ETERNAL LIFE

ブログの内容は梶原和義先生の著書からの引用です。

本当の命

2015-11-12 17:47:40 | 日記
 例えば、富士山が見えるとします。ところが、富士山の近くへ行きますと、富士山がなくなってしまいます。富士山に登りますと、石と土だけになってしまいきれいな富士山が見えなくなってしまうのです。この原理です。

 私たちは、今山を登っています。これが人生なのです。目に見えるものは、土や岩ばかりです。山を山として見ようとすれば、何キロか離れて見ればよいのです。そうすれば綺麗な山が見えるのです。

 色蘊というのは、般若心経の五蘊の一つです。目に見えるとおりのものがあると考えることが色蘊ですが、これは山に登って石や岩を見ているような感覚であって、石や岩は山とは違うのです。

 ところが、山を見ているつもりで、右や土だけを見ているのです。生きているつもりで目の前の人生だけを見ている。目の前の家庭とか、友人とか、職場の人だけを見ているのです。

 自分の家庭を離れて、人生を二、三キロ離れてみると、家庭というものがどういうものか分かるのです。

 人間が生きている本当の姿は、自分が考えているものとはだいぶ違うということが、納得できるでしょう。分かりやすく言えば、こういうことになるのです。

 現在の人間は、必ず死にます。必ず死ぬというのは、本当の命ではないということです。死なないのが本当の命なのです。死ではないから、命というのです。

 必ず死ぬに決まっているということは、本当の命を経験していないということです。だから、命についての説明ができないのです。遠く離れてみた自分は、死なない自分です。遠くから富士山を見ているように、とても綺麗に見えるのです。これは客観的な自分です。ところが、目の前の自分は岩や石ころばかりです。矛盾と執着と憎しみ、恨みばかりです。これは絶対に死んでしまう自分です。これが主観的な自分です。絶対に死なない自分と、必ず死んでしまう自分と二人いるのです。

 今生きている命は、仮の命だ、空なる命だということです。五蘊という命を生きている。五蘊で生きているのだということを考えていきますと、今生きている命が仮の命だということが、よくお分かり頂けると思います。

 これが分かりますと、次に、本当の命はどこにあるかということが問題になります。それは、キリスト教ではない聖書にあります。そこに本当の命があるのです。イエス・キリストが死を破ったという事実です。これを勉強すればよいのです。

 日曜日は、キリストの復活記念日です。復活記念日を世界中の人が、日曜日として守っているのです。

 実は、今、人が生きているということを、常識を捨てて、ありのままに命を見たいというお気持ちを持てば、今生きている姿が、そのままで、死なない姿になるのです。

 人間が生きているのではない。実は霊魂が生きているのです。霊魂とは何かと言いますと、神のことばが肉体的に現われたものです。神のことばというのは、五官の根本的な機能を言うのですが、それが五つに分かれたのが五官です。

 神のことばが、肉体的な状態で現われていることを霊魂というのです。人が生きているのは、そのまま霊魂なのです。肉ではないのです。

 肉というのは、自分がいる、現象が実体であるという考え方です。霊とは、物事の本質、神の思考方式を言います。

 新約聖書で、肉の思いは死である。霊の思いは命である、平安であると言っています。霊の思いで自分を見ることができれば、死なない自分が分かるのです。せっかく生きているのですから、死なない命を見つけて頂きたいのです。見つけたいと考えるのです。

 人間は初めからいないのです。天然自然によって生まれたのが、人間という格好であるだけなのです。これはどこまでも魂であって、人間とは違うのです。

 死を破るたった一つの方法は、般若心経で空を悟り、聖書で今生きているのが、イエスだということを知ることです。

 イエス・キリスト以外に死を破った人は一人もいないのです。釈尊も孔子も、ジンギスカンも秦の始皇帝も、シーザーもナポレオンも死んだのです。人類の中でたった一人、イエスだけが死を乗り越えた。死を破ったのです。死を破った人が、実はあなたの本当の姿であることを知ることなのです。

 神はイエスをどのように処置したか、イエスを死人のうちから甦らせたとはどういうことかということを、勉強すればいいのです。

 あらゆる人の命の実物が、イエスの命なのです。イエスの命が、実は人の命の実体なのです。人はこれを知るために生まれてきたのです。





前編、中編、後編

2015-11-12 17:46:45 | 日記
 人間は生まれてきたと言いますが、生まれてきたという以上、どこかから来たことを意味するのです。また、死んでいくと言いますが、これはどこかへ行くのです。

 人間生活は、現世におけるという一つの注釈がつくのであって、本当は目の黒い間だけが人生ではありません。皆様方の人生には前編があったのです。今の人生は中編です。そして死んでから人生の後編があるのです。

 死んでいく時、俗にいっかんの終りと言います。これは一巻の終りという意味にとった方がよいでしょう。一巻が終った後に、二巻があるはずなのです。そこで、一巻の終りにならない前に、現世にいる間に、人間とは何かということを学んで頂きたいのです。

 例えば新約聖書には、人間はどのようなものだから、神がこれを心にとめられるのだろうかというような言い方をしています。仏教にはこれがないのです。

 大乗仏教には魂という言葉がないのです。なぜかと言いますと、大乗仏教には神がないからです。つまり人生の根源がはっきり設定されていないのです。従って、神という言葉がないのは、当然のことかもしれません。仏ということ自体が悟りを意味するのです。人間が現世に生きていること自体が、無意味なもの、むなしいものだということを悟ることが、仏教の目的です。

 現在、常識的に生きている状態がむなしいものであることが分かりますと、初めて、自分自身の本体が阿弥陀であることが分かるのです。阿弥陀というのは、アミダーバーという言葉とアミダーユスという言葉が両方重なって、阿弥陀如来となるのですが、これが、実は人間の本体だと言われているのです。三部経ではそう言っているのです。

 ところが、阿弥陀如来と言われましても、歴史的実体であるとはいえない。これは概念的人格性です。一つの教えとしての人格性であって、歴史的に存在する人間ではありません。そこで、大乗仏教では概念は分かりますが、永遠の生命の実物を掴まえることができないのです。ですから、イエスの復活を勉強しないと、本当の命は分からないのです。

 日曜日というのは、イエスの復活記念日です。日曜日に世界中の人が休んでいる。これは宗教ではありません。イエスという人だけが死を破ったのです。これは歴史的な事実なのです。このことを勉強しなければ、皆様方の人生は、本物にならないのです。自分の人生を本物にしようと思ったら、この世へ生まれてきただけではいけないのです。

 この世へ生まれて、皆様方は目で見たり、耳で聞いたりしました。目で何を見たか、耳で何を聞いたか。そのことが、はっきり命とつながるような聞き方をするようにならなければ、本当の人間ではないのです。「見ていること、聞いていること、手でさわっていること、これは命の言葉である、とこしえの命である」と、ヨハネが新約聖書の中で言っているのです。

 仏教のことをお話ししますと、仏説阿弥陀経の中で、ただ念仏を口さきだけで言っているだけではだめであって、阿弥陀如来の名号のいわれを心にとめて念仏申せと言っているのです。

 ところが、現在の真宗の信者は、阿弥陀如来の名号のいわれを心にとめる、つまりアミダーバーとかアミダーユスということがどういうことかをしっかり考えないで、ただ口さきだけでナムアミダー、ナムアミダーと言っている。これは全く宗教観念であって、無効なのです。

 現在の仏教は、経典に書いてあることを実行していないのです。般若心経の文字を読んでいるが、実行していないのです。だから宗教になってしまうのです。

 キリスト教も同様です。聖書に書いてあることをはっきり知っていないし、実行していない。ただ信じますと言っているのです。これを宗教観念というのでありまして、ただ現世だけで通用するものです。死んでしまえば一切通用しないのです。通用しないものを信じてもしょうがないのです。

 そんなことをやめて、本当に自分の命が何であるかを、はっきり見きわめて頂きたいのです。

 実は、目でものを見ていることが命なのです。耳で聞いていることが命なのです。皆様方の心臓は動いています。この心臓が動いている事実を神というのです。キリスト教でいう神とはだいぶ違うのです。

 皆様方の心臓が動いていることを、生ける神というのです。生ける神がはっきり分かって、神と同じような生き方ができれば、絶対に死にません。これはそんなに難しいことではないのです。キリスト教では難しそうに言いますけれど、宗教観念でそう言っているだけのことなのです。むしろ、真実の勉強の方が、キリスト教の勉強よりやさしいのです。

 本当に正直に、死にたくないと思う人は、般若心経と聖書の勉強をして頂きたいのです。



開かれた魂

2015-11-12 17:45:47 | 日記
 色即是空の色とは、現象世界のことです。形があるものは、全部色があります。物質的に現象しているものを、色というのです。

 物理的現象が空であるというのは、本当は存在しないということです。これをよく考えて頂きたいのです。肉体があると思うのは、現世だけしか通用しない考えです。

 自分の肉体がある。家庭がある。奥さんがいる。子供がいるというのは、この世に生きている間は、たしかに事実です、しかし、この世に生きている間というきわめて明瞭な限定がつけられているのです。

 そこで、無限定にものを考えるという方向に進まなかったら、本当の意味での人格完成はできません。

 肉体がある。家族があるというのは、現世の現象としてあるのです。こういうふうに考えればいいのです。現世の生活を、絶対だと考えないのです。自分自身の存在は、過去、現在、未来という永遠につながる本質をもっているのだと考えるのです。

 人の命は、過去があって、現在という現象が生まれたのです。現世に生まれるためには、その原因があったのです。無形の原因に、人の命の本性があったのです。本来あった人の原因が、人間として現在現われているのです。

 何のために現われているかというと、自分自身の命の本質を、究明するためです。この世に生きてみた所で、死んでしまうだけなのです。この点を、よく考える必要があるのです。

 現在生きている命は、まもなく終ります。まもなく終ることが分かっていながら、現在の命を、本当の命だと思うことは、自分自身の理性と良心を、偽ることになるのです。なぜなら、理性は、現世以上の永遠を求め、良心は、無限の善を求めているからです。自ら、自分を偽ってはいけないと、聖書で言っているのです。だますのは、誰でもありません。自分自身の思想が、自分をだましているのです。

 こういう自分の思いを、聖書では、肉の思いと言っているのです。肉体的に存在するという思いが、肉の思いなのです。肉の思いに束縛されているのが、現在の人間でありまして、文明思想が大変悪いのです。

 この世の中の通念、常識が間違っているのです。社会通念にごまかされていますと、現世にいる肉体存在の自分だけが、自分だと思えるのです。

 肉体人間はいます。しかし、肉体的に存在しなかった、過去の自分があるのです。魂の自分があるのです。魂の自分が、今、肉体的に現われているのです。

 やがて、死んでいきます。死んでいくのは、未来へ移るだけのことです。過去から現在、現在から未来へ移っていくのが、魂です。そのように見ていきますと、現世だけの家族とか、商売に限定されなくなるのです。それらは、現世の命です。

 本当の意味での命の完成、人格の完成になりますと、現在の束縛された状態、拘束された魂ではなく、開かれた魂が必要です。開かれた魂で考えますと、今までの日本人の考え方に、頓着しなくなります。考え方が、根本から、変ってしまうからです。

 色即是空、五蘊皆空ということ、現象世界は、本物ではないという意識を持てば、思想が、だんだん切り替わっていきます。自由意志によって、これを、はっきり持つのです。

 例えば、電車に乗るとすれば、電車に乗っている自分は、空なのです。動いている電車も、空なのです。このように考えるのです。そうすると、今まで眠っていた脳細胞が、だんだん働き出すのです。脳細胞が眠っているから、色即是空が分からないのです。

 眠っている脳細胞を、呼び覚ますのです。そのためには、自由意志によって、自分の考えが間違っていたと、はっきり意識することです。そうして、色即是空と、口に出して言うくらいになって頂きたいのです。

 目で見ているものは空であると考えて生活しますと、奥さんがいても、その奥さんは、幻なのです。女というものの本質を勉強するために、神が妻を与えているのです。

 目に見えている女は、本物ではない。目に見えている自分も、本物ではない。実は、男と女という、宇宙の本性があるのです。命の性さがが形として現われていることが、だんだん分かってきます。

 このように、私たちが生きている世界の実体を、はっきり看破するのです。今の学問は、ここまでとても行けないから、だめです。学問が行けないような、高い次元へ行かなければ、永遠の命を掴まえることはできないのです。

 難しいと考えるのは、脳細胞が眠っているからです。眠っている脳細胞を、呼び覚ましたらいいのです。呼び覚ますためには、色即是空ということを、自分の脳細胞に言うのです。イエスは、目を覚ませ、そして祈れと、しきりに言っているのです。祈ることは難しいが、目を覚ます方はやさしいのです。これを、どんどんするのです。

 実は、魂は目を覚ましたいと思っているのです。その証拠に、おいしい魚を食べれば、これは、おいしいと思います。おいしいとか、おもしろいとか、美しい、楽しいことが、神の香りなのです。キリストの香りなのです。これを、福音というのです。

 永遠の命は、おいしいことなのです。おいしいから、永遠の命をほしいと思うのです。まずかったら、ほしいとは思わないのです。本当の命を勉強するのは、おもしろいこと、楽しいこと、美しいことの本質を、勉強することなのです。

 おいしいことが、キリストなのです。これを自分の舌が感じるのは、舌がキリストを味わっているのです。目や耳や、舌が、キリストを聞き分けるのです。すばらしい音楽を聞けば、キリストに変化していくのです。眠っている脳細胞を起す役目をするのです。人格完成は、とてもおもしろいことなのです。



人間の本能性

2015-11-12 17:44:59 | 日記
 皆様はこの世へ生まれていらっしゃいました。現在、万物の霊長という形で生きておいでになります。人間が生きている衣食住の形は、動物と違って、自分が気に入った家に住み、食べたい料理をめしあがっています。好みのデザインをした洋服を着ておられます。こういう生活の形というものは、神が肉体を持っている状態の形なのです。神がもし肉体を持っておれば、現在の人間の衣食住と同じ生活の形をとるでしょう。

 皆様は神の子でありまして、神を知ることができる能力性を持っているのです。皆様の本来性、本然性を簡単に略しますと、本能性ということになります。人間の本能性は、すばらしい心理機能です。この人間の心理機能は、神の機能が植えつけられたものなのです。だから人間は生ける神の子なのです。イエスはこのことを自覚して、私は生ける神の子キリストであると言ったのです。

 イエスはすべての人を照らす誠の光であって、この人を鏡にしてご自身をご覧になれば、自分とイエスは同じものだということが分かるのです。

 実は、仏説阿弥陀経にあります阿弥陀仏という言葉は、哲学的に言いますと、イエスと同じ言葉になるのです。これは多分、イエスの十二弟子の孫弟子だろうと思われる誰かがインドへ福音を伝えた。そこで、仏教の思想と福音の思想がごっちゃになって、三部経が造られたのではないかということが想像されるのです。

 仏典には天地創造ということが書かれていません。仏教は天地創造を認めていないのです。神を認めていないのです。なぜかと言いますと、神の約束がないからなのです。天地が造られたこと、万物が造られたことが、神の約束ということなのです。

 今、地球にある森羅万象は、火星にも、金星にも、その他どの星にもありません。太陽系宇宙には個体としての星はありますが、太陽系以外の外宇宙には、太陽のようなガス体の働きをしているものばかりです。月や金星のような個体としての惑星はないのです。太陽系宇宙というのは、地球を造るための特殊現象なのです。

 そういうわけでありまして、森羅万象が存在するということ、ことに、皆様方のような人格、理性、五官を持った人間がいるということは、宇宙の秘密です。宇宙にはそういうことはありえないのです。

 地球以外に人間がいるというばかなことをいう人がいますけれど、そんなことはありえないのです。人間が存在するのは地球だけなのです。

 一体、地球が存在するということは何であるか。人間がこの世に現われたということは何なのか。実は、これが神の御名みなということなのです。神の実体ということなのです。また神の約束というものです。神の約束とか、神の御名ということが、日本人には全然分かっていない。キリスト教でも分かっていないのです。神の実体とは何であるかということが分かっていないのです。

 キリスト教では、宗教観念ばかりをふり回しているのです。神の実物が分からないから、命の実物も分からないのです。キリストの実物も分からないのです。第三の天にキリストがおられると聖書に書いていますが、第三の天とはどこに、どのようにあるのか。キリストは、そこでどのようにしているのか。そういうことがキリスト教では説明されていないのです。イエス・キリストと、現在地球上に生きている人間とが、どのようにつながっているのかということが、分かっていないのです。これがキリスト教というものなのです。

 イエス・キリストは、キリスト教のご開祖ではありません。イエスは、宗教家に殺されたのです。宗教家に殺されたイエスを、今の宗教家は拝んでいるのです。

 今、もしイエスがやってきたら、世界中のキリスト教はたたきつぶされるでしょう。釈尊も同じなのです。もう一度釈尊がやってきたら、現在の仏教はたたきつぶされるでしょう。

 宗教は、そんなものなのです。全くいんちきなのです。皆様は、宗教を勉強するのではなく、本当の命の実物を勉強して頂きたいのです。

 命の実物は何かということを端的に言いますと、皆様の五官です。目、耳、鼻、口、手です。これが一体何をしているのかということです。

 皆様は手でさわっていながら、耳で音を聞いていながら、音とは何か、味とは何か、色とは何か、形とは何かということが分かっていない。だから死んでいくのです。まず、今までの皆様の常識、学問が間違っていることをはっきり知って頂きたいのです。

 人間はすべて、無明によって死んでいるのです。罪によって死んでいるのです。罪の価は死であると聖書に書いています。キリスト教的に言えば罪です。仏教的に言えば無明です。無明とか罪によって、人間はもう死んでしまっているのです。まず、死んでしまっている人間であることを悟って頂きたい。そうすると生き返るのです。

 自分の魂が死んでいることを悟れば、生き返るのです。悟らなければ、死んだままになるのです。

 既に皆様方の魂は死んでいるのですから、これから死ぬことを心配する必要はありません。そうではなくて、命とは何かということを勉強して頂ければよいのです。これはどうしてもしなければならないことなのです。しなければならないことをしなければ、ひどいめにあいます。

 皆様は、神が分かるだけの能力を持っているのです。能力を持っていながら、目で何を見ているか、耳で何を聞いているかをご存じないのです。これが死んでいる証拠です。本当のことを言えばこうなるのです。

 死ぬのが嫌でしたら、どうぞ本当の命を見つけて下さい。命を見つけることが、人生の一番大きな仕事なのです。働くことではありません。お金もうけをすることでもありません。結婚することでもありません。命を見つけることが人生の目的でありまして、商売や生活は付録です。付録の方に一所懸命にならないで、本職の方を考えて頂きたいのです。

本当に信用できる事

2015-11-12 17:43:35 | 日記
 聖書に、「天にいますわれらの父よ」という言葉があります(マタイによる福音書6・9)。天は霊とよく似ています。例えば、心臓が動いていることがありますが、これは生きているという事がらが、生理機能という状態で、現われているのです。

 生きている事がらは霊です。地球が自転、公転していること、夏は暑く、冬は寒いということ、自然現象としての本来あるがままの姿が、天なのです。大自然と言ってもいいのです。

 大自然と言いましても、山とか川が天ではありません。山が山であること、川が川であることが、天なのです。現在の地球は、目で見ることができないものが、目に見える形で現われている。これが天地創造です。この目に見えないものが天です。

 ついでに述べておきますが、般若心経と聖書の関係が、なかなかお分かり頂けないのです。だいたい、聖書を正しく信じることは、普通の人間には不可能です。例えば、イエスが、私は父の内にいると言っています。父の内にいることが、私だと言っています。

 この言い方は、普通の常識では、とても受けとめられるものではありません。そこで、般若心経がどうしても必要になるのです。だいたい、普通の人間、これは日本人だけではなくて、アメリカ人、イギリス人でもそうですが、生きている人間が、そのままで聖書を信じることは、まず不可能です。できないのです。

 「悔い改めて福音を信ぜよ」とイエスは言っています(マルコによる福音書1・15)。悔い改めるという言い方は、あまりにも素朴で、簡潔すぎて、どうすることか分からないのです。

 聖書を聖書どおりに読むことは、大変なことです。イエスは、父の内にいることが自分なのだと言っている。これは、イエスの生活感覚の実体です。イエスは、神の内に生きていた。神の内にいるイエスを、人間は信じることができないのです。

 私たちは人間の内に生きている。肉体的に存在する自分を、自分だと思っている。イエスは、そうは思っていなかったのです。肉体が存在することが、父だと考えていたのです。そういう考え方を、理解するのでなかったら、新約聖書をまともに読むことはできません。

 日本人は、イエス・キリストに、本能的に拒否反応を示しているのです。それには、色々な理由がありますけれど、日本人は、体質的に拒否反応を持っています。

 この拒否反応に、正当な理由があってもなくても、歴史的事実として死を破ったという実例は、イエスの復活以外にはないのです。

 誰が、どのような説を述べようとも、死を破ることなしには、人間の業を果たすことはできないのです。具体的に死を破ること、死を乗り越えることでなかったら、本当の命を見つけることはできないのです。

 私たちが現在生きている命は、死ぬに決まっている命です。死ぬに決まっている命を乗り越えるためには、イエスを勉強する以外にないのです。

 聖書で、パウロは、ギリシャ人にはギリシャ人のように説け、ヘブル人にはへブル人のように説けと言っています。その言い方をすれば、日本人には、日本人のように聖書を説けとなるのです。

 日本人のように聖書を説こうと思いますと、まず、日本人の体質に一番あっている、般若心経を用いるのが、一番いいのです。

 般若心経の空観は、日本人の体質に、非常にあっているのです。般若心経を愛している人は、千数百万人もいるのです。ところが、本当の般若心経の究竟涅槃を実行している人は、ほとんどいません。

 とにかく、五蘊皆空、究竟涅槃、色即是空という端的な言い方で、現在生きている人間のあり方が、嘘であることを、はっきり言っているのです。

 般若心経以外にもあるかもしれませんが、公約数的に、多数の日本人に愛されているのは、般若心経が一番です。そこで、般若心経の空観を用いて、妄念を乗り越えること、自分自身の気持ちを棚上げにすること、これを、般若心経によって学ぶべきなのです。それからでなければ、イエスを信じることは、不可能なのです。

 先にお話ししたように、日本人はイエス・キリストに対して拒否反応を持っていますので、それを、まず、棚上げするのでなかったら、死を乗り越えた人の実歴を、感受することはできないのです。

 そう考えられますので、般若心経の空観を、ぜひ了承した上で、イエスを勉強して頂きたいという意味なのです。

 とにかく、具体的に死を破ったという事実は、イエスだけなのです。六千年の人間の歴史の中で、イエス・キリストの復活だけが、本当に信用できるのです。これ以外には、信用できるものはありません。

 だから理屈ではなくて、実体的に死なねばならない命を乗り越えるためには、どうしても、イエスの勉強をしなければならないのです。