日本バプテスト連盟 壱岐キリスト教会

玄界灘に浮かぶ壱岐の丘の上にある小さな教会です

12月19日(日)クリスマス礼拝メッセージ

2010-12-20 23:07:38 | 教会紹介
クリスマス礼拝のメッセージを掲載いたします。

どうぞ、12月24日(金)夜7時からのキャンドルサービスにもおでかけください。




2010年12月19日(日)クリスマス礼拝メッセージ

牧師 長尾知明


2010年のクリスマス礼拝を迎えました。皆様、クリスマスおめでとうございます。
 私たちはアドヴェントの期間、エペソ2:13から学んできました。神から遠かった者が、神に近い者とされた。しかも限りなく近い者とされた。そのためにキリストの血が必要であった。キリストの犠牲が必要であった。この内容は、私たちが「救い」ですとか、「福音」ですとか、短く言い表していることを意味しています。
主は人の子の姿となって、愛らしい赤子の姿で、世にお生まれになったのでありますが、それは人の罪を背負って十字架におかかりになるため、人の救いのため、この目的に向かって、世にお生まれになったのであります。
さて、本日でありますが、主が家畜小屋でお生まれになったことを、ご一緒に覚えたいと願っております。
と申しますのは、今年の壱岐教会は礼拝の長期欠席者が重なりました。寂しいとかしんどいとか言ってはならないのではいかと思いつつも、率直にそう感じることの多い日々を過ごしました。その中で、壱岐教会だけでない、非常に少人数の集まりが、数え切れないほど多くあることに目を向けさせる思いを、私自身は導かれてまいりました。
どこの教会がどうだとか、そういうことを越えて、そのような集まりがそれこそ星の数ほどあるのではと思います時に、何か温かい思いを覚えます。二人または三人が主の名によって集まるところに、主もまた共にいてくださると御言葉は語っています。この神の愛は温かいではありませんか。
思えば、世界で最初のクリスマスと言って良いでしょう、主がお生まれになった晩は、実に静かな夜でありました。ご馳走もありません、ケーキもありません、プレゼントもありませんでした。キャンドルサーヴィスのようなロマンティックな雰囲気もありません。美しく飾られた部屋ではありませんでした。家畜小屋です。臭いは、押して知るべし。不衛生でもあったでしょう。また、寒かったことでありましょう。子を生む環境としてはあまりに惨めであります。これが世界で最初のクリスマスでありました。
私は大きな教会での信仰生活を送らせていただいたこともあります。大きな教会の皆様は本当によくご奉仕されます。また、見事に組織立てられています。中心でご奉仕される方の働きには本当に頭が下がります。大きな教会では、クリスマスの時期には多くの集まりが企画され、そのどれもが実に楽しいものでありました。美しく飾られた温かい部屋で、美味しい食事を囲み、讃美歌を歌い、プレゼントを交換し、楽しいひと時を過ごします。クリスマス会の、それら一つ一つに、主のご降誕を祝う意味が語られて、その都度に主のお生まれについて、思いを巡らせるのであります。祝福に満ち溢れています。このようなクリスマスは本当に素晴らしいと思います。
けれども、豊かな溢れるような祝福を体一杯に浴びるようにして過ごすことのできない方々のことも同時に覚えたいとも思うのです。
今年、特に小さな礼拝と祈祷会を通して、私は教会に足を運ぶことのできない方のことも考えさせられました。たとえば、病気などで入院中の方や、自宅療養の方などです。私は拘置所に月一回の面会のご奉仕をさせていただいていますが、拘置所や刑務所の方々も同様でありましょう。壱岐の島にも独居老人の方は多いと聞きますが、こちらもまた同様かもしれません。ホームレスの方々などもそうでしょう。他にもいくらでも考えられると思います。
また、雑踏の中にいても、たまらなく孤独だということがあると思います。温かい家庭の中にあっても、自分の心は孤独だという方もいらっしゃると思います。そのような方にも、主が家畜小屋にお生まれになったことを心に思い描いていただきたいと思うのです。そこには神の優しさがあります。神の愛があります。
思いを巡らせておりますと、主が家畜小屋にお生まれになったこと自体が、神の優しい愛に満ち溢れた出来事であったと思われてならないのであります。これほどの孤独はない。これほど寂しいことはない。侘びしくて仕方がない。家畜小屋で出産しなければならないとは、本当に悲しいことではありませんか。けれども、主がそのような仕方で世にお生まれになったと思います時に、この世にあって、真の孤独はないのだと、そう神の愛を力いっぱいに語りたくなるのです。神はあなたと共にいます、主はあなたと共にいます、聖霊のともし火はあなたの心の内に温かく、闇の中のろうそくのともし火のように、美しく輝いています、と。

全世界の住民登録をせよとの勅令が、ローマ皇帝アウグストから出ます。それは、クレニオという人がシリアの総督であった時のことでありました。それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町へ向かっていきます。自分の出自、家系ですとか血筋ですとか、自分のルーツにゆかりの深い地に行き、住民登録をしなければならないことになったわけです。
私たちの感覚でいえば、本籍のある場所の役所にまで足を運んで、そこで所定の手続きをしなさいといったことでありましょうか。これは大変手間のかかることであります。ヨセフはダビデの家系であり血筋でもありました。それで、ベツレヘムへと向かったのであります。ベツレヘムはダビデの町だったとのことです。このルーツは、旧約聖書のルツ記に求めることができます。
ヨセフは、許婚(いいなずけ)のマリアと共に、ガリラヤのナザレからベツレヘムに行きました。マリアも共に登録するためでありました。ナザレからベツレヘムまでの道のりは直線で約100キロメートルです。山あり谷ありの道のりです。ヨルダン川沿いに迂回したであろうと思いますと、150キロメートルほどの道のりになるでしょうか。現代ならばバスか車での移動ですが、当時はもちろんそのようなものがあろうはずはなく、徒歩か、せいぜいロバに荷物を背負ってもらうくらいでありましょう。しかもマリアは身重であります。
ローマ皇帝の勅令ですから、逆らうわけにはいきません。文句を言っても仕方がありません。てくてく歩いたか、とぼとぼ歩いたか、他にも大勢、移動している仲間もいたのでしょうから、楽しい出会いもあったかもしれません。ただ、肉体的にはかなり辛かったことだけは間違いないでしょう。この大変さは、現代の私たちにはちょっと想像し難いものでしょう。一体何日くらい歩き続けるのでしょうか。
二人はなんとか無事にベツレヘムに到着しました。ところが、ここでマリアはおなかの中の子どもの月が満ちて、出産することになります。大変困ったことに、「宿屋には彼らのいる場所がなかった」と聖書は記しています。
当時の宿泊は、大部屋に雑魚寝といったスタイルだったそうです。出産する場所がなかったという意味か。生まれたばかりの赤子は夜泣きもしたでしょうし、うんちやらおしっこやら臭いのこともありましょうし、また手間がかかるといったこともあったでしょうし、他のお客さんが嫌がるからということで、そういう意味で居場所がなかったのか。
いずれにしましても、私は、これは大変冷たい話ではないかと思うのです。宿をとるのは、休むためです。疲れを癒すためです。ですから、そういう環境を欲する気持ちは誰にだって当然ありましょう。けれども、今から一人の人間が生まれる、今、周りの人の協力の必要が明らかな時に、なぜ、マリアとヨセフに「居場所がない」などということがあるか。なぜ彼らの居場所が家畜小屋でしかなかったのか。当時の家畜小屋は洞穴を利用したものだったとも聞きます。建物ですらありません。洞穴(ほらあな)です。主は洞穴でお生まれになったのです。
ルツ記の前の書簡が士師記なのですが、士師記の最後の部分、つまりヨセフがダビデの家系の血筋の、そのダビデのルーツを辿る原点の一つに、非常に陰惨な出来事が記されています。その地がベツレヘムなのです。ベツレヘムと聞けば、私たちにとってそれは救い主がお生まれになった地の名前、甘美な響きに聞こえますが、聖書の物語が示すベツレヘムの印象は、はっきり真逆です。ベツレヘムとは、人の愛が冷え冷えとした村であります(なにか理由があったのか、分かりませんが)。
ここまで、クリスマスの物語を、恨み節を基調にお話してきましたが、クリスマスのこの物語を、私の視点ではなく、ヨセフとマリアの視点で辿ります時に、しかし、きっと二人は周囲の人々を恨んだりはしなかったように思われます。二人ならば、きっとこう感じていたのではなかろうかと思うのです。「家畜小屋があって、良かった」と。やっとの思いで見つけた時、二人は心底喜んだと思います。何とか出産できる、しばらくそこで休むこともできる、と。
福音は逆説であると聞くことがあります。世的には恵まれているようで、霊的には虚しいことがある。絶望的に思われる中に、しかし希望がある。愛がある。クリスマスの物語にあるのは、まさに逆説という福音であります。
マリアとヨセフは、ほとんど絶望的な状況だったのです。産気づき、これから大変だという時に、周囲のすべての人からの扉を閉ざされたのであります。二人は締め出され、行くあてをなくしたのであります。闇に放り出されたのであります。そして、出産まで、時間がない。
この絶望的なときに、家畜小屋を見つけます。二人にとってこれは天の助けです。本当にありがたかったと思います。そして、なんとか、無事に生み終えた時、二人の心は、ほっとした気持ちで一杯だったのではなかろうかと思います。しばらくすると近所の羊飼いたちが天の御告げを聞いたからといってやってくる。不思議なことでありましたが、二人にとっては神様から遣わされたプレゼントでありましょう。
夜が明けるまでの間、静寂に包まれます。救い主の誕生に立ち会ったのは、家畜小屋の家畜たちでした。そして羊飼いたち。たったそれだけです。家族や友人に祝ってもらったわけではありません。けれども、ここに温かな静寂があります。これは神様の御手に包まれた、安らかな静寂です。
しだいに夜は明けます。洞穴の、家畜小屋の、入り口のあたりがだんだんと明るくなってゆきます。しばしの休息を終えて、マリアとヨセフは赤子を抱いて東の空を見る。空はいよいよ明るい。そして太陽が昇った瞬間、まばゆい光が目の奥に差し込む。この光を見たとき、二人の心は言葉にならない、言葉以上の感謝の気持ちを神様にささげて胸が一杯になったことでしょう。
この物語から、どんなに絶望的に思われる状況の中でも、神の助けは必ずある、神はきっとあなたを守ります、神様を信じましょうと、そのようなメッセージを聞き取ることができましょう。また、どのような困難の中にあっても、感謝を忘れずにいたいものと聞いても良いのだと思います。けれども、言葉にしないほうが、この物語の祝福は新鮮であります。一つ、皆様にお勧めしたいことがあります。
24日の晩、キャンドルサーヴィスの、その晩が明けた25日、少し早起きしていただきたい。そして朝日を見てほしいのです。マリアとヨセフが、どのような思いで、かの日の朝を迎えただろうかと、その思いを巡らせながら、限りない感謝と喜びの思いを共にして、神にささげていただきたい。その時、インマヌエルの主イエス・キリストは赤子の姿で私たちと共にいます。すやすやと眠っています。その平安を受けていただきたいのです。
祈りましょう。

クリスマスによせて

2010-12-20 22:57:32 | 教会紹介

壱岐教会では、12月24日(金)夜7時~8時 
クリスマスキャンドルサービス(クリスマスイブの礼拝)をいたします。

教会の礼拝は、はじめての方も少しだけ興味のある方も、子どももおとなも、どなたも参加することができます。どうぞお気軽においでください。



12月19日(日)教会の週報からクリスマスの記事を載せます。


教会の5つの約束 「聖書・祈り・礼拝・献金・伝道」

クリスマスは、他のどの時期にもまして、寂しさが際立つ時でもあると、そのような面をもっていると聞くことがあります。
アメリカではクリスマスは家族で過ごすことが大切な習慣だと聞きます。どの家庭でも温かい部屋の中、綺麗に飾り付けられた部屋で、美味しい食事やケーキやプレゼントで喜びを共にしている中、自分だけは共に過ごす家族がいない。どこにもいくところがない、どこにも行く気がしない。そのような方は気持ちの持って行き場がないわけですね。どう過ごせば良いのでしょうか。これは本当に辛いことだと思います。
私はクリスチャン・ホームに生まれ育ちました。クリスマスと言えば楽しい暖かな思い出ばかりです。クリスマスをこれ以上ない悲しみの中で過ごされる方の気持ちを真面目に考えたことは余りありませんでした。が、今年、少し、考えさせられています。自分のクリスマスというだけではなくて、いろいろな人にとってのクリスマスですね。
教会で、聖書の箇所と讃美歌を紡ぎならささげられるイヴ礼拝に参加できることは、本当にありがたいことだと思います。けれどもそれ以上に感謝なことは、主が家畜小屋に生まれたという事実そのものでしょう。本当に神様の深い御心が現わされたのだと思います。
遠い国から見知らぬ外国人がやってきて祝ってくれる。随分と賢そうな方々ですが、マリアとヨセフにはあまりにかけ離れた人たちだったでしょう。近くで羊の番をしていたこれまた見知らぬ羊飼いたちがやってきて祝ってくれる。不思議なことです。家畜小屋の家畜たちは、マリアとヨセフをやさしく見守る。この家畜たちに人間と同じような気持ちがあるとしたら、どのような気持ちだったでありましょうか。
クリスマスの物語は辛さや悲しさが基調であることは確かでありましょうが、この中にかけがえのない優しさがきらきらと光っています。(牧師)

2010年クリスマスのご案内

2010-12-14 16:51:42 | 教会紹介


☆クリスマス礼拝

 12月19日(日)午前10時30分より


☆クリスマスイブ・キャンドルサービス(燭火礼拝)
 
 12月24日(金)午後7時~8時


 はじめての方やどなたも参加できます。

 集会の中で、献金(自由)がございます。

 どうぞお気軽に教会に電話にてお問い合わせください。   牧 師 長尾知明