みんなに、今、お父さんの考えていることを知ってもらいたくて、書きました。
お父さんは,5月11日;日曜日に、XXカトリック教会で、洗礼を受けます。
もちろん信仰というのは個人の問題ですし、強制されるものではないと思っています。
しかし、同じ家族の一員として、お父さんがどのように、人生などを捉えてこれから生きていこうとするのかということを知ってほしいと思います。
まず人間とは何かということをいろいろ考えてきましたが、いま確実に言えることは、人間は動物と違う存在であるということです。
今までお父さんは、人間は動物から進化してきたものだ、人生は動物から学んだ方がいい。つまり本能を満足させることが人生の目的だ。しかしお互いに本能を満足させることをしていたら、衝突や闘争が起きるのでそれをうまくまとめるために宗教、法律、社会規範などがあるのだと思ってきました。一夫一婦制を説くモーセの十戒はそれの典型だと思っていました。イスラム教のほうがより自然人としての人間の欲望を肯定して一夫多妻だと思いました。そして、人間は死んだらおしまい、生きているうちに、飲めよ、食えよ、楽しめよと思い生きてきました。
普通の人が持っている価値観は、人より有名になりたい、人に賛美されたい、人より知っていたい、お金を持っていたいというものです。こういった価値観が実現するのは今の日本においては、タレントと呼ばれる人たちです。彼らが人間性はともかく尊敬されるのは異常な現象だと思っています。テレビを見るとその様な価値観でテレビが構成されていると思います。勿論、お父さんもそう思ってきましたから、人間の価値は、地位、名誉、それらが集約されたお金、人間は、見た目が大切だと思い込んできました。
そうすると、適者生存の価値観にそぐわないもの、精神薄弱者、社会についていけない人は、いなくていい、いないほうがいいという、ヒットラーと同じ考えになりますし、学校でよくあるいじめもそんな考えの延長だと思います。
このような価値観は小さいころから学校や社会の中で植え付けられてきたものだと思っています。このように社会はいつも強いが勝ち、学歴が高い人、大きな会社、大きな組織、たくさんのお金を持つこと、こうしたものこそ良いもの、大切なものという適者生存の法則で動いていて、このような法則から自由になるのではなく、そのような法則に縛られている奴隷のような存在でした。
だからお金や地位や名誉を求めることが人生の目的であり、それを成し遂げる人は人生の成功者、できなかった人は失敗した人だという価値観で生きてきました。
人間は弱いから神様などにすがるのだ、自然界のさまざまな現象の起因を科学的に理解していないから、例えば雷などを神様の声として迷信として信じてしまうのだ、科学が進歩すればすべては明らかになるのだというふうに信じてきたのです。あるいは、結局、宗教とは、自分さえよければいいというご利益宗教だと思ってきました。多くの日本人にとって、宗教とはアクセサリーだと思います。
ところがどうもそうではないのではないかということを実感し始めたのです。
人間には、他の動物にはない決定的な要因があります。
すべては物質から成り立っているという考え方から書かれた日本の教科書でも、人間には、言語能力がある、社会を構成する能力がある、火を使う能力があると現象だけを書いていますがそれだけではないと思っています。
子供のために自分を犠牲にしたりするのは動物もやっていますが、何も知らない他人のために自分が犠牲になったりするような行為は人間しかしません。それは人間が劣っているからだ、宗教という前世紀の異物のしがらみの中にある、自己満足、自己催眠と思っていましたがそうではない精神性があることに気づかされています。
あるいは神様を信じたり、抽象的な活動つまり芸術活動、音楽や絵画などをすることができるのは人間がやはり、動物より劣っているからではなく動物にはない精神性つまり霊魂を持っていることに起因すると今は思っています。つまり、人間は、神に似せて造られたと信じます。
----------ということで、パパは、言語能力を持つ宇宙人、お祈りして、他の犬のために身代わりに死ぬことができ、哲学を語る犬がいたら神様はいないといってもいいと思いますよ(^.^)
そして人間が永遠を考えたりすることができるのは、やはり自分自身が永遠性を持っているということを実感します。
それを聖書の言葉では人間は霊魂を持っているというふうに位置づけるのです。
そしてなぜならば人間は神の似姿として創られたというふうに信じるのです。
神の似姿として創られた人間であるから、よりよい社会を求めたり、より理想を求めたり、永遠を考えたり、人ために自分が犠牲になることをすることをしたりすることができるのが人間だけだというふうに思っています。
もちろん神様は見えません。
しかし人間の五感を超えたところにある魂で感じるときに、神様は実在するということを思っています。その、センスが、強い人と弱い人がいるのも事実です。
今までは、人間の頭で神を捏造したものである、人間がいなければ神様がいないというふうに考えていましたが、人間がいる,いないにもかかわらず神様は存在している客観性を持った存在だということに今は思っています。
キリスト教では、それを神様の絶対性、現存といっています。
よく神はどこにいますかという疑問があります。でも、いまパパが思うことは、禅問答的で、宗教的パラドックスといわれようと、そのような設問は、間違っていると思うのです。神がどこにいるかというのは、1、自分の存在、理性が絶対 2、神は思考の対象=人間の造った神だと思うのです。そうじゃなくて、正しい設問は、パパはどこにいるかといわれると、神様の中にいるといいたいのです。たぶんこういうとますます解らなくなると思いますが、パパはそう感じているのです。
そして、その神様の本質、性格、は何かというとキリスト教では愛であると教えています。
愛というのは男と女の愛だけではなく、どんなものも受け入れ、自分の敵をも許すことも本当の愛の一面であるといっています。自分の生活に何ら関係ない世界の中で困っている,苦しんでいる人に関係心を持つということも愛であり、道端で倒れている人がいたら関心を少なくとも持つというのも愛の性格であるという風に考えるのがキリスト教の考え方です。多い少ないの差はありますが、そうものを持っているのはやはり人間だけだというふうに思っています。愛ということは、とても難しいですが、愛すると自分を超え、相手のことで心がいっぱいになるということです。いい例が、君たちのお母さんですね、お母さんはいつも自分のことを考えたり、優先せず、お前たち子供のために、朝早く起き、お仕事をしています。お母さんはいつも自分のことを二の次にして、お前たちのこと(ほんのちょっぴり(^.^)パパのこと)を考えています。また、お前たちが将来、異性と恋におちいると、相手のことで心がいっぱいになります。――ああ、いつのことやらーーーー。ですから、自分のことしか考えない人は自分のことでいっぱいで、エゴイズムで、寂しい人生を歩みます。なぜこのような性質が、人間にあるのでしょうか?それは、人間は、神の似姿として創られているとお父さんは考えます。
本来人間は、神様と同じ愛の内容を持って作られたのですけれどもそのような状態の中にないのがお父さんを見るとよくわかりますよね(^_^;…(^.^)
そのような状態の中にあるのが現実の人間であるというふうにキリスト教は考えます。
そして、神は見えないが、その本来の神様の愛を顕した人がイエスキリストという2,000年前に現れたユダヤ人の貧乏な大工さんの息子だというふうに信じるのがキリスト教の信仰であり、お父さんがこれから信じようとすることなのです。大工の棟梁の息子イエスが建てた家は、残っていませんが、彼の生き様、考えから発生したキリスト教は、今も生きています。
そしてこれからは非常に難しくなりますが、そのイエスキリストは1度死んだのですけれども、蘇り、今も生きていると信じるのはキリスト教の信仰です。一度死んだ人が息を吹き返す蘇生と違います。蘇生は、一度息を吹き返してもいつかは、死にます。また、今の自分は永遠に存在する、今の一瞬は、永遠に続いているという永遠の命があると信じます。つまり、死というのは、絶望でもなく、虚無、暗闇でもないということなのです。
人間の罪は赦されるということ。聖霊がいつもいるということ。イエスの教えをカトリック教会が時々間違いながらも忠実に守り、神様が働いていらっしゃるということ(ほかの宗教には神の働きがないとはいっていません。)亡くなったキリスト教の聖人たちが見守り助けてくれるということ。
そのような信じられないことを、多ければいいというのではありませんが、現在、全世界の三分の一の人が信じ、民主主義、男女平等、社会福祉、などのアイデアをギリシャローマ思想とともに、人類に提供して、歴史を引っ張ってきたのも事実です。(例えば、仏教的概念、イスラム教的概念からは、民主主義という政治理念は出てきません)
そしてそのイエスキリストは今もなお生きていらっしゃって、働いておられるというふうに信じるのがキリスト教の中心でありお父さんが信じることです。その生きたキリストに会いに行くのが、日曜日のミサなのです。
死んだ人がもう1度生き返る。ということは到底信じることは、できませんが、ましてすべては自分がわかったつもりでいるお父さんには無理だと思いますが、今,お父さんはすんなりと信じることがなぜか出来てしまっているのです。いいかえれば、自分の認識と知識が、絶対であるということを信じていた自己の限界を、やっと52歳にして、知りえたということかもしれません。それは決して理論的に妥協したとかいうのではなく、実感しているのです。あるいは実感したいと思っているのです。それを信じていこうと思っています。あるいは少なくとも信じたいと思っています。
ですから、今までお父さんは自分は生きていると思ってきましたが、実はそれは非常に傲慢な言い方で、神様によって生かされているというのが本当だと思います。
それは決して弱いからとか自分に自信がないかなとか、人生において負けたとかいうのではなく客観的な事実としてそうだとお父さんは思います。しかし、人間を超えた存在を、考えるきっかけとして、お父さんの病気、事業の撤退、支店の閉鎖,お母さんの入院などがあったことは、事実です。
だから子供たちも、実はお父さんが作ったとかいうのではなく神様に与えられたと今は思っています。
だからおまえたちも、お父さんがすべてを支配するのではなく、神様から与えられた宝物なので、みんなの自由な意思を尊重し神様から与えられたと思い大切にしようと思っているのです。ですけれども、神様から与えられた君たちをやはりお父さんは教育する義務がありますので、これからも君の部屋が散らかっていたならば、怒ると思います。
まだまだ色々と難しいことがありますが、こんなことを基本にお父さんはキリスト教を信じこれからの人生の指針にしていこうと思います。
でも誤解しないでください、キリスト教になったからといってお父さんは立派な人になるのではなく、今までのイライラしたり、パソコンが壊れたときに子供たちにイライラをぶつけたり、国家権力(警察)と交通違反などのことで戦う(^.^)エキセントリックなお父さんは変わりません(^.^)。エキセントリックを辞書で調べるようにーー
でもそのイライラをするお父さんは少なくともそういうことが間違っているから、神様によって変えていこうとする努力をしようという決意がキリスト教の入門式なのです。立派な人になったからキリスト教に入信するのではなく、そういう自分の限界を感じ、そういう限界を持った人間だからこそ神様によって新しくされるというのことが必要だと認識しているのです。でもつくづく考えて見ると、倫理、道徳、克己心などからすると、家族の中なかで、最も神様に遠いパパ(^_^;…が、洗礼を受けるのですから、神様のはからいはわかりませんね。聖書の中に、丈夫な人は医者はいらない、私(イエス)が来たのは、病人を招くためであるーーとあるとおりだと思いました(^.^)
だからこれは決して弁解でいうのではないですか、キリスト教になったかといっていつもニコニコしているお父さんではない可能性がありますが、少なくともそういうふうに目指していこうと努力しています。たとえば、君たちやおかあさんに接する時に、「受けるより、与えるは、幸いなり。何をしてほしいではなく、何をしてあげられるかを考えなさい。」というキリスト教の大先輩パウロの言葉を、念じて接するように努力しているつもりです。
またキリスト教は、
★ご利益宗教ではありません(いいことがあるために信じるのでもない:信じたからといってもいいことがない:かえっていろいろ試練がある。江戸時代のキリシタンは、踏絵を踏めば、生きていられたのに、踏まないで死んでいった。神父様は、一生独身で、家庭をもたず、私有財産はない、人と教会とイエスと神のために一生をささげる→神様とイエス様の復活がなければ、馬鹿みたい。こんな事実だけを見てマルクスという人は、すべては、物質からできている、神は人間が捏造した幻想だ。宗教は、アヘンだといったのも、現象的にはうなずけます。また、キリスト教がご利益追求であつたら、神が人間中心的に考えて全知全能で人間の捏造した神であったら、生きた人を生き返らせたという奇跡を起こしたイエスは、自分が十字架にかかったときに、奇跡を起こしませんでした。それを見て、その真意を理解せず、お前が神であったら降りてみろというのは、ご利益主義だと思います。日本のほとんどの宗教は、ご利益信仰です。日本人が宗教に求めているのもご利益です。また、キリスト者となったからといって、病気、労苦―経済的なことも含めてー、老い、死がなくなるわけではありません。しかし、神様の愛にあるとそれらが意味を持ってきますし、恵みと感じられるのです。老いと病気は、パパのふるさとが天にあることを知らせてくれるものであると思っています。苦しみから私が救われるのではなく、苦しみにより私が救われるというのがキリスト教なのです。地上に幸福を求めるのが普通ですが、じつは、目に見える幸福は、自分の健康、社会的地位と収入、家族の健康、などどれひとつが、失われても、涙の谷がくるということ、非常に微妙で危ういバランスのなかに立脚しているのだと思います。つまり、生を受けたものは、この地上が、楽園でないことを発見するのだと思います。)
★勧善懲悪ではありません(悪いことをした人を懲らしめ、神様にほめてもらおうといいことをするのでもないです。いいことをしたからといって、報われることがないかもしれません。)
★因果応報でもありません(先祖が悪いことをしたからたたりがあると考えること。)
★自力信仰でもありません(自分の努力ーーこれを勿論否定しませんがーー、だけで、キリスト者らしくなるのではなく、神様に一方的な恵み:難しい言葉で恩寵によって、キリスト者らしくなる。)
★ 運命論でもありません(すべての運命は決まっていて、人間の努力は、空しいと考えること)
★ 輪廻転生でもありません(人は死んで、生まれ変わり、次の世では、たとえば、サルになるという考え:人生は、一回限りのものだと思います)
★ 権力主義でもありません(政治と宗教を分離するのが理想と思っています。16世紀からのカトリックの国々の植民地支配、黒人奴隷の容認、免罪符の販売などは、政教分離が出来ていなかったあるいは、政治のもとにあったカトリックの負の財産であると思います。また、カトリック教会と植民地主義のスペイン、ポルトガルは別です。)
★ 二元論ではありません(私正しい、それ以外すべて間違い:キリスト教=すべて正しい:それ以外間違っているという考え方。どんなものにも神の御業(キリスト教では聖霊といいます)は働いていると考えます。特に、カトリックの会議を開いた1962年以降は、山の頂上に登るにも、いくつもの、道があると明言しています。)
★ ダブルスタンダードではありません(信仰が進んでいくと、最初に、提示した撒き餌のようなスローガンと相反する教義を信じらざろおえなくする=カルト宗教の特徴:ローマ教皇(PAPAといいます)とおまえたちのパパ(^.^)が信じているのは、全く同じ内容ですし、ローマ教皇にも専属の悔い改めの司祭がいます。ノーベル賞を受賞したマザーテレサの亡くなったときの私有財産は、ぼろぼろになったサンダルとスプーン一本でした。信じ込んで(^.^)だまされることはありません、現実的には、カトリックほどお金のかからない宗教はありません。教会に通って、一年になりますが、一銭も必要ありませんでした(^.^)
★ 相対主義ではありません(すべては、相対的で、絶対的な神などはいないという考え方。)
★ 現世主義ではありません(現実の世界のみがすべてであるという観点から人生観を構築すること。日本人は類型的にこの思考方法が多いです。多くの日本人は、目に見えないものを信じません。)
★ 古い因習にとらわれた前世紀の遺物ではありません(日本の間違った歴史観で書かれた教科書は、カトリックの堕落した結果、それに、抗議PROTESTする意味で、プロテスタントが生まれたと書いてあり、君たちの歴史認識もそうだと思います。実際は、ルターが告発したのは、当時の形骸化した政治と一つとなった社会体制としての教会です。しかし、ルター以降のカトリック教会の刷新(イエズス会、第二バチカン公会議など)により、プロテスタントのかたがたが、抗議する内容は、カトリック教会には存在していなく、プロテスタントが立つ基盤は今はありません。詳しいことは、また話しますね。)
そんなことを信じながらおとうさんは5月11日にキリスト教に入信しようと思います。
もちろんお前たちには強制しませんが、その入信する儀式(洗礼式といいます)に
一緒に来て見守ってほしいと思います。キリスト教であげる結婚式に、宗派は違えど、親戚が出席することと同じだと思ってください。
入信したからといって、日常生活には変化はありません。安心してください(^.^)
ただ、何かの決断、価値判断の時に、キリスト教の信仰が顕現するかも知れません。
例えば、神様がお創りになったもので、無駄なものはありえませんと信じます。よって、人を、性、人種、外見、国籍、能力などで差別しないように、するのが教会の教えです。同じ理由から、あらゆる中絶、死刑、戦争には、反対の立場をとります。
また、キリスト教は、死の問題も考えています。死を考えことは、平均的日本人にとっては、忌むべきもの、禁忌すべきもの、不吉なもの、あるいは、人は自分は死なないと思い生きていると思いますが、生まれたら、老いて、病気になり、死んでいくのが、人間の営みです。それに対して、キリスト教では、答えを出しています。
そんなことから、1.お父さんが交通事故などで死にそうになったら、教会に電話して、海外でも、病院でもどこでも、神父様に来てもらってください。XX教会03−3xxx−XXXX:死を迎える前に、神父様にお会いする必要があります。2、お葬式は、神父様と相談して、カトリック式でやってください。宜しくお願いします(^.^)
(実は、こう書いておくと、なかなか死なないものです(^.^)
なお、洗礼名は、パウロとなります。
お父さんは,5月11日;日曜日に、XXカトリック教会で、洗礼を受けます。
もちろん信仰というのは個人の問題ですし、強制されるものではないと思っています。
しかし、同じ家族の一員として、お父さんがどのように、人生などを捉えてこれから生きていこうとするのかということを知ってほしいと思います。
まず人間とは何かということをいろいろ考えてきましたが、いま確実に言えることは、人間は動物と違う存在であるということです。
今までお父さんは、人間は動物から進化してきたものだ、人生は動物から学んだ方がいい。つまり本能を満足させることが人生の目的だ。しかしお互いに本能を満足させることをしていたら、衝突や闘争が起きるのでそれをうまくまとめるために宗教、法律、社会規範などがあるのだと思ってきました。一夫一婦制を説くモーセの十戒はそれの典型だと思っていました。イスラム教のほうがより自然人としての人間の欲望を肯定して一夫多妻だと思いました。そして、人間は死んだらおしまい、生きているうちに、飲めよ、食えよ、楽しめよと思い生きてきました。
普通の人が持っている価値観は、人より有名になりたい、人に賛美されたい、人より知っていたい、お金を持っていたいというものです。こういった価値観が実現するのは今の日本においては、タレントと呼ばれる人たちです。彼らが人間性はともかく尊敬されるのは異常な現象だと思っています。テレビを見るとその様な価値観でテレビが構成されていると思います。勿論、お父さんもそう思ってきましたから、人間の価値は、地位、名誉、それらが集約されたお金、人間は、見た目が大切だと思い込んできました。
そうすると、適者生存の価値観にそぐわないもの、精神薄弱者、社会についていけない人は、いなくていい、いないほうがいいという、ヒットラーと同じ考えになりますし、学校でよくあるいじめもそんな考えの延長だと思います。
このような価値観は小さいころから学校や社会の中で植え付けられてきたものだと思っています。このように社会はいつも強いが勝ち、学歴が高い人、大きな会社、大きな組織、たくさんのお金を持つこと、こうしたものこそ良いもの、大切なものという適者生存の法則で動いていて、このような法則から自由になるのではなく、そのような法則に縛られている奴隷のような存在でした。
だからお金や地位や名誉を求めることが人生の目的であり、それを成し遂げる人は人生の成功者、できなかった人は失敗した人だという価値観で生きてきました。
人間は弱いから神様などにすがるのだ、自然界のさまざまな現象の起因を科学的に理解していないから、例えば雷などを神様の声として迷信として信じてしまうのだ、科学が進歩すればすべては明らかになるのだというふうに信じてきたのです。あるいは、結局、宗教とは、自分さえよければいいというご利益宗教だと思ってきました。多くの日本人にとって、宗教とはアクセサリーだと思います。
ところがどうもそうではないのではないかということを実感し始めたのです。
人間には、他の動物にはない決定的な要因があります。
すべては物質から成り立っているという考え方から書かれた日本の教科書でも、人間には、言語能力がある、社会を構成する能力がある、火を使う能力があると現象だけを書いていますがそれだけではないと思っています。
子供のために自分を犠牲にしたりするのは動物もやっていますが、何も知らない他人のために自分が犠牲になったりするような行為は人間しかしません。それは人間が劣っているからだ、宗教という前世紀の異物のしがらみの中にある、自己満足、自己催眠と思っていましたがそうではない精神性があることに気づかされています。
あるいは神様を信じたり、抽象的な活動つまり芸術活動、音楽や絵画などをすることができるのは人間がやはり、動物より劣っているからではなく動物にはない精神性つまり霊魂を持っていることに起因すると今は思っています。つまり、人間は、神に似せて造られたと信じます。
----------ということで、パパは、言語能力を持つ宇宙人、お祈りして、他の犬のために身代わりに死ぬことができ、哲学を語る犬がいたら神様はいないといってもいいと思いますよ(^.^)
そして人間が永遠を考えたりすることができるのは、やはり自分自身が永遠性を持っているということを実感します。
それを聖書の言葉では人間は霊魂を持っているというふうに位置づけるのです。
そしてなぜならば人間は神の似姿として創られたというふうに信じるのです。
神の似姿として創られた人間であるから、よりよい社会を求めたり、より理想を求めたり、永遠を考えたり、人ために自分が犠牲になることをすることをしたりすることができるのが人間だけだというふうに思っています。
もちろん神様は見えません。
しかし人間の五感を超えたところにある魂で感じるときに、神様は実在するということを思っています。その、センスが、強い人と弱い人がいるのも事実です。
今までは、人間の頭で神を捏造したものである、人間がいなければ神様がいないというふうに考えていましたが、人間がいる,いないにもかかわらず神様は存在している客観性を持った存在だということに今は思っています。
キリスト教では、それを神様の絶対性、現存といっています。
よく神はどこにいますかという疑問があります。でも、いまパパが思うことは、禅問答的で、宗教的パラドックスといわれようと、そのような設問は、間違っていると思うのです。神がどこにいるかというのは、1、自分の存在、理性が絶対 2、神は思考の対象=人間の造った神だと思うのです。そうじゃなくて、正しい設問は、パパはどこにいるかといわれると、神様の中にいるといいたいのです。たぶんこういうとますます解らなくなると思いますが、パパはそう感じているのです。
そして、その神様の本質、性格、は何かというとキリスト教では愛であると教えています。
愛というのは男と女の愛だけではなく、どんなものも受け入れ、自分の敵をも許すことも本当の愛の一面であるといっています。自分の生活に何ら関係ない世界の中で困っている,苦しんでいる人に関係心を持つということも愛であり、道端で倒れている人がいたら関心を少なくとも持つというのも愛の性格であるという風に考えるのがキリスト教の考え方です。多い少ないの差はありますが、そうものを持っているのはやはり人間だけだというふうに思っています。愛ということは、とても難しいですが、愛すると自分を超え、相手のことで心がいっぱいになるということです。いい例が、君たちのお母さんですね、お母さんはいつも自分のことを考えたり、優先せず、お前たち子供のために、朝早く起き、お仕事をしています。お母さんはいつも自分のことを二の次にして、お前たちのこと(ほんのちょっぴり(^.^)パパのこと)を考えています。また、お前たちが将来、異性と恋におちいると、相手のことで心がいっぱいになります。――ああ、いつのことやらーーーー。ですから、自分のことしか考えない人は自分のことでいっぱいで、エゴイズムで、寂しい人生を歩みます。なぜこのような性質が、人間にあるのでしょうか?それは、人間は、神の似姿として創られているとお父さんは考えます。
本来人間は、神様と同じ愛の内容を持って作られたのですけれどもそのような状態の中にないのがお父さんを見るとよくわかりますよね(^_^;…(^.^)
そのような状態の中にあるのが現実の人間であるというふうにキリスト教は考えます。
そして、神は見えないが、その本来の神様の愛を顕した人がイエスキリストという2,000年前に現れたユダヤ人の貧乏な大工さんの息子だというふうに信じるのがキリスト教の信仰であり、お父さんがこれから信じようとすることなのです。大工の棟梁の息子イエスが建てた家は、残っていませんが、彼の生き様、考えから発生したキリスト教は、今も生きています。
そしてこれからは非常に難しくなりますが、そのイエスキリストは1度死んだのですけれども、蘇り、今も生きていると信じるのはキリスト教の信仰です。一度死んだ人が息を吹き返す蘇生と違います。蘇生は、一度息を吹き返してもいつかは、死にます。また、今の自分は永遠に存在する、今の一瞬は、永遠に続いているという永遠の命があると信じます。つまり、死というのは、絶望でもなく、虚無、暗闇でもないということなのです。
人間の罪は赦されるということ。聖霊がいつもいるということ。イエスの教えをカトリック教会が時々間違いながらも忠実に守り、神様が働いていらっしゃるということ(ほかの宗教には神の働きがないとはいっていません。)亡くなったキリスト教の聖人たちが見守り助けてくれるということ。
そのような信じられないことを、多ければいいというのではありませんが、現在、全世界の三分の一の人が信じ、民主主義、男女平等、社会福祉、などのアイデアをギリシャローマ思想とともに、人類に提供して、歴史を引っ張ってきたのも事実です。(例えば、仏教的概念、イスラム教的概念からは、民主主義という政治理念は出てきません)
そしてそのイエスキリストは今もなお生きていらっしゃって、働いておられるというふうに信じるのがキリスト教の中心でありお父さんが信じることです。その生きたキリストに会いに行くのが、日曜日のミサなのです。
死んだ人がもう1度生き返る。ということは到底信じることは、できませんが、ましてすべては自分がわかったつもりでいるお父さんには無理だと思いますが、今,お父さんはすんなりと信じることがなぜか出来てしまっているのです。いいかえれば、自分の認識と知識が、絶対であるということを信じていた自己の限界を、やっと52歳にして、知りえたということかもしれません。それは決して理論的に妥協したとかいうのではなく、実感しているのです。あるいは実感したいと思っているのです。それを信じていこうと思っています。あるいは少なくとも信じたいと思っています。
ですから、今までお父さんは自分は生きていると思ってきましたが、実はそれは非常に傲慢な言い方で、神様によって生かされているというのが本当だと思います。
それは決して弱いからとか自分に自信がないかなとか、人生において負けたとかいうのではなく客観的な事実としてそうだとお父さんは思います。しかし、人間を超えた存在を、考えるきっかけとして、お父さんの病気、事業の撤退、支店の閉鎖,お母さんの入院などがあったことは、事実です。
だから子供たちも、実はお父さんが作ったとかいうのではなく神様に与えられたと今は思っています。
だからおまえたちも、お父さんがすべてを支配するのではなく、神様から与えられた宝物なので、みんなの自由な意思を尊重し神様から与えられたと思い大切にしようと思っているのです。ですけれども、神様から与えられた君たちをやはりお父さんは教育する義務がありますので、これからも君の部屋が散らかっていたならば、怒ると思います。
まだまだ色々と難しいことがありますが、こんなことを基本にお父さんはキリスト教を信じこれからの人生の指針にしていこうと思います。
でも誤解しないでください、キリスト教になったからといってお父さんは立派な人になるのではなく、今までのイライラしたり、パソコンが壊れたときに子供たちにイライラをぶつけたり、国家権力(警察)と交通違反などのことで戦う(^.^)エキセントリックなお父さんは変わりません(^.^)。エキセントリックを辞書で調べるようにーー
でもそのイライラをするお父さんは少なくともそういうことが間違っているから、神様によって変えていこうとする努力をしようという決意がキリスト教の入門式なのです。立派な人になったからキリスト教に入信するのではなく、そういう自分の限界を感じ、そういう限界を持った人間だからこそ神様によって新しくされるというのことが必要だと認識しているのです。でもつくづく考えて見ると、倫理、道徳、克己心などからすると、家族の中なかで、最も神様に遠いパパ(^_^;…が、洗礼を受けるのですから、神様のはからいはわかりませんね。聖書の中に、丈夫な人は医者はいらない、私(イエス)が来たのは、病人を招くためであるーーとあるとおりだと思いました(^.^)
だからこれは決して弁解でいうのではないですか、キリスト教になったかといっていつもニコニコしているお父さんではない可能性がありますが、少なくともそういうふうに目指していこうと努力しています。たとえば、君たちやおかあさんに接する時に、「受けるより、与えるは、幸いなり。何をしてほしいではなく、何をしてあげられるかを考えなさい。」というキリスト教の大先輩パウロの言葉を、念じて接するように努力しているつもりです。
またキリスト教は、
★ご利益宗教ではありません(いいことがあるために信じるのでもない:信じたからといってもいいことがない:かえっていろいろ試練がある。江戸時代のキリシタンは、踏絵を踏めば、生きていられたのに、踏まないで死んでいった。神父様は、一生独身で、家庭をもたず、私有財産はない、人と教会とイエスと神のために一生をささげる→神様とイエス様の復活がなければ、馬鹿みたい。こんな事実だけを見てマルクスという人は、すべては、物質からできている、神は人間が捏造した幻想だ。宗教は、アヘンだといったのも、現象的にはうなずけます。また、キリスト教がご利益追求であつたら、神が人間中心的に考えて全知全能で人間の捏造した神であったら、生きた人を生き返らせたという奇跡を起こしたイエスは、自分が十字架にかかったときに、奇跡を起こしませんでした。それを見て、その真意を理解せず、お前が神であったら降りてみろというのは、ご利益主義だと思います。日本のほとんどの宗教は、ご利益信仰です。日本人が宗教に求めているのもご利益です。また、キリスト者となったからといって、病気、労苦―経済的なことも含めてー、老い、死がなくなるわけではありません。しかし、神様の愛にあるとそれらが意味を持ってきますし、恵みと感じられるのです。老いと病気は、パパのふるさとが天にあることを知らせてくれるものであると思っています。苦しみから私が救われるのではなく、苦しみにより私が救われるというのがキリスト教なのです。地上に幸福を求めるのが普通ですが、じつは、目に見える幸福は、自分の健康、社会的地位と収入、家族の健康、などどれひとつが、失われても、涙の谷がくるということ、非常に微妙で危ういバランスのなかに立脚しているのだと思います。つまり、生を受けたものは、この地上が、楽園でないことを発見するのだと思います。)
★勧善懲悪ではありません(悪いことをした人を懲らしめ、神様にほめてもらおうといいことをするのでもないです。いいことをしたからといって、報われることがないかもしれません。)
★因果応報でもありません(先祖が悪いことをしたからたたりがあると考えること。)
★自力信仰でもありません(自分の努力ーーこれを勿論否定しませんがーー、だけで、キリスト者らしくなるのではなく、神様に一方的な恵み:難しい言葉で恩寵によって、キリスト者らしくなる。)
★ 運命論でもありません(すべての運命は決まっていて、人間の努力は、空しいと考えること)
★ 輪廻転生でもありません(人は死んで、生まれ変わり、次の世では、たとえば、サルになるという考え:人生は、一回限りのものだと思います)
★ 権力主義でもありません(政治と宗教を分離するのが理想と思っています。16世紀からのカトリックの国々の植民地支配、黒人奴隷の容認、免罪符の販売などは、政教分離が出来ていなかったあるいは、政治のもとにあったカトリックの負の財産であると思います。また、カトリック教会と植民地主義のスペイン、ポルトガルは別です。)
★ 二元論ではありません(私正しい、それ以外すべて間違い:キリスト教=すべて正しい:それ以外間違っているという考え方。どんなものにも神の御業(キリスト教では聖霊といいます)は働いていると考えます。特に、カトリックの会議を開いた1962年以降は、山の頂上に登るにも、いくつもの、道があると明言しています。)
★ ダブルスタンダードではありません(信仰が進んでいくと、最初に、提示した撒き餌のようなスローガンと相反する教義を信じらざろおえなくする=カルト宗教の特徴:ローマ教皇(PAPAといいます)とおまえたちのパパ(^.^)が信じているのは、全く同じ内容ですし、ローマ教皇にも専属の悔い改めの司祭がいます。ノーベル賞を受賞したマザーテレサの亡くなったときの私有財産は、ぼろぼろになったサンダルとスプーン一本でした。信じ込んで(^.^)だまされることはありません、現実的には、カトリックほどお金のかからない宗教はありません。教会に通って、一年になりますが、一銭も必要ありませんでした(^.^)
★ 相対主義ではありません(すべては、相対的で、絶対的な神などはいないという考え方。)
★ 現世主義ではありません(現実の世界のみがすべてであるという観点から人生観を構築すること。日本人は類型的にこの思考方法が多いです。多くの日本人は、目に見えないものを信じません。)
★ 古い因習にとらわれた前世紀の遺物ではありません(日本の間違った歴史観で書かれた教科書は、カトリックの堕落した結果、それに、抗議PROTESTする意味で、プロテスタントが生まれたと書いてあり、君たちの歴史認識もそうだと思います。実際は、ルターが告発したのは、当時の形骸化した政治と一つとなった社会体制としての教会です。しかし、ルター以降のカトリック教会の刷新(イエズス会、第二バチカン公会議など)により、プロテスタントのかたがたが、抗議する内容は、カトリック教会には存在していなく、プロテスタントが立つ基盤は今はありません。詳しいことは、また話しますね。)
そんなことを信じながらおとうさんは5月11日にキリスト教に入信しようと思います。
もちろんお前たちには強制しませんが、その入信する儀式(洗礼式といいます)に
一緒に来て見守ってほしいと思います。キリスト教であげる結婚式に、宗派は違えど、親戚が出席することと同じだと思ってください。
入信したからといって、日常生活には変化はありません。安心してください(^.^)
ただ、何かの決断、価値判断の時に、キリスト教の信仰が顕現するかも知れません。
例えば、神様がお創りになったもので、無駄なものはありえませんと信じます。よって、人を、性、人種、外見、国籍、能力などで差別しないように、するのが教会の教えです。同じ理由から、あらゆる中絶、死刑、戦争には、反対の立場をとります。
また、キリスト教は、死の問題も考えています。死を考えことは、平均的日本人にとっては、忌むべきもの、禁忌すべきもの、不吉なもの、あるいは、人は自分は死なないと思い生きていると思いますが、生まれたら、老いて、病気になり、死んでいくのが、人間の営みです。それに対して、キリスト教では、答えを出しています。
そんなことから、1.お父さんが交通事故などで死にそうになったら、教会に電話して、海外でも、病院でもどこでも、神父様に来てもらってください。XX教会03−3xxx−XXXX:死を迎える前に、神父様にお会いする必要があります。2、お葬式は、神父様と相談して、カトリック式でやってください。宜しくお願いします(^.^)
(実は、こう書いておくと、なかなか死なないものです(^.^)
なお、洗礼名は、パウロとなります。
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