謙のわがまま日記

マナイゲルをつくる会・手稲会・船橋歩こう会・大和山の参加記録。旅先の感想・記録。その他気楽な手記。

10月の日記

2014年10月24日 | 雑記帳

夏の暑さをすっかり忘れるような季節になりました。秋は果物が美味しい。その美味しい果物も、足のむくみにはあまりよくないようなので控えめにしています。まだ今年の柿を食べていない。

10月は台風が2度来た。6日と13。何れも前触れの割には大して威力はなかった。特に2回目は夜中に通過していったのであまり実感がなく幸せなことでした。千葉県のこの辺りは本当に自然災害が少なくて感謝です。

10月7日(火)近くの青山病院で健康診断を」受けた。その結果を17日に説明を受けた。この時の胸部X-ray検査は7月25日以来の久しぶりの検査でした。その前は1カ月毎に医療センターで検査して、その度に”異常なし” だったが、この度は違った。同じ右肺の中で、癌が転移して腫瘍の面積が増えた。CTでないので数値的にはわからないが、元の癌の1.5倍程が転移しており、見た目では全体で肺の約 1/3 弱程を占めている。抗がん剤を止めてから約1年3カ月も”異常なし” できていたので、少なからずショックだった。しかし、これは自然の成り行きで基より覚悟していたこと。この後も明るく正しく生きるだけ。

10月19日(日)は比叡山延暦寺の根本中堂で、大和山献油式があり、これに参列した。これは毎年行われることであり、毎年参加し、その都度ブログにも書いているが、その趣旨は比叡山で1200年来灯し続けられてきた「不滅の法灯」を永久に灯し続けいく為に、その燃料である菜種油を献納するものです。献納したのは菜種油 546 リットル(1年分は540 リットル)、行者草鞋1200足、蓮華傘1傘です。この経緯は、大和山の初代教主が第253世天台座主山田恵諦猊下に、「この献油を1000年続ける」と約束して今年は30回目に当たります。従ってこの献油式はあと970年続くことになる。今年は30回目の節目に当たるので大和山教信徒が400~450名が参加した。この行事は、中は撮影禁止なので写真はない。参考資料となる写真は転載禁止なので掲載不可。

これに参加するために17日(金)の夜、団体バスで上野駅を出発して、翌18日(土)早朝、琵琶湖ホテルについて休憩、入浴、朝食。昼近くに比叡山に着いて昼食、午後は菜種油の搬入式(手渡しで根本中堂へ入れるだけ)をして、その日の宿泊は琵琶湖ホテルと比叡山宿舎に分かれた。本番の献油式は19日(日)の10時から11時まで1時間、根本中堂で行われた。帰りのバスは13時ころ比叡山を出発。途中混んだので東京駅へ22時頃到着。家に着いたのは23時30分頃でした。参加者は団体バスの他にも夫々、新幹線、自家用車、などで参加する人が関東の場合は略半数弱でした。

これへの参加には、私はⅠケ月前から足も腫れており、出発の日の午前に症状の変化も聞いたので、正直少し躊躇った。しかし、足のほうはドクターショールとかいう、むくみ矯正兼防止のソックスを数日前から着用していて、調子が良かったこと。また症状の方も、少し息が上がるくらいで自覚症状がないので、これが最後と思って参加しました。 このあとは11月始めの東京東部支部の大和山バザーです。今年はあまり手伝いは出来ないが、ゆっくり楽しもう。

 


9月その後

2014年10月04日 | 雑記帳

9月のいつ頃からか、足のむくみが気になりだした。毎週月曜日に気功は第2週までは続いていたので、その後だと思う。だんだん腫れがひどくなるので、9月26日近所の青山病院へ行った。その日は血液採取と尿検査だけで帰り、29日に結果を聞きに行った。腎臓にお機能が落ちているが、加齢によるものもあり心配ない、とのこと。食べ物の注意を聞いただけで、特に治療も薬もなし。心配なしということで安心していたが、足の腫れは日増しに激しくなったが・・・

その間、23日は彼岸の中日なので、被災ぶりに高尾墓苑のお墓参りをした。お墓の場所は覚えているつもりだったが、大体の感でちかくまで行ったが見つからず、兄嫁に電話して教えてもらったら、すぐ隣まで来ていた。遠いので墓参りをサボッテいたので、親不孝を恥じる結果になってしまった。

お墓参りの帰途、東部支部の名誉支部長から携帯に電話があった。丁度帰りのバスが見えたところなので、わけを話して、内容を聞かず電話を切って、帰宅してからかけ直した。内容は訃報で、教友の大沼美喜さんが亡くなった。私より2歳下の女性で1歳下の大沼長三さんの奥さんです。毎月の例会時に東部支部では、おにぎりを作り、希望する教友に1ケ100円で提供し、そのお金は献金としているが、その際の副食のお漬物をいつも沢山提供奉仕して頂いていた。北海道出身なので、漬物の種類は豊富で、我々も北海道出身なので懐かしい物もあり、毎月の楽しみでした。もうその漬物が食べられないことは残念だが、それ以上に彼女の死は惜しまれる。体調は不調のようであったが、家族に負担をかけるこなく、忽然と亡くなったとのことで、大往生と言わねばならないと思う。27日、28日の前夜祭と告別祭にんは参列したが、大事な教友がまた一人去った。

足の腫れが引かないので、歩きは遠慮していたが、妹のうらら多摩にはこの間、3度行った。いい方にも悪い方にも影響はない。9月の末日は”ほの歩の会”のtymdaさんの写真展の最終日なので、イズミヤ八千代店へ出かけた。東葉高速鉄道の村上駅から徒歩約12分。場所はすぐに分かった。展示場に入るとすぐ目に付いたののは多くの絨毯と壁に貼られた数々の写真。中にはブログでお馴染みの写真もある。入るとすぐにエキゾチックな美女が迎えてくれた。NPOイーグル・アフガン復興協会の理事長の江藤セデカさんだ。彼女の懇切な説明で当地の状況が手にとるように分かった。日本に来て31年というから日本語は日本人全くと同じである。tymdaさんの写真に添えた詩は彼女の作である。また、彼女はNHKラジオのアナウンサーでもある。外国語中でもペルシャ語の教師であり通訳もしていることを、後からtymdaさんから聞いた。また、絵も描く。会場に花の絵が2点展示されていた。小さい時から好きで習ったものだそうです。A5版73頁の小冊子でアフガニスタンの民話があり、これの絵も監訳もセデカさんのものでした。写真の感想やtymdaさんのことなど話しながら、会場には1時間近くも居ただろうか、 帰ると言ったら、アフガンの紅茶をご馳走してくれた。味は日本のものと変わりないが、変わっているのは、先に砂糖を口に含んでから紅茶の飲むことです。親身の説明と温かい接待を受けて感激しながら会場を辞したのは11時半頃だった。午後まで待ってtymdaさんに会ってと思ったがお腹が空いていたので、真直ぐに帰った。

       

         江藤セデカさん      写真の下の絵3点 右がセデカさんの作品

       

      tymdaさんの写真の一部       多くの絨毯、これはあまり気にならなかった