日本民族の古代からの習性の中には、シャーマニズムという、非常に悪い感覚があります。いわゆる霊媒思想というものです。これは思想というよりは、心霊科学の対象になるものです。しかし精神的には非常に次元が低いものといえます。
人間の霊には、色々な段階があります。死んだ人の霊は亡霊といって、どこにでもいるものです。これに対して、生きている人の霊は「生霊」といって、魂が働いている状態のことをいいます。生霊の方が次元が高く、権威を持っているので、幽霊、つまり亡霊が出てきても、バカものと言って、叱っておけばいいのです。「般若ハラミタ」のひと言でいいのです。
「摩訶」というのは、亡霊に勝つ力のことです。「般若ハラミタ」というのは、現世に生きていることが嘘だということです。亡霊として現世に出てくるのは、現世で持っていた妄念を、死んでからも持ち続けている霊なのです。こんなものに、耳を傾ける必要はないのです。
般若心経を読む場合には、その字句に適した気持ちを持って読むことが大切です。字句が示しているような意識を、できるだけ実感するような気持ちで読むのです。そうすると、妄念に勝てるのです。強くなれるのです。元気を出して、バカものと叱れば、幽霊などには充分勝てるのです。
もっと上等の霊の位になろうと思うなら、現世に生きていることがただの幻だということを、実感できるといいのです。例えば、聖書に『人は影のようにさまよいます。誠に、彼らは、むなしいことのために、さわぎ回るのです』(詩篇39・6)という言葉があります。
人間が現世に生きているのは、形はあるけれども、実体がない、影のようなものなのです。その証拠に、人の命は一寸先も知れぬものといいます。悪いたとえになりますが、家を出たとたんに、交通事故に遭うかもしれないということです。しかし、一寸先も知れぬ命というのは、正確には生きていないということにもなります。
実際に、人間の脳細胞は、全能力の十分の一以下、わずか六~七%しか活動していないのです。つまり、私たちは脳細胞の大半が休眠しているような状態で生きているといえます。これが、現在の人間が命を正しく認識していないという証拠です。
人間は、百四十億という脳細胞を持っていながら、その十分の一も使用することができない。すなわち、自分の脳細胞の十分の一以下の実力しか持っていないのです。そういう、限定された貧弱な状態で生きているわけですから、立派な命を持っているとはいえないのです。日本人の生命そのものが、根本から間違っているということは、現代文明の生命観が間違っていることであり、ひいては文明全体が間違っているということにつながっています。
聖書に、『わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである』(ローマ人への手紙7・14)とあります。これは、パウロが言っていることです。罪というのは死を意味するので、罪の下に売られているということは、死の下に売られているという意味になります。
それなのに、ほとんどすべての人が、自分たちはまともな命を持っているのだと、考え違いをしている。錯覚しているのです。全世界六十五億の人間は、すべて錯覚に基づいて生きているといえます。
般若心経では、そういう考え方が空であるといっています。五薀皆空、色即是空、究竟涅槃といっているのです。間違った生命認識を持っていれば、空になっても仕方ありません。
まず、般若心経に従って、今の生命観、世界観、価値観の間違いに気づくことです。そうすると、永遠の命へと、一歩前進できるのです。
現在の人間の記憶は、間違っているのです。分かったと思うその理解の仕方が、不完全なのです。不完全な理解、不完全な記憶に基づいて、般若心経の勉強をしようと思いますと、非常に難しいことが分かります。
そこで、まず、自分の命についての考え方が空であること、自分の常識が空であることを知る必要があります。そうしますと、正しい記憶というのが何であるかも分かってくるのです。
現在の文明全体が、価値観も、世界観も間違っているのです。これはユダヤ的世界観です。つまりユダヤ人が、こういう間違った世界観の種をばらまいたのです。今から二千年程前に、いわゆるキリスト紀元が始まって以来、ユダヤ人の害毒が全世界に分散されるような、歴史的必然性が発生したのです。これが、今の文明の命取りになっているのです。 ユダヤ人と、それ以外の全世界の人間との関係は、非情に難しい問題なのですが、日本人は、そのあたりの事情については疎いのです。ユダヤ人が考えたことが、全世界の歴史的必然性になってしまうというところに、聖書の秘密があります。神と人の、霊魂の関係の秘密です。
今のままで行けば、世界六十五億の人間はすべて死んでしまいます。これがみすみす分かっていますから、せめて数人でもいいから、本当の命に目覚める人、死なない命をつかまえられる、イエスのような人が出てきて欲しいのです。
今のままでは、世界中の人間は、皆、死に続けます。かつて、釈尊もイエスも、こういうことを唱導しました。本当のことを知った者は、全世界を敵に回しても言わなければならないのです。
死ぬにきまっている命を、自分の命だと考えているなら、死んでしまうという運命を、自分で決定していることになります。運命は、その人の自由意志通りになるのですから、そんなバカなことを考える必要はありません。
私は、肉なるものであって、罪の下に売られている。これは、パウロがかつて、ただのユダヤ人であった時の気持ちを述べているのですが、その後、パウロは、まったく死んでいる、とはっきり言い直しています。っまり、現在の人間は、キリストの命を発見するまでのパウロと同じような状態なのです。何を勉強していても、どれだけ社会的な地位があっても、そんなものは、命には何の足しにもならないのです。
今の人間は、命に対する捉え方が、完全に間違っているのです。生命認識が間違っていることは、人生経験が全部間違っているということになるのです。これは、重大な問題です。
とにかく、幽霊の三十人や五十人が出てきても、びっくりすることはありません。悔い改めて福音を信じるという、高尚な信仰心がなくても、元気を出して、理屈抜きでバカものと言ってやればいいのです。
人間の霊には、色々な段階があります。死んだ人の霊は亡霊といって、どこにでもいるものです。これに対して、生きている人の霊は「生霊」といって、魂が働いている状態のことをいいます。生霊の方が次元が高く、権威を持っているので、幽霊、つまり亡霊が出てきても、バカものと言って、叱っておけばいいのです。「般若ハラミタ」のひと言でいいのです。
「摩訶」というのは、亡霊に勝つ力のことです。「般若ハラミタ」というのは、現世に生きていることが嘘だということです。亡霊として現世に出てくるのは、現世で持っていた妄念を、死んでからも持ち続けている霊なのです。こんなものに、耳を傾ける必要はないのです。
般若心経を読む場合には、その字句に適した気持ちを持って読むことが大切です。字句が示しているような意識を、できるだけ実感するような気持ちで読むのです。そうすると、妄念に勝てるのです。強くなれるのです。元気を出して、バカものと叱れば、幽霊などには充分勝てるのです。
もっと上等の霊の位になろうと思うなら、現世に生きていることがただの幻だということを、実感できるといいのです。例えば、聖書に『人は影のようにさまよいます。誠に、彼らは、むなしいことのために、さわぎ回るのです』(詩篇39・6)という言葉があります。
人間が現世に生きているのは、形はあるけれども、実体がない、影のようなものなのです。その証拠に、人の命は一寸先も知れぬものといいます。悪いたとえになりますが、家を出たとたんに、交通事故に遭うかもしれないということです。しかし、一寸先も知れぬ命というのは、正確には生きていないということにもなります。
実際に、人間の脳細胞は、全能力の十分の一以下、わずか六~七%しか活動していないのです。つまり、私たちは脳細胞の大半が休眠しているような状態で生きているといえます。これが、現在の人間が命を正しく認識していないという証拠です。
人間は、百四十億という脳細胞を持っていながら、その十分の一も使用することができない。すなわち、自分の脳細胞の十分の一以下の実力しか持っていないのです。そういう、限定された貧弱な状態で生きているわけですから、立派な命を持っているとはいえないのです。日本人の生命そのものが、根本から間違っているということは、現代文明の生命観が間違っていることであり、ひいては文明全体が間違っているということにつながっています。
聖書に、『わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである』(ローマ人への手紙7・14)とあります。これは、パウロが言っていることです。罪というのは死を意味するので、罪の下に売られているということは、死の下に売られているという意味になります。
それなのに、ほとんどすべての人が、自分たちはまともな命を持っているのだと、考え違いをしている。錯覚しているのです。全世界六十五億の人間は、すべて錯覚に基づいて生きているといえます。
般若心経では、そういう考え方が空であるといっています。五薀皆空、色即是空、究竟涅槃といっているのです。間違った生命認識を持っていれば、空になっても仕方ありません。
まず、般若心経に従って、今の生命観、世界観、価値観の間違いに気づくことです。そうすると、永遠の命へと、一歩前進できるのです。
現在の人間の記憶は、間違っているのです。分かったと思うその理解の仕方が、不完全なのです。不完全な理解、不完全な記憶に基づいて、般若心経の勉強をしようと思いますと、非常に難しいことが分かります。
そこで、まず、自分の命についての考え方が空であること、自分の常識が空であることを知る必要があります。そうしますと、正しい記憶というのが何であるかも分かってくるのです。
現在の文明全体が、価値観も、世界観も間違っているのです。これはユダヤ的世界観です。つまりユダヤ人が、こういう間違った世界観の種をばらまいたのです。今から二千年程前に、いわゆるキリスト紀元が始まって以来、ユダヤ人の害毒が全世界に分散されるような、歴史的必然性が発生したのです。これが、今の文明の命取りになっているのです。 ユダヤ人と、それ以外の全世界の人間との関係は、非情に難しい問題なのですが、日本人は、そのあたりの事情については疎いのです。ユダヤ人が考えたことが、全世界の歴史的必然性になってしまうというところに、聖書の秘密があります。神と人の、霊魂の関係の秘密です。
今のままで行けば、世界六十五億の人間はすべて死んでしまいます。これがみすみす分かっていますから、せめて数人でもいいから、本当の命に目覚める人、死なない命をつかまえられる、イエスのような人が出てきて欲しいのです。
今のままでは、世界中の人間は、皆、死に続けます。かつて、釈尊もイエスも、こういうことを唱導しました。本当のことを知った者は、全世界を敵に回しても言わなければならないのです。
死ぬにきまっている命を、自分の命だと考えているなら、死んでしまうという運命を、自分で決定していることになります。運命は、その人の自由意志通りになるのですから、そんなバカなことを考える必要はありません。
私は、肉なるものであって、罪の下に売られている。これは、パウロがかつて、ただのユダヤ人であった時の気持ちを述べているのですが、その後、パウロは、まったく死んでいる、とはっきり言い直しています。っまり、現在の人間は、キリストの命を発見するまでのパウロと同じような状態なのです。何を勉強していても、どれだけ社会的な地位があっても、そんなものは、命には何の足しにもならないのです。
今の人間は、命に対する捉え方が、完全に間違っているのです。生命認識が間違っていることは、人生経験が全部間違っているということになるのです。これは、重大な問題です。
とにかく、幽霊の三十人や五十人が出てきても、びっくりすることはありません。悔い改めて福音を信じるという、高尚な信仰心がなくても、元気を出して、理屈抜きでバカものと言ってやればいいのです。