死し、野坂は1955年に帰国して宮本と和解、六全協で武装闘争を「極左冒険主義」と自己批判しました。

党の実権を握った宮本は六全協の方針に従うかぎり個々の党員の行為は不問とする方針を示し、所感派系党員も主流派である宮本派に吸収されていき、非合法闘争の記録は封印されました。

当時の日本共産党は党内の混乱状態からレッドパージに対して組織的な抵抗は示さず、1950年6月25日には朝鮮戦争が勃発して「共産主義の脅威」が公然と語られるようになり、1950年にはアメリカ国内でも赤狩りと呼ばれた共産主義者の追放(マッカーシズム)が行われました。

公職追放は1952年サンフランシスコ平和条約の発効とともに解除されましたが、レッドパージを受けた一般の労働者で復職できたものはほとんどおらず、再就職先にも差し支える状態でした。

雇用主を相手取った解雇者の訴訟は、主権回復前の1952年4月2日の共同通信事件でも、主権回復後の1960年4月18日の中外製薬事件でも、最高裁の決定はいずれも「GHQの指示による超憲法的な措置で解雇や免職は有効」として原告敗訴となりました。

戦後日本の占領政策を担ったGHQの民政局(GS)は、敗戦直後には治安維持法の廃止、特別高等警察の廃止、内務省司法省の解体・廃止など、正に戦勝国の正義の下に敗戦国の日本の民主化を推進しましたが、朝鮮半島を巡って東西対立が先鋭化すると、参謀第2部(G2)は戦勝国の権力で敗戦国の我が国を防共の最前線とする方針に180度転換し、戦時中の戦争協力者の公職追放を解除し共産主義者のレッドパージを行いました。

米軍の駐留は平和条約締結後も日米安保のもと、そのまま占領下の状況が現在まで続いていて、ロシア・中国・北朝鮮を仮想敵国としています。近年再び先鋭化している東西対立の下でのロシアや中国との緊張関係が、トランプ大統領の登場でどう変化するのか分かりませんが、東西対立の終息する可能性を期待したいものです。。

ジャンル:
ウェブログ
この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 米穀通帳 | トップ | 永世中立国 »
最近の画像もっと見る

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。