ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

雑記帳51・ラティハンは有効だが魔法の杖ではない/

2021-05-09 | 日記

ラティハンは有効だが魔法の杖ではない

人格に責任を持つのはその人であって、ラティハンではない。

行動の結果に責任を持つのはその人であって、ラティハンではない。

自動的に「品行方正の人」になるのではない。

それは「洗脳」というものである。

ラティハンは今現在でも有効か?

その通り、有効である。

だがそれは人による。

ラティハンを自分の人生の中で表現できる人もいれば、そうでない人もいる。

日本に於いてラティハンは広まりうるか?

これからラティハンを始める人はどこまで行けるのか??

それは本当に難しい質問だ。

かつてはバパが直接日本を訪れて、いわば直伝で指導があった。

その影響は多岐に及び、そうして良い影響と悪い影響を日本に残した。

しかしラティハンを深める、という事については明らかに良い事であった。

だが今ではそれは望むべくもない事。 

そうしてまた今日ではコロナの影響がある。

初めの方たちは集団で行うのを基本とするラティハンであれば、なかなかそれが難しくなっている。

そういうことを考えると、ラティハンを受ける、という事の状況は変わってはいないとは思うのだが、新しい人たちが継続的にラティハンを初めて歩き通せるのか、という事は、特に日本においてはますます難しくなってきている、というのが現状の偽らざる感触である。

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雑記帳27・バパの銀行とグラミン銀行

2019-11-26 | 日記

かつて協会はバパの受けたことによる指示で銀行を作りました。

そうして、その銀行に対するバパのトークの中にグラミン銀行が業務としている様な内容と同じ趣旨の事が語られています。

バパの銀行は働こうとする人たちを教育し資金を提供するものである、と。

そうしてグラミン銀行は見事に成功し、ノーベル平和賞を受賞しました。

そうして今回、日本に上陸の予定です。<--リンク

かたや、バパの銀行は跡形もなく消え去っています。

さて、この2者の間にある相違はなんでありましょうか?


バパが受けた事であるから、これは必ず成功する、と。

そうして、バパが受けた通りにやっていればよい、と。

そのように協会の人は考え、実行していきました。

そうしてその結果といえば、世の中に受け入れられることも無く消えていった模様です。

 
かたや、グラミン銀行を作った人たちは、「いったいどうすればいいのか」一生懸命に考え、試行錯誤をしていったのでありましょう。

そうして地に足をつけて、貸し付けをする人々と同じ視線を保ち、一歩一歩進んでいったに違いありません。

それは、困難な状況にいる人々の役に立つ銀行をつくろう、という意志。

そうして、それは今までの銀行の在り方とは違う新しい概念であるので、手探りで失敗を重ねながらすすんでいくしかない。

その道が必ず成功する、という保証などはどこにもないが、それでもやり遂げようとする心。

そういう挑戦者としての心意気。

そう言うものによって動かされていったに違いありません。


そうであれば、この2者の間には、なるほどスタートラインでのアイデアは同じであったでありましょうが、その後の在り方がまるで異なっていたものと思われます。

それが消え去ってしまった銀行といまだ発展し続けている銀行の相違を作り出しているものと思われます。


バパが受けたものは必ず成功する。

これは単なる思い込みでありました。

そうではなくて、それは可能性としてそこに存在していたのです。

それを現実世界にこの3次元世界に表現するには、実現するにはとても多くの思考が必要でありました。

世の中とのかかわりが必要でありました。

多くの知識が必要でありました。

そう言うものを全部どけておいて、「バパが言ったのだから成功する」というのは、これは残念ながらファンタジーでありました。

「バパが受けた事だから大丈夫」という理由で「考える事を手抜きする事は出来ない」。

そういう事を我々は自分たちの経験から学ぶ事が必要なのであります。

PS
・「バパが世的に受けたこと」についてはこのような記事もあります。<--リンク

ご参考までに。

PS
我々のやり方がうまくいっていないのなら、やり方を変えるべきでありましょう。

大いに思考をつかって、どうしたらいいのか考えるべきであります。

調和していなさい、静かにしていなさい。

これは眠っていなさい、という事ではありません。

大いに議論していながら、なおかつ調和して、静まっている。

そうでなければ、調和にも静まっている事にも意味はありません。

「宣伝をしてはいけません」。

バパはそう言いました。

屋根の上に登って、大きな声で宣伝するのはいけないでしょう。

それではどうやって人々にラティハンを伝えるのですか?

「我々の行動によって自然に広まるでしょう」。

バパはそう言いました。

しかしながら、事実は「広まってはいない」のであります。

そうであれば「我々はどのように行動したら良いのか?」と問わねばなりません。

調和して、静まって、従来と同じことをやっていても、従来と同じ結果が出てくるだけであります。

何をどう変えるのですか?

その結果はどうだったのですか?

そのように問いながらグラミン銀行の様に一歩一歩進んでいくしかないのであります。


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ラティハン日記 目次//

2019-10-15 | 日記

目次

第0章・スシラ ブディ ダルマ<--リンク

第1章・ウエルカム トゥ ラティハン (ラティハンにようこそ<--リンク

第2章・ラティハンとは何か<--リンク

第3章・バパの語りしトークなど<--リンク

第4章・道を求めて<--リンク

第5章・特集記事一覧<--リンク

第6章・レビューポイント<--リンク

第7章・2代目のことなど<--リンク

第8章・協会の来し方行く末<--リンク

第9章・インドネシアのイスラームとクバティナン<--リンク

第10章・バパトークの索引<--リンク

第11章・Latihan Stories and Susila Budhi Dharma<--リンク

終章・参考文献<--リンク

付録・雑記帳<--リンク


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こちらまでお願いします。
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雑記帳26・ラティハンの表現/

2019-09-04 | 日記
ラティハン中に我々はさまざまな動きを経験します。

あるいはいろいろな声を出したりします。

それは確かにラティハンの表現ではありますが、その人に特有の「受け方」ではありますが、それのみが「ラティハンの表現」ではありません。

より大切なのは、「修練としてのラティハン」が終わった後の「ラティハンの表現」でありましょう。

ラティハン中は我々の意思とは関係なくさまざまな動き、「ラティハンの表現」を行いますが、それが終わった後で、それではどのように動くのか、感じるのか、考えるのかが重要であります。

つまりそれは「日常生活そのもの」であります。

その中で我々がいわゆる自由意思、通常の表層意識、思考力、さまざまな欲望と関連しながら、なおかつラティハンとどのように関連を取っていくのか、関係を作っていくのかが重要です。

そうでなければ、日常生活や仕事の中にラティハンが現われてくる事は、「ラティハンが表現される事」はありません。

ラティハンがこうして日々の生活の中で表現できてようやく「ラティハンが地上に降りた」と言えるのであります。

PS
エンタプライズについて一言。

我々がそのようにラティハンの成果を表現できる分野であれば、エンタプライズを始めても成功できるでありましょう。

これがエンタプライズを始める事が出来る前提条件であります。

そのようであれば、我々は常に同業他社に負ける事はなく同等に、あるいはそれ以上に業績を伸ばす事が可能となります。

そうして、そうなっていない分野でエンタプライズを始める事はほとんど自殺行為と同じでありましょう。

まあそういう事でありました。

PS
協会本体が行う、いわゆるナショナル・エンタプライズ、それが通常の企業活動と違う、とするならば、明らかな事が一つ。

目指すものは「経済的な利益のみ」ではないはず。

そこには「協会の精神」が必ず表現されている事になります。

そうでなければ協会自身がエンタプライズを行う必要性はどこにも無いでありましょう。

PS
バパが晩年になって世界各地を回りながら見たがったものは、確認したかったものはラティハンの中の動きの表現ではありませんでした。

明らかにそれは我々が日常生活の中で、あるいは仕事の中でどのようにラティハンを表現しているのか、できているのかを知りたがったのであります。

なるほど人はジャスマニレベルだとかロハ二レベルだとか主張するのは簡単ですが、それを日々の生活の中で表現していく事はたやすい事ではありません。

しかしながらそれが出来ないのであれば、ジャスマニとかロハ二とか言うのは時期尚早というものであります。

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雑記帳49・テストについてのあれやこれや/

2019-07-21 | 日記
テスト。

ラティハンを修するものはテストにより真実を受ける事が出来る。

間違いをする事はなく、常に正しく行動できる。

まあ当初はそのように考えたものでした。

そうしてそれは全く成立していない様です。

ちなみに「自己利益から離れられないのが人間」でありますから、そのような存在が「自分は絶対に正しい」という錯覚に陥った時にどれほどの厄災を周りに引き起こすか、歴史が示している通りであります。


ラティハンがベースです。

そのラティハンがどれだけナフスから離れてジワによって起こっているのか?

ナフスとジワとの切り分けが出来ているのか?

そう言う事がまずは前提であり、そうしてそのような切り分けが出来ているならば、改めて「テスト」などという行為そのものが不要になるかの様であります。


テスト。

ナフスから回答が出てくる事さえあります。

自己関心、自己願望。

そう言うものがあれば、それに従ったテストにしかなりません。

そうしてそれはもはや「コックリさんレベルのもの」であります。


テスト。

バパは「テストでエンタプライズを運営するな」と言われました。

エンタプライズは世の中の法則と思考力、そうして情熱、そのうえでできれば少しばかりのひらめきが必要でしょうか。

特に複数人で始めるエンタプライズであれば、そこにテストが入り込む余地はないでしょう。


そのような「テスト」でありますが、未だにそれをもって組織運営のかなめとしているのが協会であります。

それはまるで「現代に生きる巫女さん政治」そのものでありましょう。

時代錯誤もはなはだしい、といわねばなりません。


そうして「巫女さん政治」は「誰も責任を問われない政治」でもあります。

単に情勢に流されて漂っているだけ。

そのようであれば、どこにも行きつく事は望めそうにもありません。


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