とこしえの命を得るために

ブログの内容は梶原和義先生の著書からの引用です。

地球に神の愛が満ちている

2015-11-18 16:18:56 | 日記
植物は花を咲かせ、やがて実を結ぶのに、人間は花を咲かすこともできない。だから死んでしまうのです。愚かなことをしているのです。
花が咲いて実を結ぶ。ここに永遠性が良くでているのです。人間はこれを見ていても、分からないのです。
人間も花を咲かさなかったらだめです。この世に生きていても、魂に花が咲かなかったらだめです。魂に花が咲くと、魂の香りを自分で感じることができるのです。これがプラトニック・ラブです。これは人間が考えるセックスではありません。この恋が分かってくると、神が見えてくるのです。
人間は自分の肉欲のために、恋が分からなくなっています。これは困ったものです。恋は心の花であって、魂の花を意味するのです。人間が生きているということじたいが魂です。魂が神の御心を知って魂の花を咲かせるようになると、この世を去ってからの仕事が分かるのです。
人間はこの世に生きるために生れてきたのではありません。この世に生きていてもしかたがないのです。
最近日本のメーカーが、次世代のコンピューターを開発しているようです。それは左脳にある推理機能、判断、記憶機能と同じような装置を造って、自ら考えるコンピューターを造ろうとしているのです。考えるという機能を色々組み合わせることによって、ある推論が出てくるというのですが、皆様もこれをすればいいのです。
今までの経験内容、記憶内容、そして判断力、推理機能があります。この働きが左脳にありますが、これを活用すると、今まで全然見えていなかったものが、見えてくるのです。
今の人間は左脳の働きが非常に悪くなっているのです。考えようとしないのです。馬鹿になっているのです。その結果、とうとう考えるコンピューターを造ろうとしているのです。人間が考えずに、機械に考えてもらおうという所まできてしまった。こうして、人間は完全に馬鹿になってしまうのです。
こういうコンピューターを発明しようとしている人々は馬鹿にはなりませんが、大衆は馬鹿になってしまうのです。次世代のコンピューターができて、考える機能が完成したとします。それによって人間がどうなるかと言いますと、ますます馬鹿になっていくのです。
人間が現世に生きていることが、無意味なのです。ただ意味があるとすれば、皆様が現世で経験した肉の思いは、肉を解脱して霊の世界に生まれかわるためにあるということです。皆様が何十年の間この世に生きていることによって、色々な経験をインプットされたのです。これを組み合わせていけば、今まで考えられなかった新しい見解が生れてくるにきまっているのです。
今までの経験を踏み台にして、これを組み合わせていけば、未知の世界に対して、今まで考えられなかった新しい見解が生れてくるにきまっているのです。
今までの経験を踏み台にして、それを組み合わせて前進させることによって、肉の次元が霊の次元に変っていくのです。肉の次元が霊の次元に前進していくのです。この方法を祈りというのです。神とのコミュニケーションによって、これができるのです。
聖書が分かるとはどういうことか。全世界六十四億の人間に、責任が持てる分かり方でなければいけないのです。これが意識できないようでは、何も分かっていないのです。
理屈が分かっただけではだめです。本当に聖書が分かったら、自分の生きざまが変ってくるはずです。生活の一挙手一投足が変ってくるでしょう。聖書の言葉を、もっと深く考え、自分の命にすることを考えなければいけないのです。
私たちは全世界の代表者という気持ちで、黙示録の勉強をしていかなければならないのです。今、黙示録の四章が分かる人が、世界にいないのです。
天に開かれた門があります。ここに上がれとあるのです。ここに上がることによってこの世の中の状態、やがて地球が完成するということが見えてくるのです。
今、地球に花が咲いていますが、未完成のままで咲いているのです。未完成のままで咲いている花は、やがて完成する目的のために咲いているのであって、花それ自身はそれを自覚することはできません。
私たちが勉強すれば、私たち自身が完成することが分かると同時に、花を完成させてあげることもできるのです。
花をどのように完成させてあげればいいのか。花が咲いている目的を、果たしてやれるかどうか。聖書を正しく勉強すれば、その方法が分かってくるのです。
私たちは万物の長になるために、聖書の勉強をしているのです。自分自身の利害得失のため、自分が救われるために勉強しているのではないのです。
自分が生きていると思っているからいけない。この思いをやめなければいけないのです。理論的に分かったと思っても、それが自分の生きざまに反映していないようではだめです。例えば、門が開かれていると書いていますが、自分自身が生きていることがらを通して、開かれた門が見えていなかったらだめです。
花を見て、開かれた門があることを、どのように説明するかです。お茶を一杯飲んでも、どのように天が開かれているかです。
私たちが生きていることにおいて、天の門が開かれていなければだめです。天の門の中が、ずっと見えてくること、それが生活の実感の土台にならなければいけない。これが生活の原理です。この原理を軽々しく考えたらいけないのです。
花を見て何を感じるでしょうか。何かを感じるにきまっています。自分が感じていることが何であるかを、正確に説明できなければいけない。開かれた門が生活の実感になっていたら、花を見た瞬間に開かれた門を感じるはずです。
花は人間が見るために咲いています。人間以外に見て感心する者はいないのです。神が花を咲かせているのは、人間に見せるためです。人間に見せて、人間に示しているのです。花を見て、神の御心が分からない人は、その人の霊が神の御心に適っていないからです。
花が咲いているのは、地球の命が現われているのです。それでは、地球の命が花として現われているとはどういう事なのか。開かれた門として考えると、どういうことになるのか。
花を見てきたないと思う人はいないでしょう。きれいだなと思うことは間違っていません。花を見てきれいだと思うことは。何に感心しているのでしょうか。
イエスは次のように言っています。
「『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。
しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」.(マタイによる福音書13・14~17)。
あなたがたの目は見ている、耳は聞いているというのは、弟子たちに言っているのです。あなたがたは見るには見るが決して認めないというのは、ユダヤ人に対して言っているのです。これはイザヤ書六章、九節、十節の引用ですが、ユダヤ人に対するイエスの言い分なのです。
多くの預言者や義人たちが見ようとしたことは、新約という事実です。イエスが生ける神の子として地上に現われること、これは新約時代の実現であって、これを旧約時代の人々は見たいと願っていたが、見ることができなかった。
ところが、あなたがたはそれを見ている。私はキリストだとイエスは言っていますが、それを旧約時代の人たちは見ることができなかった。弟子たちはそれを見ているのです。
ところが、この時代の弟子たちの状態は、まだ聖霊を受けていませんから、イエスがキリストであると、頭で思わされていたのです。イエスが神の子キリストであるらしいと考えて、イエスに従っていたのです。
キリストとは何を意味するかを、弟子たちは知らなかった。しかしイエスは、おまえたちは実物を見ることができる。キリストの言葉を聞くことができる、その目は幸いである、その耳は幸いであると言っている。この時はまだはっきりきていないけれど、やがてくると言っているのです。
花が咲いているという事実があります。それを見て美しいと思います。美しいとは何か。これについてパウロは次のように述べています。
「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。聖書は『すべて彼を信じるものは、失望に終わることがない』と言っている。ユダヤ人とギリシャ人との差別はない。
同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。なぜなら、『主の御名を呼び求める者は、すべて救われる』とあるからである。
しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。『ああ、麗しいかな、良き訪れを告げる者の足は』と書いてあるとおりである。しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っている。したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。しかしわたしは言う。彼ちには聞こえなかったのであろうか。否」むしろ『その声は全地にひびきわたり、その言葉は世界のはてにまで及んだ』」(ローマ人への手紙10・9~18)。
主の御名を呼び求める者は、すべて救われるとありますが、御名を呼び求めるとはどうするかです。これが、世界中のキリスト教会で、正確に話されたことがないのです。キリスト教会で聖書の勉強をしている人は、御名を呼び求めることを知らないのです。御名を崇めていれば、名を呼び求めることが分かるのです。名を呼び求めるとはどうすることかです。
名とは救い主の実体です。名はギリシャ語でオノマと言います。オノマは物事の実質、実体を意味するのです。英語ではネームと訳しています。オノマの正しい翻訳はないようです。だから名と言わなければしょうがないのです。
昔から日本の諺には、名は体を現わすという言葉がありますが、人間の場合にはそうなっていないのです。例えば、川上正という名前の人がいるとします。その人が正しくない場合があるのです。人間の場合、名前通りの人柄の人間になっていないことが多いのです。
名はその人柄の実体をさすのです。キリストの名を呼び求めるというのはどうすることか。キリストの実体は何かです。実体を知らなければ、それを求めることはできないのです。知ろうと思っても、述べ伝える者がなければ、知ることもできないのです。
述べ伝えるものは誰か。述べ伝えるものの足は麗しいとありますが、足とは歩んでいる状態です。働いている状態です。例えば夕焼けの空を見ていると、荘厳な麗しさを感じます。夕焼け空の荘厳な麗しさとは何かと言いますと、よき喜びを伝えているのです。
喜びの訪れを伝えるものの足は何か。すべて麗しいと思えるものには、喜びの訪れを伝えている。だから、人間の魂は、美しいものを見たいと思うのです。
なぜ夕焼け空を見たいのか、なぜ上がる朝日を見たいのか。なぜ世界各地を観光したいと思うのか。人間の霊魂は無意識に、麗しいものにあこがれるのです。女性が化粧すると、それがよき訪れを伝えるものの足になるのです。顔が美しいことが、良き訪れを伝えるものの足になるのです。麗しいとは何か。山の景色でも、川の流れ、海の色でも、木々の緑でも、皆麗しいのです。麗しいから見たいと思うのです。それが神の訪れを、皆様に知らせているのです。ところがそれが分からない。
花を見てきれいなことはわかります。それがどうしてよき訪れを告げるものになるか分からないのです。
花が美しいという所までは分かります。花の美しさは何か。それを見ることによって、霊魂がどう救われるのか、これが分からないのです。これが分かつている人間でなかったら、天に開かれた門があることが分からないのです。
開かれた門が分かっている人には、花を見ただけで福音だということが、分かるのです。分かった人は、人々に伝えなければならない責任があるのです。
人間のハートで見て美しいと思うのはなぜか。なぜ美しいと感じるのか。人間のハートにないものが、花にあるからです。美しいというのは、英語で言えば、ワンダフルになります。ビューティフルはワンダフルに通じるのです。ワンダフルはすばらしいと訳していますが、ワンダーとは不思議という意味です。ワンダフルとは、不思議がいっぱいある。不思議千万となるのです。
美しいとは思いますが、美しいということの意味が人間には分からないのです。神は人間に美しいという感覚を与えていますが、美しいことの意味が分からないのです。その感覚が何であるかを、人間自身は認識していないのです。
美しいという感覚を御霊が人間に与えているのですが、美しいとは何かを理解していない。哲学でも答えていません。東洋哲学も一切教えていないのです。
仏教では唯識論を三年間勉強します。倶舎論を八年間勉強します。いわゆる唯識三年、倶舎八年です。唯識論は人間の精神の働きを言います。聖書で言えば、福音の神学です。倶舎論は聖書でいえば経論のようなことを言っているのです。唯識論、倶舎論を勉強しても、本当のことは分からないのです。
美しいとは何かが、唯識論の中に書いていません。説明していないのです。
花を見てなぜ美しいと思うのか。美しいとは何であるのか。何に感心しているのか。これが説明できないのです。
おいしいことも説明できないのです。おいしいことは誰でも知っています。知っていますけれど、おいしいことはどういうことかが、分からない。分かると救われるのです。
おいしいというのは、舌だけで感じているのではありません。味覚は脳で感じているのです。舌は脳につながっています。目も脳につながっている。脳細胞に直結しています。
脳細胞の実体は何か。脳波の原理は何かです。脳細胞がなければ脳波は働きません。では脳波は何かと言いますと命です。宇宙には脳波があります。宇宙の脳波の構造と同じものが、縮小されて、一人ひとりの頭の中にインプットされているのです。これは不思議な現象です。
これを聖書は、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造った」と言っています(創世記1・空。神にかたどって人を造った。どのように人を造ったかと言いますと、鼻から命の息を吹き込んだのです。命の息を吹き込んだことによって、人間に脳波ができたのです。鼻から脳波がふきこまれた。鼻から脳波の原理が吹き込まれて、脳細胞が働きはじめたのです。
皆様がおいしいものを味わった時、おいしい料理のにおいがした時に、脳細胞が喜んでいるのです。おいしいことは福音の訪れです。おいしいことと、麗しいことは、本質的に同じものです。
花をじっと見ていると、見とれるような美しさがあることが分かります。花の美しさが、人間のハートにせまってくるのです。これはなぜか。
美しいとはどういうことかと言いますと、愛されている喜びを示しているのです。神の命が地球に宿っている。その命が花になって咲いているのです。これが生きる喜びです。命の喜びです。命の喜びが自然に現われているのです。命の喜びは生かされている喜びであり、愛されている喜びです。これが花になって現われているのです。
花は素朴な感覚で、愛されている事実を現わしているのです。これが今の人間に分からない。特に男に分からないのです。女は愛される喜びを肉体で直感できるのです。
例えば女性が、非常に尊敬する人に巡り会ったりする。その人に触れると、飛び上がるように感じられるのです。惚れている人にちょっと触れただけでも、びりびりと電気を感じるのです。女性は愛されている喜びを、ストレートに、大胆に直感するのです。この喜びを、男性は学ばなければならないのです。女性が喜ぶ状態を、男性が学ぶのです。これが女性を愛することの本当の意味です。
男性は愛される喜びが分からない。女性は愛されているという現実的な喜びを、あふれるように実感できるのです。
神はエデンの園で、アダムを愛して愛していたのに、アダムはそれを少しも感じなかった。見るに麗しく、食べるによい、もろもろの木を植えて、神はアダムをなぐさめた。エデンの園にわざわざ住まわせて、朝日、夕陽を見せたり、すばらしい景色を見せたのに、アダムは少しも感じなかった。けろっとしていたのです。あたりまえだと思っていたのです。
蝉が鳴こうが、鳥が鳴こうが、コオロギが鳴こうが、知らん顔をしていた。何の感激もなかったのです。色々おいしい果物を造って食べさせても、何も感じなかった。
リンゴにリンゴの味がするのはあたりまえ、ナシにナシの味がするのはあたりまえだと思ったのです。
桃には、神の人間の霊魂に対する愛が、そのまま現われているのです。
花は、私は愛されているわよと言っているのです。愛されているとはどういうことかを端的に現わしているのです。素直に愛されているという喜びが、ストレートに出ているのです。
美しいものを見ると、感動します。何が感動しているかと言いますと、人間の霊魂が感動しているのです。霊魂がどう感じているかと言いますと、愛される時の気持ち、愛をストレートに受け止めて、感謝する喜びを感じているのです。
常に喜べ、たえず祈れ、すべての事を感謝せよとパウロが言っていますが、花がそれを実行しているのです。素直に神を喜んでいる状態が、花に現われているのです。これが、良き訪れを告げるものの足になるのです。
神は人間に、夕焼けの景色を見せている。上がる朝日を見せている。雄大な山々の景色を見せている。海の景色を見せている。魚の味、牛肉の味、桃の味、ブドウの味、メロンの味を与えている。これは何かと言いますと、あふれんばかりの神の愛のプロポーズです。愛のシグナルです。プロポーズをしているのです。神が人に求婚しているのです。ところが人間はけろつとしているのです。メロンにメロンの味がするのはあたりまえ、桃に桃の味がするのはあたりまえだと思っているのです。
人間の魂は死んでいます。神の愛が賛美できない命は死んでいるのです。生きている事は、神に愛されていることです。愛しているから生かしているのです。
これがイエスの信仰の基礎です。私は父の内にいるとイエスはいつも言っていましたが、これは神の中にいるということです。
新聞を読んでも、テレビを見ても、神が人間をどのように慰めようとしているのかが分かるのです。スポー・ツをテレビで見ることを許している。これによって、人間の霊魂にどのようなシグナルを与えているのか。文明のあり方を通して、家族を通して、社会生活を通して、神の実体が愛であることを人間に実感させているのです。
ところが人間は何も感じていない。テレビが映るのはあたりまえ、新聞がくるのはあたりまえと、何でもあたりまえにしているのです。
太陽があるのは当たり前、地球があるのは当たり前、森羅万象があるのは当たり前、四季があるのは当たり前、空気があるのは当たり前、水があるのは当たり前と、何でも当たり前にしているのです。当たり前とは何でしょうか。なぜ当たり前なのでしょうか。
神が人間を生かしている原理が当たり前の原理であって、人間があたりまえと思うことは、すべて生かされていることを絶対的な基礎にしているのです。だから、当たり前が平気で言えるのですが、この当たり前ということの内容は、すべて、驚くべき神の愛です。
良き訪れを告げる者の足は麗しい。麗しいということが、神の愛を伝えるのです。喜びの訪れを伝えるのです。
私たちが、今生かされていることが、そのまま救われていることです。そうでなければ、神が生かしている必要がないのです。このことを何とか知って頂きたいのです。
良き訪れを告げるものの足は麗しい。美しいものを見たら、恋をしているのだと思うのです。神が美しいものを通して、人間に恋をしているのです。
霊の眼が開かれて、霊の眼で家族を見る。人間関係を見る。自分の恋愛を見る。自分の過去の経歴を見ると、神の愛ばかりだったことが分かるはずです。
どんな事でも、感謝できるのです。パウロが、すべての事を感謝せよと言っていますが、感謝できないことは一つもありません。暑い時には暑いことが感謝できる。寒い時には寒い事が感謝できるのです。あらゆることが感謝できることばかりです。
喜べること、おいしいこと、すばらしいと思うことが、皆福音だと思ったらいいのです。麗しいと思うこと、おいしいと思うこと、すばらしいと思うことは、皆福音です。これが分かると、人間は毎日生きていて、思い煩ったり、苦労したり、ねたんだり、憎んだりしていることが、いかにばかばかしいかが分かるでしょう。
人間が生かされていることの意味が本当に分かると、思い煩い、取りこし苦労がなくなってしまいます。そういうものに関係がなくなるからです。良き訪れを告げるものの足が麗しいということが本当に分かりますと、今生きていることが、救われていることだと.いうことが、分かるのです。
私たちが見ている世界に、色、形、味、香がありますが、皆、よき訪れを伝えるものばかりです。人間の衣食住は、神の良き訪れを告げるものの足ばかりです。椅子の座りごこち、畳の座りごこち、お風呂の暖かさ、布団の気持ちよさ、これはすべて、麗しい、すばらしいことの中に入るのです。衣食住は神の愛が現われているものばかりです。神の愛でないものは、一つもありません。
美しいというのはキリストの言葉です。美しいことに対する正当な評価をすること、正しい価値判断をすることを、キリストの言葉を聞くというのです。信仰は聞くにより、聞くはキリストの言葉によるとあります。キリストの言葉を聞く時に、初めて、本当の信仰が分かるのです。これがキリスト教では全然分かっていないのです。
最もすばらしいのは、女性の美しさです。女性が愛されている時の喜びは、すばらしいのですが、これが分からない。男性は女性が愛されているすばらしさを見ているのに、それが分からない。女性を喜ばしてなにが嬉しいのか。女性の喜びを学べるから嬉しいのです。ところが学ぼうとしない。女性の喜びを自分の喜びとして感謝感激することが、男性がとるべき態度です。これができる男性がめったにいないのです。
神が人を何のために造ったのか。愛の対象として造ったのです。神から見れば人間は皆女性です。愛されるための女性です。だから男性は女性にならなければいけないのです。男性は男性白身でいては、絶対だめです。アダムは神から愛されているのにそれが分からなかった。そこでアダムはハート(あばら骨)を抜き出して、エバという女性を造ったのです。これはアダムの本質を見せるために、女性を造ったのです。
アダムの本質が女性であるというのは、アダム自身が女性であることを意味しているのです。男性はその本質のようにならなければいけない。つまり男性は女性にならなければいけないのです。
男性が女性になるとはどういうことかと言いますと、愛される喜びをストレートに感じることです。女性とは何か。愛される喜びを感じることを言うのです。これが分かってくると、初めて、男性は女性になる嬉しさ、楽しさが分かつてくるのです。これがキリストの花嫁です。人はキリストの花嫁になることが、最高の名誉です。
被造物は神の子が現われて、栄光の自由に入ることを待ち望んでいる。花が咲いていることを本当に認めてくれるのを、待っているのです。人間がキリストの花嫁になったら、森羅万象が全部救われるからです。草木国土悉皆成仏というのはそれです。
天地万物は皆キリストの物です。被造物はキリストの栄光を現わすためにできているのに、アダムが罪を犯したために、虚無に服している。これを私たちが認めてあげると、万物が救われるのです。
これができるのは人間だけです。人間だけが、万物を治める権威を与えられているのです。万物の本当の姿を見ることができるからです。
人間は「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべての獣と、地のすべての這うものを治めるために」生れたのです(同1・26)。地に這うものとは、呪われた状態を現わしています。野の獣、ヘビ、サソリ、ムカデ、ゲジゲジは、呪われた性格を現わしているのです。
ヒルは悪魔とは違います。人間の霊魂の血を吸うような精神状態を現わしているのです。悪いものが悪いように認められると、ヒルが救われるのです。ゲジゲジもムカデも、皆救われるのです。
私たちが生ける神を知って生きるか生きないかは、大変な影響を与えるのです。万物が生きるか死ぬかの鍵を、人間が握っているからです。






死から脱出する

2015-11-18 16:17:55 | 日記
死から脱出しなければならない。絶対に死んではいけないのです。そのためには、死とは何かをよく知らなければいけないのです。
人間は死ぬのはいやだと言いながら、死とは何かを知らないのです。これがいけないのです。死には、第一の死と第二の死があるのです。
人間は現在生きていると思っていますが、なぜそう思っているのでしょうか。
ヨハネは次のように述べています。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言(ことば)について、このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである。」(ヨハネの第一の手紙l・l、2)。
人間はこの世に生れてきて何をしているのでしょうか。目で見ること、耳で聞くこと、手でさわること、五官が働いていることが生きていることです。五官の働きに、それぞれ意識が伴っているのです。目で見ていると、見ているという意識が伴うのです。聞いていると、聞いているという意識が伴っているのです。五官の一つ一つに、意識がついて回っているのです。
意識は般若心経で言いますと、眼耳鼻舌身となるのです。この五つの働きに、意識がついて回るのです。さわった時に、さわったという意識があります。見たら見たという意識があるのです。そのように、五官というのは、五つの意識を意味しているのです。五官、五意が、人間が生きている証拠です。これがあるから、私たちは生きていると思っているのです。
ところが、人間の五官、五意は、実は死んでいるのです。目で見ていると思っていますが、人間は肉の目で見ているのです。肉の目でとは、現象として現われた形だけを見る見方をいいます。現象としての形は見ていますが、その本質を見ていません。
目撃するというのは、よくよく見ることです。日本語の聖書では、よく見てと訳しています。よく見てという所を漢訳聖書は目撃してと訳しています。
見るというのは、ちょっと見るのと、じつと見るのと、じつと見て見極めるという見方があるのです。漫才で、「見て見て見いー」といっている人がいますが、これはじっと見て見極めるという方になるのかもしれません。
このように、見るということだけでも、三通りの見方があるのです。これをしっかり実行していきますと、物の本質が見えてくるのです。
食べる時も、むしゃむしゃと食べる時と、じつくり味って食べる時では、食べ方が変ってくるのです。じつくり食べると、自然に消化も良くなるのです。むしやむしやと食べてはいけないのです。とにかく三通り見る、三通り聞く、三通り味うという気持ちで生きていれば五官の意識が深くなっていくのです。ところが、見て見て見るという見方をしない。ちょっと見て終わりなのです。だから、見れども認めずということになるのです。認めるというのは、見極めることをいうのです。
地球ができる前の本当の命が、今現象になって現われている。これは太陽ができる前の命です。大宇宙ができる前、現在の宇宙ができる前にあった命、宇宙の根源になっている命が、今、地球現象という格好で現われているのです。
私たちは現在、地球現象を見ています。森羅万象を見ています。外側の格好だけは見ていますが、森羅万象が何なのか分からないのです。これが精神的に死んでいるという意味です。森羅万象の本質を見るだけの目がありながら、その本質を悟ることができていない。だから、死んでいると言わなければならないのです。
人間が現世に生れてきて、五官が働いているという点からだけ考えますと、生きていると言えるのです。ところが、五官が働いていながら、物事の実体が見えていない。これがいけないのです。
五官の働きは、人間に植えられた神の言です。人間に植えられた神の言(ロゴス)が、目となり耳となっているのです。現在五官として働いている言は、理性と言ってもいいのです。理性が五官の根本です。神の言、神の理性が人間に植えられている。だから、神が造ったものが分かるのです。
動物でも、言が非常に不完全な形で植えられています。動物でも神が造ったものが分かるのですが、それを認識することはできません。人間は認識できるのです。認識できるかできないかによって、魂があるかないかが決定されるのです。
動物が生きているのは魂ではありません。ただ本能によって生きているのです。人間の場合は、本能に認識する力が加わっている。そこで魂と言えるのです。
人間には現在生きているという事実があります。五官が働いているからです。ところが、人間の五官の働きは、上っつらだけの肉の感覚だけで見ている。初めからある命、神の言が見えていない。だから、生きていながら神が全然見えないのです。言が見えたら、神が見えるはずです。ところが見えていない。なぜでしょうか。
イエスは「心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう」と言っています(マタイによる福音書5・8)。心が清ければ神がみえるのです。人間の心は雑念によって汚れている。だから神が見えないのです。見えるはずの神が、見えないのです。衣食住において現われている神の姿が、全然見えないのです。神が見えないこと、命が見えないことは、死んでいる証拠になるのです。
五官が働いていながら神が全然見えていない、神が認識できない、これが死んでいる証拠です。
もう一つ死んでいる証拠があります。皆様の生活の中で、憎むとか、そねむ、焼きもちを焼く、ひがむ、嘘を言う、ごまかす、おべっかを言う、不正直になる、生きていることがいやだと思うことが、いつもあるでしょう。これが死んでいることです。
人を憎んだり、呪ったり、うらんだり、時には殺してやりたいと思うこともあるでしょぅ。これが死んでいる証拠なのです。すべて、苦しみ、悲しみがある人、重荷がある人は、死んでいることになるのです。
神がはっきり分からない。神が造ったものを見ていながら、神が分からない。心にいつも重荷を背負っていること、いやなことばかりがやってくるような気がすること、自分ほど不幸な者は世界中にいないと思うこと、人間がこの世に生きているのは、はっきり死んでいるのです。
毎日、毎日、重荷を背負っている。罪を造って生きているのです。不幸と不満と不安で→杯です。心からの喜び、平安、安心がない。これが死んでいる証拠です。
人間がこの世に生まれたのは、はっきり殺されたことなのです。肉体的にこの世に生まれたことは、死を経験するためなのです。死を具体的に経験させるために、神が人間を肉(現象世界)に放りこんだのです。
この状態から、絶対にぬけ出さなければならない。そうしないと、必ず地獄へ行かなければならないのです。
ヨハネは次のように述べています。
「海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。それから、死も黄泉も火の中に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた」(ヨハネの黙示録20・13、14)。
死はすべて火の池に投げ込まれる。これが第二の死で、これが恐ろしいのです。永遠の裁きになるからです。
人間は現世に生きていて、不幸、不満、不安、苦しみ、悲しみが次から次へとおそってきます。生きていることがいやになるような事が、たえず沸いてくるのです。これが罪の下に売られている証拠です。
本当に生きているのなら、神の前に生きているのですから、喜びと感謝がいっぱいでなければいけないのです。常に喜べ、たえず祈れ、すべてのことを感謝せよ。いつでもこれがなければならないのです。
救いとは何か。死んでいる状態から出ることが、救われることです。死からはっきり出なければならない。出ることができるのです。
死とは何か。死がはっきり分かれば、それから出て、命がはっきり分かるでしょう。ところが人間は、死んでいることが分からないのです。心配ごと、苦しみ、悲しみがあっても、しかたがないと考えているのです。しかたがないどころか、すでに死んでいるのです。
自分はこれからどうなるのか。自分の運命はどうなるのだろうか。女の人はいつも自分を意識しています。男性はずぼらですから、それを意識しないかもしれませんが、女の人はいつも自分を意識しています。これが死んでいる証拠です。
キリスト教の信者は、救われたと言っていながら、暗くなっているのです。人を裁いています。人の悪口を言っています。これはすべて死んでいる証拠です。山上の垂訓(マタイによる福音書五章~七章)が、すかっと実行できなければいけません。山上の垂訓は一箇所実行できたら、全部実行できるのです。
神が現在人間を生かしていながら、心の持ち方が悪いために死んでしまっている。それは命を目撃していないからです。目の働き、手の働きの実体が分かっていないからです。
人間が見たり聞いたりしているものは、実はとこしえの命です。毎日、とこしえの命を見たり、聞いたりしているのです。一杯の水を飲んでも、とこしえの命を飲んでいるのです。
夏は暑く感じます。暑いと感じることが、とこしえの命を感じているのです。そう思って生きてみるのです。暑ければ暑いように、暑いということの内容をじっと味わうと、有り難く思えてくるのです。
食べる時は、かんで、かんで、良くかんで食べるのです。見る時は、見て、見て、見るのです。そうすると分かってくるのです。じつくり見るか見ないかです。じつくり見れば命が見えてくるのです。
暑さ寒さを経験できるだけでも、有難いことです。それをなぜ経験できるのでしょうか。それは神の言(ことば)が人間に植えられているからです。その機能によって、暑さ寒さを認識できるのです。だから人間は神の子です。
人間の肉体は存在していません。釈尊は今から二千五百年も前に、色即是空、目に見える現象的物体は、存在していないと喝破しているのです。一切空、肉体はないと言い切っているのです。これは、今から二千五百年も前の話、日本という国ができるはるか前の洞察です。
理論物理学では、物質は存在していない。電子等の運動が物質のようにみえるだけだと理論づけています。この理論を実際に応用して造られたのが、原子爆弾、水素爆弾です。物質は即ちエネルギーであることを実行したのが、広島、長崎の悲劇でした。
もし物質が本当に存在するのなら、広島、長崎の悲劇は、嘘になるのです。人間の肉体は存在していません。ただ新陳代謝がある。流れ動いているのです。少し真面目に、冷静に考えれば、肉体がないくらいのことは、誰でも分かるのです。肉体がなければ、肉体的な重荷、悩みを背負う必要はないのです。
肉の思い(人間の常識、知識)で生きていることは、死んでいることです。これをはっきり承知することです。これが分からなかったら、命は分からないのです。
なぜ神は人間に死を与えたのか。死なしめたのか。神が人間をこの世に送ったことは、殺したことになるのです。生れたことは死んだことです。実は、誕生日は命日です。なぜ神はこんな無茶なことをしたのか。
神は人間を殺したつもりでいるのに、人間は生れたつもりでいるのです。人間は生れたことがおめでたいことだと言って、誕生祝をしているのです。神と人間とでは、全く意見が違っています。だから、全然神が分からないのです。
神はなぜ人間を殺したのか。こういう重大な問題に対して、神はいつも考えるヒントを与えているのです。人間に悩みや苦しみがあるのはなぜか。悩みや苦しみを味っていることが、死を味っていることなのです。
神を賛美したり、神を喜んだりするはずの人間が、神を呪ったり、神に文句を言っているのです。これは人間に、死を与えている姿なのです。神はなぜ人間にこのような処置をしているのか。
人間に死を与えなければ、命が欲しいと思わないからです。おなかがすくから、ご飯を食べたいと思うのです。喉が渇くから水を飲みたいと思うのです。喉が渇いたと思わないなら、水を飲みたいと思わないでしょう。
空腹は料理人を名コックにすると言います。二、三日、何も食べなければ、どんな料理でも、飛び上がるほどおいしいと思うでしょう。
飢え乾くごとく義を求めるという言葉が聖書にあります。飢えたり、乾いたりするから、義を求めるのです。命を求めるのです。
簡単なことです。現世に生きていることが幸いから、救いを求めるのです。すべての人間を死の中に閉じ込めたのは、命を求めさせるためです。
命は求めなければ与えられないものです。なぜかと言いますと、求めないものに命を与えても、命の値打ちが分からないからです。
悪魔がそうでした。神は悪魔に、すばらしく輝く命を与えたのです。叡智にあふれるような命を与えたのです。ところが、悪魔は、それを嬉しいとも、有難いとも思わなかった。自分にそういう力があって、当然だと思っていたのです。
初めから大金持ちの家に生れた子供は、お金の価値、生活の苦労を全然知らないでしょう。お金は有難いものだということが、分からないのです。あって当り前だと思っているからです。
だから神は、命のありがたさを知らせるために、人間にまず死を与えたのです。死を十分に味わうことが必要だからです。死から命に転換するためにはどうするか。死にきることです。死にきってしまえば、命になるのです。死をもって、死を滅ぼすために、死にきってしまうのです。悩みや苦しみがあると思う人は、悩みや苦しみに徹底することです。悩みのどん底まで行ってしまうのです。そうすると、命に向かうことができるのです。
次から次へと不幸が襲ってくる場合は、とことん不幸を味ってみようと度胸を決めるのです。そうすると、不幸をつきぬけてしまえるのです。
深い淵のある川にはまったら、あわてたらいけないのです。黙ってはまったらいいのです。息を止めて、沈む所まで沈んだらいい。すぐに浮くに決まっているのです。浮いたら、助けてくれと言えばいいのです。それを最初から浮こうと思うから、かえって溺れて、死んでしまうのです。水を飲まなければ、絶対に死ぬことはありません。
人間に苦しみがなければ、楽しみや喜びは分からないでしょう。死を味わなければ、命を求めようとしないのです。おなかがすかなければ、ご飯を食べたいと思わないでしょう。これは全く簡単なことです。
生きていることが苦しいと思ったら、それを感謝するのです。苦しいという気持ちがあるから、命を求めるチャンスができたのです。
苦しいと思うことは、命を求めるチャンスだと思えば、必ず救われます。苦しみを与えた神の御名をほめるのです。苦しみを与えられたことを、感謝するのです。いやなことを、感謝するのです。これを実行すると、霊魂の状態が、必ず変わります。正直に死を味った者は、必ず命を与えられるのです。
人間は本当は、苦しまなければならないほど悪いことはしていないのです。嘘を言ったり、焼きもちを焼いたりした。これは大した罪ではない。ところが、やっぱり心に重荷があるのです。暗くなるのです。悲しみや苦しみがたえずあるのです。その時、そういう悩みがあることは、神は私に、喜びや悲しみを与えるためだと考えたらいいのです。
そうすると、与えられている苦しみや悲しみが、感謝に変るのです。こういうやり方をするのです。そうすると、常に喜んでいられるのです。暗かったら、それを喜んだらいいのです。悲しかったら、それを喜んだらいいのです。
嬉しい事を知らせるために悲しい事をまず経験させるのです。苦しい事がなければ、嬉しい事はあるのでしょうか。年がら年中、朝から晩まで、楽しい事ばかりだったら、楽しみぼけになって、楽しみが苦痛になるでしょう。楽しさが、さっぱり分からない人間になるのです。
苦しいから、楽しい事が分かるのです。苦しい事を感じる暗があったら、神は私たちに、楽しさ、嬉しさを与えるためだと思ったらいいのです。そう考えたとたんに、苦しみが楽しみに変ってしまうでしょう。ヤコブが言っています。「苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ」(ヤコブの手紙4・9)。だから、悲しみがある方が得です。苦しんだ方が得です。楽しんでいる時は、それ以上の楽しみはありません。楽しんでいる人は、神は放っておきます。救いを与える必要がないから、ほったらかしにしているのです。
苦しんでいる人、悲しんでいる人は、救いを求めざるを得ない。だから、楽しさ、嬉しさが与えられるのです。
人間は、殺さなければならないほど悪いことをしていません。それなのに、苦しみや悲しみを与えているのは、死を味うことによって、命の方へ向けさせようという、神の計画なのです。
これが分かったら、苦しんだり、悲しんだりして、生きていく必要はありません。苦しみや悲しみを、楽しみに変えたらいいのです。
苦しみを与えられたことを感謝したら、命が分かってくるのです。神は命を求める者に、必ず命を与えるからです。
神は人を生かし、救うために、死なしめたのです。生かすために、殺したのです。これが有難いことなのです。
人間は現在、神に生かされています。自律神経が働いていることは、神に生かされている証拠です。自律神経はどのように働いているのか。脊髄が自律神経の基本になるのです。脊髄の上は延髄です。延髄は大脳につながっています。大脳細胞は、五官につながることが中心になっています。
大脳が延髄につながっています。延髄が脊髄につながっています。脳で考えることが、延髄を通して脊髄に伝達される。脳で楽しいと感じますと、脊髄にそれが送られてくるのです。脊髄神経が非常に健康的に、円満に働くのです。そうしますと、胃腸の状態、心臓の状態、肺の状態が良くなるのです。従って、常に喜べ、たえず祈れ、すべてのことを感謝せよということが実行できるのです。
すべて、与えられた条件を、楽観的に見ていくのです。これが恵みを数えるというのです。こういう生き方が上手になると、生きていることが苦しいことではなくなるのです。苦しいことが、楽しい事になるからです。
脊髄が命です。関節は働きです。聖書の言葉を良く読んでいきますと、関節と脊髄との関係が分かってきます。精神と霊魂が分けられるのです。関節と脊髄が分けられるのです。心の思いと志が分けられるのです。
精神と霊魂は何の関係もありません。苦しい、悲しい、幸いと思うのは精神です。精神の方に気をとられていると、いつまでも思い悩まなければならないのです。精神の方をやめて、霊魂の方に目を向けるのです。そうすると、苦しみが消えてしまい、楽しいことばかりになるのです。
霊に従って歩むというのは、自分の精神状態を見ないで、魂の方を見ることです。実例を言いますと、仕事をしてもうまくいかない。聖書を読んでもさっぱり信じられない。神の恵みから落ちたのではないかと思えるのです。これが精神の方です。聖書を読んでも全然開かれないので、暗くなる場合があります。これは精神の方へひっぱっていこうという悪魔のやり方です。
開かれようが開かれまいが、聖書は、神の言にきまっていますから、私に開かれなくても誰かに開かれるのです。気持ちを精神の方に向けずに、魂の方にもっていくのです。そうすると聖書六十六巻が、自分の中に入ってしまうのです。開かれようと、開かれまいと、聖書は聖書です。
聖書は分かると決めてしまうのです。そうすると、いつか聖書が開かれるのです。精神と魂は関係がありません。精神が暗かろうが、落ちこんでいようが、そんなことには関係がない。精神の言うことを、いちいち聞く必要がないのです。
魂は神に属するものです。精神は人間に属しています。人間の方を考えるからいけないのです。神に属する方を見ていくのです。
神は恵みを与えるために、苦しみを感じさせているのです。だから苦しいと思う時には、必ず楽しさがくることを期待したらいいのです。そうすると明るくなるのです。関節は命の働きです。脊髄は命です。関節の方に目をつけないで、脊髄の方に目を向けるのです。手足がなくても、脊髄があれば、生きているのです。
現世の生活状態はすべて関節です。ところが魂の状態は脊髄です。脊髄がだめになったら、死んでしまいます。考え方の基本を訓練するのです。そうすると、生きていることがそのまま神の国に生きることになるのです。
現在私たちが生きている世界には、初めからあった命の言が現われていますから、これは神の国なのです。水が冷たいことが神の国です。夏が暑いことが神の国です。私たちは神の国を経験しているのです。
まず神の国を自分で経験して下さい。そして、自分が神の国を造るのです。自分一人が明るくなると、その周囲が明るくなるのです。それがだんだん広がっていったらいいのです。信仰とはそういうものです。
肉の思いで生きている人は、死んでいるのです。死んではいますが、一方、神に生かされているという面があります。テレビ、クーラー、パソコンがあります。家の中には電化製品がたくさんあります。車や電車、船、飛行機で行きたい所へ行けます。
通信手段によって、世界中の人々と話ができます。春夏秋冬に折々の花が咲き、山の幸、川の幸、海の幸と、私たちは食べたいものが食べられます。これがすべて神の助けです。肉の思いばかりで生きていたとしても、なお現世にいる間は死んでいるけれども楽です。死んでいると言われても、大したことはないと思うのです。
第二の死とは何か。神に生かされているという面がぴたっとなくなるのです。苦しみばかりになる。これが火の池です。
肉の思いで生きているという第一の死の間は、まだ神の命が相当働いていますから、生きていると思えるのです。霊魂の位としては死んではいるけれど、命の味わいが少しずつあるのです。刺身も食べられるし、おいしい果物も食べられるのです。お酒もビールも飲めるのです。
火の他にはこういうものがありません。喉が渇いても、ビールどころか一杯の水もありません。本当の死とは何かを見せてくれるのが、第二の死です。これは震え上がるほど恐いものです。それが永遠に続くから恐いのです。
生きている間に、苦しみ悲しみの意味が分かった人は、もう地獄へ行かなくてもいいのです。だから、現世で、じっくりと、苦しみ、悲しみを味わったらいいのです。




イスラエル回復の祈りを神は聞かざるをえない

2015-11-18 16:16:40 | 日記
般若心経には空ということを書いていますが、空の意味が分からないままで、ただ空という言葉を観念的に受け取っている。そのために、般若心経のせっかくの価値が読み取れなくなっているのです。
般若心経は絶対に宗教ではありません。般若心経は十二因縁とか、四諦八正道という仏教の唯識論の中心テーマを否定しているのです。
無苦集滅道と言っています。四諦を否認すれば、当然八正道を否認することになるのです。このように仏教哲学の中心ポイントを否定しているのです。無無明亦無無明尽と、十二因縁を否定しているのです。無明が尽きることもないし、老死も尽きることがないと言っているのです。
般若心経の言い方は、すべて一度否定したものを、又肯定しているのです。色即是空と言っていながら、空即是色と言っている。これが一般の人には分からないのです。
色即是空と言いながら、空即是色というのはどういう意味なのか。この説明が仏教ではできないのです。色即是空だけで通してくれればいいのですが、空即是色というのですから、分からなくなるのです。
無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法というと、人間の五官はないということになるのです。五官がなければ、人間が生きていることは何なのか。これについて仏教は、全く説明できないのです。
日本の思想には絶対がありません。絶対という言葉はありますが、その意味が分からないのです。絶対反対と言っていながら、いつのまにか妥協してしまう。なぜそうなるかというと、絶対という言葉の意味が分からないからです。ユダヤ人以外に絶対は分かりません。日本人だけでなく、欧米人全体も同じです。
絶対の本当の意味は何なのか。これは千年王国(キリスト王国)が現われないと、分からないのです。今の人間歴史が一度廃滅して、キリスト王国が現われると、絶対の意味が分かるのです。その時絶対が表面に現われて、絶対という原理が世界を指導することになるのです。それまでは、絶対 (神) と相括抗して、悪魔がいるのです。
人間が神をバカにすることができるのです。神を信じないでいることもできるので。死のうと生きようと、人間の勝手です。こういう生活状態では、絶対という言葉はありますが、事実はないのです。
そこで絶対という認識を持つことができるかどうかで、命の永遠の結論がつくのです。日本には絶対はありませんけれど、言葉がある以上、その事実がどこかになければならないのです。絶対という日本にはないものを、信じる気持ちになれるかどうかが、問題です。絶対を知るためには、宇宙の指導霊に基づいて学ばなければなりません。
この霊というのは、普通の新興宗教でいう霊とは違います。聖という言葉が使える霊です。聖という言葉の意味が、日本人には分からないのです。人間の心臓が動いていることが聖です。目が見えることが聖です。
目が見えることの実質は何であるのか。分からないのです。目が見えることは誰でも知っています。ところが、目が見えることの実質が何であるのか、単なるエネルギーなのか。仮にエネルギーであるとしても、エネルギーとは何かということです。これが日本人に説明できないのです。
今の日本の大学に絶対がありません。国にも憲法にもありません。政治にも人間の常識にも、教育、道徳にも、絶対がないのです。相対ばかりです。あれこれと比較して、損だ得だと言っている。
悪とは何か。良いものと比較して悪となるのです。善といっても悪といっても、利益といっても損害といっても、すべて相対現象のことを言っているのです。絶対的なものはないのです。
聖書は絶対を主張しています。日本人の思想にないことを言っているのです。だからなかなか同調できないのです。同調できる人は特殊な人であって、生まれつき永遠の命に適っている人です。
生まれつき永遠の命に適っている人は、聖書についていこうという気持ちになるのです。これを神の召しと言うのです。神の召命と言います。命を神が召している人、命を神に召された人は、普通の人が聞けないことが聞ける。又、聞かねばならないような気持ちになるのです。
今の時代は、神と悪魔が競り合っている時です。本当の善がありません。真実がないのです。やがてキリスト王国が現われると、本当の善が分かるのです。千年間の絶対平和、キリスト王国は、やがて現われるのです。二十一世紀中に現われるでしょう。
本当の善がないから、原水爆の廃絶についていくら話し合っても、押し問答になるのです。石垣に手を詰めたようになって、にっちもさっちもいかないのです。
国家主権ということをしきりに言います。かつて、旧ソ連の領空に、大韓航空機が誤って侵入し、旧ソ連によって撃墜され、多くの乗客が犠牲になりました。旧ソ連は、国家主権が侵されたので、撃墜したと言いました。国家主権のためには、数百人の人間を殺すのはあたりまえだと言うのです。
ところが、国家主権とは何かです。人間がお互いに、安全で便利に生活するために、国家を造っているはずです。人間の命を軽んじることになりますと、国家主権はおかしいことになるのです。人間の命を軽んじる国家主権を認めることはおかしいのです。
第二次世界大戦で、何百万人という日本人が死にました。そんなに多くの日本人が死ぬようなことを、なぜしたのか。その時欽定憲法がありましたが、それが人間的に認められるものであったどうかということです。薩長を中心にした政府が造ったもので、人間の良心が造ったものとは違うのです。
それが日本で通用したのです。天皇は神聖にして犯すべからずという概念が、日本で通用したという日本の国柄がおかしいのです。日本の国柄では天皇は神聖であるという考え方が通用するのです。こういう国は日本だけです。
一般的に、天皇や王が神聖なものであるという考えはありません。神聖という言葉ぐらいは使いますけれど、概念として使うだけであって、本当に神聖だと思っていません。日本の欽定憲法では、神聖だと思っていたのです。天皇の悪口を言うと憲兵隊に引っばっていかれて、場合によっては殺されたのです。これは日本だけで通用したのです。
明治時代に、日本の政治で、神聖という言葉が具体的に通用したのです。これは不思議な現象でした。たとえ四十五年間でも、そういう観念が日本で通用したということが、天皇制の特別の意味を示しているのです。
天皇制を日本の国民の立場からだけ評価すると、分からないのです。天皇制は世界全体の角度から見ると、キリストの影であることが分かるのです。キリストはザ・キング・オブ・ザ・キングスであって、あらゆる王たちの王がキリストです。この雛形が天皇です。だから天皇制の本当の意味は、世界的な角度から取り上げなければだめです。日本だけで見ていたのでは分かりません。日本だけで天皇制を取り上げると、必ず右翼思想になるのです。右翼は小さな観念です。日本だけしか通用しないのです。
キリストという概念は、全世界に通用するのです。この小さな雛形が、天皇になって現われるのです。キリストとは比較になりませんが、キリストという非常に大きいすばらしいものを、ぎゆっと締めて、小さな格好で現わしたのが天皇制です。広く大きい山の姿を、盆栽にしたようなものです。
天皇制をよくよく検討しますと、キリストが分かるのです。これが、やがて世界的に明かされる暗がくるでしょう。今日本が経済的な実力をつけて、世界第二位の経済大国になったこと、政治的にも発言力を増していること、世界中の人々が、日本人の発言に耳を傾けるようになっているのです。日本人を無視しては、世界の政治、経済が成り立たなくなっている。このようにしむけたのは神です。
私たちは世界全体の平和に関する、又歴史に関する最も重要なポイントの勉強をしているのであって、神とは本当の絶対です。空気が流れていることが絶対です。水があることが絶対です。絶対の人格的な要約が神です。キリストは神と人間を結び合わせる接点です。その小さな雛形が天皇になっているのです。だから天皇という称号を使うのです。王とは違います。エンペラーです。不思議な言葉です。これは現在、日本だけにあるのです。
絶対はなければならないのですが、それが今の日本人には分からないのです。私たちは絶対という人格を勉強しなければならないのです。人間の理性のあり方は、絶好のあり方のサンプルになるのです。
人間の理性のあり方は、世界中に共通しています。語学、数学、物理学が、世界中に通用するのです。
人間の理性のあり方が絶対です。この理性のあり方がどこから来ているのかと言いますと、ペルソナからきているのです。パーソナリティー(人格)という言葉は、ペルソナから来ています。
ペルソナは神の人格を言います。神の神たる事であるペルソナというラテン語が、パーソナリティーという英語になって、人間の人格というように訳されています。人間の人格があること、人格を無視することは許されないことが、絶対なのです。
人格を曲げることも消すこともできません。自分で人格を曲げようとしても曲げられません。悪いことをする時も、良い事をする時も、人格というジャンルの中でしかできないのです。殺人をする場合、泥棒をする場合でも、人格という範囲内から出られないのです。人格的な殺人にならざるを得ない。こういうことが絶対です。
絶対と自分との関係を精密に考えることです。これが命をまじめに見ることなのです。キリストという言葉は、絶対人格が地球を完成させる一つの方法です。ペルソナという絶対人格が、地球を完成させるための方法が、キリストです。キリスト計画です。これは神が神となるための計画です。現在神はいますけれど、神が絶対になっていません。神が神となることが、私たちの命の目的です。
神が神となることが、人間歴史の目的です。このことを、現代の学者、政治家、宗教家が全く知らないのです。神が神となるために、神が地球を造ったのです。
般若心経に色即是空という言葉があります。色即是空と言っていながら、空即是色と言っている。色即是空というくらいなら、空即是色という必要がないはずです。
ところが、色即是空七言っていながら、次に、空即是色と言っている。空であるものが、なぜ色になって現われているのか。色になって現われているこの現象世界が空であるということは、比較的分かりやすいのです。これは諸行無常と同じ意味です。
空即是色の方は難しい。色即是空の方は諸行無常で説明できますが、空即是色の場合は説明する言葉がないのです。
仏教の坊さんが空の実体が分からないのです。なぜ空が色となったのか。それは、絶対が絶対になるために、空即是色が実現しているのです。
今は神という概念がありますが、神の実物が分からない。なぜ分からないかと言いますと、人間が大きな顔をして生きているからです。人間が生きていることを認めると、神が.認められなくなるのです。人間が神になっているからです。
基本的人権という考え方は、人間を神としている思想です。人間が神よりも上にあるのです。だから信教の自由と言うのです。神を信じようが信じまいが、人間の自由だと言うのです。
人間の政治権力が、神よりも上にあることを意味するのです。こういう国柄では、神が誠の神であるという説明はできません。私が言っていることは、日本の憲法に反することかもしれません。現在の世界の文明の基礎概念に反することを言っているのです。私は基本的人権を無視しているのです。これは文明に対する重大な反逆になるでしよう。
基本的人権という考えは間違っています。これが分からなければ、本当の神は分かりません。本当の神が分からなければ、永遠の命は分かりません。従って、自分の命の目的を発見できなくなるのです。自分の命の目的が発見できないということは、何のために生きているのか分からないということであって、同時に、その人の人生は、この世に生きている間だけのものになるのです。この世を去ればだめになるのです。現世の常識は、現世だけしか通用しません。神なんかあるもんかという思想は、現世でしか通用しないのです。私は永遠に通用する思想を申し上げているのです。
現世でしか通用しない思想で考えている人の命は、現世だけのものです。神の前には通用しません。現世では、私の言うことはほとんど通用しないでしょう。そのかわりに、神の前に通用します。
この世で生きていることを目的としないで、永遠に生きていることを目的とするなら、私の言うこと、聖書が言うことを、ぜひお聞き下さい。ご利益があるのです。商売繁盛、家庭円満どころではありません。ご利益が大きすぎて困るくらいに大きいのです。永遠の命を得ることができるのです。これが現世で一番欲深い考えです。本当に欲が深い人は、永遠の命をねらうべきです。
本当に永遠の命をねらうなら、自分の命をかけなければだめです。神に命を召されることを承知して、聖書の勉強をはじめると、初めて、聖書が絶対であることが分かるのです。命を召されることを承知しないで、命は自分のものだと思っている人が聖書を勉強してもだめです。結局、この世の慰めになるだけなのです。
人間の人格の基礎は、絶対から来ています。絶対を認めると、自分自身の人格の根源が分かるのです。本当に徹底的に、論理的に考えようとすると、神を信じるしかないのです。ところが、神を信じると言いますと、非論理の世界、超自然の世界に入っていように考えられるのです。しかし、現世の論理を超えた所にこそ、本当の論理の世界があるのであって、現世の人間の中には、本当の論理性はありません。自分が何のために生きているのか、自分の命は何であるかが説明できないのですから、そういう人間社会の中で、論理の原点があるべき道理がないのです。論理の目的は何か。神を知る以外に、目的はないのです。
今の学問は目的がないものばかりです。ユダヤ人がわざと、こういう学問を世界にばらまいているのです。ユダヤ人自身が目的をつかまえて、それを隠しているのです。
ユダヤ人だけが神を知って、異邦人は動物だから、神を知る必要はないというのです。ルネッサンスという言い方で、目的がない論理を、世界にばらまいたのです。これが専門学です。
専門学は部分学です。部分的な学問ばかりをばらまいた。部分的な学問全体を、どのように集約するかを、ユダヤ人は隠したのです。大学の全体を集約する方法、人間の学理全体を集約するとどうなるかを、ユダヤ人は隠しているのです。人間全体を集約したのがキリストです。学問の全体を集約すると、行きつく所はキリストです。これをユダヤ人は隠しているのです。こういう根本的な、基本的な問題を提出することが、私たち日本人の目的です。
今の人間の生活には、絶対的認識がありません。これを、できるだけ皆様のハートの中に入れて頂きたいのです。マインドの中ではありません。ハートの中に入れるのです。
山の姿を見たり、花を見たり、動物を見たりする。そこに皆絶対があるのです。バラがバラであることが絶対です。バラは絶対的なバラを現わすしか、他に方法を知らないのです。人間のようにおべっかをして愛想をすることはできません。バラという格好しかできないのです。だからバラをじっと見ていると、絶対のすばらしさ、絶対のかわいらしさが分かるのです。花の心が信仰の心になるのです。
花が花であることを確認すると、神が神であることが、だんだん分かってくるのです。人間の生活に本当の安心があること、世界に絶対平和を実現すること、完成された地球を実現するためにはどうしたらいいのか。地球に住んでいる人間が、絶対を信じればいいのです。地球に住んでいる人間が絶対を信じれば、疫病やガン、エイズ、犯罪、洪水、飢餓、戦争がない地球を、実現できるのです。人間のパーソナリティーは、神のペルソナの分派です。人間のパーソナリティーによって神を信じると、神を動かことができるのです。神を動かすことができますと、地球の絶対条件を変えることができるのです。地震、台風、噴火のない世界を、私たちの信仰によって造り出すことができるのです。人間は不完全な地球を、完全な地球に造りかえる責任を持っているのです。
人間のパーソナリティーは、神のペルソナの出張所です。出張所の願いが本店に分かりますと、本店のご都合をかえることができるのです。私の人格は神の出張所ですから、出張所から本店の方へ、色々と申し入れをするのです。一回や二回では聞いてもらえませんけれど、とことん言い続けると、神の方では聞かなければならないことになるのです。
あるおばあさんと、冷酷無残な裁判官がいました。おばあさんが、人に財産を取られたと訴えるのですが、なかなか聞いてもらえない。訴訟をするお金も知識も、力もないのですから、ただ裁判所の門を叩いて、お願いしますと言うしかしかたがなかったのです。毎日門を叩きにくるのです。正式な手続きをしなければだめだと断られても、毎日くるというのです。
とおとお、しようがないから、裁判官が話を聞かなければならないことになった。どんな冷酷無残な裁判官でも、とうとう話を聞かなければならないことになるのです。それはおばあさんが正しいのではない。うるさくてしょうがないから、聞いてやることになったのです。
私たちも、この方法を使って神にねだるのです。何をねだるのかと言いますと、ユダヤ人の頑な心をかえて下さいとねだるのです。私は神の国へ行かなくてもいいですから、ユダヤ人の心をかえて下さいと神に願うのです。いつまでも、とことん、神に言い続けるのです。
今の世界の絶対多数の人間は、無情な裁判官みたいなものです。ユダヤ人が悪いと言っても、絶対に聞かないのです。聞かないけれど、何回も、何千回も、何万回も言い続けると、とうとう聞かなければならないことになるのです。
中国に愚公山を移すという諺がありますが、私は山を移そうとしているのです。大山を人間の力で移すことはできない。しかし、どうしても移さなければならない。そこでスコップで山を移し始めたのです。やがて、大勢の人が、この仕事に加わることになるでしょう。
愚公山を移すというこのばかみたいなことが、できるのです。全知全能の神を、人間の信念で動かすことができるのです。これが人間のパーソナリティーの特徴です。
全知全能の神に、一つだけ弱点があります。これは人の祈り、誠心誠意の人の祈りを、神は聞かずにおれないということです。これが神の弱点です。誠の神にはこういう弱点があるのです。これが神の性器です。ここをしっかりにぎってしまえば、強いものです。
神のネーム(実体)を正しく知って、祈るのです。神のネームが分かって祈るのです。キリスト教の祈りは、神のネームが分からずに祈っているのです。だから、何を祈っても、神の方に通用しません。神のネームによって祈ると、神は聞かざるを得ないのです。私(イエス)の名によって祈るものには、何でもかなえると、聖書に書いてあるからです。
神の名によって祈るものには、どうしても神は聞かなければならない義理があるのです。私は神の名によって祈っているので、私の祈りは必ず実現されるでしょう。世界歴史の現実として実現されるでしょう。やがて、誤った世界の文明は崩壊します。必ずそうなるのです。




女性

2015-11-18 16:15:23 | 日記
生きている状態が、そのままイエス・キリストの復活の状態になってしまわなければいけないのです。我にとって生きるはキリストとパウロは言っていますが、ここまでいかなければ、信仰とは言えないのです。
信仰は気持ちの持ち方だけです。気持ちを切り替えると、全然違った世界が、見えてくるのです。
聖書の勉強は、キリスト教の勉強ではありません。自分が消えてしまう勉強です。自分が消えてしまうことなのです。
自分の気持ちを持っていてはだめです。固有名詞を自分だと思っていてはだめです。固有名詞の自分が消えてしまわなければだめです。固有名詞の自分がある間は、宗教観念はなくなりません。自分の底が抜けてしまわなければいけないのです。
人間の思いが底なき穴です(ヨハネの黙示録20・3)。固有名詞の人間の思いが、底抜けです。自分の思いが底抜けであることが分かると、足場がないことが分かるのです。自分を持っているから分からないのです。なぜ足場がないかと言いますと、自分がないのに、自分があると思っているからです。これを底なき穴と言うのです。立つ瀬がない。足場がないのです。神はイエスを捨てた。どうして捨てたか言いますと、肉体的に生きているイエスがあってはならないからです。イエスほどの人でも、肉体的に生きている自分がいると思うことが、底なき穴だからです。
イエスは、自分で神を信じていると思っていた。私は父の内にあると思っていたのです。イエスがそう思っているだけではだめです。神の信仰とは違うからです。
我父にあると、肉体を持っているイエスが思っていました。神はイエスが分かっていました。神から見ると、イエスが純真な気持ちで、我父にありと思っていることが分かるのです。しかし本当のことは、神以外にはわからないのです。神だけは分かるのです。
肉体を持っているイエスが、我ありと言っている。肉体を持っている我々が、そのイエスを信じている。これではいけないのです。そこでイエスを捨てたのです。イエスは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだのです(マタイによる福音書27・46)。
イエスに誤りはないけれど、肉体があることを信じていた。これがいけないのです。肉体を持っている人間は、底抜けの人間です。初めから底が抜けているから、どんどん下へ落ちていく。その下には、火の池があるのです。底抜けの下には、火の池があるに決まっているのです。イエスは肉にて殺されて、霊にて人屋に送られた。人屋は地獄です。肉体を持っているものは、神に捨てられるのです。イエスでさえも捨てられたのですから、神に捨てられることを嫌がってはいけないのです。人間は何とかして神に救われたいと思っている。これがいけないのです。自分を捨てなかったらいけないのです。自分を捨てるとは、自分の気持ち、自分の考え、自分の意見をすてるのです。
毎日、自分を捨てるのです。仕事をしている時でも、料理を作っている時でも、掃除をしている時でも、自分を捨てていなければいけない。セックスの時でも、自分が消えていなければいけないのです。
エデンの園の中央に、二本の木がはえていました。云は霊(命)の木、もう云は肉(善悪を知る)の木です。霊の木が分かると、肉の木は消えてしまいますし、肉の木が分かると、霊の木が消えてしまうのです。
どうして霊(命)が分からないかというと、固有名詞の自分がいる、肉体的に生きているのが自分だと思っているからです。肉体的に生きているのが自分だと思っているからです。肉(死)の自分ばかりをつかまえている。善悪を知る木の実ばかりを食べているのです。
特に、異性の性器に接する場合は、善悪を知る木の実ばかりを食べている。だからだめです。性器が霊に見えなかったらだめです。性器を肉だと思っている間は、肉を信じているのです。肉に触っていることになる。皆罪を犯しているのです。
性器の見方が急所です。アダムとエバが罪を犯したとき、まっ先にしたことが、お互いの性器を隠したことです。性器を隠している人は、神から身を隠しているのです。きたないものだと思っているからです。そういう人は、必ず地獄へ行かなければならないのですり
イエスは、「わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだ。神に捨てられたからです。イエスが肉体を持っていることを、神は気にいらなかったからです。
肉体的にこの世に生れてきたことが、業です。カルマです。カルマという業がなくなってしまわなければ、復活の命は分かりません。肉体で生きていると思っている間は、復活の命を生活することができません。復活の命を、生活しなければいけないのです。
女性は男性に抱かれると喜びますが、これが肉の喜びだと思っている間はだめです。といって、霊だと思っていたらいいのかと言いますと、ただそれだけではいけないのです。魂の喜びだということが分からなければいけないのです。
人間が生きているのはどういうことか。食べておいしいと思うことが、そのまま霊魂に安らぎが与えられているのです。魂がいやされるのです。我はエホバにして汝をいやすものなりとあります。魚の味、果物の味は何か。肉の味、コーヒーの味、きのこの味は何か。これは皆エホバの味です。色、形、味、香りはすべて、神の御名です。おいしいと喜んでいるのは、魂です。ところが肉が喜んでいると思っている。これが間違っているのです。
田舎の年配の人は、性器が汚いものだと思っている。なぜそう思っているかというと、性の喜びの他に、喜びがないのです。都会の人は、映画を見るとか、遊園地に行く、ゲームをする、デパートへ行くとか、色々娯楽がありますので、性のことばかりを考えなくてもいいのです。田舎にはそういうものがありませんから、性中心の生活になりやすいのです。だから性に関する関心が非常に強いのです。最高の喜びになっているのです。
最近の、テレビ、雑誌の性に対する刺激が強いもの、神の処置と言えなくもないのです。神がそういうことを許しているからです。それを通して、悪いものはますます
悪くなり、良いものはますます良くなる。清いものはますます清くなり、汚いものはどんどん汚くなるのです。神が露骨に見せている。こういう神の処置を悟らなければいけないのです。
今まで生きてきたことと、全然違った、本当の霊魂の生活ができなければいけない。生きている間に、新たに生れて、神の国に入ってしまわなければいけないのです。今まで生きてきたことと全然違った、本当のあり方が悟られると、初めて、イエスの復活が分かってくるのです。生きている間に、それをつかまえることができなかった者は、永久に救われません。イエスは新しく生れて、神の国に入れと言っていますが、これを実行していない者はだめです。
とにかく、今までの自分の気持ちを持っていたらだめです。自分の気持ちで、いくら聖書を勉強してもだめです。聖書の言葉が、命にならないのです。
今まで考えていた自分ではない別の命、上からの命、第三の天の命が見えてこなければいけない。そのためには、どんな理屈も、どんな自分の気持ちも、全部捨てなければいけないのです。
今まで皆様は、善悪を知る木の実ばかりを食べていた。これが肉の国です。肉の気持ちで見れば、善悪を知るに決まっています。性器が汚く見えるのも、善悪利害を考ぇているからです。ところが、霊の方を見ると、善悪側溝は消えてしまうのです。性器も顔も、同じに見えてくるのです。そうでなければ携拳されないのです。
男性は女性の性器が好きです。たまらなく好きです。死ぬほど好きです。なぜそんなに好きなのか。実は女性の性器が男性のハートだからです。これは創世記の二章を詳しく読むと分かるのです。男性のハートが、女性の性器になっている。だからそれに惹かれて、惹かれてしょうがないのです。無限に惹かれるのです。
今まで、女性の性器が男性のハートだと言った人はいないでしょう。性器の見方が変と、新しい命が見えてくるのです。性器を隠し所だと思っている間は、新しい命は絶対に見えません。
肉の性器を見ている間は、霊の性器は見えません。肉の性器だけを性器だと見ているのです。霊の性器が全然見えないのです。見てはならない方ばかりを見ているのです。神が見なさいといった霊の方を、全然見ていないのです。
命の木の実をどうしたら食べられるのか。命の木の実を食べにいこうとすると、自ら回る炎のつるぎが、猛スピードで回っていますから、それに切られてしまうのです。
肉の自分が切られてしまわなかったら、そこへ行けないのです。本当の性器を知りたいと思ったら、自分が死んでしまわなかったらいけないのです。
女性の性器は男性のハートだということが分かりますと、すべてのことがだいぶ変ってきます。金銭の問題でも、健康の問題でも、信仰の問題でも変ります。自分が自分ではなくなりますから、イエス・キリストに対する考えも、全く変ります。
新約聖書にありますが、マグダラのマリアが、イエスの足に油をぬって、髪の毛でその足をふいたのです。イエスはそれをだまって受け入れたのです。他の女性たちが焼きもちを焼いて、つぶやいたのを見て、この女の人とおまえたちと、どちらが真心があるかと聞いたのです。未だかつて、マグダラのマリアのことを、説明したキリスト今まで、女性の性器が男性のハートだと言った人はいないでしょう。性器の見方が変ると、新しい命が見えてくるのです。性器を隠し所だと思っている間は、新しい命は絶対に見えません。
肉の性器を見ている間は、霊の性器は見えません。肉の性器だけを性器だと見ているのです。霊の性器が全然見えないのです。見てはならない方ばかりを見ているのです。神が見なさいといった霊の方を、全然見ていないのです。
命の木の実をどうしたら食べられるのか。命の木の実を食べにいこうとすると、自ら回る炎のつるぎが、猛スピードで回っていますから、それに切られてしまうのです。
肉の自分が切られてしまわなかったら、そこへ行けないのです。本当の性器を知りたいと思ったら、自分が死んでしまわなかったらいけないのです。
女性の性器は男性のハートだということが分かりますと、すべてのことがだいぶ変ってきます。金銭の問題でも、健康の問題でも、信仰の問題でも変ります。自分が自分ではなくなりますから、イエス・キリストに対する考えも、全く変ります。
新約聖書にありますが、マグダラのマリアが、イエスの足に油をぬって、髪の毛でその足をふいたのです。イエスはそれをだまって受け入れたのです。他の女性たちが焼きもちを焼いて、つぶやいたのを見て、この女の人とおまえたちと、どちらが真心があるかと聞いたのです。未だかつて、マグダラのマリアのことを、説明したキリスト教の牧師、神父さんがいないのです。分からないからです。
女性の性器を大きくすると、女性になる。女性は性器、性器は女性です。性器が汚れているなら、女性は皆汚れているのです。
ところが、神から見ると、女性は罪人ではないのです。創世記の第三章を詳しく見ると分かりますが、神から絶対に食べるなと言われた善悪の木の実を食べたが、女性に対しては、罪の宣告がなされていないのです。土に帰れと言われたのは男だけです。
女性は夫に従えと言われているのです。子供を生む時は苦しんで生むことになる。夫に従えと言われただけです。女性は地獄へ行くとは一言も書いていない。地獄へ行けといわれたのは、男だけです (創世記3・16~19)。
地はあなたのためにのろわれる。これはものすごい言葉です。男のために、地球全体が呪われてしまった。この意味が分からないのです。
女性のハートは原罪をもっていません。それがそのまま性器になって現われているのです。性器のことが本当に分かると、原罪のない女性が見えてくる。男性はそれを慕うのです。原罪のないものを慕うのです。男性は自分が原罪を持っていますから、欲になってしまうのです。
女性は、自然の関係と、不自然の関係を直感的に知っているのです。女性の性器(おそそ)が、何となく霊だということを、知っているのです。男性はおそそを肉のように扱うので、しようがないと思ってついて行っているのです。男性が触りにくるのが、不自然の関係だということが、分かるのです。
女性は本当のことを求めている。本当のこととは何かと言いますと。永遠の愛です。永遠の愛とは、肉ではないおそそです。それを女性は知っていて、男性にも知ってほしいと思っているのです。
男性は永遠の愛を知らないから、目の前の欲ばかり知っているのです。愛は目の前のものではなくて、永遠のものです。男性の考えを切りかえないといけないが、これはなかなか大変なことです。
男はまず自分の考えを切り替えること、そして、他人の考えを切り替えてあげることが必要です。これをしないといけないのです。
男性が肉的に触りにくるので、おそそを汚いものと思うことになるのです。ところが、触られないと寂しいと思う。この考えは間違っているのです。女性は上等の気持ちでおそそを触ってほしいのです。霊なる愛を求めているのですが、霊なる愛が分かる男性がいないのです。
おそそは、本当は尊いものです。これは骨の骨であって、とこしえの命の入口なのです。おそそは本当は骨の骨です。これを肉の肉にしてしまうからいけないのです。
結婚をすると、男性も女性も、極端に悪くなります。これを元にすることができるに扱うので、しようがないと思ってついて行っているのです。男性が触りにくるのが、不自然の関係だということが、分かるのです。
女性は本当のことを求めている。本当のこととは何かと言いますと。永遠の愛です。永遠の愛とは、肉ではないおそそです。それを女性は知っていて、男性にも知ってほしいと思.っているのです。
男性は永遠の愛を知らないから、目の前の欲ばかり知っているのです。愛は目の前のものではなくて、永遠のものです。男性の考えを切りかえないといけないが、これはなかなか大変なことです。
男はまず自分の考えを切り替えること、そして、他人の考えを切り替えてあげることが必要です。これをしないといけないのです。
男性が肉的に触りにくるので、おそそを汚いものと思うことになるのです。ところが、触られないと寂しいと思う。この考えは間違っているのです。女性は上等の気持ちでおそそを触ってほしいのです。霊なる愛を求めているのですが、霊なる愛が分かる男性がいないのです。
おそそは、本当は尊いものです。これは骨の骨であって、とこしえの命の入口なのです。おそそは本当は骨の骨です。これを肉の肉にしてしまうからいけないのです。
結婚をすると、男性も女性も、極端に悪くなります。これを元にすることができる人が、本当の男性です。そのためには、まず女性が男性の胸の中に返ってしまわなければいけないのです。
女性は神に罪人として扱われてはいません。ただ夫に従えと言われているのです。神が禁断の実を食べるなと命令したのは、男性に対してです。だから、女性が禁断の実を食べても、原罪にならないのです。男性は食べてはいけないと言われているのに食べたのですから、原罪になっているのです。神は、初めから女性を刑罰する気持ちはないのです。
女性は何を求めているのか。女性が本当に求めているものは何か。白い馬に乗ってくる王子様を求めているのです。
女性はいくつになっても、すばらしい王子様が迎えにきてくれると思っています。これが女性の自然の用です。女性はそれを知っているのです。男性は、女性が求めているような上等の心理状態にならなければいけないのです。
おそそに対する気持ちが変ってしまうと、生きている気持ちが変ってしまいます。人に誤解されても、いやなことを言われても、憎まれても、それについての考えが変ってしまうのです。イエスが述べた山上の垂訓(マタイによる福音書五章~七章)を、実行することができます。おそそに対する考えが変らなければ、山上の垂訓は絶対に実行できないのです。ぉそその実体が分かると、人間の肉がないことが分かるのです。肉がなければ、山上の垂訓が自由に行えるのです。この世に生きている自分がないからです。
肉体的に生きているという事実はありません。人間の肉体はないのです。神の言葉の働きがあるだけです。おそそは、神の言葉の働きが、最もはっきり現われているのです。ペテロが次のように述べています。
「あなたがたが新に生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである」(ペテロの第一の手紙1・23)。
朽ちない種は、聖書の言葉です。これが霊の種です。霊の精子です。霊の精子を人間のハートに受けるのです。
人間のハートは、神の精子を受けとる性器になっているのです。人間の霊魂のハートは、女性の性器と同じものです。人間が生きていることが、ハートのリビングになっている。人間のリビングとハートは同じものです。ハートがそのままリビングになっていますし、リビングがハートになっているのです。
生きているという事実(リビング)を通して、神の種を受けとるのです。生きているという事実の中へ、神の言が入るのです。そうすると、懐妊する。そして新しい命が生れるのです。人間のリビングが、神の精子を受けとめる女性の性器になっている。人間の魂はおそそです。そこへ神の言葉が入って、実を結ぶのです。人間の魂の中へ神の言葉が入らなければ、実を結ばない。神がどれだけ言葉を用いても、どれだけ聖書が説かれても、聖書の言葉が人間の霊魂の中に入って命が生れなければ、新しく生れることはできないのです。
人間の魂は、神の言葉(神の種)を受けとめるための、おそそにならなければいけないのです。おそそが汚いと考えているようでは、その霊魂はいつまでも神の言葉を受けとれません。
人が生きていることが、霊魂です。そこへ神の言葉が宿る。そうすると、生きていることがかわってしまうのです。
聖書の言葉は教えではありません。神の種です。神の種が霊魂に入らなければいけないのです。
その前に、イエスが洗礼を受けて消えてしまったように、私たちも消えてしまわなければいけないのです。消えないままで、いくらイエスが主であると言ってもだめです。空念仏です。
今まで、この世に何十年間も生きてきたと思っている。その気持ちで、いくら聖書を学んでもだめです。今日、新しく生れたと考えるのです。昨日までのことを一切忘れるのです。今日生れたと考えて、遠慮なく新しい命として生きるのです。古い自分、古い人生、古い命のことを一切考えないのです。
神から見れば、すべての人間は皆イエスです。だから、イエスのように考えたらいいのです。ちょっと厚かましく見えても、そう考えたらいいのです。
おそそに対する考えが変ると、今までの夫婦の感覚が変ってしまうのです。愛だけでつながることが分かってきます。とこしえの愛でつながるのです。肉のおそそを頭においている間は、とこしえの愛は分かりません。
骨の骨になるか、肉の肉になるかは、おそその見方によって決まるのです。今までの記憶はあります。記憶を消し去ってしまうことはできません。記憶があっても、その記憶に頓着しないのです。
今までのおそそに対する記憶を信じると、又元に戻るから、それを信じないのです。今までの人間ではない、新しい人間になるのです。古い記憶はあってもかまいません。放っておけばいいのです。
聖書はいくら信じてもだめです。聖書は教えではありません。命です。命として受け取らなければいけないのです。教えとして受け取っていると、感心はするけれども、命にならないのです。
新しく生れるのです。新しく生れなければだめです。今からでも遅くない。七十才になろうが、八十才になろうが、新に生れたらいいのです。
女性は男性の胸の中に入ってしまわなければいけないのです。愛されていると思うことが、愛されていることです。男性の胸の外で生きていたらいけない。男性の胸に入ってしまわない女性は、必ず地獄へ行くのです。
自分がいくら分かったといってもだめです。自分は分からなくてもいい。変ったらいいのです。
今までの人間が救われるのではない。イエスでさえも神に捨てられたのです。神は私たちを捨てているのです。神が問題にしているのは、イエスだけです。私たちも、イエスだけを問題にしたらいいのです。
皆様のリビングがイエスです。リビングがあるだけであって、自分という人間がいるのではない。リビングは人間ではありません。生きている状態です。これが人の子です。イエスです。これだけを見ていけばいいのです。




今は神がユダヤ人を相手にしていない時代

2015-11-18 16:14:01 | 日記
日本には天皇という不思議なものがあります。これは王の王で、天からの皇という意味です。普通の王は、生まれた人間が王になるのですが、皇は生まれつきの王です。生まれつきの王は生まれながらの王のことです。先天性の王を意味するのです。これを天皇と言います。
中国の秦の始皇帝は、生まれつきの王ではありません。普通の人間が王になったのです。エチオピアの皇帝でも、普通の人間が王になっているのです。
日本ではそうではなく、天皇家ができてから、日本の国ができたのです。国ができてから王ができたのではない。国の成立が他とは違うのです。
これは一つの標本になっています。日本人は純粋の異邦人ではありません。標本としての異邦人です。このことが分かった者だけが、イスラエルと同様に扱ってもらえるのです。
天からの皇というのは、生まれながらの天の子という意味です。約束の民と同じ意味です。これが自覚できる者だけが、本当の日本人としての成り立ちを自覚できるのです。
今は、神がユダヤ人を相手にしない時代です。ユダヤ人を相手にしないということは、神が本気になっていないことを意味するのです。
日本人は聖書を全く当てにしていません。聖書の値打ちが全然分かりませんし、聖書を勉強している人でも、聖書に熱情を持っていないのです。
韓国ではつまらない牧師の話でも、一回の集会で、三千人から四千人の人が集まるのです。午前中に二回、午後に二回の礼拝をしますので、一日に一万五千人くらいの人が教会にきます。これが普通の教会です。大きい教会ではこの二倍くらいの人が集まってくるのです。日本の教会とは比べものにならないのです。聖書はそれくらいの熱意をもって見られて当然です。これがとこしえの命の値打ちです。
日本人は永遠の値打ちが全然分かりません。天皇の値打ちも分からないのです。今は神が異邦人を相手にしていて、ユダヤ人を相手にしていません。やがてユダヤ人を相手にする時がくるでしょう。そうすると、ユダヤ人が世界の中心になるのです。
世界の中心になれば、悪いことをしなくなります。その時、世界に絶対平和が現れるのです。この実現のために、神に祈らなければならないのです。
今、神は、真正面からイスラエルを叱っていません。ほったらかしにしているのです。これが困るのです。いつまでも世界の混乱状態が続くからです。イスラエルを真正面から叱ってくれと、神にお願いしなければならない。はっきり叱ってもらわなければならないのです。神はイスラエル左叱らなければならないことは分かっていますが、残念ながらイスラエルを相手にしていないのです。神がイスラエルを勘当状態にしているからです。
早く、イスラエルの悪い点を言ってほしいのです。白人文明の悪さを責めてもらいたいのです。白人文明の悪さが暴露されますと、世界情勢が一変するからです。そうすると、復活したイエス・キリストが歴史の真ん中に再臨するのです。キリストの再臨とは何か。ヨハネは次のように言っています。
「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨ
ハネによる福音書1・14)。言(ことば)が肉体となって、私たちの内に宿ったとあります。これがイエスです。
実は私たち一人ひとりがイエスと同じものです。言が肉体となった。この状態を魂と言います。言は理性、人格のことです。人格が理性的に生きている状態を言と言います。言が肉体を持った状態を魂と言うのです。
イエスが生きていたのは、魂の見本です。イエスが分からなければ魂の説明をすることができないのです。
聖書をまともに信じていない人は、魂が分かりません。仏典には魂という言葉がありません。キリスト教には魂という言葉がありますが、その意味が分からないのです。イエスが生きていたことが、実は私たちが生きていることの本当の姿です。キリスト教ではイエス様は偉い人だとしか言いません。イエス様と自分とは、全然違った、別の人間だと思っているのです。
イエスと私たちは同じです。同じだから救われるのです。同じだから、イエスの復活がそのまま私たちの復活になるのです。イエスの復活をまともに信じますと、皆様がこの世に生まれた命は消えてしまいます。そして、死なない命が分かるのです。
人間が生きているのは自分ではない。本当は魂です。魂はイエスが生きていた時の姿です。これが分かれば、イエスの復活が私たちの新しい命になるのです。そしてこの世に生まれた命はなくなって、新しい命が与えられるのです。
自分が救われるのではありません。この世に生まれた自分は消えてしまって、新しく生まれるのです。新しく生まれるというのは、水と霊によって新しく生まれるのです。
水によって新しく生まれるのは洗礼です。霊によりて生まれるというのは、キリストの復活が自分自身の復活だということが分かることです。そうすると、イエスがキリストになるのです。
イエスをキリストにしなければだめです。イエスの甦りを受け取れば、イエスが皆様のキリストになるのです。救い主になるのです。皆様のキリストにしたらいいのです。その時、この世に生まれた自分の命は消えるのです。
この世に生まれた自分が救われるのではありません。この世に生まれた自分は消えてしまって、イエスの甦りを信じた時に、イエスの命が皆様の命になる、ですから新しく生まれるのです。
この世に生まれた自分は消えてしまいます。イエスの十字架によって消えてしまって、復活によって新しく生まれるのです。これが新しい運命です。
キリスト教では、イエス様によって救われると言いますが、一人も救われません。イエスの命が自分の命になっていないからだめです。イエスを信じると、別の命になるのです。
禅宗では、現在の人間が生きているのは空だから、自分自身を空じてしまうと言います。自分を空じると言うのは、結論的に間違っていませんけれど、ただ空じてしまぇと言うだけではいけない。イエス・キリストの十字架によって葬られるという考えでなければならないのです。
イエスと共に葬られるのです。イエス・キリストと共に、十字架によって、この世に生まれた自分は葬られてしまう。これはローマ人への手紙の第六章に書いていますが、十字架によって葬られて、復活によって、新しい命のキリストにつながるとなればいいのです。日本人の考えでは、この世に生まれた自分はよく考えるといないのだという思想があるのです。これが天子という思想です。人間は天から生まれてきた。この世のものと違う。天子が今現れていると考えるのが、天皇思想の潮流です。
これが間違っているのです。これは日本流の神学です。まともなようですけれど間違っているのです。天理教などはこの考え方です。人間は生まれながらにして神さんだと考えるのです。神さんでありながら人間が悪因縁によって生活を汚している。
お金をためるとか、財産を造ることによって、人間の生活が悪因縁で固まってしまっている。だから因縁を放下してしまいなさい。自分自身の財産を全部あげてしまうとか、行いを全部変えるとかすれば、この世に生きていても因縁がきれいになる。白因縁になると言う。そうしてこの世を去れば、すぐに生まれ変わる。今度は良い状態で生まれ変わると言うのです。
これがとんでもない間違いです。日本人はこの世に生まれることが有難くてしかたがないのです。曹洞宗の開祖、道元禅師ほどの偉い人でもそう考えていました。日本の宗教改革の中で弘法大師とか日蓮、最澄といった人々がいますが、道元ほど冷静で、聡明な人はいませんでした。
これほどの人が、この世に生きていることが有難くてしかたがなかったのです。受けがたき人身を受け、会いがたき仏法に会いと正法眼蔵に書いているのです。永平寺の大尚であった道元が、間違えていたのです。この世に生まれてきたことが、有難くてしかたがなかったのです。
なるほど、この世に生まれたことは、有難いと言えなくもないのです。この世に生まれなければ、イエスを信じることができないからです。イエスを信じることができれば有難いと言えるのです。ところが、この世に生まれたままの状態では、イエスを信じることができない。この世に生まれた人間は、一度死んでしまわなければいけない。死んでしまう方法が分からないために、仏教全体が腐っているのです。
仏教は、土の世に生まれた人間が生きているそのままで、悟れば救われると考える。これが土台から間違っているのです。この世に生まれた人間は、一度死んでしまわなければだめです。これがイエス・キリストの十字架です。十字架によってキリストと一緒に死んでしまう。そして復活によってキリストと一緒に生き返るのです。これがきちつとなされなければいけないのです。
この世に生まれた自分は、一度死んでしまわなければいけない。聖書が言うとおりに実行しない人は、いくら勉強をしてもだめです。一度死んでしまわなければいけないのです。キリストと共に十字架につけられて、キリストと共に復活する。これがクリスチャン(キリストのもの)です。
このことを本当に理解しようと思ったら、太陽系宇宙ができたことを勉強しなければならない。地球ができたことを知らなければ、本当のことは分かりません。
織田信長は、「人間五十年化転のうちに比ぶれば夢幻のごとくなり」と舞っていました。これは敦盛の謡に出てくる狂言の文句です。謡曲に挟まれている文句です。
当時の田楽の舞にこの歌がありました。これを織田信長が舞っていました。化転のうちに比ぶれば夢幻のごとくなりとは、天の下に生きている人間を、一つひとつ検討してみれば、夢幻のようであるという意味です。昔の狂言師でも、これくらいのことは言ったのですが、今の人間はこの意味がほとんど分からないのです。
自分の生涯を振り返って、生きているとはどういうことかを調べることを、化転のうちに比ぶればと言うのです。人生とは一体何であるか。善とは何か、悪とは何か、生とは何か、死とは何かを考えることを、比べると言うのです。
この世に人間が生きてきたことは、生活を通して、人生をディスカッションすることが目的です。生活をすることが目的ではありません。この世に生きることを通して、命とは何であるか、魂とは何であるか、本当の人格とは何であるかを、比べることなのです。化転とは、天の下で生きている状態で、自分の命をつらつらと考えることです。
皆様の人格や理性は、イエスと同じものです。ですから皆様が妄念さえ捨てれば、イエスの人生がそのまま自分の人生であることが分かるのです。イエス・キリストと共に十字架につけられることは、何でもありません。イエスでも十字架につけられたとすれば、自分が十字架につけられることは当たり前だということが、すぐに分かるのです。有難いことだと思えるのです。
「私はキリストと共に十字架につけられた」(ガラテヤ人への手紙2・19)とパウロは言っていますが、当たり前のことです。「キリストが私の内に生きておられるのです」(同)と言っています。このとおりです。心を開けばこれはすぐに分かります。分からない方がおかしいのです。
パウロは、「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思う」と言っています(ローマ人への手紙8・5)。人間はこの世に生きていますから、肉に従うことがあるのは当たり前です。この世に、肉体を持って生きているのは、神の訓練のためです。
肉体的に生きているのは、本当の姿ではありません。訓練として肉に従って生かされているのです。肉に従って生かされている状態で、霊に従って生きることをどれだけするかを、神が見ているのです。
女性は女性のままでいたらだめです。現世にいる間に、男の中に入らなければならないのです。女性のままで死ねば、必ず火の池へ行くからです。来世では女性はいりません。女性がいるのは現世だけです。現世では女性はあばら骨としているのです。あばら骨を取られた男性に帰ることを恋愛と言います。神が人間に精神主義的な恋愛を許しているのは、こういう意味です。
本当の信仰は恋愛と非常によく似ています。同じものと言ってもいいくらいです。
女性が一人でいますと、蚊帳(信仰)の外にいることになるのです。女性であるというのは、神の譬です。この譬を見破るために、恋愛とか信仰という方法を、神が人間に教えているのです。
この世の常識、道徳、法律を信じていれば、皆地獄へ行くのです。女性の貞操観念も皆間違っています。肉体を持った貞操観念です。肉体を持った状態で考えることは、皆間違っているのです。なぜなら肉体は存在していないからです。パウロは「肉の思いは死である」と言っています(ローマ人への手紙8・6)。肉体があると思っている人は、肉の思いばかりになってしまうのです。
肉の思いを持ったままで、聖書を勉強しようと思ってもだめです。肉体的に生きている自分を信じている人は、霊に従ってものを見ることはできません。
そこで、水と霊によって新しく生まれて、神の国に入ることが、どうしても必要なのです。肉体があるという思いから、卒業するのです。
水から生まれるということは、水のバプテスマ(洗礼)を受けることで、肉体的にきているという思想から出てしまうのです。霊によって新しく生まれるということは、この世にいる自分から、出てしまうのです。肉体を主体とする精神状態から出てしまうのです。これが、神の御霊による解脱です。
水と霊とによって新に生まれることを、実現しなければいけないのです。この世に生まれた以上、どうしてもしなければならないことです。この世の夫婦、この世の貞操を、神は全然認めていないのです。神が認めていないものに、こだわる必要はないのです。
女性のままで死んだら、必ず地獄へ行きます。来世では女性は一人もいらないからです。この世に生きている間に、一日も早く男性の中に入ってしまわなければいけないのです。二人の者会いて一体にならなければいけないのです(創世記2・34)。
男性もただの男性ではいけない。ここが難しいのです。聖書の本当の信仰は、現世の常識を全部越えてしまうのです。水と霊とによって新しく生まれて、神の国に入るのです。
キリスト教ではこれが実行できません。これが説明できる牧師さんが、一人もいないからです。女性が消えるとはどうすることか分からないからです。
女性のままで死んだらだめです。女人往生は聖書しかありません。男性も男性のままで死んだらだめです。キリストの内に消えてしまわなければいけないのです。男の人となりが、引き裂かれるのです。女性も引き裂かれるのです。クリープ(cleave)されるのです。二つに割られてしまうのです。これを経験しないと神の国には入れません。
水と霊とによって新に生まれるのです。肉に従うものは肉です。霊に従うものは霊です。霊に従うとはどういうことかと言いますと、例えば、花が咲いているとします。花は霊に従って咲いているのです。地球ができる前に、地球のファンデーションがありました。地球のファンデーションがなかったら、地球ができるはずがないのです。
ファンデーションが地球に入ってしまった。それが今の地球のエネルギーになっているのです。そのエネルギーが花になって咲いているのです。鳥が飛んでいるのです。
四季折々の花が咲き、魚が泳ぎ、虫が鳴くのは、地球のファンデーションの現れです。私たちは森羅万象を通して、地球のファンデーションを見ているのです。
地球のファンデーションを福音と言います。これが分かると霊に従うことができるのです。肉というのはできあがった地球を言います。ファンデーションの地球が霊です。
マタイによる福音書に、次のように述べています。
「わたしは口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう」(13・35)。地球ができる前にあったファンデーションが、魚の味、果物の味、鳥の声、花の美しさになって見えているのです。女性の美しさもファンデーションです。男性は女性を、性欲的に抱いています。これは大変な間違いです。性欲どころか、ファンデーションです。男性と女性がセックスの本当の意味を悟ることは、大変なことです。
霊の思いがとこしえの命です。それがファンデーションという福音です。花の美しさは、女性の美しさと同じものです。美しいというのは全てファンデーションです。
おいしいというものもファンデーションです。楽しい、嬉しい、恋しい、すばらしいというのは試みに経験しているのです。本物ではないけれど、今試みに味わっているのです。
苦しいことも同じです。本当の苦しさは死んでから火の池で味わうのですが、それを現世でちょっと味わっているのです。悲しいことも同様です。福音を勉強すると、人生の秘密が全て分かるのです。人間が生きている秘密、奥義が皆分かるのです。
皆様の生活をよくご覧になると分かります。いつでも信仰によって生きているのです。料理を造ることも、家事をすることも、仕事をすることも、全て信仰によってしているのです。信仰によらなければ、何一つできません。ですから自分の行いを霊的に見ることができればいいのです。
女性は罪人ではありません。男性は罪人です。女性は子供を産むことによって救われるとパウロは言っています。物事を素直に考える習慣をつければいいのです。霊の思いばかりで生きることは、なかなかできません。肉体で生きているのですから、肉の思いがあるのです。パウロでも生きている時は、肉の思いと激しく闘っていたのです。
肉によって考えることと、霊によって考えることが、いつも交錯しているのです。聖書を読んでいても、肉体的に生きている自分が読んでいれば、肉に従って読んでしまうのです。霊的に理解できることが、不思議なくらいです。
自分自身の常識を、どのように乗り越えて聖書を信じていくかを、勉強しなければいけないのです。常識があることが悪いのではない。肉の思いがあることが間違っているのでもない。あるのはしかたがないのです。肉の思いをどのように乗り越えていくかです。肉を霊に変えていくのです。
自分の精神状態をどのようにアウフヘーベーンするかが難しいのです。闘いばかりです。どのように闘うか。闘いの上手、下手があるのです。肉に負けないで勝つようになる方法を、御霊によって教えてもらうのです。一度この世に生まれた以上、どんなに難しくても、新約聖書の原理を卒業しなければ、必ず地獄へ行きます。永遠の滅びになるに決まっています。
新約時代はイエスが復活した後の時代ですから、本当に真剣に聖書を勉強すれば、分かるに決まっています。神から見れば、皆様の命は死なない命になっている。これが分かったようで分からない。神と人の魂との関係は、つかず離れずの関係です。分かると言えば分かる。分からないと言えば分からないという関係で続いていくのです。これが、神の御霊が人の魂を引っ張っていくテクニックです。
永遠に分からない状態に置いてしまえば、人間は絶望してしまうでしょう。そうかと言って、分かったことばかりですと、人間はつけあがるのです。人間を絶望させてもいけないし、つけあがらせてもいけない。ですから、絶望はしないように、又つけあがらせもしないように、ほどほどの関係でいくのです。これが神のテクニックです。
まず必要なことは、神に対する謙遜です。神の前に平伏するという気持ちをお持ちになれば、必ず教えてもらえるでしょう。素朴さが必要です。そうすれば魂の目が開かれるのです。