ハニカム薔薇ノ神殿

西南戦争の現地記者の話他、幕末〜明治維新の歴史漫画を描いてます。歴史、美術史、ゲーム、特撮などの話も。

ファンタジーの限界とドラクエ10

2012年10月08日 | ゲーム全般
「水彩画」は引き続き、制作お悩み+実験室のカテゴリーでやっていきます。

本日は、大型アップデートの前に、一応レベル50まで育てて、
フレンドも増え、チームに加入しシナリオをほぼ攻略した段階での
「ドラクエ10」についての感想と、再考になります。

「これは大いなる転機」である事に、何人かは気付いているはずです。
押井守さんは、ドラクエ10はやらない、オンラインだからとおっしゃった。
それは趣味の問題ではありません。おそらく、押井さんは「思想」の問題、「信念」の問題としてそうなのだと思います。

<ファンタジーゲームはもともと閉鎖的な世界>

ここで芸術体系なんかを持ち出すのは、ある意味反則かもしれないんですが、ファンタジーRPGというのは、
やっぱり「幻想」「象徴」 繭的というか、ポストモダン的なものに支えられて存在していたと思うのです。

思想や芸術の形としてのポストモダンは、批判されるべきものではなく、昔から存在するものだと私は思います。
ただ、いつのまにか、常に「社会学」と結びつけて語られるようになってしまいました。
そうすると、ただ趣味でオタク世界で1人遊びする事すら、「あれは病気だ、オタクは社交性が無い」と、なってしまいがちです。

そういう、社会学者のポストモダンを真に受けてなのか
MMOがゲームに登場し、「1人で遊ぶヒキコモリゲームはよくない」
皆でコミュニケーションを取らねばならない、いや、取るべきだ
皆で遊ばなくてはならない、皆仲良くしなくてはいけない…となっていった感があります。

先日、私はソロよりぜひ、多くの人とのコミュニケーションを楽しんでと書きました。
それに間違いはありません。
そういうものとして作られているならば、そうでない遊び方をしている限り、ユーザはネガティブにならざるを得ないからです。
ポジティブに遊びたいなら、遊びのルールを受け入れるしかない、
しかし、「受け入れる」人と「受け入れない」人を、本作品は非常に選んでしまいます。

それが「ドラクエ」の、歴史的に大きな変化です。
ドラクエほどのビッグタイトルですからもたらす影響もそれなりに、大きい事を知っての事…なんでしょうね。


<壊されていくファンタジーの境界>

特筆すべきは、プレイヤー=キャラクターと成り得るのですが、その「中の人」は
「自らを語らずにいられない」のです。
コミュニケーションの基本として、嘘はあってはならない…
しかし、「ファンタジー」そのものが、「嘘」の世界です。
運営側は、個人情報は伏せるように言います。
ところが、必然的に人は、自分の「リアル」を語ってしまいます。
明日何時に出勤する、弟が邪魔する、子供が今日…、明日はテスト、などなど。

ファンタジーRPGは「仮面舞踏会」「コスプレ」「変身」で成り立つ世界でもあります。
本来ならば、「その人」=「そのキャラ」は単に、「○○族の僧侶レベル25」でいいんです。
その世界に没頭して想像力を膨らませ、ファンタジーを延長できなきゃ面白く無い。
本来は会社社長でも、その世界ではドワーフの戦士、とかそういうのになりきれなくちゃいけない。
自分が唯一の勇者となれる世界に、レベルの比較競争なんかあっちゃならないんです。

ここで、「ファンタジー」の境界は壊されていく事になります。
なぜなら、幻想の世界で遊ぶというのは
(例えば、象徴派の作品を見るにしてもそうですが)
「赤毛のアンのほとばしる想像力に、ついていける大親友のダイアナ」でなくてはならないのです。

つまり、ユーザ、プレイヤー側が
「ドラクエの世界観を壊すまい」としてひたすら幻想世界に遊ぶのなら、
ファンタジー世界はキープできるのですが。

しかし、その想像力、妄想癖とも言い換えられるようなものを、全ての人に強要はできないと思います。
哀しいかな、それは19世紀末に象徴派や唯美派が望んで得られず、「芸術至上主義」を選んで閉鎖的になっていったのと同じで
今や、サービス中心型の世の中に不適応なものは、ロマン派も象徴主義も「精神病患者」で片付けられるではありませんか。


これが、MMOの、ファンタジー作品としての唯一の誤算ではないでしょうか。
現実世界の話を持ち込まなければ、リアルな人間関係は築けない。
しかし、そうする事でどこまでも「リアル」と「幻想」の垣根は壊れていきます。
染みだした現実は、やがて幻想世界を「現実」一色に染めていくかもしれない。
イベントムービーは、確かにかつてのドラクエを思わせるように感動的です。
しかし、現実がそこにあっては入り込めず、ただ客観的なものにすぎません。

「まあいい作り話だな、そういやプレイヤーの○○は明日会社なんだっけ?」
せっかくムービーを涙しながら見てても、そんな話をされてしまう。
黙り込んで見てると、まるで会話に参加できない人、みたいに。

ですから、どんなにシナリオが素晴らしくても、それはもう本来のファンタジーRPGではありえないのです。
せっかくのシナリオの良さ、世界観の良さ、そういうものを「語り合う」事は予想外にできない。
従来のオフライン同人誌と、オンラインゲームがあるとしたら
作品理解と鑑賞について言えば、オフライン同人誌の比ではありません。
そこは全く「オタクではない」世界ですので。

「勇者」は再び、幻想世界の中でまで価値選択を迫られるのです。
これは今まで、無かったことでしょう。

「君は、この世界を救う唯一の勇者なのか、それとも現実の大多数の中の一員なのか」


リアルの人間関係での話は、それなりに楽しいものです。
しかし、そっちに重点を置いてしまうと、「物語」はいらなくなる。
白アイコンのキャラは、シナリオに関わるヒント、ストーリーを話してくれますが
もう城の中の白アイコンキャラに話をきく必要がなくなってきます。
そんなくだらんお人形の話より、合わせた時間に待ち合わせ場所に行かないといけないからね!


<ファンタジーの限界と、過渡期>

さて、ここで考えなくてはならない事が出てきました。

「ファンタジー」は、「サービス」なのかという所です。
ユーザ、プレイヤーは
「ファンタジー性」を求めれば求めるほど、「サービス産業」とはかけ離れていくものです。

オンラインゲームは、「サービス」としてはかなり有効なものであるとは思います。

しかし、その「面白さ」をどこまで出せるのか。
もしもプレイヤー同士の会話自体が面白いのであって、後は単なる目的さえあればいい、というものであれば、そこに芸術性の高いシナリオなんて全く不要になってしまうのです。

私は、そここそが、ファンタジー職人気質の押井守さんの懸念されている事ではないのかと思います。

「だったらもうファンタジーRPGである必要もないし、そもそもRPG自体必要無いじゃないか」と。


さて、課題として突きつけられた、

「オンラインゲーム」によってファンタジーは壊れるのか?
と、いう事なんですけど

見てますと、オンラインゲームに慣れた方というのは
ここらへんの加減具合が非常に上手いです。
リアルか幻想かに固執せず、コミュニケーションをはかりつつ、という
これは「現実との区別がつかない」のではなくて、単にオンラインゲームで世界観を壊さないために
そうなったのかと思います。


現実を駆逐できる完璧な幻想世界を作る事ができなければ
ファンタジーRPGとしての「ドラクエ」は、やっぱり限界ちゃあ、限界かな…とも。

ですが、そう簡単に限界だと諦めず、オンラインと携帯ゲームがこの難題をどうクリアしていくのか
私としては、その進化を見てみたい気がします。

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