東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

今戸焼(53)焙烙(ほうろく)

2016-07-15 21:42:39 | 今戸焼(浅草 隅田川)

 

 只今東京区部ではお盆です。地域地方によっては8月だったりしますが、、。今戸焼製の焙烙をまだ採りあげたことがなかったと思います。現在でもスーパーとか仏具屋さんで際物として取り扱っていますが、今戸焼製のものは現実的には葛飾区青戸の内山さんと同じく葛飾区四つ木の橋本さん製をもって生産に幕が閉じられてしまったので、まずスーパーや仏具屋さん荒物屋さんからは姿を消してしまっています。現在スーパーで流通しているものは今戸焼の焙烙とは形態の異なるものです。常滑など中京製のものが東京に今日流通しているケースも見られますが、他に国外産の輸入ものなども出回っているのかどうか、、、。

 地域によって使わないところもあるのかわかりませんが、東京の下町地域では必需品でした。お盆の迎え火送り火でおがら(蓮の茎の乾燥させたもの)を焚くときの受け皿として使います。送り火のときにはマコモ馬もこの上で焚き上げます。

 昔の人はお盆以外にも七輪に焙烙をかけて節分の豆を煎ったり、またお寺で焙烙灸といって頭に焙烙を被ってその上からお灸を焚くという行事もあるようですね。小石川のお閻魔さまの焙烙灸は全国的にも有名かもしれません。

 あと料理屋さんなどで焙烙焼きといって焙烙の上で鯛や海老を塩焼きにして出すというのをTVCMで見たことがありますがあれは関西方面のCMだったか、、?

 少なくとも東京のお盆では馴染みのあるものです。画像の焙烙左上のは葛飾区四つ木の橋本さん製、右下のは葛飾区青戸の内山さん製だと思います。土の焼き色が微妙に違いますね。共通しているのは形態で、今戸焼の焙烙は口縁近くが耳たぶのように厚みがあります。

 常滑製では口縁のはもっと薄くて直角に立ち上がっていたりすると思います。このブログでも何度もとりあげている旧・今戸八幡に今戸焼屋たちによって奉納された狛犬には「火鉢屋」と「焙烙屋」という区分けが記されていて、火鉢と並んで焙烙が今戸焼の主要な製品であったことが偲ばれます。

 

 結局のところ先述の葛飾の今戸焼屋さんのおふたりを最後に今戸焼の焙烙は廃れてしまいました。しかもこのおふたりによる焙烙も植木鉢も地元の土を材料として作られていたわけで、よく遣う言葉として「江戸前」といいますが、本当の最後の江戸前だったわけです。廃れてしまってから残念がっても始まらないことですが、これも最後の今戸焼だったと言わねばなりません。

あ、そういえば歌舞伎の舞台でも焙烙を使う場面がありますね。「寺子屋」の終盤「いろは送り」で角火を焚くところ。それと「四谷怪談」の「蛇山庵室」でも確か、、?(記憶違いだったかな?)焙烙に限らず、歌舞伎の舞台上で今戸焼で作られた小道具があったものですが、最近では使われなくなったと聞いてます。何でも昔のように注文通りに作れなくなったので発注しなくなったとか、、。

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最後の今戸焼屋さん・・・故・内山英良さん

2016-07-12 23:06:38 | 今戸焼(浅草 隅田川)

 

 入院中の家族がつい最近転院し、家から遠くなってしまいました。遠いのは二の次で快適な院内生活を送らせてくれることを第一に願っています。ただ遠いので通うのはチャリでこの暑さだと心配で、バスを乗り継いだり、電車とバス2本乗り継ぐとか選択肢はいくつかありますが、すいすいとは行けない感じ。反対に考えれば普段ご縁のない土地なのでこういう機会に乗り継ぎの合間にも土地を知るとか近場の興味あるところに寄ってみることも悪くないかとも、、。

 前書きが長くなってしまいました。今日も厳しい暑さでしたが、病院の面会時間の前に葛飾区青戸に寄ってきました。じつはここ、実質的な最後の今戸焼屋さんだった「内山英良さん」がお住まいだった土地なのです。言葉の綾で「あそこにまだいるじゃないか」という人もいるかと思いますが、実際の仕事の内容や使用された原料も含め掛け値なしで本当の今戸焼屋さんで最後の方になってしまった、、と私は思います。

 聞けば3年以上前にお亡くなりになられたそうです。京成青砥駅と高砂駅の間に流れる中川の畔にある内山さんをお訪ねしたのは、私は当時25歳でしたから30年近く前になります。当時は葛飾区内には白井善次郎家(白井本家)の白井和夫さんが宝町に、四つ木には橋本家が操業されていました。関東大震災、東京大空襲による被災や今戸近辺の宅地化などを理由に今戸焼屋さんの多くは葛飾や足立、または関西に移住し、戦後の今戸焼の実質的な生産の中心は葛飾区内に移りました。そして最後までご活躍された3人の中で最後の今戸焼屋さんが内山さんとなったわけです。

 内山さんの仕事場にはじめてお邪魔したときびっくりしました。敷地内に大きな土の山があって、「こっちはさくい(荒い)土」「こっちはねばい(粘りのある)土」で「どっちも地元の建設屋さんが運んで持ってきてくれんだよ。ふたつを練り込んで丁度いい土にして使うんだよ」と仰ってました。その時作られていた製品の多くは植木鉢と焙烙で粘土を詰めた「シッタ」を機会ろくろにセットして回転させ、こてを下ろして余分な粘土を刳りぬいて成形されていましたが、内山さんの場合当然手ろくろの技術を持った上で大量に規格を合わせて作るため機会ろくろを使われていたのでした。お邪魔すれば気さくに案内してくれました。体つきのがっしり大きなそれでいて心優しい感じのおじさんでした。

 その後お寄りする機会がないうちに亡くなられたということで、これで昔ながらの今戸焼屋さんはいなくなってしまったのだな、、と思っていたのです。

逆に言えば、宝町にお住まいだった白井和夫さんにも青戸の内山さんにもお目にかかって僅かですがお話を聞くことができたというのは幸いだったなと思います。(その当時、お話の中に出てくる技術的な話とか十分に咀嚼しきれていなかったということは、今になって残念でなりません。)

 さて今日青戸へ行ったのは亡くなられた内山さんがご生前お作りになられた製品が青戸に工場のある老舗の手焼煎餅屋さんである「神田淡平」さんに少しだけ残っていてそれを頒けてくださるということでお邪魔したのです。

 お店は内神田にあるそうですが、作っている工場の佇まい、素敵です。お話によれば五百数十年前の応永年間からこの地(今は青戸という町名ですが昔は一帯「淡之須」と呼ばれていた)に居を構えていらっしゃるそうで、もともと武士でだったのを武を捨て「平ぜむ殿」として人々に親しまれ、自ら「淡平」と名乗られたのが今まで続く屋号のはじまりなのだそうです。今日お邪魔してご主人からお時間いただいていろいろ教えていただいたのですが、乾燥した煎餅の生地を網に乗せて焼く工程では、放っておくと熱で反り返ってしまうので鏝で力を入れて押さえるのだそうで、その鏝が昔は今戸焼製のものが普通だったのがいつからか他の素材に変わっていった。草加辺りでも昔は今戸焼製の鏝だったのだろうが、今では他の産地、例えば益子産で施釉されたものを使っているらしい、、との由。本来今戸焼の素焼きで使用されていた理由は素焼きだと熱の伝導が鈍いので熱くならないで使いやすく、施釉とか堅い焼焼き物だと熱くて使いづらいのではないかということでした。また昔はお煎餅の生地屋さんから生地を仕入れる場合、生地屋さんが今戸焼の鏝を添えて卸していたものだそうです。

 「淡平」さんのお宅も今戸焼の「内山さん」のお宅も揃って中川の西岸にあり、地続きで内山さんに昔ながらの今戸焼製の鏝をお願いして以来久しく作ってもらっていたそうです。一番上の画像の向かって右が内山さん製の鏝です。お煎餅が反り返らないよう、力をうんと入れて押さえることもあり「持ち手」も部分が割れてしまったものなのだそうですが、特別に頂戴しました。壊れているといっても、これこそ実際に使われた証拠。内山さんとしては手間がかかって大変なのをお願いして作ってくださったそうです。

 画像右は「淡平」さんの創業周年記念の折り、内山さんに「土器(かわらけ)」を作ってもらった残りであまり残っていないのをお譲りいただきました。「神田淡平」という陰刻(落款)が入っています。この土器(かわらけ)こそ内山さんの最後のお仕事になったのだそうです。 

 それにしても戦後の実質的な今戸焼の中心であった葛飾区内から最後まで操業されていた内山さんがお亡くなりになったということは実質今戸焼の終わりとも言えることで残念のひとことで片付けられない現実です。あと余断ですが、ずーっと前、それも昭和40年代頃からマスコミで取り上げられた記事の中では葛飾の今戸焼屋さんたちに光を当てるものが少なかったのではないかと思います。葛飾の今戸焼屋さんたちがまだ操業されていた当時に既に「最後に残る一軒の今戸焼屋」という形容を他の家だけが受ける記事って少なくなかったと思います。何とも皮肉で矛盾した話です。その理由のひとつとして今戸焼という言葉からのイメージというものが戦後ほとんど大衆から離れてしまったからではないかと思います。「今戸焼?今川焼のことですか?」というやりとりは単なるギャグではなくて実際に何度も耳にしています。それと戦後「今戸焼」という言葉は郷土玩具の愛好家によって「今戸焼の土人形」という狭いイメージになっていったということもあるのではないでしょうか。葛飾区内には戦前までには今戸焼屋さんで人形も作っていたという記録もありますが、実際には今戸焼屋といっても製品はさまざまで人形を作る家だけが今戸焼屋なのではなく、人形屋さんは今戸焼屋さんの中のごく一部だけでした。また今戸人形屋さんは浅草今戸町内の尾張屋・金沢春吉翁(明治元年~明治19年)を最後に伝統は途絶えてしまっています。

 さびしいな、時代の流れとはいってもはじまりません。それでも今日最後の今戸焼屋さん「内山英良」さんの製品に触れることができて何よりでした。「神田淡平」さんにはお世話になりました。

 「神田淡平」さんでは今戸焼の鏝にちなんだ「今戸焼」というお煎餅も出されているそうです。今日工場でお尋ねしたのですが神田のお店のほうに出荷された後のようなので、今後お店に行って買って味見してみたいと思います。奇しくも亡くなられた永六輔さんは長年にわたってこちら「淡平」さんとは御懇意だったそうで、お店の商標をはじめコピーライトも永さんによるもの。生前のお付き合いからTV局からコメントの撮影を先日受けたとのこと。浅草生まれの永さんにとって江戸東京このみのお煎餅が好物のひとつだったようです。

神田淡平さんのHPはこちら→

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今戸焼(52)角火鉢

2016-01-22 17:31:59 | 今戸焼(浅草 隅田川)

 「何お峯が来たかと安兵衛が起あがれば、女房は内職の仕立物に余念なかりし手を止めて、まあまあこれは珍しいと手を取らぬ斗に喜ばれ、見れば六畳一間に一間の戸棚只一つ、箪笥長持は元来あるべき家ならねど、見し長火鉢のかげもなく、今戸焼の四角なるを、同じ形の箱に入れて、此品がそもそも此家の道具らしき物、聞けば米櫃もなきよしさりとは悲しき成行、、、、」

 樋口一葉 明治27年初出「大つごもり」、はじめから71行目からのさわり。裕福な山村家の下女として辛い奉公をしているお峯が父母亡き後只ひとりの大切な伯父の病を見舞いに小石川初音町に訪ねる場面です。

 「今戸焼の四角なるを」というのが、画像のようなものであったのではないかと思っていますがどうでしょうか。形状としては行火に入れる火鉢にもこうした四角いものがありますが(丸いのが多いですが)、この大きさ(25㎝×25㎝×11㎝)だと櫓コタツに入れるか、または先の本文のようにひとまわり大きな木箱に入れて小さな五徳を置くことはできるのではないかと思います。

広義の「今戸焼」というイメージに含まれるものだと思います。いわゆる「今戸焼」の「黒物」と呼ばれるもの。瓦質です。昔、今戸町内で燃料屋を営んでいらっしゃったお爺さんに聞いた話で、こうした黒物は、その昔松の枝を途中から窯の炉内に投げ込んで、密封させ燻して焼いたもので、松の枝は利根川流域の茨城県岩井辺りから船で運ばれてきて、今戸の河岸で荷揚げされたらしい、、ということでした。また、戦後、葛飾宝町に移住された「白井本家」の「白井和夫」さんから聞いた話では「黒物」は昔、今戸町内に「松本三兄弟」という「みがき」の名人がいた、そうで、木地を那智石とか加茂川石で磨いて黒鉛を塗って焼くのだ、とか仰ってました。

 

 

 

 画像のものは側面に「コロ」で凸凹の装飾がされていて、部分的に白黒のムラのようなものが見られますが、意図的な加飾なのか、単なる焼きムラなのか、、。「橋本」姓の今戸焼屋さんたちが作ったものの中に「村雲焼」と呼ばれる白黒の模様のついた作品があります。一般に「雲華」(うんげ)と呼ばれる加飾にも似ています。この火鉢は近所の古道具屋さん(骨董屋さんではなく)から出たもので小台(荒川区)辺りの旧家から出たものとか聞きました。

 こうした日常づかいの器物が「今戸焼」の製品のひとつで、他にも菊鉢(菊専用の黒い鉢)なんかも「黒もの」のひとつでしょうか。昔の今戸焼屋さんは日常づかいの器物に「今戸焼」というロゴを入れることはありません。一部「茶道具」などに「窯印」、「雅号」「屋号」を入れる例は見られます。例えば「半七」「對鷗斎 橋本三治郎」などです。今川焼に「今川焼」というロゴを入れることもないですね。そんな昔らしい「今戸焼」の器物にはダイレクトなロゴは入っていないのでわかりにくいかもしれません。むしろ六古窯をはじめとして各地の歴史ある焼き物の古いものにロゴが入っているということ自体少ないと思いますし、もし歴史あるものに「信楽焼」、「瀬戸焼」、「越前焼」、「丹波焼」、「備前焼」なんてロゴが入っていたら却って胡散くさいような感じではないでしょうか。

 最近忙しくて昔の「今戸焼」本流のかつての作例を採りあげる機会がなかったので久しぶりですが、興味をお持ちの方は是非この「今戸焼」のカテゴリーの過去の画像もご覧ください。

 

 

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我が意を得たり

2015-09-07 09:02:05 | 今戸焼(浅草 隅田川)

偶々見かけたのですが、よそのサイトに三社様に関する記事を目にしました。その内容のひとつに自分でもかねてから口を酸っぱくして言っていたこと、つまり当今雨後のきのこ的に世間に広まってしまった「平成版・招き猫発祥説」(今○神社)は歴史的な裏付けもなく、おかしなパワースポットのブーム、芸能人を巻き込んだ派手な宣伝や珍奇なPRなどによって表に繁ってしまったものであって、歴史的資料や記録、描かれた錦絵、そして遺跡から出土した招き猫そのものを通じてここ「浅草神社」(かつては浅草寺境内三社権現)こそが最も古い招き猫由縁の地であり現時点において「招き猫発祥の地」であるということをとりあげてくださっているのです。ちょっとうれしいですね。マスコミ関係の人たちにもちゃんと勉強してもらって正しいことを発信してほしいものです。

こちらのサイトご覧ください。→

 

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今戸焼⑱「都鳥の徳利」(白井半七 作)★

2015-03-31 20:45:57 | 今戸焼(浅草 隅田川)


「寿ミ田川」の陶印があり、今戸焼の7世白井半七の作だと思います。へら彫り或いは押し印で都鳥が水面にいろいろな姿で描かれています。

7代目白井半七は関東大震災に被災し、その後招かれて関西に移住して開窯した人ですが。「寿ミ田川」の陶印は今戸で製作していた時代のものだと思われます。



手にとってみて、握ってみてなじんでくるようなやさしい歪みというのか、温かみのある形が好きです。土はやはり東京の土ではないようですが、真っ白という感じでもなく、時代がついたためなのかわかりませんが、ざっくりとした風合いに感じられる徳利。こういうのでお酒を呑むとおいしいかも。



黄色みを帯びた釉薬の色も渋くて好きです。




★過去にアップした記事ですがブログ移転のため埃に埋まっていたものを虫干しする意味で再アップさせていただいております。また移転以前の記事内のリンクが移転によってずれているケースも見られますので今後修正していきますのでご了承ください。

 

 

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今戸焼(24)おかめの火入れ★

2015-03-17 10:58:51 | 今戸焼(浅草 隅田川)

今戸焼の定番ですね。錦絵にもよく描かれているもの。「今戸焼(21)河童の火入れ」同様に、中に灰を敷き、火種を入れて、煙草の吸いつけとして使うと同時に手あぶりにもなる器物です。

作りとしては河童の火入れ同様、素焼きに胡粉の下地を塗り、その上から泥絵具で彩色したものです。余りにも有名なものなので、ひと目見るだけでいかにも今戸という感じですね。



今戸焼の土人形の作者といわれた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)も作っていたそうですが、もっと手の込んだ仕上げだったようで、この火入れの作者はわかりません。最近の出来のものに比べて幾分すらっとしています。今戸の「おかめの火入れ」としてイメージが焼きついているのですが、フォルムは何を意味しているのか、というと不思議な感じがします。浅学のため、この言われについてよく知りません。



古い書物のどこかに書いてあるのでしょうか?



わからないので、自分なりの推理ですが、まず、おかめといえば、お酉さまの熊手につきものです。手ぬぐいで頬かむりしているのは何故か?また、お面の下のひだ状の彫りのあるところは、単に達摩さんの座禅姿を真似たものなのか?地方の郷土玩具で張り子のおかめだるまというものも結構あるのですが、、。しかし張り子のおかめだるまだと全体を赤く塗ってあるのが多いです。どうして頬かむりした手ぬぐいとひだ部分を塗り分けてあるのか?



おかめは江戸の里神楽にも必ず登場するし、お酉さまの熊手にもついている。お酉さまの裏手は吉原の遊郭があり、そこでは「にわか」という芸能が名物になっていた。歌舞伎などの芝居をパロディーにした「にわか」などもあって、その趣向というものが通な人たちのこだわりのひとつだったのでしょう。その趣向に「見立て」というものがありますね。いくつかのものを組み合わせて、別のイメージを作る(見立てる)。 吉原の「にわか」の時に限ったものではないかもしれませんが、見立ての飾りというのがあったのではないかと思うのです。


おかめのお面とかぼちゃ(唐茄子)と手ぬぐいを使って、おかめが頬かむりしているような見立ての飾りを作った。その意匠を写したものではないかと思うのです。だから、茶色く塗ってあるところはかぼちゃなのではないかと思うのです。(ご存じの方のご教示お待ちしています。)



「おかめかぼちゃ」という言葉を聞いたことはあるのですが、どういう語源なのかわかりません。



この火入れの茶色の部分には「きら」(雲母粉)を混ぜて塗ってあります。面描きも何か素っ頓狂な表情で笑ってしまいます。



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今戸焼(21)河童の火入れ(尾張屋春吉翁 作)★

2015-03-13 15:35:48 | 今戸焼(浅草 隅田川)


最後の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)の作です。素焼きの生地に胡粉で下塗りし、染料や胡粉で着色して仕上げたもの。今戸の土人形であると同時に実用品としての性格もあるので、今戸人形というより今戸焼として採り上げます。この火入れ、前の持ち主が大切にしていたようで、一度割れてしまったものを丁寧に継いであります。

「火入れ」は、背中に口を開け、中に灰を敷いた上に火種を置き、煙草に火をつけたり、また手焙りとして、手をかざしたりして暖をとることもできます。

そういう意味で、手あぶり火鉢の一種と考えてもよいのかどうか、、。

今戸焼にはろくろで挽いて成形し、口を切あけたものもあるのですが、このように前後2枚の型を合わせて成形する人形型のが有名です。



種類としては、尾張屋さんはおかめ型、招き猫型も手掛けていたようですし、近世遺跡からは狸や烏帽子を被った猿なども出土しています。特に有名なのが、この河童とおかめ、招き猫の型ではないでしょうか?



古い錦絵に描かれていたり、また歌舞伎の世話物の場面で神社仏閣の傍らにある茶店の赤い毛氈を掛けた床几(ベンチ)の上に置いてあることが多いです。茶店に限らず、店先などでちょっと一服、なんてところで親しまれていたものではないでしょうか?





尾張屋さんでは、このほか河童の土人形も何種類か手掛けていらっしゃいました。

尾張屋さんの河童の彩色は独特で、緑というよりセルリアンブルーのような色を濃くしたような染料?で着色されています。頭の皿も塗り分けてあり、目がいきいきとしています。



向かって右側面に「尾張屋」の窯印があります。



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今戸焼⑪ 紅塗りの手あぶり火鉢 その②(白井半七 作)★

2015-03-10 15:59:44 | 今戸焼(浅草 隅田川)


手あぶり火鉢です。陶印には「白井半七」とあります。「白井半七」といえば、今戸焼に関する記述には必ず出てくる作者ですね。とりあえず「東洋文庫」の黒川真頼著 前田泰次 校注「増訂 工芸志科」から引用します。この本は明治11年刊の「工芸志科」上下二冊(博物局版)と明治21年刊の同書「増補訂正 工芸志科」(宮内省博物館蔵版)の2種類を本に基づいて校注したものだそうです。その今戸焼の項より、、。

○貞享年間、土器の工人白井半七という者あり、今戸に於いて始めて店茶家に用いる所の土風炉を製し、又火鉢等の種々の瓦器を造る。世人是れを今戸の土風炉師と称す。尋で其の地の工人これに倣い業を開く者あり、漸く数戸に及ぶ。



○享保年間二世白井半七という者、始めて瓦器に釉水を施し楽焼と等しき者を製す。爾ありてより以来工人又これに倣い、業を開く者数十戸に及べり。多くは食器にして雑記は甚だ尠し。衆人之を用呼んで今戸焼という。



○三世も亦白井半七と云う。四世も亦同名なり。後に蘆斎と号す。五世も亦同名にして蘆斎と号す。初世より以下数世、土風炉及び楽焼きを製す。その他の職業年序を経て漸く盛んなり。又婦女の塑像を造る、翫弄物なり。其の製伏見人形に似て甚だ麁朴なり。而れども精巧ならざる所に奇作ありて、好事の輩は今戸人形と唱えて之を愛翫す。



○明治年間六世白井半七、世業を襲ぎ土風炉を作り、又楽焼を能くす、最も名声あり。(中略)其の他の工人土器及び楽焼き塑像を製する物多し。其の戸数遂に四十に及ぶ。其の他の工人業を営んで今日に至る。



これは明治21年に訂正刊行されるまでの流れです。6世半七までの記述で終わっていますが半七の名前は9世まで続いています。



7世白井半七(1857~1933)は今戸で業を継いでいたが、関東大震災に遭い、兵庫伊丹に招かれて、伊丹に窯を築いた。養子の半次郎氏(1898~1949)が8世半七を継ぎ、関西で茶陶を製作していたが、小林一三氏(阪急電鉄会長、宝塚歌劇の創始者)に請われて、宝塚市に窯を移した。九世半七(1928~1987)は戦後、宝塚市の都市化に伴い三田市の郊外に移し、昭和62年に亡くなったとあります。



手あぶりの話に戻ります。この手あぶりも橋本三治郎のと同様、磨いてからべんがらを混ぜた漆で仕上げてあり、胴のところに、桜の花やつぼみの模様が刻まれています。代々の半七の陶印や銘がいろいろありますが、どれが何代目のものか虎の巻があればいいのですが、今のところそういうものが存在するのかわかりません。



今戸で製作していて大震災に遭い、伊丹に移住したのが7世で、7世までは「墨田川 半七」という陶印を使っていたという話ですが、これも作品によりけりでひとりの人物が色々な印を使い分けていたということもありそうなので、ご専門の方がいらっしゃったら、教えていただきたいです。



この手あぶりには「白井半七」の印だけですが、関西へ移ってからの半七の作品は関西の茶人の好みに合わせ、上品な作風になっているようなイメージを持ちます。それからすると、橋本三治郎の製品とも共通点をもつ、この手あぶりは、まだ今戸で作られていた時代のものではないかと思うのですが、所詮素人考えで、わかりません。



「桜=隅田川」という趣向なのかわかりませんが、桜の花の陰刻のある今戸焼の他の器物についても記事でとりあげていますのでお時間ありましたらご覧ください。



隅田川の灰器(白井善次郎作)→



炉台(橋本三治郎作)→



紅塗りの手あぶり(橋本三治郎作)→



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今戸焼(51)紅鉢型雲華土風炉(作根弁次郎 作)

2013-06-14 10:13:07 | 今戸焼(浅草 隅田川)

P1010224 この土風炉の作者「作根弁次郎」という人は陶磁関係の文献で「嘉永年間の今戸焼の上工、、」という表記がされています。旧・今戸八幡の狛犬の基台に刻まれている今戸焼の陶工の名前には含まれておらず、狛犬が再建された時よりも後の時代に出てきた人なのでしょうか。

  私自身が直接お話を聞くことのできた今戸焼の関係者、古くからの今戸町の古老のお話の中で、「猫屋」という屋号が必ずといってよいほど出てきたものです。例えば葛飾お花茶屋にいらした白井本家・善次郎家の白井和夫さんのお話、今から20数年前に今戸町内で燃料屋を営んでいらしたお爺さんの話、そしてたびたびこのブログにご登場いただいている最後の生粋の今戸焼の人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお孫さんである武佑さん(昨年末にご他界されました。謹んでお悔やみ申し上げます。)のお話にも「猫屋」のことを聞きました。

 この「猫屋」という屋号は作根弁次郎さんが作ったという猫脚のついた炉台が大変な評判となったからであるようなことが有坂与太郎の著作に記されています。その話を知るまでは、招き猫などの猫の土人形を手がけた人がいたからなのだろうかと思っていました。

 またこの「作根弁次郎」さんこそは、尾張屋・金澤春吉翁の実父なのだそうです。そのため金沢家と作根家とは親戚関係にあり、春吉翁がご生前ただひとりの弟子を仕込んだ、というのは作根家の通称「清さん」と呼ばれていた作根清二郎という人で、残念ながら夭折されたそうです。

 画像の土風炉作者「作根弁次郎」さんの話に戻ると、この人は例えば忠臣蔵で有名な播州赤穂の焼き物に大きな影響を与えたとかで、赤穂焼という焼き物には雲華焼風な仕上げの技術が伝わっているのだそうです。

 かねてから気になっていること、、、。春吉翁は作根家に生まれ、尾張屋・金澤家の養子に入り、家業の土人形で有名な人ですが、いくつ頃に金澤家に入られたのか、、?翁の語った話が記録されていますが、年少の頃より煙草が好きで、「吸いたければ働け」と養父兼吉翁に言われて仕事に励んだということです。十代の頃の話でしょうか。土人形製作が中心であったにせよ、春吉翁には実父の弁次郎さんからろくろや焼成などの「猫屋」さんの技術が伝わっていたのかどうか、、?春吉翁の仕事風景の画像が残っていますが、中には手回しろくろの上に人形を乗せて仕事しているものや、窯詰めのところで、小さな人形を入れる「サヤ」や重しとして伏せて乗せてある「焙烙」のようなものが見えます。これらは春吉翁が自分でこしらえたものなのかどうか気になるところです。

 春吉翁の娘さんである花さんの懐古談によれば、バーナードリーチは本所に窯を築いた折には、リーチの師匠である「浦野繁吉」(浦野乾哉)と春吉翁が親戚であった関係からリーチのために焼き物のひととおりを手伝ったということなので、技術としては人形や箱庭細工以外の今戸の焼き物ができる人であったのでしょう。

 さて「猫屋」作根家のその後の消息についてどうなったのかということも知りたいところですが、昭和はじめの「今戸焼共同組合」による刷物には「猫屋」の名前がありますが、昭和8年の「郷土風景」という雑誌の記事に記されている当時の今戸町内にある窯の列記には含まれてはいません。春吉翁のお孫さんの武佑さんからお聞きした話では第二次大戦の末期、武佑さんは作根家に疎開していたそうで、そこは群馬県の太田市であったといいます。その後についてはご存知ないそうですが、どこかで、関西の方に移ったとかいう話を読んだかしたように憶えているのですが実際のところはわかりません。

 画像の土風炉の底には「作根弁次郎」という陶印が押されています。

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80年前の今戸町と今戸焼・今戸人形の状況(昭和8年)

2013-03-08 03:59:06 | 今戸焼(浅草 隅田川)

P1011086最初の画像は昭和8年5月1日に発行された「郷土風景」という雑誌です。この中に山崎荻風という人が今戸町を訪ねて書いた記事があります。あまり図書館など閲覧できない本だと思いますのでお読みになるのもちょっとしんどいかもしれませんが今から80年前の今戸町内の今戸焼屋さんの様子に興味をお持ちの方はお付き合いください。全文記しておきます。

 

「今戸人形    山崎荻風」

 今戸人形と謂へば東京随一の江戸時代から傳はってゐる唯一の郷土玩具ですが、この起源に關しては、斯道の先輩諸氏が研究発表されて居ますが、未だ確たる決定的のことは云へない様です。私が今戸人形を蒐めて居るので、何か是に關する事をとのお話ですが、先輩の皆さんにチト面伏ですが主として現在の今戸人形の実況を申上る事としませう。

 

 今戸焼に就ての、資料としての文献は無といっていゝ位で、口碑にもあまり傳へられて居ません。

 古い所では川柳にあらはれた

 西行と狩人一つ店に住み     寳暦

 狸と今戸新造が土で出来     明和

 西行や鬼を今戸で焼て喰ひ    文政

 西行と五重の塔をほしかため   天明

 これ等の句に依っても、今から二百年に近い時代に於て、相當に今戸人形と云ふ物が名乗りを掲げて居た事がわかります。殊に寳暦の句には、今戸の名が出て居ないのと、明和の句に今戸新造と云ふ言葉の出てゐる事です。この言葉は、後に今戸焼の姐さんの様だと云ふ言葉に成って、今日までも或る一部に使はれてゐる言葉の語源と思はれます。天明の句にも今戸の名は出て居ませんが、其後の川柳には今戸の地名が今戸人形の代名詞となって居ます。西鶴に今戸人形のことが出てゐると云ふ事ですが、私は未だ調べませんが、出てゐるとすれば、元禄まで遡ぼる事になります。とに角、永い時代に多少の盛衰は有ったとしても、その永い年代小供を引付ける何物かゞ有ったのでせう。玩具にも親が買って與える物と、小供自身が買ふ物と二種ありますが今戸人形は後者の方でそれ程安い物で有ったのでせう。古い物が今日殘ってゐないと云ふ原因は破壊されやすいのと、一つには、是れを破壊す事に依って疳の蟲の根を断つと云ふ俗信から親達もそれを止めなかったと云ふことです。其當時としては、保存や出典など問題に仕てゐなかったのでせう。系統は伏見と云ふ事は確實の様ですが、獨立した玩具専門の家が有ったかどうかと云ふことは、疑問です。専門の土器類製造の傍ら、作られたといふ事が實際の様です。その永い命脈を保ったことに就ては、種々の原因も有りますが、主として時代の動きに依って製作品に變化が有った事です。この目先の變った作品に、小供達は引付けられたのでせう。「風流今戸人形」と云ふ略畫の本に依っても、時代に風俗を採り入れたと云ふ事を好く知る事が出来ます。明治の初期には、南京さんや西洋婦人なども出来てゐます。とに角一口に一文人形と云はれた位ですから大きな物も無かった様です。玩具では有りませんが、猫の火入などが大きな方です。これから變化した一種の實用品です。それから今戸人形と云ふと、今戸ばかりで賣って居た様に思ふ人もある様ですが、江戸市中の玩具屋を始め、俗に番太と稱する店で駄菓子ともに賣って居たので、今戸では卸賣が主だったのです。

 今戸焼が如何に盛んであったかと云ふ事は、今戸八幡宮に現在して居る、社前の狆狛一對に彫まれてある文字に依って知る事が出来ます。それには寳暦二壬申年奉納、當町火鉢屋中、向(ママ)井善次郎外十五名、土器屋中、岩本多郎吉外二名、焙烙屋中、中島伊之吉外十五名、世話人、金澤喜太郎外五名、總計四十一名の連盟が彫付けられて有る。こゝには略して外幾名と記しましたが、四十一人の姓名が一人一人印されて居るのです。此内現在殘って居るのは金澤と白井鈴木だけですが、鈴木は臺石には二名有るので其何れかは不明です。殊に屋號を用ひず、四十一名がことごとく姓名を名乗って居る點です。これ等も研究に價するものと考へられます。尤寳暦二年奉納、文化五年再建と記して有りますが、尾張屋の家系に依って先祖を喜太郎と云ひ松五郎、竹次郎、政五郎、春吉となって居ます。現在は春吉翁の代で今戸に殘された唯一の玩具製造人です。

 幕末から明治にかけて多少盛衰が有った様ですが、それでも十年頃までは盛んだったので、その後ゼンマイ物や、ブリキ物の出現と共に、有毒な塗料が用ひられて居る事などが原因して二十年頃には全くの廢滅の形で。四十年に至って、いよいよ製造中止の悲運に到達して明治時代は過ぎたのです。

 現在の今戸泥人形は凡五十種位あります。種類は別表の通りですが、これは皆大正十五年以後復興再製されたもので、それも金澤春吉一軒きりです。現在今戸には八基の竃がありますが、人形を燒く竃は金澤一軒で他は別表の如く實用品のみです。此外鐵砲狐を作る加野トクといふ、文久元年生れの今年七十三才のお婆さんが今戸三ノ十二に居る同じく狐を作る鈴木タツさんと云ふ若いおかみさん。此外には玩具を作る一人も居ないのです。それでも狐だけは、流石に信仰物だけに中止した事は無く今日に至ったので、今でも二軒で一ヶ月平均二千五百位は作られる、おとく婆さん一日四十個は作らないと云って居る。此年で型から仕上げまで一人でぽつぽつこしらえて居る。此人達の家も昔は人形を作って居たのです。寒紅の牛や玉姫稲荷の入口狐は鈴木で作って居る。土は四ツ木、又は龜有方面から買ふので、現在では十貫目六十錢位、燃料は松槇を用ひる事は云ふまでもないが、おとく婆さんは七輪釜で炭で燒て居る。明治の末期におみよさんと居ふ狐の型抜の達者な女があって、一日に千個以上も型を抜いたと云ふので仇名を馬車馬と云はれた當時の話から、現在の製作數は百分の一だと云って居る。狐は別として信仰方面の物に柳森の親子狸天神様、浅草観音の土鳩、月見兎、佃の祭に賣られた獅子頭、變り狐では玉姫稲荷の口入狐、黒助稲荷の羽織狐等がある。鐵砲狐の販路は赤坂の豊川稲荷、王子の稲荷が主で、型は昔は土型を用ひたが今は石膏型ばかりです。

 現在の今戸人形は大凡こんな状態ですが、尾張屋の金澤春吉老人も六十餘歳ですから、後繼者の無い今戸人形の将来は心細い次第であります。話が前後しましたが、一時中絶された今戸人形が如何なる動機に依って、復活再興せられたかに就て申上度いと思ひます。

 大正の末、今戸に人形を作って居る家が有ると云ふ事を聞いた銀座の岩松君は、話のみに聞て居た江戸時代の今戸人形が懐かしいあまり、或日今戸を訪づれた。ようやく尋ね當たのが現在の金澤春吉老人だったのです。其頃店に有ったのは福助さんと達磨さん位で外には玩具は無かった相です。だんだん話して居る中に、型は地に埋めて置た事や、震災にも型は堀出さなかったが完全に残されて居るだろう等の話を聞かされた。其後度々老人を訪ねて人形の復興を進めました。其頃春吉老人の話に明治四十年頃迄は千葉方面八日市、多古等へ荷を送って居た事を聞いたので、岩松君わざわざ多古まで出かけて、土地の白井商店と云ふ家で天神様、土雛、姐さまや泥面其他の今戸玩具を手に入る事が出来たのです。この熱心さに動かされて型の發掘となり、其後一年の後に出来た物が今日の今戸人形復興の最初の製作品と云ふ物なのです。當時關君も盡力されて第一回頒布を催しました。當時は三十餘種で其後實物の發見された物には原型作りなどして今日の五十種程に成ったので、これと前後して趣味家の後援により、完全に復興された次第なのです。一部の人は春吉老人が自分が繪がかける事が災となって、博多人形式に成ったと難ずる様ですが、春吉老人としても本格的の物を作り度い気持は持って居るのでせうが、時代の變化も考えてやらなければなりますまい。只型を毀さずに地下に保存して置た事と長生をしてゐた事が何より幸福で有ったとせねばなりますまい。

 現存せる竃

 井上兼太郎      一、七輪の枠鉢

 橋本元太郎      一、藥風呂(ママ)

 白井善次郎      一、藥風呂(ママ)鍋類其他

 白井幸太郎      一、茶風呂(ママ)

 橋本柳太郎      一、黒物

 藤間  政男     一、庭物ー鉢

 白井  半七     一、使用せず

 金澤  春吉     一、人形

 

今戸人形の現存せる物

 口入れ狐ー二種     狐  馬     猫  抱

 黒助狐           狐の子守    小姓馬

 下總雛大小二種     大縞小僧    獅子持

 一文雛内裡様二種    角  力     狆

 一文五人噺(ママ)    獅子頭     羽衣狆

 馬              かしろ(ママ)  餅つき兎

 犬              おいらん     月見兎

 狐けん           みこし      煙草のみ達磨

 虚無僧           親子狸     客寄せ狸

 加藤の虎         羽根持娘    おけいこ

 加藤の馬         春 駒      鐵砲狐

 丸〆猫ー三種      柴又猿      異 人

 山王猿          ぶんぶん    天神様ー三種

 龜持ち小僧       子抱ー大小   鯛持ち小僧

 三寳狐          河童        官 女

 火入猫          花持女      火入おかめ

 布袋

 

P1011087本文は以上です。なるべく原文とおりの仮名づかいで漢字もそのままに表記したかったのですが一部変換のやり方がわからず、仕方なしになっている部分もありますが悪しからず。

それにしても当時の愛好家の熱意によって調べたり記述された内容が今日このように読むことのできる有り難さ。当時の今戸町、特に今戸焼や今戸人形の状況について知っている方もほとんどいらっしゃらないのではないでしょうか。その点でこのように文字化されて残っていることが貴重だと思います。

 読んでみて本文と別表との内容に矛盾があるなどしますが、それでも当時の状況を記述してあるのはすごいと思います。

 今戸八幡と記されているのは現在の今戸神社。隣地亀岡町の白山神社を合祀されたのが昭和12年のことなので、昭和8年当時はまだ八幡さまでした。縁結び云々の材料は当時まだ存在しなかったわけで、最近のような大ブレークは戦後もかなり末、バブル期頃火がつけられたものではいかと考えられます。

 当時今戸町内には8基の焼成竃が残っていた。(白井半七家は震災で被災後、関西の宝塚に移って製作したと言われているので、「現存せる竃」の項にある「一、使用せず」という表記は既に宝塚に移っていたという解釈なんでしょうか?今戸で製作した最後の半七は7代目で、昭和8年に亡くなっていたように読んだように思います。

白井家が3軒表記されていますが、、、

白井善次郎が本家で戦災後には葛飾へ移住しました。白井半七家は善次郎家からの分家。白井幸太郎家は現在今戸で製作を続けていらっしゃる白井さんの御先祖で江戸末に善次郎家から分家しました。そのため今戸神社に残る宝暦二年の狛犬台座には刻まれていません。白井本家善次郎家の「藥風呂」とあるのは「釉をかけて燒く製品や土風炉などを指しているのでしょう。白井幸太郎家の「茶風呂」は茶道具や土風炉などの製品という意味でしょう。当時昭和8年にはまだ白井家本来の家業である実用品や茶道具製造を行っており、戦後の招き猫のような土の人形はやっていなかったはずです。「黒物」とは瓦質に燻した製品や黒磨きなどを指すのでしょうか?

当時焼成窯をもって人形を作っていたのは尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のみとありますが、七輪で炭で焼いていた加野トクさんと鈴木タツさんの二人を加えても、昭和8年当時土人形を今戸町内で焼いていた作者は3人しかいなかったのですね。しかも加野トクさんと鈴木タツさんについてはその後の消息については全くわからずにいます。何か記録されて文献などあったらお教え願いたいものです。いずれにしても、尾張屋・金澤春吉翁の後に江戸明治と伝承された人形作りに携わる人がなく、昭和19年で江戸伝来の今戸人形は廃絶してしまいました。

P1011088_7P1011089_5

 

 

 

 

 

 

ご参考までに

旧今戸八幡の宝暦二年建立の狛犬(阿型)銘文についてはこちら→

旧今戸八幡の宝暦二年建立の狛犬(云型)銘文についてはこちら→

当時の今戸人形作者3人のうち

加野トク(柾木稲荷狐?他)についての記事はこちら→

 

鈴木タツ(口入稲荷狐)についての記事はこちら→

 

鈴木タツ(寒紅の丑)についての記事はこちら→

 

鈴木タツ(口入稲荷のおはらごもり)についての記事はこちら→

 

尾張屋・金澤春吉翁については「今戸人形」のカテゴリーで複数とりあげています。→

 

 

 

 

 

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今戸焼?布袋様の火入れ(手あぶり)

2012-11-09 22:35:13 | 今戸焼(浅草 隅田川)

P1010970_2つい先日終えたアパートの引渡しの際ようよう自宅へ運び出した火入れです。とにかく大きくて肉厚で重いものです。持ち上げるだけでも結構な重量です。

この火入れについては今戸焼なのかな?と思って以前入手したものではありますが、未だ確証もなく何とも言えないものなのですが、今戸焼のカテゴリーの記事として取り上げてみたいと思います。ご覧くださっている方々のどなたかご存知のことがあったらお教えいただきたいと思います。

写真でははっきり見えませんが、素焼きの土の色は今戸といってもよいくらい似ています。入手した折には中に灰が入っていました。そのためか表面が灰で汚れて白っぽく見えます。

胴体を前後2枚の割型から抜き出し抱えている鉢の口縁部分をくり抜いています。頭は別の2枚の割型から、それと両耳もそれぞれ別の2枚の割型から抜き出してそれぞれ接合してあります。

この手あぶりは茨城県内の旧家から出てきたものだそうで、土の色とともに「今戸では?」と思ってしまう拠り所なのですが、都内の近世遺跡から同様のものが出土しているというのを聞いたことも観たこともないのです。或いは伏見人形にこうした型があったのかどうか?

昨日の朝、偶々観ていたNHKの朝のワイドショーで愛知県長浜市にある三州瓦の製作所からの中継で鬼瓦を作っている場面が流れました。そしてそこで作られている製品の数々が画面に現れた中に、この火入れとほぼ同じ構図のものがありました。(もっと小さなもので、瓦質のものでした。)

そうするとこの手あぶりと共通するものが三州にあるとして、今のところ三州との関わりが考えられるということになりますが、今戸焼の発祥についての話の中には三州が技術の先進地であったようなこともあったように聞いていますし、、。しかしこのタイプの布袋様、他でも作られていたのかどうか、、?何かしらご存知の方いらっしゃいましたらお教えください。

P1010971

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今戸焼(50)「暫」の菓子器(白井半七 作)

2012-11-08 17:50:03 | 今戸焼(浅草 隅田川)

P1010968高台の横に「寿み田川焼 半七」の陶印があり、関東大震災による被災の後、関西へ移住した7代目白井半七(今戸で制作した最後の半七)の作だろうと思われます。べんがら(酸化鉄)のようなもので素焼きを化粧をし、全体を柿色にしてから白化粧土でしょうか三升の紋を置いて上から有鉛の透明釉をかけて低温焼成したものでしょうか?ところどころ銀化していて、不思議な変化があっておもしろいと思います。共箱の蓋にも器の底にも「暫」とあります。歌舞伎十八番のひとつ「暫」の主人公鎌倉権五郎の姿に見立てたもののようです。

お茶のことを全然わからないでこうしたものを眺めているというのもおかしな話ですが、器を何かに見立てる趣向というのはあるにしても、暫というのが不思議です。図らずも江戸歌舞伎の随市川の暫の見立てを今戸焼の白井半七が作ったというところに出来すぎるくらいにできた江戸つながりといったものを感じるのですが如何でしょうか?

菓子器ですから当然お茶器よりもふたまわりくらい大きなもので、「暫」の劇中での「あ~りゃ」の化粧声に続いての「でーっけえ」と決まる元禄見得をイメージしたものなのでしょうか?

当時の芝居関係の人による注文で制作され、配り物とされたものか、芝居好きの頒布会のようなところからの注文によるものなのか皆目わかりません。

P1010969

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今戸焼(49) おかめの火入れ③(瓦質)

2012-10-23 22:45:48 | 今戸焼(浅草 隅田川)

P1010932_2昔の今戸焼や今戸焼の土人形を広く観ていただいて、地場産業として盛んだった頃の今戸焼の製品についてこういうものがあった、とあくまで氷山の一角ですが知ることを共有してもらえたらと思ってのカテゴリーなのですが、春以来日々の話などに偏っていてこうしてご紹介するもの久しぶりです。

画像は瓦質のおかめの火入れです。

以前このカテゴリーで土人形式の素焼きに胡粉地塗り、顔料で彩色したおかめの火入れ2点をご紹介していますが、今回のものは瓦質なので真っ黒いだけです。

こういう仕上げは今戸焼といっても土人形などを作った人々とは別の瓦屋さんとか黒物屋さんといった職分の人たちの手で作られたものなのだと思います。

しかし画像を観ていただくと、型としては以前ご紹介した土人形式の火入れ①ともとは共通するモデリングなのではないかと思うのです。画像のものは地面に接する辺りがいくらか寸詰りになっていてその分顔と胴との割合が半々くらいに見えますが、型としてはもとはもっと裾の部分が長い元型から型どりする際に裾を詰めたのではないかと考えれるような気がするのですがどうでしょうか?画像では真底を撮っていないのですが、この火入れの底の処理は土人形式の火入れとは異なっています。土人形式のものだと多くは底はあげ底に作られていますが、画像のものは下から3枚目のたたら(土板)をただ平に当てただけです。画像正面の底に接する部分から上に底に当てた「たたらの厚み」が見えます。使い勝手とか機能性で考えるならば、底があげ底になっていたほうが、火入れの中に入っている火種からの熱の伝わりが少なくてよいのではないかと思うのですが、これは真っ平らです。

今戸町内または川上の隣町である橋場あたりで瓦が焼かれていたというのは明治も早い時期で明治終わりには瓦を焼く家はいなかったとか。しかし瓦を焼く家はもっと川上の荒川区の小台とか宮城、北区の豊島あたりにもっとあとまで残っていたと聞きますし、川向こうの墨田区、さらに東の葛飾区足立区あたりには昭和はじめくらいまではいたのではないでしょうか?

また黒物屋さんといって火消し壷とか手あぶり、火鉢、土風炉などを作る家は昭和のはじめの記録までは今戸町内にいたようですし、元今戸にいて代々東に移った人々もあったそうです。明治のはじめに今戸に橋本3兄弟という黒磨きの名人と呼ばれた兄弟の職人さんがいたという話はよく目にしたり聞いたりしました。

ちょっとよくわからないのですが、瓦焼きの場合、「松の枝を焼成の途中で炉に投げ込んで密封しておくと煤けて瓦になる」という話を読んだり聞いたりしたことがある一方、「黒磨き」や「雲華」仕上げにする場合、「素焼きの生地を磨いてから黒鉛の粉を溶いて塗り再び焼いてから磨く」のだと読んだり聞いたりしてもいるのですが、画像のような場合は松の枝なのでしょうか?それとも黒鉛なんでしょうか?わかる方にお教えいただきたいです。20年くらい前に今戸で燃料品屋さんをしていた明治生まれのおじいさんがいらっしゃって、昔のことをたくさん聞かせてくれたのを思いだします。その中で松の枝は船で茨城県の岩井辺りから運ばれてきて窯元に収められていたというのです。船は大きな帆をもった船だったとか。

おかめの火入れ①の画像はこちら→

おかめの火入れ②の画像はこちら→

 

P1010933

 

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今戸焼(48)「隅田川の灰器」(白井善次郎 作)

2012-04-02 01:44:49 | 今戸焼(浅草 隅田川)

P1010526桜は開花したのでしょうか?

今年は例年に比べて遅いようですね。卒業式向けには遅くて残念だったかと思いますが、入学式向けにはラッキーかもしれません。

桜ということで思い出しとりあげます。茶道については皆目わからないので、猫に小判かもしれません。箱に「隅田川灰器」と書いてあります。

白井家の本家「白井善次郎家」で作られたものです。底に「白井善入」という陶印があります。何代目の善次郎さんの作でしょうか?

器の側面に桜の花びらが陰刻され散りばめてあります。「桜=隅田川」ということなのでしょうか?そういえば、これまでこの「今戸焼」のカテゴリーでとりあげた器物のいくつかにも桜の陰刻のあるものがありました。特に橋本三治郎作の炉台には桜の蕾に「隅田川」という文字も陰刻されていたので、やっぱり「桜=隅田川」という趣向なのか?もちろん今戸の川向かいの墨堤の桜は昔から有名ですし、「長命寺の桜餅」という名物まであります。浅草側の岸辺も今では隅田公園の桜で有名ですし、言問橋の袂には瀧連太郎の「花」(春のうららの隅田川♪)の碑もありますね。

今から20年くらい前に葛飾区の宝町にいらした「善次郎家」の白井和夫さんを訪ねて、焼成窯や仕事場を見学させていただいたことがありました。同じく葛飾区内青砥の内山英良さんのお宅にもお邪魔したのですが、どちらをお訪ねした時も感動しました。趣味品とか民芸品という看板ではなく、ごく普通に植木鉢とか焙烙だとかを作っていらっしゃるんです。「ああこれが今戸焼の本来の姿なんだ、、、、、。」と。内山さんのお宅の敷地には粘土の山があって、近くで採取された土なんです。「これは粘い土」「あっちはさくい(粗い)土」とお聞きして、ふたつを混ぜ合わせて製品に合う土にブレンドするそうでした。

白井和夫さんの家(善次郎家)は東京大空襲のあと、葛飾に移られて家業を続けておいでだったそうで、もとは今戸にいらした訳です。今戸神社の狛犬の基壇の連名に刻まれている「白井善次郎」家なんです。白井和夫さんから7代前(8代前だったか?)に善次郎家から分家したのが「白井半七家」で、同じく狛犬の基壇に名前が刻まれています。知名度としては「半七」のほうが知られているので「半七家」が本家のように書かれているものもありますが、「善次郎家」が本家で、「半七家」は分家。それと今、今戸にいらっしゃる白井さんは幕末頃、「善次郎家」から「清二郎」という人が分家してそこから続いているそうです。「半七家」は七代目の時、関東大震災で罹災されたのをきっかけに小林一三ら関西のお茶人に招かれて、兵庫県の宝塚に移住され、あちらで窯を築いたそうですが、それ以降も代々の当主が変わる度に本家の「善次郎家」に挨拶に上京されるのが慣わしだったそうです。

お邪魔した当時、和夫さんから色々なお話をお聞きしたものの、こちらが理解するだけの予習をしていなかったので、今になって本当にもったいないことをしてしまったと後悔しています。「みがき」のことや昔の今戸のことなど、、、。有名な言問団子の都鳥の皿も善次郎家で焼いて納めていた話、隅田川に架かる「吾妻橋」の土台の煉瓦や丹那トンネルの煉瓦作りの技術指導にも和夫さんのお爺さんの善次郎さんが関わっていたとか、、。それと今戸焼の土人形の尾張屋さんの話、「猫屋」さんの話も出てきたので、最近尾張屋さんの金澤家からお聞きした話と繋がってくるのです。

画像の灰器に話に戻ると、和夫さんのお話で、白井家の楽焼では釉薬をかけてから砂を振るとか(或いはその反対?)聞いた憶えがあるのですが、画像の口縁の辺りに砂っぽいものが見えるのが、このことなのか?と思っています。「半七家」の作の香合でも砂っぽいものがついているのを見た憶えがあるので、同じことなのでしょうか?できることならば、今こうした現物を持って、和夫さんに質問できたらよかったと思うばかりです。

「桜=隅田川」という趣向なのかわかりませんが桜の花の陰刻のある今戸焼の器物について他にも記事にとりあげていますのでお時間ありましたらご覧ください。

炉台(橋本三治郎作)→

紅塗りの手あぶり(白井半七作)→

紅塗りの手あぶり(橋本三治郎作)→

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今戸焼(47) 灰皿 (大平造)

2011-11-04 02:02:55 | 今戸焼(浅草 隅田川)

P1010419最近明治頃の日本からの輸出陶磁器を中心に当時英文で書かれた日本の陶磁器についての本をとりあげたブログを知りました。その中で今戸焼についての説明とその訳をとりあげられていて、今戸焼の中に「大理石のような」装飾で成功しているといった表記があるのが面白いと思いました。「大理石のような」装飾とある表現に当たるものは、これまでに橋本三治郎作の手あぶりや炉台などがそれに当たるように思いますが画像の灰皿もまたそれらしき感じではないでしょうか?

この灰皿は今日見慣れた灰皿のように煙草の受けがあります。 「大平造」という陶印があります。

昭和9年・大阪山中商会発行の「日本陶磁器名工略伝」という書物に「◎大平(たいへい) 明治二十三年頃、無釉の火鉢類を製し、下掲の銘を款したるものを出せり。作は巧妙にして、素人の域を脱せり。或は曰ふ、今戸白井系の人ならんかと。」
という記述があり、また他の書物でも同様な記述が見られるので、この灰皿もまた上記「大平造」のものだと思います。「今戸白井系の人ならんかと」とありますが、屋号のみで実際の作者の表記はありません。

葛飾区青砥で今でも素焼きの,植木鉢を作っていらっしゃる内山英良さん(今戸焼はまだ葛飾区内でも健在なのです。)が所蔵されていた昭和3年発行の「東京今戸焼同業組合」による「仲買渡シ相場表」という印刷物の中で製品の種類と価格とともに組合員34名の氏名と屋号が記されている中に「大平事 橋本龍太郎」という名前が記されています。

また昭和8年発行の「郷土風景」という雑誌の「第二玩具号」に掲載されている山崎荻風という人による「今戸人形」という記事の中に「現存せる窯」として8人の今戸焼窯元の名前が記されている中に「橋本柳太郎  一、黒物」とあります。

「橋本龍太郎」「橋本柳太郎」は同一人物なのではないか?そうであれば画像の灰皿も黒物のひとつであり、「太平」とも重なり合うのではないかと思うのですが推測の域を出ません。

今戸神社の狛犬の台座には「橋本姓」の名前が複数あり、この「橋本龍太郎」という人は橋本姓のどの人の流れにあった人なのだろうと気になっています。

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