ETERNAL LIFE

ブログの内容は梶原和義先生の著書からの引用です。

あたりまえ

2015-11-20 11:22:55 | 日記
 現在、皆様が生きていらっしゃる命の本質は、永遠の命なのです。ところが、その捉え方がよくお分かりになっていないために、みすみす永遠の命を逃してしまって、死なねばならないことになるのです。

 永遠の命の捉え方の要点を、お話しします。その要点をお話ししても、すぐにお分かり頂けないかもしれませんが、その原理をお話しします。

 死なない命は、毎日勉強を続けていないと分からないのです。まず第一に考えて頂きたいことは、今、皆様が生きておいでになるということがらです。これをよく見て頂きたいのです。

 家には蛍光灯がついています。外には、太陽が輝いています。蛍光灯をともしているエネルギー、太陽を輝かせているエネルギーが、人間の命の正常な働きとなっているのです。

 私たちは、生まれて、物心がついてから、ほとんど毎日、太陽の輝きを見ています。曇った日や、雨の日は見ていませんが、それ以外の日は、だいたい見ています。

 人間は、太陽があるのはあたりまえだと思っていますが、人間が死んでいくのは、こういう考え方なのです。

 だいたい、太陽があることは、あたりまえではないのです。あたりまえというのは、この世の中に、一つもないのです。あるべき道理があるから、あるのです。あるべき道理がないものは、ありえないのです。理屈が分からない人が、太陽があるのはあたりまえと、勝手に言っているのです。

 例えば、マルクスは、人間が偶然に生まれてきたと言っています。偶然に生まれてきたというばかなことが、あるべき道理がないのです。これはマルクスの思想であって、ユダヤ思想の非常に悪い点なのです。

 ユダヤ人は非常に優れた民族であって、歴史の先頭に立って、人類全体をひっぱっていかなければならない責任を持たされている民族なのです。この民族が間違えてしまったのです。

 西洋哲学が、現代文明の間違いの根底にあるのです。白人は、人間が生まれてきた目的の説明ができないのです。日本人もできないのですけれど、日本人の方がまだましなのです。

 日本には、人間が偶然に生まれてきたという思想はありません、しかし、人間が生まれてきた目的を説明した人は、日本には一人もいないのです。聖徳太子も、弘法大師も、道元、日蓮、親鸞も言っていません。

 人間の目的、人生の目的は、日本人には全く分からないのです。分からないのですけれど、偶然に生まれてきたとはいわないのです。お天とうさんという思想は、人間が偶然に生まれてきたという考えではないのです。

 現代文明は、非常にユダヤ的な思想が強いのです。専門学は、ほとんどユダヤ人が考えた学問です。これが悪いのです。

 専門的ということは、部分的ということです。

 部分的な思想を勉強した人が、社会の指導をしているので、文明全体が間違っているのです。学問の根本的な間違いが、文明の間違いを起こしているのです。

 生きていながら命が分からないのが、専門学の欠点です。学理学説が間違っているのです。

 ノーベル賞をもらった学者が、偉い学者だと言われている。ノーベルは、ダイナマイトを発明したユダヤ人です。ユダヤ人に褒美をもらって、学者は喜んでいるのです。

 太陽があるのは偶然だ、人間が生まれてきたのは偶然だという考えを、やめるのです。人間は、生まれるべき理由があって、生まれたのです。太陽も、あるべき理由があって、あるのです。美しい花は、偶然に咲いているのではありません。天が、命を知らせるために、人間に見せているのです。

 そのように、風流の心は、「おのずから」の命を見ようという気持ちが、働いているのです。日本の雅の心は、常識以上の感覚で、物を見ようとする心なのです。こういうことをよく勉強していきますと、生きている趣が分かってきます。

 趣というのは、形ではなくて、実質なのです。竹の柱に萱の屋根という考え方、自然の中にとけこんでいく人生、人生の中にあるものを見ようという考えです。こういう考え方は欧米人には、ありません。

 「祀園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という考え方は、般若心経の考えと同じなのです。般若心経は、現在の世界の文化の中で、あらゆる哲学、宗教の中でも、最もすぐれたものの一つなのです。

 人間の思いを空じることが、人間の文化概念の基礎にならなければならないのです。今の人間の文明思想、人間の世界観、価値観を、空じるのです。これが、命を見つける第一歩です。

 今まで生きてきた生活観念を空じるのです。色即是空、空即是色、究竟涅槃です。般若心経を、毎日読んで頂きたいのです。

 ただ棒読みするだけではなくて、できるだけ、般若心経の心に接するように読むのです。

 そうすると、素読百遍意自ら通ずという事が、少しくらいは言えるでしょう。これをすると、霊魂が、謙遜になるのです。霊魂の謙遜を踏み台にすると、命がちらっと見えてくるのです。

 花が咲いているのは、地球の命が、現われているのです。地球の命は、死なない命です。皆様の目は、死なない命を見ているのです。死なない命が、花になって現われている。月の光は、太陽系宇宙の中にある死なない命が現われているのです。

 花に見とれている時の自分の気持ちを、深く内省しますと、花の中へ入っていくような気持ちになるのです。そうすると、宇宙にある本当の命、死なない命が、少しは分かってきます。これが魂の力なのです。人間の霊魂は、死なない命を見る能力があるのです。

 第二には、大自然をよく見るのです。大自然は、人間に、命のあり方を教えているのです。宇宙に命の根源があって、これが、月となっているのです。命の本願は、死なない命なのです。

 死なない命が、美しいという形で、霊魂に感じられるのです。その時、皆様の霊魂は、死なない命に反応しているのです。

 自然現象があることが、人間の霊魂と重大な関係にあるのです。命の本願が天です。天というとちょっとはずれています。神と言った方がいいでしょう。

 神とは、人間をこの世へ送り出した力なのです。地球を、自転、公転させている力が神であって、神が、現に、皆様の心臓を動かしているのです。宇宙の命のエネルギーが、そのまま皆様の肉体の中に宿っているのです。

 死なない命が、現在、皆様の中に宿っていることを、よく考えて頂きたいのです。

 だから、自分の中にある命を、見つけるのです。そうすれば、死なない命を掴まえることができるのです。

 そのためには、世界の歴史の流れに、順応した考え方を持つ必要があります。日本人の島国根性だけではだめです。東洋哲学だけでもだめです。世界全体の歴史の流れを知る必要があるのです。

 世界全体の人間の流れを知るためには、どうしても、天地が何のために造られたのか、天地創造の勉強をする必要があるのです。そのためには、旧約聖書を勉強するしかないのです。

 天地が造られた原理を悟ることです。又、歴史の勉強をするのです。歴史の勉強というのは、白人と、アジア人と、黒人の、三大種族が、どうしてできたのかということを勉強するのです。こういう事が分からなければ、世界の歴史の流れは分からないのです。日本人は、こういうことを勉強することが、非常に不得手です。

 歴史の流れと、大自然のあり方が、時間と空間です。時間の流れと、空間の流れが、そのまま死なない命の流れになっているのです。これを勉強しなければならないのです。

 死なない人間になりたいという願いを、毎日持って頂くのです。純粋に、素朴に、持つのです。

 自分の立場、自分の経験を問題にしないで、幼子のような素直な気持ちになって頂きたいのです。せっかく命を持っておいでになるのですから、この命を逃してならないのです。皆様は絶対に死なない命を掴まえて頂きたいのです。



2015-11-20 11:22:01 | 日記
 聖書に、「天にいますわれらの父よ」という言葉があります(マタイによる福音書6・9)。天は霊とよく似ています。例えば、心臓が動いていること、生きているという事がらが、生理機能という状態で、現われているのです。

 生きていることがらは霊です。地球が自転、公転していること、夏は暑く、冬は寒いということ、自然現象としての本来あるがままの姿が、天なのです。大自然と言ってもいいのです。

 大自然と言いましても、山とか川が天ではありません。山が山であること、川が川であることが、天なのです。

 現在の地球は、目で見ることができないものが、目に見える形で現われている。これが天地創造です。この目に見えないものが天なのです。

 ついでに述べておきますが、般若心経と聖書の関係が、なかなかお分かり頂けないのです。だいたい、聖書を正しく信じることは、普通の人間には不可能です。例えば、イエスが、「私は父の内にいる」と言っています。父の内にいることが、私だと言っています。この言い方は、普通の常識では、とても受けとめられるものではありません。そこで、般若心経がどうしても必要になるのです。

 だいたい、普通の人間、これは日本人だけではなくて、アメリカ人、イギリス人でもそうですが、生きている人間が、このままで聖書を信じることは、まず不可能です。できないのです。

 「悔い改めて福音を信ぜよ」とイエスは言っています(マルコによる福音書1・15)。悔い改めるという言い方は、あまりにも素朴で、簡潔すぎて、どうすることか分からないのです。

 聖書を聖書どおりに読むことは、大変なことです。イエスは、父の内にいることが自分なのだと言っている。これは、イエスの生活感覚の実体です。

 イエスは、神の内に生きていた。神の内にいるイエスを、人間は信じることができないのです。

 私たちは人間の内に生きている。肉体的に存在する自分を、自分だと思っている。イエスは、そうは思っていなかったのです。肉体が存在することが、父だと考えていたのです。そういう考え方を、理解するのでなかったら、新約聖書をまともに読むことはできません。

 日本人は、イエス・キリストに、本能的に拒否反応を示すのです。それには、色々な理由がありますけれど、日本人は、体質的に拒否反応を持っています。この拒否反応に、正当な理由があってもなくても、歴史的事実として死を破ったという実例は、イエスの復活以外にはないのです。

 誰が、どのような説を述べようとも、死を破ることなしには、人間の業ごうを果たすことはできないのです。具体的に死を破ること、死を乗り越えることでなかったら、本当の命を見つけたと言うことはできないのです。

 私たちが現在生きている命は、死ぬに決まっている命です。死ぬに決まっている命を乗り越えるためには、イエスを勉強する以外にないのです。

 聖書で、パウロは、「ギリシャ人にはギリシャ人のように説け、ヘブル人にはヘブル人のように説け」と言っています。その言い方をすれば、日本人には、日本人のように聖書を説けとなるのです。

 日本人のように聖書を説こうと思いますと、まず、日本人の体質に一番あっている、般若心経を用いるのが、一番いいのではないかと思えるのです。般若心経の空観は、日本人の体質に、非常にあっているからです。

 日本で般若心経を愛している人は、千数百万人もいるのです。ところが、本当に般若心経の究竟涅槃を実行している人は、ほとんどありません。しかし五蘊皆空、究竟涅槃、色即是空という端的な言い方で、現在生きている人間のあり方が、嘘であることを、はっきり言っているのです。

 般若心経以外の経典にもあるかもしれませんが、公約数的に、多数の日本人に愛されているのは、般若心経が一番です。

 そこで、般若心経の空観を用いて、妄念を乗り越えること、自分自身の気持ちを棚上げにすることを学ぶのです。こういうことを、般若心経によって学ぶべきなのです。それからでなければ、イエスを信じることは、不可能なのです。

 先にお話ししたように、日本人はイエス・キリストに対して拒否反応を持っていますので、それを、まず、棚上げするのでなかったら、死を乗り越えた人の実歴を、感受することはできないのです。

 そう考えられますので、般若心経の空観を、ぜひ了承した上で、イエスを勉強して頂きたいのです。

 とにかく、具体的に死を破ったという人は、イエスだけなのです。六千年の人間の歴史の中で、イエス・キリストの復活だけが、本当に信用できるのです。これ以外には、信用できるものはありません。

 だから理屈ではなくて、実体的に死なねばならない命を乗り越えるためには、どうしても、イエスの勉強をしなければならないのです。



命の実物

2015-11-20 11:21:03 | 日記
 現在の政治家は、この世の生活のことしか考えていません。本当の政治というのは、日本的に言いますとまつりごとということです。まつりごとというのは、人間の生活が御霊みたまの働きになっているということを示しているのです。

 神の約束とか、神の御名ということが、日本人には全然分かっていない。キリスト教でも分かっていないのです。神の実体とは何であるかということが分かっていないのです。

 キリスト教では、宗教観念ばかりをふり回しているのです。神の実物が分からないから、命の実物も分からないのです。キリストの実物も分からないのです。第三の天にキリストがおられると聖書に書いていますが、第三の天とはどこに、どのようにあるのか。キリストは、そこでどのようにしているのか。そういうことがキリスト教では説明されていないのです。 

 イエス・キリストと、現在地球上に生きている人間とが、どのようにつながっているのかということが、分かっていないのです。これがキリスト教というものなのです。

 イエス・キリストは、キリスト教のご開祖ではありません。イエスは、宗教家に殺されたのです。宗教家に殺されたイエスを、今の宗教家は拝んでいるのです。

 今、もしイエスがやってきたら、世界中のキリスト教はたたきつぶされるでしょう。釈尊も同じなのです。もう一度釈尊がやってきたら、現在の仏教はたたきつぶされるでしょう。

 宗教は、そんなものなのです。全くいんちきなのです。皆様は、宗教を勉強するのではなく、本当の命の実物を勉強して頂きたいのです。

 命の実物は何かということを端的に言いますと、皆様の五官です。目、耳、鼻、口、手です。これが一体何をしているのかということです。

 皆様は手でさわっていながら、耳で音を聞いていながら、音とは何か、味とは何か、色とは何か、形とは何かということが分かっていない。だから死んでいくのです。

 まず、今までの皆様の常識、学問が間違っていることをはっきり知って下さい。人間はすべて、無明によって死んでいるのです。罪によって死んでいるのです。罪の価は死であると聖書に書いています。キリスト教的に言えば罪です。仏教的に言えば無明です。無明とか罪によって、人間はもう死んでしまっているのです。

 まず、死んでしまっている人間であることを悟って頂きたい。そうすると生き返るのです。自分の魂が死んでいることを悟れば、生き返るのです。悟らなければ、死んだままになるのです。

 既に皆様方の魂は死んでいるのですから、命とは何かということを勉強して頂ければよいのです。

 これはどうしてもしなければならないことなのです。しなければならないことをしなければ、ひどいめにあいます。

 皆様は、神が分かるだけの能力を持っているのです。能力を持っていながら、目で何を見ているか、耳で何を聞いているかをご存じないのです。これが死んでいる証拠です。本当のことをいえばこうなるのです。

 死ぬのがいやでしたら、本当の命を見つけて下さい。命を見つけることが、人生の一番大きな仕事なのです。しなければならない事は、働くことではありません。お金もうけをすることでもありません。結婚することでもありません。命を見つけることが人生の目的でありまして、商売や生活は付録です。付録の方に一所懸命にならないで、本職の方を考えて頂きたいのです。

 命の本質を掴まえることはできるのです。人間は生まれた時に死なない命を持っていたのです。生まれたばかりの赤ちゃんは、物心ものごころに関係なく、本当の命を持っているのです。

 物心は五蘊であって、この世の常識なのです。この世の常識を持たされてから、人間はこの世の命に取りつかれてしまったのです。この世の命は、死ぬに決まっている命なのです。

 ところが、生まれたばかりの赤ちゃんは、死なない命を持っているのです。なぜかと言いますと、物心にとりつかれていないからです。

 もし人間が大人になってから、物心の悪さが分かって、五蘊皆空を実行しますと、物心に関係なく生活することができるのです。

 そうすると、大人の知識を持っていながら、死なない命を掴まえることができるのです。生まれながらの赤ちゃんに帰ればいいのです。それだけのことなのです。

 例えば花を見てきれいと考えます。その直感は誰にでもあります。これが生まれながらの命なのです。ところが、その直感が自分の命にどういう関係があるか全然分からなくなっている。これが物心の悪さなのです。

 人間は花を見ればきれいに見える。おいしいものを食べればおいしいと感じます。おいしいとか、美しいとかいうことが、そのまま命の本質に通じているのです。

 霊魂の本質は、生まれながらのものであって、五官の働きが魂の実体なのです。

 花を見てきれいだと思うことを、聖書ではキリストの言葉と言っているのです。楽しいこと、美しいこと、おいしいことが、キリストの言葉なのです。これを良き訪れというのです。

 生まれながらの赤ちゃんは、長き訪れを素直に受け取るのです。これに気がつけば、常識がどれほど間違ったものかが分かるのです。これが分かると、霊魂の目が開くのです。これが、命を掴まえる方法なのです。



キリスト計画

2015-11-20 11:20:06 | 日記
 人間が現世に生きているのは、命の本質を捉えるためです。そのために現世で命を経験しているのです。現世に生きていることが人間の本当の命ではないのです。

 まず、本当の命を知りたいという気持ちを持つことです。これが一念発起です。発願です。宗教を勉強したい、極楽へ行きたいという考えではなく、命を知りたい、真実とは何であるかを勉強したいという気持ちになれば、おのずから皆様の気持ちが展開していきます。今までの常識をそのまま鵜呑みにしている状態では、命が分からないのです。

 考え方の基本を変えることです。自分が今生きているのは、本当の命ではない。本当の命を捉えてみたいという気持ちを持てば、分かりにくいという気持ちが、大幅に転換すると思います。まず常識の転換が必要です。心機一転です。

 主観が一番恐ろしいのです。なぜかと言いますと、自分の体重が六十キロ、七十キロあると考えていますが、体重はないのです。客観的に言えば、肉体的存在といえるものが、地球の引力に抵抗しているだけなのです。ロケットに乗って、地球の引力圏を脱すると、無重力状態になります。そうすると、宙に浮いてしまうのです。体重は全くなくなるのです。

 人間は赤い花を見ると、赤いと思います。それが間違っているのです。赤い花は赤という色を拒んでいるのです。拒んでいる色が、人間の目に映っているのです。赤くないから赤く見えるのです。

 これを般若心経では、一切?倒夢想と言っているのです。人間の考えは、逆立ちしているからです。

 自分が生きていると思っている。自分がいる。自分が死んでいくと勝手に思っているのです。人間の迷いは五蘊です。五蘊皆空が分かりさえすれば、死なない自分が内にあることが分かるのです。人の命は、天地自然の命ですから、死ぬはずがないのです。それに気がつけばいいだけのことなのです。

 現世に生まれてきたことが、業ごうです。業ですから、業を果たさなければ、人間は必ず死んでしまいます。死んでから、ひどいことになるのです。

 人間は現世に七十年生きてきた、八十年生きてきたと、勝手に思っているのです。この世に何十年か生きていたという事実はないのです。人間が生きているのは、瞬間だけなのです。鼻から息を出し入れしていることが、人間の生命の実体です。

 そのように、人間は常識によってとんでもない考え違いをしているのです。常識を押しっけられているのです。そうして死んでいくのです。これを悟るのです。

 人間の人生観は愚かなものです。死がはっきり分からないので、死んだ後に、今までの自分の認識がどうなるのか、現世における認識の間違いが、死後にどのように働くかが分からないのです。現世に生きている生き方が、根本的に間違っているのです。

 イエスは、それを達見したのです。死をはっきり見破ったのです。釈尊は、人間の考えは、一切空だと考えた。イエスは、もう一つその上をいったのです。ただの空ではなくて、本当の命の受け取り方を示したのです。

 イエスは、あまりにも本当のことを言いすぎたので、宗教家に殺されたのです。ユダヤ教の宗教家に殺されたのです。

 従って、今のキリスト教が、イエスを神様みたいに祭り上げるのはおかしいのです。イエスはどこまでも宗教に反対しているのです。宗教は中途半端なものであるのに、完全無欠のように言って、人を騙すのです。それが悪いのです。宗教は入口としてはいいのです。

 人間が生きている間の自分の記憶が間違っているのです。肉体は死んだら灰になりますけれど、記憶は灰にはならないのです。これが恐ろしいのです。そういうわけですから、難しいと考えずに、まず自分の考え違いを悟って頂きたいのです。

 もともとこの宇宙には、死がなかったのです。生が本当の命であって、それ以外に物理的に現われた命はなかったのです。命の本質は霊なるものであって、霊というのはことがらなのです。

 目が見える、耳が聞こえることが、霊なのです。目に見えないけれど、無形の働きをしていることを霊というのです。これが、地球ができる前にあったのです。

 ところが、聖書によりますと、悪魔という言葉が使われているものがあるのです。悪魔というのは、悪そのもの、魔そのものであって、悪魔という日本語の訳は、非常に優秀な訳です。韓国語では、魔鬼と言います。魔鬼ですと魔だけを意味することになって、悪をあまり意味しないのです。天魔という言葉もありますが、悪魔という言い方が非常にいいと思います。

 悪魔が死を創造したのです。死を造ったのです。悪魔はもとは神の大天使であって、すぐれた能力を与えられていたのですが、その能力を自分の能力であるかのように誤信してしまったのです。自分の力が偉いと思ったのです。

 そこで神に対抗して、自分の思想を確立することを考えたのです。これが死なのです。死は逆性です。逆性とはあるべき本来の姿に対して、自分の立場から、自己を主張することです。人間の自我意識が逆性です。逆性の本体が、死の法則なのです。

 死の則が宇宙に発生したのです。これを神が撃滅しなければならない必要が起きた。この時、弁証法的原理が発生したのです。神はテーゼであって、神に対するアンチテーゼが発生したのです。神と悪魔との闘いは、宇宙全体のスケールにおける大弁証法なのです。そういう形で、神と悪魔との闘いが始った。これが天地創造の原理なのです。

 本来銀河系宇宙全体は、ガス体ばかりだったのです。地球はもともとなかったのです。現在、太陽系宇宙には物質的な惑星はありますが、太陽系以外の星は、ほとんどガス体なのです。ガス体というのは、生でも死でもない、形なくむなしくという状態であって茫々漠々とした存在なのです。これが本来の宇宙だったのです。

 これに対して、自分がいるという思想が発生した。悪魔によって自我意識と現象意識が発生して、死ができた。この死を滅ぼす必要がおきたので、神が命を現象として現わさなければならない必要が起きたのです。

 現在人間が見ているのは、現象的に現われた命を見ているのです。花の姿、太陽の輝き、森羅万象は現象的に現われた命であって、それを見て、現象は仮の姿であり、本当の命がその中に隠れていることに気がついた人だけが、神の子としてとり扱われて、永遠の命に甦ることを許される。これがいわゆるキリスト計画なのです。

 色即是空が本当に分った人が、空即是色が分かるのです。

 地球の歴史は、神の処置によって動いているのです。ユダヤ人を中心にして、神の処置によって歴史が展開しているのであって、日本が中心になっていないのです。アメリカも中心になっていないのです。ユダヤ人が中心になっている。これが神の世界経綸なのです。

 そういう流れで、世界歴史が六千年間流れてきましたが、現在は、神ということ、キリストが明確に捉えられていないのです。

 キリスト教は、カトリックもプロテスタントも、両方共間違っているのです。本当の命が説かれていない。キリスト教ほど間違ったものはないのです。宗教的にキリストを扱ってしまったために、仏教よりもっと悪いものになってしまったのです。

 聖書を正しく読んでいきますと、死を破るために神が天地を創造したことが、明々白々に分かるのです。神が考えた思想が、そのまま太陽になって現われているのです。神の言葉がそのまま有形的な物理現象になって現われているのです。太陽が存在することだけでも、聖書の科学的な証明はできるのです。

 日本人は、神の約束を全然知らない民族です。約束によって天地が造られている。約束によって、地球が自転、公転している。その宇宙構造を日本人は全然知らないのです。聖書を勉強している人はたくさんいますが、聖書が自分の命として分かっている人は、ほとんどいないのです。

 この宇宙に地球、人間ができたのは、宇宙に発生した死を滅ぼすためなのです。命は具体的事実であり、死が嘘であることをはっきり証明するために、地球、人間ができたのです。



人の中にある神の実物

2015-11-20 11:19:05 | 日記
 人間が死ぬものだという考え方は、命を真面目に考えていない日本人に共通する大欠陥です。世間の人は皆死ぬのだから、自分も死んでもしかたがないという考え方は、赤信号皆で渡ればこわくないという考えなのです。

 ところが、死んでしまうと、皆で一緒という理屈は、一切通用しないのです。人間は全く永遠の孤独になるのです。

 現在生きていらっしゃる皆様は、因縁にまといつかれている。自分の業にまといつかれているのです。自分という気持ちが、孤独なのです。本当に自分の気持ちを分かってくれる兄弟はいないでしょう。妻でも、子供でも、自分の気持ちを本当に理解してくれる人は、この世の中には一人もいないのです。

 自分は全くの孤独なのです。全くの孤独という状態が、死んでからの危険信号なのです。黄泉、冥途の状態が、孤独という状態で、すでに現われているのです。

 観世音になりますと、これがなくなってしまうのです。神と一緒に歩いている。神と一緒に生きていることが、はっきり分かるからです。

 命は本当は生せいと書くべきです。命は現世に生きているという意味なのです。しかし、生きていることの実質的ないのちは、生です。生とは、死なない命なのです。人間は、実は、死なない命を与えられているのです。これを、生きているというのです。生きているということと、命とは違うのです。

 人間は今、生きています。これをしっかり見きわめるのです。生きているという有難い業をつきとめますと、観世音になるのです。これは死なないのです。

 生が肉体的に働いている状態を、魂と言います。魂は死ぬ命とは違います。死なないものなのです。死なない、一番上等の命を、人間は経験しているのですから、これがよく分かったら、死ななくてもすむのです。

 例えば、暑い夏の昼間に、クーラーがついた部屋に入りますと、涼しく感じます。涼しいとは何でしょうか。これが、実は、死なない命の持ち味なのです。俗な言葉で言えば、極楽になるのです。

 極楽の本体は何かと言えば、生です。だから、これを掴まえたら、死ななくなるのです。マグロの刺身を食べて、おいしいと感じる。これが生の味なのです。

 この世に生まれるまでに、皆様が経験しておられた死なない命、本当のいのち、永遠のいのちの味を、五官によって経験しているのです。ところが、その掴まえ方が分かっていないために、みすみす生きていながら、死ななければならないことになるのです。

 生きていることは、死なないことです。死なない特別の命を経験していながら、これに対する認識を持っていない。これがいけないのです。

 この世の常識、この世の宗教にまといつかれているために、観世音することができない。観自在することができないのです。そのために死なねばならないことになるのです。

 人の五官の感覚はすばらしいものです。これはそのまま神の力なのです。神の力が人に宿っているのです。これをむだにしてはいけないのです。

 死ぬというのは、日本人が考えるほど簡単なことではありません。だから、生きているということを、しつかり見つめなければいけないのです。

 生きていることがなぜすばらしいかというと、五官が本当の命を経験しているからです。目が見えるということ、耳が聞こえることが、神なのです。目という機能、耳という機能が、神そのものです。五官の機能も神ですし、五官を働かせているエネルギーも神です。神の実物です。神の実物を人は持っているのです。これをはっきり信じれば、今までの迷いはすべて消えてしまうのです。

 せっかく生きていながら、死んでしまうことは、ばかなことです。どうか死なないようにして頂きたい。命の本物を発見して頂きたいのです。

 命は神です。神は命です。神と一緒に生きておいでになるのですから、リビングという神の実物を掴まえて頂きたいのです。

 神が分からないというのは、今までの無明煩悩に基づいて考えているからです。今までの自分の経験を棚にあげて、もう一度子供のような素直な気持ちになって、命の実物を掴まえて頂きたいのです。