今日の一貫

大泉一貫のBlog

IBM伊豆会議

2008年11月14日 | 個の時代
IBM伊豆会議今日午後から。 富士会議共々20年近く世話になっている。 情報をいつも頂いてるが、ポジティブな参加できなくて、申し訳ない思いでいっぱい。 天気もいいし、天城で皆さんと懇談できるのは楽しみなのだが、昨晩遅く、仙台に戻ってきてしまった。 先月半ばから少々外食が怖くなってるせいもある。 アナフィラキシーのせい。 何年かに一度陥ってしまうが、4年ぶりの出来事。 10月下旬だったが、まだ万全 . . . 本文を読む
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オープンソースの自発性について

2008年02月18日 | 個の時代
梅田望夫さんというコンサル会社の社長さん、「目かえら鱗のが何枚も落ちたオープンソーズの人間的本質」という随筆を「Forsight」3月号に書いている。 なるほどと、私も目から鱗が落ちた。 少々紹介したい。 オープンソーズ、、「ソフトウエアのソースコードをネット上に無償公開し、世界中の不特定多数の開発者が自由に参加できる環境を用意し、そのソフトをさらに開発していく方式」 リナックス(リーナス・トーバルズ)が有名。 ほとんどのオープンソーズプロジェクトは欧米生まれ。 しかし日本でも、まつもとゆきひろさんが開発した「Ruby」がある。 そのまつもと幸広さんの話だという。 テーマは、オープンソース参加者の自発性について 他者を共生する道具立ては何も存在しない。経済的共生・雇用関係もない。参加者の自発性でプロジェクトが進む。 その自発性はどこから生まれるか? まつもとさん「動機は利己的なもの」だという。 「利他的な気質や奉仕の精神が本質ではない」 「ほとんどの人は、適切な大きさと複雑さをもったいい問題を探している」のだという。 「世界中に知的レベルの高い人々はたくさんいるが、その大半は自分で問題設定することができない。」 「プログラミングは好きだが、何のプログラムを書けばいいかわからないという人が世界にあふれている。」 そういう人々に対して、次かrつぎへと「適切なサイズの問題」を供給するのだという。 「新聞にクロスワードパズルがある。アレですよ。見つけると説きたくなる人がいる。」 . . . 本文を読む
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子育て戦略  大崎ブランド会議 19年度スタート

2007年05月27日 | 個の時代
大崎ブランド会議、19年度がスタートした。 第1回目は、「子育て戦略」 託児所の話が一つ。 秋田県小坂町の(株)カミテ。 もう一つは、「のびすく仙台」 これからコミュニティが重要だということだが、コミュニケーション不全をどう乗りこえるか? 誰かが媒介になってもっとも大変な部分を担当、潤滑油にならなければと思った。 きれい事ではないようだ。 . . . 本文を読む
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大学レベルの自立 地域経済 産業再生 地方自治

2007年05月19日 | 個の時代
私のテーマは、自立を考え続ける事にあります。 中央集権的な依存の時代から、やっと自立ということが考えられるようになったのはハッピーです。 しかし、自立は、小学生、中学生の自立をやっと過ぎた程度かも知れません。 親(国や企業)が全て面倒をみてきた状態から、それではいけないと考えはじめた時期にあります。 世は大量生産社会から大衆諸費社会へと移っています。 成熟社会という定義もあります。 成熟社会も消費社会。 消費というのは、生産と違って個々人の自己責任の社会で、個々人の物語性を追求する社会です。ボードリヤールの世界といってもいいでしょう。「消費社会の神話と構造」です。 ですから、自分発見やら個の確立が語られる社会となっています。私は個人的には、社会性を持たない自分発見や個の確立はないと考えており、こうした自分探しには批判的ですが、、、、しかし今のところ、自分は何者かを必死に捜す風潮が台頭しています。 それは、依存し、教えられ、指導される時代とは決定的に異なります。 経済システムも、個の時代、自立の時代、そして新たなビジネスの仕組みを作らなければならない時代へと変化しています。 自立の程度は、高校生から大学生の時代に入っているといってもいいでしょう。 ポイントは、それが、まだ社会人のような社会ではないということです。 大学生レベルの自立を前提として、将来の完全自立に向け、地方も経済も産業もそれぞれ考えなければならない時期が、今なのだと思っています。そのときに何をどの様に考えるかが大切です。 時代を再び政官業の時代へ戻そうとする動きや、地方の自立の弱さから国の責任をいう人や、さらには、弱小産業の現状を、「どんなに努力しなくても」といいわけをして、努力できる仕組みを考えようとしない人がでてくるのも、これらはみんな過渡期のできごと考えています。 大学レベルの自立、これがいまのわが国の状況でしょう。 . . . 本文を読む
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個の時代 野菜の産地が変わってきている

2007年02月24日 | 個の時代
野菜の大規模産地に異変が起きている。 規模拡大を行って来た大規模産地が縮小しはじめ、小規模な野菜産地が増えている。 2000年以降の新たな動きだという。 2005年センサスと2000年センサスを比較した香月さん等の研究。 一つの町で200ha以上の単一作物(たとえばねぎ、はくさい、人参、など)を生産し、農協共販で大量流通、大量消費のパターンに持ち込んできたのがこれまでの強い産地。 しかし、そうした産地の縮小が2000年以降はじまっている。 かわって、5ha未満の小規模産地が増え、5から50ha規模も増えている。 これは大規模産地の規模が縮小して小規模に成ってしまって小規模参地が増えたというのとも違うようだ。 あらたな小規模産地が増加している。 これはかねてからいってるように、消費構造が変わってきているせい。 農産物直売所での売り上げが増加し、消費者は、小口のいい産地、物語性のある産地を選考するようになってきた。したがって、小規模でも良い生産者の顔の見える産地の優位性が高まっている。 他方、大機墓参地は業務用・加工用にまわる確率が高い。野菜の消費は、生食5割、加工業務用5割。で、後者にまわる確率が高い。そうなると外国産と競合してしまい、コスト競争になる。大規模化になればなるほど、兼業農家を巻き込まざるを得ず、高齢者も多くなり、弱体化しがち。 流通も二極分解してるのだ。それが産地構造にいよいよ表れてきたというもの。 米の流通もそうだ。 個人農家の米販売と大規模卸が供給する米との両極分解。 これは米という商品の質が違うものと思った方がいい。 製品の完成度は、明らかに「全農ー大規模卸(精米業者)」の方が高い。 精米精度も、カメムシ被害等の異色米混入も、コンタミも、トレーサビリティからさらには価格まで、あきらかに立派な非の打ち所のない商品を作っている。 しかし農家の米はこれらに明らかに劣るところがあるが、人々の一部(150万トンぐらい)はそれでも、農家の米を選ぶ。 個人でも産地となりうる時代だろう。これもかねてからいってるように、単純に規模拡大、大規模化すればいい、というものではないこと。 重要なのは、自分のお客、マーケットを真剣に見る目ではないか。 . . . 本文を読む
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ストロベリー・フィールズ

2007年01月11日 | 個の時代
遠藤君からイチゴが届いた。 大きいイチゴ。 甘いイチゴ。 女峰なのか「とよのか」なのか、はたまた、全く違う品種なのか、私には区別が付かない。 しかし、作り方はすごいと思う。 いろいろ実験して、ついにイチゴ農家になった遠藤君。 私が40になるかならないかの頃の卒業生だから、もう彼もとうに40に達しているはず。 イチゴではなく、心を売っている。 農業にマーケテイングを持ち込んでいる。 たいしたもんだ。農場長ではなく、店長なのだという。どこを向いて仕事をしているのかが伝わってくる。 お客様を見ている農業は成長する。 農政を見ている農業はつぶれる。 私の持論だが、国内の豊かな成熟市場を相手にできたとき、農業は生活快適産業になるはずだ。 この農場に関してはいっぱい褒めたいことがあるが、身内なのでこのぐらいにしておこう。 三越本店?や楽天でも売ってるというから、興味がおありの方は是非 . . . 本文を読む
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違い(差異)が基本

2007年01月01日 | 個の時代
個の時代、自立、 この1年、こんなテーマを地方再生のキーワードとして考えてきた。 シンポジウムも様々に企画してみた。 自立なんて抽象的にしかあり得ないと思っていたが、地方の人々が、否が応でも自立を求めるようになった。 「均衡ある国土形成というスローガン」や、「地方交付税」がなくなったら、「格差」が広がると警鐘を鳴らす人がいたが、もうみんなそんなものはない社会へ向かっては知り始めてている。 「格差」を考える前に、「違う」と言うことをもっと考えてみたいものだ。 経済学的に考えても、利潤の源泉も常に「違い」にあるのだから。 違いを違いとして認識できる社会をこそ目指すべきだろう。 いろいろ違っていいんだよ、ということ。 違う中に、自分の幸せを、理性でも感性でも感じ取れる自分がいれば、それが次の社会の考えのベースになる。 しかしながら、私の時代は、違いを極度に許さなかった。皆と同じでなければ、という意識。それが息苦しさを生んでいた。過度の競争もあった。嫉妬もあり、そのあげく犯罪を犯すやつもいた。 しかし、「いろいろ違っていいんだよ」、と本当に心の底から思える社会が来たらどうか。 こんなことを言うと、負け惜しみだと思われがちだった。それが私たちの時代の最大の欠点だった。 が、社会は、本当に心の底からそう思うように成熟してきていると思う。 東京と同じでなくてもいいんだよ。 どんなに地方が東京を目指しても東京にはなれない。 どの様に頑張っても日本人は日本人、アメリカ人にはなれないじゃないか。 おそらく、皆と同じとする発想は、目指すものが違ってたんだろうと思う。 東京と価値観も経済感覚も少しづつ違った社会を作ればそれでいいんじゃないの。 人は自分がそれが幸せと思っていればそれでいいんだ。 ただ、本物であって欲しい。 食文化はうまいものであって欲しいし、観光は、本当の癒しを与えるものであって欲しいし、生活は豊かであって欲しい。 それを格差として認識しようとする学者やマスコミもいるにはいるが、彼らは評論家だ、評論は任せておけばいい。評論家は変革者になることは放棄している。哲学者や思想家にもなれないのだ。 一生懸命やってる人間に「格差論議」はむしろ不要だろう。 . . . 本文を読む
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執念と勝利への確信、きのから頭痛と本と野球三昧

2006年08月21日 | 個の時代
頭痛と本と野球。これが21日までの生活。明日から仙台からいなくなるぞー。 駒大苫小牧と早稲田実業の決勝戦。必死に見ていたらもう5時をすぎていた。 彼らから学んだのはどんな逆境にあっても、曲げない信念。揺るぎない勝利への確信と執念だまたピンチでも萎縮しない精神の持ちようだ。 また今日も午前中から、ニューヨークヤンキースとボストン・レッドソックスの試合。 この1週間、冷房病か頭痛に悩まされている。外へでる気力もなし。 私の主治医は、神経痛のようなものでさして心配ないというのだが、痛いのはどうしようもない。 そんなわけで、我が家で、12時間以上も机に向かって仕事をしているが、唯一の楽しみが野球。しかも壮絶な甲子園。結局延長翌日再試合に、 今年の甲子園は、打撃戦。知弁和歌山と帝京の試合も壮絶だった。しかし、決勝戦はピシーと引き締まった投手戦。打撃優位の中にあって、斉藤、田中両投手の投げ合いは圧巻。疲れないかとの心配ばかり。 さらに1時間ぐらい本屋をうろついて物色してきた。夜は読書三昧。 河北新報の小野昌和さんが昨日の午前中になくなった。出版記念パーティから丁度1ヶ月目だった。喪主が長男となってたけど、彼には家族がいたんだ。はじめて知った。いなかったのは奥さんということだったのか。 . . . 本文を読む
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人は何のために仕事をしているのか?認められたいという気持ちと誰かのためという気持ち

2006年08月07日 | 個の時代
人間は誰かのために仕事をやっていると思えるときが一番幸せなのかもしれない。 誰かは、当初自分自身のためだったかも、 ただ、人間には、誰かに認められたいと思う欲求がある。認めてほしい対象が、身近な人、親だったり、恋人だったりあるいはまた師だったりするのだろう。 しかし、所詮それは、井の中の蛙、ジャーゴンに染まってしまう可能性がある。 そこから一歩でた人は、皆すごい。認められなくてもいいと考えられる人だ。 自分は自分、と独りよがりにならずに言える人はすごい。 普通、やった仕事が認められるとは限らない。 認められるという事と、仕事の結果の間には乖離がある。 . . . 本文を読む
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あぶくま農学校ブランド確立に一歩動いたが

2006年07月28日 | 個の時代
あぶくま農学校ブランドの確立に向けて、菅野事務局長達が見えられた。 ブランドの管理体制を来散り制度化してくれた、見事なもの。 ただ、それで実際にブランド構築が進展するかとなると、少々クエッション。 守りは固めたが攻めが見えない。 攻めは、個々の農家が、自主的に、というのが基本なのだが、果たして今までと同様の農家のプロモーションでうまくいくのか? ここは、何らかのスタッフが必要となるのではないか? どの様なスタッフかは、いろいろ討議する必要あり。 コンサルではない。実際に一緒に動いてくれるスタッフだろう。 いよいよ正念場になってきた。 あぶくまブランド申請は、4件。多田克彦ブランドのように、受け入れられるか?この成功が楽しみ。 . . . 本文を読む
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里山の論理を普遍化するラジオ番組を作っているが、里山の論理とは何か?

2006年07月07日 | 個の時代
NHK国際放送、西村と古川で会う。録音。 彼はこの間毎月のように宮城に通い、「里山ライフ」を収録していたという。はじめて知って、驚いた。 . . . 本文を読む
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集権システムから分権自立ステムへ

2006年06月21日 | 個の時代
これは何度もあちこちで行ってるのだが、社会はすでに過去のような集団的な対応では、やっていけなくなっている、ということ。 しかし、集落営農等、集団的対応で、何とかやれるという人も未だ多い。 農協組織も、本来現場に近い農協が、課題を発見して解決策を考える、が実施されるべきだが、必ずしもそうはなっていない。 おそらく市場の変化に鈍感なのではないか。 お客さんと常に接していれば、市場がどのように変わっているかに、気付くはずだ。 自給率向上も、生産調整も、集団的な、マクロの話でしかない。 それを実現するためのプロセスが語られない。 語ろうとすると、全国一律、全体主義的対応しか考えられてこなかった。 需給調整至上主義というやつだ。 基本計画には、経営ノウハウの導入をどのようにするかを書き込めない。 私は、兼業農家が大言している仕組みを国民に解放しただけで、そこに市場が広がると考えている。 この市場、兼業農家の特権として守られている。 しかし、ここに、これを品よく、知的なハレとして提供するビジネスモデルを作り、企業が参入していけば、おそらく農村のGDPはあがるはずだし、また自給率向上にもなるはずだ。 さらに、コメはやすいから、、、といってる人がいるが、私の知ってる農家はコメを売るのに困ってない。お客は品質管理をしっかりしてくれるビジネスパートナーを求めているのであって、価格を気にする人をパートナーとしたいわけではない。 お客は気にしない、風土は農業界には蔓延している。コシヒカリBLもそのたぐい。価格ではなく、顧客に答えることこそ経営のイロハ。 考え方の構造さえ帰れば、結構農業がいい日本になるのでは。 . . . 本文を読む
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あぶくま農学校ブランドは確立するか?

2006年06月07日 | 個の時代
角田農産物ブランドを作ろうと動いている、角田市農業経営実践塾が6日夜あった。およそ30名近くが集まり、新しい展開モデルが示された。 地域ブランドを作ろうとすると、多くは、同じ品質のものをみんなで作り、販売する、といったパターンが通常。生産でも、販売でも、地域全体で足並みをそろえないと地域ブランド形成は難しい。 しかし、角田市で農業専業でやってる人はほとんどが自分の生産販売スタイルを確立してしまっている。今更みんなと統一基準で、また共同販売で、といっても、やれるはずもない。 しかし角田ブランドを作らないと、底力がでないこともよくわかってる。出口を見いだせないまま、そんなジレンマが、この6-7年続いてきた。 今回、モデルとして掲げたのは、これまで一人一人がやってきたものを角田ブランドとして認証しようというもの。認証する団体は農業公社が中心となる。つまり農家ではない。農家自身はこれまでとは何ら変わらない。 しかし、変わってもらわなければ困ることもある。それは品質に対する意識づけや、ブランドコンセプトへの同調心、さらには、それに向かって努力しようとする気持ちの維持等々。 もっと変わってもらわなければならないのは、販売力のさらなる強化。飛躍的拡大。 これらの進捗にでこぼこがあってもいいが、これら全体を意識的に推進する機関車が明確でないとならない。 そのためには、認証期間の存在はともかく販売会社の立ち上げが必要だろう。 こうした推進モデルを提示したところ、30人からの意見は様々。総じて、応募したいが多かった。ただ躊躇する意見もあり、イメージがわかない、不安だ、やれるかどうかわからない。他でやってるのか?自分のスタイルがあるので、等々。 旧来の推進モデルでこうした意見が出ると、もう前へ進めなくなる。しかしこの夜は違っていた。おしなべて、回答は「参加したくなってから参加すればいい、今一緒にやらなくてもいいのではないか」というもの。 つまり、伸びるものをのばす仕組みができあがったといえよう。はたして、地域のブランドとして、共通に見るものが、あぶくま農学校ブランドで構築できるか?道はまだ長い。 . . . 本文を読む
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ゼミコンパ 共同体的行動や慈善的行動を市場原理にのせられるか?

2006年05月08日 | 個の時代
ゼミコンパ。 今日は経済学史の講義。 経済人仮説、に基づく、新古典派経済学の説明。 さらにケインズ経済学の説明。 財政原理と市場原理。 財政原理の不全と新自由主義の台頭。 市場原理による活性化。 その中での、財政原理の後退による、共同体や弱者への補償の後退。 その補償を市場原理で行うためのロジックの欠落。 そのロジックの模索の必要性と、安易な財政原理への依存への警鐘。 といった講義。 市場原理による、共同体的行動や、慈善的行為の復活の可能性の模索は可能か? 可能であれば、新たな経済学のこうちぃくが可能かも。 . . . 本文を読む
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ブログ空間と自分が自分であること

2006年05月05日 | 個の時代
感性で、自分の世界を切り取っていくのは、ある種、おたく化でもある。ブログは、個人的な感覚を書き続け、パーソナルな意見を社会に発信することになる。中島義道は、発言していいのは昔から権力、というが、従来公共空間だった言論の世界が、大量なパーソナル言辞の中に埋没してしまっているのが今日的状況なのだろう。「私」の氾濫といったらいいのだろう。公共空間があると、それとの関係で個人は自分を地図上におくことができる。 ブログは、RSSなどによって、同行の士が集まって、それぞれのテリトリーを創っているようだ。だが、それが公空間なのだろうか?公共空間は、既にマスコミに占拠されているが、やはり大衆化、分衆化して見えなくなっている。 社会は、「あなたでなくてもいい」、という個人の流動化がますますすんできている。「あなたがあなたであるのは、家族や相互に交際する人間関係においてのみ」でしかなくなってきている。それさえあやしくなっている。 公共空間は、結局人と人とがあって会話できる実空間しかないのかもしれない。 身体性の確保というか、実際に感じて、関係を持つ。またそんな空間でしか人は自分を実感できないのではないだろうか。 スローフードも、遅く食べるというのではない。「代わりのきく誰か」ではなく、「代わりのきかない自分」を認識する場として提案しているのだろう。自然や、悠久なモノとの関係で自分を再定義する。人間関係も、自分を再定義できる人間関係を作れるかであろう。それはコミュニティ活動などの「自発性」なのかもしれない。 個人の過剰代替可能化する社会では、自分自身の自発性が発揮しやすい環境が必要になる。広場やコミュニケーションの場、ふるさと商店街、等々が必要とされるゆえんであろう。 地域興しや地域経済の活性化も、マニュアル化して代替可能性を拡大するのではない方向が私は好きだ . . . 本文を読む
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