ETERNAL LIFE

ブログの内容は梶原和義先生の著書からの引用です。

人間は罪の下に売られている

2015-11-19 13:44:49 | 日記
日本民族の古代からの習性の中には、シャーマニズムという、非常に悪い感覚があります。いわゆる霊媒思想というものです。これは思想というよりは、心霊科学の対象になるものです。しかし精神的には非常に次元が低いものといえます。
人間の霊には、色々な段階があります。死んだ人の霊は亡霊といって、どこにでもいるものです。これに対して、生きている人の霊は「生霊」といって、魂が働いている状態のことをいいます。生霊の方が次元が高く、権威を持っているので、幽霊、つまり亡霊が出てきても、バカものと言って、叱っておけばいいのです。「般若ハラミタ」のひと言でいいのです。
「摩訶」というのは、亡霊に勝つ力のことです。「般若ハラミタ」というのは、現世に生きていることが嘘だということです。亡霊として現世に出てくるのは、現世で持っていた妄念を、死んでからも持ち続けている霊なのです。こんなものに、耳を傾ける必要はないのです。
般若心経を読む場合には、その字句に適した気持ちを持って読むことが大切です。字句が示しているような意識を、できるだけ実感するような気持ちで読むのです。そうすると、妄念に勝てるのです。強くなれるのです。元気を出して、バカものと叱れば、幽霊などには充分勝てるのです。
もっと上等の霊の位になろうと思うなら、現世に生きていることがただの幻だということを、実感できるといいのです。例えば、聖書に『人は影のようにさまよいます。誠に、彼らは、むなしいことのために、さわぎ回るのです』(詩篇39・6)という言葉があります。
人間が現世に生きているのは、形はあるけれども、実体がない、影のようなものなのです。その証拠に、人の命は一寸先も知れぬものといいます。悪いたとえになりますが、家を出たとたんに、交通事故に遭うかもしれないということです。しかし、一寸先も知れぬ命というのは、正確には生きていないということにもなります。
実際に、人間の脳細胞は、全能力の十分の一以下、わずか六~七%しか活動していないのです。つまり、私たちは脳細胞の大半が休眠しているような状態で生きているといえます。これが、現在の人間が命を正しく認識していないという証拠です。
人間は、百四十億という脳細胞を持っていながら、その十分の一も使用することができない。すなわち、自分の脳細胞の十分の一以下の実力しか持っていないのです。そういう、限定された貧弱な状態で生きているわけですから、立派な命を持っているとはいえないのです。日本人の生命そのものが、根本から間違っているということは、現代文明の生命観が間違っていることであり、ひいては文明全体が間違っているということにつながっています。
聖書に、『わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである』(ローマ人への手紙7・14)とあります。これは、パウロが言っていることです。罪というのは死を意味するので、罪の下に売られているということは、死の下に売られているという意味になります。
それなのに、ほとんどすべての人が、自分たちはまともな命を持っているのだと、考え違いをしている。錯覚しているのです。全世界六十五億の人間は、すべて錯覚に基づいて生きているといえます。
般若心経では、そういう考え方が空であるといっています。五薀皆空、色即是空、究竟涅槃といっているのです。間違った生命認識を持っていれば、空になっても仕方ありません。
まず、般若心経に従って、今の生命観、世界観、価値観の間違いに気づくことです。そうすると、永遠の命へと、一歩前進できるのです。
現在の人間の記憶は、間違っているのです。分かったと思うその理解の仕方が、不完全なのです。不完全な理解、不完全な記憶に基づいて、般若心経の勉強をしようと思いますと、非常に難しいことが分かります。
そこで、まず、自分の命についての考え方が空であること、自分の常識が空であることを知る必要があります。そうしますと、正しい記憶というのが何であるかも分かってくるのです。
現在の文明全体が、価値観も、世界観も間違っているのです。これはユダヤ的世界観です。つまりユダヤ人が、こういう間違った世界観の種をばらまいたのです。今から二千年程前に、いわゆるキリスト紀元が始まって以来、ユダヤ人の害毒が全世界に分散されるような、歴史的必然性が発生したのです。これが、今の文明の命取りになっているのです。  ユダヤ人と、それ以外の全世界の人間との関係は、非情に難しい問題なのですが、日本人は、そのあたりの事情については疎いのです。ユダヤ人が考えたことが、全世界の歴史的必然性になってしまうというところに、聖書の秘密があります。神と人の、霊魂の関係の秘密です。
今のままで行けば、世界六十五億の人間はすべて死んでしまいます。これがみすみす分かっていますから、せめて数人でもいいから、本当の命に目覚める人、死なない命をつかまえられる、イエスのような人が出てきて欲しいのです。
今のままでは、世界中の人間は、皆、死に続けます。かつて、釈尊もイエスも、こういうことを唱導しました。本当のことを知った者は、全世界を敵に回しても言わなければならないのです。
死ぬにきまっている命を、自分の命だと考えているなら、死んでしまうという運命を、自分で決定していることになります。運命は、その人の自由意志通りになるのですから、そんなバカなことを考える必要はありません。
私は、肉なるものであって、罪の下に売られている。これは、パウロがかつて、ただのユダヤ人であった時の気持ちを述べているのですが、その後、パウロは、まったく死んでいる、とはっきり言い直しています。っまり、現在の人間は、キリストの命を発見するまでのパウロと同じような状態なのです。何を勉強していても、どれだけ社会的な地位があっても、そんなものは、命には何の足しにもならないのです。
今の人間は、命に対する捉え方が、完全に間違っているのです。生命認識が間違っていることは、人生経験が全部間違っているということになるのです。これは、重大な問題です。
とにかく、幽霊の三十人や五十人が出てきても、びっくりすることはありません。悔い改めて福音を信じるという、高尚な信仰心がなくても、元気を出して、理屈抜きでバカものと言ってやればいいのです。



草木国土悉皆成仏

2015-11-19 13:43:54 | 日記
「因縁」とは困った言葉です。仏教では、「因縁所生」、つまり天地宇宙は因縁によって生まれるといっていますが、その因縁がどうして発生したのかということについては、一切説明していません。「無始無終」、すなわちあるべくしてある、なるべくしてなるのが因縁だ、という考え方なのです。
釈尊は、人間が存在するという立場から出発しました。生老病死という人間の「四苦」を解決することが、悟りを求める目的でありました。人間が生きているということを、はじめから前提として肯定しているわけです。
天地があること、人間がいることが、仏教では無条件に肯定されています。なぜ天地があるのか。なぜ地球、人間が、存在しているのかということについて説明していません。そのため、因縁所生という言葉をどの程度のスケールで解釈すべきなのか、どうも漠然としているのです。
例えば、世界には大きく分けて、白人、黒人、黄色人種の三つの人種がありますが、白人が中心になって世界を指導しています。このような、白人横暴ともいえる状態がどうして起こってきたのかといいますと、仏教では因縁所生だということになり、どうもよく分からないわけです。
ところが、聖書ではこのことについてはっきり答えています。はっきりとその理由を断言しているのです。どうして因縁がこの宇宙に生まれたのかということ、人間がこの地球に生まれたのはどういうわけなのかということです。こういう点が、仏典でははっきりしないのです。そこで、仏典は、魂を完成させることの前編の役割にはなるけれども、後編の役割は持っていないと考えざるを得ないのです。
仏法にも草木国土悉皆成仏という思想があり、世界完成、人間完成という思想がないわけではありません。しかし、世界歴史を具体的な意味ではっきりと説明していないのです。
例えば、現在の世界歴史は、ユダヤ人が中心になって展開しています。皆様がご存じの大政治家、大科学者、大経済学者、大思想家の中には、ユダヤ人もしくはユダヤ思想の影響を受けた人が大変多いのです。
ヨーロッパの政治に大きな力を与えているのがユダヤ人たちであり、アメリカのウォール街を動かしているのもユダヤ人たちです。アメリカの大統領には、ユダヤ人の背景がなければなれないとさえいわれています。
このように、ユダヤ人が世界に離散して、世界の政治、経済に重大な影響を与えているのですが、こういうことが仏教では説明できないのです。どうしてそういうことになっているのかといえば、ただ因縁と説明するより仕方がないのです。
因縁という言葉は、はっきりした原因は分からないが、なるべくしてなったということです。これでは、何のために人間が生きているのか説明がつきません。ただ偶然に生きているというだけで、解答にはならないのです。何のために魂を完成しなければならないのか。  例えば地獄があるにしても、何のために地獄があるか。極楽があるとしたら、何のために極楽があるのか。極楽へ行って人間はどうするのか。こういう点がまるで不明なのです。 
空というのは非常に優れた思想ですから、仏教の空観に立って、聖書をもう一度検討し直すべきであると思います。私は、般若心経と聖書の二つを、テーマとして掲げています。般若心経だけなら仏教になってしまいます。聖書だけならキリスト教になってしまいます。ところが、般若心経と聖書を同時にテーマにしますと、宗教ではなくなってしまうのです。宗教ではなく、魂が生きているという事実を取り上げなければならなくなってくるのです。
私たちが今生きているということの実体が魂である、といっていいのです。生理機能、心理機能、五官が肉体的に働いている状態が魂です。生きていながらみすみす命が分からないということは、大変な間違いを犯していることになります。生きていながら命の実体がはっきりと究明できていないということは、自分の魂の責任を果たしてないということであり、死んでからひどい目にあうことにもなります。
ぜひ、魂の責任を果たして頂きたい。生きているうちに、目の黒いうちに、永遠の生命の実体をつかまえて頂きたいのです。現在生きている皆様が、その命の本質をつかまえればいいのです。これが「いざ帰りなん」ということなのです。命に帰ること、生きているという事実に帰ること。これは議論でも教義でもありません。今、生きているという単純な事実に帰って頂きたいのです。
因縁、これはどうも正体不明です。どんな仏教学者に聞いても本当のことは分からないでしょう。何のために地球があり、人間があるのかということが説明されずに、因縁所生ということが仏教の中心になっているのですから。釈尊の時代なら因縁所生ということだけでも間に合ったのでしょうが、今日の私たちには、これでは解決になりません。それほど文明というものは、ややこしいものになっているのです。




イエスが死を破ったことは人間歴史の中の最大テーマ

2015-11-19 13:42:53 | 日記
日本人の祖先は、現世の生活しか考えていなかったようです。魂について真面目に考えていなかったのです。仏教の教祖の中に親鷲や道元といった人物がいますが、例えば道元は、人間は本来仏子であるといっています。仏の子であると、はじめから決めてしまっているのです。
確かに、人間の魂の純粋な姿は、仏子だといえるでしょう。しかし現在の人間が業を果たすためには、どうすべきかということです。これが道元の曹洞宗では分からない。栄西の臨済宗でも分からないのです。
業を果たすとはどういうことか分からないのです。煩悩愛憎を捨てれば、観世音菩薩になれるというのですが、煩悩愛憎を捨てることができないのです。
日本人は伝統的な考え方、日本人的な世界観を解脱しなければいけないのです。これを解脱しなければ、本当の命を見つけることはできません。これができるかどうかです。
人間は現世に生きている自分を、自分だと思い込んでいるのです。固有名詞の自分を、自分だと思い込んでいるのです。
人が現世に生まれてきたのは、生かされている命の実質を見極めるためなのです。この世で生活するためではなくて、命の実質を見極めて、死なない人間になるために生まれてきたのです。
ところが日本人の世界観は、現世に生きていることだけしか考えないのです。だから自分の生活が第一です。家庭円満、商売繁盛だけを考えているのです。日蓮の考え方は、日本人の考え方をよく表しています。
現世主義の宗教は、本当の宗教といえる価値はないのです。本当の宗教は、永遠と自分をつなぐものなのです。英語でReligionという言葉は、つなぎとめるとい意味があります。神と人の魂がつなぎとめられること、永遠と現世とがつながることが、英語のリリージョンです。宗教では、こういう意味でのリリージョンに当たるものがありません。
人間は、肉体を持って業を背負っている人間を、人間だと思い込んでいるのです。業を背負っている人間の命はどんなものかといいますと、例えば加藤清正という人は、加藤清正が生きていた人生しか知りません。彼の人生は、加藤清正だけで終わりです。
固有名詞の人間は、自分自身が生きていたという小さい範囲の経験しか知らないのです。こんなことで、永遠の命が分かるはずはありません。
法蔵比丘という坊さんは、自分の人生を捨てて、無量寿、無量光が自分の本体だと悟った。つまり、自分ではない自分になったのです。別人になったのです。
しかし、阿弥陀如来の本体が何であるか。無量寿の本体は何か、無量光の本体は何かということになりますと、阿弥陀経では説明していないのです。大無量寿経でも分からないのです。仏典によって、ある程度のことは分かりますが、命は分かりません。本当の命がこれだという言い方はしていないのです。
現世は空だといいます。ところが、空でない命がどこにあるかということを、はっきり言っていないのです。これでは、永遠の世界と現世を、つなぎあわせることができないのです。
人間がこの世に生きていることが、業なのです。固有名詞で生きていることは、固有名詞の業なのです。固有名詞を自分だと思っていると、絶対に命のことは分からないのです。
そこで、自分でない別の命を見つける必要があります。自分が生きていることは、今までの固有名詞の経験だけで生きているのであって、不完全なものである。未完成なものであることを、悟ることです。
釈尊が空といったのは、当たり前です。現在の人間は、生きていても必ず死ぬからです。自分が生きていると思っているのは、その人の勝手な判断で、ただの自惚れに過ぎません。不完全な考え方で命を見ているのです。
だから、現在の日本人の生き方は、間違っているのです。何にもならないのです。今まで生きていた個人の命を持ったままで死んでいきますと、死が怖くなるのです。これは、まともに命を生きていなかった証拠なのです。固有名詞で、自分の魂を毒していた。汚していた。だから、魂が自由に羽ばたくことができなかったのです。今まで勉強した哲学の事、倫理道徳の事、政治経済のことは分かっているけれど、やはりその人だけの理解なのです。
例えば、道元禅師がいくら悟りを開いてみたところで、道元禅師の悟りであって、彼の悟りが本当であることを、どうして証明することができるのでしょうか。
鈴木大拙は、禅の悟りは、その人の悟りであって、第三者がかれこれ言うべきものではないといっています。悟りとはこんなものなのです。
人間は、自分が生きていると思っているが、これは全部間違っているのです。自分の業にとらわれているのです。自分の業のとりこになっているのです。だから、自由に考えることができないのです。
日本人は公平にものを見ることが、非常にへたなのです。淡々として、冷静に、公明正大に見ることができません。だから、本当のことが分からないのです。これが、日本人の業なのです。
日本は、現在、世界で一番自由にものが考えられる結構な国です。どんな理屈でも言えるのです。共産主義でも、無神論でも、無政府思想でさえも、自由に言えるのです。世界で、最も自由です。ちょっと野放図で、でたらめとさえ言えるくらいです。
日本では何でも言えるのです。何でも言えるという結構な自由を生かして使わなければ損です。何を考えてもいいのです。自分はいない、自分は自分ではないと考えてもいいのです。誰も文句を言う人はいません。
生まれながらの自分は、煩悩の自分であって、罪人の自分である。ところが、命を知りたい、神を知りたいと考えると、新しい命の風が吹き込んでくることになるのです。
幸いになりたいとか、死んでから天国へ行きたいというのはだめです。極楽往生を考えると、普通の人間の考えに逆戻りしてしまうのです。命とは何かと考えるのです。そうすると、日本人的な束縛から脱出することができるのです。そうして、日本人の常識にこだわらないで考えることができるようになります。
地球は何のために造られたかという根本的な大問題があるのです。こういう問題について、勇敢に突っ込んでいく気持ちがなければ、本当の命は分かりません。
命はたった一つしかないのです。ところが人間は、命は自分のものだと考えている。妻や子供が他人であるように、実は自分自身も他人なのです。
私たちは、自分の命を持っているのではありません。神に生かされているだけなのです。命に生かされているといってもいいのです。命とは、本当の神なのです。地球が自転、公転しているそのエネルギーの本体が命であって、この命を支配する人格が神なのです。心臓が動いていることが、神なのです。こういう考えになりますと、生長の家の人々は、誠の神を知らずに神の子と言っているのです。これは間違っています。
私がいう霊とは、シャーマニズムの霊ではないのです。目が見えるとはどういうことか。人間の目が見えるのではなく、見える目が人に植えられているのです。聞こえる耳が、人に与えられているのです。自分の目や自分の耳が、見たり聞いたりしているわけではないのです。
第一、目で物を見るという考えが、もう間違っているのです。人間の目は、光線の反射によって、網膜に影像が写っているのです。写っているだけであって、自分が見ているのではないのです。あくまでも、受動的なものです。そのように、物の考え方が間違っているのです。
五官は一体誰が造ったのか。宇宙の命が造ったのです。命とは何か。エネルギーです。エネルギーとは、物理的にも働きますし、心理的にも働きますが、実は心理的なものなのです。ある場合には物理的に働き、ある場合には心理的に働くのです。命になったり、香になったり、形になったり、音になったりして働くのです。
宇宙の命の周波数が、さまざまな形になって働いているのです。神の子とは、宇宙の周波数によって生きていることを、自覚している人のことをいうのです。
人間が客観的に存在することの証がイエスなのですが、これが日本人の頭では分からないのです。これは神の実体です。日本人には非常に難しいように思えますが、何でもないことです。人間が人間であること、地球が地球であることが、神なのです。
新約聖書へブル人への手紙十一章六節に、神に来る者は、神のいますことを信じなければならないとあります。英訳でマスト・ビリーブ・ザット・ヒー・イズ (must believe that he is)とありますが、これが日本人にはほとんど分からないのです。
とにかく日本人は、聖書を誤解している。イエスが死を破ったことが、全然分からないのです。今年が2006年であることの意味が分からないのです。これを学校で教えようとはしませんし、学者も教えようとしません。そういう無責任な教育をしている国ですから、日本人は、命を真面目に考えようとしないのです。
こういう民族の誤った習性を破って、人間とは何であるか、何のために人間が生まれてきたのかを知るために、神がイズ(is)であることを、信じなければならない(emust believe)のです。
目がなぜ見えるのか。耳がなぜ聞こえるのか。消化器官はどうして働いているのか。手が動き、足が動くのはどうしてか。こういうことすべてが、神なのです。この神を知ることが、マスト・ビリーブザット・ヒー・イズなのです。
人間が生きている命、自分が存在することの本体が分かりますと、命の本質が分かるのです。実は私たちは、自分が生きているのではなくて、神を生きているのです。生きていることが神ですから、神を生きていることになるわけです。
これが本当の命であって、イエスはこれを見破ったのです。だからイエスは復活したのです。イエスが復活したことが、新しい歴史が展開したことを意味するのです。これが、西暦、すなわちキリスト紀元2006年の意味です。
これは、キリスト教ではないのです。キリスト教は、こんなことは言いません。イエスが復活したことは、歴史的に人間が死を破ったことなのです。学問は、イエスが死を破った要を、最も慎重に、最も重大に考えなければならないのです。
ところが、現在の大学では、イエスの復活を全然考えようとしていません。ただ生活のことだけしか考えていないのです。自然科学、社会科学、哲学、文学、あらゆる文化概念が、この世の生活のことだけしか考えていないのです。
ユダヤ人のトリックに、まんまと引っかかっているのです。世界歴史には大きなトリックがあるのです。六十五億の人間が死んでいかねばならないような、重大なトリックがあるのです。それは、神を裏切るもの、命を裏切るものなのです。
こういう言い方をしても、何のことかさっぱり分からないでしょう。きっと、ユダヤ人たちも、内心では、イエスが復活したという事件は否定できない事実であることを、知っているはずです。世界中が西暦紀元、すなわちキリスト紀元を採用しているということは、イエス・キリストが歴史の中心であることを意味するわけで、これは否定できません。
ところが、イエスの復活を公に認めると、ユダヤ人の思想が根底からくつがえされるという事情があります。そこで、復活の事件を覆い隠すために、文明というアイデアを考え出したのです。人間の伝統、宗教、政治、教育の四つによって、イエス・キリストの復活を必死に隠しているのです。これが「ユダヤ人のトリック」という意味です。ですから文明のことを、聖書では「偽キリスト」といっているのです。
イエスが死を破ったということは、人間歴史における最大のテーマです。核兵器の廃絶の問題よりも、政治経済のことよりも大きいのです。生命のことは、一番大きい問題なのです。これを、全世界の学者たちは、全然勉強しようとしていないのです。
何回も言いますが、イエス・キリストが死を破ったという事件は、人間文明における学問の最高の問題なのです。これが分かれば、人間の命についての基本的な勉強ができるのです。
ところがこれを、学問では取り上げていません。大学は、これを問題として取り上げないのです。なぜ、取り上げようとしないのでしょうか。これは世界中の学者の怠慢です。十五年や二十年の怠慢とは違います。二千年の怠慢なのです。二千年の間、イエス・キリストが復活したとい主実を知っていながら、これを勉強しようとしていないのですから。
なぜ、キリスト紀元が設定されているのか。このことについて正しい説明をする責任が、今の学者にはあるのです。科学者にも、歴史学者、政治学者にもあるのです。法学者にもあるのです。
キリストが復活したことは、すべての学問の根本、基本の問題なのです。それを勉強していないということに、現代教育の根本的な間違いがあるのです。
だから、人間の生活の仕方は、根本から間違っているのです。今の日本人は、命を知らないのです。生きていながら、命を知らないのです。これをはっきり宗教家は、一人もいません。哲学者もいません。世界中の学者は、この意味で全部間違っていると言わざるを得ないのです。
世界中の学者が全部反対しても、六十五億の人が全部反対しても間違っていることは間違っていると言わなければならないのです。全世界の文明の根本に、命を無視しているという、致命的な欠陥があるのです。
人間が生きていることを慎重に見ていけば、現代文明の間違いぐらいはすぐ分かるはずです。生理機能、心理機能は、人間の力で働いているのではありません。天の力、命の力によって、働いているのです。命の力を、生理機能、心理機能によって、毎日経験しているということなのです。それなのに、命が分からない。命を経験していながら、命が分からない。
目が見える、耳が聞こえることは、はっきり神を経験している証拠なのです。ところが神が分からない。今まで自分で生きてきた常識、文明意識に振り回されているからです。だから死んでしまうのです。命が分からない状態で生きていたら、必ず死にます。
業を果たすとは、端的に言えば死ぬべき目分を捨ててしまって、死なない命を発見することです。これが業を果たす、たった一つの方法なのです。


マルクスとオッペンハイマー

2015-11-19 13:42:00 | 日記
釈尊という人は特殊な人物でした。ご承知のように、釈尊は一国の皇太子でした。一国といっても、当時のインドの地方の国のことですから、日本でいえば県ぐらいのものでしょうが、その国の王子様だったのです。だから、生活とか、経済について、心配する必要はまったくなかったのです。
ところが、人間が死んでいくことを、おかしいと思ったのです。生まれたいと思わないのに生まれてきた。死にたくないと思っていながら、死なねばならないことを、おかしいと考えたのです。これが、生老病死、四苦という言葉になって現われています。
生まれたいと自分が思って生まれてきたのなら、死んでいかなければならないといっても、仕方がない。ところが人間は、自分で生まれたいと思ったのではない。天然自然から、おのずから生まれてきたのです。従って、死なねばならないというばかなことが、あるべき道理がない。
死ぬのがいやにきまっているのです。自分の意志によって、自分の自我意識によって生まれてきたのなら、死なねばならないのは仕方がない。自分が強情を張ったために、こうなったと諦めがつくのです。
ところが私たちは、おのずから生まれてきたのです。天地自然の理法によって生まれてきた。天地自然の法則によって生まれてきたものが、死にたくないのに死なねばならないとは、どういうわけなのか。これはバカなことです。釈尊は、これが気に入らなかったのです。なぜ人間が病気になったり、年が寄ったり、死んでいくのか。死というばかなことが、どうして人間にへばりついているのかということを考え始めたのです。
実は、この考えでも小さいのですが、日本では、そういう考えを待った人が、出なかったのです。聖徳太子も、親鸞も、弘法大師も、日蓮も、人間が何のために生きているのか、何のために死んでいくのか、死にたくないのに死なねばならないとはどういうことかを、考えなかったのです。
死にたくて死ぬのなら、自分の意志によるのですけれど、死にたくないことが、はっきりしているのです。百人が百人、千人が千人共、そうなのです。
死にたくないのに死なねばならないのは、実は、死ぬのではなくて、殺されることになるのです。なぜこうなるかといいますと、文明が間違っているからです。文明によって人間は殺されるのです。人間の歴史が間違っているのです。最近で言いますと、専門学が根底から間違っているのです。専門学は、ユダヤ人学者がつくつた学なのです。
例えば、カール・マルクスというユダヤ人は、目で見ている通りのものがあると言っているのです。だから、唯物論をつくつたのです。物質があることによって、世界歴史が流れていると考えた。
ところが最近では、物質がないことが科学によって証明されているのです。物質はない、ただ物理運動があるだけなのだということが、理論物理学によって、証明されているのです。証明されただけでなく、原子爆弾という厄介な兵器ができたのです。原子爆弾や水素爆弾は、物理運動を基礎にしなければつくれないのです。原子爆弾ができるということは、物理運動はあるが、物質はないということの証明になるのです。もし間違いなく物質が存在するのなら、核爆弾はできるはずがないのです。
オッペンハイマー等のユダヤ人学者たちが、核爆弾をつくったのです。マルクスやオッペンハイマーは、全然違った両極端に立っているのです。このように、文明は正反対の理屈が両方とも鵜呑みにされているのです。こういう文明を、だらしがないというのです。文明というほどの言葉を使うなら、物質があるならある、ないならないと、はっきりしてほしいのです。
文明はまったくでたらめです。それを信じているから死んでしまうのです。文明には、訳のわからない黒雲が、渦まいているのです。文明というまやかしが、渦を巻いている。その渦の上に、人類は乗っている。これが人間の運命です。
現在の文明は、ユダヤ人がつくったものです。学理学説の基礎概念は、ほとんどユダヤ人学者によるものです。ユダヤ人が文明をつくって、人類を愚弄している。物質があると言ったり、ないと言ったりして、わずか二千万人ほどのユダヤ人が、世界六五億の人類を嘲弄しているのです。そういうユダヤ的なトリックが、どうして歴史の真ん中に存在しているのかということです。一体ユダヤ人とは何者かということです。
これは、聖書を見なければ分からないのです。ところが日本人は、聖書を読もつとしないのです。これが、日本人が霊魂に対して無知であることの最も大きい理由です。人間の魂の原理は、世界歴史、地球が造られた原理が分からなければ、絶対に分かりません。地球が造られたことを勉強しようと思えば、聖書を読むしかないのです。気に入ろうが、気に入るまいが、旧約聖書を読まなければ、天地創造の原理は分かりません。
日本には、そういうことを勉強する方法がないのです。島国根性では、絶対に分かりません。日本の文化文明の概念では、物質があるのかないのか分からないのです。
日本人は気の毒なことに、聖書を積極的に読もうとしません。これは、キリシタン・バテレンのせいでしょう。キリシタン・バテレンは、もちろん間違っています。キリシタン・バテレンと聖書とは、何の関係もないのです。キリスト教は、聖書を宗教的に利用しているだけなのです。
世界中で、カトリックの信者が七~八億人います。プロテスタントの信者が、五~六億人います。両方合わせて十数億の人間が、文明の原則をつくつています。この両者が間違っているのです。
聖書を嫌う結果、日本人は、天地万物がどうしてできたのか、人間の魂がなぜ存在するのか、世界の歴史がどのように流れていくのか、といったことが全然分からない国民になってしまったのです。キリシタン・バテレンが、とんでもない方向に働いているのです。
キリスト教は、はっきり間違っています。間違っているどころか宗教の中で、最も悪いものです。
キリストの名によって、人間の霊魂を盗んでいるからです。普通の泥棒は、貴金属やお金を盗むのですが、キリスト教は、人間の霊魂を盗むのです。宗教を信じるから、人間は死ぬのです。
人間存在を、冷静に、客観的に見るのです。そこには、死ぬべき主観的な人間と、死なない客観的な人があります。死ぬのがいやだったら、死なない客観的な部分を捉えたらいいのです。
自性というのは、生まれてきた原形です。後生というのは、死んでいく方向です。後生には、裁きと、救いの二つがあります。文明の害毒を吸い込んでしまいますと、霊魂が必ず裁かれます。
文明によって生きている人間は、本能的な欲望のために生きているのです。七十年、八十年の人生を、欲望の満足のために生きてきたのです。
本能という考え方が、全然整っています。花を見ると、きれいに見えます。これが、本能です。おいしいものを食べると、おいしいと感じます。本能とは、本能性のことです。本能性とは、先天性のことです。先天性とは、生まれる前のことです。本能とは、おいしいとか、きれいと感じることです。
人間の霊魂は、花を見てきれいだと思う本程を持っている。これは欲望とは違うのです。魂の本性なのです。その魂の本性を、人間は欲望だと考えた。ユダヤ人がそう考えてしまったのです。旧約聖書のモーセの掟を、ユダヤ人がどのように見ているかを点検していきますと、ユダヤ思想の間違いが明らかに分かるのです。世界歴史がなぜ間違ったのか。ユダヤ人が、どこをどう間違えたのか。これが分かりますと、人間の文明をひっくり返すことができるのです。
こういうことを学ぶことが、本当の学なのです。経済学とか、政治学というものとは違います。文明が存続している間は、経済学、政治学は役に立ちます。ところが現在の文明は、やがて崩壊します。こんな文明が、長く続くはずがないのです。
人間が死んでいくのは、自我意識、文明意識にとらわれているためで、この意識から出ることができれば、死から出ることができるのです。





般若心経と聖書を一緒に学ぶ

2015-11-19 13:40:59 | 日記
般若心経と聖書を別々に考えるのではなくて、一緒に考える必要があります。
般若心纏は、端的に申しますと、五薀皆空と究竟涅槃の二つのことを言っています。涅槃というのは、梵語で言いますと、ニルバーナーでありまして、消えて、冷えて、なくなってしまうことです。空を煎じ詰めると、究竟涅槃になるのです。涅槃を突き止める結果になるのです。
そうしますと、人間が消えてしまいます。人間だけではなくて、万物も全部消えモしまうというのが、般若心経の結論なのです。これがいわゆる涅槃です。文字通り解釈すると、そうなるのです。
聖書は端的に申しますと、イエス・キリストを信じること、これをさらに結論的に申しますと、イエス・キリストの復活を信じることになるでしょう。復活においてはじめて、キリストであることが証明されたのですから、イエス・キリストの復活を知らなければ、イエス・キリストをいくら信じても、何にもならないのです。
イエス・キリストの復活ということは、非常に深遠な事柄です。スケールが非常に大きい。しかも非常に奥行きが深いのです。いわゆるイエス・キリストが復活されたと信じるという程度で、片づけておける問題とは違うのです。
例えば、イエスは復活の朝に、弟子たちが泊まっている部屋に入ってきました。これは締め切った部屋なのです。マルコの二階座敷なのです。イエスがつかまったのですから、自分たちもつかまるのではないかと心配だったのです。ガリラヤ党の一派を、片っ端からとらえて、殺してしまえという流言飛語が飛んでいたので、弟子たちはふるえおののいて、二階座敷に閉じこもり、カギをかけていたのです。
そこへイエスが入ってきたので、弟子たちは幽霊だと思ったのです。幽霊が入ってきたと思って、うろたえ騒いだと書いてあります。聖書は非常に正直な書き方をしています。弟子たちは怪しんだのですが、イエスは、お前たち、騒ぐではない。私だ、安心せいと言ったのです。イエスが、何か食べるものがないかと言ったので、ペテロが焼いた魚を出したら、それを食べたのです。幽霊なら魚を食べるはずがありません。復活は、こういう具体的な事実を明示しているのです。
イエスを信じるとは、彼の復活を信じるのです。それを本当に信じようと思うと、まず五薀皆空を承知して頂かなければならないのです。
キリスト教の信仰は、イエスを宗教観念的に信じているのです。ただイエス様を信じて、自分の罪が許されて、死んでから天国へ行くという信じ方は、実は、聖書本来の信仰ではないのです。
イエスの復活の命を、そのまま自分の命として受け取ること。そうでなかったら、何の意味もないのです。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる」(ヨハネによる福音書11・25)とイエという言い方を、文字通り受け取るためには、普通の常識を持ったままではだめです。ですから、五薀皆空、色即是空という関門をどうしても通らなければならないのです。
ユダヤ人の場合は、例えば、ペテロとかヨハネとか、パウロという人々には、五薀皆空はなかったのですが、イエスを信じられたのです。なぜかといいま言、彼らはイエスを信じる前に、モーセの掟でぎゅうぎゅう言わされていたからです。モーセの掟で、人間の肉の思いが空であること、肉の思いが虚しいことを徹底的に究明させられていたのです。
イエスを、肉の人間(自我意識を待ったままの人)が、そのままの気持ちで信じると、皆、宗教になってしまうのです。そこで、イエスを信じそこなってしまう結果になるのです。
イエスを本当に信じるためには、人間の知恵、知識を空じてしまう必要があるのです。五薀皆空という原理をはっきりマスターすること。そうでなければイエスを信じるという土台ができないという意味であって、肉の思いを空じることによって、霊の思い(神の思想)に到達することができるという意味なのです。
そこで、これは分かりやすくするためのたとえですが、般若心経はいわば前編みたいなもので、聖書は後編みたいなものになるのです。
そういう意味で、聖書の前に般若心経を学ぶのです。般若心経の後に聖書を学ぶ。般若心経と聖書は、両方あいまって始めて、宇宙意識をはっきり私たちに示してくれるのです。 宇宙感覚において、自分自身の命を見ることができるようになるということを言いたいのであって、これが般若心経と聖書を一緒に学ぶという意味であります。