永遠の生命を得るために

ブログの内容は梶原和義先生の著書からの引用です。

とこしえの命

2015-11-19 12:04:13 | 日記
現在の文明は目的を持っていません。目的を持っていないことは、行き先が真っ暗なことを意味するのです。文明が間違っていることは、文明を指導している人自身も、何となく知っているのです。しかしどうすればいいのか分からない。そこで目的のない、いつか滅亡するか分からないことを承知していながら、ずるずると続けていくしかない状態になっているのです。
今の大学教授は、自分のしていることが間違っているらしいことは分かつているのです。分かつているが、どこをどう変えたらいいか、分からないのです。そういう頼りない状態で、誰も責任を取ろうとしません。大統領も総理大臣も、政治家も、誰も責任をとろうとしないのです。
このままずるずる行けば、文明が瓦解することが分かつています。分かつていながら、止めることができないのです。これがユダヤ人問題です。こういうことを知る必要があるのです。
皆様は自分の命がいつかなくなることを、承知しています。承知していながら、その命を何とかする方法がないような気がしているのと、同じことなのです。
個人的にも現在の人間はどうすることもできないと思っているのです。今のままで生きていても、死ぬだけです。これが分かっていながら、打開する方法を積極的に考えようとしない。これがだらしない、いくじがない生き方なのです。
今の世の中の大人たちは、何を考えて生きているのでしょうか。生あるものは必ず死する。形あるものは必ず滅するということを、日本人は知っているのです。そうしたら、自分が何のために生きているのか、今の命をどのように考えたらいいのかが、分からなければならないのです。ところが、今の命をどう切り替えたらいいのか、分からない。これが人間のだらしなさです。
形があるものには、地球も含まれているのです。それが滅するというのです。地球が滅してしまうと、人間の存在はどうなるのか。そういうことを考えようともしないのです。形あるものは必ず滅する。それでしまいなのです。そういうものが人間の悟りであって、人間の文化文明は実にレベルが低いのです。
文化文明をどんなにののしっても、決して言いすぎではありません。文明が間違っているからです。自分が生きていることについて、つきつめた結論を出さねばならないとは思ってはいない。働いて仕事をしていれば、それでいいと思っているのです。
かつて、南禅寺の管長が首を吊って死にましたが、これは日本の仏教の現状を暴露しているのです。これは悪いことではなくて、非常にいいことです。宗教がでたらめであることを、管長は身をもって自白したのです。南禅寺は建仁寺、天竜寺、東福寺等五山の中で、筆頭の寺です。そこで管長と主家の両方をしていたのです。それくらいの行政手腕もあるし、同時に解脱徹底という点で、定評があった人物です。この人が病気を苦にして首を吊ったのです。これは頂門の蜜あって、現在の日本の仏教界は、中身が何もないことを、はっきり暴露しているのです。
日本の仏教はいわゆる伽藍仏教であって、伽藍はあるけれど、中身はからつぼです。南
禅寺の大和尚でも首を吊って死ぬくらいだから、民衆は死んで黄泉(よみ)にいくのはあたりまえだと思いこんでいるのです。死ぬのはしかたがないと思っている人が、住職になっているのです。寺の和尚になろうとすると、寺の株を買わなければならない。相当のお金がいるのです。そのために多額のお金が動く。仏教が商品になっているのです。
日本の仏教は中身がありませんから、もしお釈迦さんがもう岳世にやってきたら、寺をかたつばしから焼いてしまうでしよう。それをしないお釈迦さんなら、本当のお釈迦さんではないのです。そういう仏教を、日本人は真面目に信じているのです。ある学会の人々はまじめなものです。選挙の応援までしているのです。日本人は宗教に相当なお金を出している。そういうばかなことをしているのです。
今の大人は、目的なしに生きています。しかも非常に不真面目に生きています。今の天地が滅してしまえば、地球も消えるでしょう。そういうことに対して、人間はどう考えているのでしょうか。
生あるものは必ず死する。死ぬということを承知で生きているのは、どういう根性なのかと言いたいのです。
人間はこの世の中に生きている間のことは考えているが、それ以後のことを全然考えていない。死んでそれでしまいになるのなら、それでもいいのです。
ところが人間は死んでも、それで終わりという訳にはいかないのです。その証拠に、葬式をします。墓を造ります。法事をします。墓参りをします。人間はこの世を去って、煙のように消えるかというと、そうはいかないのです。それが分かっています。分かっていながら、どうしていいからないのです。
皆様が今生きておいでになる命は、死ぬに決まっています。死ぬに決まっていることを承知していながら、死ぬに決まっている記憶を信じている。ところが、死んでしまえばすべて終わりではないことを、潜在意識は何となく知っています。だから死にたくないと思うのです。
死にたくないと人間が思うのは、非常に重大な問題です。人間は死なねばならないと知っていながら、死にたくないと思っている。これは何なのか。
死なねばならないことが分かっているなら、死ぬのはしかたがないときれいさっぱりにあきらめてしまったらいいのです。ところが、死なねばならないことが分かっていながら、死にたくないと思っている。なぜそう思うのでしようか。
皆様が死にたくないと思うのは、皆様の本心です。常識的には死なねばならないと思っているが、本心的には死にたくないと思っているのです。どっちを信じるのでしょうか。
本心は本願といってもいいでしよう。命の真髄からほとばし出る直感が、本心です。これが死にたくないと思っているのです。ちよつと病気になれば、びっくりして病院へ走っていきます。死にたくないと思っていることが、そのまま行動になって現れるのです。
ところが、まじめに死にたくないと思う人が、ほとんどいないのです。本心を信じている人は、めったにいないのです。人間は本心を信じるため、本心を持っているのです。
釈尊は人間が生きていることが空だと言っているのです。今の日本でそんな事を言うお坊さんは一人もいません。そんな事を言えば、商売にならないからです。とにかく宗教は商売をしているのです。
人間は何のためにこの世に生きているのか。ただ欲を果たすためです。それ以外に何にもないのです。働いてお金を儲けて、家族を養っているのも、結局は欲です。そして死んでいくのです。死んでいく命であることを承知していながら、それに対して真面目に手を打たなければならないとは、考えない。これは本当に困ったことです。
人間は理性と良心を与えられて、この世にきているのです。ところが今の人間の生き方が、理性的、良心的に合理的でないことを知っているのです。それを棚上げしておいて、できるだけこの世に生きている状態で、欲望的に甘い汁をすおうと考えている。
人間は本心では死にたくないのです。死にたくないのなら、それを人前で言ってみませんかというと、けらけらと笑うのです。これがいけないのです。死にたくないという本心を持っていながら、それを口に出すのが、何かみっともないような気がする。ここに人間が死ななければならない矛盾があるのです。自分の気持ちを素直に公開できないほどの陰湿で、孤独です。心がいじけているのです。
死にたくないと思っていながら、死にたくないと言えないのです。人の前で死にたくないと言えないのなら、家に帰ってふとんをかぶって、人に聞かれないようにして、死にたくないと言ってください。そうすると自分の本心がどういうものかが分かるでしょう。
人間は本心に対して、実に不正直です。死にたくないと思うことは、今生きている命は死なねばならない命である。この命ではないもう一つの命が、どこかにあることを知っているから、死にたくないと思うのです。知っていながらそれを見つけることができないから、死にたくないと思うのです。
皆様は花を見てきれいだと思います。なぜそう思うのでしょうか。快晴の真っ青な空を見ると、すがすがしい気持ちがします。その時、死なない命を感じているのです。
花を見てきれいだと思う時、死ぬべき命ではない、もう一つの死なない命を直感しているのです。だから人間はきれいな花を見たいのです。
人間が死ぬか生きるかの秘訣は簡単なことです。何でもないのです。肉体があると思っている状態のままでいますと、必ず死ぬのです。肉体がない、魂が真実の中に入っていれば、死なないのです。
死ぬとはどういうことかと言いますと、真理から離れてしまうことです。真実から切り離されることを死ぬというのです。生きるというのは、真実の中に入ってしまうことです。
皆様が真実の中へ黙って入れないのは、心が歪んでいるか、いじけているか、萎縮しているからです。
皆様はすでに、死なない命を経験しているのです。花を見てきれいだと思った時の気持ちを思い出して下さい。美しい景色を見た時なら、よく分かるはずです。美しい景色を見て圧倒されている時、景色の中に自分の本心が入っているのです。
本心とは何かと言いますと、自分の中に、見たいと思っているものがあるのです。これは何かというと、自分の命です。自分の命を見たいと思っているのです。普通の人間は、自分の命を自分で見ることはできません。イエスはそれをしたのです。
自分の命の実体を、目で見ることは、普通の意識ではできません。そこで神が、自
分の命を外に見せてくれるのです。これが景色を見ることです。
景色とは何かと言いますと、天地が生きている姿です。天地が生きている姿を見ることが、景色を見ていることであって、山という形が見えたり、川という形が見えたりしていますが、実は形があるのではないのです。山獄清浄たる姿を見ていると、そこに複雑な宇宙の命の実体が現れているのです。山でもないし、川でもない。命の実体が山や川の姿で目に見えるのです。これがお天道さんの恵みです。山の形、川の形に見えるけれど、山や川ではなく、光を見ているのです。
人間の命は光です。この言.に光がある。この光は人の命であると、ヨハネは言っています(ヨハネによる福音書1・4)。人の中に命という光がありますが、これが景色になって目の前に展開しているのです。だから景色を見ることを観光というのです。
例えば、男性が女性を好きになる。女性が男性を慕う。これが実は死なない命の働きなのです。これを肉体を持ったままの気持ちでするからいけないのです。
おいしいものが食べたいとか、美しいものが見たいとか、女性が好きだという根性を徹底的に勉強しますと、死なない命が分かるのです。
これは理趣経が言う所とは違います。理趣経は肉体を持った人間が読むから、欲望になってしまうのです。般若心経をマスターした上で、理趣経を読むと、とこしえの命に接触している生活状態が、分かつてくるのです。
皆様が毎日、きれいなものが見たい、おいしいものが見たいと考えて生きています。これがそのまま救いになるのです。
パウロは次のように述べています。
「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」(ローマ人への手紙10・15)。これを誰も、読みこなさないのです。神の良き訪れを告げる者の足は麗しいと言っていますが、これは楽しい、喜ばしい、おいしいと言ってもいいのです。
おいしい、嬉しい、喜ばしいというのは、魂の感覚です。これを肉体的な感覚で見るから、皆欲になってしまうのです。山の景色に、天然自然が造った姿に、命が見えるのです。神が人間に、天地万物を見せて、その意味を読ませようとしているのです。
光を読むのです。風光を読むのです。そうすると、自分の中にある命が分かるのです。景色を見ている時、その人は無意識に、無念無想になっているのです。名月を見たり、雪、花を見ても同じです。これを本当に見ていると、その中に入っているのが分かるのです。
その時の気持ちをもって、心を開くと、キリスト紀元が分かってくるのです。キリスト紀元は、人間が死ななくなったという歴史の実体です。人間が死ぬ必要がなくなったという歴史の実体がキリスト紀元ですが、この実体を.正しく受け取ろうと思ったら、山の姿、花の色をじっと見るという正直な純粋な感覚で、世界の歴史をじっと見ればいいのです。
イエス・キリストが誕生した事で、地球上に死なない命が誕生したのです。今年は2006年ですが、人間が死ぬべきものではないということが決定してから2006年にもなるのです。ところが、それが分からずに人間が死んでいく。こういうバカげたことが続いている。私はこれに腹が立ってしかたがないのです。世界中の人間は何と愚かかと言いたいのです。
キリスト紀元の事実がなぜ分からないかというと、肉体的に生きている自分が主体だと思っているからです。
天地万物は何を示しているか。神が命を万物の形で現しているのです。それを直感しますと、自分の中にある命を外に見ていることになるのです。
これは何も山の姿だけではありません。雪でも月でも花でも、森羅万象はすべて、自分の中にある命を外に見せてくれているのです。これが雅、風流の本当の意味です。雅、風流の中へ自分の気持ちを入れてしまいますと、その人が生きている状態が、そのまま雅になってしまうのです。これが芭蕉の生涯です。芭蕉は俳句を作らなくても、彼がお茶を飲んでいる姿が、そのまま俳句になっていたのです。これが本当の俳句です。
人間がひねり出してつくったのは、俳句ではありません。これは言葉の工夫です。俳句はその人の命がそのまま風流、雅になっている状態をいうのです。自分から出てしまっているのです。それを芭蕉自身は確認できなかった。彼はそうなっていながら、自分の状態をつかまえられなったのです。
神は命の本物を見せるために、万物を目の前に見せているのです。哲学的に言いますと、人間の意識は神という無限人格と、断続的に継続しているのです。魂という言葉の実体を、哲学者は全然知らないのです。西田幾多郎は、人間の魂を知らないで、哲学的な理屈だけで不連続の連続と言っていたのです。断続しながら継続しているというのです。
ところが、人の魂の実体が分かりますと、花を見ている時に、神と対話していることが分かるのです。食べることによって、神と対話しているのです。女性というのは、すばらしい対話の対象になるのです。
人間が生きていることは、神との無限の対話になっているのです。ところが、自分の肉体があると思っているのですから、無限の対話が無限の欲望に変わってしまうのです。
神との対話は無限です。ところが肉体があるという肉の思いで見ているために、無限の欲望に切り替えられてしまうのです。それで人間が欲望の奴隷になってしまうのです。おいしいものを食べるのも欲、女性を抱くのも欲になるのです。お金儲けも欲、勉強するのも欲、みんな欲になってしまうのです。
人間はとこしえの命で生活しているのです。月を見たり、女性を見たりしている。ところが無限の命が分からない。皆様の魂が盲だからです。女性という有難いものを見ていながらそれが分からないのです。
無限の命を目の前に見ていながら、ただ肉体があるという思いに捉われているから、神との無限の対話が無限の肉欲の経験になっているのです。人間はばかなことをしているのです。だから地獄へ行かなければならないのです。神がせっかく人間に与えてくれている天来の能力がありながら、神の実体が分からない。
生きていることはそのまま神とつきあっていることです。神とつきあっていながら、神が分からないから、皆死んでしまうのです。
なぜ死ぬかというと、人間の記憶が間違っているからです。今日生きている、今生きていることの記憶の仕方が間違っているのです。記憶の仕方が間違っているために、記憶が全部肉になってしまうのです。これはもったいないことです。
人間が今生きているのは、神を経験しているのです。神を経験していながら、それが全部悪魔の経験に切り替えられている。もったいないことです。
命を本当に知ろうと思ったら、神が万物を造ったということが、よく分かっていなければいけないのです。
人間の肉体も万物の→つです。万物の一つである肉体を、私たちは持っています。だから景色を見ると嬉しいのです。私たちと万物は同じものです。
落ち着いて、心を開いて、太陽をじっと見ますと、自分の命の実体がそのまま太陽によって現されていることが分かるのです。
太陽は地球が生きている命の根元です。地球は生物です。地球から生まれたものは、全部命があります。水も空気も、土も新陳代謝しながら存在しているのです。これは有機質を意味しています。
物質的な問題と精神的な問題と、二つあると考えるのが、現代学の根本的な欠点です。そういう学問を信じているから、命が分からないのです。哲学者は生きていながら命を知らないのです。不連続の連続という形容的な言葉は使いますが、実体的なことは一言も言いません。
皆様が食物を食べておいしいと感じることは何か、美しいと感じたことは何か、魂がしいしているのです。しいとは仮に働いているということです。仮に経験していること、仮に働いていることがしいです。
人間の生活は皆しいです。しいということは試行という意味です。人間は試行錯誤ばかりをしているのです。そのくせ、自分がしたことを信じているのです。自分がしたことを試行だと思わずに、立派なことをしたと思ったり、失敗したと思ったりしている。
立派なことをしたと思っていることは間違いです。失敗したと思うことも間違いです。たまがしいしているのです。たまというのは、人間が生きている状態をいうのです。神の御霊によって生きているのですから、それがしいしているのです。命があるに決まっています。あるから、それが花が咲く姿になって現れたり、輝く姿になって現れたりするのです。
命の本体がなければ、生命現象は一切あるはずがないのです。命の本源があるから、現象があるのです。水源地があるから、水道の水が出るのです。皆様が生きているという事実は、命の水源地につながっているに決まっているのです。それを知るために、たまがしいしているのです。
人間が生きている状態をたまと言います。たまがしいしていることが分かれば、何をしているのか。美しい、楽しい、嬉しいとは何をしているかが分かるのです。おいしいと思う時には、その人の魂は命を経験しているのです。しいというのは、本当の事ではないが、仮の姿で何かを経験していることです。
おいしい、嬉しいというのは、魂が命の水源地を観賞している状態を言うのです。人の魂が神の実物を経験している状態です。これが、おいしい、美しいと感じることなのです。
皆様は何のために生きているのでしょうか。おいしいものが食べたいからでしょう。
楽しいこと、美しいこと、嬉しいことがなかったら、生きていても死んでいても同じことなのです。
おいしいものが食べたい、美しいものが見たいと思うことを欲望と言いますが、これは欲望ではなくて、命が神にふれたいと思っていることを意味するのです。
私たちは毎日、神を経験しているのです。神のラブコールを、魂が感覚しているのです。神が人の魂を愛しているという印を、おいしいという形で知らせているのです。人間はそれを経験することが、無上の楽しみなのです。
おいしいと思うこと、楽しい、美しいというばかりでは、その意味が分かりませんので、苦しい、悲しいというものがあるのです。そうしますと、苦しいとか、悲しいという事でさえも、人間の魂に一つのチェックを与えて、神の方へ向けようとする神の愛のシグナルになるということが分かるのです。
神が生きているという実物、太陽が活動している実物をつかまえるのです。これは宗教ではありません。もしこれが宗教だと言われるのなら、人生は完全に絶望になってしまうのです。
理想や希望は、現実に人間が生きている実体から捉えなかったら、いけないのです。哲学や倫理をいくら振り回しても、だめです。神の実物、命をつかまえなかったらだめです。そのためには、どうしても天地が造られたという事実、万物が造られたという実体に触れていかなければならない。ところが日本人は、天地が造られたという事実が、さっぱり分からないのです。現在、聖書を勉強をしている人でも分からないのです。
キリスト教でいくら聖書を勉強しても、天地が造られている実体に触れられることは、絶対にできません。これが宗教の貧弱さ、虚無性を現しているのです。
私たちは、生きているという事実を経験しているのです。神をつかまえるということは生きているという事実に対する答えでなかったら、いけないのです。
芭蕉がよんだ俳句でなかったら本当の俳句ではないというのは、その人の存在が俳句になっていなければ、本当の俳句とは言えないからです。
俳句みたいなものをいくら振り回しても、だめです。人生が俳句になっていなければ、その人の俳句には力がないのです。
子規のよんだ俳句にも、なかなか力があるのです。子規は神を知りませんでしたが、月を見ていることが神と対話をしていることを、何となく感じていたのです。食事をすることが魂の喜びであることを、感じていたようです。ここに子規の値打ちがあるのです。
自分が生きていることをよく見れば、子規や芭蕉のような感覚は、持てるのです。これをしようとすれば、天地が造られたことを、勉強する必要があるのです。
マタイは言っています。
「わたしは口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう」(マタイによる福音書13・35)。
世の初めから隠されていることとは何か。天地万物ができた時に、隠れたものがあるのです。
人間は一つ一つの生きざまが、非常に大切なのです。ちょっと腹を立てる、ちょっと嘘を言う、ちょっと風邪をひいて寝る。これがすべて魂の肥やしになるのです。人間が生きている起居動作は、すべてとこしえの命につながっていくのです。
子規は自分を生かしているものが何であるかを、知らなかったのです。だから彼はとこしえの命が分からなかったのです。生きていながら、生きていることの意味が分からなかったのです。
神とのつきあい、神に物を言う癖をつければ、死なない命が分かるのです。皆様は現実に、飲んだり食べたりしていながら、神が分からない。その原因は何かと言いますと、わたしは口を開いて譬を語るという意味が分からないからです。
世の初めから隠れたことを話すために、神が口を開いたのです。神が口を開くとどうなるのかと言いますと、万物が生まれるのです。神が口を開くと、言が働きます。言の働きは、理性と良心の本源です。
人の魂の本質は言です。人の魂の本性はすばらしいものです。神の能力と同じ能力を持っているのです。無限の能力を持っています。神はそれを知っているから、皆様の魂に語りかけようとしているのです。
皆様の魂の本源は言です。言が魂の本質です。言は神の能力と同じものです。ところが皆様は、自分が生きていると思っています。そう思っていると、魂の本質が働かなくなるのです。能力の何百分の一しか働かないのです。私みたいなものは、聖書は分かるだろうかと考える。これは本来の皆様の能力の、何千分の一しか認めていないことになるのです。
そこで、般若心経によって、五経皆空、色即是空を勉強すると、自分がいないことが分かるのです。般若心経が卒業できると、聖書が分かってくるのです。
般若心経が卒業できないものは、聖書が絶対に分かりません。日本のキリスト教が全部だめなのは、そのためです。カトリックもだめです。般若心経を勉強していないからです。
イタリアには般若心経はありませんが、イタリアの歴史を見ていけば、般若心経に匹敵するような文化原理があるのです。どこの民族でも、般若心経に匹敵するものがあるはずです。イギリスにもありますし、ドイツにもあるのです。民族の根源に遡って、民族の由来を十分に勉強すれば、般若心経に匹敵すべき文化原理があるに決まっているのです。
神は公平ですから、日本人だけに空を教えて欧米人に全然教えなかったのではありません。空という思想はありませんが、空に似たものがあるに決まっているのです。
イタリアの場合は、ローマ時代にセネカという哲学者がいましたが、その時代の学者が言ったことをじっと考えてみますと、般若心経に匹敵した思想があったのです。
日本だけのものとは違います。ですから、どこの民族でも、自分の国の歴史を良く勉強すれば、自分を否定しなければならないことは分かるはずです。
皆様は日本人です。般若心経があることを良くご存じです。しかし般若心経を勉強しようとしていない。そこに皆様の怠慢性があるのです。
生活のことは勝手にできます。命を真剣に求めていれば、生活のことは勝手にできていくのです。生活のことより、命のことをもっともっと重要視して頂きたいのです。
生活とは何か。生とは命の本質です。活は働いていることです。命が働いていることが生活です。皆様は命が働いていることを考えないで、肉体が働いていると思っています。だから日本人の考えは、肉体的な現象ばかりです。生活とは言えない生き方、肉活という生き方をしているのです。
明治時代までのおやじは、生あるものは必ず滅する、形あるものは必ず壊れると言ったのです。今のおやじはこういう言葉を知りません。それだけ人間の魂が衰弱になっているのです。
大学へ行って勉強すればするほど、命が分からなくなる。盲になってしまうからです。これはユダヤ主義の影響によるのです。
核兵器の原理を考えたのは、ユダヤ人です。原水爆に反対する人にノーベル賞を与えているのもユダヤ人です。これをマッチポンプと言います。マッチで火をつけておきながら、火事だと言って叫び、ポンプを持って走り回っている。ユダヤ人はこういうことをしているのです。
ノーベルというユダヤ人が、ノーベル賞をつくって、世界の学者に点数をつけている。これが人間文明です。文明とはこういう愚かなものです。
ユダヤ人の間違いをやめさせる以外に、文明をまともにする方法はありません。ノーベル賞をありがたがっている学者が日本にいる間は、日本はだめです。
世界の文化文明は、ユダヤ人に引きずり回されています。日本人はユダヤ人問題を知らなさすぎるのです。
なぜユダヤ人が、現在のような文明を展開しているかと言いますと、世界中の人間に本当の神を知らせたくないからです。キリストを信じさせたくないからです。本当の神を認識させたくないのです。そこで人間の肉体生活だけに花を咲かしているのです。コンピューター、エレクトロニクス、情報通信機器、オリンピック、ワールドカップ、いろいろなスポーツ、万博、ディズニーランド、世界各地への旅行といった各種のエンターテイメントによって、人間の肉体生活を飾りたてている。だから肉活になっている。自分の本能を欲望的にだけ見ているのです。
本能は欲望的に見てはいけないのです。ところが欲望的にしか見ることができなくなっている。だから、女性が女性の本質を失っている。男性が男性の本質を失っているのです。なぜそうなったのかと言いますと、この世が始まった時に、万物ができたのですが、その時に隠れたものがあるのです。
太陽が現れた、地球ができた時に、隠れたものがあるのです。聖書によれば、太陽ができる前に光があったのです。太陽ができた後の光は、地球の生物を養うためのものですが、これとは別の光があるのです。これをつかまえればいいのです。これが天地創造の光です。
聖書は天地創造を、七つの段階で説明しています。太陽ができたのは、第四日目の段階です。一日目、二日目、三日目では、太陽がなかったのです。この時の光をつかまえたらいいのです。
太陽ができた時に、前の光が隠れたのです。今は太陽の光が見えますが、その状態をよく見れば、前の光があることが分かるはずです。
現在の文化文明は、今輝いている太陽の光しか分かりません。これがユダヤ主義の見方です。太陽の光があるということは、その前の光があることを示しているのです。
パウロは、太陽ができる前の光を見たのです。太陽よりも輝いている光と聖書は書いています(使徒行伝22・6)。パウロはダマスコ途上の太陽よりも輝く光を見て、キリストが分かったのです。太陽ができた時に、キリストという光が、隠れてしまった。これをパウロは見たのです。キリストという光は何か。物質ができた時に、その原形になるべきものがあって、それが隠れたのです。
例えば花が咲くためには、原形があるのです。花が咲いている時には、花の原形は隠れているのです。今皆様が生きている命を、本当に認識されれば、死なない命が分かるに決まっているのです。
世が始まった時に隠れたものがあるのです。何が隠れたのか。簡単に言いますと、命の現物が隠れたのです。命の実体が消えてしまったのです。命が消えた代わりに、万物が生きている現象が現れたのです。
植物、動物は何かと言いますと、命の現れです。命の表現形式が現れた時に、その原形が消えてしまった。
命が消えて現象が現れた。それがこの世です。何のために命が消えて現象が現れたかと言いますと、森羅万象という現象を通して命の実体を見つけることができる人間が現れたら、その人に天地森羅万象を任せようという神の計画です。これが人間存在の最高の目的です。
成仏という仏典の言葉も、これが目的です。成仏して何をするのか。草木国土悉皆成仏と言いますが、草木国土全体を成仏させることが、人間が成仏する目的です。
万物を成仏せることができないような成仏の仕方は、本物ではないのです。法蔵比丘という坊さんが、万物と一緒に苦労する。万物を完成させることが、私の人生の目的だということを考えたのです。それを四十八の願によって説明しているのです。
阿弥陀如来は万物に対して責任を持つものだということを、大無量寿経で説いているのです。これがキリストです。ところが聖書のキリストは、歴史的な実体です。大無量寿経は抽象的な誓です。抽象論としての肇と、歴史の実体とは違います。阿弥陀如来は歴史的な背景がありません。だからただの宗教観念になってしまいます。
ところが聖書にあるキリストは、死を破って復活した。その結果、人間が死なないものになった。死ななくてもいいのではなくて、死なないものになったのです。だからキリスト紀元の意味が分かりさえすれば、死なないことがはっきり分かるのです。
西暦2006年というのは、歴史の実体です。万物が存在することの実体として聖書を勉強すると、皆様が生きている命が、そのまま、死なない命の実体であることが分かってくるのです。
これがキリストの正しい受け取り方です。困ったことに、世界中でこれが分かる人がいないのです。私は神の恵みによって、かろうじてその端緒をつかまえたので、それを大いに拡大して、確かなものとして捉えたい。そしてそれを世界に向けて発信したいと考えているのです。
皆様はせっかく人間としてこの世にお生まれになったのですから、最高の目的を達成して頂きたいのです。
皆様が今生きておいでになる命は、神と同質の命です。神と同等の力を持っているのです。自分の主観を捨ててしまえば、皆様の命は神と同じ能力を発揮できるのです。つまり万物の王となるのです。
皆様の人生は、万物の王になるための修行です。現世の平凡な人生を本物だと思わないでいただきたい。固有名詞の自分、現世の自分を本物だと思わないで頂きたい。永遠の命が先にあることを考えて頂きたいのです。
リンゴを食べた時、リンゴの味がします。桃を食べた時、桃の味がします。これは永遠を示しているのです。人間の味覚の本質、視覚の本質、聴覚の本質は、驚くべきものです。これは神の言(ことば)です。五官の働きはそのまま神の実物を経験しているのです。
皆様が五官によってこの世に生きているというだけで、死なない命を経験しているのです。ところが人間はキリストが分からない。一見たり聞いたりしていながら、目の働き、耳の働き、手の働きが、何をしているのか分からないのです。
ヨハネは次のように述べています。
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、命の言(ことば)についてーこのいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、いまやわたしたちに現れたものである。
すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである」(ヨハネの第一の手紙1・1~3)。
皆様が見たこと聞いたこと、手で触ったことは何かと言いますと、初めからあったものに触れているのです。初めからというのは、この世ができる前からということです。
この世ができた時に、命の言が隠れた。そして森羅万象が現れた。天地万物、森羅万象は、初めからあったいのちの言です。言は最高の論理的原理です。論理的実体です。物理的な原理であり、論理的な原理です。生理の奥義、真理の奥義です。すべての物事の存在する原理を、命の言と言うのです。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であったとあります。これが命の本物です。神と言と命は一つのものです。これがこの世ができる前にあったのです。
この世ができた時に、それが隠れてしまった。万物ができた時に、それが隠れてしまったのです。隠れたものがキリストの原形です。これが植物、動物になって現れたのです。これが天地創造です。
命の実体であり、神の言であるものが、天地万物になって現れた。私たちも人間の一人としてこの世に現れた。天地万物を見ることによって、命の言を悟る人が出るかもしれない。これを神が期待しているのです。
初めからあった命の言が万物になって、現れた。その時には初めからあった命の言が消えたのです。消えて、万物になって現れた。そこで、現れている万物を見て、その本体が命の言だと見破った人だけが、キリストに属する一族と見なされて、万物の王として、とこしえの命を与えられるのです。これがイエスの復活によって歴史的に証明されたのです。だからイエスの復活というのは、あらゆる学の根本になるべきものなのです。
キリストを学ぶ時に、人間は初めて専門学という小さな学から解放されて、全体的な命に目を向けることができるのです。キリストは現在、第三の天にいます。やがてキリストが、復活の命を持って、地球上にくるでしょう。この時、文明が完成するのです。
私は宗教の教えを述べているのではありません。地球が存在する根本原理を述べているのです。人間の命が存在する根本原理を述べているのです。太陽が造られたのは、四日目です。三日目までは太陽はなかったのです。ところが、草木は三日目に造られたのです。四日目と五日目に色々な動物が造られ、六日目に人間が造られたのです。
一番最初に光が造られ、二日目に、陸と海ができました。三日目に植物が造られた。四日目に天体が造られた。そういう命が皆人間の中に入っているのです。人間の中に、植物の命も、動物の命も、皆入っているのです。だから、人間は植物を育てることができるのです。植物の命(霊)が分からなかったら、そういうことはできないのです。
生物学的な命の根本原理が植物の命です。人間は花を見ると、花の性質が分かるのです。それをじっと見つめて、暖めると、花の命が人の中で芸術的に膨らんでいくのです。花が持っている非常に和やかな意識が自分の意識になっていくのです。植物の上に動物の命があるのです。人間の命をよくよく見ていくと、万物を支配できるようになっているのです。
皆様がいま生きていらっしゃる命は、現世の仮の命であって、本当の皆様の命は何かを考えなければいけないのです。神が万物を造ったことが、そのまま人間の命になっているのです。これが、人間が一番最後に造られたという意味です。
神にかたどりて、神にかたちのように人を造って、万物を治めさせるというのが、神の人間創造の目的ですが、これが何のことか、世界中のキリスト教徒が、分からないのです。創世記一章二十六節の意味が分からないのです。神と同じ気持ちになって聖書を読まないから、分からないのです。
神と同じ気持ちになって聖書を読んだら分かるのです。そうすると、自分の中にある命は神の命であって、自分の命ではないことが分かるのです。そこで、自分が生きているというばかなことを考える必要がなくなるのです。ことに、女性の存在が意味深いのです。男性が全然神に目を向けないので、男性の目を引くために女性を造ったのです。
人間は万物の最終の被造物として造られましたが、その後に女性が造られました。このことの意味を、よく弁えなければいけないのです。ウーマン・ボディーの格好をよく見ると、女性の本質が見えてくるのです。
今の女性の気持ちはだめですが、女性の存在そのもの、女性が存在しているということがらが、貴重なのです。これを女性の姿が壷良く現しているのです。
女性の姿形は、神が造ったものです。これが最高の被造物です。素直さ、美しさ、しとやかさが女性の姿に現れていますが、これが人間の正体です。人間の本当のあり方が、女性になっているのです。人間は女性に姿のようになったらいいのです。女性の根性は学ばなくてもいいのです。
女性のウーマン・ボディーを見て男性は感心しますが、何に感心しているかと言いますと、男性の中にないものが、女性の姿になって現れているのです。男性には素直さがありません。これが女性の姿になって現れているのです。
ところが聖書によると、人間の手本になるべき女性が、先に善悪を知る木の実を食べたと述べているのです。これが人間が死んでいく原因になったのです。
そこで、何といっても女性の本質を知ることが必要です。女性自身にとつても、女性の本質を弁えれば、人間は救われるのです。
女性が先に、善悪を知る木の実を食べたということが、人間が全部死んでいく原因になったのです。そのために、女性のでき方が男性よりも上等であるにも係らず、男性の下におかれることになったのです。男性に従わなければならない運命になった。
これが男性と女性の関係です。男性と女性を比べれば、女性の方が素直に決まっています。素直な人が、素直でない男性の下におかれることになったのです。男性がことさらいばるのも、女性が焼きもちをやいてへそを曲げるのも、原因は命の本質を見ていないからです。現世に生きている人間関係だけを見ている。だから男性も女性も、間違ってしまったのです。
ヨハネは、目で見ていること、耳で聞いていること、手で触っていることが、とこしえの命だと言っています。皆様が現実において経験していることが、命の言です。これを経験していながら、その実体が分からない。そして死んでいくと勝手に思っているのです。そのくせ死にたくないと思うのです。
本当に死にたくないと思うなら、自分は毎日、何をしているのかを、よくよく見ればいい。客観的に見ればいいのです。花を見たり、山や川を見ている。それは何をしているのか。実は命を見ているのです。死なない命の現実を見ているのです。これが命の言です。これを教えているのが、ヨハネの第一の手紙です。
このように、皆様は見たり、聞いたり、触ったりして、とこしえの命に接触しているのに、自分が生きていると思っているために、それが全くわからない。自分の欲望のために命が見えなくなっているのです。
森羅万象は皆様の中にあるのです。皆様の中にあるから景色を見て感動するのです。もし皆様の中に景色がなかったら、感動しないでしょう。皆様の中にあるものと同じものを見るから感動するのです。
中にあるものを引き出すことが、本当の教育です。人間の中にあるすばらしい能力を引き出して、教えるのが、教育でなければならない。神の御霊によって、皆様の中にあるものを引き出してもらうのです。そうすると、イエスという永遠の生命が、はっきり分かるのです。


神と人の恋愛

2015-11-19 12:03:19 | 日記
初めに言(ことば)があった。この言に命があったとありますが(ヨハネによる福音書1・1、4)、この言はまだ現われていないことばです。
言葉は言語として現われたり、文字として現われたり、形として現われたものです。言はまだ現われていないもの、言葉は現われたもので、言葉をギリシャ語では、レーマと言います。言はロゴスです。
現われていない言を見つければ、皆様は死ななくなるのです。皆様が現在生きているのは、現われているのです。これが言葉ですが、この言葉は死ぬに決まっています。
皆様が今日生きているのは、言によるのです。明日生きるという命も言です。過ぎ去った日々は、回想として学ぶことはできますが、未来として期待することはできないのです。
言を勉強しないと、とこしえの命は分かりません。人間の学問は、言葉ばかりを問題にしているのです。人間の文明をどれだけ勉強しても、皆様の記憶をいくらやりかえても、全部死んでしまいます。形をとって現われたものは、全部だめです。
形を取らないものが、皆様の中にあるのです。これをつかまえるのです。人間は言葉の方しか知りません。まだ現われていない言、自分が経験していない言に気がつかなければ、皆様は必ず死にます。これをよく考えて頂きたいのです。
これから生きていく命が、とこしえの命です。とこしえの命を学ぶためには、今まで生きてきた命を、捨ててしまわなければいけないのです。昨日までの命を、捨ててしまうのです。これを捨ててしまえない人は、とこしえの命が分からないのです。
皆様は今まで生きてきたという記憶に基づいて、自分を見ています。また、世間を見ています。六十四億の人間は、全部、今まで生きてきた世界に生きています。そういう人は死んでしまうに決まっているのです。
今まで生きてきた記憶を捨てるのです。これをやり続けると、初めて、平安という言葉の意味が分かってくるのです。
神が皆様に与えようとしている命は、皆様が未だ経験したことのない命です。それを皆様は持っていますが、経験していないのです。
皆様はすでにとこしえの命を持っていますが、経験していないのです。もし皆様がとこしえの命を持っていないのなら、死んでから地獄へ行っても裁かれません。神は持っていないものを、信じなさいとは言わないのです。そういう無茶なことを神は言いません。
皆様はとこしえの命を持っているのです。持っていながら、それを知らないのです。そこで大変な罰金を取られることになるのです。お金をたくさん稼いでいながら、税金を払わないようなことになるのです。
とこしえの命について、ヨハネは次のように述べています。
「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手で触ったもの、すなわち、命の言についてーこの命が現われたので、この永遠の命を私たちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠の命は、父と共にいましたが、今や私たちに現われたものである」(ヨハネの第一の手紙1・1、2)。
この言は、初めに神と共にあったのです。初めとはいつのことかと言いますと、地球ができる前のことです。神と共にいた言が、皆様の中にあるのです。言は経験していないが、持っているのです。これがロゴスです。
例えば皆様が、明日何かおいしいものを作ろうと思います。まだ皆様は食べていませんが、すでに皆様の精神の中にあるのです。
とこしえの命を、皆様は勉強しようと考えます。それは皆様の中に、とこしえの命があるからです。ないものを勉強しようと考えないのです。
皆様の心の中に死なない命があるのです。あるから勉強しようとお考えになるのです。まだ経験していないし、はっきり分からないが、とこしえの命を知りたいと思う。認識してはいませんが、可能性としてはあるのです。未知数の命として言があるのです。
この言に命があった。その命は人の光であったとあります。皆様の中に、漠然とした希望があります。希望というのは期待を意味します。これはあるには違いないが、まだ見ていないという意味です。
一番分かりやすいのは、恋愛感情です。これはほとんど期待になるのです。恋は普通の期待よりももっと濃厚なものです。
とこしえの命は、すべての人が無意識に期待しているものです。明日という言葉も、永遠の命という言葉も、内容は同じです。明日の命は永遠の命です。もし明日の命がなかったら、永遠の命はあるはずがないのです。
すべてのものは、言によって造られたとあります。例えば、目の前に花が咲いているとしますと、これは今という時に咲いていますが、これはすでに過去に属しているのです。
今という間に今はなし、今という間に、今は過ぎ行く。今咲いているのは、過去を意味するのです。花を見るのは、これからもっと咲くか、保たれているという希望を見ているのです。人間の希望はすべて言です。これが命です。まだ見ていない命を、人間は希望しているのです。
知りたいと思うのは、皆様の中にあるが、認識していないことを意味しているのです。不思議なことに、皆様の目の働き、耳の働きは、皆様が見ていないものを見ているのです。
初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手で触ったもの、即ち命の言についてとヨハネは言っています。皆様が見ているもの、聞いているものは、命の言です。これは地球ができる前にあったものです。これを皆様は、毎日経験しているのです。
例えば、今、目の前に花が咲いているとします。花を見るというのは、花の明日を見ているのです。未来を想定する実感をもって見ているのですが、未来は花が持っているのではなくて、皆様の目が持っているのです。
人間の目は、未来を見ているのです。皆様の目が見えるのが、命の光として働いているのです。目が見えることの意味が分かったら、それだけでその人は死なないのです。
これだけのことが、なかなか分からないのです。なぜ分からないかと言いますと、いままでの経験に拘っているからです。今までの経験に従って考えているから、分からないのです。今までの経験を問題にしないで考えれば、よく分かるはずです。例えば恋愛をしているような気持ちで、前を見るのです。そうすると分かるのです。
神が人間の魂に、恋をしているのです。人間の魂は神の気持ちに誘惑されて、神を恋するようになるのです。これを信仰と言います。恋愛が好きな人は、見込みがあります。恋愛が嫌いな人は、見込みがないのです。
魂は恋をする機能です。見えないものを見るのです。まだ経験していないことを、経験したいと思う機能です。これが魂です。
女性は素朴で純真な恋をしやすいのですが、男性はそれができません。欲望的な恋はできますが、欲望を無視して恋をするのは、非常に難しいのです。だから、男性は女性を見習わなくてはいけないのです。
女性は恋をすること、恋をしてもらうだけで幸せです。男性は抱かなければ幸せを感じない。これほど違うのです。
神というお方は、女性的男性です。非常に女性的センスを持っている男性です。男性でありながら、女性的センスを、たくさん持っているのです。これが神です。神の預言者も同じような性質を持っているのです。
最初に造られたアダムも、同じような性質を持っていました。男性の性質と女性の性質の両方を持っていました。ところが造った神を全然認めようとしないので、女性の性質をアダムから抜いてしまった。ハート(あばら骨)というすばらしいものを、抜いてしまった。だから男性は、抱かなければ辛抱できないという。おかしな状態になったのです。結婚する前の男性は、希望を持っていますが、結婚してしまうと、男性の欲望がむき出しになる。だから堕落してしまうのです。そういう意味では、パウロが言うように、男性はなるべく結婚しないほうがいいのですが、しかし現実はそうばっかりは言っておられませんので、結婚することになるのです。ここが難しいのです。
恋はすべて、未来に希望を持つことに光沢があるのです。結婚をして、男女が夫婦になってしまうと、恋心が一度に消えてしまいます。実用本位になってしまうからです。性的行為をしますと、恋心がなくなってしまうからです。こういうことは、聖書の勉強に重大な関係があるのです。
神は恋をすることがとても上手です。恋愛の天才です。だから、聖書を通して神を勉強することはできますけれど、目の前にありありと神を見ることができないように、仕向けているのです。恋愛感情を持たなければ、神が分からないように仕向けている。いつまでも、恋愛を保つように、仕向けているのです。ここまでおいで、甘酒進上と、着いては離れ、着いては離れと、人を一生神の処へ引っ張っていくのです。決して神は姿を見せないのです。
耳で聞いていること、目で見ていること、手で触っていることが、初めからある命のことば(言)です。人間の体で肉体にふれることは、すべてとこしえの命に接触しているのです。こういうことが本当に分かっている男女は、接触していいのです。分からずに接触すると、皆欲望になってしまうのです。
皆様の目の働き、耳の働き、手の働き、体全体の働きが、そのまま言の働きです。これに気がつくと、初めて、聖書の勉強をすることの厳かさ、あらたかさが分かってくるのです。
暑い時は暑いように、寒い時は寒いように、神が接触しているのです。神から見ると、触られていることが、すぐに分かるのです。ですから、神と仲良くなることは、いつでもできるのです。
人間は感覚が神の言であることが分からないのです。指先の感覚があります。手で触られると何かを感じます。これが神の言に触っているのです。触られている対象も、初めからある命の言ですが、触っている手も初めからある命の言です。命の言が、命の言に触っているのです。触られている方は女性的です。触っている方は男性的です。これが恋愛関係になっているのです。
そのように、皆様の体全体が神に触っているのです。手の先に目があるのです。その目で神を見ているのです。これを、ザ・ランプ・オブ・ザ・ボディー(the lamp of the body)というのです。ボディーはランプのようなものだというのです。
ボディーは、目のようなランプであるというのです。手の先にランプがあるのです。舌の先にランプがあるのです。ボディー全体が目です。人間がボディーによって生きていることは、そのまま目で見ていることです。これはイエスの言葉ですが(マタイによる福音書6・22)、イエスはこんなに恋愛がよく分かっていたのです。
人間の霊魂と神の霊とは、永遠の恋愛関係になっているのです。永遠の恋愛関係を肉体的に考えますと、コップを手で触れることがもう恋愛です。男性が女性の手を握るほどの実感はありませんが、やはり恋愛関係になるのです。造られたものは女性的です。コップは女性的なものです。触る方は男性的で触れられる方は女性です。
人の魂はいつも燃えています。女性にはこの感情がよく分かるはずです。燃えない人はだめです。男女の関係を勉強すると、勝手に聖書が分かってくるのです。人間の霊魂は恋の器のようなものです。
手で触っているもの、耳で聞いているものは、すべて命の言です。家も机も椅子も、すべて命の言です。私たちは毎日、毎日、死なない命を経験しているのです。これが分からないのは今までの記憶を信じているからです。
今までの記憶を信じることをやめるのです。自分の気持ちで考えることをやめるのです。神の気持ちで考えるのです。イエスの真似をするのです。自分の気持ちを問題にしないで、明日の命を問題にするのです。これがイエスの生き方です。
人の心臓が動いていることが神です。これは信じるとか信じないという問題ではありません。事実です。私たちが信じても信じなくても、心臓が動いているという事実があります。これが神です。信じても信じなくても人は父の内にいるのです。
皆様に一番必要なことは、いつでも生きている命を通して、未来を見るようにすることです。過去を見ないようにするのです。過去を見ないわけにはいきませんが、過去のことが頭に浮かんできても、それを問題にしないようにするのです。それをいつも訓練するのです。
今までの自分の記憶にこだわらないで、前向きに生きようとするのです。人間の命は、前向きにだけ生きているのです。皆様は、朝、目を覚ますと、昼のことを考えます。昼になると夕方のことを考えるでしょう。そのように人間の生活は未来に向かっているのです。このやり方が永遠の命をとらえる方法になるのです。
今までの自分の経験や、自分の考えにこだわらないで、前向きに考えるという習慣をつける。そうすると、新しい世界が開けてくるのです。
自分の根性を、自分で直そうとする必要はありません。そういうものは、放っておいたらいいのです。ただ前だけを見ればいい。そうしたら、後ろのことは忘れるでしょう。これができない人は、神をつかまえることはできません。神は前にだけいるのです。後ろにいるのは悪魔です。今までの自分がいるという思想は、悪魔に捉わられた思想です。自分が生きているという思想で見ると、一度に悪魔的になるのです。ところが、未へ目を向けると、まだ経験していない分野ですから、自分が生きていたという思想を使うことができないのです。この方法を使うのです。未来にだけ目を向けるのです。自分が生きていたことを考えないのです。
神はおまえの過去は一切見ないと言っています。この言葉を有難く受け取ればいいのです。神は人が昨日何を言ったのか、何をしたのかを、一切問題にしていません。だから、今日も人を生かしているのです。これを見習ったらいいのです。自分の昨日までのことを、一切問題にしなければいいのです。
皆様が見ておいでになるもの、食べるもの、触るもの、着るものは、すべて言です。言が服になったり、食べ物になったり、飲み物になったりしているのです。人の五官であるロゴスが、レーマ(現れたもの)に触っているのです。そういうものに、未来に向かって生きている気持ちで触れるのです。そうすると、見るもの、聞くもの、触れるものすべてが、新しくなるのです。
皆様が生きている命は何か。その言に命があった。命は人の光である。皆様の命は今まで生きてきた命ではなくて、これから生きていく命が働いているのです。命が光になる。自分の命が自分の光になるのです。
生きていることがそのまま阿弥陀如来になるのです。ナムアミダブツと言わなくてもいい。自分が阿弥陀如来だから、自分が生きている命が自分の光になるのです。未来を照らすのです。これが、ザ・ランプ・オブ・ザ・ボディーです。肉体で生きていることは、目で見ているようなものだというのです。これが分かったら、救われると言っているのです。
永遠の命である神の言葉が、自分の命になっているのです。だから、与えられている命を、後ろ向きに使わないで、前向きに使うのです。
人が歩く時は、前向きに歩くに決まっています。後ろ向きに歩く人はいないでしょう。そのように生きたらいいのです。前に向かって歩く命は、自分の命ではなくて、神の命です。神の命が自分に与えられているから、前向きに使えばいいのです。そうすると死なないことが分かるのです。


ユダヤ教を痛撃したイエス

2015-11-19 12:02:31 | 日記
聖書六十六巻で書いていることは、煎じつめると、神の実質と、人間の実質の二つです。神の実体とは、神の名前です。聖書に、ザ・ネーム・オブ・ゴッド(the name of God)とあります。神の名前とは何かということです。
キリスト教では、天にましますわれらの父よ、ねがわくば御名を崇めさせたまえと祈っています。御名とは、ザ・ネームのことなのです。ネームを崇めさせたまえと祈っているのです。
ところが、キリスト教では、神のネームが分からないのです。例えば、理屈で分かっているとしても、実際の生活で分かっていなければ、分かっているとは言えないのです。神学思想として分かっているとしても、自分自身の生活の実感で、神のネームが分かっていなければ、本当に分かっているとは言えないのです。
理論的にさえも、神のネームがキリスト教では分かっていないのです。ましてや、生活の実感では分からないのです。
生活の実感で、神の実質、実体を弁えるのです。これが旧約聖書の真髄です。これがユダヤ人に分かっていないのです。これがユダヤ人に分からないので、現代文明の間違いが起きたのです。
現代文明は、神を全く持っていない文明です。現代文明には神がありません。キリスト教という宗教はあります。キリスト教には、本当の神がないのです。キリスト教の神を造っているのです。聖書に書いてある本当の神を、キリスト教は知らないのです。神が分からない宗教が、キリスト教なのです。
キリスト教は、神の実質が分からない状態で、贖罪論を造ったのです。キリストの贖いによって、人間の罪が許されるというのです。これがキリスト教の中心思想になっています。
日本では神学博士になっている人は、キリストの贖罪についての理屈を書いて、博士になっているのです。こういう人が、キリスト教の指導者になっているのです。聖書が全然分かっていないのです。贖罪ということさえも、分かっていないのです。ただ、キリスト教の理屈を並べているのです。
イエスは、ユダヤ教を痛撃しました。だから、宗教家によって十字架につけられたのです。世の中の宗教と、神の国の教えは全然違うのです。
イエスが殺されたのは、神のネームを正しく説いたからです。神の名前を正しく生活すると、イエスという名前になるのです。
エホバという神の名前を正しく認識すること、生命的に神の御名を正しく認識すれば、イエスになるのです。
神の御名がエホバです。人間の霊魂の御名がイエスです。皆様方が、現象的肉体人間の名前を信じれば、固有名詞になるのです。これは、地獄へ行くべき人間の名前です。それをやめて、イエスの御名を自分の実質であると考えることができたなら、皆様はイエスと一つになれるのです。
イエスは私の所へ来なさいと言っています。私の人格の中へ入りなさいと言っている。私に来なさい。そうすれば、私もあなたがたの中にいるであろうと言っています。
イエスという人格と、皆様の人格が、一つになってしまうのです。これを信仰と言うのです。イエスの名前は、皆様方自身が、自分を離れて生きている状態です。自分が生きているという意識を離れて、客観的に、神の御霊に生かされている人の状態が、イエスです。これは死なない人の名前です。自分が生きているという気持ちが妄念です。これを捨てて
しまえば、イエスが残るのです。
例えば、コーヒーを飲んで、本当にコーヒーの味がするという純粋な感覚がイエスです。純粋に素朴な感覚がイエスです。難しくはないのです。自我意識を一切捨てるのです。分かるとか、分からないと考えることが自我意識です。
皆様が、この世に生きている面子がだいたい自我意識です。面子を捨てて、自分の経験、プライドを捨てて、命の実質をそのまま丸裸で見るのです。これがイエスの名前を崇めることです。
イエスが言う、私に来なさいというのは、そういう素朴な考え方で生活をすることです。これは決して難しくはないのです。ナムアミダブツよりも簡単です。ナムアミダブツというのは、阿弥陀如来のいわれを心にとめて、念仏申せと言っているのです。これは、なかなか難しいのです。
阿弥陀如来の名号とは、阿弥陀とはどういう意味なのかをよく弁えて、念仏しなければならないのです。そんなことをしている本願寺の信者は一人もいないのです。阿弥陀如来の名号を心にとめたら、本願寺にはいられないのです。
イエスの御名とは、皆様方の自尊心、経験、欲望という自分の気持ちを捨てて、ごく素朴に、生まれながらの自分のような気持ちで、生きているという事実だけを見るのです。砂糖をなめると甘いという事実だけを見るのです。花を見れば美しいという事実だけを見るのです。
美しいというのは、自分が考えるのではありません。感じさせられているのです。神が花を咲かせたのです。神の花を感心しているのです。そういう感覚が、イエスなのです。誰でもできることです。
皆様の丸裸の状態がイエスです。自分の妄念、疑惑を捨ててしまえば、イエスと同じ命を持っていることが、自覚できるのです。聖書に書いてある中心テーマは、こういうことなのです。




ユダヤ主義は生命原理に反している

2015-11-19 12:01:39 | 日記
私はユダヤ人を憎んでいるのではありません。彼らの魂を心から尊敬し、徹底的に愛しているのです。
ユダヤ人の思想が悪いのです。例えばスポーツを世界に広めています。オリンピックは分際を知って開催すればいいのですが、分際を知らずに行いますと、オリンピックのための職業スポーツマンを養成することになるのです。
学問は一種の情報であるという謙虚な態度で、人間生活の需要な参考資料として扱えば、重要な文献となるのです。ところが科学は絶対だという考えで人類を圧倒しようとする。これがユダヤ主義的な野心なのです。この考えを日本の学校の教師は、無批判で受け入れているのです。
ユダヤ主義は生命の原理に反しているのです。命は脳波であって、脳波に益するような考えでなければいけないのです。
人権と言いたければ言ってもいいでしょう。ところが現在のように人権を崇め祭ることになってしまいますと、家庭内暴力、学校内暴力が頻発することになるのです。これは人権を過大に評価しすぎた結果なのです。
親は親、子供は子供としての分限があるのです。分限が人間の命です。権利がある所には、義務、責任がなければならない。義務、責任を教えないで権利ばかりを強調していると、暴力行為が多発するのです。これがユダヤ的な欠点です。
本来、ユダヤ人は非常に優れた民族です。この民族が間違った思想を持っているから困るのです。
ユダヤの魂は良いのですが、その野心が悪いのです。これを政治家も学者も知らないのです。ユダヤ人間題の本質が分かる人が、ほとんどいないからです。いたところで、この間違いについて勇気をもって発言しようという人は少ないのです。
現代人は命を棒に振っても、生活さえできればいいと考えている。こういう考えが、すでにユダヤ人に感化されている考えなのです。
皆様の命である脳波の本体は何でしょうか。脳波の本質は言です。宇宙には波長があります。波長の本体は言です。イエスが復活したというのは、彼自身が言の本質を弁えていたからです。皆様は毎日言を経験していますが、言の捉え方が分からないので、本当の命が分からないのです。
死は人類の敵、宇宙の敵です。これをイエスは破ったのです。だから彼の発言も行いも、命の言です。これ以外のどんな人の言行もすべて情報です。
自然法は言です。自然法は何かと言いますと、神の約束が原理になって成立しているのです。神の約束は命の言そのものです。
聖書に、「私は口を開いて響を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう」(マタイによる福音書13・37)とあります。世の初めとは、現象世界が現われる前ということです。現象世界が現われる前から存在していた永遠の命の実体を、示そうと言っているのです。これは神自身の大発言です。
現象世界があるとはどういうことか。例えば太陽が輝いている。これは神が口を開いているのです。花が咲いている。これも神が口を開いているのです。皆様は太陽が輝いていることを毎日見ています。水が上から下へ流れています。自然法をそのまま目の前に見ているのです。これは神の言を見ているのです。
神が何のために譬を語っているかと言いますと、天地創造の前に存在していた永遠の生命の実体、本当の命の実質を人々に知らせるために、口を開いて万物を生かしているのです。
皆様は毎日、朝から晩まで、万物を見ています。いつでも鼻から空気を吸っています。自然法によって鼻から吸い込んでいます。お米を炊いたり、水を飲んだり、毎日、命の言を経験しているのに、それを捉える方法を知らないのです。だから本当の命が分からないのです。皆様の脳波が健康にならないのです。
自然法は何かと言いますと、これが神の言です。神の言というのは、神が造った言という意味です。これを端的に証明したのがイエスです。だから、イエスは死んだけれども、死の世界が彼を受け入れることができなかったので、死の世界から戻されたのです。どうしてそうなったかと言いますと、イエスは言の本質を知っていたからです。
言とは何かと言いますと、遺伝子の原点をなすものです。イエスは命の奥義を知っていたのです。
地球は生きています。地球を生かしている原質的なもの、原点的なものがなければならないのです。これが言です。自然法とか、神の約束が言です。
聖書に、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」(ヨハネによる福音書1・1~3)とあります。森羅万象はすべて言によってできているのです。
皆様は毎日、空気や水、太陽光線の恵みを経験しています。花が咲いているのは、神が口を開いて言を語っているのです。太陽光線も神が語っているのです。この意味が分かれば、皆様は永遠の生命、死なない命が分かるのです。これによって皆様の脳波が育てられますと、死なない脳波に変わっていくのです。肉の思いで生きていますから、死んでしまう脳波になっているのです。イエスの復活の事実を皆様が勉強されますと、皆様の脳波に死なない脳波が入ってくるのです。イエスの復活は言の働きです。重大な意味における神の言の働きなのです。
皆様の脳波が働いている問に、脳波の働きの原理をつかまえたらいいのです。止まってしまったらもうだめです。心臓が止まっても脳波が働いている間はまだ死んでいないのですから、脳波が働いている間に言の原理をつかまえればいいのです。
肉の思いの脳波は、死んでしまえば止まってしまいます。霊の命の脳波は心臓が止まらずに、永久に動いているのです。これを見つければいいのです。霊なる命を見れば、止まらない脳波が分かるのです。だから純情素朴な心が必要なのです。
皆様は学問を信じすぎているのです。理屈が頭につまっているのです。ユダヤ人の思想に翻弄されているのです。だからユダヤ的な情報網に引っかからないで、皆様の独自の見解で、純情素朴な人間になって頂きたいのです。
命の本質は素朴なものです。命は理屈ではありません。皆様の脳波は非常に素朴なものですから、素朴な人柄でなければ死なない脳波がこの人の中へ入ってこれないのです。
大自然の原理が神の言ですから、これを受け取ろうと思えば、素朴な感覚、素直な気持ちが必要です。


ユダヤ人と自称してはいるが、その実、ユダヤ人ではない人々

2015-11-19 12:00:36 | 日記
聖書に次のように書いています。
「聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けば誰にも閉じられることがなく、閉じれば誰にも開かれることのない者が、次のように言われる。私は、あなたのわざを知っている。見よ、私はあなたの前に、誰も閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、私の言葉を守り、私の名を否めなかったからである。見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実、ユダヤ人でなくて偽る者たちにこうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、私があなたを愛していることを彼らに知らせよう。
忍耐についての私の言葉をあなたが守ったから、私も地上に住む着たちをためすために、全世界に臨もうとしている試練の時に、あなたを防ぎ守ろう。
私は、すぐに来る。あなたの冠が誰にも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。勝利を得る者を、私の神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、私の神の御名と、私の神の都、すなわち、天と私の神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、私の新しい名とを、書きつけよう。耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録3・7~13)。
この箇所は実に意味深長な所でありまして、この箇所を信じる異邦人があるとしますと、異邦人にしては珍しく、ほんの少しの力を持っているのです。神に従っていかねばならないこと、神に従うことが、人間存在の建て前であることが、分かっているのです。
私たちは困ったことに、この世に生まれてきました。この世に生きていて、現在まだこの世に生きていると思っている。この気持ちで神を信じることが、根本的に間違っているのです。
だいたい、人間に神が分かるはずがないのです。神を信じるというのは、私たちが神が分かっていないことを信じるのです。人間が分かったと思うことは、皆間違っているのです。
神を信じるというのは、自分を全く信じないことですが、これができないのです。聖書の言葉はあまりはっきり言い過ぎて分からないのです。
現世の政治、経済の流れは、はっきりサタンの会堂です。サタンの会堂ということが、サタンの教義、教条を意味するのです。サタンの教義は、現代文明の中枢を握っている。これが空中の権です。サタンの会堂が空中の権を意味しているのです。
アメリカの大統領は、ユダヤ人の背景がないとなれないのです。世界の政治、経済、軍事の中心は、ユダヤ人によって押さえられているのです。
聖書の勉強をして、救われたいという気持ちが間違っています。自分が勉強して、イスラエルに伝道をする。これが間違っているのです。これを全部解脱してしまわなかったらだめです。
自分がいるという考え方が、偽りの情欲に惑わされている考えです。自分のために生きているのではない。自分が仕事をするのではない。これをはっきりさせることです。
十字架以後の現世は、全くひどいものです。地の塩が味を失って、人に踏まれている状態です。肥料にもならない。ただ人に踏まれているだけです(マタイによる福音書5・13)。
神の言葉であるイエスが十字架につけられたことによって、神の言葉で造られているものが、全部無になった。肉なるものが全部無意味になったのです。これが色即是空の本体です。これだけでも信じられる人はほとんどいないのです。
般若心経の色即是空という言葉は、十字架のニュアンスを良く現わしているのです。言葉が肉となった。この肉が十字架につけられたのです。十字架を信じるとは、これを信じることです。
言葉が肉となった。これが十字架につけられると、どうなるか。人間存在の実体はどうなるか。森羅万象の実体はどうなるかです。
森羅万象は小羊(イエス)のものになっている。サタンのものとは違います。千々万々の御使いは、小羊を賛美しているのです(ヨハネの黙示録5・11~14)。これをよく理解して頂きたいのです。食物の味、花の美しさは肉(現世のこと)ではない。魂が感動を覚えるのです。
イスラエルに神の約束が与えられた。彼らはこれを、現象的な角度からだけしか見られないのです。
神が契約を与えると言っていますが、これを現世のこととしてしか考えていない、現世のこととしてしか考えていないということが、サタンの会堂の基本になっているのです。サタンの会堂は全く空なるものです。これを金銀玉桜、大慶高桜のように考えているのです。
国家は政党が権力を握って、右手に経済、左手に法律の剣をかざして、行政組織を造っているのです。これは全くの虚仮おどしです。国を国家にしている。これは全くの御伽噺です。
国と国家は遠います。国は実存していますが、国家は空存している。虚存しているのです。政党が変わると、国家も変わってしまいます。もし共産党が日本の政治権力を握ると、自民党の政治と全く違うものになるでしょう。国家そのものが、見事に変わってしまうのです。しかし、国は変わらないでしょう。公明党が権力を握れば、富士山麓に巨大な戒壇を造るでしょう。それも国家であって、国自体ではないのです。
考えなければいけない。考えるとは、まだ分からないこと、知ってほしいこと、未知の世界へどんどん踏み込んでいくことです。百四十億の脳細胞の中で、まだ用いていない部分を用いることを、考えるというのです。
五官が正しく働いていれば、百四十億の脳細胞の中の、半分位は使えるはずです。百四十億全体を、フルに使うくらいのスケールを持っていないとだめです。
キリストには、神の知恵と知識が満ちていますから、キリストが分からなければいけないのです。
サタンの会堂に属するものを、おまえたちに預けると書いているのです。神の信頼度合いを考えてみるのです。
六十五億の人類を牛耳っているのが第二の天です。現在の政治活動、経済活動、思想活動、学理学説の全体が、サタンの会堂です。これを預けるというのです。
大胆さと神経の細やかさがいります。神経質な人はあることに目をつけると、徹底的にそれをしないと気がすまない所があるのです。これを神的に用いるといいのです。神にだけ神経を使うのです。そうすると自分が苦労しなくてもいいのです。神がその人の神経質な面を、うまくコントロールしてくれるのです。そうすると、大きく伸びるのです。
パウロは古き人を脱ぎ捨てて、新しき人を着よと言っています。これをすべての人がしなければいけないのです。古き人を脱ぎ捨てなければ、絶対に救われない。人々を救うどころか、自分さえも救われないのです。
サタンの会堂は第二の天であって、現代文明をリードしているもの、リーダーシップを取っているものです。これが空中の権を取っている。空中の権を私たちに与えると、神は言っているのです。
これはキリストの空中再臨の前触れです。地上にいる教会が、サタンの会堂の権を与えられる。これがきっかけになって、空中にキリストが再臨するのです。
自分のことには無関心になってもらいたい。現世のことにはどうでもいいという考えを、いつでも頚においてもらいたいのです。現世で何かを知らなければならないという考えを、捨ててしまうのです。
キリストは復活して、昇天してしまった。イエスは、義とは私が父の天にいくことではなくて、おまえたちが私を見なくなることだと言っているのです。人間がいなくなることが義です。義とは神から見た正当性ということです。
イエスは本当の人間です。本当の人間がこの世にいなくなることが、義です。この地上で、目に見える人間を信じている人は、義が分かっていないのです。人がこの世にいるのは、第三天のキリストを証するためです。固有名詞の人間はいないのです。
新約時代は全く奇想天外の時です。神がイスラエルを捨てて、異邦人に福音を与えたことによって、世界が変わってしまった。物理的に心理的に、旧約時代と全く変わってしまったのです。
世界の人々に言わなければならないことは、文明の退廃、文明が間違っていること、文明は命について全く無力だということです。宗教が間違っている。キリスト教が聞達っているのです。教会が歌っている讃美歌が皆間違っているのです。教会の間違いがはっきり分からなければ、あなたがた自身の間違いは分からないでしょう。自分自身の間違いがはっきり分からなければ、ユダヤ人の間違いが分からないのです。
讃美歌は皆間違っています。神でないものを、神として讃美しているからです。今の人間が讃美すると、自分が造った神を讃美するしかないのです。
人間は、肉体的に存在する自分を、有意識的、または無意識的に認めなければ、神を信じることはできないのです。したがって、今の人間が神を讃美すると、肉体的な自分を認めていることになるのです。この原理が間違っている。これがユダヤ人の間違いです。人間が神を讃美すれば、人間が造った神を讃美するしかないのです。キリスト教の人々が讃美すると、人間が造った神を讃美しているのです。これが皆間違っているのです。人間が造った学問を信じ、人間が造った政治を信じる。人間が造った国家を信じているのです。
国と国家は違います。人間が生活を営んでいるのは国です。政治経済機構を造っているのは国家です。国民は戦争を放棄したいのですが、国家は放棄したくないのです。「国亡びて山河あり」という言葉がありますが、正確には、国家亡びて山河ありと言うべきなのです。
人間が讃美しているのは、人間が造った神です。讃美している人間と、誠の神とは何の関係もないのです。人間は神を讃美する資格は、初めからありません。なぜかというと、人間は全部死んでいるからです。神は人間を認めていません。人間の思いが死んでいるからです。
神が認めているのは、イエスの御名である人間なのです。生かされていること、インマヌエルという事実しか、認めていないのです。人間が考えている人間を、神は一人も認めていないのです。これがユダヤ人の律法に対する神の考えです。キリスト教の間違いを、はっきり知らなければ、ユダヤ人の間違いが分からないのです。
人間には、固有名詞の人間がいるという考えが、こびりついています。神の約束がそのまま自分であるということが、分かっていないのです。
家庭がある。仕事があると思っている。それはあってもいいのですが、神がその人に一つのコースを与えて、霊を自覚させようとするための方便なのです。家庭も商売も、ただのコースです。霊を自覚するための、ただのコースなのに、それを自分だと思ってしまっています。事情境遇が自分だと思っているのです。名刺の名前が自分だと思っているのです。
ユダヤ人は掟を行おうとしている。これほどばかばかしい考えはありません。キリスト教が聖書を信じようとしているのと、同じことなのです。
自分が聖書を信じようとしているのは、神に挑戦していることです。神を侮っているのです。聖書ぐらいは自分でも分かると考えている。これは大変な冒涜です。まず聖書にかなう人間になるべきであって、絶対に聖書を勉強してはいけないのです。
ユダヤ人は人間が造った掟を拝んでいます。イエスは言っています。おまえたちは神の言葉を守らずに、人間の言い伝えを守っている。人間の言い伝えがタルムードになり、ミシュナになっているのです。
パウロから見れば、トーラーでさえも間違っています。トーラーの文句は間違ってませんが、読み方が間違っているから、受けとめ方が間違っているのです。人間のトーラーになっているのです。
自分の気持ちに基づいて聖書を読まずに、聖書に基づいて自分を読むのです。そして、聖書の一字一句が自分の命であると考えるのです。
神は私たちに、完全を求めているのではありません。原則を受け止めること、原則に従おうとしたはっきりした意識を持てばいいのです。
神は私たちに100%を求めているのではない。実行しようという意志、実行しつつあるという気持ちを持っていればいいのです。自ら備えをしようという気持ちを持つ者に、助けが与えられるのです。
ことに異邦人の教会には莫大な助けが与えられるのです。神は寛大な姿勢で見ておられますから、神を侮ってはいけないけれど、神の大まかさを慎んで信じるという態度を取るなら、叱られないでしょう。
神に対しては、どこまでもアバ父という子なる霊を持たなければならないのです。恐れおののくという気持ちではいけないのです。
幼児は恐れおののくという態度をとれません。これがいいのです。大人の意識で神を甘く見ては絶対にいけないのです。幼児の意識でいけば、神の愛が分かります。これはできないことではない。
私たちがまず大人であることをやめることが基本条件です。自分の意識、自分の立場、自分の感情を問題にしなければいいのです。結局、自分自身をどう見ればいいかです。幼児になれとか、素直になれという言い方は、抽象的です。神は霊であるから、拝するものも、霊と誠をもって拝するでいいのですが、霊をもって拝するとはどうすることか、誠をもって拝することはどうすることか。これがはっきり分からなければいけないのです。
開けば誰も閉じられないもの、閉じれば誰も開くことができないものがあります。ここで、ダビデのかぎを持つという重大な発言をしています。キリスト教では、ダビデのかぎとは何のことか全然分からないのです。これはダビデの幕屋のかぎのことです。やがて来たるべき千年王国の、真ん中に建てられるものです。これが建てられると、世界平和が本当に実現するのです。
誰も閉じることのない門を開いておいたと言っています。これはすばらしいことです。この門は、キリストが神の右に座することが分からなければ、分からないのです。
一度死んで甦ったものでなければ、ダビデのかぎは持てないのです。この門は、神の国の門です。
イエスは山上の垂訓で、狭い門と言っています(マタイによる福音書7・10)。これが私たちに開かれている。私たちの場合、狭き門が広き門になっているのです。広き門が狭き門になっている。反対になっているのです。
私たちにとって、この世の門が非常に狭い門になっているので、帰ろうとしても帰れないのです。無理に入ろうとしたら入れないこともないが、入る必要もないのです。滅びに到る門は狭く、救いに到る門が大きくなっているのです。これは本当に有難いことです。彼の上に、イエスの名と、新しき都エルサレムの名を書きつけようとあるのです。フィラデルフィアの教会は十四万四千の救われる人々の基礎になる教会です。天のエルサレムの基礎です。私たちは、天のエルサレム建設のためのベースキャンプにならなければいけないのです。
鼻から命の息を入れたということが、聖書六十六巻の質的な命のあり方の基礎になっているのです(創世記2・7)。命の息とはっきり言っています。鼻から命を出し入れしているのです。
神は地のちりに形を与えて、人を造ったのです。地のちりが人間としての形を取るには、長い長い年月があったのです。短時間に形を与えられたのとは違います。時間空間を通じて、自然に形を与えられたのです。これに鼻から命の息をふき入れられた。
最初に原人みたいなものがいたが、まだ彼らは生命意識を持っていなかったのです。しかし、原人がはっと気がついた。「ああ、自分は鼻から息を出し入れしている」。これが生きているという意識につながっていったのです。
まず、生命意識が人間の魂に植えられた。これが第一期です。次に、生命を意識している自分がいると意識したのです。これは自我ではない自分です。人称人格です。生きている自分がいるという意識、自我とは何の関係もない意識です。客観的に自分を意識し始めたのです。
これが神から与えられた第一意識で、これがそのまま信仰の原点になるのです。どうしても見逃すことができない意識で、これをリビング(家庭)と言います。リビングとは人間が生きていることの事実、実体です。これは人間のあり方のあらゆる意識に優先するのです。
リビングなしに信じることは絶対にできません。これが信仰の原点です。「ああ!生きている」ということが信仰の原点です。
第一意識とは、第一信仰のことです。現代人は、第一意識を見つめるという意識が非常に鈍いのです。これは誰にでも言えることです。年をとっても若くても、生きていると思っている。これが信仰です。見えないことを誠としているのです。
生きていることは見えないことです。見えないけれど信じられるのです。パウロは「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル人への手紙11・1)と言っていますが、まだ見ていないことを確信するとは、信仰のあり方を言っているのです。
魂とは何かと言いますと、信じるという意識の第一になるものです。信じることなしに、魂は発生しません。成立しないのです。信じることが魂です。
太陽が東から出ることを信じる。これが魂です。こういう原点的な観点をしっかりつかまえて、神をつかまえてしまうのです。これをすれば、びくともしないのです。
魂であることが信じる機能であることを意味します。魂以外に信仰の正体はありません。リビング・ゴッド(living God)と、リビング・ソール(living soul)、受動性の神と、能動性の神とがあるのです。受動性の神を神の子と言います。能動性の神を父なる神と言います。可能的演繹性と、可能根拠があるのです。父なる神と子なる神があるのです。これが人間存在の原点、聖書の原点です。絶対に否定することができないのです。
人が生きていると思っていることが、そのままインマヌエルです。これは六千年の問、人間が分からなかったことです。イエスがそれを証明したのです。言葉は神である。この言葉に命がある。命は人の光である。命とはリビングです。リビングが人の光です。誠の光が人間になって現われた。リビングが人間になって現われたと言っているのです。
誠の光があって、この世に現われた。彼は世にいた。世は彼によってできた。生きているということがなければ、この世はないのです。命という事実がこの世に来た。しかもこの世は命によって成り立っているが、この世は命をまじめに受け取らなかったのです。このことをはっきり自覚するのが、正当なリビング・ソール(生きている魂)と言える資格があるのです。これをはっきり自覚しないものは、リビング・ソールではないのです。
リビング・ソールとは、リビングの本体です。アダムは客観的にリビング・ソールになったのですが、自分自身がリビング・ソールという自覚を持っていなかった。神は何とかして、アダムにリビング・ソールの自覚を与えようとして、あの手この手をうったのですが、分からなかった。アダムはついにリビング・ソールという自覚を持つことができなかったのです。アダムは客観的にはリビング・ソールになったのですが、アダムはそれに適合する自覚を持つことができなかった。これが悲劇の始まりです。
リビングがそのまま神です。ザ・シール・オブ・ザ・リビング・ゴッド(the seal of living God)とあります。リビング・ゴッドのシールとは何かと言いますと、リビングそのものです。リビングがシールそのものです。
アダムは、「あっ!生きている」と思ったけれど、その生命意識が何であるかが、理解できなかったのです。マグロの刺身を食べて「旨い」と思っても、旨いとは何かが理解できなかったら、マグロの刺身を食べたことにならないのです。味を理解すると同時に、味の本質を理解するのでなかったら、本当にマグロを食べたことにはならないのです。
地球上には、六十五億のイエスがいるのに、そのことを一人も知りません。だから神が大声疾呼しなければならないことになるのです。おまえたちはバカだと神は言っているのです。死にたくないのに、死んでいかなければならないからです。
六十五億の人間は、リビングという事実によって生かされているのです。カインもそれが分からなかったのです。死ぬかもしれない。殺されるかもしれないと恐れていたのです。
神は「おまえが生かされていることが、私がいることだ」と言ったのです。カインに与えたしるしは、リビングのしるし(印)です。神がしるしを与えれば、リビングに決まっています。これ以外のしるしはないのです。
リビングということが、ザ・シールです。リビング・ゴッドのシールは、リビングに決まっています。リビングがシールだということに気がついた人が、パウロ以後、世界中で一人もいなかったのです。私たちはこのシールを携えて、イスラエルにのぞむのです。極めて平易で、明々白々なことが、神の実体です。愚かだけど迷うことはないとモーセが言ったのは、この事実です。
信仰とは何か、人が生きていることです。救いとは何か、人が生かされていることです。皆様はすでに生かされているのです。現在、鼻から息を出し入れしていながら、それが何か分からないので、皆死んでしまうのです。
それを黙って放っておいてもいいのかと言いたいのです。世界中の人間は、もったいないことをして死んでいくのです。
鼻から息を出し入れしていることがイエスです。これが命であり、救いです。これが分からないのです。一番簡単なことで、一番分かりやすいのです。明白なリビングのシールを与えられていながら、生きていることが何をしているのか分からないのです。
生ける神の印は、絶対的なことです。リビングというシールが、私たちのシールです。生きていることは、絶対に否定できません。これには、反対も抵抗もできません。けんかができないのです。生きていること以外に、救いがあるはずがないのです。
現在、六十五億の人間が生かされていることが、救われていることです。これは明々白々な事実です。だからパウロは、今は恵みの日、救いの時であると言っています。この恵みと救いは誰にでも開かれています。天国の門が大きく開かれているからです