だって神様いるんだもん   ありがとうございます:ごめんなさい:おねがいします:おまかせします:賛美します

日本には、0.04%しかいないカトリック信徒。世界中を仕事で飛び廻り神様に出会った。

★洗礼の時の家族への信仰告白

2004年09月24日 04時37分40秒 | Weblog
みんなに、今、お父さんの考えていることを知ってもらいたくて、書きました。



お父さんは,5月11日;日曜日に、XXカトリック教会で、洗礼を受けます。

もちろん信仰というのは個人の問題ですし、強制されるものではないと思っています。

しかし、同じ家族の一員として、お父さんがどのように、人生などを捉えてこれから生きていこうとするのかということを知ってほしいと思います。



まず人間とは何かということをいろいろ考えてきましたが、いま確実に言えることは、人間は動物と違う存在であるということです。

今までお父さんは、人間は動物から進化してきたものだ、人生は動物から学んだ方がいい。つまり本能を満足させることが人生の目的だ。しかしお互いに本能を満足させることをしていたら、衝突や闘争が起きるのでそれをうまくまとめるために宗教、法律、社会規範などがあるのだと思ってきました。一夫一婦制を説くモーセの十戒はそれの典型だと思っていました。イスラム教のほうがより自然人としての人間の欲望を肯定して一夫多妻だと思いました。そして、人間は死んだらおしまい、生きているうちに、飲めよ、食えよ、楽しめよと思い生きてきました。

普通の人が持っている価値観は、人より有名になりたい、人に賛美されたい、人より知っていたい、お金を持っていたいというものです。こういった価値観が実現するのは今の日本においては、タレントと呼ばれる人たちです。彼らが人間性はともかく尊敬されるのは異常な現象だと思っています。テレビを見るとその様な価値観でテレビが構成されていると思います。勿論、お父さんもそう思ってきましたから、人間の価値は、地位、名誉、それらが集約されたお金、人間は、見た目が大切だと思い込んできました。

そうすると、適者生存の価値観にそぐわないもの、精神薄弱者、社会についていけない人は、いなくていい、いないほうがいいという、ヒットラーと同じ考えになりますし、学校でよくあるいじめもそんな考えの延長だと思います。

このような価値観は小さいころから学校や社会の中で植え付けられてきたものだと思っています。このように社会はいつも強いが勝ち、学歴が高い人、大きな会社、大きな組織、たくさんのお金を持つこと、こうしたものこそ良いもの、大切なものという適者生存の法則で動いていて、このような法則から自由になるのではなく、そのような法則に縛られている奴隷のような存在でした。

だからお金や地位や名誉を求めることが人生の目的であり、それを成し遂げる人は人生の成功者、できなかった人は失敗した人だという価値観で生きてきました。

人間は弱いから神様などにすがるのだ、自然界のさまざまな現象の起因を科学的に理解していないから、例えば雷などを神様の声として迷信として信じてしまうのだ、科学が進歩すればすべては明らかになるのだというふうに信じてきたのです。あるいは、結局、宗教とは、自分さえよければいいというご利益宗教だと思ってきました。多くの日本人にとって、宗教とはアクセサリーだと思います。

ところがどうもそうではないのではないかということを実感し始めたのです。



人間には、他の動物にはない決定的な要因があります。

すべては物質から成り立っているという考え方から書かれた日本の教科書でも、人間には、言語能力がある、社会を構成する能力がある、火を使う能力があると現象だけを書いていますがそれだけではないと思っています。

子供のために自分を犠牲にしたりするのは動物もやっていますが、何も知らない他人のために自分が犠牲になったりするような行為は人間しかしません。それは人間が劣っているからだ、宗教という前世紀の異物のしがらみの中にある、自己満足、自己催眠と思っていましたがそうではない精神性があることに気づかされています。

あるいは神様を信じたり、抽象的な活動つまり芸術活動、音楽や絵画などをすることができるのは人間がやはり、動物より劣っているからではなく動物にはない精神性つまり霊魂を持っていることに起因すると今は思っています。つまり、人間は、神に似せて造られたと信じます。

----------ということで、パパは、言語能力を持つ宇宙人、お祈りして、他の犬のために身代わりに死ぬことができ、哲学を語る犬がいたら神様はいないといってもいいと思いますよ(^.^)



そして人間が永遠を考えたりすることができるのは、やはり自分自身が永遠性を持っているということを実感します。



それを聖書の言葉では人間は霊魂を持っているというふうに位置づけるのです。

そしてなぜならば人間は神の似姿として創られたというふうに信じるのです。

神の似姿として創られた人間であるから、よりよい社会を求めたり、より理想を求めたり、永遠を考えたり、人ために自分が犠牲になることをすることをしたりすることができるのが人間だけだというふうに思っています。



もちろん神様は見えません。

しかし人間の五感を超えたところにある魂で感じるときに、神様は実在するということを思っています。その、センスが、強い人と弱い人がいるのも事実です。

今までは、人間の頭で神を捏造したものである、人間がいなければ神様がいないというふうに考えていましたが、人間がいる,いないにもかかわらず神様は存在している客観性を持った存在だということに今は思っています。

キリスト教では、それを神様の絶対性、現存といっています。



よく神はどこにいますかという疑問があります。でも、いまパパが思うことは、禅問答的で、宗教的パラドックスといわれようと、そのような設問は、間違っていると思うのです。神がどこにいるかというのは、1、自分の存在、理性が絶対 2、神は思考の対象=人間の造った神だと思うのです。そうじゃなくて、正しい設問は、パパはどこにいるかといわれると、神様の中にいるといいたいのです。たぶんこういうとますます解らなくなると思いますが、パパはそう感じているのです。



そして、その神様の本質、性格、は何かというとキリスト教では愛であると教えています。



愛というのは男と女の愛だけではなく、どんなものも受け入れ、自分の敵をも許すことも本当の愛の一面であるといっています。自分の生活に何ら関係ない世界の中で困っている,苦しんでいる人に関係心を持つということも愛であり、道端で倒れている人がいたら関心を少なくとも持つというのも愛の性格であるという風に考えるのがキリスト教の考え方です。多い少ないの差はありますが、そうものを持っているのはやはり人間だけだというふうに思っています。愛ということは、とても難しいですが、愛すると自分を超え、相手のことで心がいっぱいになるということです。いい例が、君たちのお母さんですね、お母さんはいつも自分のことを考えたり、優先せず、お前たち子供のために、朝早く起き、お仕事をしています。お母さんはいつも自分のことを二の次にして、お前たちのこと(ほんのちょっぴり(^.^)パパのこと)を考えています。また、お前たちが将来、異性と恋におちいると、相手のことで心がいっぱいになります。――ああ、いつのことやらーーーー。ですから、自分のことしか考えない人は自分のことでいっぱいで、エゴイズムで、寂しい人生を歩みます。なぜこのような性質が、人間にあるのでしょうか?それは、人間は、神の似姿として創られているとお父さんは考えます。



本来人間は、神様と同じ愛の内容を持って作られたのですけれどもそのような状態の中にないのがお父さんを見るとよくわかりますよね(^_^;…(^.^)

そのような状態の中にあるのが現実の人間であるというふうにキリスト教は考えます。

そして、神は見えないが、その本来の神様の愛を顕した人がイエスキリストという2,000年前に現れたユダヤ人の貧乏な大工さんの息子だというふうに信じるのがキリスト教の信仰であり、お父さんがこれから信じようとすることなのです。大工の棟梁の息子イエスが建てた家は、残っていませんが、彼の生き様、考えから発生したキリスト教は、今も生きています。



そしてこれからは非常に難しくなりますが、そのイエスキリストは1度死んだのですけれども、蘇り、今も生きていると信じるのはキリスト教の信仰です。一度死んだ人が息を吹き返す蘇生と違います。蘇生は、一度息を吹き返してもいつかは、死にます。また、今の自分は永遠に存在する、今の一瞬は、永遠に続いているという永遠の命があると信じます。つまり、死というのは、絶望でもなく、虚無、暗闇でもないということなのです。

人間の罪は赦されるということ。聖霊がいつもいるということ。イエスの教えをカトリック教会が時々間違いながらも忠実に守り、神様が働いていらっしゃるということ(ほかの宗教には神の働きがないとはいっていません。)亡くなったキリスト教の聖人たちが見守り助けてくれるということ。

そのような信じられないことを、多ければいいというのではありませんが、現在、全世界の三分の一の人が信じ、民主主義、男女平等、社会福祉、などのアイデアをギリシャローマ思想とともに、人類に提供して、歴史を引っ張ってきたのも事実です。(例えば、仏教的概念、イスラム教的概念からは、民主主義という政治理念は出てきません)

そしてそのイエスキリストは今もなお生きていらっしゃって、働いておられるというふうに信じるのがキリスト教の中心でありお父さんが信じることです。その生きたキリストに会いに行くのが、日曜日のミサなのです。

死んだ人がもう1度生き返る。ということは到底信じることは、できませんが、ましてすべては自分がわかったつもりでいるお父さんには無理だと思いますが、今,お父さんはすんなりと信じることがなぜか出来てしまっているのです。いいかえれば、自分の認識と知識が、絶対であるということを信じていた自己の限界を、やっと52歳にして、知りえたということかもしれません。それは決して理論的に妥協したとかいうのではなく、実感しているのです。あるいは実感したいと思っているのです。それを信じていこうと思っています。あるいは少なくとも信じたいと思っています。



ですから、今までお父さんは自分は生きていると思ってきましたが、実はそれは非常に傲慢な言い方で、神様によって生かされているというのが本当だと思います。

それは決して弱いからとか自分に自信がないかなとか、人生において負けたとかいうのではなく客観的な事実としてそうだとお父さんは思います。しかし、人間を超えた存在を、考えるきっかけとして、お父さんの病気、事業の撤退、支店の閉鎖,お母さんの入院などがあったことは、事実です。

だから子供たちも、実はお父さんが作ったとかいうのではなく神様に与えられたと今は思っています。

だからおまえたちも、お父さんがすべてを支配するのではなく、神様から与えられた宝物なので、みんなの自由な意思を尊重し神様から与えられたと思い大切にしようと思っているのです。ですけれども、神様から与えられた君たちをやはりお父さんは教育する義務がありますので、これからも君の部屋が散らかっていたならば、怒ると思います。



まだまだ色々と難しいことがありますが、こんなことを基本にお父さんはキリスト教を信じこれからの人生の指針にしていこうと思います。

でも誤解しないでください、キリスト教になったからといってお父さんは立派な人になるのではなく、今までのイライラしたり、パソコンが壊れたときに子供たちにイライラをぶつけたり、国家権力(警察)と交通違反などのことで戦う(^.^)エキセントリックなお父さんは変わりません(^.^)。エキセントリックを辞書で調べるようにーー

でもそのイライラをするお父さんは少なくともそういうことが間違っているから、神様によって変えていこうとする努力をしようという決意がキリスト教の入門式なのです。立派な人になったからキリスト教に入信するのではなく、そういう自分の限界を感じ、そういう限界を持った人間だからこそ神様によって新しくされるというのことが必要だと認識しているのです。でもつくづく考えて見ると、倫理、道徳、克己心などからすると、家族の中なかで、最も神様に遠いパパ(^_^;…が、洗礼を受けるのですから、神様のはからいはわかりませんね。聖書の中に、丈夫な人は医者はいらない、私(イエス)が来たのは、病人を招くためであるーーとあるとおりだと思いました(^.^)

だからこれは決して弁解でいうのではないですか、キリスト教になったかといっていつもニコニコしているお父さんではない可能性がありますが、少なくともそういうふうに目指していこうと努力しています。たとえば、君たちやおかあさんに接する時に、「受けるより、与えるは、幸いなり。何をしてほしいではなく、何をしてあげられるかを考えなさい。」というキリスト教の大先輩パウロの言葉を、念じて接するように努力しているつもりです。



またキリスト教は、

★ご利益宗教ではありません(いいことがあるために信じるのでもない:信じたからといってもいいことがない:かえっていろいろ試練がある。江戸時代のキリシタンは、踏絵を踏めば、生きていられたのに、踏まないで死んでいった。神父様は、一生独身で、家庭をもたず、私有財産はない、人と教会とイエスと神のために一生をささげる→神様とイエス様の復活がなければ、馬鹿みたい。こんな事実だけを見てマルクスという人は、すべては、物質からできている、神は人間が捏造した幻想だ。宗教は、アヘンだといったのも、現象的にはうなずけます。また、キリスト教がご利益追求であつたら、神が人間中心的に考えて全知全能で人間の捏造した神であったら、生きた人を生き返らせたという奇跡を起こしたイエスは、自分が十字架にかかったときに、奇跡を起こしませんでした。それを見て、その真意を理解せず、お前が神であったら降りてみろというのは、ご利益主義だと思います。日本のほとんどの宗教は、ご利益信仰です。日本人が宗教に求めているのもご利益です。また、キリスト者となったからといって、病気、労苦―経済的なことも含めてー、老い、死がなくなるわけではありません。しかし、神様の愛にあるとそれらが意味を持ってきますし、恵みと感じられるのです。老いと病気は、パパのふるさとが天にあることを知らせてくれるものであると思っています。苦しみから私が救われるのではなく、苦しみにより私が救われるというのがキリスト教なのです。地上に幸福を求めるのが普通ですが、じつは、目に見える幸福は、自分の健康、社会的地位と収入、家族の健康、などどれひとつが、失われても、涙の谷がくるということ、非常に微妙で危ういバランスのなかに立脚しているのだと思います。つまり、生を受けたものは、この地上が、楽園でないことを発見するのだと思います。)

★勧善懲悪ではありません(悪いことをした人を懲らしめ、神様にほめてもらおうといいことをするのでもないです。いいことをしたからといって、報われることがないかもしれません。)

★因果応報でもありません(先祖が悪いことをしたからたたりがあると考えること。)

★自力信仰でもありません(自分の努力ーーこれを勿論否定しませんがーー、だけで、キリスト者らしくなるのではなく、神様に一方的な恵み:難しい言葉で恩寵によって、キリスト者らしくなる。)

★ 運命論でもありません(すべての運命は決まっていて、人間の努力は、空しいと考えること)

★ 輪廻転生でもありません(人は死んで、生まれ変わり、次の世では、たとえば、サルになるという考え:人生は、一回限りのものだと思います)

★ 権力主義でもありません(政治と宗教を分離するのが理想と思っています。16世紀からのカトリックの国々の植民地支配、黒人奴隷の容認、免罪符の販売などは、政教分離が出来ていなかったあるいは、政治のもとにあったカトリックの負の財産であると思います。また、カトリック教会と植民地主義のスペイン、ポルトガルは別です。)

★ 二元論ではありません(私正しい、それ以外すべて間違い:キリスト教=すべて正しい:それ以外間違っているという考え方。どんなものにも神の御業(キリスト教では聖霊といいます)は働いていると考えます。特に、カトリックの会議を開いた1962年以降は、山の頂上に登るにも、いくつもの、道があると明言しています。)

★ ダブルスタンダードではありません(信仰が進んでいくと、最初に、提示した撒き餌のようなスローガンと相反する教義を信じらざろおえなくする=カルト宗教の特徴:ローマ教皇(PAPAといいます)とおまえたちのパパ(^.^)が信じているのは、全く同じ内容ですし、ローマ教皇にも専属の悔い改めの司祭がいます。ノーベル賞を受賞したマザーテレサの亡くなったときの私有財産は、ぼろぼろになったサンダルとスプーン一本でした。信じ込んで(^.^)だまされることはありません、現実的には、カトリックほどお金のかからない宗教はありません。教会に通って、一年になりますが、一銭も必要ありませんでした(^.^)

★ 相対主義ではありません(すべては、相対的で、絶対的な神などはいないという考え方。)

★ 現世主義ではありません(現実の世界のみがすべてであるという観点から人生観を構築すること。日本人は類型的にこの思考方法が多いです。多くの日本人は、目に見えないものを信じません。)

★ 古い因習にとらわれた前世紀の遺物ではありません(日本の間違った歴史観で書かれた教科書は、カトリックの堕落した結果、それに、抗議PROTESTする意味で、プロテスタントが生まれたと書いてあり、君たちの歴史認識もそうだと思います。実際は、ルターが告発したのは、当時の形骸化した政治と一つとなった社会体制としての教会です。しかし、ルター以降のカトリック教会の刷新(イエズス会、第二バチカン公会議など)により、プロテスタントのかたがたが、抗議する内容は、カトリック教会には存在していなく、プロテスタントが立つ基盤は今はありません。詳しいことは、また話しますね。)



そんなことを信じながらおとうさんは5月11日にキリスト教に入信しようと思います。

もちろんお前たちには強制しませんが、その入信する儀式(洗礼式といいます)に

一緒に来て見守ってほしいと思います。キリスト教であげる結婚式に、宗派は違えど、親戚が出席することと同じだと思ってください。



入信したからといって、日常生活には変化はありません。安心してください(^.^)

ただ、何かの決断、価値判断の時に、キリスト教の信仰が顕現するかも知れません。

例えば、神様がお創りになったもので、無駄なものはありえませんと信じます。よって、人を、性、人種、外見、国籍、能力などで差別しないように、するのが教会の教えです。同じ理由から、あらゆる中絶、死刑、戦争には、反対の立場をとります。

また、キリスト教は、死の問題も考えています。死を考えことは、平均的日本人にとっては、忌むべきもの、禁忌すべきもの、不吉なもの、あるいは、人は自分は死なないと思い生きていると思いますが、生まれたら、老いて、病気になり、死んでいくのが、人間の営みです。それに対して、キリスト教では、答えを出しています。

そんなことから、1.お父さんが交通事故などで死にそうになったら、教会に電話して、海外でも、病院でもどこでも、神父様に来てもらってください。XX教会03−3xxx−XXXX:死を迎える前に、神父様にお会いする必要があります。2、お葬式は、神父様と相談して、カトリック式でやってください。宜しくお願いします(^.^)

(実は、こう書いておくと、なかなか死なないものです(^.^)



なお、洗礼名は、パウロとなります。


コメント (1) |  トラックバック () | 

★お金がって若くて美人なら最高ジャンーーー私のために世界が、あるのさ。

2004年09月24日 04時34分39秒 | Weblog
お金がって
若くて
美人なら最高ジャン。

私のために世界が、あるのさ。

私に言い寄るオヤジたちもそう思ってるし、
世の中、事実、そうなってるんだもんね。
テレビの中でもそういってるんだから、
そおなんだよね。
親だって年中、お金のことで、喧嘩してるし、
わたしのおとうさんだってどっかで、浮気してるモンね。
こんな単純なこと、若くて知れた私は、幸せさ。

お金があれば、何でも買えるし、買うことでウレシイし、
幸福ジャン。
お金があれは、人の心まで買えるし、みんなペコペコしてくれるし、
最高ジャン!
お金があれば、整形だってできるし、もっと美しくなって、
どんどんオヤジにみつがせることもできるしね。
若ければ、みんな振り返るし、
バカオヤジがチヤホヤしてくれるし、
お金になるし最高ジャン。
わたしが、年とって、ババア、ジジイになるなんて信じられない。
いいもん、
私、年取る前に、死んじゃうもん。

自分の親を見てると、私の将来、知れたもんだし、将来、希望ないもんね。
だったら、この若さが売れる時に、勝負するっきゃないよね。

お金がなかったら、みじめだよね。
親を見てるとそうおもうんだわ。
お金の為なら、オヤジに体触られて、Hすることも、我慢できるよね。
プラダを手に入れたときのヤッターと思う気持ちと比べたら、
オヤジとカラオケやることも、平気だモンね。

今が幸せならーーなにやったっていいじゃん。
万引きしようがウリをしようが、捕まるドジをしなければイイジャン。
テレビで見ると、政治家の人から、国のお役人から、うちのウザイ親までそうなんだもん

だけどこの前、考えたのさ。
Hしまくった後、
こんなことしていいのかな?
早く、家に帰らなくちゃ!
私の人生こんなもんかな?
私はいったい何なんだろう?
誰か、説教してくれ!
何とか言ってくれ!
虚しいとはこんな時言うのかな?
何でうまれてきたのかな?
物を買うと満足するけど、もっといいものほしくなり、きりがなく、あせっちゃうのは何でかなんか考えちゃう!
でも
オヤジからもらうお金を見たら、みんなやっているんだし、
社会がお金で回ってるんだし、
そうなっているんだからと思えるから、そんな気の迷いは、一瞬さ。
変なこと考えてバカみたい。
ババアになる前兆かな?

だけど、この前、ちょっと考えたよ。
最初は、渋谷に遊びに来ただけだったけど、
ここにいる同じ年頃の人のすげー格好見て、真似ようと思い
親が金くれるワキャねえから、万引き、パンテイ売り、エンコーと
どんどんグレードアップしていったけど、私の友達は、今、クスリにいっちゃってる。
なんかおかしいんだよね。
自分がどうなるか恐ろしい。
でもそう考え始めたのは、ババアの前兆かな?

でも、テレビや新聞は、わたしらは悪くない、
悪いのは、わたしらを、利用する大人だ、
指導できない学校だ、親だとわかっちゃいないことを、言ってくれるから、
大笑いさ、でも、とっつかまった時は、純真なフリをして、涙でも流せば、
こっちのもなさ。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
お金が全てではありませんよ。
人はみんな必死に生き、そして、必ず死にます。−でも、そこにも、意味があるのです。
歳を取る事が、人生の終わりなら、ほとんどの人が、20歳くらいで自殺してますよね。
生きていること自身に、意味があるのです。
たった三日の命の赤ちゃんにも意味があるのです。
美人は素晴らしい、ブスは悲惨という人生観では、見えない世界があります。
そうゆうことで生きていない人が、実は圧倒的多数なのです。
お金、地位、名誉、異性、全て得ても、虚しい、もっとほしいという欲望の無間地獄(難しい言葉でごめんね)に有ることを知って、全てを捨てて(もったいないな)修道院に入ったシャルルというフランスのおじさんもいましたよ。
人生にも目的があり、みんなが、プラダの財布のGETの延長に求めているものがあるんだよーーーとはっきり言っちゃうのがカトリックなんだよね。

嘘だと思ったら、教会に行ってみないかい。
ダサイ流行おくれの服をきた神父と呼んでるオヤジがいるけど、
真剣に話し聞いてくれるよ。
お化粧しないなんて信じられなーいオバサンがいるけど、キレイに感じるよ。
こんな人もいるという経験になるから、行って見ないかい?

コメント (0) |  トラックバック () | 

★父なる神の存在の仮説と実証(あるいは個人的実感)

2004年09月24日 04時15分42秒 | Weblog
父なる神に対する信頼に至る論理的仮説

★私たちは目に見えるものしか信じないが、
 目に見える世界はすべてこれを創造なさった父なる神による被造世界である。

★被造世界を創りたもうた父なる神の本質は愛である。
 愛であるがゆえに、被造世界を創りたもうた。
 また愛である父なる神は、全知全能:唯一:絶対:人格神:無二:永遠なる存在である。
 そして、イエスキリストを通して、顕れたアブラハム、イサク、ヤコブの神であり、
 私の父なる神である。
 私以上に、わたしのことをお知りの神に信頼するのが信仰だと思われる。

★人間は、父なる神の似姿として、創造された。
よって、霊と肉を供えている。
これが他の動物と決定的な違いである。
霊魂があるが故に
言語能力を持つ:思考能力を持つ:宗教を持つ:道具を使うことができる:抽象的概念を考えることができる:笑うことができる:自分にとって価値のない人ものために自分が犠牲になることができる:永遠を思考し憧れる:父なる神のもとに憩うまで本当の安心はない。
こうやってパソコンを駆使して、例え神などいるものか、という抽象的思考をしている貴方も、私は、その行為自身は、霊魂から発していると認識します(^.^)
:::言葉を話し、父なる神を礼拝し、笑い、内燃機関を創造し、赤の他人の為に犠牲になるチンパンジーはいないと思う。

★進化論は父なる神の創造の過程の分析としては、正しい。
しかし、われわれと同じ霊魂をもった存在としてネアンデルタール、北京原人を捉えない。
チンパンジーをいくら時間をかけても、遺伝子操作をしても、霊魂を持たせられない。
それは、創造主である父なる神の領域である。
人間と同じ霊魂:肉体を持つ宇宙人もいないと思う。
科学ですべてが解き明かされると言う信仰は、前世紀のものであると思う。
また、歴史はすべて進歩するというへーゲルの弁証法史観もひとつの信仰であり、真理でないと捉える。
パスカル「この広い宇宙には、知恵と理性で解決できないものがたくさんあるとわかった人が、本当の理性を持った人だ」
アンセルモ「認識する為に信仰す」に共感を覚える。
また、理性も神から与えられしものと認識する。
信仰形態は、2つある。
一つは、意思と理性による決断。
もう一つで根源的なものは、上記を受け皿として父なる神より与えられる聖霊による一方的な恩寵としての父なる神への信頼。
誰でも、聖霊の働き無くしては、ナザレの大工イエスをキリストといえない。

★本来の人類始祖アダムは、ちょうど復活のイエスの体と同じように、死ぬこともない永遠のからだをもっていたとの聖書の記述を信じる。

★しかし、自らが神の立場に立ってしまい、神を中心として生きていかなくなった(いけなくなった)ことにより堕落して、罪を持った、今の有限であり、父なる神の愛に生きえない人間になってしまった。
本来、肉体は、日々の食物というエネルギー(糖尿病の私は一日1800kcalトホホ(^.^)を得て生き、霊魂は神の愛というエネルギーを得て、生きていく。

★父なる神との断絶を、再び結ぶ為に、父なる神は、イスラエル民族を選んで、父なる神の概念を教育し提示した。

★父なる神は、2000年前に、歴史的にはユダヤの大田舎ナザレの貧乏大工の棟梁の息子イエスという男性を人類に与えて、神のもとに、帰るすべを、付与した。
イエスが神であると言うキリスト教の主張は、神を恐れ敬い、神は彼我の向こうにあるという断絶の概念で、愛の人格神という概念のないユダヤ、イスラムの教えからすると、死に値する言動であり、絶対的なものは絶対無い、すべては相対的で移り行く虚無であり、それを受け入れていくのが人間らしいとするわびさびが美の境地であり、被造物である有限な徳川家康を東照大神としていく日本人にも受け入れられない概念である。
★三位一体の聖霊によらなければ、この史的イエスを、キリストと認識できない。

★父なる神が完全であるように、神の御許に帰るには、完全なる自由意志でしか帰れない。だましてとか、恐怖とか、暴力からによっては、本当の信仰をもち得ない。愛である父なる神は、一人一人が、完全な自由意志で帰ってくるのを、一日千年の思いで待っていらっしゃる。



★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

上の仮説の実証(これだけは、目に見え、体験できる)

★その父なる神に仕えている神父、修道女の独身制は、仮説が嘘なら、虚しい、ばかばかしい、自己満足である。
彼らの存在が、上記の仮説を実証していると思う。
なお、同じキリスト教でも、妻帯する牧師は、アマチュアで、彼らは、professionalであると思ってしまうのは、私だけであろうか。

★イエスより始まるカトリックの2000年の殉教の歴史は、上記の仮説が、嘘であるならば、虚しく、まさにフォイエルバッハの言うとおり、キリスト教は、阿片であろう。
日本人の多くは、一番大切なのもは、命と答えるが、命よりも大切なものがあるということを、殉教者はわれわれに教えている。また、殉教は意思と精神力で出来るのではない、聖霊が働かないと出来ないと思う。
私は、今の自分では、踏絵を踏めと言われたら、主を裏切り知らないと言った復活のキリストに会い聖霊降臨を受ける前の弱虫ペテロに習い率先して踏むと思うが、その場で、神と聖霊が働き、イエスに出会ったらどうなるかわからないと言う希望と恐れ(^.^)を保持続けたい。

★人間がいようがいまいが、考えようが考えまいが、現存しておられる父なる神と聖霊が、働いておられることと、イエスが生きて私のために生きておられなければ、このような復活を信じる人が、世界に10億を占め、歴史を導き導いている事実をどう理解したらいいのだろうか?

★イエスぬきで、イエスの神冒涜、国家反逆により処刑を前に、怖くて逃げ出した弱虫ペテロを、中心にして弱小集団原始基督教が、今のアメリカの何十倍のローマ帝国を屈服させるのは、聖霊が働かなければできない歴史的客観的証拠であると思う、

★宗教的体験は、主観的、個人的なものであるが、私のような価値観(これを話すととんでもないことになる)を持ったものが、父なる神にしたがって生きていこうと、押し出されるように、決意でき、神にとらえられてしまった事実を考えると、聖霊は、現存していると思われる。

★アウグスチヌスが神のもとに憩うまで、人は、安心しないと言ったが。
人は、誰でも永遠をあこがれ、憧憬する。
今の自我、意識、思惟が永存してほしい、死にたくないとおもうのは、本来人間が、永遠なる存在として、父なる神に創られているからである。
今の自分の意識が、永遠に存在すると信じるゆえんである。

★確実と思っていた愛は壊れることがあるかもしれません、事業、会社も永遠に続かないでしょう、ーーーーー
そして、ほとんどの人は、自分は、健康で死なないと思っています。
しかし、不確実なことが多い世の中で、たった一つ、確実なことがあります。
それは、人は、老いて、病を得、死んでいくと言うことです。
手術の前の病棟、明日、突撃と言う時の塹壕、落ちてゆくジャンボ機には、無神論はいないと言います。
勿論、脅かして信仰にはいるのは、父なる神が、最も嫌うことですが、一度、確実に、私たちに訪れる死というものはいったいなにかということに、目を向けてみませんか?
クリスチャンとは、いろいろ定義できますが、今死んでもいいと言う覚悟が、驚きと反発と怒りの後だと思いますが、出来ている楽天的な、父なる神を信頼し、委ねた人だと思います。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

語句の解説

★全知全能なる父なる神:無から有を生み出すのは、我が父は当たり前だと思う。
            イエスの起こした奇蹟。
            十字架を信仰告白して洗礼を受け神の子に戻ること。
            神、イエスが現存するミサのパン(ホスチア)という秘跡。
            ルルド、ファテマ、治癒の奇蹟。
            パードレピオがカルロボイテワに最初に会っていった言葉、
             「こんにちは、未来のパパさま」
            などは、全知全能なる父なる神には簡単だと予想できる。
★唯一:初代教会は、ローマの神々を信じない無神論(^.^)であった為に、迫害された。
★人格神:無味乾燥な法則の神ではなく、われわれの親であるので、われわれと同じ人格(本当は、われわれが神に似ているので、神格人というべき)、特にその後本質は、愛、をもっていらっしゃる。
★絶対:すべてを、自己までも、相対と見る日本人には、なかなか理解でき得ない概念。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
今の平均的日本人から見たならば、
★絶対的なもの、目に見えないものを信じて、人生を構築するのは、行っちゃった(^.^)狂信的な人だ。おお、イヤだ。近づきたくない。
★生きていると言う現実と、命が絶対なのであって、後はすべてうつろい行く虚無なものだ、それを受け入れる勇気のない人が、神、宗教という幻想に、逃げ込むのであって、現実が主体で、もし宗教と言う存在が赦されるならば、人生のアクセサリーとしてだ。
と思うと思います。

このような論理的追求で頭でっかちに、なるのも勿論父なる神にいたる道であると思います。
しかし、神はいない、いるものかと思っていらっしゃる貴方は、少なくとも、無関心という立場よりも、神に近いと思います。
神はいらっしゃって、聖霊も現存します。
イエスは生きて、なお、お働きになって、貴方をハラハラして見つめていらっしゃります。

父なる神、あなたは、いないと思うのですが、いたら、大変です。
人の言葉、人の行い、自らの心を通して、教えてください。
と祈ってみたなら、父なる神は、聖霊を通じて必ずお答えになると思います。


★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
実際(私の経験より)

また、興味を持って、近くのカトリック教会に行っても、カルト宗教とちがい、とても他人行儀でそっけないです。表面的、人間的には、本当に愛の宗教だとは思えません。
理由は、
1、カルト宗教にある、何人伝道し、いくら献金すれば、天国にいけるという伝道のノルマが、神父さんはじめ、信徒にも全くない。

2、神の国に入るのには、完全な自由意志でないとはいれないので、貴方が、求めなければ、与えられません。求めよ!そうすれば与えられるだろう→求めなければ与えられない。

3、残念ですが、この見える世は、父なる神によって創られたものであるということを伝える情熱が、多くの教会に不足している事実もある。来る物は拒まず、去るものは追わずというスタンスなのが残念です。

でも、父なる神は生きていらっしゃいますし、イエスはご苦労様にも今もお働きになっていますし、聖霊は激しく貴方に、お働きになられます。
安心してください。

なんだ、年寄りとフィリピン人ばかりでないか!
マリアさんは、まるで、観音様ではないか!
十字を切るなんで、外国の習慣で、照れくさい!
やっぱり、どう見ても弱いものの集まりじゃないか!
神父は神の代理と言うが、どうもそう思えない、しかも、トイレを借りようとしたら
教会は祈るところであって、公衆便所でないといって貸してくれなかった!
カトリックは、天国に行きたいと言う結局、ご利益宗教じゃないか!
奴隷制を公認し、プロテスタント、イスラムを虐殺したのは、カトリックじゃないか!
ドイツのナチを、アルゼンチンに逃がしたオデッサという組織を助けたのは、カトリックの坊主ではないか!
などのたくさんの、躓きの石があることは、承知しています。
私もそうでしたから。
時間があれば、これらに答えていきたいと思います。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
我思う、故に神有り

「我思う、ゆえに我有り」といって、デカルトは、当時のヨーロッパ社会に、当たり前だった神の現存を否定したところから発し、すべてを否定して、仕切れない我という実存から、思惟を展開しました。これは、イエスに直接従っていきながらさえも、見えない神を見せてくれといった弟子に対する、デカルト流の答えでした。
その係留が、自然に帰れといったルソーやモンテスキューの無神論の理論的根拠となっています。
また、実存が本質を決定すると言い放ったサルトルや下部構造(肉体、脳髄、経済活動)が上部構造(精神作用、宗教心、宗教活動)を規定し、下部構造がなければ、上部構造はない、神の現存はない、あるとすれば脳細胞の生み出した幻想だ、阿片だ、そんな幻想は、近代化の足枷だ!神がいるなら殺してしまえ!幻想から脱却した超人が現れよといって脳梅毒で死後の世界を否定し狂死したニーチェといった戦闘的無神論に繋がっていったのでしょうね。

もっとも、日本の場合は、もともとキリスト教の基盤がなかっいたので、無神論までも行かない、無関心論、不可知説だと思いますが、多くの知識人と称する人々を捉えているのだと思います。

私は、
「私は、我思う、ゆえに神有り」だと思います(^.^)
思うという、観念的思惟行動は、神の形に似せて作られた霊魂ある人間しか出来ないと思います。いくら、現代人に近い類人猿が発見されたとしても、私と同じく愛、罪、に悩む存在でなければ、人間と思いませんし、アメリカの憲法で、進化論のみを教えることが禁じられているのは、日本の中途半端な知識人からすると信じられないかもしれませんが、妥当であり、進化論も仮説であり、いわいる無心論者の神がいないという信仰の範疇だと思います。

デカルトと同時代の信仰者パスカルの
「我なくんば、我を求めることなし」
「この広い宇宙の中には、知恵とか理性で解決できないものがたくさんあるとわかった人が、本当の理性を持った人だ。」
という言葉に、sympathyを覚えます。





コメント (0) |  トラックバック () |