だって神様いるんだもん   ありがとうございます:ごめんなさい:おねがいします:おまかせします:賛美します

日本には、0.04%しかいないカトリック信徒。世界中を仕事で飛び廻り神様に出会った。

2050年の日本の現実

2010年03月23日 14時30分19秒 | Weblog
2050年の日本の現実
★日本人男性の平均余命が90歳、女性が100歳。
100歳のおばあちゃん、90歳のおじいちゃん、
80歳の息子、75歳の嫁、
60歳の孫
40歳のひ孫というのがモデル家庭になるときがもうすぐ来る。
国民年金ができた昭和20年代は、65歳で人は、鬼籍に入った。
 依って当時の年金支給開始は、65歳からで正解であった。
現在、60歳の人は、平均寿命が、78歳ぐらいであるから、あと15-18年生きればいいと思っているが、それは今78歳の人であって、実は、あと30年、女性は、40年生きなければならない。
今、40歳の人は、あと残念ながらお疲れ様ですが、60年生きなければならない。
肉体的死が来る前に、定年という社会的死が訪れ、その後、30-40年生きなければならない。30-40年と言ったら、江戸時代の人の一生ぐらいを生き切らねばならない。
今だかって人類が体験したことのない時代に突入しつつある。
いや、俺は、75歳で死ぬという人ほど長生きする。
★総人口:9000万人 →人口が激減して経済や社会制度は崩壊
    (ちなみに2100年は、1000万人)
★平均年齢:57.9歳 →ジジババ王国
★高齢者人口:3900万人 →総人口の4割強が老人
★生産年齢人口:4600万人 →現役世代1人で老人1人を支える
★年少者人口:600万人 →子供はもはや絶滅危惧種
★年金の破たん  昭63年  平10年  平22年  2050年
税収       50兆円  49兆円  37兆円  20兆円
社会保障費    10兆円  14兆円  27兆円  50兆円(破綻)
★2020年の非婚率は、男3人、女性4人に一人は、結婚しない。
つまり、子供もいなく、孤独死の可能性が多い。
★日本の離婚率は、38%、つまり、10組に4組が離婚して、やはり孤独死の要員に入る。日本の夫婦は、結婚してしまったら、おとうさん、お母さんと呼びあい、緊張し愛し合う夫婦関係を維持せず、それをほかに求める傾向があり、子供の独立、定年とともに離婚するケースが多い。もっとも夫婦に愛情を求める欧米は、離婚率50−60%で、若年離婚が多い。
――――――――――――――――――――――――――――
我々は、人類史上、誰も経験しなかった時代に生きていると思います。
多分、イエス様に時代は、平均寿命45-50歳じゃないかと思います。
また、33歳で十字架にかかられたイエス様は、老後の苦しみを御知りななっていなくても、十字架上の苦しみがすべてを凌駕して、我々を、抱いて下さってくれていらっしゃると思います。

そんな現代に、キリスト教信仰の持つ意義は大きいと思います。
死とは?ー霊肉の分離
人生とは?ー至福直観に至る準備
老いとは?ー外なる人は滅びても、内なる人は日々新たにされています。
死後はあるのか?−−天地の創造の完結としての終末と永遠の生命を受け継ぐ復活の約束
人間関係と孤独ーー天の国では、娶ったりしなく、個人として完成する
に明確に答えてて、生きることに意味を与え、希望をもたらすからです。
また、カトリックの神父、スールの方は、家庭を持たず、老後も一人ですが、神様とともにある喜びと見事な老後を見せてくれています。

こんな時代に、我々、福音を知っているものの職務は大きいと思います。
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1 2010年03月22日 20:47 閻魔さくや >人生とは?
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イエス様ならどうされるか

2010年03月17日 02時35分04秒 | Weblog
★第1回「現代を生きるキリスト教」
大量生産大量消費社会:人はパンのみに生きることによって、死んでいる社会:お金が万能
功利的に考える:永遠性のない神なき刹那的社会:罪の世:過ぎさりゆくもの
共鳴と不条理;人間、自然
 受難と復活:苦しみよる神体験
産みの苦しみの初め@現代@黙示録
物と人:物質文明  神と人と物:3項関係
 神様@宇宙すべてを包む慈しみと配慮を持つておられる方@世は神の慈しみと配慮に満ちている
 イエズス@如何に生きるか、何が大切か
   →自分のためではなく、十字架を通して人を生かすことを教える
   @イエズスによってこの世で生きる指針を与えられる
神の命、慈しみが、何時も何時も働いている
神の御いのちは実は経験できる→生きる縦軸@人生の縦軸と横軸
足を洗われ、十字架にかかられたイエス様ならどうされるか
受けるより、与えることを考えよ
1、世は、神の慈しみ、世話が何時も働いている:。この世は仮の世:恩寵が何時も=至福直観=天国
  終末における創造の完成、復活における永遠の命が約束されている
2、足を洗われ、十字架にかかられたイエス様が、
  人生の目的は、自分のためではなく、
  十字架を通して人を生かすこと、与えることを教えてくださった
3、イエス様ならどうされるか
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おはなし

2010年01月30日 23時31分45秒 | Weblog
おとぎ話

テレサは、濃い霧で包まれた国に生まれ、太陽のさんさんと輝く国を知らなかった。
濃い霧が当たり前であると思っていた。
それなりに、楽しみはあったし、自分を忘れる瞬間はあったが、いつも、自分の生きる意味など知らないゆえか、これでいいのか?と思っていた。

でも、太陽のさんさん降り注ぐ光の国の王様が、33年間、この濃い霧の国に来られた。

そして、
太陽のさんさん輝き、濃い霧に覆われていない光の国があること
そこに行くには、王様を信じついていくこと
その国には、お金、名誉、地位、業績はもっていけないこと
あなたの生きる命は、あなたの持ち物でないこと
霧の国で、生きることにそんなに思い煩わないでいいこと
大丈夫、なんとかなる、王様のお父さんがいること
あなたの髪の毛の数まで、王様のお父さんは知ってこと
そしていつもともにいること
王様に会いたければ、教会でミサに与るか、困った人が王様だから困った人を訪ねること
王様と同じように、霧の国で、重荷を背負うこと
霧の国の住民にいじめられたら、飛んでよろこぶこと
など、霧の国の住民にはまったく理解できない価値観を、示して、もう一度来るよ、その時まで私の言葉を守ってね、大丈夫、私の代わりに、いつもともにいる聖霊さんというハトを置いて行くよ、と言われて、太陽の国に帰られた。

テレサは、王様が光の国の話をしてくださったので、それが作り話ではなく、事実であると解った。実は、王様のおとうさんがわからせてくださったのですがーーー
また、光の国が、本来の懐かしい故郷で、霧の国が、仮の世、刹那的、居留地、島流しであることが分かり、光の国に行くことが、人生の目的となった。
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イエス様のいわはっいたこと

2010年01月11日 12時01分16秒 | Weblog
あなたの生きる命は、あなたの持ち物でない。

信仰も自分のものじゃなくて、与えられるものだよ。
あなたが神を信じるんでなく、信じさせてくださるんだよ。
私は、ここにいるよ。
安心しなさい。

財産を、天国に持って行くことはできない。

私があなたにあげるものは全部無料だよ。
だから、隣の人にも、無償であげなさい。
信仰を続けるうえで、お金がかかるほど天のお父さんと遠いよ。
その点、カトリックは、一番安上がりだよ(^o^)
いやある意味で、一番お金がかかるかも、
具体的な金員の要求がないが、神様に全部、自分ごと、返す作業だと思う。

生きることにそんなに思い煩うな。
大丈夫、なんとかなる、天のお父さんがいるよ。
あなたの髪の毛の数まで、天のお父さんは知ってるよ。
そしていつもともにいる。
大丈夫、安心なさい。
楽天的に生きる。素晴らしい言葉だね。

今までは、自分勝手だから、挫折はあっても、人生に迷いはなかったさ。
自分の欲望のままに生きればよかったんだからね。
でも、洗礼を受けた瞬間から、
聖霊に満たされる恵みの時と、
古き我が支配するすさみの時があるよ。
よく、そのことを知ってね。

聖霊が働くと、結果として、君は、
愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制に満たされるよ。
愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制に満たされていないときは、
いくら良く見え、一時的には、楽しくても、永遠性のない神様と関係ない古いあなたの状態さ。
ギャンブル、不摂生、永遠性のないただの気晴らしの楽しみ(楽しみと喜びは、全く違うよ)などは、私とともにいない時さ。楽しいテレビ観賞、ゴルフ、釣、旅行、グルメ、やっていても、永遠と関係なければ、時間の無駄、ただの楽しみさ。

いままでは、自分の心は、自分のものであり、自分の決断だと思っていたが、そうではなく、神の子となった今は、聖霊とともにあるか、聖霊でないもの(人はサタンという言葉で総称する)に引きずられているかだよ。サタンは、何も悪いことをさせるおどろおどろしい存在ではなく、神様から離れさせようとする力さ。
私も、神の国を述べ伝えようとした当初、戦ったよ。
私と聖霊とともにいなさい。絶えず、祈りなさい。
自分がどんな存在かよく知りなさい。
苦しいことがあったら私を呼びなさい。
真理と私と聖霊は、あなたを、自由にするよ。
そして、洗礼を受けたとき、悪と戦うと、あなたは宣言したんだよ。
まず、聖霊に助けられ、自分の悪を認識し、治めなさい。

お祈りを軽んじる人は、天のお父さんを失い、人生を失うよ。

あなたがこれを見ていて、
意識する我、自我は、実は神様の分霊で、天のお父さんそのものだよ。

私を信じれば、死んでも死なないよ。
今の瞬間は、永遠に続いてるんだよ。

私が生まれてきたのは、死ぬためだよ。
私と同じように、十字架を、逃げないで、背負ってくると、神の命を受け継げるよ。
あなたの死も、そうだよ。
日々の挫折、試練、苦難は、私も経験した不条理な十字架の死のための訓練だよ。

オバマ、ビルゲイツ、キムタクになっても、魂を失ったら、生きた価値、意味がないよ。
問題は、あなたが生かされた目的、つまり、魂の救いと天国実現だよ。
生き甲斐、楽しみ、欲望の充足、世の中で役に立つか経たないか、はそれに付いてくるもので、目的でないよ。
生き甲斐、楽しみ、欲望の充足、がなく、世の中で役に立たないと思えるお年寄りも病気の人も生きてる価値がある。
いや、かえって、自分の無力を知ってるということで、天のお父さんに、出会えるチャンスがあるよ。

恐ろしい神様でなく、愛と許しのアバパーテル@おとうさんだよ。

天のお父さんは許すのが、趣味だよ。だから私が来たのさ。

私に会いたければ、ミサに来なさい。あるいは、困ってる、弱い人、それが私だ。
あなたのそばにいつもいるよ。
よく見たら、あなたは、私におぶさってるんだよ。

どんな偉大なことしたかでなく、どれほど心をこめたかだよ。

あなたの罪のため、私は十字架にかかったんだから、もう天のお父さんの前に、堂々としなさい。
天国にてーー
 この人はいろいろ自分のことを責めているけど、その罪のために私が十字架にかかった んだから許してください。

罪とは、万引きなど悪いことをしたというより、その万引きの許しも含めて、私と天のお父さんに委ね切れないことだよ。

人はパンだけで生きるんでないよ。天のお父さんの言葉で生きるんだよ。
 また、パンだけで生きることで、死んでいることがあるよ。

良心が痛んでも、まだ安心しなさい。
天のお父さんは、私たちの心よりも大きく、すべて知ってるからね。
ヨハネというわが弟子が書いてるよ。

放蕩していたあなたが帰ってきたことで十分さ
聖書のあの放蕩息子のお父さんは、息子の罪の告白を聞いていないよ。
問題は、どんな事をしたかでないのさ。
ただ、帰ってきたこと自体がうれしいのさ。
でも、罪は、今後、犯さないようにしようね。

例えば、天の国に行くというのは、ここからニューヨークにいるお父さんの家に、行くようなものさ。
目的地は同じでも、飛行機のファーストクラスで、エコノミークラスで、船でなど、方法の違いさ。行きつくところは同じ。
その時、お土産(罪)が多い人と少ない人がいるが、みんな最終的には、一緒にお父さんのところに、行くんだよ。

不確かなことがほとんどの世の中で、100年後は、これを読んでるあなたを含め、
誰も生きていないということだよ。
そして、私とともに、天国にいることも確かだよ。
安心しなさい。

みんな自分の物差しで、計るんだ。
あなたの物差しで考える神様は、多分、いらっしゃらないよ。
どうだね、一度、あなたというコップの水を全部捨てて、私の言っていることで満たしてみたら。
そしたら、天のお父様が、そこにいらっしゃるよ。

天のお父さんは絶対者だよ。
人間は、他の動物と違い、天のお父さんに似せて、永遠、絶対に造られた。
だから、絶対的な天のお父さんを、自分のものにするまで、本当の安らぎ、喜びがない。
仕方なく、相対的な自分を、絶対化し、相対的な世俗の価値を絶対化して生きている。
 それが人間の不幸のゆえんです。
また、聖霊とともにあるときは、天のお父さんが絶対者として感じられ、この世の事象すべてが、相対として感じられるが、
信仰がない時、信仰を得る前は、この世の見えるもの、自分の判断が絶対で、
天のお父さんは人間の想像、捏造したものであるという相対としてしか感じられないよ。
絶対的なものを、相対的に、おとしめ、
相対的なものを、絶対化するのが、人間の傾向だよ。

私に会い、信じると、
生きる目的、
価値観、
希望、
考え方
すべて変わるよ。そして、それらは永遠に続くものとなるよ。
人が変わる、これほどの奇跡はないよ。
このことが起きるのは、洗脳でも思いこみでもなく、天のお父さんが生きておられ、
復活した私がともにいて、聖霊が働くからさ。

私の言った言葉、聖書の言葉は、復活の事実も含め全部、正しく客観的事実だよ。
君も全部、いつかは、経験して、実感するよ。追体験が認識さ。
ただ、それには時間がかかるが、信仰をもてば、一気にその時間を短縮し、
今、全部自分のものになるよ。

殉教なんか、いまどき、したくてもできないさ。
でも、なんで生きることに執着する弱い人間が、殉教していったのか?
それは、自分が自分でなく、聖霊が働くからだよ。
  スレ主paoloの私語→今は絶対殉教などしたくない。逃げ出すさ。と思っていても、私もその場に立ったら、聖霊が働くのか?怖いな。(^o^)

聖書に書いてある「情欲の眼をもって女を見るな」などの言葉は、
君の中に悪いものが潜んでいて、自分が何かを気付かせるんだよ。
で、そんなことはできないと自分に絶望することが大事だよ。
だから私を呼びなさい。
絶望出来たら、私をよく見なさい。私の懐に飛び込んできなさい。
あなたの代わりに地獄の苦しみをもう受けたんだから、安心して任せなさい。

頑張れば神様なしで生きられると思う錯覚をやめなさいな。
頑張んなくっていいんだよ。
そんなことできる人いないさ。
私だって、ペテロ君などの弟子から離れて一人祈るんだよ
重荷を私に預けなさい。
頑張るなら、私を信じることに頑張りなさい。
自分に絶望することも必要だよ。その絶望があると、私の十字架がわかるよ。
そしたら、無理しない、あるがままの自分で、自由に生きられるよ。

人生の究極的価値は、この世、地上になく、天のお父様にあるんだよ。

弱い未亡人が、裁判官に訴えたように、天のお父さんにしつこく訴え祈りなさいな。
必ず聞いてくれるよ。

★この世的に見たら、永遠を考えなかったら、有力領主の息子で、お金、名誉に富んでいた聖フランシスコ ザビエルが、すべてを捨てて、老後と今生きることに何の保証もなく、殉教の可能性のある日本伝道に来て、リンゴをお手玉にしながら、口笛吹きながら、日本の東海道を、微笑みながら喜びとともに、歩けた理由。
1、たとえ全世界をもうけても、自分の命を損したら何の益あらんや。
2、当時の織田信長からすると、驚愕、信じられないことであるが、スペインから日本に来ることは、神様、永遠、宇宙という価値観から見たら、塵芥が、隅から隅に、ちょっと動くだけのこと。
3、生きておられる神様、復活されたイエス様、いつも働いている聖霊がともにいる実感

日本人のシスター、外国籍の神父様の海外宣教も同じ理由。

楽しみーーー刹那的、空しい、神の宮である自分を、欲望で満たす永遠性のない行為。
喜びーーー永遠に続き、神につながる人が本来創造された目的的行為。
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人は、神を賛美し、敬い、仕えることによって、自らの霊魂を救済するように、

2010年01月11日 07時39分06秒 | Weblog
イグナチオ ロヨラが、霊操の中で、
人は、神を賛美し、敬い、仕えることによって、自らの霊魂を救済するように、
造られている。
と言い切っています。
造られている。
何と素晴らしい言葉でしょうか。
永遠を目指して作られているので、神様という永遠絶対的なものを、獲得し、自分の重心にしないまでは、完全な安らぎがないとアウグスチヌスは、言いきっています。

そして、神:自分:世の関係で、世はその目的のためだけに存在している。
と規定します。
神と自分の人生の目的のためには、世が絶対ではないので、目的のためなら、健康を、富貴を、長寿を、名誉を、栄誉を、喜びを、生き甲斐を、欲望の充足を、だけ望むという偏らない気持ちを持つように、と励まします。
世お自分の軸にしているので、いつも移ろい、不安、にあると思います。

この世は過ぎていくものです。
神とわれの関係のみが、永遠と信じます。
神@絶対
自分@神とともにあるがゆえに絶対
世@すべて移ろいゆく
これを読んでいるあなたも私も自慢のwindows7のパソコンも、、100年後には、過ぎ去っています。

そして、神との至福直観は、この世のものと比較できないと想像し、信じます。
神様が永遠、絶対、であられるので、この至福直観も、永遠絶対であり、ビルゲイツの成功と富貴、オバマ大統領、小沢一郎の権力と名誉、木村拓哉の自分の姿を鏡で見る自己陶酔、デビッド ベッカムの自己実現などには、遥かに及ばない喜びだと信じます。

その億分の一を、私は、
アルゼンチンのパタゴニアのプエルトモレノ氷河を見たとき、宇宙が迫って、自分がその一部となって同化し、死んでもいいという感動、
スイスのツエルマットの教会で、ミサに与った時、とめどもなく涙が出て、止まらなかったこと、
で感じました。

もっともこのような個人的体験は、はたから見れば、自己陶酔、自己満足、自己催眠、錯覚、ひどくなると精神分裂といわれると思いますが。

宗教的体験と信仰の維持は、神様を許容しない社会的現象としてみれば、
絶対という概念は西洋のもの、インド人が発見した0:無がすべてby司馬遼太郎
弱い者の逃げ所
意思決定できないものの避け所
奴隷根性を生むもの;byニーチェ
体制維持の機構:byマルクス
人間という実存の作った偶像byサルトル
教会の正邪省はこのような個人の体験をよほどのことがない限り認定しない
等などと言うでしょうが、
体験した本人には、目の前にあり、今操作しているepsonのパソコン以上に、客観的事実だと思います。
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クリスマス

2009年12月29日 02時55分17秒 | Weblog
クリスマス。
日本では、何で、クリスチャンでないのに、クリスマスを祝うの?とひにくれて、平均的であるが、クリスマス1週間後には、神社にお参りする宗教的に無節操な日本人を、傲慢に裁いてきました。
商業主義、マスコミに毒されてと思っていました。
でも最近は、クリスマスを祝う行為が、神様の御心と思えるようになってきました。

イエスさまが、ご降臨されなければ、今の世の中はないと思います。
民主主義ーなぜ人が平等でなければいけない根拠がイエスさまのご降臨以前にはありません。イエス様以前のギリシャ思想は民主主義ですが、結局、奴隷制度を土台とした民主主義だと思います。本当の民主主義でないと思います。ローマ皇帝で最も偉大なマルクス アウレリアスでさえも、奴隷制度を超えられませんでした。イエスさまがご降臨して初めて、人類は、平等、民主主義のアイデアを得させていただいたのだと思います。ほかの宗教を、言うのは不本意ですが、ヒンズー教、仏教、人間の価値が男、羊、女のイスラム教では、民主主義、男女平等のアイデアさえないと思います。
でも、実際、人類が民主主義を獲得したのは、18世紀のフランス革命、アメリカの独立で、イエス様から1800年かかりましたがーーー。
そして、この民主主義の方向は、今、全世界の潮流です。もちろんそこまでいっていない国、もありますが、少なくとも目指していると思います。キリスト教を導入せず、キリスト教から生じる民主主義の身を国是として成功した国は、日本とトルコと言われていますがーーー。

政治的な発言で申し訳ありませんが、イエスさまが、神の国は来たと言われたのは、ここにあると個人的に思っています。

地球規模で、イエス様のおっしゃった神の国へ、ゆっくりではあるが、進んでいると思います。
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回心させようとして人々の罪を見過ごされる。

2008年07月06日 23時57分49秒 | Weblog
全能のゆえに、あなたは存在する者すべてを憐れみ、回心させようとして人々の罪を見過ごされる。あなたはすべてのものを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるなら、造られなかったはずだ。知恵の書11章

そうだ!
あなたは、全能のゆえに、あなたは『特にこのわたしを含め』存在する者すべてを憐れみ、回心させようとして人々『そしてわたしの』罪を見過ごされる。

こんな罪深いわたしに、相対していただけない。恩寵はもうない!!
罪を多く犯したから、洗礼を受けて神の子になって地獄には行かないが、今死んだら、煉獄の最低のところで、なんとマザーテレサなどの先人を遥かエベレストのごとく仰ぎ見て呻吟していて、下を見たら誰もいなく地獄の穂口がまっている。カトリック信徒の最低は我である。
と思っていたが、神様の愛に、信頼しようと力が出てきました。いや、与えられました。(出てきたとはなんと傲慢であることか)
でも、罪深い事実は変わらないがーーー
仏教みたく修行も、悟りもいらない。自分を空っぽにして、罪深さをいやというほど認識して、聖霊がお働きになるのをじっと待てばいいのだ。

神様はすごい。
罪からも善を引き出される。疑いから確信を与えてくださる。
洗礼を受けたら、客観的に、聖霊がお働きになる。
神様は生きてここにおられる。主はともにいらっしゃる。ハレルヤ!!
信仰は知識でもなく、わたしが信じるのでもなく、神様が与えてくださるものだ。
ただ、わたしは、神様を信頼し、自分の心、思いも、自分のものでない、聖霊がお働きになれば、一瞬にして変われるく客観的事実をいつも思って依存してればいい。
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主よ、あなたに信頼をおきます。

2008年07月04日 22時46分49秒 | Weblog
テレビを見ているといやになります。
★地球温暖化で人類の将来はない!
★石油あと40年で枯渇!
★原油値上げ、物価上がる、極貧国大量餓死!
★日本の官僚最悪、年金、老人医療破綻、年収200万1000万人、
  日本の将来真っ暗!
★CMは、保険金とダイエットばかり!
★太陽の爆発で、地球はあと10億年で消滅!
暗いというよりは、神様、神様の摂理を信じない一般の日本人を煽るような内容のみ。

死後の生命、復活を信じられなく、死んだら終わり、死、虚無とは何であるかを考えるその自我もない、恐ろしい虚無という人生観から垂れ流される内容が多いです。

神様を信じ、神様が愛でいらっしゃる事実を信じ、摂理を信じていても、感化されている自分に驚きます。祈りを持って見ないと、流され感化されていく自分があります。

テヤール ジャルダンが言うように、人類は、今、神様のdynamicな摂理と進化の中にある。
どんな些細なことも、こんなこと関係ないと思える内容も、人類一丸となって、神のみ手により、大きな絨毯を編んでいる。
終末か来た時、その壮大な宇宙、絨毯は裏返され、どんな些細なことも、宇宙の進化の営みであることがわかることでしょう。
訳知り顔の、信仰無きニュースキャスターではなく、
主よ、あなたに信頼をおきます。

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「病気」とは、分らなかったことが

2008年06月07日 03時42分49秒 | Weblog
「病気」とは、分らなかったことが
   判るようになる、天の「摂理」です。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
罪は神様へのお借金、それをすべて返済して清算して、貸し借りゼロにしないと、
来るべき地上天国を迎えるのは困難になります。

その第一歩は、すべての周りで起こる現象は自分の内面が外に物質化したものと心得て、
決して誰かのせいにしない、原因はすべて自分にあるとス直に反省し、
それが不幸現象であったとしても、それによって神様へのお借金が消させて頂けると、
まずはその原因をお詫びし、また現象に心から徹底感謝すること、
そうすれば他人の悪口や不平不満は消えて行くでしょう。

他人に足を踏まれても、その痛さで自分の罪が少し消えたと、
足を踏んでくださった方に心の中で手を合わせて
感謝するくらいでないといけません。

悩みというのは、邪霊と交流交感してしまいますから、
そんな時は明るい陽の気に気持ちを切り換え、とにかく徹底感謝です。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
確かにおっしゃる通りで、「神の裁き」とほぼ同義語で使われているでしょう。
しかし本当の神様は人類への大愛が故にその罪を洗い浄めてくれるクリーニングと、
罪の状態であることに気づけよという戒告を下さるだけであって、
感情から人類を罰するようなお方ではありません。
ですから、神様は「呪い」などという言葉とは無縁です。
神様の本質は「愛」であり「真」であり「大調和」なのですから。

むしろ、人類の方からの神への呪いの方が、よほど恐ろしいと思います。

また、人を呪うということも相手を裁いているわけですから
人間には許されていない行為です。
もしほかの人から呪われたとしても、こちらの魂が浄らかで善そのものであった場合、
その呪いの念波は岩のようにはね返してしまいます。
だから昔から「人を呪わば穴二つ」というではないですか。

要は、明るくス直に陽の気で、すべてのことに徹底感謝して生活していれば、
人知で善と悪を判断することなく、あるがままを受け入れて感謝していれば、
呪いの波動などはね返してしまいますから安心して下さい。

ところが自分自身が愚痴や人の悪口を言ったり、不平不満、怨み、妬み、憎しみの悪想念を持っていますと、
たちまち相応の理で呪いなどの悪想念と交流交感してしまいますから恐ろしいことです。
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気晴らし

2008年06月07日 03時41分16秒 | Weblog

神様は、人に霊魂を、付与し、御自分に憩うまで本当の幸福はないように創造された。
しかし、殆どの日本人は、神様を知らない。
神様を知らないということは、人生の目的、永遠性を知って人生を歩めない。
しかし、はっきりとわからなくても、霊魂は永遠を希求するので、死にたくない、生きていたい、人生これで良いのか、世俗的欲望を満たしたが虚しい、神様がわからないが目に見える世間体が神なので世間並み、人様の目が絶対ーーーといつも思って生きている。

そして、どうでもいい、永遠性と関係ない気晴らしに夢中になっている。
不確実なことが多い人生でも、神様を知らなくても確実なことは、生きとし生けるもの、必ず死ぬという客観的事実を、考えない、考えたくない、穢れ、と追いやって、死を忘れるために、気晴らしに、熱中して、狂乱している。
健康、スポーツ、旅行、金、株、車、sex、それに迎合したテレビ番組、人生これが目的と錯覚し、あるいは錯覚しえる仕事、ーーーーーー
旅行:私は、多くの日本人を海外にお連れする旅行関係の仕事に従事しています。
ヨーロッパのキリスト教の偉大な足跡を見ても、殆どの日本人は、その背後に有る神を見出せずーーー中世は、はなんといやな宗教国家だった。権力の集中がすごい、宗教は恐ろしい、などの感想しか持ちえない。あくまで、死ぬまでにいろんなことを体験しよう、みんな海外に行っているから行こう、知識欲を満たそうという気晴らしに終着して終わり。
(案内している私の限界と責任)
どのような質の人生を歩むかではなく、ともかく長生きが重要。そして、健康も金で買えると思っている。
平均的日本人、マスコミの関心は、金、健康、気晴らしである。
踊らされている。そして、気晴らしをみんな求めている。
相対的なものを、神なき、永遠性無き日本人は、やむなく絶対化せざろうえなく、永遠性のない気晴らしに生ききって死んでいく。
人生は、イエスを通して、聖霊の御働きで感得しえる哀れみの愛であられる神様を知り、死後、至福直観にいたることが人生の目的であることを知らない多くの日本人は、目の前に有る断崖(死という超客観的現実)が有るのを気づかずに、考えなくして、目隠しをして、なんら永遠性のない気晴らしが、人生の目的と錯覚して、奔走している。

神は愛であられる。よって、神の愛で愛した経験のない人には、神様はわからない。
目で見えないから神はいない!宗教は、オウム真理教、アルカイダなどのカルト!キリスト教は、ドグマゆえの他宗教への弾圧、布教と植民地支配などがあるといった本質を知らない表面的知識人の浅薄な知識!により、宗教は、前世紀の異物とする自分がすべてを知りえると思い上がり自分が神になっている平均的自称知識の日本人。

永遠、人生の目的を知っている我々の責任であると痛感するとともに、神様を理解しえたのも、私が神を知ったのではなく、神が私を捕らえてくださったと感謝、ただ、感謝。
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髪の毛一本も数えておられる神様

2008年05月24日 03時05分50秒 | Weblog
洗礼を受けてからその意味を本当に理解するのがなんと遠いことか。
神様を知ることと愛することの隔たりがなんと遠いことか。
私の髪の毛一本も数えておられる神様はいらっしゃることが実感できる時が、なんと少ないことか。
自分で自分の心がわからないーーー聖霊に満たされている時と肉の生の自分でいる時の自分はまったく違う。JekyllとHydeだと思います。祈って聖霊に満たされない自分は、なんと悲惨なのか。まったく洗礼前と変化しない自分に気がつき愕然とします。
イエスの十字架を前に逃げ去ったパウロは、御復活のイエスに遭い、聖霊に満たされ、聖パウロになったのではないかと思えます。

光の中を歩めといわれたのは、正しいことをせよ、というのではなく、光に照らされて、自分の影に気がつけーーー暗闇の中では、自分の影に気がつかないということなのではないかと思います。
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家族へ

2005年05月24日 00時09分38秒 | Weblog
オランダに向かう機内です。

日本に居る時は、すれ違いで、ほとんど話が出来ないまま、こうやって機内に居ます。

最近感じたことを書きます。

洗礼を受けて、2年が経ちました。
最初の頃のクリスチャンになったという昂揚感、わたしクリスチャン、その他ノンクリスチャンという自意識から来る排他性、感情などが、薄くなって、本物、かっこたるものが自意識、自己暗示を超えて残って、高揚感、感情がなくなった代わりに、確かなゆるぎないものがかすかではあるが、本当にかすかではあるが、心の奥底に目立たないながらも残っているような気がします。

それまで神様は、全知全能で、絶対他者で、完璧で、ある種怖い存在と、平均的日本人が考えるように感じていました。
あるいは、もちろん、この世の中は偶然の産物、神などは居ない、人生は重荷を負って生きるもの、人生を速く達観したものが勝ち、生きている意味さえもわからないのだから、死など分かるはずが無い、一日一日、佐川登っていこうとする勇気と達観こそ重要だと思い、宗教は無知なる人々の為の前世紀の異物、弱き人間、無知なる人間が作り、将来は淘汰されるべき、今までは社会秩序維持のために有用であった存在。
人間死んだら無。Nothing、なし、虚無。
神が居るならば、なぜこの世に、不公平、不実、災害があるのかーーと思っていました。

この2年は、そうゆう、日本人独特の神概念の残滓との決別の内面的戦いでした。
でも、パパが考えた神様は、存在していませんでした。
今思うことは、神様は、自分を犠牲にしても、人間に、本来の人生を歩ませようとする常識を超えた愛の方であるということなのです。
そういう事実が聖書には書いてあると信じます。

いま、はっきり思えることは、以下の点です。
まず、人は、神の似姿に創造され、他の動物とはっきり区別される霊魂があり、決して、猿から偶然に進化したものではなく、聖書に書いてあるとおりに、命の息、つまり、霊魂を付加したという目的性で、創造されたということを信じたほうが、納得のいく事象が多すぎます。
ひたむきに生きている愛犬チョコを見ても、彼は本能で、今食べている食事が明日も食べられるか?梅雨の季節になったからそろそろ毛を刈ってもらおうか?一体自分は何のために生きているのか?人間との差別に苦しむ!他の犬と比較して我は幸せだかどうか?などを考えずに、生きています。
それを見ても、人間は、悩んだり、恨んだり、苦しんだり、笑ったりしていることを思うと、脳髄、前頭葉、脳細胞の作用ではなく、明らかに、霊魂、それの作用としての、心、精神があると思います。
ある作家が、幼児が、井戸に落ちようとしたら、どんな人も、我を忘れて、助けに走る。それが、神様が存在する証明だ。といっていますが、良心、善を思考しようとする心の傾きが、どんな人にもあると思います。

また、こうやって文章にすると、即物的で、感情がこもりませんが、PAPAが、神様を実感したのは、このような理論、理屈ではありません。
真理とは、理屈、理論で整合性があるのももちろんですが、それだけでは、神様が居るかもしれない、居たほうが人生に説明がつく、居たほうが有用である、居て欲しい、いや居なくても自分の人生はやっていけるというきわめて、自分の人生に決定的に入り込んでくるものではないのです。
PAPAが経験したことは、万民に通用する客観的事実ではなく、きわめて個人的、主観的なものなのです。そういう意味では、真理というのは、個人的、主観的なものかもしれません。
今のぱぱは、小さな主観的な事象の積み重ねからして、神様は、客観的に存在していらっしゃるし、歴史を導き、ぱぱ個人の些細なことまで干渉(導き)されると信じています。
いや、信じたいですし、正直の所、信じれるときと、信じれないのじゃないけれど実感が無い時があります。
しかし、聖書を読み、イスラエルを導き、2000年前に、ユダヤの大田舎ナザレに生まれて生きったイエスという大工の息子を通してその姿をみせられた神様は、その後、キリスト教という集まりを、導き、今に居ると信じています。もちろんそのキリスト教は、完全でありませんでしたがーー
疑って疑っても、神父様が独身なこと(強制でも、苦行でもなく、そこに結婚を超えた喜びがあると思います)、キリスト教を否定すれば生き長らえることが出来ながらも、客観的神の実在を神じ殉教していったあまたの人々は、神様が客観的におわさなければ、あほ、馬鹿、おめでたい人、非理性的で頑迷であると思います。

でも、実際の人間は、神の似姿でないと思うことは、みんなが、新聞、みんなの所属社会、ぱぱの現実(^_^;...を見れば分かるし、何よりも自分を見れば分かりますね。
また、信仰を持つことが出来るのは、自分が、心底から、能力的、体力的、社会的、道徳的、人間的に、立派でない、つまり、駄目な人間と思えなくてはもてないという重要な事実に気がつきました。
→例えば、体力的、能力的、社会的に自信満々、の人は、自分自身が神ですから、神様の客観的実存に気がつきにくいのです。自信満々で、全てを知っている(つもりの)某都知事、中国共産党、北朝鮮の将軍さまなどは、信仰とはやはり弱いものが、すがる幻想、阿片だと思っているのでしょうね。
そう(自分自身の有限性)思わせる為に、神様は、バブル崩壊以降、さまざまな形で、パパを教育しました。
人が偶然という言葉に逃げ込みますが、ぱぱにとっては、神様とはこのような働きそのものであると思っています。
自分が絶対正しい、この世の中和我の為にあると思えていたら(今でも出来たらそうであったら幸せだと思う瞬間がありますが)、イエス様を通して神様に、出会うことは無かったと思います。
そうして、死ぬべき存在、有限である存在、ちっぽけな存在、すぐ怒り怒鳴る、自己の欲望に弱いという道徳的に悪しき存在という自己の現実を、認識させられ、神様の存在に気がつくと、肩の荷がおり、自然体になれ、今までの自己像が大きな変化をきたしています。
不当に卑下し過小評価して、自死が頭をよぎったり、過小評価して、人生の敗残兵と思ったり、その裏返しに、過大評価して、自己肥大したりしたりしてママにあたったり、子どもにあたったりしなくなり、自己像がきちんと理性的に見えるときがある様になりました。(もちろんみんなが知っているように、ぱぱはいつもではなく、そんなときは、理性と信仰が左右している瞬間ですが(^_^;...
なぜ、そうなっていくのが不思議で、神秘といえるのです。
前からの、ぱぱの持論では、人間、10歳になったら、考え方、性格は変わらないと思い、絶望し、居直っていました。
そんなときに、嗚呼今、神様が作用していると、主観的に思えるのです。そしていつもそうありたいと祈るようになり、その祈りが効果的であることも実感します。(もちろん出来ない時が多いですがーーー)
そんな瞬間は、真理があなたを自由にするという言葉が実感できます。

聖書の根底にある人間理解は、実は、人間は壊れた存在であり、それに無自覚であってはならない。
また、そう自覚できるのには、ある規範を心底受け入れないとならないーーーその規範をイエスという人が示したと思います。
人が不完全で未熟であるということが実は、人間理解の出発であると思っています。

そして何よりも惹かれるのは、その規範として、神の子と信じるイエスが人類の十字架を背負って、死なれる時、心頭滅却すれば火もまた涼しといわれなく、わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですかーーと言われたことなのです。
ぱぱは、死の瞬間まで、人格高潔、完璧、ご立派な人間になる必要が無く、最後には、全てを委ねますというイエスに従い神様に頼ることが出来るということなのです。→ここら辺に来ると、難しく、ぱぱ行っちゃってる(^.^)とみんなは、思いますが、今、ぱぱが、心底、考えてることなので、書きました。

また実際は、それまでは、健康、金が全てでした。
ですから、糖尿になったときは、PANICになりました。
生きることが全てだったからです。
必死で死んではいけない、足の切断を避けねばならない、家族の為にも生き切らなければと、必死でした。
しかし、今は、生きること死することは神様の御心だ。神の支配だ。
じたばたしても、神様の御心ならば、近くの病院の院長が、心筋梗塞でなくなったように、神の御心だと思うようになりました。
したがって、前ほどのDIETに対するひたむきさが無くなり、おかげで、ウエストが、10cmも伸びてしまいました(^_^;...
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2004・12.28

2004年12月28日 21時33分44秒 | Weblog
罪というものは、人間的努力ではいかにしても、なくすことができないものだと思います。
ですから、神様から一方的に無条件に無償、蕩減条件なしで(^.^)、許されないといけないものだと思います。
そのために神様から、一方的に無条件に無償、蕩減条件なしで(^.^)、人類に与えられたのがイエスキリストと信じるのがキリスト教の信仰の始まりです。

人間は、ひとりの方以外、イエスキリスト以外には、この罪をどんな人も内包しています。
もちろん文鮮明もその家族も、イエスによって救われなければならない存在です。
それは彼らの生き様を見れば、普通の人なら、即座に理解できます。

どのような人が聖人、信仰者とかというと、罪がない、罪を犯さない人ではなく、自分がどうしようもない悲惨な状態の罪の中にあるということを自覚して、罪をおかさざろうない自分でありながらも、何度も立ち上がる人だと思います。
カトリックでいうならば、ローマ教皇もマザーテレサ、ピオ神父、コルベ神父、アッシジの聖フランシスコも、どこかの教祖のように、それこそ神ならぬものを神と言い、モーセの十戒の第一戒律である、自らを偶像化する罪の中にあることさえも目がくらんで認識できず、罪がない、堕落人間を完成させると豪語するのではなく、人よりも1番罪深いことを自覚しえて、自分で、それを矯正できない現実に、気がつき、イエスにすがって、イエスに自分を明渡して、立ち上がった人だと思います。

神様が死よりも強いものとして自由意志を人間に与えたというのは、何も統一教会の新しき発見ではありません、キリスト教が2,000年前から言質をしてきたことでした。

統一教会の方々が、聖書に書かれている真理を、自分たちのものとし、見える世界という自然なものではなく、主の御復活、永遠の生命、罪の赦しなど超自然的なものにこそ真理があると言う主張は、正しいと思います。
また、どんな人にもお働きになる聖霊により、神を知ったとしても、結局、教祖の非栄光在天、つまり、無神論に飲み込まれてしまい、結局統一教会の教祖の欲望と心中してしまうのは、やはりその人が自分でその代償を、いつかは、払わないといけないと思います。

しかし聖書の中であるように神は、義なるものに、不義なるものにも、等しく雨を降らしてくださいます。
そして旧約聖書にように、神は、神を信じないもの、神を利用するもの、神に従って生きる者、神様を本元の位置につかせた→神はOTOUSAMAに感謝していると言う無神論の教祖も、等しく、審判の時は、その人が肉体を離れるとき時まで、待っておられると思います。

イエスが言うように、全ては過ぎ去り行きます。
教祖が、造った地上の財産も死後の世界にはもっていけません。
これを書いているわたしも、読んでいるあなたも、100年後には、ここにいません。

残るのは、永遠の神との世界です。
と信じています。

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★ポール・ジョンソン  神の探求

2004年09月24日 21時51分00秒 | Weblog
神は宇宙をスタートだけさせて、後は成り行きに任せるのではなく、
いつでもどこにでもいて、あらゆる事物にかかわっていると思う。
コンスタンチヌス大帝がキリスト教をローマの国教にするときの祈りも、私が精神が高ぶって夜眠れない、どうか、心を静めてくださいとお祈りするときも、神様にとっては同じことだと思う。
神が存在するという事実を意識の奥底に追いやっているときもあるが、少なくとも神のことを考えるときには、神が私の行動に気付いているはもちろん、私の思考もすべて見通しで、神にとって私についてのすべてが重要なのだということを一瞬たりとも疑わない。
話しかければ神はどんな時にも答えてくださる。
祈れば考慮してくださる。
感謝すれば喜ばれる。
命令に背くと記録にとどめられる。
反抗すれば悲しむれる。愛すれば答えてくださる。
いや私への神の気遣いは永遠に中断することがないのだから、神に愛されるために神を愛する行為すら不必要なのだ。
この神の気遣いは、これまで世の中に生まれたすべての人間に及び、また死んで審判を受ければそれで終わるものでもない。
天国の神の下に来た人々、煉獄で天国に行く準備をしている人々、最終的に神を否定してその結果地獄にいる人間、そんな人間のことも考えやはり気にかけておられるということだ。
地獄に落ちたものも神の意識から消えない。
彼らも永遠に地獄にいるということを保証されているのではない。

無心論者の海底二万マイルを書いたHGウエルズが、エームズ川の橋の上にたくさんの群衆がいるのを見て友達に、こんなにたくさんの人間に神一人ひとり対応するのは不可能だという自分の考えで神を捉え神は存在しないと断言したが、彼は自分の考えで作った神であり、神の全知全能性を感得できなかったのだと思う。

聖人、霊感を得た神秘家の中には、少なくとも人生の一時期、それに近いところまで達した人もいる。
しかし大多数の凡人にとっては、神が時々、周期的に、というより突発的に、こちらが神を思い出し、神様がそこに見ていてくださる、聞いている、と意識するときに私たちの生活の中に入ってくるにすぎないと思います。
朝起きたときと寝る前に神に祈る。
苦しいときに助けてくれと祈る。
そんなものである。
彼はいつもそこにいるのだけれど、人間の方が口をきかず、注意を払わず、悪くすると全く無関心である。
神と人間との間の回線はいつもつながっていて、人間が長い間対応しなくても、神の方から切ることはない。
何年も神様をまかせたままにする人も多く、人によっては一生神様と関係なく過ごしてしまう。
しかしそれは悲しいことだが、取り返しのつかない問題ではない。
神様が向こうにいるということを思い出しさえすれば、対話はすぐさま再開できる。
待つ必要もなく、テスト期間もなく、断食することも必要としない。
自分が罪をおかしすぎて神様が自分に対応してくれないなんてことも全くない。
もっとも自分が罪を確定あなたにふさわしくないと思い込んでしまい、神様との対話を復活させない働きがあることも事実だ。

人間の力を持つ全能の神のほうがいつも考えその立場にあり、際限なく弱い私たちの方が、神様を任せておいて、また帰りたいという衝動に陥ったときに、放蕩息子のように温かく迎えるのはなぜだろうか。
その答えは神様の本質が正義ではなく、愛だということなのである。
神様の愛は完全な愛だから、報いられば喜びはするものの、報いがあることを必要としないし、期待さえしない。
それゆえ、神の愛と人間の愛の間はまったく均等性がない。
人間にとって一方的な輸入超過だと思います。




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★恐れるなーー信仰薄きものよ

2004年09月24日 05時26分38秒 | Weblog
★どんな時にも、全能の父とイエスさまがいつも供にいる
 前に、横に、自分の中に、ホスチアの中に
★全ては、父のお望みによって起きる
 家族と団欒しているのも
 嫌なお客といるのも
 糖尿の検査をしているのも
 パソコン壊れて怒っているのも
 山口さんと対しているのも

 
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