現在の文明は目的を持っていません。目的を持っていないことは、行き先が真っ暗なことを意味するのです。文明が間違っていることは、文明を指導している人自身も、何となく知っているのです。しかしどうすればいいのか分からない。そこで目的のない、いつか滅亡するか分からないことを承知していながら、ずるずると続けていくしかない状態になっているのです。
今の大学教授は、自分のしていることが間違っているらしいことは分かつているのです。分かつているが、どこをどう変えたらいいか、分からないのです。そういう頼りない状態で、誰も責任を取ろうとしません。大統領も総理大臣も、政治家も、誰も責任をとろうとしないのです。
このままずるずる行けば、文明が瓦解することが分かつています。分かつていながら、止めることができないのです。これがユダヤ人問題です。こういうことを知る必要があるのです。
皆様は自分の命がいつかなくなることを、承知しています。承知していながら、その命を何とかする方法がないような気がしているのと、同じことなのです。
個人的にも現在の人間はどうすることもできないと思っているのです。今のままで生きていても、死ぬだけです。これが分かっていながら、打開する方法を積極的に考えようとしない。これがだらしない、いくじがない生き方なのです。
今の世の中の大人たちは、何を考えて生きているのでしょうか。生あるものは必ず死する。形あるものは必ず滅するということを、日本人は知っているのです。そうしたら、自分が何のために生きているのか、今の命をどのように考えたらいいのかが、分からなければならないのです。ところが、今の命をどう切り替えたらいいのか、分からない。これが人間のだらしなさです。
形があるものには、地球も含まれているのです。それが滅するというのです。地球が滅してしまうと、人間の存在はどうなるのか。そういうことを考えようともしないのです。形あるものは必ず滅する。それでしまいなのです。そういうものが人間の悟りであって、人間の文化文明は実にレベルが低いのです。
文化文明をどんなにののしっても、決して言いすぎではありません。文明が間違っているからです。自分が生きていることについて、つきつめた結論を出さねばならないとは思ってはいない。働いて仕事をしていれば、それでいいと思っているのです。
かつて、南禅寺の管長が首を吊って死にましたが、これは日本の仏教の現状を暴露しているのです。これは悪いことではなくて、非常にいいことです。宗教がでたらめであることを、管長は身をもって自白したのです。南禅寺は建仁寺、天竜寺、東福寺等五山の中で、筆頭の寺です。そこで管長と主家の両方をしていたのです。それくらいの行政手腕もあるし、同時に解脱徹底という点で、定評があった人物です。この人が病気を苦にして首を吊ったのです。これは頂門の蜜あって、現在の日本の仏教界は、中身が何もないことを、はっきり暴露しているのです。
日本の仏教はいわゆる伽藍仏教であって、伽藍はあるけれど、中身はからつぼです。南
禅寺の大和尚でも首を吊って死ぬくらいだから、民衆は死んで黄泉(よみ)にいくのはあたりまえだと思いこんでいるのです。死ぬのはしかたがないと思っている人が、住職になっているのです。寺の和尚になろうとすると、寺の株を買わなければならない。相当のお金がいるのです。そのために多額のお金が動く。仏教が商品になっているのです。
日本の仏教は中身がありませんから、もしお釈迦さんがもう岳世にやってきたら、寺をかたつばしから焼いてしまうでしよう。それをしないお釈迦さんなら、本当のお釈迦さんではないのです。そういう仏教を、日本人は真面目に信じているのです。ある学会の人々はまじめなものです。選挙の応援までしているのです。日本人は宗教に相当なお金を出している。そういうばかなことをしているのです。
今の大人は、目的なしに生きています。しかも非常に不真面目に生きています。今の天地が滅してしまえば、地球も消えるでしょう。そういうことに対して、人間はどう考えているのでしょうか。
生あるものは必ず死する。死ぬということを承知で生きているのは、どういう根性なのかと言いたいのです。
人間はこの世の中に生きている間のことは考えているが、それ以後のことを全然考えていない。死んでそれでしまいになるのなら、それでもいいのです。
ところが人間は死んでも、それで終わりという訳にはいかないのです。その証拠に、葬式をします。墓を造ります。法事をします。墓参りをします。人間はこの世を去って、煙のように消えるかというと、そうはいかないのです。それが分かっています。分かっていながら、どうしていいからないのです。
皆様が今生きておいでになる命は、死ぬに決まっています。死ぬに決まっていることを承知していながら、死ぬに決まっている記憶を信じている。ところが、死んでしまえばすべて終わりではないことを、潜在意識は何となく知っています。だから死にたくないと思うのです。
死にたくないと人間が思うのは、非常に重大な問題です。人間は死なねばならないと知っていながら、死にたくないと思っている。これは何なのか。
死なねばならないことが分かっているなら、死ぬのはしかたがないときれいさっぱりにあきらめてしまったらいいのです。ところが、死なねばならないことが分かっていながら、死にたくないと思っている。なぜそう思うのでしようか。
皆様が死にたくないと思うのは、皆様の本心です。常識的には死なねばならないと思っているが、本心的には死にたくないと思っているのです。どっちを信じるのでしょうか。
本心は本願といってもいいでしよう。命の真髄からほとばし出る直感が、本心です。これが死にたくないと思っているのです。ちよつと病気になれば、びっくりして病院へ走っていきます。死にたくないと思っていることが、そのまま行動になって現れるのです。
ところが、まじめに死にたくないと思う人が、ほとんどいないのです。本心を信じている人は、めったにいないのです。人間は本心を信じるため、本心を持っているのです。
釈尊は人間が生きていることが空だと言っているのです。今の日本でそんな事を言うお坊さんは一人もいません。そんな事を言えば、商売にならないからです。とにかく宗教は商売をしているのです。
人間は何のためにこの世に生きているのか。ただ欲を果たすためです。それ以外に何にもないのです。働いてお金を儲けて、家族を養っているのも、結局は欲です。そして死んでいくのです。死んでいく命であることを承知していながら、それに対して真面目に手を打たなければならないとは、考えない。これは本当に困ったことです。
人間は理性と良心を与えられて、この世にきているのです。ところが今の人間の生き方が、理性的、良心的に合理的でないことを知っているのです。それを棚上げしておいて、できるだけこの世に生きている状態で、欲望的に甘い汁をすおうと考えている。
人間は本心では死にたくないのです。死にたくないのなら、それを人前で言ってみませんかというと、けらけらと笑うのです。これがいけないのです。死にたくないという本心を持っていながら、それを口に出すのが、何かみっともないような気がする。ここに人間が死ななければならない矛盾があるのです。自分の気持ちを素直に公開できないほどの陰湿で、孤独です。心がいじけているのです。
死にたくないと思っていながら、死にたくないと言えないのです。人の前で死にたくないと言えないのなら、家に帰ってふとんをかぶって、人に聞かれないようにして、死にたくないと言ってください。そうすると自分の本心がどういうものかが分かるでしょう。
人間は本心に対して、実に不正直です。死にたくないと思うことは、今生きている命は死なねばならない命である。この命ではないもう一つの命が、どこかにあることを知っているから、死にたくないと思うのです。知っていながらそれを見つけることができないから、死にたくないと思うのです。
皆様は花を見てきれいだと思います。なぜそう思うのでしょうか。快晴の真っ青な空を見ると、すがすがしい気持ちがします。その時、死なない命を感じているのです。
花を見てきれいだと思う時、死ぬべき命ではない、もう一つの死なない命を直感しているのです。だから人間はきれいな花を見たいのです。
人間が死ぬか生きるかの秘訣は簡単なことです。何でもないのです。肉体があると思っている状態のままでいますと、必ず死ぬのです。肉体がない、魂が真実の中に入っていれば、死なないのです。
死ぬとはどういうことかと言いますと、真理から離れてしまうことです。真実から切り離されることを死ぬというのです。生きるというのは、真実の中に入ってしまうことです。
皆様が真実の中へ黙って入れないのは、心が歪んでいるか、いじけているか、萎縮しているからです。
皆様はすでに、死なない命を経験しているのです。花を見てきれいだと思った時の気持ちを思い出して下さい。美しい景色を見た時なら、よく分かるはずです。美しい景色を見て圧倒されている時、景色の中に自分の本心が入っているのです。
本心とは何かと言いますと、自分の中に、見たいと思っているものがあるのです。これは何かというと、自分の命です。自分の命を見たいと思っているのです。普通の人間は、自分の命を自分で見ることはできません。イエスはそれをしたのです。
自分の命の実体を、目で見ることは、普通の意識ではできません。そこで神が、自
分の命を外に見せてくれるのです。これが景色を見ることです。
景色とは何かと言いますと、天地が生きている姿です。天地が生きている姿を見ることが、景色を見ていることであって、山という形が見えたり、川という形が見えたりしていますが、実は形があるのではないのです。山獄清浄たる姿を見ていると、そこに複雑な宇宙の命の実体が現れているのです。山でもないし、川でもない。命の実体が山や川の姿で目に見えるのです。これがお天道さんの恵みです。山の形、川の形に見えるけれど、山や川ではなく、光を見ているのです。
人間の命は光です。この言.に光がある。この光は人の命であると、ヨハネは言っています(ヨハネによる福音書1・4)。人の中に命という光がありますが、これが景色になって目の前に展開しているのです。だから景色を見ることを観光というのです。
例えば、男性が女性を好きになる。女性が男性を慕う。これが実は死なない命の働きなのです。これを肉体を持ったままの気持ちでするからいけないのです。
おいしいものが食べたいとか、美しいものが見たいとか、女性が好きだという根性を徹底的に勉強しますと、死なない命が分かるのです。
これは理趣経が言う所とは違います。理趣経は肉体を持った人間が読むから、欲望になってしまうのです。般若心経をマスターした上で、理趣経を読むと、とこしえの命に接触している生活状態が、分かつてくるのです。
皆様が毎日、きれいなものが見たい、おいしいものが見たいと考えて生きています。これがそのまま救いになるのです。
パウロは次のように述べています。
「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」(ローマ人への手紙10・15)。これを誰も、読みこなさないのです。神の良き訪れを告げる者の足は麗しいと言っていますが、これは楽しい、喜ばしい、おいしいと言ってもいいのです。
おいしい、嬉しい、喜ばしいというのは、魂の感覚です。これを肉体的な感覚で見るから、皆欲になってしまうのです。山の景色に、天然自然が造った姿に、命が見えるのです。神が人間に、天地万物を見せて、その意味を読ませようとしているのです。
光を読むのです。風光を読むのです。そうすると、自分の中にある命が分かるのです。景色を見ている時、その人は無意識に、無念無想になっているのです。名月を見たり、雪、花を見ても同じです。これを本当に見ていると、その中に入っているのが分かるのです。
その時の気持ちをもって、心を開くと、キリスト紀元が分かってくるのです。キリスト紀元は、人間が死ななくなったという歴史の実体です。人間が死ぬ必要がなくなったという歴史の実体がキリスト紀元ですが、この実体を.正しく受け取ろうと思ったら、山の姿、花の色をじっと見るという正直な純粋な感覚で、世界の歴史をじっと見ればいいのです。
イエス・キリストが誕生した事で、地球上に死なない命が誕生したのです。今年は2006年ですが、人間が死ぬべきものではないということが決定してから2006年にもなるのです。ところが、それが分からずに人間が死んでいく。こういうバカげたことが続いている。私はこれに腹が立ってしかたがないのです。世界中の人間は何と愚かかと言いたいのです。
キリスト紀元の事実がなぜ分からないかというと、肉体的に生きている自分が主体だと思っているからです。
天地万物は何を示しているか。神が命を万物の形で現しているのです。それを直感しますと、自分の中にある命を外に見ていることになるのです。
これは何も山の姿だけではありません。雪でも月でも花でも、森羅万象はすべて、自分の中にある命を外に見せてくれているのです。これが雅、風流の本当の意味です。雅、風流の中へ自分の気持ちを入れてしまいますと、その人が生きている状態が、そのまま雅になってしまうのです。これが芭蕉の生涯です。芭蕉は俳句を作らなくても、彼がお茶を飲んでいる姿が、そのまま俳句になっていたのです。これが本当の俳句です。
人間がひねり出してつくったのは、俳句ではありません。これは言葉の工夫です。俳句はその人の命がそのまま風流、雅になっている状態をいうのです。自分から出てしまっているのです。それを芭蕉自身は確認できなかった。彼はそうなっていながら、自分の状態をつかまえられなったのです。
神は命の本物を見せるために、万物を目の前に見せているのです。哲学的に言いますと、人間の意識は神という無限人格と、断続的に継続しているのです。魂という言葉の実体を、哲学者は全然知らないのです。西田幾多郎は、人間の魂を知らないで、哲学的な理屈だけで不連続の連続と言っていたのです。断続しながら継続しているというのです。
ところが、人の魂の実体が分かりますと、花を見ている時に、神と対話していることが分かるのです。食べることによって、神と対話しているのです。女性というのは、すばらしい対話の対象になるのです。
人間が生きていることは、神との無限の対話になっているのです。ところが、自分の肉体があると思っているのですから、無限の対話が無限の欲望に変わってしまうのです。
神との対話は無限です。ところが肉体があるという肉の思いで見ているために、無限の欲望に切り替えられてしまうのです。それで人間が欲望の奴隷になってしまうのです。おいしいものを食べるのも欲、女性を抱くのも欲になるのです。お金儲けも欲、勉強するのも欲、みんな欲になってしまうのです。
人間はとこしえの命で生活しているのです。月を見たり、女性を見たりしている。ところが無限の命が分からない。皆様の魂が盲だからです。女性という有難いものを見ていながらそれが分からないのです。
無限の命を目の前に見ていながら、ただ肉体があるという思いに捉われているから、神との無限の対話が無限の肉欲の経験になっているのです。人間はばかなことをしているのです。だから地獄へ行かなければならないのです。神がせっかく人間に与えてくれている天来の能力がありながら、神の実体が分からない。
生きていることはそのまま神とつきあっていることです。神とつきあっていながら、神が分からないから、皆死んでしまうのです。
なぜ死ぬかというと、人間の記憶が間違っているからです。今日生きている、今生きていることの記憶の仕方が間違っているのです。記憶の仕方が間違っているために、記憶が全部肉になってしまうのです。これはもったいないことです。
人間が今生きているのは、神を経験しているのです。神を経験していながら、それが全部悪魔の経験に切り替えられている。もったいないことです。
命を本当に知ろうと思ったら、神が万物を造ったということが、よく分かっていなければいけないのです。
人間の肉体も万物の→つです。万物の一つである肉体を、私たちは持っています。だから景色を見ると嬉しいのです。私たちと万物は同じものです。
落ち着いて、心を開いて、太陽をじっと見ますと、自分の命の実体がそのまま太陽によって現されていることが分かるのです。
太陽は地球が生きている命の根元です。地球は生物です。地球から生まれたものは、全部命があります。水も空気も、土も新陳代謝しながら存在しているのです。これは有機質を意味しています。
物質的な問題と精神的な問題と、二つあると考えるのが、現代学の根本的な欠点です。そういう学問を信じているから、命が分からないのです。哲学者は生きていながら命を知らないのです。不連続の連続という形容的な言葉は使いますが、実体的なことは一言も言いません。
皆様が食物を食べておいしいと感じることは何か、美しいと感じたことは何か、魂がしいしているのです。しいとは仮に働いているということです。仮に経験していること、仮に働いていることがしいです。
人間の生活は皆しいです。しいということは試行という意味です。人間は試行錯誤ばかりをしているのです。そのくせ、自分がしたことを信じているのです。自分がしたことを試行だと思わずに、立派なことをしたと思ったり、失敗したと思ったりしている。
立派なことをしたと思っていることは間違いです。失敗したと思うことも間違いです。たまがしいしているのです。たまというのは、人間が生きている状態をいうのです。神の御霊によって生きているのですから、それがしいしているのです。命があるに決まっています。あるから、それが花が咲く姿になって現れたり、輝く姿になって現れたりするのです。
命の本体がなければ、生命現象は一切あるはずがないのです。命の本源があるから、現象があるのです。水源地があるから、水道の水が出るのです。皆様が生きているという事実は、命の水源地につながっているに決まっているのです。それを知るために、たまがしいしているのです。
人間が生きている状態をたまと言います。たまがしいしていることが分かれば、何をしているのか。美しい、楽しい、嬉しいとは何をしているかが分かるのです。おいしいと思う時には、その人の魂は命を経験しているのです。しいというのは、本当の事ではないが、仮の姿で何かを経験していることです。
おいしい、嬉しいというのは、魂が命の水源地を観賞している状態を言うのです。人の魂が神の実物を経験している状態です。これが、おいしい、美しいと感じることなのです。
皆様は何のために生きているのでしょうか。おいしいものが食べたいからでしょう。
楽しいこと、美しいこと、嬉しいことがなかったら、生きていても死んでいても同じことなのです。
おいしいものが食べたい、美しいものが見たいと思うことを欲望と言いますが、これは欲望ではなくて、命が神にふれたいと思っていることを意味するのです。
私たちは毎日、神を経験しているのです。神のラブコールを、魂が感覚しているのです。神が人の魂を愛しているという印を、おいしいという形で知らせているのです。人間はそれを経験することが、無上の楽しみなのです。
おいしいと思うこと、楽しい、美しいというばかりでは、その意味が分かりませんので、苦しい、悲しいというものがあるのです。そうしますと、苦しいとか、悲しいという事でさえも、人間の魂に一つのチェックを与えて、神の方へ向けようとする神の愛のシグナルになるということが分かるのです。
神が生きているという実物、太陽が活動している実物をつかまえるのです。これは宗教ではありません。もしこれが宗教だと言われるのなら、人生は完全に絶望になってしまうのです。
理想や希望は、現実に人間が生きている実体から捉えなかったら、いけないのです。哲学や倫理をいくら振り回しても、だめです。神の実物、命をつかまえなかったらだめです。そのためには、どうしても天地が造られたという事実、万物が造られたという実体に触れていかなければならない。ところが日本人は、天地が造られたという事実が、さっぱり分からないのです。現在、聖書を勉強をしている人でも分からないのです。
キリスト教でいくら聖書を勉強しても、天地が造られている実体に触れられることは、絶対にできません。これが宗教の貧弱さ、虚無性を現しているのです。
私たちは、生きているという事実を経験しているのです。神をつかまえるということは生きているという事実に対する答えでなかったら、いけないのです。
芭蕉がよんだ俳句でなかったら本当の俳句ではないというのは、その人の存在が俳句になっていなければ、本当の俳句とは言えないからです。
俳句みたいなものをいくら振り回しても、だめです。人生が俳句になっていなければ、その人の俳句には力がないのです。
子規のよんだ俳句にも、なかなか力があるのです。子規は神を知りませんでしたが、月を見ていることが神と対話をしていることを、何となく感じていたのです。食事をすることが魂の喜びであることを、感じていたようです。ここに子規の値打ちがあるのです。
自分が生きていることをよく見れば、子規や芭蕉のような感覚は、持てるのです。これをしようとすれば、天地が造られたことを、勉強する必要があるのです。
マタイは言っています。
「わたしは口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう」(マタイによる福音書13・35)。
世の初めから隠されていることとは何か。天地万物ができた時に、隠れたものがあるのです。
人間は一つ一つの生きざまが、非常に大切なのです。ちょっと腹を立てる、ちょっと嘘を言う、ちょっと風邪をひいて寝る。これがすべて魂の肥やしになるのです。人間が生きている起居動作は、すべてとこしえの命につながっていくのです。
子規は自分を生かしているものが何であるかを、知らなかったのです。だから彼はとこしえの命が分からなかったのです。生きていながら、生きていることの意味が分からなかったのです。
神とのつきあい、神に物を言う癖をつければ、死なない命が分かるのです。皆様は現実に、飲んだり食べたりしていながら、神が分からない。その原因は何かと言いますと、わたしは口を開いて譬を語るという意味が分からないからです。
世の初めから隠れたことを話すために、神が口を開いたのです。神が口を開くとどうなるのかと言いますと、万物が生まれるのです。神が口を開くと、言が働きます。言の働きは、理性と良心の本源です。
人の魂の本質は言です。人の魂の本性はすばらしいものです。神の能力と同じ能力を持っているのです。無限の能力を持っています。神はそれを知っているから、皆様の魂に語りかけようとしているのです。
皆様の魂の本源は言です。言が魂の本質です。言は神の能力と同じものです。ところが皆様は、自分が生きていると思っています。そう思っていると、魂の本質が働かなくなるのです。能力の何百分の一しか働かないのです。私みたいなものは、聖書は分かるだろうかと考える。これは本来の皆様の能力の、何千分の一しか認めていないことになるのです。
そこで、般若心経によって、五経皆空、色即是空を勉強すると、自分がいないことが分かるのです。般若心経が卒業できると、聖書が分かってくるのです。
般若心経が卒業できないものは、聖書が絶対に分かりません。日本のキリスト教が全部だめなのは、そのためです。カトリックもだめです。般若心経を勉強していないからです。
イタリアには般若心経はありませんが、イタリアの歴史を見ていけば、般若心経に匹敵するような文化原理があるのです。どこの民族でも、般若心経に匹敵するものがあるはずです。イギリスにもありますし、ドイツにもあるのです。民族の根源に遡って、民族の由来を十分に勉強すれば、般若心経に匹敵すべき文化原理があるに決まっているのです。
神は公平ですから、日本人だけに空を教えて欧米人に全然教えなかったのではありません。空という思想はありませんが、空に似たものがあるに決まっているのです。
イタリアの場合は、ローマ時代にセネカという哲学者がいましたが、その時代の学者が言ったことをじっと考えてみますと、般若心経に匹敵した思想があったのです。
日本だけのものとは違います。ですから、どこの民族でも、自分の国の歴史を良く勉強すれば、自分を否定しなければならないことは分かるはずです。
皆様は日本人です。般若心経があることを良くご存じです。しかし般若心経を勉強しようとしていない。そこに皆様の怠慢性があるのです。
生活のことは勝手にできます。命を真剣に求めていれば、生活のことは勝手にできていくのです。生活のことより、命のことをもっともっと重要視して頂きたいのです。
生活とは何か。生とは命の本質です。活は働いていることです。命が働いていることが生活です。皆様は命が働いていることを考えないで、肉体が働いていると思っています。だから日本人の考えは、肉体的な現象ばかりです。生活とは言えない生き方、肉活という生き方をしているのです。
明治時代までのおやじは、生あるものは必ず滅する、形あるものは必ず壊れると言ったのです。今のおやじはこういう言葉を知りません。それだけ人間の魂が衰弱になっているのです。
大学へ行って勉強すればするほど、命が分からなくなる。盲になってしまうからです。これはユダヤ主義の影響によるのです。
核兵器の原理を考えたのは、ユダヤ人です。原水爆に反対する人にノーベル賞を与えているのもユダヤ人です。これをマッチポンプと言います。マッチで火をつけておきながら、火事だと言って叫び、ポンプを持って走り回っている。ユダヤ人はこういうことをしているのです。
ノーベルというユダヤ人が、ノーベル賞をつくって、世界の学者に点数をつけている。これが人間文明です。文明とはこういう愚かなものです。
ユダヤ人の間違いをやめさせる以外に、文明をまともにする方法はありません。ノーベル賞をありがたがっている学者が日本にいる間は、日本はだめです。
世界の文化文明は、ユダヤ人に引きずり回されています。日本人はユダヤ人問題を知らなさすぎるのです。
なぜユダヤ人が、現在のような文明を展開しているかと言いますと、世界中の人間に本当の神を知らせたくないからです。キリストを信じさせたくないからです。本当の神を認識させたくないのです。そこで人間の肉体生活だけに花を咲かしているのです。コンピューター、エレクトロニクス、情報通信機器、オリンピック、ワールドカップ、いろいろなスポーツ、万博、ディズニーランド、世界各地への旅行といった各種のエンターテイメントによって、人間の肉体生活を飾りたてている。だから肉活になっている。自分の本能を欲望的にだけ見ているのです。
本能は欲望的に見てはいけないのです。ところが欲望的にしか見ることができなくなっている。だから、女性が女性の本質を失っている。男性が男性の本質を失っているのです。なぜそうなったのかと言いますと、この世が始まった時に、万物ができたのですが、その時に隠れたものがあるのです。
太陽が現れた、地球ができた時に、隠れたものがあるのです。聖書によれば、太陽ができる前に光があったのです。太陽ができた後の光は、地球の生物を養うためのものですが、これとは別の光があるのです。これをつかまえればいいのです。これが天地創造の光です。
聖書は天地創造を、七つの段階で説明しています。太陽ができたのは、第四日目の段階です。一日目、二日目、三日目では、太陽がなかったのです。この時の光をつかまえたらいいのです。
太陽ができた時に、前の光が隠れたのです。今は太陽の光が見えますが、その状態をよく見れば、前の光があることが分かるはずです。
現在の文化文明は、今輝いている太陽の光しか分かりません。これがユダヤ主義の見方です。太陽の光があるということは、その前の光があることを示しているのです。
パウロは、太陽ができる前の光を見たのです。太陽よりも輝いている光と聖書は書いています(使徒行伝22・6)。パウロはダマスコ途上の太陽よりも輝く光を見て、キリストが分かったのです。太陽ができた時に、キリストという光が、隠れてしまった。これをパウロは見たのです。キリストという光は何か。物質ができた時に、その原形になるべきものがあって、それが隠れたのです。
例えば花が咲くためには、原形があるのです。花が咲いている時には、花の原形は隠れているのです。今皆様が生きている命を、本当に認識されれば、死なない命が分かるに決まっているのです。
世が始まった時に隠れたものがあるのです。何が隠れたのか。簡単に言いますと、命の現物が隠れたのです。命の実体が消えてしまったのです。命が消えた代わりに、万物が生きている現象が現れたのです。
植物、動物は何かと言いますと、命の現れです。命の表現形式が現れた時に、その原形が消えてしまった。
命が消えて現象が現れた。それがこの世です。何のために命が消えて現象が現れたかと言いますと、森羅万象という現象を通して命の実体を見つけることができる人間が現れたら、その人に天地森羅万象を任せようという神の計画です。これが人間存在の最高の目的です。
成仏という仏典の言葉も、これが目的です。成仏して何をするのか。草木国土悉皆成仏と言いますが、草木国土全体を成仏させることが、人間が成仏する目的です。
万物を成仏せることができないような成仏の仕方は、本物ではないのです。法蔵比丘という坊さんが、万物と一緒に苦労する。万物を完成させることが、私の人生の目的だということを考えたのです。それを四十八の願によって説明しているのです。
阿弥陀如来は万物に対して責任を持つものだということを、大無量寿経で説いているのです。これがキリストです。ところが聖書のキリストは、歴史的な実体です。大無量寿経は抽象的な誓です。抽象論としての肇と、歴史の実体とは違います。阿弥陀如来は歴史的な背景がありません。だからただの宗教観念になってしまいます。
ところが聖書にあるキリストは、死を破って復活した。その結果、人間が死なないものになった。死ななくてもいいのではなくて、死なないものになったのです。だからキリスト紀元の意味が分かりさえすれば、死なないことがはっきり分かるのです。
西暦2006年というのは、歴史の実体です。万物が存在することの実体として聖書を勉強すると、皆様が生きている命が、そのまま、死なない命の実体であることが分かってくるのです。
これがキリストの正しい受け取り方です。困ったことに、世界中でこれが分かる人がいないのです。私は神の恵みによって、かろうじてその端緒をつかまえたので、それを大いに拡大して、確かなものとして捉えたい。そしてそれを世界に向けて発信したいと考えているのです。
皆様はせっかく人間としてこの世にお生まれになったのですから、最高の目的を達成して頂きたいのです。
皆様が今生きておいでになる命は、神と同質の命です。神と同等の力を持っているのです。自分の主観を捨ててしまえば、皆様の命は神と同じ能力を発揮できるのです。つまり万物の王となるのです。
皆様の人生は、万物の王になるための修行です。現世の平凡な人生を本物だと思わないでいただきたい。固有名詞の自分、現世の自分を本物だと思わないで頂きたい。永遠の命が先にあることを考えて頂きたいのです。
リンゴを食べた時、リンゴの味がします。桃を食べた時、桃の味がします。これは永遠を示しているのです。人間の味覚の本質、視覚の本質、聴覚の本質は、驚くべきものです。これは神の言(ことば)です。五官の働きはそのまま神の実物を経験しているのです。
皆様が五官によってこの世に生きているというだけで、死なない命を経験しているのです。ところが人間はキリストが分からない。一見たり聞いたりしていながら、目の働き、耳の働き、手の働きが、何をしているのか分からないのです。
ヨハネは次のように述べています。
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、命の言(ことば)についてーこのいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、いまやわたしたちに現れたものである。
すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである」(ヨハネの第一の手紙1・1~3)。
皆様が見たこと聞いたこと、手で触ったことは何かと言いますと、初めからあったものに触れているのです。初めからというのは、この世ができる前からということです。
この世ができた時に、命の言が隠れた。そして森羅万象が現れた。天地万物、森羅万象は、初めからあったいのちの言です。言は最高の論理的原理です。論理的実体です。物理的な原理であり、論理的な原理です。生理の奥義、真理の奥義です。すべての物事の存在する原理を、命の言と言うのです。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であったとあります。これが命の本物です。神と言と命は一つのものです。これがこの世ができる前にあったのです。
この世ができた時に、それが隠れてしまった。万物ができた時に、それが隠れてしまったのです。隠れたものがキリストの原形です。これが植物、動物になって現れたのです。これが天地創造です。
命の実体であり、神の言であるものが、天地万物になって現れた。私たちも人間の一人としてこの世に現れた。天地万物を見ることによって、命の言を悟る人が出るかもしれない。これを神が期待しているのです。
初めからあった命の言が万物になって、現れた。その時には初めからあった命の言が消えたのです。消えて、万物になって現れた。そこで、現れている万物を見て、その本体が命の言だと見破った人だけが、キリストに属する一族と見なされて、万物の王として、とこしえの命を与えられるのです。これがイエスの復活によって歴史的に証明されたのです。だからイエスの復活というのは、あらゆる学の根本になるべきものなのです。
キリストを学ぶ時に、人間は初めて専門学という小さな学から解放されて、全体的な命に目を向けることができるのです。キリストは現在、第三の天にいます。やがてキリストが、復活の命を持って、地球上にくるでしょう。この時、文明が完成するのです。
私は宗教の教えを述べているのではありません。地球が存在する根本原理を述べているのです。人間の命が存在する根本原理を述べているのです。太陽が造られたのは、四日目です。三日目までは太陽はなかったのです。ところが、草木は三日目に造られたのです。四日目と五日目に色々な動物が造られ、六日目に人間が造られたのです。
一番最初に光が造られ、二日目に、陸と海ができました。三日目に植物が造られた。四日目に天体が造られた。そういう命が皆人間の中に入っているのです。人間の中に、植物の命も、動物の命も、皆入っているのです。だから、人間は植物を育てることができるのです。植物の命(霊)が分からなかったら、そういうことはできないのです。
生物学的な命の根本原理が植物の命です。人間は花を見ると、花の性質が分かるのです。それをじっと見つめて、暖めると、花の命が人の中で芸術的に膨らんでいくのです。花が持っている非常に和やかな意識が自分の意識になっていくのです。植物の上に動物の命があるのです。人間の命をよくよく見ていくと、万物を支配できるようになっているのです。
皆様がいま生きていらっしゃる命は、現世の仮の命であって、本当の皆様の命は何かを考えなければいけないのです。神が万物を造ったことが、そのまま人間の命になっているのです。これが、人間が一番最後に造られたという意味です。
神にかたどりて、神にかたちのように人を造って、万物を治めさせるというのが、神の人間創造の目的ですが、これが何のことか、世界中のキリスト教徒が、分からないのです。創世記一章二十六節の意味が分からないのです。神と同じ気持ちになって聖書を読まないから、分からないのです。
神と同じ気持ちになって聖書を読んだら分かるのです。そうすると、自分の中にある命は神の命であって、自分の命ではないことが分かるのです。そこで、自分が生きているというばかなことを考える必要がなくなるのです。ことに、女性の存在が意味深いのです。男性が全然神に目を向けないので、男性の目を引くために女性を造ったのです。
人間は万物の最終の被造物として造られましたが、その後に女性が造られました。このことの意味を、よく弁えなければいけないのです。ウーマン・ボディーの格好をよく見ると、女性の本質が見えてくるのです。
今の女性の気持ちはだめですが、女性の存在そのもの、女性が存在しているということがらが、貴重なのです。これを女性の姿が壷良く現しているのです。
女性の姿形は、神が造ったものです。これが最高の被造物です。素直さ、美しさ、しとやかさが女性の姿に現れていますが、これが人間の正体です。人間の本当のあり方が、女性になっているのです。人間は女性に姿のようになったらいいのです。女性の根性は学ばなくてもいいのです。
女性のウーマン・ボディーを見て男性は感心しますが、何に感心しているかと言いますと、男性の中にないものが、女性の姿になって現れているのです。男性には素直さがありません。これが女性の姿になって現れているのです。
ところが聖書によると、人間の手本になるべき女性が、先に善悪を知る木の実を食べたと述べているのです。これが人間が死んでいく原因になったのです。
そこで、何といっても女性の本質を知ることが必要です。女性自身にとつても、女性の本質を弁えれば、人間は救われるのです。
女性が先に、善悪を知る木の実を食べたということが、人間が全部死んでいく原因になったのです。そのために、女性のでき方が男性よりも上等であるにも係らず、男性の下におかれることになったのです。男性に従わなければならない運命になった。
これが男性と女性の関係です。男性と女性を比べれば、女性の方が素直に決まっています。素直な人が、素直でない男性の下におかれることになったのです。男性がことさらいばるのも、女性が焼きもちをやいてへそを曲げるのも、原因は命の本質を見ていないからです。現世に生きている人間関係だけを見ている。だから男性も女性も、間違ってしまったのです。
ヨハネは、目で見ていること、耳で聞いていること、手で触っていることが、とこしえの命だと言っています。皆様が現実において経験していることが、命の言です。これを経験していながら、その実体が分からない。そして死んでいくと勝手に思っているのです。そのくせ死にたくないと思うのです。
本当に死にたくないと思うなら、自分は毎日、何をしているのかを、よくよく見ればいい。客観的に見ればいいのです。花を見たり、山や川を見ている。それは何をしているのか。実は命を見ているのです。死なない命の現実を見ているのです。これが命の言です。これを教えているのが、ヨハネの第一の手紙です。
このように、皆様は見たり、聞いたり、触ったりして、とこしえの命に接触しているのに、自分が生きていると思っているために、それが全くわからない。自分の欲望のために命が見えなくなっているのです。
森羅万象は皆様の中にあるのです。皆様の中にあるから景色を見て感動するのです。もし皆様の中に景色がなかったら、感動しないでしょう。皆様の中にあるものと同じものを見るから感動するのです。
中にあるものを引き出すことが、本当の教育です。人間の中にあるすばらしい能力を引き出して、教えるのが、教育でなければならない。神の御霊によって、皆様の中にあるものを引き出してもらうのです。そうすると、イエスという永遠の生命が、はっきり分かるのです。
今の大学教授は、自分のしていることが間違っているらしいことは分かつているのです。分かつているが、どこをどう変えたらいいか、分からないのです。そういう頼りない状態で、誰も責任を取ろうとしません。大統領も総理大臣も、政治家も、誰も責任をとろうとしないのです。
このままずるずる行けば、文明が瓦解することが分かつています。分かつていながら、止めることができないのです。これがユダヤ人問題です。こういうことを知る必要があるのです。
皆様は自分の命がいつかなくなることを、承知しています。承知していながら、その命を何とかする方法がないような気がしているのと、同じことなのです。
個人的にも現在の人間はどうすることもできないと思っているのです。今のままで生きていても、死ぬだけです。これが分かっていながら、打開する方法を積極的に考えようとしない。これがだらしない、いくじがない生き方なのです。
今の世の中の大人たちは、何を考えて生きているのでしょうか。生あるものは必ず死する。形あるものは必ず滅するということを、日本人は知っているのです。そうしたら、自分が何のために生きているのか、今の命をどのように考えたらいいのかが、分からなければならないのです。ところが、今の命をどう切り替えたらいいのか、分からない。これが人間のだらしなさです。
形があるものには、地球も含まれているのです。それが滅するというのです。地球が滅してしまうと、人間の存在はどうなるのか。そういうことを考えようともしないのです。形あるものは必ず滅する。それでしまいなのです。そういうものが人間の悟りであって、人間の文化文明は実にレベルが低いのです。
文化文明をどんなにののしっても、決して言いすぎではありません。文明が間違っているからです。自分が生きていることについて、つきつめた結論を出さねばならないとは思ってはいない。働いて仕事をしていれば、それでいいと思っているのです。
かつて、南禅寺の管長が首を吊って死にましたが、これは日本の仏教の現状を暴露しているのです。これは悪いことではなくて、非常にいいことです。宗教がでたらめであることを、管長は身をもって自白したのです。南禅寺は建仁寺、天竜寺、東福寺等五山の中で、筆頭の寺です。そこで管長と主家の両方をしていたのです。それくらいの行政手腕もあるし、同時に解脱徹底という点で、定評があった人物です。この人が病気を苦にして首を吊ったのです。これは頂門の蜜あって、現在の日本の仏教界は、中身が何もないことを、はっきり暴露しているのです。
日本の仏教はいわゆる伽藍仏教であって、伽藍はあるけれど、中身はからつぼです。南
禅寺の大和尚でも首を吊って死ぬくらいだから、民衆は死んで黄泉(よみ)にいくのはあたりまえだと思いこんでいるのです。死ぬのはしかたがないと思っている人が、住職になっているのです。寺の和尚になろうとすると、寺の株を買わなければならない。相当のお金がいるのです。そのために多額のお金が動く。仏教が商品になっているのです。
日本の仏教は中身がありませんから、もしお釈迦さんがもう岳世にやってきたら、寺をかたつばしから焼いてしまうでしよう。それをしないお釈迦さんなら、本当のお釈迦さんではないのです。そういう仏教を、日本人は真面目に信じているのです。ある学会の人々はまじめなものです。選挙の応援までしているのです。日本人は宗教に相当なお金を出している。そういうばかなことをしているのです。
今の大人は、目的なしに生きています。しかも非常に不真面目に生きています。今の天地が滅してしまえば、地球も消えるでしょう。そういうことに対して、人間はどう考えているのでしょうか。
生あるものは必ず死する。死ぬということを承知で生きているのは、どういう根性なのかと言いたいのです。
人間はこの世の中に生きている間のことは考えているが、それ以後のことを全然考えていない。死んでそれでしまいになるのなら、それでもいいのです。
ところが人間は死んでも、それで終わりという訳にはいかないのです。その証拠に、葬式をします。墓を造ります。法事をします。墓参りをします。人間はこの世を去って、煙のように消えるかというと、そうはいかないのです。それが分かっています。分かっていながら、どうしていいからないのです。
皆様が今生きておいでになる命は、死ぬに決まっています。死ぬに決まっていることを承知していながら、死ぬに決まっている記憶を信じている。ところが、死んでしまえばすべて終わりではないことを、潜在意識は何となく知っています。だから死にたくないと思うのです。
死にたくないと人間が思うのは、非常に重大な問題です。人間は死なねばならないと知っていながら、死にたくないと思っている。これは何なのか。
死なねばならないことが分かっているなら、死ぬのはしかたがないときれいさっぱりにあきらめてしまったらいいのです。ところが、死なねばならないことが分かっていながら、死にたくないと思っている。なぜそう思うのでしようか。
皆様が死にたくないと思うのは、皆様の本心です。常識的には死なねばならないと思っているが、本心的には死にたくないと思っているのです。どっちを信じるのでしょうか。
本心は本願といってもいいでしよう。命の真髄からほとばし出る直感が、本心です。これが死にたくないと思っているのです。ちよつと病気になれば、びっくりして病院へ走っていきます。死にたくないと思っていることが、そのまま行動になって現れるのです。
ところが、まじめに死にたくないと思う人が、ほとんどいないのです。本心を信じている人は、めったにいないのです。人間は本心を信じるため、本心を持っているのです。
釈尊は人間が生きていることが空だと言っているのです。今の日本でそんな事を言うお坊さんは一人もいません。そんな事を言えば、商売にならないからです。とにかく宗教は商売をしているのです。
人間は何のためにこの世に生きているのか。ただ欲を果たすためです。それ以外に何にもないのです。働いてお金を儲けて、家族を養っているのも、結局は欲です。そして死んでいくのです。死んでいく命であることを承知していながら、それに対して真面目に手を打たなければならないとは、考えない。これは本当に困ったことです。
人間は理性と良心を与えられて、この世にきているのです。ところが今の人間の生き方が、理性的、良心的に合理的でないことを知っているのです。それを棚上げしておいて、できるだけこの世に生きている状態で、欲望的に甘い汁をすおうと考えている。
人間は本心では死にたくないのです。死にたくないのなら、それを人前で言ってみませんかというと、けらけらと笑うのです。これがいけないのです。死にたくないという本心を持っていながら、それを口に出すのが、何かみっともないような気がする。ここに人間が死ななければならない矛盾があるのです。自分の気持ちを素直に公開できないほどの陰湿で、孤独です。心がいじけているのです。
死にたくないと思っていながら、死にたくないと言えないのです。人の前で死にたくないと言えないのなら、家に帰ってふとんをかぶって、人に聞かれないようにして、死にたくないと言ってください。そうすると自分の本心がどういうものかが分かるでしょう。
人間は本心に対して、実に不正直です。死にたくないと思うことは、今生きている命は死なねばならない命である。この命ではないもう一つの命が、どこかにあることを知っているから、死にたくないと思うのです。知っていながらそれを見つけることができないから、死にたくないと思うのです。
皆様は花を見てきれいだと思います。なぜそう思うのでしょうか。快晴の真っ青な空を見ると、すがすがしい気持ちがします。その時、死なない命を感じているのです。
花を見てきれいだと思う時、死ぬべき命ではない、もう一つの死なない命を直感しているのです。だから人間はきれいな花を見たいのです。
人間が死ぬか生きるかの秘訣は簡単なことです。何でもないのです。肉体があると思っている状態のままでいますと、必ず死ぬのです。肉体がない、魂が真実の中に入っていれば、死なないのです。
死ぬとはどういうことかと言いますと、真理から離れてしまうことです。真実から切り離されることを死ぬというのです。生きるというのは、真実の中に入ってしまうことです。
皆様が真実の中へ黙って入れないのは、心が歪んでいるか、いじけているか、萎縮しているからです。
皆様はすでに、死なない命を経験しているのです。花を見てきれいだと思った時の気持ちを思い出して下さい。美しい景色を見た時なら、よく分かるはずです。美しい景色を見て圧倒されている時、景色の中に自分の本心が入っているのです。
本心とは何かと言いますと、自分の中に、見たいと思っているものがあるのです。これは何かというと、自分の命です。自分の命を見たいと思っているのです。普通の人間は、自分の命を自分で見ることはできません。イエスはそれをしたのです。
自分の命の実体を、目で見ることは、普通の意識ではできません。そこで神が、自
分の命を外に見せてくれるのです。これが景色を見ることです。
景色とは何かと言いますと、天地が生きている姿です。天地が生きている姿を見ることが、景色を見ていることであって、山という形が見えたり、川という形が見えたりしていますが、実は形があるのではないのです。山獄清浄たる姿を見ていると、そこに複雑な宇宙の命の実体が現れているのです。山でもないし、川でもない。命の実体が山や川の姿で目に見えるのです。これがお天道さんの恵みです。山の形、川の形に見えるけれど、山や川ではなく、光を見ているのです。
人間の命は光です。この言.に光がある。この光は人の命であると、ヨハネは言っています(ヨハネによる福音書1・4)。人の中に命という光がありますが、これが景色になって目の前に展開しているのです。だから景色を見ることを観光というのです。
例えば、男性が女性を好きになる。女性が男性を慕う。これが実は死なない命の働きなのです。これを肉体を持ったままの気持ちでするからいけないのです。
おいしいものが食べたいとか、美しいものが見たいとか、女性が好きだという根性を徹底的に勉強しますと、死なない命が分かるのです。
これは理趣経が言う所とは違います。理趣経は肉体を持った人間が読むから、欲望になってしまうのです。般若心経をマスターした上で、理趣経を読むと、とこしえの命に接触している生活状態が、分かつてくるのです。
皆様が毎日、きれいなものが見たい、おいしいものが見たいと考えて生きています。これがそのまま救いになるのです。
パウロは次のように述べています。
「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」(ローマ人への手紙10・15)。これを誰も、読みこなさないのです。神の良き訪れを告げる者の足は麗しいと言っていますが、これは楽しい、喜ばしい、おいしいと言ってもいいのです。
おいしい、嬉しい、喜ばしいというのは、魂の感覚です。これを肉体的な感覚で見るから、皆欲になってしまうのです。山の景色に、天然自然が造った姿に、命が見えるのです。神が人間に、天地万物を見せて、その意味を読ませようとしているのです。
光を読むのです。風光を読むのです。そうすると、自分の中にある命が分かるのです。景色を見ている時、その人は無意識に、無念無想になっているのです。名月を見たり、雪、花を見ても同じです。これを本当に見ていると、その中に入っているのが分かるのです。
その時の気持ちをもって、心を開くと、キリスト紀元が分かってくるのです。キリスト紀元は、人間が死ななくなったという歴史の実体です。人間が死ぬ必要がなくなったという歴史の実体がキリスト紀元ですが、この実体を.正しく受け取ろうと思ったら、山の姿、花の色をじっと見るという正直な純粋な感覚で、世界の歴史をじっと見ればいいのです。
イエス・キリストが誕生した事で、地球上に死なない命が誕生したのです。今年は2006年ですが、人間が死ぬべきものではないということが決定してから2006年にもなるのです。ところが、それが分からずに人間が死んでいく。こういうバカげたことが続いている。私はこれに腹が立ってしかたがないのです。世界中の人間は何と愚かかと言いたいのです。
キリスト紀元の事実がなぜ分からないかというと、肉体的に生きている自分が主体だと思っているからです。
天地万物は何を示しているか。神が命を万物の形で現しているのです。それを直感しますと、自分の中にある命を外に見ていることになるのです。
これは何も山の姿だけではありません。雪でも月でも花でも、森羅万象はすべて、自分の中にある命を外に見せてくれているのです。これが雅、風流の本当の意味です。雅、風流の中へ自分の気持ちを入れてしまいますと、その人が生きている状態が、そのまま雅になってしまうのです。これが芭蕉の生涯です。芭蕉は俳句を作らなくても、彼がお茶を飲んでいる姿が、そのまま俳句になっていたのです。これが本当の俳句です。
人間がひねり出してつくったのは、俳句ではありません。これは言葉の工夫です。俳句はその人の命がそのまま風流、雅になっている状態をいうのです。自分から出てしまっているのです。それを芭蕉自身は確認できなかった。彼はそうなっていながら、自分の状態をつかまえられなったのです。
神は命の本物を見せるために、万物を目の前に見せているのです。哲学的に言いますと、人間の意識は神という無限人格と、断続的に継続しているのです。魂という言葉の実体を、哲学者は全然知らないのです。西田幾多郎は、人間の魂を知らないで、哲学的な理屈だけで不連続の連続と言っていたのです。断続しながら継続しているというのです。
ところが、人の魂の実体が分かりますと、花を見ている時に、神と対話していることが分かるのです。食べることによって、神と対話しているのです。女性というのは、すばらしい対話の対象になるのです。
人間が生きていることは、神との無限の対話になっているのです。ところが、自分の肉体があると思っているのですから、無限の対話が無限の欲望に変わってしまうのです。
神との対話は無限です。ところが肉体があるという肉の思いで見ているために、無限の欲望に切り替えられてしまうのです。それで人間が欲望の奴隷になってしまうのです。おいしいものを食べるのも欲、女性を抱くのも欲になるのです。お金儲けも欲、勉強するのも欲、みんな欲になってしまうのです。
人間はとこしえの命で生活しているのです。月を見たり、女性を見たりしている。ところが無限の命が分からない。皆様の魂が盲だからです。女性という有難いものを見ていながらそれが分からないのです。
無限の命を目の前に見ていながら、ただ肉体があるという思いに捉われているから、神との無限の対話が無限の肉欲の経験になっているのです。人間はばかなことをしているのです。だから地獄へ行かなければならないのです。神がせっかく人間に与えてくれている天来の能力がありながら、神の実体が分からない。
生きていることはそのまま神とつきあっていることです。神とつきあっていながら、神が分からないから、皆死んでしまうのです。
なぜ死ぬかというと、人間の記憶が間違っているからです。今日生きている、今生きていることの記憶の仕方が間違っているのです。記憶の仕方が間違っているために、記憶が全部肉になってしまうのです。これはもったいないことです。
人間が今生きているのは、神を経験しているのです。神を経験していながら、それが全部悪魔の経験に切り替えられている。もったいないことです。
命を本当に知ろうと思ったら、神が万物を造ったということが、よく分かっていなければいけないのです。
人間の肉体も万物の→つです。万物の一つである肉体を、私たちは持っています。だから景色を見ると嬉しいのです。私たちと万物は同じものです。
落ち着いて、心を開いて、太陽をじっと見ますと、自分の命の実体がそのまま太陽によって現されていることが分かるのです。
太陽は地球が生きている命の根元です。地球は生物です。地球から生まれたものは、全部命があります。水も空気も、土も新陳代謝しながら存在しているのです。これは有機質を意味しています。
物質的な問題と精神的な問題と、二つあると考えるのが、現代学の根本的な欠点です。そういう学問を信じているから、命が分からないのです。哲学者は生きていながら命を知らないのです。不連続の連続という形容的な言葉は使いますが、実体的なことは一言も言いません。
皆様が食物を食べておいしいと感じることは何か、美しいと感じたことは何か、魂がしいしているのです。しいとは仮に働いているということです。仮に経験していること、仮に働いていることがしいです。
人間の生活は皆しいです。しいということは試行という意味です。人間は試行錯誤ばかりをしているのです。そのくせ、自分がしたことを信じているのです。自分がしたことを試行だと思わずに、立派なことをしたと思ったり、失敗したと思ったりしている。
立派なことをしたと思っていることは間違いです。失敗したと思うことも間違いです。たまがしいしているのです。たまというのは、人間が生きている状態をいうのです。神の御霊によって生きているのですから、それがしいしているのです。命があるに決まっています。あるから、それが花が咲く姿になって現れたり、輝く姿になって現れたりするのです。
命の本体がなければ、生命現象は一切あるはずがないのです。命の本源があるから、現象があるのです。水源地があるから、水道の水が出るのです。皆様が生きているという事実は、命の水源地につながっているに決まっているのです。それを知るために、たまがしいしているのです。
人間が生きている状態をたまと言います。たまがしいしていることが分かれば、何をしているのか。美しい、楽しい、嬉しいとは何をしているかが分かるのです。おいしいと思う時には、その人の魂は命を経験しているのです。しいというのは、本当の事ではないが、仮の姿で何かを経験していることです。
おいしい、嬉しいというのは、魂が命の水源地を観賞している状態を言うのです。人の魂が神の実物を経験している状態です。これが、おいしい、美しいと感じることなのです。
皆様は何のために生きているのでしょうか。おいしいものが食べたいからでしょう。
楽しいこと、美しいこと、嬉しいことがなかったら、生きていても死んでいても同じことなのです。
おいしいものが食べたい、美しいものが見たいと思うことを欲望と言いますが、これは欲望ではなくて、命が神にふれたいと思っていることを意味するのです。
私たちは毎日、神を経験しているのです。神のラブコールを、魂が感覚しているのです。神が人の魂を愛しているという印を、おいしいという形で知らせているのです。人間はそれを経験することが、無上の楽しみなのです。
おいしいと思うこと、楽しい、美しいというばかりでは、その意味が分かりませんので、苦しい、悲しいというものがあるのです。そうしますと、苦しいとか、悲しいという事でさえも、人間の魂に一つのチェックを与えて、神の方へ向けようとする神の愛のシグナルになるということが分かるのです。
神が生きているという実物、太陽が活動している実物をつかまえるのです。これは宗教ではありません。もしこれが宗教だと言われるのなら、人生は完全に絶望になってしまうのです。
理想や希望は、現実に人間が生きている実体から捉えなかったら、いけないのです。哲学や倫理をいくら振り回しても、だめです。神の実物、命をつかまえなかったらだめです。そのためには、どうしても天地が造られたという事実、万物が造られたという実体に触れていかなければならない。ところが日本人は、天地が造られたという事実が、さっぱり分からないのです。現在、聖書を勉強をしている人でも分からないのです。
キリスト教でいくら聖書を勉強しても、天地が造られている実体に触れられることは、絶対にできません。これが宗教の貧弱さ、虚無性を現しているのです。
私たちは、生きているという事実を経験しているのです。神をつかまえるということは生きているという事実に対する答えでなかったら、いけないのです。
芭蕉がよんだ俳句でなかったら本当の俳句ではないというのは、その人の存在が俳句になっていなければ、本当の俳句とは言えないからです。
俳句みたいなものをいくら振り回しても、だめです。人生が俳句になっていなければ、その人の俳句には力がないのです。
子規のよんだ俳句にも、なかなか力があるのです。子規は神を知りませんでしたが、月を見ていることが神と対話をしていることを、何となく感じていたのです。食事をすることが魂の喜びであることを、感じていたようです。ここに子規の値打ちがあるのです。
自分が生きていることをよく見れば、子規や芭蕉のような感覚は、持てるのです。これをしようとすれば、天地が造られたことを、勉強する必要があるのです。
マタイは言っています。
「わたしは口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう」(マタイによる福音書13・35)。
世の初めから隠されていることとは何か。天地万物ができた時に、隠れたものがあるのです。
人間は一つ一つの生きざまが、非常に大切なのです。ちょっと腹を立てる、ちょっと嘘を言う、ちょっと風邪をひいて寝る。これがすべて魂の肥やしになるのです。人間が生きている起居動作は、すべてとこしえの命につながっていくのです。
子規は自分を生かしているものが何であるかを、知らなかったのです。だから彼はとこしえの命が分からなかったのです。生きていながら、生きていることの意味が分からなかったのです。
神とのつきあい、神に物を言う癖をつければ、死なない命が分かるのです。皆様は現実に、飲んだり食べたりしていながら、神が分からない。その原因は何かと言いますと、わたしは口を開いて譬を語るという意味が分からないからです。
世の初めから隠れたことを話すために、神が口を開いたのです。神が口を開くとどうなるのかと言いますと、万物が生まれるのです。神が口を開くと、言が働きます。言の働きは、理性と良心の本源です。
人の魂の本質は言です。人の魂の本性はすばらしいものです。神の能力と同じ能力を持っているのです。無限の能力を持っています。神はそれを知っているから、皆様の魂に語りかけようとしているのです。
皆様の魂の本源は言です。言が魂の本質です。言は神の能力と同じものです。ところが皆様は、自分が生きていると思っています。そう思っていると、魂の本質が働かなくなるのです。能力の何百分の一しか働かないのです。私みたいなものは、聖書は分かるだろうかと考える。これは本来の皆様の能力の、何千分の一しか認めていないことになるのです。
そこで、般若心経によって、五経皆空、色即是空を勉強すると、自分がいないことが分かるのです。般若心経が卒業できると、聖書が分かってくるのです。
般若心経が卒業できないものは、聖書が絶対に分かりません。日本のキリスト教が全部だめなのは、そのためです。カトリックもだめです。般若心経を勉強していないからです。
イタリアには般若心経はありませんが、イタリアの歴史を見ていけば、般若心経に匹敵するような文化原理があるのです。どこの民族でも、般若心経に匹敵するものがあるはずです。イギリスにもありますし、ドイツにもあるのです。民族の根源に遡って、民族の由来を十分に勉強すれば、般若心経に匹敵すべき文化原理があるに決まっているのです。
神は公平ですから、日本人だけに空を教えて欧米人に全然教えなかったのではありません。空という思想はありませんが、空に似たものがあるに決まっているのです。
イタリアの場合は、ローマ時代にセネカという哲学者がいましたが、その時代の学者が言ったことをじっと考えてみますと、般若心経に匹敵した思想があったのです。
日本だけのものとは違います。ですから、どこの民族でも、自分の国の歴史を良く勉強すれば、自分を否定しなければならないことは分かるはずです。
皆様は日本人です。般若心経があることを良くご存じです。しかし般若心経を勉強しようとしていない。そこに皆様の怠慢性があるのです。
生活のことは勝手にできます。命を真剣に求めていれば、生活のことは勝手にできていくのです。生活のことより、命のことをもっともっと重要視して頂きたいのです。
生活とは何か。生とは命の本質です。活は働いていることです。命が働いていることが生活です。皆様は命が働いていることを考えないで、肉体が働いていると思っています。だから日本人の考えは、肉体的な現象ばかりです。生活とは言えない生き方、肉活という生き方をしているのです。
明治時代までのおやじは、生あるものは必ず滅する、形あるものは必ず壊れると言ったのです。今のおやじはこういう言葉を知りません。それだけ人間の魂が衰弱になっているのです。
大学へ行って勉強すればするほど、命が分からなくなる。盲になってしまうからです。これはユダヤ主義の影響によるのです。
核兵器の原理を考えたのは、ユダヤ人です。原水爆に反対する人にノーベル賞を与えているのもユダヤ人です。これをマッチポンプと言います。マッチで火をつけておきながら、火事だと言って叫び、ポンプを持って走り回っている。ユダヤ人はこういうことをしているのです。
ノーベルというユダヤ人が、ノーベル賞をつくって、世界の学者に点数をつけている。これが人間文明です。文明とはこういう愚かなものです。
ユダヤ人の間違いをやめさせる以外に、文明をまともにする方法はありません。ノーベル賞をありがたがっている学者が日本にいる間は、日本はだめです。
世界の文化文明は、ユダヤ人に引きずり回されています。日本人はユダヤ人問題を知らなさすぎるのです。
なぜユダヤ人が、現在のような文明を展開しているかと言いますと、世界中の人間に本当の神を知らせたくないからです。キリストを信じさせたくないからです。本当の神を認識させたくないのです。そこで人間の肉体生活だけに花を咲かしているのです。コンピューター、エレクトロニクス、情報通信機器、オリンピック、ワールドカップ、いろいろなスポーツ、万博、ディズニーランド、世界各地への旅行といった各種のエンターテイメントによって、人間の肉体生活を飾りたてている。だから肉活になっている。自分の本能を欲望的にだけ見ているのです。
本能は欲望的に見てはいけないのです。ところが欲望的にしか見ることができなくなっている。だから、女性が女性の本質を失っている。男性が男性の本質を失っているのです。なぜそうなったのかと言いますと、この世が始まった時に、万物ができたのですが、その時に隠れたものがあるのです。
太陽が現れた、地球ができた時に、隠れたものがあるのです。聖書によれば、太陽ができる前に光があったのです。太陽ができた後の光は、地球の生物を養うためのものですが、これとは別の光があるのです。これをつかまえればいいのです。これが天地創造の光です。
聖書は天地創造を、七つの段階で説明しています。太陽ができたのは、第四日目の段階です。一日目、二日目、三日目では、太陽がなかったのです。この時の光をつかまえたらいいのです。
太陽ができた時に、前の光が隠れたのです。今は太陽の光が見えますが、その状態をよく見れば、前の光があることが分かるはずです。
現在の文化文明は、今輝いている太陽の光しか分かりません。これがユダヤ主義の見方です。太陽の光があるということは、その前の光があることを示しているのです。
パウロは、太陽ができる前の光を見たのです。太陽よりも輝いている光と聖書は書いています(使徒行伝22・6)。パウロはダマスコ途上の太陽よりも輝く光を見て、キリストが分かったのです。太陽ができた時に、キリストという光が、隠れてしまった。これをパウロは見たのです。キリストという光は何か。物質ができた時に、その原形になるべきものがあって、それが隠れたのです。
例えば花が咲くためには、原形があるのです。花が咲いている時には、花の原形は隠れているのです。今皆様が生きている命を、本当に認識されれば、死なない命が分かるに決まっているのです。
世が始まった時に隠れたものがあるのです。何が隠れたのか。簡単に言いますと、命の現物が隠れたのです。命の実体が消えてしまったのです。命が消えた代わりに、万物が生きている現象が現れたのです。
植物、動物は何かと言いますと、命の現れです。命の表現形式が現れた時に、その原形が消えてしまった。
命が消えて現象が現れた。それがこの世です。何のために命が消えて現象が現れたかと言いますと、森羅万象という現象を通して命の実体を見つけることができる人間が現れたら、その人に天地森羅万象を任せようという神の計画です。これが人間存在の最高の目的です。
成仏という仏典の言葉も、これが目的です。成仏して何をするのか。草木国土悉皆成仏と言いますが、草木国土全体を成仏させることが、人間が成仏する目的です。
万物を成仏せることができないような成仏の仕方は、本物ではないのです。法蔵比丘という坊さんが、万物と一緒に苦労する。万物を完成させることが、私の人生の目的だということを考えたのです。それを四十八の願によって説明しているのです。
阿弥陀如来は万物に対して責任を持つものだということを、大無量寿経で説いているのです。これがキリストです。ところが聖書のキリストは、歴史的な実体です。大無量寿経は抽象的な誓です。抽象論としての肇と、歴史の実体とは違います。阿弥陀如来は歴史的な背景がありません。だからただの宗教観念になってしまいます。
ところが聖書にあるキリストは、死を破って復活した。その結果、人間が死なないものになった。死ななくてもいいのではなくて、死なないものになったのです。だからキリスト紀元の意味が分かりさえすれば、死なないことがはっきり分かるのです。
西暦2006年というのは、歴史の実体です。万物が存在することの実体として聖書を勉強すると、皆様が生きている命が、そのまま、死なない命の実体であることが分かってくるのです。
これがキリストの正しい受け取り方です。困ったことに、世界中でこれが分かる人がいないのです。私は神の恵みによって、かろうじてその端緒をつかまえたので、それを大いに拡大して、確かなものとして捉えたい。そしてそれを世界に向けて発信したいと考えているのです。
皆様はせっかく人間としてこの世にお生まれになったのですから、最高の目的を達成して頂きたいのです。
皆様が今生きておいでになる命は、神と同質の命です。神と同等の力を持っているのです。自分の主観を捨ててしまえば、皆様の命は神と同じ能力を発揮できるのです。つまり万物の王となるのです。
皆様の人生は、万物の王になるための修行です。現世の平凡な人生を本物だと思わないでいただきたい。固有名詞の自分、現世の自分を本物だと思わないで頂きたい。永遠の命が先にあることを考えて頂きたいのです。
リンゴを食べた時、リンゴの味がします。桃を食べた時、桃の味がします。これは永遠を示しているのです。人間の味覚の本質、視覚の本質、聴覚の本質は、驚くべきものです。これは神の言(ことば)です。五官の働きはそのまま神の実物を経験しているのです。
皆様が五官によってこの世に生きているというだけで、死なない命を経験しているのです。ところが人間はキリストが分からない。一見たり聞いたりしていながら、目の働き、耳の働き、手の働きが、何をしているのか分からないのです。
ヨハネは次のように述べています。
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、命の言(ことば)についてーこのいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、いまやわたしたちに現れたものである。
すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである」(ヨハネの第一の手紙1・1~3)。
皆様が見たこと聞いたこと、手で触ったことは何かと言いますと、初めからあったものに触れているのです。初めからというのは、この世ができる前からということです。
この世ができた時に、命の言が隠れた。そして森羅万象が現れた。天地万物、森羅万象は、初めからあったいのちの言です。言は最高の論理的原理です。論理的実体です。物理的な原理であり、論理的な原理です。生理の奥義、真理の奥義です。すべての物事の存在する原理を、命の言と言うのです。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であったとあります。これが命の本物です。神と言と命は一つのものです。これがこの世ができる前にあったのです。
この世ができた時に、それが隠れてしまった。万物ができた時に、それが隠れてしまったのです。隠れたものがキリストの原形です。これが植物、動物になって現れたのです。これが天地創造です。
命の実体であり、神の言であるものが、天地万物になって現れた。私たちも人間の一人としてこの世に現れた。天地万物を見ることによって、命の言を悟る人が出るかもしれない。これを神が期待しているのです。
初めからあった命の言が万物になって、現れた。その時には初めからあった命の言が消えたのです。消えて、万物になって現れた。そこで、現れている万物を見て、その本体が命の言だと見破った人だけが、キリストに属する一族と見なされて、万物の王として、とこしえの命を与えられるのです。これがイエスの復活によって歴史的に証明されたのです。だからイエスの復活というのは、あらゆる学の根本になるべきものなのです。
キリストを学ぶ時に、人間は初めて専門学という小さな学から解放されて、全体的な命に目を向けることができるのです。キリストは現在、第三の天にいます。やがてキリストが、復活の命を持って、地球上にくるでしょう。この時、文明が完成するのです。
私は宗教の教えを述べているのではありません。地球が存在する根本原理を述べているのです。人間の命が存在する根本原理を述べているのです。太陽が造られたのは、四日目です。三日目までは太陽はなかったのです。ところが、草木は三日目に造られたのです。四日目と五日目に色々な動物が造られ、六日目に人間が造られたのです。
一番最初に光が造られ、二日目に、陸と海ができました。三日目に植物が造られた。四日目に天体が造られた。そういう命が皆人間の中に入っているのです。人間の中に、植物の命も、動物の命も、皆入っているのです。だから、人間は植物を育てることができるのです。植物の命(霊)が分からなかったら、そういうことはできないのです。
生物学的な命の根本原理が植物の命です。人間は花を見ると、花の性質が分かるのです。それをじっと見つめて、暖めると、花の命が人の中で芸術的に膨らんでいくのです。花が持っている非常に和やかな意識が自分の意識になっていくのです。植物の上に動物の命があるのです。人間の命をよくよく見ていくと、万物を支配できるようになっているのです。
皆様がいま生きていらっしゃる命は、現世の仮の命であって、本当の皆様の命は何かを考えなければいけないのです。神が万物を造ったことが、そのまま人間の命になっているのです。これが、人間が一番最後に造られたという意味です。
神にかたどりて、神にかたちのように人を造って、万物を治めさせるというのが、神の人間創造の目的ですが、これが何のことか、世界中のキリスト教徒が、分からないのです。創世記一章二十六節の意味が分からないのです。神と同じ気持ちになって聖書を読まないから、分からないのです。
神と同じ気持ちになって聖書を読んだら分かるのです。そうすると、自分の中にある命は神の命であって、自分の命ではないことが分かるのです。そこで、自分が生きているというばかなことを考える必要がなくなるのです。ことに、女性の存在が意味深いのです。男性が全然神に目を向けないので、男性の目を引くために女性を造ったのです。
人間は万物の最終の被造物として造られましたが、その後に女性が造られました。このことの意味を、よく弁えなければいけないのです。ウーマン・ボディーの格好をよく見ると、女性の本質が見えてくるのです。
今の女性の気持ちはだめですが、女性の存在そのもの、女性が存在しているということがらが、貴重なのです。これを女性の姿が壷良く現しているのです。
女性の姿形は、神が造ったものです。これが最高の被造物です。素直さ、美しさ、しとやかさが女性の姿に現れていますが、これが人間の正体です。人間の本当のあり方が、女性になっているのです。人間は女性に姿のようになったらいいのです。女性の根性は学ばなくてもいいのです。
女性のウーマン・ボディーを見て男性は感心しますが、何に感心しているかと言いますと、男性の中にないものが、女性の姿になって現れているのです。男性には素直さがありません。これが女性の姿になって現れているのです。
ところが聖書によると、人間の手本になるべき女性が、先に善悪を知る木の実を食べたと述べているのです。これが人間が死んでいく原因になったのです。
そこで、何といっても女性の本質を知ることが必要です。女性自身にとつても、女性の本質を弁えれば、人間は救われるのです。
女性が先に、善悪を知る木の実を食べたということが、人間が全部死んでいく原因になったのです。そのために、女性のでき方が男性よりも上等であるにも係らず、男性の下におかれることになったのです。男性に従わなければならない運命になった。
これが男性と女性の関係です。男性と女性を比べれば、女性の方が素直に決まっています。素直な人が、素直でない男性の下におかれることになったのです。男性がことさらいばるのも、女性が焼きもちをやいてへそを曲げるのも、原因は命の本質を見ていないからです。現世に生きている人間関係だけを見ている。だから男性も女性も、間違ってしまったのです。
ヨハネは、目で見ていること、耳で聞いていること、手で触っていることが、とこしえの命だと言っています。皆様が現実において経験していることが、命の言です。これを経験していながら、その実体が分からない。そして死んでいくと勝手に思っているのです。そのくせ死にたくないと思うのです。
本当に死にたくないと思うなら、自分は毎日、何をしているのかを、よくよく見ればいい。客観的に見ればいいのです。花を見たり、山や川を見ている。それは何をしているのか。実は命を見ているのです。死なない命の現実を見ているのです。これが命の言です。これを教えているのが、ヨハネの第一の手紙です。
このように、皆様は見たり、聞いたり、触ったりして、とこしえの命に接触しているのに、自分が生きていると思っているために、それが全くわからない。自分の欲望のために命が見えなくなっているのです。
森羅万象は皆様の中にあるのです。皆様の中にあるから景色を見て感動するのです。もし皆様の中に景色がなかったら、感動しないでしょう。皆様の中にあるものと同じものを見るから感動するのです。
中にあるものを引き出すことが、本当の教育です。人間の中にあるすばらしい能力を引き出して、教えるのが、教育でなければならない。神の御霊によって、皆様の中にあるものを引き出してもらうのです。そうすると、イエスという永遠の生命が、はっきり分かるのです。