今関知良さんのなんちゃって作家への道

50歳で就農。百姓日記をかいているうちに、編集者に認められて作家へ。現在は自給的農業しながら、すでに9冊の本が。

あとがき  農村は食料生産の場という経済面だけを見て欲しくない

2008-08-07 14:55:11 | Weblog
食の現場・農村は、たんにコメや野菜を作るだけの場所なのではない。都会のような激しい人口移動もなく、伝統と慣習を守りながら、静かに自然とともに暮らす人々によって構成されている人間社会でもある。同時にイノシシ、タヌキ、イタチなど多くの小動物やハト、ウグイス、ムクドリなどの幾多の小鳥たち、イモムシ、チョウ、ハチなど無数の昆虫たちも住んでいる社会でもある。里山もあり、林もあり、竹林もあり、日本の美しい自然を守りつつ食べものを作るという生産の原点・田んぼや畑もある。そんな幾多の生命のかかわり合いの中で、オレたちの食べものは生まれてきている。
食べものはそのような場所で作られているのだ。村人たちは角に立つ大木に供物を捧げ、カタチのいい大きめの石に賽銭を並べ、所々にある崩れかかったお地蔵さんにエプロンを掛け、通るたびにお辞儀をしたり、手を合わせる。コメ、大豆など主たる産物は神様の恵みだと自然な口調で言う。目まぐるしく動く都会ではこのようなことは誰も発見することはできない。食べものはこのような神聖な場所でさまざまな生きものの力を借りながら育てられているのではないだろうか。

どんなに技術が進歩しても、人間は食って糞ションベンをする生きものだということはまったく変化していない。コメ、野菜作りの栽培技術は進歩してもコメ、野菜であることにはかわりがない。そんな場所だからおもしろい。農村は閉鎖的で封建的だなどという人があるが、変わらない食べものを作っているのだからしょうがないではないか。
「その場所こそ食べもののふるさとなんだよ」「食べものをもっと大切にしてよ」「食べることをもっと重要なことだと考え直して」ということを都会に住む消費者にわかって欲しい、そんな気持ちをいつも考えながら農作業をやっているからだろうか、身の回りのすべてのことについて書いてみたい、発信してみたいと、気持ちが鼓舞されているのではないかと思う。だからいままでオレが著してきた本や記事はすべて「食べもののふるさとでのさまざまな出来事・事件簿」なのだ。

農村は食べものを作るだけという経済面だけを見て欲しくないというオレの素直な気持ちは、長い企業社会でのサラリーマン生活を体験し、五〇歳という働き盛りで農村に入り、汗みどろで食べもの作りに励んできた結果の結論でもあるのだ。農業に参入してから毎月のように消費者向けの新聞を作りつづけてきていたが、どの紙面も「コメの作付け、野菜のタネ蒔き、収穫・・・・・」というような食の生産に関する記事だけではなく、どの場面にも、必ず、虫、鳥、小動物、そして地域のさまざまな人々が登場してきた。
イノチを支えている食べものへの畏敬の念はこのような理解のもとで生まれてきたのだ。

これからも、こんな気持ちで田舎で楽しみながら暮らしていきたいと思っている。
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やっと日の目をみた「土俵蔵の子」

2008-08-06 18:57:36 | Weblog
時にうちひしがれ、時に従順に従い、時に反発し、時に自分を律しながら、その日その日の糊口を凌ぐことが遊び、イジメから逃れることが遊び、生きることが勉強だった。
そんな幼い時代の日々が私にとっての戦争であり戦後だった。}

{戦争による悲惨な暮らしは体験してない人たちには理解しにくいと思う。だから当時の暮らし方、遊び方、農作業、加工法、漁法、行事、焼夷弾、さまざまな道具・用具類など、戦後農村の民俗文化史的な要素も含めて微細にいたるまで詳しく記述した。
「当時の日本人は私同様に廃虚から立ちあがった。戦後すぐに幸せな平和な暮らしが始まったわけではない。しばらくは、非常に貧しく飢え死ぬ人だっていた。あの当時を知る日本人は年々少なくなっていて、今の若い人たちにとってはもはや「時代劇」。戦後まもなくの生活ぶりとか子どものベーゴマ、メンコ遊び、紙芝居にドキドキした毎日。そんな過去がつい最近あったんだよと、そういう話し。
「そういう少年期を描くことでなにかの役にたつのなら・・・・・・・・誰かに勇気や希望を与えることができるのなら、漫画に書いてみたい・・・・・・・・・」という、ちばてつや氏も私とおなじ心境のようだ。
そして私ごと。今、母は恍惚の世界で菩薩のような人に。オレに逢っても「どちらさまですか」と。もう俗界とは縁を切っているようだ。}

映画監督・羽仁進氏の解説がつけられたことは、著者として非常な光栄であった。戦場での戦争ではなく、銃後の戦争、庶民の戦争を生々しく描いたところに共感してくれたという。非常に長い、懇切丁寧な解説で、著者であるわたし自身が「エーッそこまでえぐって書いてくれてるなんて、すごい!」と感激してしまうほどだった。かつて「百姓になりたい」の解説で作家・栄養学者の丸元淑生氏が、その冒頭で「この本は大傑作のミステリーのように引っぱっていく力をもっている。読み出したらやめられない・・・・・」と書いてくださったが、羽仁氏も解説の冒頭で「この本は、ホントウはとても重い本だと思う。ところが、読んでいるうちは実に軽いのである。軽くて、面白いのだ。読み出すとやめられなくなってしまう。他に用事があるのに、つい一ページでも先を読みたくなってしまうのだ。」と書いてくださった。
別々の本、別々の解説者が、ほとんど同意味の解説を書いてくれていることに驚いた。「大豆作り奮闘記」がNHK-BSの「週間ブックレビュー」の時も川上弘美、辺見じゅん、羽仁進氏等が、似たような批評をしてくいださったことを思いだした。
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やっと日の目をみた「土俵蔵の子」

2008-07-31 15:12:56 | Weblog
(51)やっと日の目をみた「土俵蔵の子」

そして、〇五年一〇月、児童書出版社・リトル・ドッグ・プレスから「土俵蔵の子」という大人向けのタイトルにかわって「ボクはいじめられっ子・ともちゃんちの太平洋戦争」という児童向けのタイトルになって発行された。
その時に書き送った概要は次のようなものであった。

{終戦末期から戦後の三年間、家も財産も失って農村の乞食小屋に住まい、その日その日を生きるために軍人妻から農婦になった母の背を教師として、ともに生き抜いた少年の生き様。
かつて日本はアメリカと戦争したのだと話したら「ウッソー。そんなことありえない!」と若者は言っていた。わが国では戦争の意味を知らない世代が多数を占めるようになった。子どもたちはゲームの中で戦争・戦いを楽しむようになった。だが本当の戦争は知らない。事実は戦争はゲームでもないし、戦車や飛行機が飛び交い銃を打ちあうだけのものでもない。大多数の庶民にとって戦争とは、飛行機もなく、戦車もなく、ただひたすら恐怖におののき、逃げ惑い、家、財産を失い、乞食小屋に住み、ボロをまとい、イジメに耐え、餓えをしのぐためにひたすら食べものをあさり歩くのが戦争だということを描いてみた。

母は陸軍将校の妻としてのプライドを捨て野良着をまとい、軍・航空学校から肺病を負って帰った長男・勇一と、天皇のために死ねなかった心の傷を引き摺った夫のために、そして幼い私のために無我夢中で働いた。昼は泥まみれになり、手にはたくさんのヒビとアカギレ、肥桶をかつぎ、タキギの駕籠を背負う。そんな母の背が私にとって最大の教師だった。
あるときは非情な鬼のごとく振る舞い、あるときは聖母のようにやさしい母。「愛情溢れる鬼のような家庭教育」を貫いた母との葛藤は、無言の家庭教育、生き抜く知恵を教え込む家庭教育、家族への愛でもあった。
利根川の堤防を幼子の手を引きながら大きなリュックサックを背負った女性が歩いていた。わが家へも米、イモなどを宝石や着物との交換売ってくれと大勢やってきた。この光景ほど祖母の「非常時には食いものはゼニで買えない」という口癖を身にしみて感じたことはなかった。そして飽食の現今、悲しいかな、食いものは最下位にまで軽んじられ、農業がお荷物扱いされるようになってしまった。
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できたら、本になったらいいなーと思っていたら

2008-07-30 20:11:52 | Weblog
翌〇五年は、敗戦六〇年目ということで、戦争に関するさまざまな行事が行われ、同時に「戦争してはいけないという」憲法九条を変えて「戦争ができる国へ」の動きが大きく動き出していた。この時期に「土俵蔵の子」が出版してもらえたらいいな・・・・と頭をかすめた。
そんな時、岡山県でわたしと同じように脱サラで百姓を始め、百姓通信を発行し、本になるような原稿を書いては出版社へ売り込んでいるMさんから電話があった。
「インターネットで調べていたら、出版社への売り込みを著者に替わって代行してくれる出版エージェントというのがあるのをみつけたよ」と。

某出版エージェントのサイトには、こんなことが書いてあった。
「・・・・・・・・・・このようにして出版社へ原稿を持ち込み、実際に採用される可能性がどれくらいあるとみなさんは思われるだろうか。単行本と雑誌、ジャンルなどによって違いがあるが、一言で言えば、確率は「一%未満」と見ておくべきだ。
この 一%未満という数字は、一〇〇回持ち込めば一回は採用になるということではない。
じっさいには、電話をした段階で、「うちでは、持ち込みは一切受け付けていません!」と断られることが多いようです。たとえ受け付けてくれても、いくら待てども返事をくれなかったり(それが一般的)、どう直せばいいかといった「指導」まではしてくれないのが普通ですが、実際に持ち込んでみるという経験は貴重です。出版社から本を出すということの意味を、実感できます」
「筆力は当然だが、それ以上に企画力が試される」
「普通の切り込み方ではどんな名文でもだめ。多少文章に難があっても、人を感動させる切り込み方をしていると採用されるのだ」などと書かれれいた。そしてエージェントにお願いするときには
「出版エージェントに検討料金として三万円(各社で若干違う)程度をあらかじめ振り込み、その上で原稿、または概要をメールで送る。検討してもらって「出版に耐えうる」かどうかを判断してもらう。ここで合格になれば、新たな契約をすることになる」と。
出版エージェントは出版各社に顔の利く「元編集者?」が運営しているらしく、この関門を通過すれば著者は座していてもだいたいは日の目をみることができるらしいのだ。
Mさんは、ぜひためしてみたらいいと、薦めてくれたが、なんとなく気乗りがしなかった。
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土俵蔵の子  8

2008-07-29 14:35:18 | Weblog
十二時を知らせるサイレンが鳴った。戦時中は空襲警報などを知らせて住民に避難を命令する合図だったが、戦争が終わって、「お昼」の知らせに変わっていた。政代おばさんは握り飯と梅干し、野菜の煮たものなどを刈った稲ワラの上に並べて二人を呼んだ。
刈り取ったばかりの稲束を畔の上に敷いてその上に腰をおろした。
「とうちゃん、帰ってきて、どんな様子かね」
「すごーく気落ちしてる。無口になっちゃったみたい」
「神風吹いてアメリカには絶対負けないと信じて戦争してたんだからね。負けて帰って来たんじゃ、落ち込むのも無理ないよな」
「でも死なないで帰ってこられただけでも、よしとしなくちゃね」
「でもおとうさんは、それがつらいらしいの」
「兵隊さん、ずいぶん死んだからね。上(かみ)部落の梅ちゃんなんか、帰ってきてからぜんぜん口きかないそうだよ。たまに口きくと、亡くなった戦友の名前を大声で叫んで、すまん、すまんって泣くんだって。キチガイみたいに。これってつらいよね」
「まだ、元気になりそうもないのかい」
「時間かかるかも・・・・・・」
「心配だよね。考えすぎて病気にでもなったら、それこそ一大事だ。梅ちゃんみたいになってしまったら・・・・・・・」
「そうねー・・・・・・・・・・・・」
「ところで、東京じゃ大変らしいな」
「なんで」
「食うものがなくて騒動が起こっているとか、ヤミ市がすごいとか、・・・」
「ここは東京に近いのに、のどかで、よその国みたいだなんて、行商で毎日東京へいってる新田(地名)のばあさんが言ってた」
「県道沿いの百姓家には東京もんの女が、子どもの手引いて買いだしに来てるって話しだ。ジャガイモだのサツマイモだの欲しいってな。米一キロが三〇円だとか、イモが四キロで五円だなんて高い値段で売ったそうだよ。だけど今は銭もらったってしょうがねーしな。今日の一円があしたは七〇セン、あさっては五〇センだしな。そんでな、銭じゃ売れねーというと、きれいな着物だとか高そうな指輪なんか持ってきて、コメと取り換えてくれなんてのもあるそうだ。いまはゼニはあんまり値打ちがねーしな。非常時には食いものはゼニで買えねーって言うけど、ほんとだな」
政代おばさんはつきあいが広いから、近所の情報は他の二人よりは豊富だ。
「両国(東京墨田区)あたりはめちゃめちゃだとか。家を焼けだされて、もうじき冬だというのに、焼けぼっくいにトタンで囲っただけの家というか、乞食小屋みたいなもんだ、そんなとこで暮らしているのがいっぱいいるんだとよ」
「ラジオでもそんなこといってたよな」
「東京はそんなにひどいの。千葉(ここでは千葉市のこと)は近いし、東京とおんなじなのかな?」
「どうなんだろうね。ラジオで聞いたけど、「そよかぜ」とかいう映画までつくったんだと。東京は復興したみたいに思えてきちゃうよな。食いものはなし、買いだし、バラック、ヤミ市、ヤミ屋なのになー」

*バラック  焼け跡に焦げた柱などを地面に突き刺して囲いをつくり、屋根、周囲をトタン板や焦げた       板などでかろうじて雨風を防いでいた小屋
*ヤミ屋   食料が絶対的に不足していたので、政府は食料などの統制経済を敷いていたが、その統制       を無視した市場や販売店

「うちらもタダで土俵蔵に住まわせてもらって、屋根があるだけでも感謝しなくちゃね。ねえさんたちやともちゃんのおかげで食べるものも困ってないし・・・・・・・」
ボクは母の「・・・タダで土俵蔵に住まわせてもらって・・・」という言葉を聞いて、考えこんでしまった。土俵蔵住まいが理由でどれほどイジメられたか、母ですら、さっちゃんからボクへのイジメを聞いた時には、煮えくり返るほど怒り心頭にきたよなどと、あとで話してくれたが、・・・・・・・。やっぱり、土俵蔵でもましなほうなのだろうか。東京ではバラックに住んでいるという人が少なからずいるというのだが。
「ところで、今年の米の供出はきびしくなるみてーだって役場の人言ってたぞ。町場の人たちが食うもんなくて大変なんだって。米の供出割当分をださないと、役場の連中が巡査といっしょに家の中だの、倉庫の中だの家捜しして持っていくんだそうだ。だけど、役場の連中はみんな知り合いだから、あんまりひどいことはしないだろうけどな。ヤツらも百姓なんだし」
「うちらもそうだけど、このへんの百姓はみんな米隠して持ってるからなー」
「じゃー、どうするの」
「まあ、そこはうまくやるつもりだけどな」}

この部分は、戦争が終わったあとの「銃後の庶民の戦争」状態をすべて言い尽くしているほどに凝縮した部分だ。イナゴ採りを手伝ってくれたおじさんは架空の人だが、梅ちゃんも、このような人も、どこにでも存在していたのだ。そして「映画・そよかぜ」と「強権発動」のうわさ話はあまりにも衝撃的な話だ。

「少年H」をまた読み直し、「悪童はどこへ消えた」(小山尭志著)「昭和の子ども、田舎の暮らし」(新田鉦三著)「子どもたちの太平洋戦争」(山中恒著)などを参考文献として読み、さらに「山川・日本史総合図録」(山川出版社)で年代確認を行い、本の原稿としての体裁を整えてはみたが、読み返せば読み返すほど不満がでてきて、「やはり、もうしばらく抱いていよう」と考えるようになった。
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土俵蔵の子  7

2008-07-28 13:24:58 | Weblog
おじさんはボクの知らない人だが、妙に人懐っこくボクに近づいてきた。話しかけながら足元のイナゴを捕まえては、ボクの袋にいれてくれた。おじさんはなぜか、ボクが疎開もんだということ、土俵蔵に住んでいること、家の仕事をよく手伝う子だとか、父の復員とか、・・・・・いろいろ知っていた。
「疎開もんしか、イナゴ捕ったり、食ったりしないからかな」
そう言いながら不思議なおじさんは名前も名乗らずに行ってしまった。顔の蒼白い、言葉遣いも優しい人だ。病を罹って戦地から復員してきたといっていた。にいちゃんのように肺病になっているのかなとボクは思った。結核は治す薬がなく、滋養がある食べものを食べて安静にしているしかないと母が言っていたので、このおじさんも肺病だからイナゴを捕って食べてるのかもしれないと思った。まだそれほど寒くないのにおじさんは襟巻きをして、背中を丸めて寒そうにゆったりとした足取りで遠ざかった。以後、このおじさんには逢うことはなかった。
思わぬ助けが入って、すぐに袋はいっぱいになった。袋が充満してくるにしたがって、竹の縁と親指の間からイナゴが頭をだすようになった。竹筒を親指でフタをしているが、ボクの指は細いので、しばしばすき間から逃げられそうになった。袋から筒を抜き取り、縫い付けてあるヒモで口をしばり、大人たちがいるところへ戻った。}

{ボクはおじさんとの会話を振り返っていた。くにちゃんもイナゴは捕らない。こんなにイナゴがたくさんいるのに捕っている人を見たことがない。ボクの家ではイナゴは貴重な動物性たんぱく源だなどといって、父も母もそしてにいちゃんもみんなよく食べる。しかも美味しいという。こんなに美味しくて簡単に手に入れられるイナゴをどうしてこの村の人たちは捕まえないのだろうか急に疑問になってきた。くにちゃんは、あんなもん捕らなくたって食うものはいくらでもあらー、といっていた。いろいろ考えているうちに、ライギョやナマズだって美味しいよ言った時に、くにちゃんはあんな気味の悪いもん食うのかよ、といって驚かれたことを思いだした。
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土俵蔵の子  6

2008-07-24 14:48:22 | Weblog
{もうすこしで刈り取りが終わるというところで、おじさんはオダアシをはこんでくるといって家に戻り、リヤカーに竹をたくさん積んで戻ってきた。四-五メートルおきに背丈よりも少し長い竹を三本または二本を斜めに立て、胸ぐらいの高さで交叉せてワラで結わえた。その上に三−四間はありそうな長い竹を横に置きオダアシ(地方によって呼び名が異なる。ハザ、カケボシなどと)を作った。オダアシは簡単な稲の天然乾燥装置だ。
歩くとイナゴが足元から次々と飛びだしてくる。後ろ足だけでジャンプするもの、羽根を広げて遠くまで飛んでいくもの、大きなものの上に小さなものがおんぶしているもの。歩きながら右手を皿のようにつぼめてどんどん捕まえては袋に詰めた。捕まえると必ず茶色のウンコやションベンを手にひっかけられる。十数匹も捕まえると、掌は茶色い排出物で染まってしまい異臭がする。だがボクはこういうことには馴れていた。イナゴを追いかけているうちに青木の田んぼからだいぶ離れてしまっていた。
「今関君、今日はイナゴ捕りかい?」
通り掛かりの知らないおじさんが話しかけてきた。
「きみんちは、イナゴどうやって食べてるんだね」
いやになれなれしい。醤油とかサッカリン(砂糖の代用品。現在では発ガン物質として使用が制限されている)で煮て食べてる、と答えると
「天ぷらにしてみな。おかあさんにやってもらってみな。カリカリしてすごく旨いよ。だけど、うちの家族はイナゴが嫌いでね。オレだけしか食わんがね」
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土俵蔵の子  5

2008-07-18 21:17:16 | Weblog
{一一月になると、用水堀の水が涸れてきてエビガニ釣りがだんだんできなくなってきた。稲刈の時期になり、母は実家の稲刈を手伝うことになった。稲刈の日は学校を休んでもいいことになっているので、青木(母の実家)の稲刈についていくことになった。ボクの場合は稲刈ではなくて、イナゴ捕りでだ。イナゴ捕りの道具は二〇×三〇センチぐらいの布の袋に内径三センチ、長さ七〜八センチぐらいの竹筒を「イナゴ入れ口」として結わえつけたものだ。竹の穴からイナゴを入れ、入れるたびに逃げられないように左の親指で入り口を抑え、いっぱいになったら竹をはずし結わえていたヒモで袋の口を縛るというものだ。
母は麦わら帽子にほうかぶり、手甲にモンペ、地下足袋姿だった。
「あき(母の名前)はずいぶん変わったね、もうすっかり百姓だ。どうみたって将校(軍隊の位のこと)さんの奥さまだったなんて誰も思いやしない」
サダおばあちゃんは母の変わりようにびっくりしていた。
武夫おじさんも政代おばさんもサダおばあちゃんも手際よく軽快に稲束を作っていった。母はゆっくりと丁寧にばらけないようにだけを考えて束を作った。稲刈りはずーっと腰をかがめっぱなしだが、おばあちゃんたちはワラでくくるたびに立ち上がり、腰を伸ばして膝の上にワラ束を載せてゆわえていた。母はまねをして膝の上に刈った稲を載せて束ねようとしたが、その瞬間にばらけて膝から地面に落ちてしまうことがしばしばだった。そのたびに一本一本拾い集めては束にしていた。
「慣れないうちは、腰をかがめるとか、膝をついて地面の上で束ねたほうがいいよ}
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土俵蔵の子  4

2008-07-17 16:43:16 | Weblog
体験記にしないで、私小説風にしたのには理由があった。
「弁当箱にツバを」「イナゴ食うのは疎開もんだけ」を例にとれば、「弁当箱にツバをを吐きかけられた」
「イナゴ食うのは疎開もんだけで、田舎では食べものに困らないせいか、一人もイナゴを食べる人はいなかった」で終わってしまい、ぜんんぜんつまらないものになるからだ。「弁当箱にツバ、イナゴ食うのは疎開もんだけ」という簡単だが衝撃的な出来事を、まさに衝撃的に伝えるために、どうしても創作が必要だと思ったからだ。

そして〇二年年末になって、やっと原稿用紙に換算して五八〇枚の作品に仕上がっていた。体験記やエッセイは、すべて本として出版してもらってはいたが、小説形式(?)のものはオレにとって初めての体験だった。小説形式は今まで書いてきた体験記などとは比べものにならないほ大変だった。主人公の「ボク」、「母」「兄」「父」は実在の人物だったが、小説風に書き換える過程で「おじさん」「おばさん」「いじめたヤツら」「ボクを殴った先生」などは、近い人物像はあったにせよ、すべて創作のために登場させた架空の人物だが、性格と話し言葉の統一性を終始ぶれないようにしないといけない。またエビガニ(ザリガニ)釣りをした、禁制のニセたばこ作りをした、カンニングがばれて軍靴スリッパでぶん殴られた、などすべての場面表現はセリフや動きも入れて書いているが、すべて状況をよく理解してもらえるようにした創作だ。
たとえば、イナゴを食べていたことを「わが家ではイナゴを捕って食べていた」というだけでは素っ気ない。この部分はイナゴを食ったということだけは事実で、あとはすべて創作にした。特に敗戦直後の農村生活の実態を民俗文化史としても理解できるように詳細に書くことを心がけた。
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「土俵蔵の子」の書き直し作業  3

2008-07-16 17:18:26 | Weblog
{一九四五(昭和二○)年三月八日の夜、ボクは牛が曳く荷車にのせられて、石ころだらけの国道を、千葉市から茨城県へ向かっていた。 二台の牛車は引っ越しの荷物でいっぱいだった。
先頭の荷車を曳く牛のたづなは武夫おじさんが持ち、うしろの荷車を曳く牛は、前の荷車の後尾に結ばれたヒモで鼻カンにつながれていた。母は二台目の荷車の横を歩いていた。
国民学校二年生のボクは幼いから夜道を歩くことはできないと、二台目のいちばん前に座らされていた。目の前には牛の大きなお尻があり、しっぽを振ると顔をなぜられるような距離だ。
荷車は、バネのない木の車輪に鉄のワッパをはめ込んだだけのもの。鋪装されていない道路はでこぼこで、石ころだらけだから、激しい振動で尾骨から頭のてっぺんまでしびれるようだった。荷車から落ちないように、荷車に帯で固く結わえられていたが、帯が次第にゆるみ、両手で車体の木枠をしっかりと握りしめていた。その手もしびれてきていた。 夜でも敵機の攻撃を恐れ燈火はない。星の明かりだけが唯一の道しるべだ。}

という書き出しからはじまるものだ。
主な内容は
「牛が曳く荷車に乗せられて」「転校。ドモリー」「弁当箱にツバを」「梅干しの壺がクソ壺」「戦争は終わったが、暮らしはドヒョグラ」「ドヒョグラすけべ」「にいちゃん、肺病もって帰ってきた」「教科書に墨をぬれ」「父はもぬけの殻で帰ってきた」「土俵蔵に号泣」「学校とはエビガニ釣りの往復なり」「イナゴ食うのは疎開もんだけ」「インチキたばこ密造」「DDTまみれの土俵蔵」「金太郎飴の登場」「しょっからや」「泥堀に放り込まれ」「牛のウンコと“けどっこ”拾い」「ボ-ダラミミズ」「草競馬」「軍靴スリッパでぶったたかれる」「果物のように木からたくさんの首を吊りさげてある写真が」。その他・・・・・・・・・・・      

一九四五年三月、敗戦直前の東京大空襲から二年一〇ヶ月、疎開先での自己体験をテーマにした私小説のような作品になった。八歳から一〇歳までの疎開先での事件を通して「非常時には食いものはゼニでは買えない」という祖母の口癖をコンセプトにして「戦場での戦争ではなくて、銃後の戦争、特にたくましく生きる子どもたちの戦争を明るい筆致で描く」という手法で、戦争を知らない世代に少しでも戦争のむごたらしさを分かりやすく、とっつきやすい内容にしたいと思って書いていた。
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