スパシーバ  プーチン

魅力あるプーチン
偽ユダヤによって捏造されたプーチン像と歴史をくずす

「闇の正体は偽ユダヤ」海外記事の移行。 

戦争と平和 / トルストイ

2016-11-08 13:27:06 | 感じるロシア


11.8 プーチン大統領、英国による『戦争と平和』映像化作品を気に入る(写真)


プーチン大統領は、トルストイの小説『戦争と平和』を英国が映像化した作品を気に入ったと述べた。「ガゼータ・ル」の記者が報じた。


ペテルブルグで行われている地域、地元メディアによる第3回メディアフォーラム「真実と正義」で、プーチン大統領はそう述べた。

また、プーチン大統領は、自身は良い映画を好むと付け加えた。プーチン大統領は、ロシアには良質の愛国的な映画、ソ連映画が多くあり、また、ロシアでは古典作品が上手に映像化されていると指摘した。 セルゲイ・ボンダルチュク監督の『戦争と平和』は傑作だとプーチン大統領は述べた。 「また、英国の映画『戦争と平和』が出た。私は気に入った」とプーチン大統領は述べた。 プーチン大統領ら、映画で大事なのは、良い始まりと愛だと指摘した。




◎ ソチ五輪開会式でボリショイバレエのプリマ、スベトラーナ・ザハロワが
『戦争と平和』のヒロイン、ナターシャ・ロストワ役を踊り、30億人が彼女の踊りを見た Svetlana Zakharova Ballet Opening Ceremony Sochi 2014







https://www.youtube.com/watch?v=5P9PmupSd4o






レフ・ニコラエヴィッチ・トルストイ









【Lev Nikolayevich Tolstoi 1828ー1910】



生に酔いしれている間だけは生きても生けようが、
さめてみれば、これらの一切がごまかしであり、
それも愚かしいごまかしであることに
気づかぬわけにはいかないはずだ



1910年秋、レフ・ニコラエヴィッチ・トルストイは、住み慣れた我が家を後にしました。

妻の追跡に怯え、衰えた足をよろめかせながら-。ロシアの生んだ不世出の大文豪トルストイ、その彼の最期がこれほどまでに孤独なものであったなどと、いったい誰が想像したでしょうか?

彼は、揺るぎない良心の声に導かれ、落ち着く所も定まらぬまま旅先の駅で倒れ、その生涯を閉じたのでした。82歳でした。

ビューティフルワールドは、19世紀から20世紀にかけてのロシアの大動乱時期を生き、その生涯をキリスト教的隣人愛の実践に捧げたロシア文学界の巨峰レフ・ニコラエヴィッチ・トルストイの世界に皆さまをご案内致します。



人間の生き方に変化が生じるのは当然のことである。
だがしかし、人間はその変化をあくまでも
外的条件の所産にすることなく
霊の所産としなければならない。




◇ 幼年時代 (1828-1842)

1828年8月28日、由緒あるロシアの名門伯爵家の四男として生まれました。

この幼児体験は、彼の人間形成の基盤にあって、良くも悪しくも揺らぐことはなかったようです。30代で自殺さえも考えた苦悩の中にあって、それをはねのける力となったのも明るい幼児期の思い出でした。改めて振り返ってみると、14、5歳まで、つまりカザン大学入学までは、まずまず安穏無事の年月を送ったようです:




幼年時代に人間が持っている清らかさ
邪心のなさ、愛の欲求、信仰の力
こうしたものは、いつの日にかまたよみがえる時が
あるものだろうか?
この上なく素晴らしい二つの美徳
- 無邪気な快活さと無限の愛の欲求 -
だけが人間の原動力であったこの時期に
まさる時期が果たしてあるものだろうか?
* * *
子供はおとなよりも聡明である。
子供は、人間に地位や身分のあることを理解しない。
子供は、自分の内部に住んでいる霊と同じ霊が
どの人間の内部にも住んでいることを
心から感じ取るのである。




この時期、この世で味わった最初のショックは母の死であり、その七年後の父の死でした。
また、青年期には二人の兄の死を迎え、結婚後も我が子や肉親の死にしばしば見舞われており、このことは死に関する省察によってロシア実存主義の先駆者とされる彼に、大きな影響を与えたようです。

「死というものがなかったら、哲学的思索をすることは困難である」とはショーペンハウアーの言葉ですが、トルストイの生涯の歩みのなかに、この言葉の正しさを見ることができます。




◇ 青春時代 (1842-1862)

小説を書き始めたのは23歳の時です。軍務の余暇に書き上げた『幼年時代』を当時の一流雑誌「同時代人」に送ったところ、同誌の主催編集者に認められ、“エル. エヌ”の匿名で発表されるや、全ロシアの読者を魅了したのでした。

1853年にクリミア戦争が始まると、トルストイは、士官でもあり最も敬愛していた長兄の勧めもあってこの戦いに参加します。そして54年から55年にかけて、セヴァストポーリ包囲戦にて籠城の苦しみと前線の苦闘をつぶさに経験し、戦争とは何か、死とは何か、民衆の力・愛国心とは何かについて深く考えました。

後の『戦争と平和』の作者トルストイ、晩年の不戦論者トルストイの思想的基盤が培われた二年間でした:




個人の幸福の追求が人生であるという観点に立って
この世界を見たとき、
人間は、互いに滅ぼし合う人間同士の
非理性的闘争ばかりをこの世界に見てきた。
しかしながら人間は、他人の幸福を願うことが
人生であると認めるならば
まったく別のものをこの世界に見ることができる。




これら戦地での彼の体験は、三編から成る『セヴァストポーリ物語』となって実を結びます。『セヴァストポーリ物語』には、戦争に対するトルストイの考え方がはっきりと示されています。

そこでは、戦場が醜さと英雄精神との比類のない混乱の場所として、また、神のごとき視点から見れば、人間が最善のものと最悪のものとを露呈する、特殊な空間として描かれているという点に特徴があります。これらの作品も熱狂的に読まれ、ツルゲーネフら文壇にも注目されるようになりました。



それから数年後、彼は初めてのヨーロッパ旅行に出ます。

そしてパリでギロチンによる公開処刑を見て衝撃を受け、移動先のスイスでは着飾った観光客が大道芸人を侮辱したのに憤慨し、結局、「先進国民」への失望を抱いて帰国しました。

そこで彼は、教育を通じてロシア独自の進歩の道を実現しようと志ざし、20代の初めに手をつけた農民の子どものための学校に本腰を入れます。

しかし数年後に再度外遊をし、教育についての更なる研鑽を積もうとするなかで次第に官憲の疑惑と干渉を招き、結局、彼の計画は挫折してしまうのでした。





◇ 円熟期 (1862-1880)

62年初秋、トルストイはモスクワで出会った宮廷医の娘ソフィアと、出会いから三週間後に結婚をします。ソフィアは美しく、聡明で、意志の強い女性でした。二人にとって、最初の10年は幸せの絶頂でした。文芸活動の面でも、私生活の面でも、彼の生涯で最も豊饒で充実した時期であったといえます。実にトルストイ34歳、ソフィア18歳の時のことでした:



『戦争と平和』 の執筆は、こうして開始されました。

この小説は、念願の「家庭」を持ったトルストイが、腰を据えて書き上げた最初の長編小説です。

世界の文学史上にひとつの頂点を画した『戦争と平和』は、1812年のナポレオン軍によるロシア侵攻を中心に、その前後十数年のロシア社会を、戦争と平和の両面から壮大な規模で描き出した歴史大作です。

莫大な遺産を相続しながらも満たされず、精神的な探索を続ける貴族ピエール・ベズーホフ、戦場に倒れる高潔な貴族アンドレイ・ボルコンスキー、可憐で情熱的なヒロイン、ナターシャ・ロストワなどの運命が語られるのと平行して、

戦争の模様がつぶさに描写され、そこに個人の意志を超えて動いてゆく歴史の流れをめぐるトルストイの哲学的な考察が織り込まれています。

この作品は、型破りの構成と巨大な規模で際立った19世紀のロシア・リアリズムを代表する一遍であるとともに、世界を代表する作品です。



『戦争と平和』が書かれた時点でのトルストイの歴史観とは、「人間には歴史を選択する自由がない」というものです。

人間の活動には、個人の意志に依存するものとそうでないものの二つがあり、歴史の過程には最小限の自由しかない。

「偉人」と歴史家が呼ぶ指導者の活動も、他の無数の人民の活動によって成り立っており、既に決定されている。つまり、「自然の法則」が人間生活を規定しているということになります:




この宇宙の生活は何者かの意志によって
行われている
-何者かが宇宙全体のこの生活と、
われわれ自身の生活とによって、
なにか知れない自分の仕事を行っているのである。
この意志がなにを意味するかを悟りたいという
希望を抱くならば、
まずなにをおいてもわれわれは、
その意志の命令に服従し、
その意志がわれわれに望んでいることを実行しなければならない。



ちなみに、トルストイがこの作品を書くために読んだ本だけで、図書館が建つと言われています。

しかしながら、こうした絶頂期に早くも将来の不吉な前兆が現れていました。

幸福の真只中の1869年、トルストイはある深い神秘的な創傷を受けました。地所を買うためにベンザ県に旅行した際に、アルザマスのホテルで恐怖と憂愁を体験したのです。

悪夢に襲われて目を覚ました。彼は、自分が死につつあるのを感じ、兄のニコライが死んだときと同じように、改めて自分が死すべき存在であることを痛感しました:

トルストイはうつろいやすい現世の幸福の底に潜む普遍的なるもの永遠なるものを探し当てようとして苦悶し始めます。




◇ 新たなる精神生活を求めて (1880-1910)

『アンナ・カレーニナ』を完結した当時のトルストイは、著作権による印税で繁栄を続け、大富豪になっていました。しかしこのような物質的充足とは裏腹に、彼は「哲学への無関心と、宗教に救済の可能性を見る状態」(知人への手紙)になり、『懺悔』(1882)等をかいて、己を捨てて神と人類に仕える決意をします。



人間が立派に生きるためには、
自分のなすべきこと、してはならないことを
知らなければならない。
これを知るためには信仰が必要である。
信仰-それは人間とはなにか、
人間はなんのためにこの世に生きているかを、
知ることである。




人間は、真の人間になるためには、
自分の内部に神の存在を意識しなければならない。




キリストの教えを実行するためなら、
どのような辛い目にあわされても、
どのように早死しようとも、私はこわくない。




真実の生活に終始する人間は、
他人の賞賛を必要としない。




◇ トルストイの死

トルストイの生涯は波乱に満ちていますが、とりわけ、その死は非常にドラマティックです。

82歳という高齢で、医師を伴い家出を決行した彼は、妹のマリヤが尼僧として余生を送っているシャマルディノへ向かいます。

なぜならば、「持てるものを全て貧しい人に与えよ」というイエス様の教えを実行しようとして、家庭の利益を護ろうとするソフィア夫人と長年対立し、家にいるのが息苦しくなっていたからです。

トルストイはそこで小さな家を借りて住んでもよいと考えましたが、三女のアレクサンドラから、妻のソフィアが絶望のあまり池に身を投げて自殺をはかり、あとを追いかけてくるかもしれないと知らされると、慌ただしくその場を後にしました。

そして、当てもなく三等列車に乗り込むのですが、途中ひどい寒気に襲われ、アスターポヴォという寒村の駅で、肺炎のため11月7日に不帰の人となりました:



そのころ、新聞は大々的にトルストイの家出を報じ、アスターポヴォ駅には多数の報道陣が詰めかけました。妻のソフィアと子供たちは特別列車を仕立てて駆け付けましたが、病床のトルストイに面会できたのは子供たちだけで、ソフィアは会うことを許されず、汽車のなかで待っていなければなりませんでした。

トルストイがうわ言で「逃げるんだ、追いかけてくる」などと口走り、妻に会うことを恐れていたためです。その妻が夫に会うことを許されたのは、意識の全く失われた臨終の床でした:



トルストイは豪放磊落 ごうほうらいらくな性格ではありません。むしろ内向的で気弱なタイプです。しかし彼が偉大なのは、自分の弱点を凝視し、それからの脱却を試みようとして四苦八苦する精神の苦悶にあります。

その結果、百の言葉より一の実践を尊ぶという境地に達しました。自らの信仰のためロシア正教を離反し、秘密警察の執拗なる追跡をかいくぐりながら自らの信条を流布するということは、当時のロシア社会では私たちが想像する以上に重大かつ困難、そして勇気のいることなのです。



「人間は平等である」「自分を愛するように神と隣人を愛せ」という信仰を根底に持ったトルストイの思想、行動は、心ある人々に深い共感を与えました。

いわゆるトルストイ主義と呼ばれるその思想に共鳴し、彼と関わりをもった人はロシア国内だけに留まらず、広く世界に及びます。

日本人では、評論家の徳富蘇峰が1896年に、弟の小説家徳富蘆花が1906年にそれぞれトルストイの故郷を訪れています。敬虔なクリスチャンでロシア研究家の小西増太郎は、トルストイと共同で、老子の『道徳経』の訳を原典からおこしました。

また、インド独立の父、マハトマ・ガンジーとの間にも書簡が交わされました。ガンジーが血を流すことなく革命を成し遂げたいという意志を貫いたのは、新約聖書マタイ伝の「悪に逆らうことなかれ」という言葉のなかに、自らの道徳体系を見いだしたトルストイの理想が大きく影響していたといえるでしょう:



82歳という高齢で、家出をしなければならなかったトルストイの純粋さに打たれるのです。


それはまた、トルストイが生きた時代のロシアと本質的には大差ない現代の日本に生きている私たちが、トルストイの思想に突き動かされる可能性を、あまりにも多く持ち合わせているためかもしれません:




http://www.b-family.org/public_html/omoi/011/torstoidoc.htm




☆ 19世紀の ドストエフスキーを読んでいて、これは、今の日本 だと 感じています。

「なぜ こんな国なんだ」という問いかけや不満、自分の国を その 道徳感ゆえに愛せない ・・・

ロシアにも つい最近まで そんな時代があったのだと 感じます。


ある勢力が 自分の国に入り込んでいることが 簡単な原因だとは はっきりとは分からない。


ドストエフスキーの作品には、ユダヤに対する 嘲笑的な視点、イエズス会に対する洞察と嫌悪がはっきりと書かれているのを 感じます。

ロシアを突き動かしているものの正体、そして、日本を操るものの正体、それは、すべて 米国ではなく、内部にいるのだという認識。


自分の内部を操るものは、国内にいる ということを、知るまで、・・・


なにか、遠い旅です。


私は、スラブの、ロシアの魂が、その 一途な 不器用さゆえに、とても 共感を覚えます。


「右の頬をうたれたら 私は痛いという」というプーチンの言葉が好きです (笑)


悪を告発することを我慢する必要などないと もちろん 思います。





最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。